眠れぬ野獣 〜月影〜
マスター名:奈華 綾里
シナリオ形態: ショート
危険 :相棒
難易度: やや難
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2013/11/20 03:57



■オープニング本文

●退屈
「これが宝剣? 聞いて呆れますよ」
 忍び込んだ屋敷で男はあからさまな溜息を付く。
 昔ならばこんな隠密行動をせずとも済んだのだが、それを言っても始まらない。
 彼は以前、大きな組織に属していた。しかし、頭目の死亡により組織は解体――己の身の安全を引換に組織を売ったのは何を隠そう彼である。そして彼自身は死んだ事になっていた。罪を犯しておきながらも自由を手に入れる。その対価として名を捨てる事にはなったが、彼にとってはたいした問題ではなく、それほど不自由する事もない。組織から持ち出していた資料を手に新たな何かを求めてこんな事を続けている。
 ちなみにここはある貴族の屋敷だった。
 時は丑三つ時――厳重に保管していたつもりだろうが、彼に掛ればそれは赤子の手を捻るより容易い。
「全く、馬鹿馬鹿しい」
 ケースから取り出した剣を元に戻し、彼は踵を返す。が、そこに気配がした。
 今はここの主は眠っている筈だ。念には念をと睡眠の術をかけてきている。
 という事はつまりその気配の正体は、自分と同じ人種の者かあるいは――。
「誰ですか? こんな夜中に不法侵入ですよ」
 自分もその一人であるが、そこは言わずに気配のある方に視線を向け探りを入れる。すると、気配の主は満足げに笑い静かに手を打って彼の元に姿を現す。その影は男よりも一回り若いようだった。無造作に肩で跳ねた髪に、古風な丸眼鏡をかけて……けれど、物腰は何処か落ち着いた雰囲気を持っている。
「やっと見つけました。僅籠様、ですよね? 俺はラジェルト…覚えていらっしゃいますか?」
 余り敬語は得意ではないらしい。言葉を選びながらそういうとその青年・ラジェルトは深く一礼する。
「貴方は確か……で、何用でしょうか? 百狩はもう壊滅しましたが」
「ああ…けれど、あんたは生きてる。そして今求めている」
 僅籠の心を見透かしているとでも言うように、彼は芝居がかった動作で言葉する。
「ほう、私が何を求めているか判ると?」
「勿論。あん…いや貴方は昔から変わらない。俺と貴方は似た物同士だ。俺と来てくれるならいい場所をお教えします」
 そこで彼はくすりと笑うと、僅籠の傍に寄り耳元で囁く。
「……成程、ならば暫し付き合って差し上げましょう。但し、条件があります」
「ッガ! 何をッ!?」
 言葉の後に突然胸倉を掴まれて、青年は思わず息を詰める。
「判っていると思いますが、変な気を起さないように…」
 僅籠の瞳の奥に殺意が灯る。ラジェルトはその言葉に従うよう頷くのだった。


●霹靂
 ギルドの窓口は今日も相談役と開拓者で一杯である。
 逃げた猫を探して欲しいとか、畑を荒らす子鬼を退治して欲しいとか…何でも屋染みた依頼も多く存在し、その情報を頼りに依頼の難易度も設定される。そして、ここでも不安を抱えた依頼主が窓口に必死に経緯を説明している。
「息子が帰ってこないんです。『母さん、僕はついに見つけたかもしれない』そう言って出て行ったきり…すぐ近くの湖なんですが、そこに息子の姿はなくて」
 涙ながらに彼女が言う。
「あの、その息子さんは一体…」
「ただの狩人です。けれど、昔から歴史が好きで学者の真似事のような事をしていて…それで最近は信憑性の高いものが近くにあるから確かめてくると言い出して」
 天儀の土地はもう調べ尽くされている様でいて、意外とわかっていない部分も多い。小さな伝説や言い伝えの類いというものは時として歴史の隅に埋もれて…未だ眠ったままになっている可能性もある。
「息子さんが調べられていた歴史というのは?」
「詳しい事は判りません。何も話してくれなくて…けれど、行き先はあの湖で間違いないと思います。心配させまいと行き先だけはいつも残してくれていて…」
「あの、息子さんのお部屋を拝見できますか?」
 何か手掛かりがあるかもしれない。窓口が少しでも情報をと彼女の了承を求める。しかし、
「いらっしゃっても何もありません…行方不明になってからもう一週間。いつの間にか部屋の物がなくなっていて…」
「気付かなかったんですか?」
「…はい。私も勤めに出ていましたし、二、三日家を空ける事は仕事柄ない訳でもありませんでしたから」
 もっと早く気付けていたら…そう思ってももう遅い。
「判りました。理由はどうあれ、人がいなくなっている以上捜索は致します」
 窓口はそう言って彼女の依頼を引き受け動き出す。
(「彼女には言わなかったが、部屋の物品がなくなっていると言う事は事件性が高い。時が経ってしまっているのが気になるが、さて難易度はどうしたものか?」)
 人の捜索であるから普通が妥当。しかし、窓口の勘が何か違うと彼に訴えかける。
 そこで彼は頭を整理すべく、昼休みを使って単独で湖の近くに行ってみる事にした。
 それにその場所は普段から人が行き来する場所で、それほど危険ではない筈なのだ。
 街道からは少し道を反れて数分もすればいける場所――今日も太陽光を湖面が反射し、キラキラ輝いている。だが、彼の目はそちらにはなかった。暫く眺めた後の事…ふと視線を移した先に彼はいた。以前見た指名手配書にあった顔――銀髪ストレートのその髪を軽く靡かせつつ、男は実にスマートに歩く。会った事などない。しかし、直感がそれは奴だといっている。
(「まさかっ、生きているッ!?」)
 窓口は気付かれぬよう注意しつつ、その場を後にし慌てて資料室に走る。
 彼の記憶が正しければ、さっきの男・僅籠は数ヶ月前に死んだ筈だ。
 手配の取り消しは北面王直々に下されている。だが、その資料には小さく注意書きがされていて、
「裏ギルド行き、最重要観察対象…」
 何があったかは判らない。けれど、さっきの男は見間違いではなさそうだ。
 周りは気付いていなかったのだろうか? いや、手配されていた頃であれば気付いたかも知れないが、今は既に死んだという事で片が付いている以上他人のそら似として気にも留めないかもしれない。それにあれだけ堂々としていれば、悪人と思う者が一体どれだけいるだろうか。
(「とんでもないものを見てしまった…」)
 窓口は思う。けれど、見過ごす事はできない。
 最重要観察対象…もしかしたら、さっきの事件が関わっている可能性もある。
「この依頼、設定が高めじゃないのかい?」
 彼の上司が作成された依頼を前に尋ねる。
「いえ、それで様子を見させて下さい。でなければ裏に回します!」
 青年の真剣な眼差しに上司は気圧されて、そのまま依頼は提出される事になるのだった。


■参加者一覧
北条氏祗(ia0573
27歳・男・志
リューリャ・ドラッケン(ia8037
22歳・男・騎
蓮 蒼馬(ib5707
30歳・男・泰
ユウキ=アルセイフ(ib6332
18歳・男・魔
零式−黒耀 (ic1206
26歳・女・シ
九頭龍 篝(ic1343
15歳・女・陰


■リプレイ本文

●手掛かり
 通常の依頼にしては難易度が高めの設定に、熟練の開拓者ならば自ずと気がつく。
 今回の依頼がいい例だ。
「この要報告の不審人物とやらに何かあるのか? 実際に捜索する俺達は知っておくべきだろう」
 そこで窓口に交渉を持ちかけたのは蓮蒼馬(ib5707)だった。
「すいません。しかし、今こちらの担当の者が出払ってまして…」
 詳しい事は担当でないと判らないとの事で、結局それが誰であるか掴む事はできない。
「どちらにせよ、行き先が判って…尚且つ人通りの多い場所で行方不明とは変な話だな」
「一週間とは何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いな」
 ベテラン二人、竜哉(ia8037)と北条氏祗(ia0573)の見解に皆が頷く。
「ここは手分けして探しましょう」
 そこで彼らは聞き込みと行方不明者の家の調査とに分かれて行動を開始する事にした。
 依頼人の話では既に部屋には何も残っていないというが、それでも別の視点からみれば何か見落としている部分が見つかるかもしれない。
「お爺さま……働かざる者、食うべからず、だそうです……」
 彼らと同じ依頼書を手にぽつりと九頭龍篝(ic1343)が呟く。
 彼女にとってはこれが開拓者として二度目の依頼だ。一度目が討伐依頼だったからと、今回は捜索依頼に手を出したのだが…皆の言葉を聞いて、なんとなく普通と違う雰囲気を感じ取る。
(「ん、不審者?……捜索の依頼、だよね。変な依頼書……」)
 そう思ってはいてもこれと言って口にする程でもなくて…山暮らしが長かったからこれもありなのかもしれないと言い聞かせた彼女であったが、この後この依頼が一筋縄ではいかないものだったという事に気付くのはまだ先の事だった。


 伝承…それは一部の者にしか受け継がれない事が多々ある。限られた一族、何かの生き残り、書物になって残っているのは極めて珍しい。昔から他の者には教えるなと門外不出なものが多く、伝えたならば災いが起こるなどと言うオマケつきだったりもする。
「こちらの、湖の伝承を知りたい、のですが?」
 湖までの道すがら聞き込みを始めた篝だったが、どうにもいい情報は得られない。
「あれには近付かん方がええて…人が消えたんじゃろう?」
 それに既に青年の行方不明が噂になっている様で、ぴしゃりとそこで話はストップしてしまう。
「あぁ、そうなんだ。俺達はその青年を探している。この青年なんだが、見覚えはないだろうか?」
 竜哉は出発前に拵えた似顔絵を差し出し尋ねる。
「おぉおぉ、やっぱりのう。まだ若いというのに…あの事を調べてなさって…災いじゃ」
「災い? そんな物があるのか?」
 同行していた氏祗が老婆に問う。
「いや、これはいかん。わしゃあに何もしらんじゃて…御主らも近付くなかれ」
 けれど、その先はやはり聞けなかった。彼らも災いに合うと思っているらしい。
「なら、質問を変えよう。この青年を最近見たか? その時誰か連れていなかったか?」
 依頼書によれば多分青年は一人のはずだ。仲間を連れて行っていたという報告は受けていない。従って、もし連れがいたとすれば依頼書で言う『不審人物』の可能性が高い。
「わしが見た時は一人だったよ…湖面を眺めておって。それはもう丹念に」
「湖面ですか?」
「いや、そうしたらえらい男前の異人さんが来たかのう」
「異人?」
 青年に接触したらしい男の特徴をメモしながら竜哉は思う。
(「とても親しげだったというが、はたして…」)
 銀髪スーツの男性でしかも異国人。怪しいと思わずにはいられなかった。


 一方、青年の部屋を訪れた三名は目を丸くしていた。
「これは……ごっそりじゃないですか」
 依頼人が言っていた物品がなくなっているという証言。彼らは一部がなくなっているのだとばかり予測していたのだが、ついてみれば本棚の本と机の書類がほぼ全てなくなっているという尋常でない状況……念の為、何か隠されてはいないかと忍眼を発動した零式−黒耀(ic1206)であるが、もぬけの殻な部屋に隠し金庫や扉等の反応は見られない。
「まさかここまでとは…」
「本人が持ち出した…という可能性はないでしょうね」
 母親が出稼ぎとはいえ、一人で持ち出すにはスペースから考えて多過ぎる。大八を使わなくては運べない量であり、もし運んだとするならば近所が知らない筈がない。それでもくまなく部屋を探し回って、ユウキ=アルセイフ(ib6332)はある事に気付く。
「これは引っ掻き傷?」
 窓枠についた僅かな傷――ここらでは珍しいガラス窓の窓枠に小さな傷が見受けられる。
「何だ? 人にしては細過ぎるな」
 それを見つめて蒼馬が呟く。
「あ、貴方がたですね…依頼を引き受けて下さったと言うのは」
 そこへ聞きなれない声がした。振り返るとギルド職員の名札を差し出している。
「そうか、あんたが…少し聞きたい事がある」
「あの件ですね」
 蒼馬の問いに青年職員は応える様に頷いて、彼だけを連れて場所を移す。
「はっきりした事は僕からは言えません。しかし蒼馬さん、貴方は知っている筈の人物です」
「知っている筈の人物?」
「報告書を読んだので。だから難易度を高く設定した…後は察して下さい」
 正確ではない情報を関わっている者であっても伝える訳にはいかない。
 そこでせめてもと設定を高くした依頼――機密事項でなければ明かす事も出来たのにと思う。死んだ筈の男、けれど最重要観察対象。やはりそれは生きているという事なのか? 新人である彼にとっても混乱の中での依頼作成だった。
「どうかご無事で…確認さえ出来れば、上に掛け合う事も出来る」
 胸騒ぎが収まらない中、青年はギルドに戻るのだった。

●それは何処か必然
 個々では大きな収穫はなかったものの二班の話を擦り合せる事で見えてくる事もある。
「もしかしたら、それは僅籠かもしれない…」
「僕もそう思います。彼は死んではいない筈なので」
 竜哉のメモからの推測とギルド職員の意味深な言葉――それからその名を導き出したのは、僅籠と対峙した事のある蒼馬とユウキである。そして二人が判り得る彼についての情報を皆に話し伝える。
「そんな…」
 簡単な依頼の筈だったのに…いや、簡単な依頼というのは語弊があるが、それでもそんな危険人物が関わっているなど考えもしなかったと篝は思う。
「だとしても拙者らの目的は変わらない。青年の探索、人命が最優先だ」
「それに、まだ確定事項ではありませんし、先に判ったのが救いです」
 対策の仕様がある。氏祗に続いて、黒耀がそう冷静に判断する。
「兎に角急ごう」
 動揺を内に抑えて、彼らは湖へと足を伸ばすのだった。

 そうして時は夕方――。
 秋の夕日が湖面を赤く込染める中、彼らは問題の湖に辿り着き調査を始める。
「ん、こんなところで、行方不明になんてなれるもの、なのかな」
 街道沿いの静かな湖――休憩スポットにもなりそうなとてもいい場所である。
 それに視界もなかなかに良好だった。ここで人攫いが起ころうものならすぐに誰かが気付きそうだ。
「近くに建物もないそうだ…禁足地も見当たらないとは。しかし、手掛かりはある」
 そんな中、竜哉はさっきの証言を思い出し湖面を見つめる。
「青年は湖を覗いていたと言っていたな」
 氏祗もそれを思い出し同様に覗き込む。深さがある様で底が見えない。
 残りの者達はそれぞれ外周を歩いて回り、不審な点を探す。
「ちょっと待って下さい…音がします」
 暫くして超越聴覚で周囲を探査していた黒耀が皆に異変を知らせた。
 それはまだ少し遠くのようだが――ふらふらとした足取りで誰かがこちらに向かっている。
「北側の茂み…」
「行ってみるか」
 黒耀の言葉に彼らは動き出す。
 しかし、また逆でもばしゃりと水音がして彼らは振り返る。
「くっ、あれは!」
 振り返った先、そこにはやはり彼がいた。
 湖から這い上がり、こちらを見つめている。
「くっ、どうすれば」
「二手に分かれましょう」
 そこで僅籠と面識のある二人と篝が奴の元へ。
 位置特定の出来る黒耀と残りの二人が足音の確認に向かう。
「今度は一体何を企んでいるんですか!」
 別の事件で子供達と引換に保身を願ったこの男と次会う時は出来ればいい再会を期待していた。
 しかし、ユウキは忘れない。あの時見た殺意の眼差しを――。
「企んでいるとは人聞きの悪い。只の趣味の一環ですよ」
 だが僅籠はそう答えて、はぐらかすとずっと優雅に手を翳す。

 ゴゴゴッ

 それと同時に石壁が出現し、先頭を行く蒼馬に立ち塞がる。
「邪魔だ!!」
 そこで蒼馬が拳を繰り出した。
 身体を赤く輝かせて底上げした能力で見事それを打ち砕く。
「おや、見知った顔ですね。まだギルドの犬をされているのですか?」
 彼は二人を覚えていた。けれど、それだけで彼にとっては取るに足らない事だ。
 突破してきた蒼馬を自前の鞭で応戦する。
「私も、います!」
 そこへ篝が後方より呪縛符を投げつけたのだが、全くもって微動だにせずすんでの所で弾かれてしまう。三人がかりでも届かぬ攻撃――ユウキの蔦も氷の刃も、蒼馬の体術も…あと少しの所で阻まれる。
「私に構っていていいのですか? 探しモノがあるのでしょう?」
 僅籠が挑発する様に言う。
「やはりおまえなのか? おまえは狩狂と繋がっていたようだが…今はちゃちな誘拐犯に落ちぶれたのか?」
「誘拐? 何の事でしょう?」
 正直な所を言えばあちらも心配なのだが、実力者の二人がいれば問題ないだろうと高をくくって、蒼馬は勝負に出る。蔦と符のコンボに僅籠が気を取られている隙に…鞭をかわして更に踏み込む。
「くらえ…ッ!」
 蒼馬の絶破昇竜脚は僅籠を捕らえた――かに見えた。
 しかし次の瞬間、彼の足は僅籠の鞭が絡めとられている。
「おしかったですねぇ…私もヒヤリとしましたよ」
 僅籠の言葉と共に伝わる衝撃。地面に投げ飛ばされたのだと悟る。
「蒼馬さんっ!?」
 慌てて二人が駆け寄る。受身は取った…けれど、骨にまで衝撃は響いている。ただ、それよりも気になったのはさっきの鞭の動きだ。まるで生き物の様に軌道を変え動いた気がする。
「残念ですが、私はこれで……このままでは風邪をひいてしまうのでね」
 僅籠はそう言うと一帯に炎を召喚した後、いつか同様木葉隠でその場を後にする。
「くそっ!」
 思わず声が零れた。しかし、まだ仕事は終わっていない。

●見つかった青年
 ふらふら歩いていた筈の主がどさりと地面に倒れた。
 それを察知して黒耀は足を速める。流石に心臓の音までは聞こえないが、本来なら呼吸音も近付くにつれて聴こえる筈だ。けれどそれが耳に届かないとなると流石に焦る。とはいえ、彼らが動き出してから森の小動物も驚いたのか一斉に動きを見せていたから、ただ単に掻き消されてしまっているだけかもしれない。
「大丈夫ですか!」
 視界に地面に倒れた人物を見つけて、黒耀が駆け寄る。
「いたのか! 息は?」
「薬草ならここにあるが」
 それに少し遅れて二人も到着し、三人がかりで彼の容態をチェックする。
 その倒れた人影は確かに探す青年に間違いなかった。身形はまだそれ程汚れてはいない。靴も歩き回っていたという程でもない。ただ、とても冷たかった。服が気持ち湿っている事から何処かで濡れたのかもしれない。ポケットからはみ出た紙が滲んでいる。
「おい、しっかりしろ!」
 竜哉が自分の外套を敷き彼を寝かせ呼びかける。脈はなく、呼吸もしてはいないようだ。
「まだそれ程時間は経っていない筈ですが…」
 足音を聞いてから数分で駆けつけたのだ。蘇生術が効くかも知れない。
 しかしにわか仕込みでやれば、逆に肋骨を折ってしまう可能性もある。
「俺が背負っていく!」
 そこで竜哉が動いた。ここから死に物狂いで走れば数分で街に戻れるかもしれない。
「では、拙者は仲間にそれを伝えに……なっ!?」
 青年を任せて氏祗が別働隊の加勢に行こうとしたその時だった。
 背負われた青年の指がぴくりと動いて――一瞬のうちに竜哉の肩に喰らいついたのだ。
「なっ…ッ……アヤカシなのか!」
 獣並の顎力で肩の肉ごと引き千切ろうとする青年に竜哉が痛みに耐えつつ言葉する。
「くそっ! 手遅れだったか!」
 その様子に奥歯を噛み、氏祗が強制的に青年を引き剥がす。
 そう青年はもはや人ではない様だった。四つん這いの姿勢をとって、歯をむき出しに彼らに敵意を見せている。それにはっと気付けば周囲の木々には無数の蝙蝠が集まり、彼らを取り囲む形で見下ろし一斉に三人に襲い掛かる。
「こうなっては仕方がない」
 氏祗が腰に携えた霊剣を二本引き抜いた。彼の流派は二刀流…本気という訳だ。
「操られている…という可能性はないのでしょうか?」
「本当にそう思うのか?」
 黒耀の小さな希望…しかし先程心臓の停止を確認しているし、この蝙蝠達からも瘴気の存在を感じる。さっきは気付かなかったが、覚醒した青年からは薄ら瘴気が立ち昇っている事から答えは否だ。黒耀の暗器が蝙蝠を仕留める。
「手遅れとは…時間経過から予想出来た筈だったがな」
 肩を庇いながら竜哉が言う。彼もまた宝珠銃を片手に雑魚に狙いを定めて次々と打ち落としていく。そして、青年は氏祗が受け持っていた。常人離れした動きで飛び掛ってくる青年を二本の峰撃ちで受け弾き、時機を見る。手数の多い斬撃でかかれば一刀の元切り捨てるのは難しくなさそうだ。何せ相手は素人同然。このままアヤカシでおく方が忍びない。
「御免!」
 武器も持たない相手に氏祗が負ける筈はなく、多少の蝙蝠の吸血にはあったものの大怪我には至らなかった。だが、僅籠の火の粉がこちらまで届いたのは予想外――付近の木が燃え、彼らは消火活動も行う事となる。
「んっ、これは…」
 残った亡骸のポケットからはみ出した紙を見つけ仲間を呼ぶ。
 そこには彼独自の観点から導き出された湖の真実が走り書きで残されている。
「まさか、これのせいで…」
 知らなければ死ななかったかもしれない。これが災いなのだとでも言うのだろうか――。
 そのメモは滲んでいたが、『湖の底に古の祭壇、供物が眠る』と書かれていた。

 ギルドから息子の死の報告を受けて、依頼人である母親はがくりと膝を突き泣いた。
 顔を覆うようにしながらも声は殺せず、一時ギルドに声が響いた渡ったのは言うまでもない。
 けれど青年は後の者に手がかりを残してくれた。
 彼の調べが本当だったとしたら、湖から出てきた僅籠はその祭壇に辿り着いて何か手にした可能性がある。
 そして、これを口実にすれば彼を再び捕まえる事が出来るかもしれない。
 その為にまず担当の彼がするべき事は開拓者からの情報を正確に纏め提出。
 そして、上に掛け合う事。出来る事なら自分がこの事件を最後まで見届けたい。
「よし」
 彼はそう決意し、この報告書に嘆願書を添えて動き出すのだった