【傷痕】9−乙−
マスター名:村木 采
シナリオ形態: ショート
EX :危険
難易度: 難しい
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/09/29 19:28



■オープニング本文


 神楽の都、開拓者ギルド。
「うーむ」
 身の丈七尺に及ぼうというアフロの黒人職員、スティーブ・クレーギーが唸った。
 膨大な量の書類に淀みなく数種の印を押し分けながら、スティーブの上司、佐藤春が静かに言う。
「厠なら早く行ってらっしゃい。仕事は山積みなんだから」
「ち、違うのでござる! 実は仕事で一つ、難事を抱えてござって」
 机の前で頭を抱えていたスティーブが顔を上げた。
「先日のこと、武天は黒塚の地にて、幾つもの村が壊滅したと‥‥」
「吸血鬼騒ぎね」
 さらりと春は応えた。
「子吸血鬼の犠牲者が孫吸血鬼になって、大変なんですってね」
「ご、ご存知なのでござるか!?」
 スティーブは目を剥いた。
「大騒ぎになってるもの。遺体が数百足りないって」
 喋りながらも、印を押す春の手は淀みない。
「そうなのでござる。にも関わらず、あの地のお偉方には後ろ暗い所があるらしく、当地に開拓者を二十名以上入れる事、相成らんと」
「消えた村人が全部吸血鬼になってるかも知れないのに?」
 春は眉をひそめる。
「今回の吸血鬼、一匹倒せばそれに噛まれて吸血鬼になった者はただの死体に戻るそうなのでござる。それなら多数の開拓者は必要ないと言われてしまい‥‥どういうわけやら、拙者がこの依頼を担当せよと」
「なるほどね」
 春は書類を束ね、端を揃えながら頷く。
「スティーブさんの依頼の仕方が悪かったから失敗した、と言えば、ギルドの面子も立つものね」
「そ、そういうことなのでござるか!?」
 スティーブの素っ頓狂な声には答えず、春は机に広げられた地図を摘み上げた。
「ま、沢山の人命が掛かってることだし、手伝ってあげる。二十人で、数百のアヤカシを倒せばいいのね」
「で、できるのでござるか」
 春は当然の如く頷いた。
「二十人なら、甲乙丙の三班に分けましょうか。甲班は敵が、それも敵の大半が出てこなきゃいけない状況を作る。住処を丸ごと破壊する準備を始めるとかね。これで出てきた敵の足止めが乙班の仕事。甲班と乙班が敵と遊んでる間に、丙班が親玉の元へ突撃。これでいきましょ」




「鉱道前の斜面を半里くらい上がった所で、川が大きく曲がってるわね。甲班はここを堰き止めるのがいいかしら。ここから水が溢れれば、そのまま斜面を下って鉱道を水没させられるでしょ」
「いや、待って下され春殿」
 大きな手を振り回し、スティーブが叫ぶ。
「中には人が捕らわれているのかも知れんでござるぞ。消えた村人が全員吸血鬼になっているとも限らんでござるし」
「本当に水没させる必要はないのよ。吸血鬼達が、それを止めに出てきてくれればいいの。むしろ突入する丙班のためにも、吸血鬼には堰を壊してもらわないと、人質もろとも丙班が溺れちゃうわ」
 筆先が、鉱道を示す×印から川までを繋ぐ大きな矢印を描いた。
「で、鉱道に戻ろうとする敵を食い止めるのが乙班のお仕事ね」
「しかしでござるな」
 スティーブが唸る。
「甲班が多少数を減らしたとて、最少でも数百は敵が残ってござろう。これを正面から食い止めるのは、自殺行為ではござらんか」
 春は筆の柄で額を叩き、考え込んだ。
「そうね。親に近い吸血鬼は、必ず後ろに隠れるでしょうし。倒されたら、子、孫、曾孫と、全部動かなくなっちゃうんだから」
 筆が、滑らかに紙の上を走る。
 その先が丸く囲ったのは、鉱道前の斜面が傾斜方向にごく浅い谷を作っている場所だった。
「敵が余程暇で、気まぐれを起こさない限り、目的を果たしたら真っ直ぐに鉱道へ帰るでしょ。となれば、傾斜を遮断するように歩くよりは、傾斜方向にまっすぐ下りられるここを通るんじゃない?」
「む」
 腕組みをしたスティーブが、地図を見て地形を頭に思い浮かべながら頷く。
「しかし、それも推測ではござらんか」
「推測は推測だけど、相手は吸血鬼よ。人間と同じ、二足歩行のね。四足歩行の獣とはわけが違うわ」
 春は筆の柄で、自分が丸く囲った部分を叩く。
「ここで隊列が細く伸びた所を、一気に急襲を掛けたらどうかしらね。活きの良いのを倒す程、時間稼ぎは楽になるわ」




 西から斜面を吹き上がってくる生ぬるい風に乗って、腐臭が漂ってきた。
 なだらかな二つの斜面に南北から挟まれた、西方向へ下るごく浅い谷状の地形だ。
 日当たりの悪い南の斜面には、大人の腰ほどの丈しかない灌木がびっしりと繁っている。地面からまばらに突き出した岩は剣のように鋭く尖っている。
 日当たりの良い北の斜面は、腹の高さほどまで下生えが生い茂っていた。地面からは岩が突き出しているばかりでなく、人の背丈より高い木がまばらに顔を出している。
 浅い谷の底は、雨が降ると水が流れるのか、砂利や石だけが転がっていた。
 一つ、また一つ、乾いた血のこびりついた頭が西の谷底に姿を現す。
 死人の群れだ。血が乾いて茶色くまだらに染まった長着、作務衣。腐り始めた肉には蛆と蠅がたかり、土気色の皮膚を絶えず体液が伝い落ちている。
 ジルベリアでグールと呼ばれる下級のアヤカシだ。その数およそ二百。
 それに守られて、幾らか動きも俊敏で足取りの確かなものがおよそ八十。
 そして、明らかに動きの鋭いものがおよそ四十。肌の色こそ青白いが、身体の腐敗は殆ど起きていない。目が赤く光っているという一点を除けば、少々体調の悪いただの人間という所だ。
 総勢、三百というところだろう。それらが、漏斗に流し込まれた水のように、浅い谷を幅十丈ほどの行列となって上り始めた。
 否、死人ばかりではない。口から涎を垂らし、赤い目を爛々と輝かせた狼が、実に五十頭ほど。西側、風上から、死人の群れの後からゆっくりとついてくる。
 屍狼と呼ばれるアヤカシだ。
 死してなお鼻は利くのか、しきりに鼻を鳴らして南北に視線を配りながら、後半の待ち受ける東へと進んでいく。
 そして死人の群れの中に、異様な人影が一つ。
 誰もが農具や棍棒を手にしている中、ジルベリアのものだろう、S字型のヒルトを持つ針のような剣と短剣を腰に帯びた長外套の人物があった。
 赤い目が、北の斜面を、そして南の斜面を睨み回す。
 頼りない足取りで前を横切ろうとした幼児を、その長い足が蹴飛ばした。赤い目をした幼児は鞠のように吹き飛び、岩に叩きつけられ、地面に落ちる。
 僅かな間を置き、その手足がまた動き出した。身体に比して大きな頭が持ち上がり、のろのろと死人の行列へ戻っていく。
 誰も、一言も発する事無く、不死者の軍団が東へ進んでいく。この数を相手取り、甲班の時間稼ぎがどれほど成功するか。
 この数を配下として従える吸血鬼を、鉱道へ突入する丙班がどれほど早く討ち果たせるか。
 決死の戦いの火蓋が切られるまで、最短ならあと半刻ほどだ。
 老人の死体が蹴躓いて倒れ込み、死人の軍団の足で踏みにじられ、動かなくなった。


■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
千代田清顕(ia9802
28歳・男・シ
羽流矢(ib0428
19歳・男・シ
羽喰 琥珀(ib3263
12歳・男・志
マハ シャンク(ib6351
10歳・女・泰
熾弦(ib7860
17歳・女・巫


■リプレイ本文


「まだ堰を作ってる音が続いてるわ。急ぎたいけれど、甲班の交戦開始まで待って」
 手斧を握り、今にも隠れ場所から飛び出そうとする仲間達を、紺青の神衣に身を包んだ銀髪の修羅、熾弦(ib7860)が押しとどめている。
 尾根から突き出した岩陰に片膝立ちで潜み、熾弦は練力を用いて音を拾っていた。
「堰作りは順調に進んでいるとして‥‥生き残った村人がいらっしゃると聞きましたが、大丈夫なのでしょうか‥‥」
 薄桜色の神衣に白を基調とした祈祷服を羽織った柊沢霞澄(ia0067)が東の空を気遣わしげに見上げた。
 熾弦同様に練力で音を拾っている羽流矢(ib0428)が、忍面の下に手拭いを仕込みながら頷く。
「アヤカシが見えたらすぐに退くように、女の子がちゃんと号令を掛けてる。きっと大丈夫」
 黒塚の重臣と吸血鬼達の緩慢な進軍、二重の苛立ちから、肩に掛けた荒縄を無意識に握り締めながら、熾弦は目を閉じる。
「村人でさえ命を懸けて戦ってるのに、ね。お偉方は事ここに至ってなお保身‥‥やらざるを得ない以上はやるけれど」
 涼やかな風が下生えを揺らす。これから命を懸けた死闘が始まるなどと、誰が信じられるだろう。
「後ろ暗いところとやらも後で明らかにしたいところね」
 その時だった。自らの大きな翼を布団代わりに寝転がっている忍装束の竜人、マハ・シャンク(ib6351)が目を開けた。耳を澄ますまでもない。龍の咆哮の如き大音声が、山々に木霊する。
「始まったか」
 マハは翼をばねにして起き上がり、腰の手斧を抜いた。
「こっからは時間との勝負だなー」
 厚司織を着込み、額に幅広の鉢金を巻いた羽喰琥珀(ib3263)が、黒と黄の尾を振りながら斜面を駆け下りていく。
 同じく斜面を駆け下りたマハが大きく伸び上がり、全身の体重を乗せて、幹の六割ほどまで袈裟懸けに切り込む。幹に手早く縄を掛け、木の自重を利用して一気に地面へ引き倒す。縄を肩と翼で背負い砂利道へと木を引きずっていく。
 一気に斜面を駆け下りた羽流矢は岩に苦無の先端を当て、その持ち手へ斧の背を振り下ろし始めた。
 元より鋭く尖る、結晶の方向が揃った岩だ。程なくして、苦無の食い込みから、岩に大きな亀裂が走った。亀裂の直下に焙烙玉を仕掛け、地面に伏せる。
 破裂音に続いて、岩が崩れ落ちた。中でも大きな岩を掴んで斜面を転がし、砂利道へと落としていく。
 霞澄は清顕と共に砂利道を抜けて北の斜面にとどまり、木々や岩の間に荒縄を張った。
 全身を漆黒の忍装束で固め、黒塗りの篭手を填めた千代田清顕(ia9802)は気を利かせ、手斧を振るって縄の側の岩や木に傷を付け始めた。空いた手で焙烙玉に着火し、手近な岩に叩きつける。
 見る間に、北の斜面から突起物が消えて均されていく。
 秋の到来を知らせる高い空に、僅かな地響きと破裂音が消えていった。




 日は中天に差し掛かろうとしていた。
「‥‥みんな、気をつけて」
 いち早く異常に気付いたのは、熾弦と羽流矢だった。
「南北に分かれて、屍狼が斜面を探り始めてる」
 砂利道を塞ぐ倒木の影に身を潜めた四人が耳を疑った。
 倒木の葉陰から、琥珀が様子を窺う。
 涎を垂らし、目の焦点が合っていない狼が、斜面に展開して頻りに鼻を鳴らしている。北の斜面に張った縄、南の斜面に残る切り株に、早くも人の臭いを嗅ぎつけたようだ。
「それは、参ったね」
 言葉ほど困っていない風で、兎の足から作られたというお守りを左手で弄びながら、清顕が首を傾げる。
 小さな唇を噛み締め、霞澄が東の斜面を見据えた。
「危険な状況ですが、ここを乗り切らないと更なる災厄が‥‥」
「そういうことだな。ここで退いたら、後が無い」
 呪文がびっしりと記された布を巻き付けたマハの拳が、乾いた音を立てて鳴った。
 その小豆色の目が、東を向いて細められる。
「‥‥中々数が多いようだな」
 全体に、敵の損耗率は三割程度と見えた。屍狼も二十頭強残っている。
 二百超の死人の軍団が包囲の輪を縮めていくに連れ、暗く重い絶望が胸に広がっていくのが分かる。
「しかし、このぐらいのほうが暇潰しには十分だろう? 二手に分かれているのが物足りないほどだ」
 マハが笑みを浮かべ、空色の爪を持つ藍鉄色の翼が、ゆっくりと広げられた。
「終わったらパーッと宴会でもしてーな」
 琥珀はゆっくりと膝を落として下生えの中に紛れ込む。
「出来る事も、やらなければいけない事も増えた」
 肩に掛けた光沢のない漆黒の布を両手首に絡め、熾弦が北の斜面をゆっくりと上がり始める。
「幸と見るか、不幸と見るかはともかく、選んだ以上進むだけ」
 南東に一人傲然と立つ長外套の赤い瞳と、熾弦の黒い瞳が空中で火花を散らした。
 浅い谷の端に立った長外套の吸血鬼は、行きに通ってきた砂利道を塞ぐ岩と倒木の数々を見て、笑みとも苛立ちともつかない歪みを口許に浮かべていた。
「あの音は、これか。こちらが本命というわけだ」
 自分達の通ってきた道から響く物音と爆発音を、吸血鬼達は堰を壊しながら聞いていた。赤い瞳が、たった今通ってきた斜面の上を睨み付ける。
「なるほど考えたな、戦力の一部を割いて我らを誘い出し、残る大部分が帰り道で戦力を削る気か」
 堰を作っていた人間達は、水を用いて二重の策を練っていた事になる。鉱道を水没させて吸血鬼を追い出せれば良し。それを防ぎたい吸血鬼が配下を繰り出せば、それを襲って戦力を削れる。
「奇襲をせず迎撃するということは、相応の戦力を備えているということ」
 長外套は人差し指を額に当て、暫し考える。
「となれば、敵の数は百前後というところか。少なくとも五十は下るまい。これにむざむざ突撃するのも愚かなこと」
 長外套の右腕が細剣の切っ先で南北の斜面を指す。
「者共、敵の横腹を食い破れ」




 屍狼が灌木の幹や張り巡らされた縄の下をすり抜け、開拓者達の元へと向かってくる。
 漆黒の忍装束に身を固めた清顕が岩の上に跳び上がり、黒い弓を引き絞った。
 鋭い弦音が空へと消えた。
 銀色の緩やかな放物線が、屍狼の身体を布きれの如く北の斜面に縫い止めた。その隣にいた屍狼は鼻から胸を射抜かれて斜面を転がり落ち、微動だにしなくなる。
 日射しが作る濃い木の影から析出するように、漆黒の鉄片が撃ち出された。何の警戒も無く北の斜面を駆けていた屍狼は胸に深々と鉄片を食い込ませ、続く鉄片に眉間を貫かれて地面に転がる。
「六人で敵二百強か‥‥構わない」
 影が起き上がった。身を潜めていた羽流矢が立ち上がったのだ。指間に挟まれた漆黒の手裏剣が空を裂く度、屍狼が悲鳴を上げる。
 琥珀、熾弦、マハが北の斜面へ、霞澄と羽流矢が南の斜面へ出て、それぞれの獲物を構えていた。
「六人、か‥‥」
 北側の斜面で指揮を取っていた長外套が、目を細める。
「どこかに本隊が隠れていると見た。狼共、探せ」
 長外套の細剣に指し示され、灌木の幹の間と下生えを這い回っていた屍狼が勢いづく。
 と、琥珀が猫のように木の幹を登った。肩に掛けた紐を外し、一抱えもありそうな壺を両手で抱え上げ、渾身の力で投じる。
 高い音を立てて壺が割れ、獣血と肉が撒き散らされた。辺りに猛烈な血臭が漂い始め、生前の本能に負けた屍狼が一部そちらへ引き寄せられていく。
 清顕の矢に加え、羽流矢と琥珀、霞澄の手裏剣が降り注ぎ、屍狼が遺骸の山を築き始めた。
 縄に躓き、斜面で足を滑らせながら、死人達が北の斜面を行進していく。
「北部隊、矢の届かぬ所で止まれ。狼共は本隊を探す事に集中せよ」
 異様な膠着が始まった。清顕の矢が届く範囲の外で、表情の無いグール達が立ちつくしている。南では灌木で服に鉤裂きを作り、腐り始めた皮膚に深い傷をつけながら、死人達が緩慢な行進を続けていた。
 南の尾根で「本隊」を探している屍狼達から、再び困惑気味の遠吠えが上がった。
「ならば北か」
 長外套が歯噛みをし、北の尾根を睨む。開拓者達はそれぞれに獲物を握り締めたまま、微動だにしない。
 やがて風に乗って、北からも困惑気味の遠吠えが届いてきた。
 開拓者達と長外套が、気まずい沈黙の中で睨み合う。
「‥‥貴様等、本当に六人でこの数に立ち向かうつもりか」
「まさかも何も、俺達だけで片はつくだろ」
 羽流矢が、忍面の下で低く笑う。
 虚勢なのか、本音なのか、挑発なのか。その真意を測りかねて、長外套が苛立たしげに地面を踏みしめる。
「良かろう。貴様等の作戦に乗ってやる」
 長外套は吠え、周りを固める吸血鬼とグール達に、砂利道を指し示した。
「行け。押し包んで、我らが同胞としてやれ」
 作務衣や甚平姿のグール達が、一斉に動きだした。
 足をもつれさせた子供や老人を踏み潰しながら、傾斜のついた砂利道を、グールが駆け下りていく。呼応し、北の斜面で棒立ちになっていたグール達が進軍を始めた。
 死闘の火蓋が切られた。




 清顕が岩から舞い降り、側に立てかけていた棍を爪先で蹴り上げて宙で掴み取った。
 岩陰から飛び出したグールの腐った右肩を砕き、貫く。下端を跳ね上げ、振り向いた顎を叩き割る。額の前で回して遠心力を付け、鋭い爪を振り下ろした老女のグールの右腰を砕く。反転して地面に突き刺し、棒高跳びの要領で宙へ舞い上がる。
 青年のグールが空を掴み、地面に倒れ込んだ。清顕は青年の胸を踏み抜きながら、両手で棍を振り下ろす。空中で多節棍に分解された「土鬼」が唸りを上げ、子供の頭を一撃で叩き潰した。
「‥‥ごめんよ」
 痛ましげに呟く清顕の手が翻り、腐った肉と体液に塗れた棍が一瞬にして元の棒状に戻った。
 刹那、清顕の側に肉塊が落下し、次いで日光を背負って黒ずくめの人影が音もなく砂利の上へ降り立つ。
「お待たせ」
 斜面から駆け戻り、岩を跳び渡ってきた羽流矢だった。岩をよじ登っていたグールの足を、すれ違いざま忍刀で薙ぎ払ったものらしい。
 清顕に腰を砕かれた老女が、羽流矢の足に噛みつく。その頸椎に忍刀の鋒を叩き込み、尖った男の爪を肩の動きだけで弾く。すれ違いざまその胴を斬り裂き、後方から延髄に忍刀を突き込む。
 右足の力を抜き、左踵で地表すれすれを薙いで後背のグールの膝を払う。忍刀を逆手に握り直し、上半身を戻しながら靠撃の要領でグールの胸に鋒を叩き込む。
「少し戦い方が変わったな、羽流矢さん」
 子供や老人のグールを、当たり所が良ければ一撃で、大人のグールでも二撃で、変幻自在の棍捌きを見せて打ち倒しながら、清顕が呟く。
「そう、かな」
 少なからぬ裂傷と噛み傷を負い、羽流矢が唸るように答える。一度でもしがみつかれれば、あっと言う間に雲霞の如きグール達に押し包まれるだろう。
 刹那、日の光よりも暖かい、香りのたつような光が辺り一帯を包み込んだ。光を浴びた二人の表情が緩み、肩の力が抜ける。
「光の範囲から離れないようにお願いします‥‥」
 霞澄の掲げた榊が放った、閃癒の光だった。グール達には何の影響も与えず、その場にいた開拓者の傷だけが跡も残さずに消え去る。胸を二つに割られていても、この光一つで治るのではとさえ思わせる治癒力だ。
「これ、行けるんじゃねーか」
 北の斜面で退路を確保しながらも、薄すぎる防御ゆえに早くも血塗れとなっていた琥珀が笑う。
 大きく足を開き、左手を地に突き、右手一本を背中の殲刀「朱天」の柄に掛けた琥珀は、叢に潜み獲物を狙う虎のようだ。
 左足が下生えを地面ごと抉り、琥珀の身体を跳躍させる。雷光の如く抜き放たれた朱天は長着ごと男の胸を深々と断ち割り、返す刀が両腿を斬り裂いた。
 それでもなお腕を動かす男の顔面が、宙を舞う闇の一撫でに斬り裂かれる。
 熾弦の黒夜布だった。
 半身に構えた熾弦の腕が、前方へ伸びる。腕に絡まった布が、蛇の如くそれに従う。布が伸びきる直前に熾弦の身体が回転し、腕を天へ突き上げた。引き戻される布は刃の鋭さでグールの表皮を斬り裂き、弧を描いて空を目指す。
 高下駄が砂利を蹴り、紺青の神衣が宙を舞う。野兎の如く跳躍した熾弦の腕の延長となった黒夜布が円を描く。その軌道に沿って、グール達の体液が飛び散った。
 熾弦とて非力ではないが、グールも打たれ強さだけは尋常でなかった。熾弦に大した傷を負わせることはできずとも、一度や二度の攻撃では倒れない。
 熾弦に追いすがったグールの顔がかち上げられ、後頭部から地面に叩きつけられた。
 自らの身長よりも高い位置へ飛び膝蹴りを見舞ったマハが、翼と尾で姿勢を保ちながら着地する。
「ありがとう」
 熾弦が視線を前方へ向けたまま声を掛けた。マハは答えずに尾を振るって遠心力をつけ、振り向きざまの横打ちでグールの肘を砕く。大きく踏み込み、がら空きになった脇腹に渾身の順突きが突き刺さった。
 見る間に数を減じていくグール達の戦い振りを見て、長外套が細剣を振るう。
「戦力を出し惜しみして数を削られるなど下策。進め」
 長外套の周りを固めていた配下達が一斉に動き始めた。




 既にグール達はその数を半減させていた。その一方開拓者達はと言えば、運良くグールが鎧の隙間を突いた所で、霞澄の放つ閃癒一つで傷を完治させ戦いを再開している。
 屍狼達が、涎を垂らしながら斜面を駆け戻ってくる。どうやら、本当に「本隊」はどこにもいないようだ。
「かくも呆れ果てた者共が、世にいようとはな」
 長外套が唸る。
 開拓者達の戦い振りを目の当たりにした長外套は、羽流矢の嘯いた言葉がただの挑発や虚勢の類でない事に気付かざるを得なかった。そしてこの六名の人間達が、何の援護も無しに数十倍の敵に立ち向かおうとしている事にも。
「来たか」
 グールの緩慢な動きに慣れていた羽流矢は、前線に出てきた吸血鬼達の動きに対応しきれず、鋭い爪を鎧の隙間にねじ込まれた。
 羽流矢の左肘が吸血鬼の右肘を叩き落とし、左手の「蝮」が空いた首筋へ食らいついた。引き抜いた蝮を右手へ持ち替え、振り回す左手に腕を刺されながらも胸を貫き通す。倒れた吸血鬼に目もくれず、左腕に齧り付く吸血鬼の胸に「蝮」を突き立てる。
「精霊さん‥‥みんなの傷を癒して‥‥!」
 霞澄の投げ掛ける暖かい光が、全ての傷を瞬く間に癒しきった。
 刹那、羽流矢の右腕に衝撃が走った。清顕の自在棍が当たったのだ。多節に分かれた棍は羽流矢の身体を軸に急激に回転し、その眼前に立つ吸血鬼の頬を叩き割るや、瞬き一つする間に棒状に戻り清顕の前の空間を薙ぎ払う。
 手の空いた羽流矢は眼前の吸血鬼から目を切らず、後方へ一歩飛び退るや真上へ忍刀を突き上げた。その右腕に重い衝撃が走り、鋭い爪が羽流矢の頬を抉った。
 腐臭を放つ体液が羽流矢の身体へ降り注ぐ。忍刀を振り下ろすと、清顕目掛け岩から飛び降りざまに身体を貫かれた吸血鬼が地面に叩きつけられる。
「下がりましょう、三方向から囲まれるのは得策ではありません‥‥!」
 霞澄が幾度目になるかも判らない閃癒の光を放ち、砂利道から斜面を駆け上がり始める。
 爆音が上がった。
 熾弦が、北の斜面で焙烙玉が破裂させたのだ。板状に崩れた岩が斜面へ倒れ込み、その眼前にいた二体のグールが押し潰される。
「まだ爆薬を残していたか」
 長外套が舌を巻く。
「中央の部隊、バリケードに近付くな。敵が退き始めた、そこも爆破されるやも知れん」
 長外套の慌ただしい指示を聞いて微かに笑みを浮かべ、熾弦は腐臭を放つ体液を吸ってずっしりと重くなり始めた黒夜布を大きく振るった。水分が空中へと弾け散り、布が軽さと鋭さを取り戻す。
 その隙に合わせ、マハの両翼が草の海を掻き分けて突進した。三丈ほどの疾駆を経て翼が天を指し、風を受けて急停止の一助となる。
「流石にこの数を減らすのは面倒だな」
 神布を巻いたマハの右拳が額の上へ、深靴を履いた左足が膝の横へ掲げられる。右拳が左掌へ叩きつけられ、左足が足下の砂利を踏み砕いた。大気が渦巻き、全身から放射された練力が地面に同心円状の波紋を生む。
 一刹那遅れて辺りの砂利が上空へと吹き上がり、グール達が衝撃波に骨を砕かれ、斜面に崩れ落ちた。
「そしてここに集まったのは‥‥」
 荒い息をつきながらも大きく右足を踏み出し、全体重を掛けた右掌打を吸血鬼の胸に叩き込む。既に身体が腐りきっていた吸血鬼は胸郭に巨大な穴を開け、その場に崩れ落ちて動かなくなった。
 抱きついてくる吸血鬼の手を跳躍して躱し、天へ突き上げた右足をその後頭部へ叩き込む。着地し、よろめいた吸血鬼の首に渾身の貫手をねじ込む。指先にふれた頸骨を握り締め、力任せに引き抜く。
 その時、
「遅い」
 苛立った声を上げたのは、東の斜面から戦場を見下ろす長外套の吸血鬼だった。
「被害の大きい中央部隊に合流せよ。たかだか五、六人にいつまでも手こずってはおれん」
「まだ来んのかよ」
 血を失って蒼白となり息の上がり始めた琥珀が、刃毀れした朱天を背の鞘に納め、懐の竹筒を口に当てた。渇いた喉を、清冽な岩清水が癒していく。
 甲班が何をしたかは不明だが、部隊を分断していたようだ。二手に分かれていた別働隊が、今合流したものらしい。
 近付く女吸血鬼の顔面に、琥珀が残った岩清水を叩きつけて後方へ跳ぶ。着地と同時に、岩陰へ隠していた物見槍を踵で跳ね上げ、空中で掴み取った。
 攻防ともに動きの大きい刀から、最小限の動きで戦える槍へと切り替えたのだ。
「グールの大半は倒したけど、ね」
 既に腕の動きも鈍り始めている熾弦が、小さく腕を振るった。黒夜布が地を這い、下生えと共に吸血鬼の足を切り飛ばす。
 水分を吸って重くなった布を敵に掴まれぬよう、渾身の力で振るい続けるだけでも、熾弦の体力は消耗を強いられていた。霞澄の閃癒を浴びながら後方へ跳躍し、琥珀の隣を守る。
 その脇を、藍鉄の風が走り抜けた。
 琥珀と熾弦が退いてできた空間に、マハが頭から飛び込んだ。粘性を帯びた黒い血を垂らして押し寄せる吸血鬼の群れが、反射的に足を止める。
 マハの震脚が地面に練力の衝撃波を叩き込み、土と下生えが間欠泉のように吹き上がった。
「どうした? 数で押し寄せて来たんだろう?」
 血と汗にまみれながら、マハは地を蹴った反動で後方へと宙返りをし、瞬き一つする間に敵の前から離脱していく。
「ほら、私だけが敵だと思うな?」
 それを追おうとした吸血鬼の右胸が、消滅した。
「少しですが、休んでいて下さい‥‥!」
 斜面を駆け上がった霞澄が、榊の杖を両腕で胸に抱いていた。
「精霊さん、力を貸して‥‥」
 時季外れの蛍を思わせる淡い光が、地表から無数に浮かび上がっている。それらは見る間に霞澄の周りに集まり、無数の光弾に変わった。
 瞬き一つの間に爆縮された光弾が、光線となって吸血鬼の腹を一撃で消し飛ばす。
「やるね、霞澄さん」
 自在棍の宝珠に念を送りすぎ、頭痛の始まっていた清顕が、滝のような汗を腕で拭う。
 回復の手を攻撃に回した霞澄の白霊弾が、見る間に下級の吸血鬼を地面に薙ぎ倒し始めた。
 目を灼かんばかりの眩い光線が、霞澄の左右と頭上の三点から立て続けに斉射される。瘴気に染まった肉体は、その光に触れただけで鋭利な刃物に斬られたかの如く滑らかな断面を見せて消滅した。
 長外套が細剣を振るい、砂利道に残っている吸血鬼達を開拓者にけしかけるまでに、両手に余る吸血鬼が頭や胸を撃ち抜かれて地面に転がっていた。
 グールがほぼ殲滅され、下級の吸血鬼も半分以上その数を減じている。長外套の顔が引き攣り始めていた。鉱道を出た時は三百を超えていた配下達が、今や半分も残っていない。
「出るぞ! 我が子等よ、続け! 南部隊は鉱道へ戻れ、主の守りを手薄にするな!」




 唸りを上げ、琥珀の物見槍が吸血鬼の膝裏を掬い上げた。体勢を崩した吸血鬼所へ、マハが五指を一点に集めた右手を背に突き込む。
 指を根元まで肋間に突き込んだまま、マハの虹彩が爬虫類のそれのように細められた。
 気の塊が炸裂し、吸血鬼が胸に穴を開けて膝をつく。間髪入れず、猫のように姿勢を低くした琥珀の物見槍がその腹を貫き、頭上で一回転した穂先が喉笛を斬り裂いた。
 物見槍が斜面に突き刺さり、琥珀の左手が閃いた。抜く手も見せぬ一太刀が真円を描き、物見槍を迂回して伸びた吸血鬼の手首を宙に撥ね飛ばす。
 ここまで温存していたもう一口の刀「青嵐」が、血糊一つついていない刀身に陽光を映した。
 その背中に、猛然と吸血鬼が飛び乗った。大きく開いた口が琥珀の右肩に噛みつき、筋肉を食い破る。続けざまに開いた口から、銀色の舌が伸びた。
 羽流矢の忍刀だった。延髄から口へと貫いた忍刀を引き抜くと、吸血鬼が琥珀の背から転げ落ちる。同時に、二体の吸血鬼が羽流矢の手足に取り付いた。
 脚にしがみついた吸血鬼が、脛に深々と牙を突き立てる。腕と肩を掴んだ吸血鬼が上腕に噛みつこうとし、上顎を限界以上に開いた。
 清顕の自在棍が、猿ぐつわのように吸血鬼の口に噛まされているのだった。
 棍の両端を渾身の力で引きながら、清顕は左足を吸血鬼の後頭部に叩き込んだ。異音と共に吸血鬼の顎が外れ、その身体が左足に高々と掲げられる。その脳天が清顕の頭を越えて一回転し、地面に叩きつけられた。
 足にしがみついた残る吸血鬼の開いた口に忍刀を突き込み、羽流矢は血みどろの身体を地面に投げ出す。
 身体を起こした吸血鬼の身体に、緑色の塊がのし掛かる。
 木が、のし掛かったのだった。熾弦が術で空間を歪め、予め切り込みを入れておいた木の幹をへし折っていた。
 熾弦が疲労で鉛のように重くなった腕を振り上げ、渾身の力を込めて後方へ振り抜く。切れ味もとうに鈍った黒夜布が、打ち倒された吸血鬼の頸動脈を引き裂いて主の手元へ戻っていく。
 紺青の神衣が、ゆっくりと回転しながら倒れ込んだ。吸血鬼の腕が空を切る。肩が地に触れるよりも早く左手が身体を支え、右手が地を打ち据えて、ばね仕掛けの人形のごとく熾弦の身体が斜面に起き上がった。
「霞澄、あとどれくらい、回復できそう」
 喉から笛のような音を立てながら荒い息をつき、熾弦が黒夜布で吸血鬼を打ち据える。
「まだ‥‥十回は行けます‥‥」
 立て続けに手裏剣を打ちながら、白い肌にびっしりと珠のような汗を浮かべ、霞澄が答える。
 動きの鋭い吸血鬼は両手足の指に余るほど残っている。下級の吸血鬼もほぼ同数というところだ。
 その時、顔を上げた羽流矢の視界の奥に、ジルベリアのものと思しき丈の長い外套が見え隠れし始めた。
 距離にして、たった七丈足らずだ。だが、その前に居並ぶ吸血鬼の群れが、鉛のように重い身体には絶望的な数に映る。
 その時だった。羽流矢の頭上を越えて、二つの白球が吸血鬼の群れへと飛び込んでいった。
 一秒。二秒。爆音と共に吸血鬼の群れが炎に包まれ、二方向から炸裂した無数の鉄菱が空中でぶつかりあって火花を散らす。
 ここまで温存していた、霞澄の焙烙玉だ。
「羽流矢さん、背中は任せた!」
 清顕が叫び、自在棍を地面に叩きつけた。身の丈五尺強の吸血鬼達の頭上を越え、身の丈六尺を越える黒衣の長身が吸血鬼の群れのど真ん中に降り立つ。
「俺はこの世に未練ができた」
 清顕の背を追うようにして動いていた風が、俄に勢いを増した。飛び掛かり、噛みつこうとする吸血鬼達がたたらを踏む。
「あんたたちの仲間になるわけにはいかないね」
 自在棍が、清顕の身体に巻き付く。渦を巻く暴風に混ざって、不可視の刃が空間を粉微塵にせんと荒れ狂いだした。無色透明だった竜巻が、見る間に黒く濁った血の色に染め上げられていく。
 数秒の時を経て、球状の竜巻は止むどころか勢いを増した。
「霞澄さん、頼む!」
 黒く濁った竜巻に、銀色の煌めきが混じり始めていた。力を失い始めた清顕の竜巻を、羽流矢が引き取っていた。清顕をも巻き込んで敵を薙ぎ倒す気だと気付いた霞澄が、竜巻に向かって閃癒の光を放つ。
 その竜巻に、迷わず飛び込む小さな影があった。地を蹴って宙で身体を丸めたマハが、翼を畳んで守りを固めた背中から、走り高跳びの要領で突っ込んでいく。
 竜巻に身体を斬り刻まれながら身体を捻り、高々と掲げた左足を、地面に叩きつける。
 眼前に立つ清顕と羽流矢を残し、斜面の土が衝撃波を受けて吸血鬼もろとも一丈ほども吹き上がった。降り注ぐ土と吸血鬼が、続く右足による渾身の崩震脚で、再度一丈ほど吹き飛ばされる。
 さながら、足を踏み鳴らす破壊神の舞踏だ。
 血煙と土煙が入り交じる中を、琥珀と熾弦が突進した。
「小賢しい」
 長外套は細剣と短剣を両手に構え、土煙を突っ切って飛び出してきた二人を迎え撃った。
 細剣が腰溜めに構えられ、直後、左の短剣が突き出された。琥珀の首から鮮血が溢れ出す。続けて突き出された細剣が弧を描き、琥珀の両頬骨を結ぶようにして血が噴き出した。
 が、続けて突き出されようとした短剣が一筋の闇に絡め取られた。黒い血と体液を吸って重くなった、熾弦の黒夜布だった。
 琥珀の青嵐が袈裟懸けに真円を描いた。受け流し損ねた長外套の手甲が火花を散らし、手首から血飛沫が上がる。熾弦の手が渾身の力で引かれ、布が長外套の左手首を二寸ほども斬り裂いた。
 霞澄の発する光が、またしても開拓者達の傷を完治させる。
 土煙の中から、清顕の自在棍が唸りを上げて長外套の顔面を襲った。とっさに屈んだ長外套の金髪を掠め、棍は斜面に残る木に絡みついた。すぐさま伸び上がりながら、長外套の細剣が熾弦の耳を貫く。後方へ身体を反った細い腰には、左の短剣が突き刺さった。
 怒濤の勢いで繰り出される細剣が熾弦の白い喉を貫くより早く、後方で人ならぬ悲鳴が上がった。間髪入れず、黒く巨大な影が長外套の背中にもたれかかる。
 悲鳴は、木の幹の折れる音だった。羽流矢が切れ込みを入れてあった木を、清顕が自在棍で引き倒したのだ。細剣は敢えなく狙いを外し、空を切る。
 地面を転がって木の下から逃れた長外套の下腹部を、天から降る針の如き細い閃光が撃ち抜いた。
 霞澄が高々と掲げた榊の杖に、同色の光の塊が宿っている。
 その銀色の瞳が、長外套の両手に吸い寄せられる。琥珀と熾弦のつけた傷が、塞がっていた。
「再生能力を、持っているようです‥‥一気に‥‥!」
「さもありなん、ね」
 荒い息と共に呟く熾弦の親指と中指が、軽く乾いた音を立てる。
 空間と重力が、歪んだ。
 長外套の右足が異様な方向にひしゃげ、鈍く濡れた音を発した。
 身体を支えられず膝をついた長外套の背中が、異音と共に宙へ持ち上がった。
 地面に三寸ほども右足をめり込ませたマハの、破城槌の如き順突きだった。マハは神布を巻いた右拳を左手で握り、両翼を前方へ打ち下ろしながら、全体重を掛けた両手を長外套の後頭部に叩き込む。
 顔から地面に突っ込んだ長外套の全身が、突如破裂した。長外套が姿を変えた無数の蝙蝠は、その場を逃れようと宙へ舞い上がる。
「お誂え向きじゃないか」
 清顕の手首が翻る。池へ飛び込む蛙の如く、自在棍の先端が地面へと潜り込んだ。清顕の全身から立ち上る練力が、導火線のように自在棍を伝って地面へ消える。
 鈍く重い音を上げ、無数の蝙蝠達が爆炎に包まれた。
 全身を炎上させ、人間には聞き取れない悲鳴を上げて蝙蝠達が西へ逃げようと皮膜の翼を打ち下ろす。その眼前を、銀色の羽毛が横切った。
 忍刀の柄を口に咥え、羽流矢が両手で印を結んでいた。その全身から舞い上がった羽毛の数々が、両手の結ぶ印を中心に激しく渦巻き始める。
 羽毛の渦に巻き込まれた蝙蝠達が、血飛沫を上げて集まり始めた。血煙の中から姿を現した長外套が、足をもつれさせながら斜面を下っていく。
 その額から、血が噴き出した。
 榊を前に翳した霞澄の白霊弾に後頭部を撃ち抜かれ、長外套が、次いで辺りで動き回っていた吸血鬼達が、ゆっくりと倒れ伏した。




「あ〜疲れた‥‥」
 全身で息をしていた琥珀は、周りに動く姿が無くなった事を確かめる暇もなく、地面に仰向けに倒れ込んだ。
「みんな生きてっか〜?」
「何とか‥‥」
 岩に寄りかかるようにして座り込んだ羽流矢が、血と体液で濡れた手拭いごと忍面をかなぐり捨て、貪るように新鮮な空気を吸い込んでいる。
 その隣に屈み込んだ清顕が、空を見上げて深呼吸をする。
「羽流矢さん、その水筒の中身、貰えないか‥‥」
「ああ、ご免‥‥これ、油」
 腰の水筒を摘み上げ、羽流矢は濁った呼吸音の中で苦労して声を出す。
「碌に、弔ってもやれない‥‥なら、と思って‥‥ただ、下生えに、引火すると‥‥それに、火種も‥‥」
「ああ‥‥そうか‥‥」
 辿々しい羽流矢の言葉に、清顕は頭を岩に預けて目を閉じた。
「さて」
 額を膝に当てて休んでいたマハが、顔を上げた。
「鉱道へ戻った吸血鬼どもが気になる。‥‥丙班の脱出路を確保しておきたいが」
 言いながら立ち上がったマハが、尻餅をついた。
 眉をひそめて再度立ち上がろうとし、今度は斜面の傾斜に耐えられず前方に手をついてしまう。
「走っていた距離は、マハが一番多いんだから。無茶しないで」
 両手指を血豆だらけにし、肩から指先まで一寸たりとも動かせない熾弦が、仰向けで両手を左右に投げ出したまま声を掛ける。
 一行の身体に、今一度、太陽よりも暖かく柔らかい光が投げ掛けられる。
「少し休んだら‥‥羽流矢さん、油をお借りできますか‥‥」
 開拓者数人分の練力を一人で使い、元々白い肌を蒼白にした霞澄が、羽流矢に声を掛ける。
「ああ‥‥いいよ」
「すみません‥‥」
 霞澄はふらつく足で立ち上がり、動かなくなった骸の一つに歩み寄った。
「遅くなってごめんなさい‥‥」
 その手が、斜面に倒れ伏し、濁った瞳を見せたまま動かなくなった女性の目を、そっと閉じる。
「せめて、安らかな眠りを‥‥」