ただ君を待つ―想起―
マスター名:村木 采
シナリオ形態: シリーズ
EX :危険
難易度: 普通
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/10/25 20:32



■オープニング本文


「かいな姉ちゃん!」
 ようやく秋めいてきた風を頬に受けながら、華やかな色の糸を編んで組紐を作っていた香伊那は、目を丸くした。
 近頃彼女の家に遊びに来るようになった子供たちの一人が、息せき切って駆け込んできたのだ。身体と言わず顔と言わず、擦り傷だらけの泥だらけだ。
「どうしたの、和己ちゃん! 転んだの?」
「みんなが、いなくなっちゃったんだ!」
 荒い息をつきながら、和己が掠れ声で叫んだ。
「みんなが? 家に帰ったんじゃないの?」
「つれてかれちゃったんだよう!」
 香伊那は、弾かれるようにして立ち上がった。
「連れていかれた!?」
「りゅうま兄ちゃんが、おっかけるって!」
 竜真は、彼ら子供たちを束ねる兄貴分だ。先日両親が蒸発してしまったが、預けられた商家で逞しく生活している、志体持ちの少年である。
「連れてかれたって、誰に!?」
「わからないんだよう!」
 和己の目から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。
「いなくなったのは、誰? 」
「こずえちゃんと、りえちゃんと、まこと君と、あきひろ君」
「無事だったのは、和己ちゃんだけ?」
「あと、なおき君、町の大人をよびに行ってる‥‥りゅうま兄ちゃんが、大人をよんでこいって」
 和己はへたり込み、泣きじゃくり始めた。
「姉ちゃん、おれどうしよう、おれどうしよう‥‥」
 香伊那は和己を抱き上げた。
「泣かないで、和己ちゃん。今あなたが話してくれなきゃ、みんなの、探しようがないの。ね、わかるでしょ? ね、ちゃんとお話を聞かせて‥‥」


 町外れの林。
 夕刻近くなり、既に木立を抜けて射す陽光はその力を失いかけている。
 不吉な赤紫色に染まる広場に、小さな草履が四足、ばらばらに落ちていた。
「ここでおままごとをしていたら、連れていかれたのね?」
 香伊那の問いかけに、泣きじゃくる和己は頷いた。
「りゅうま兄ちゃんが、おままごとでおしごとに行ってるとき、おとなの人たちが何人か、あっちからきて‥‥おれ、こわくなって木の根っこにかくれてて‥」
 和己は橙色の火球と化した太陽の浮かぶ方角を指し示した。香伊那は提灯を地面に近づけ、草履の落ちている辺りを観察する。
「これ、大人の足跡ね‥‥」
 足跡は複数あった。どの足跡も深さや大きさに大差はなく、ばらばらの方向に散ってはいるが、大まかに言って西の方角へと続いているようだ。
 香伊那は、その足跡の特徴に見覚えがあった。彼女の思い人である志体持ちが、まさにこういう足跡を残して良く走っていた。シノビの用いる、早駆の跡だ。
 そしてそれとは別に、小さな足跡が一つ、真っ直ぐ西を目指している。こちらも同様に、早駆を使っているようだった。竜真だろう。
「和己ちゃん、竜真ちゃんはそれを追って、こっちに行ったのね?」
 和己は頷き、大きくしゃくりあげる。
「みんながいなくなった後にかえってきて、おれが話をしたら、『こずえはおれがまもるんだ』って言って‥‥」
「無鉄砲なんだから‥‥様子が目に浮かぶわ」
 何せ、蟷螂のごとく勇敢で無謀な少年だ。引き絞られた弓から矢が放たれるようにして、止める間もなく飛び出していったのだろう。
 香伊那は、竜真のものとおぼしき足跡を目で追った。
 その脳裏に、十年間待ち続けている思い人の顔が蘇る。
『香伊那は俺が守ってやるからさ。町の連中なんて気にすんなよ』
 母が奇病に倒れ、「病が移る」と半ば村八分のようにされた香伊那を前に、当時少年だった彼女の思い人、駆名は、真顔でそう言ったのだった。
『移らないって。移るならとっくに香伊那に移ってら』
 そう笑った彼女の思い人は、今この町にいない。もう十年も前、「一人前の開拓者になって、金を貯めて、迎えに来る」と約束して町を出たっきりだ。
 それ以来、彼女はずっと、駆名の帰りを待ち続けている。
「‥‥ちゃん! ねえちゃん!?」
 地面にしゃがみ込んでいた香伊那は、和己の呼び声で我に返った。
「香伊那ちゃん、来てたのか」
 彼女の後ろに立っていたのは、先日、祭りの最中に起きた事件以来、何かと彼女を気に掛けてくれるようになった町の人々だった。皆、それぞれに呼び子笛を首から提げている。
「手分けして探そう。今、梢や理恵たちの家族や親戚、それに竜真の店の番頭が、この近くに手の空いた開拓者がいないか探してる。早けりゃもう着く頃だ」
「そう」
 僅かに安堵しながらも、かがみ込んだままの香伊那の黒い瞳は、竜真のものとおぼしき西へと向かう足跡を不安げに見つめていた。


■参加者一覧
小野 咬竜(ia0038
24歳・男・サ
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694
45歳・男・サ
蘭 志狼(ia0805
29歳・男・サ
すぐり(ia5374
17歳・女・シ
羽流矢(ib0428
19歳・男・シ


■リプレイ本文


「うち、先行くなッ」
 黒い忍装束に細い肢体を包んだすぐり(ia5374)が、南西へと向かう少年の足跡に沿って、いち早く地を蹴る。
 それを見送り、片手で辺りの地図を見つつ伸脚運動をしながら、羽流矢(ib0428)が香伊那の顔を見上げた。
「香伊那さん、西の方に‥‥何か思い出の場所とか、ないよな?」
 きょとんとした顔で、香伊那は頷いた。
「? ええ、私は家から殆ど出ないし‥‥」
「そっか。‥‥ううん、何でもないや」
 言い、羽流矢もまた、風のように林を駆け去っていく。
 蘭志狼(ia0805)が、香伊那の陰に隠れようとする和己に手を伸ばした。叩かれると思ったか、和己は反射的に目を硬く閉じる。
 その頭を、志狼の手がそっと撫でた。
「‥‥大丈夫だ。我々が必ず、取り戻す」
 恐る恐る開かれた和己の目を、志狼は真っ直ぐに見据えて頷いた。和己の両目から涙が溢れだす。
「お兄ちゃんたち‥‥おねがいだよ‥‥」
 そこから先は声にならない。
「人攫いか。厄介である以上にようわからんのう」
 高い位置に結った、燃えるような赤髪を揺らしつつ、歌うように小野咬竜(ia0038)が言った。
 その両肩には、長大な斬竜刀「天墜」が担がれている。
「金ではなく人買いに売ろうという魂胆かのう」
「竜真さんや子供達が無事に帰れるよう、できる限りの事をしましょう‥‥」
 鈴の鳴るような声が、背後から聞こえる。巫女姿に外套、小脇に杖を抱え、市女笠から伸びる髪は淡い銀色。柊沢霞澄(ia0067)だ。
「うむ。ま、ここは一つ」
 底抜けに明るい声を発し、咬竜は手を打ち合わせる。
「とっつかまえてから考えるとするか!」
 場の空気が、僅かに和んだ。長大な斧「ミミック・シャモージ」を担いだ赤い陣羽織の男、鬼島貫徹(ia0694)が頷く。
「往け、奥羽。お前の鼻で不埒者共を探り当てて見せい!」
 その声に合わせ、褐色の毛皮をしなやかに動かしながら、忍犬「奥羽」は地面の臭いを追い始めた。


「いったい、何の為に‥‥はよ見つけなね」
 呟きながら、すぐりは夕闇が迫りつつある林を駆け抜けていく。
「下調べせんのは性に合うてへんけど、何かあってからやと遅い」
 気は急いても、すぐりは無闇に技能を使わない。体力を温存し、可能な限りの長時間、長距離、急ぎすぎずに急ぎ続ける。
(知らない道。見えない相手と目的‥‥)
 ふと、すぐりの足が止まった。木の根が入り組み、足跡らしい足跡が見あたらないのだ。
 人差し指を頬に当ててしばし考える。
(荷物有りで通る道‥‥やったら、こっち)
 木々の合間を縫って再び走り出す。やがて彼女の目は、大人二人の足跡と、それを追う子供の足跡を見出した。
「うち一人で二人は、よう相手しいひんなあ‥‥正直心細いけど‥‥直に皆合流してくれるやろ」


 羽流矢は、木陰で息を潜めながら、子供達を取り戻す方策を考え、腕を組んでいた。
 その前方では、狐面で顔を覆ったシノビ二人が、それぞれ少年と少女を縛り上げている。早駆をこまめに使った羽流矢の最大速度が、荷物になる子供二人を担いできたシノビ二人の速度に追いついたのだ。
 と、一人のシノビが片手を立てた。
「悪い。俺、ちょっと用足しに行ってくる。こいつの縄も頼む」
「‥‥何だよ。早く行ってこい」
 羽流矢の目が、俄に輝き始めた。


「生きる事叶わぬ子、生まれぬ子もいるというのに‥‥」
 志狼が呟く。
「む? 何か言ったか」
 鬼島がちらりと横を見る。
 志狼は微かに苦笑し、首を振った。
「すまん、声に出ていたか」
「奥羽君のお陰で、松明が無くとも敵を追えるのは有利な点ですね‥‥」
 霞澄が呟く。名を呼ばれたためか、一瞬奥羽が顔を上げ、霞澄の目を見て尻尾を振った。霞澄が微笑む。
「よい子ですね、頑張って‥‥」
 奥羽は遠慮がちに一声啼き、更に進軍の速度を上げた。
「枝の撓み、茂みを掻き分けた跡。こちらで間違いなさそうじゃな。流石は忍犬」
 右肩に担いだ長大な刀を、所々で木々にぶつけて顔をしかめながらも、咬竜は笑う。
「ろくに移動の痕跡を消しておらん。余程油断しているか、頭がおめでたいかのどちらかじゃの」
 鬼島は頷くと顔を上げ、前方の林をちらりと見た。
「街道に出て、臭いが混ざってしまっては面倒だ。早く追いつかねばな」


 一人の少年が木陰に身を潜め、抜き身の短刀を手に、木々の向こうにいる二人組のシノビの様子を窺っていた。二人組の側には一人の少女が縛られ、転がされている。
 少年は短刀を逆手に握り変えると、足の筋肉に力を込めた。
 瞬間、少年ははっと辺りを見回した。彼の超越聴覚が、聞き慣れぬ女の声を拾ったのだ。
 声の主は言った。
「竜真やね。味方や、少しだけ待ち。梢ちゃん、取り戻すんやろ?」
 少年、竜真は一瞬迷いを見せたが、小さく頷いた。
 その数秒後、細いが色気のある身体を忍装束に包んだ少女、すぐりが、木陰から抜足でそっと竜真の前に姿を現す。
「今にも飛びかかろうとしとったさかい、冷や冷やしたわ」
 すぐりの目が優しく笑う。
「じき、皆も追いつくさかい。あの子等の為にも辛抱しぃね」
 竜真はぷいとそっぽを向いた。
「あいつら、油断しきってる。超越聴覚も使ってないし」
「そか。どんな話、しとった?」
「? さあ。買ってもらうとか、働かせるとか」
 すぐりは小さな唇を尖らせた。
「ほな、ただの人攫いなんかな‥‥」
「とにかく、梢を助けないと」
 竜真は呟き、すぐりが止める間もなく身体を起こす。
 その足が、小枝を踏み折った。


「大だったのか。遅えよ」
 笑いながら、狐面のシノビが片手を挙げた。
 用足しから戻ってきた狐面のシノビも手を上げてそれに応え、少女の荒縄の先端を受け取ろうとする。
 と、戻ってきたシノビの左手が、荒縄の先端を素通りし、相手の右手首を掴んだ。その手には、誰のものだろうか、血が付着している。
「!?」
 戻ってきたシノビの左足が、高々と跳ね上がった。握りしめた右手首ごと相手の身体を前に泳がせ、後頭部に爪先を叩き込む。
 何とか受け身を取ったシノビは、愕然となった。戻ってきたシノビが狐面を捨てると、見たことも無い少年の顔が現れたのだ。
 少年、羽流矢は首を鳴らし、にっと笑う。
「お仲間なら、あっちの川を流れてるよ」
 一瞬辺りを見回したシノビだったが、
「‥‥チッ!」
 じりじりと後退を始め、その距離が七丈に届こうかという所で、早駆でその場を離れ、姿を消した。
 子供たちの荒縄を忍刀で切りながら、羽流矢は油断無く辺りを見回す。
「‥‥逃げたか」
 林の中には、三人と彼らを取り巻く静寂だけが残されていた。


「年端もいかぬ子供を攫うとは‥‥斬って捨てても構わんのだぞ、此方には巫女もいる」
 槍を肩の高さに構えた志狼が、呟く。
 長柄物を持った偉丈夫三人と可憐な巫女、そして一頭の忍犬は、赤光と闇とが共存する林の中で、三人のシノビと対峙していた。
 向かって奥に細面のシノビと、子供のように背の低い男。その前に人質の少年。そして、彼に忍者刀を突きつけている狐面のシノビ。
「こうもあっさり追いつかれるようでは、シノビ失格じゃな」
 抜き放たれた「天墜」を勢いよく地面に突き刺し、懐炉から煙管に火を移しつつ、咬竜が鼻で笑う。
「まさか開拓者が、しかも忍犬を連れて居ようとは思いませんでしたからね」
「言い訳だけは一人前じゃのう」
 咬竜は意地悪く笑い、煙管をふかした。
「お怪我はありませんか‥‥?」
 霞澄が少年に、気遣わしげに声を掛ける。人質に取られている少年は、小刻みに震えながらも頷いた。
「必ず、無事に助けます。もう少しだけ、我慢して下さいね‥‥」
 その言葉に勇気づけられたか、少年の震えが止まる。
「‥‥大丈夫だよ。おれ、こわくないよ」
 霞澄が、こっくりと頷いて見せた。
 少年を怯えさせないよう、敢えて難解な言い回しで鬼島が言う。
「人攫いども。俺達に捕捉された時点で、人質を帯同しての逃亡なぞ不可能と知れい」
 あっさりと細面は頷いた。
「でしょうね」
「西方の何処ぞの町が、貴様等の拠点か」
「さて」
 細面は曖昧に笑った。
「当方に人質が譲渡されれば、今度は当方が深追いできなくなる事も自明であろう。この場での戦闘は回避するのが、双方上策ではないか」
 鬼島が大斧を左車に構え、低い声を発する。
「子供達が何をしたというのです‥‥その子達を解放して、引いて頂けるならば、私どもとて無用な争いをしようとは思いませんものを‥‥」
 その時、人質に取られている少年が叫んだ。
「‥‥ねーちゃん! こんなやつら、やっつけてよ! おれ、おれ、おれこわくないよ!」
「黙れ!」
 狐面が、忍者刀の柄尻で少年の頭をしたたかに殴りつける。
 ぴくり、と偉丈夫三人のこめかみが動いた。
「おやめなさい‥‥!」
 霞澄の凛とした声に続き、煙管を叩く高い音が、二度鳴り響いた。
「‥‥そこの三下。まさか、林の中ではこの斬竜刀が役に立たぬなどと、甘っちょろい事を考えているのではあるまいのう」
 怒り心頭に発した時の、咬竜の癖だ。灰を落とした咬竜が煙管をしまい、薄暗闇に映える赤髪を掻き上げ、地面に突き刺してあった「天墜」の柄を握る。
「素っ首、ここらの木の幹ごと、叩き落としてくれようか」
 その隣で、志狼の右の腕、肩、背、腰、脚の筋肉が幾何学的な形に膨れあがった。強打の一撃を放つ体勢だ。
 烈火のごとき怒りを込め、志狼は囁く。
「その子を離せ。その喉、突き破られたいか」
「‥‥逃ぐるか、死ぬるか。好きな方を選べい」
 鬼島の声は、先ほどよりも更に低く、そして怒気をはらんでいた。
 鬼島の身体から、次いで志狼、咬竜の身体から、剣気が放射される。あまりの殺気に驚いた辺り一帯の鳥たちが、一羽残らず葉陰から逃げ出した。
 奥の二人は剣気に当てられてよろめいたが、三人の目の前に立つ狐面はその程度では済まなかった。吹き飛ばされるかのように尻餅をつき、少年を離してしまう。
 自由になった少年が後ろを振り向くが、狐面の忍者刀に怯え、その場を動けない。鳥の羽ばたきが聞こえなくなり、鳴き声が遠くなっていく。
 細面は、すっと口の端を釣り上げた。
「構いませんよ、少年。お行きなさい」
 言われ、少年はおずおずと、幾度も振り向きながら、一歩一歩、開拓者の待つ方向へと歩きだした。
 それを見送りながら、細面がやおら口を開く。
「各々方、お名前を窺っておきましょうか」
「‥‥鬼島だ」
「紅の虎とでも言っておこうかのう」
「柊沢。柊沢、霞澄と申します」
「貴様等のごとき下種に名乗る名など無い」
 細面は口元を隠して笑った。その姿が、ゆっくりと透き通り始める。
「覚えておきましょう。私は、望月菊ノ介」
 四人が目を疑っている間に、菊ノ介の身体は、すっかり見えなくなってしまった。
 笑みを含んだ声だけが、その場に残される。
「かようにせわしない場ではなく、とっくりと戦える場でお会いしたいものです」
 少年が、出迎えた霞澄の腕の中に収まろうとした、その瞬間。
 遠くで呼子笛が鳴り響き、そして残る二人のシノビが早駆でその場を離れた。


 竜真が小枝を踏み折り、誰何の声が掛かった瞬間、すぐりは迷い無く呼子笛を吹き鳴らしていた。竜真を残し、忍刀「蝮」を手にシノビ二人の前に飛び出してから、もう一分ほどになる。
 腕、肩、脚、腹と、至る所から血を流し始めたすぐりは遂に防御一辺倒になり、じりじりと後退を始めた。
 その手甲がシノビの一撃を防ぎ切れず、暗くなった地面に血が飛び散った。もう一太刀が腿を、もう一太刀が脇腹を、浅く傷つける。
 それでもじわじわと二人を梢から引き離していたすぐりの顔が、突如驚愕に歪んだ。
「あかん! 竜真!」
 林の中を、風が吹き抜ける。
「‥‥俺らとバトンタッチだ。分が悪いの解るだろ?」
 短刀を持った竜真の手を握り、早駆で駆けつけた羽流矢が言った。
「遅いやないの、羽流矢」
「ごめんごめん」
 羽流矢が笑う。竜真が、短刀で背後からシノビに突きかかろうとしていたのだ。
 途端、奥羽の吠え声が近付いてきた。何かの符牒なのだろう、二人のシノビは互いに幾度かの舌打ちを漏らし合うと、その場を早駆で離脱し、消えていく。
「すぐりさん! 羽流矢さん!」
 茂みを掻き分けながらすぐりに駆け寄ったのは、霞澄だった。
 二人、特にすぐりが身体のあちこちから血を流しているのを見て、即座に榊の杖を左右に振り、祈りを捧げる。
「精霊さん、皆さんの傷を癒して‥‥」
 霞澄の身体から染み出すように立ち上った精霊力が杖に吸い寄せられ、御幣の先端からすぐりの身体へ、次いで羽流矢の身体へと流れ込んでいく。
 霞澄の「閃癒」を受けながら、すぐりは困ったように笑う。
「竜真、無茶してからに‥‥加勢しようとしてくれたんやな?」
 仏頂面のまま、竜真は倒れている梢の縄を切った。


「母ちゃん! 母ちゃん!」
 号泣しながら、少女二人が母親に駆け寄り、抱きつく。少年二人も、目に涙を浮かべながら母親に抱きしめられ、うつむいている。
「子供達をどうする気だったのだ? ‥‥言いたくないなら、無理にでも言って貰うが」
 羽流矢に伸されていたシノビは、志狼の槍を喉元に突きつけられて息を呑む。
「あの男、望月菊ノ介と言ったかのう。ただの人攫いではあるまい?」
 美味そうに煙管をふかしながら、咬竜が言う。
「し、知らんのだ。俺はただの雇われだ」
「雇い主の素性さえも知らないと‥‥?」
 霞澄の淡々とした質問に、シノビは頷いた。
「じ、自分達を狐組とか言ってた。あの望月とかいう奴と、その隣に控えてた小男以外は、雇われなんだ」
 シノビの顎が、槍の穂先で持ち上げられた。志狼の目が冷たく光る。
「質問に答えろ。子供達をどうするつもりだった」
「だ、だから知らん! 俺は街道の一地点に子供を連れていけばお役御免だったんだ」
 鬼島は唸った。
「これだけ足のつかぬ方法を取っているということは、組織的な動きのようにも思えるな」
 と、梢がおずおずと母の身体を離し、一人仏頂面で番頭に叱られている竜真に歩み寄った。
「竜真ちゃん、ありがと。‥‥嬉しかった」
「‥‥いいよ、俺じゃ、守れなかったんだし」
「ううん。嬉しかった」
 梢が微笑む。番頭は困ったように頭をかき、竜真は真っ赤になった。
 ぼんやりとその様子を見ていた香伊那が、ぽつりと呟いた。
「駆名ちゃん‥‥」
 香伊那がふと空を見上げ、僅かに潤んだ目で、声に出さず何かを呟いた。
 羽流矢の目は、確かに彼女の唇が、会いたい、と言ったのを見逃さなかった。
 その時だった。息せき切って駆けつけた、一人の老人があった。
「香伊那さん! ここに居たんですか、大変ですよ!」
 日頃、食べ物の商いで香伊那の家に顔を出している、柳という老人だった。
「どうしたの柳さん? 事件ならもう‥‥」
「駆名ですよ! 西の箔羅の町の代官の陣屋で、駆名を、この目で見たんですよ!」