三下脱兎
マスター名:村木 采
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: やや易
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/08/28 22:33



■オープニング本文


 縁側の柱に取り付いた熊蝉が、賑やかな鳴き声を上げている。
 ここは武天、侠客の町三倉。空には雲一つなく、表では氷売りが捨て鉢気味に声を張り上げていた。
「ここんとこ、瀧華の連中がやたらちょっかい掛けてきやがる」
 黙っていても額に汗の噴き出る昼日中、羽織袴で畳に胡座をかいた老神威人は、井戸水で冷やした冷茶を啜る。
 町を二分して争う侠客一家の一つ、永徳一家で参謀を務める岸田仁兵衛だ。
「元々人手の足りねえ事ぁあったんだが、今じゃ猫の手も借りてえ状況でねえ」
「‥‥で、俺かよ!」
 怒りに拳を震わせ、男が唸る。
「おう。今までの事はそっくり水に流して、一家に入れてやろうってんだ。良い話だろ」
 仁兵衛はけろりと答える。
「なあ、三下さんよ」
「三下じゃねえ! 三枝だ!」
 声を掛けられた男、三下こと三枝只蔵が怒鳴る。
「お、俺ぁその瀧華の人間だぞ!」
「そう固い事を言うない、今日からは永徳の人間じゃあねえか」
 仁兵衛は朗らかに笑った。
 三下が思い切り畳を殴り、盆の上の湯呑みが僅かに揺れる。
「勝手に決めんじゃねえ!」
「まあ、聞きねえ。お前さんがあたし達の仲間になるってんなら、二から九まで八人しかいねえ、数字を冠した名前をくれてやってもいい」
「む」
 心が動いたか、三下は一瞬動きを止め、口を噤む。
「たった八人のうちの一人だ。その名前一つありゃあ、少なくとも永徳の縄張りじゃ肩で風切って歩けるってえもんだ。もちろん、堅気に迷惑は掛けねえってえ鉄の掟は守ってもらうがねえ」
「‥‥冗談じゃねえ、そんな餌一つでうちの親分を裏切れるか」
 手の中で冷たい湯呑みを回しながら、仁兵衛が満足げに頷く。
「なかなか根性があるじゃあねえか」
「当たりめえだ! 俺ぁな、一匹の男として‥‥」
「お前さんの恋人が何をしても構わねえってんなら、止めやしないがねえ」
 三下の動きが再び止まった。
 仁兵衛はアヤカシも裸足で逃げ出す邪悪な笑みを浮かべ、湯呑みの乗った盆を三下の前へ滑らせる。
「近頃随分よろしくやってるそうじゃあねえか。楓『さん』、いや楓君と」
 死人のように青い顔をした三下に、仁兵衛は軽く手を振って見せた。
 楓とは、昨今すっかり三下の「恋人」として定着しつつある、外見だけはどう見ても愛らしい女性という、「男」だ。
「いやいや、勘違いしちゃあいけねえよ? あたし達ぁ楓君に何もしてねえし、これからだってしねえ。が、楓君が瀧華の縄張りで何を吹いて回ろうが、そりゃあおめえ達二人の問題だ。なあ」
「て、てめえら、一体何を」
「なあに、先だって瀧華の縄張りに顔を出す用事があってねえ。その時に楓君から相談を持ちかけられたと、こういうわけで」
 仁兵衛は喉の奥で笑う。蒼白になった三下が、震える手で湯呑みを握り締める。
「何でてめえに、楓が相談すんでえ!」
「そりゃあおめえ、先だって楓君が攫われた時に手を貸したのぁあたしだ。面識の一つや二つあったっておかしかねえだろう」
 笑いを堪える仁兵衛が、苦労しながら冷茶を啜る。
「布団の中と外で‥‥くっくっく、無理もねえが、随分態度が違うそうで‥‥」
 堪えきれず、仁兵衛は大笑いを始めた。三下は勢いよく湯呑みを盆に叩きつけた。
「お、俺ぁ帰る! 誰がてめえらなんぞに力を‥‥」
「もう瀧華の縄張り中におめえの事は知れ渡ってんだろうがねえ」
 中腰になった三下の動きが、三度止まる。
 血の気を失った顔で、仁兵衛の顔色を窺う。
「な、何で?」
「外で楓君に突っ慳貪にすんのぁ、男同士で仲睦まじくしてると知られたくねえからだろうと、こう言っておいたんでねえ」
 三下が、訝しげに眉をひそめる。
「何でそれで、楓の野郎が‥‥」
「逆に、すっかり知られちまえば何も恥じることはあんめえが、と一言付け加えといた」
「て、て、て、て、めえ! 何余計な事言ってやがんだ!」
 青から赤へと顔色を変え、三下は仁兵衛に掴みかかった。
 が、その襟首を掴む前に親指を掴まれ、三下の身体は投石機でも使ったかのように宙を舞って縁側に転がる。
「まあまあ、あたし達の縄張りに越して来りゃあいいじゃねえか」
 空いた左手で冷茶をすすりながら、仁兵衛がにっこりと笑う。
「永徳の衆はその辺寛容だ。な」
「こ、こんちくしょう、ふざけやがって、誰が‥‥」
 僅かに目に涙を浮かべ、三下は庭へ転がり出ると、一目散に駆け出した。




「仁兵衛さん」
 一家の志体持ち、弥勒が仁兵衛の屋敷の戸を勢いよく引き開けた。
「あの腰抜け、どうも家中の金目の物まとめてやがるようですぜ。楓とかいう女男もすっかりその気だ」
「ほう、そうかい」
 仁兵衛は何ら驚く様子も見せず、文机に向かって何やら書き物をしている。
「馬でも盗んだかい」
「それでさあ。しかも、よりによって瀧華一家の飼ってる霊騎を盗みやがりましたぜ」
 弥勒は、伸び放題で獅子の鬣のようになったがりがりと頭を掻き回した。途端、雲脂が雪のように長着の肩へ落ちる。
「まさか二人で駆け落ちするとぁ思いませんでしたぜ、俺ぁ」
「なあに。町さえ出ちまえば、後ぁ撒くなり何なりする気だろうよ」
「ああ、それでか」
 弥勒は何やら納得した顔で顎を上へ向ける。
「何でえ」
 仁兵衛が文机から顔を上げた。
「耳栓を用意してやがったんです。騙されてるぞって追っ手の声を聞かせねえためか、逃げ切った後に撒くためじゃねえですか」
「そうかい、ちったあ考えてるようじゃあねえか」
 仁兵衛は呟き、文机の紙に何やら書き加える。
 弥勒は納得の行かない顔で、肩から落ちた雲脂を足で掃き集める。
「別に俺は構わねえですが、あんな奴、本当に使うんですか」
「まあ、そう言うない。今は一人でも手駒が欲しいとこじゃあねえか」
「そりゃ、そうですが‥‥あれ。仁兵衛さん、風螺はどうしたんで」
「ん」
 弥勒に言われ、仁兵衛は蝉の鳴き声に満ちる庭に目を転じた。
 いつも暑さをしのぐため池に浮かんでいるもふらが、今日に限って庭にいない。自分の食い扶持を稼ぐために縄張りの店で客の呼び込みを手伝うこともあるが、こんな日の高い内に出歩くことは珍しい。
 仁兵衛は腕を組み、視線を泳がせる。
「そういやあ、昨夜から帰ってねえような」
「ねえようなって、仁兵衛さんが飼ってるもふらじゃねえですか」
「飼ってるんじゃねえ、勝手に居候してやがるんだ」
 言いつつ、仁兵衛は顎を摘んで鼻を鳴らす。
「しかしまあ、言われてみりゃあ妙だねえ。まさか‥‥」


■参加者一覧
キース・グレイン(ia1248
25歳・女・シ
宿奈 芳純(ia9695
25歳・男・陰
サフィリーン(ib6756
15歳・女・ジ
烏丸 琴音(ib6802
10歳・女・陰
イーラ(ib7620
28歳・男・砂
ゼス=R=御凪(ib8732
23歳・女・砲


■リプレイ本文


 月は沈み、雲一つない夜空には数多の星が煌めいていた。穏やかな風が、低空を舞う鷲獅鳥の羽毛と紅色の獣羽織を撫でていく。
 辺りには、遮るもののほとんどない湿原が広がっている。まばらに見える水面には、煌めく星と鷲獅鳥の騎影が映っていた。
 細い木道の側で泥に半身を沈め、天然の迷彩となった傷だらけの鱗を持つ甲龍が、心地よさそうに目を閉じている。
「グレイブ‥‥寝ててもいいが、その時になったら起きて貰うからな」
 主の声が聞こえているのかいないのか、甲龍のグレイブは鼻から大きく息を吐き出す。
 袖無しの服に陣羽織を重ねた短髪の人物、キース・グレイン(ia1248)が龍の身体に背中を預け、湿地から突き出した岩に立っていた。
「野郎同士の駆落ちか‥‥」
 鷲獅鳥、繊月の背に跨り、金色の髪にターバンを巻きながら、全長八尺近い魔槍砲を抱えたエルフ、イーラ(ib7620)が苦笑混じりに呟いた。
「三枝だったか‥‥俺としては、どこへ行こうが奴の勝手ではあると思うが」
 キースの言葉に、イーラは自分に言い聞かせるように答えた。
「や、俺も人様の趣味をどうこう言うつもりはねぇよ。こういうのは人それぞれだよなぁ、うん、多分」
 言いつつ、その声は笑っている。
 キースは腕を組み、すぐ上をゆったりと滑空する鷲獅鳥を見上げた。
「‥‥しかし、色恋沙汰なんざどこに行こうがそのうち知れるものだろう。少なくとも、楓の認識を正さない限り同じことが起きそうなものだが‥‥」
 イーラを乗せた繊月は、ゆっくりと旋回して徐々に高度を上げていく。
「だよなぁ。ま、何にせよもふ質は頂けねぇし、依頼は依頼だ」
 イーラは、気楽に肩を竦めた。
「ま、俺達の仕事は、三下がここまで来ちまったらってやつで。その前に仲間に捕まってりゃ用無し、楽させてもらってありがてぇって話だな」




 満天の星空に、騎影が一つ。白銀の縁取りがされた暗色のコートにアル=カマルの上着を重ね、ゴーグルで顔の上部を覆った白皙の砲術士、ゼス=M=ヘロージオ(ib8732)だ。
 駿龍の背に跨り、青緑に塗られたロングマスケットの銃口に火薬を流し込みながら溜息をつく。
「‥‥逃げ出す気持ちはわからなくもないが」
 呟き、槊杖を銃口から入れて火薬を突き固める。
「あいつにとっては色々と災難だったということか」
 暗闇の道を明かりも点けず、のろのろと進んでいた二騎が、クレーストの咥えた松明に気付いたか、やおら明かりを点けて駆け出した。
 ゼスは懐から銀の懐中時計を取り出し、松明の明かりで時間を確かめる。
「丑三つ時。間違いなさそうだな」
 呟き、顔を三倉の町へ向ける。
 と、二騎の明かりに気付き、夜闇の中を追い上げてくる霊騎があった。
 烏帽子を合わせて八尺にもなる長身を狩衣に包んだ男、宿奈芳純(ia9695)だ。明かりを点けないまま稼いでいだ距離が、縮まっていく。
 クレーストが翼を畳み、一条の矢となって三下達の前へと飛び出した。地表から高さ一丈の所で翼を広げるや、皮膜が風を捉え、巨体が地表すれすれを滑空し始める。
 右の鐙に体重を掛けたゼスが、後方を走る楓の霊騎に銃口を向けた。
「たとえ志体持ちであろうと、その行為で大怪我をされては困る。綺麗な顔に傷が付く事はお前としても嫌だろう?」
「何を言ってるか解りませんけれど‥‥」
 暗闇の中、松明の逆光を背負うゼスが女性と気付かぬまま、楓はにっこりと笑い掌を突き出した。
「只蔵さん以外の殿方の言うことに聞く耳は持ちませんわ」
 その掌から、凝縮された気が放射された。本能的に危機を察したか、クレーストが首をもたげて翼を立て、字義通り風に乗って急浮上する。
 気功掌は誰もいない空間へ消えたが、空撃砲もまた明後日の方角へ外れた。
「宿奈。あのもふらが人質のもふらか?」
 ゼスが、先行する三下の鞍の後ろを指差した。
 そこには、
「もう、食べられねえもふ‥‥旦那こそ食えもふ‥‥」
 簀巻きにされたまま幸せそうな寝言を漏らす風螺が括り付けられていた。
「間違いありません」
 芳純が頷く。と、その名を聞いた三下が目を剥き、後ろを振り向いて仰天した。
「す、すく‥‥な、何でまたお前が来るんだよ!」
「そう言われましても」
 鶴を象った面をしているが、その異形の長身と涼やかな声、穏やかな話し方は見間違えようもない。
 三騎が竹藪へ突入し、ゼスは微かに眉をひそめた。藪の中にいる間は、空から手が出しづらい。
「霊騎が盗まれたとあっては、町から出ても瀧華は執念深く追ってきますよ」
 越影に拍車を掛けながら、芳純が声を掛ける。
「知るか! お、お、おめえにもな、散々酷い目に‥‥そりゃいい刀貰って感謝しちゃいるが、それにいい忠告もしてもらったし‥‥」
 何やらいい思い出が脳裏を過ぎったのか、三下が口籠もる。
 二頭の間は、最早二丈もない。
「どうです。文句は後で幾らでも聞きますので、ご同行願えませんか」
「それは嫌だ!」
 三下はわめき、「鍋木」を投げつけた。芳純は片手で易々とそれを払い落とす。
 と、芳純を挟む形で追い上げてきた楓が左掌を突き出した。
「只蔵さん、鞍に伏せて下さいな」
 楓の左掌から猛然と気の塊が放射された。越影が瞬時に騎首を傾けて進行方向を変え、その一撃を避ける。
 だが蛇行した越影は、二人から五丈ほども離されていた。
 芳純が鞍に差してあった符を一枚抜き、三下は霊騎に掛けていた袋から何やら取り出した。
「お前らさえ振り切っちまえば、後はどうとでもならあ!」
 怒鳴り、三下は取り出した物を真上に放り上げた。
 それは、白い球体だった。赤く小さな光を放ちながら落下し、硬い音を発して地面に転がる。
 焙烙玉だ。
 同時に、芳純の手から符が一枚舞い上がった。符は回転しながら竹藪にわだかまる闇に溶け消え、瞬き一つの間に聳え立つ黒い壁となる。
 轟音が響き、驚いた越影が後足で立ち上がった。飛来する鉄菱が、芳純と越影の身体に食い込む。
 すぐさま芳純の手が越影の首に符を当て、治癒に掛かる。辛うじて壁への激突を免れた三下は、対照的に速度を落とすだけで壁を迂回した楓を追い駆け出した。
 越影の傷が軽い事を確かめ、芳純もまたすぐに馬腹を蹴った。




 赤瑪瑙色の翼が、夜風を切って緩やかに弧を描く。色鮮やかなドレスの裾がはためき、小麦色の耳から下がる金の輪が、鎖に擦れて微かな音を立てた。
「人を集めるのって大変なんだね」
 夜空に浮かび上がる銀髪が踊る。駿龍のミラが、サフィリーン(ib6756)の声に応えるかのように小さく唸った。
「でもまずは風螺ちゃんを助けなくちゃ。ミラ、頑張ろうね」
 眼下には、蛇行する道がうっすらと見えていた。
 遠く見える三倉のまばらな明かりに混じって、猛然と近付いてくる三つの明かりが見える。
 否、もう一つ。眼下の石仏に囲まれた空間を、薄緑色の淡い光がぼんやりと照らしている。
「只蔵さん」
 耳栓をした楓が声を上げ、前方の淡い光を指差した。
「ちっ、待ち伏せか」
 鬼気迫る形相で馬腹を蹴りながら、三下は歯噛みした。
「仕方ねえ、迂回するぞ」
 声を掛け、只蔵が僅かに騎首を傾けた。悪路を走るべく霊騎の足が練力を帯び、蛇行する道から僅かに外れる。耳栓をしている楓は、そのことに気付かない。
 明かりの三丈手前、半ば以上地面に同化するようにして斜めに立つ石仏の肩から、一本の糸が垂れ落ちた。瞬間、意図がまるで爆発したかのように膨張し、巨大な龍の頭の姿をなす。
 陰陽師の式、大龍符だ。
 突如現れた竜の姿に、霊騎が甲高い嘶きを上げて後肢で立ち上がった。恐慌に陥った霊騎は前肢と後肢を交互に跳ね上げ、楓を振り落とそうとする。
 大龍符の前に出なかった三下は、それでも驚き暴れる霊騎を宥めつつ、目を瞠った。
「アヤカシ!?」
 その視線の先には風にたなびく白い影と、その側に黒く蟠る闇があった。
 黒い闇はと言えば、身体を揺らして異様に短い足を小刻みに運び、半ば埋もれた石仏の間を蠢いている。
 長く上方へ伸びた首の付け根からは、紫黒の大きな瞳と白い肌が覗いていた。
 人の、それも整った少女の顔だ。
「‥‥きぐるみ‥‥?」
 三下が、瞬きを繰り返した。
「バレバレ〜、クスクス♪」
 白い外套を纏った人影、からくりの漣が乾いた機構音を漏らし、平板な声で肩を震わせた。
「ちゃんちゃらおかし〜♪」
 烏の着ぐるみを着て闇に溶け込んでいる小さな陰陽師、烏丸琴音(ib6802)とその相棒のからくり、漣だった。
 気まずい沈黙の後、三下は一瞬考え込み、大きく一つ頷いた。
「楓、お前の犠牲はもう忘れた!」
「あ、ちょっと、只蔵さん!?」
 馬腹を蹴り、三下が楓を捨てて走り始めた。
 楓はと言えば、乗っているのが見も知らぬ霊騎だ。上下前後に激しく振り回される内、楓の尻が鞍から徐々にずれていく。
 刹那、上空から風が叩きつけられ、下生えが大きく波打った。
 獲物を狙う隼の如く急降下してきた龍が、地面に激突する寸前で反転したのだ。
 竹藪を一足早く越え、先回りをしていたゼスだった。反転し速度が限界まで遅くなる瞬間に合わせ、ロングマスケットが火を噴く。
 空気の塊を叩きつけられ、楓の身体が宙に舞い上がった。か細い悲鳴を上げ、受け身を取りつつも背中から地面に叩きつけられる。
 一方、三下も無事に走り出す事はできずにいた。
「もふ!? ここはどこもふ!?」
 霊騎に揺られて目覚めたか、鞍に括り付けられた風螺が猛然と暴れ始めたのだ。
「風螺ちゃん返事してっお菓子あるよ〜っ」
 上空から、サフィリーンの声が響く。
「誰もふ!? 聞いたことある声もふ!?」
 低空を滑るミラの背から宝珠の留められた布が伸び、三下の顔を痛打した。
「あーん、惜しいっ」
 サフィリーンは手首を返してジプシークロースを手元へ戻し、口をへの字にした。地上から五尺ほど、一つ翼を打ち下ろせば地面に触れかねない高さを、ミラは器用に飛んでいる。
 芳純の駆る越影の馬蹄の音が近付いてきている。盛大に鼻血を流しながら、三下は渾身の力で簀巻きの風螺を締め上げた。
「ええい、畜生、大人しくしやがれってんだ」
「痛えもふ! 誰か助けもふ!」
 風螺が情けない悲鳴を上げる。
 だが風螺の「子分」を自称する琴音は、きっぱりと言い切った。
「親分、立派な親分は人を頼らないのです」
「あ、ああん!? だ、誰が頼ってるもふ!?」
 琴音の一言が風螺に火を点けた。首を無理に曲げて締め上げる手に噛みつき、三下が悲鳴を上げる。
「ど、どちくしょう、もう知るかってんだ」
 霊騎の上で、三下は貰い物の愛刀「泉水」を抜いた。
「風螺ちゃん!」
「親分、危ないのです」
 上空でサフィリーンが、地表で琴音が声を上げる。三下は迷わず縄を切り離し、風螺を放り捨てて逃げだした。
「風螺ちゃん、大丈夫?」
 遠ざかっていく三下はひとまず置き、ミラに着陸もさせないまま、サフィリーンが鞍から飛び降りた。
「うう、お菓子をくれるっていうからついて行ったのに、えれえ目に遭ったもふ‥‥」
 すり傷はあるものの、目立った汚れも大きな怪我も無い様子の風螺は、琴音に縄を解かれて地面にへばりついた。
「へにょ親分〜、クスクス♪」
 からくりの漣が、ジルベリア風のツインテールを揺らして笑う。
「な、何もふ、こいつは!?」
「新しいお友達なのです。悪気は無いのです」
 悪びれずに琴音が答える。
「琴音ちゃん。風螺ちゃん、毛が泥んこぺしゃんこになってない?」
 動けない楓を荒縄で簀巻きにしながら、サフィリーンが気遣わしげに後ろへ声を掛けた。
 息が詰まったか、動けない楓を縛り上げながら琴音が声を返す。
「大丈夫みたいなのです。親分と楓さんは私が見ておくのです」
「ん。じゃ、ちょっとみんなを手伝ってくるからね、風螺ちゃんも待っててねっ」
 言うが早いか、待ちかねていたかのように飛来したミラの足に捕まり、サフィリーンは遠ざかっていく三下を追って宙へ舞い上がった。




 熟睡しているかに見えたグレイブが、僅かに片目を開けた。
 幅一尺、普通の馬ならだく足でも進むのを恐れるであろう木道を、硬い音が猛進してくる。馬蹄の音がもう一つ、更に遠くから翼の音が聞こえてきた。
 組んだ腕を解き、キースは拳布を巻いた手でグレイブの首を叩いた。
「逃げ切ってやる! 絶対に、逃げ切ってやる!」
 絶叫しながら、涙と鼻血に塗れた三下が霊騎に拍車を掛けて疾走してくる。
 岩を蹴ったキースの身体が、グレイブの鞍にすんなりと収まった。
「もう一人は捕まったかね。皆、腕利きだしな〜」
 イーラは繊月の手綱を引いた。繊月が上空で羽ばたきを止め、手足を胴に寄せて急降下体勢に移る。
「これ以上は進ませらんねぇからな。悪いが、荒っぽくなるぜ」
 繊月は鞍越しに伝わってくるイーラの様子を見ながら翼を羽ばたかせ、更に加速を増した。重力から解放され、イーラの全身の血が頭へ集まっていく。
「行くぜ」
 イーラは声を上げ、頭に上った血で赤味を帯びた視界の中心へ魔槍砲「コイチャグル」の引き金を絞った。
 キースが硬く目を閉じ、グレイブの首を押さえて頭を下げさせる。放たれたのは爆発的な砲火ではなく、眩く輝く光弾だ。
 光は地上から二丈ほどの高さで炸裂し、雷光のように辺りを照らし出した。
「な、何だこりゃ!?」
 目を灼かれた三下が反射的に霊騎の手綱を引いたが、仰天した霊騎は木道を踏み外して明後日の方角へ疾走を始めた。
 視界を封じられた三下は、直前の視界に見えていた木道の方向へ霊騎を戻そうと試みていたが、やがて悲鳴を上げて思い切り手綱を引いた。
 木道の側にうずくまっていたグレイブが突如長い首をもたげ、大きく翼を広げたのだ。
「盗みは戴けないな」
 木道に上がろうとしていた霊騎が、グレイブの重厚な胸に激突して弾き返され、泥の中に転倒した。松明が湿った地面に触れて音を立て、鞍から投げ出された三下は慌てて左手を地面から離す。
 途端、その全身に盛大に水が掛けられた。
 仰天して空を見上げた三下の視界を、悠然と赤瑪瑙色の巨体が横切っていく。
 平原から上空をずっと尾行していたサフィリーンが、ミラの背から水を撒いたのだ。三下の手に握られていた明かりが、消える。
「こ、こ、ここの野郎、何てことしやがる!」
 が、
「あ、やっちゃったかも」
 サフィリーンが大きな青い目を瞬かせ、小さく舌を出した。三下の逃走は完全に封じたものの、残った明かりは上空に追いついてきたクレーストの松明だけになっている。
 だが、
「十分」
 その明かりでも互いが見えない程ではない。グレイブの背から降りたキースが、左手を顔の前、右手を腹の前に構える。
 彼女を取り巻く闇が、濃さを増した。物理的な圧力を持った気が、ぬかるむ土と草に波紋を生む。
「返すものは返して貰おうか」
「こ、こ、ここまで来て、捕まってたまるか!」
 震え上がりながらも、三下は抜きはなった刀「泉水」を破れかぶれで振り下ろした。
 拳布を巻いた手の甲が鎬に触れた。手首の返しを用いて、鞭のように刀身を弾く。
 無駄な肉を削ぎ落とした腕が膨れあがり、三下の胸倉がキースの手に掴まれた。切り返そうとする手を左手で押さえ、右踵で三下の踵を払いながら、ぬかるむ地面に三下の後頭部を叩きつける。
「離してくれ! 俺ゃもう嫌だ!」
 三下がわめき、掴まれた長着を脱ぎ捨てて背を向ける。
 その袴を、難なくキースの手が掴んだ。思い切りつんのめった三下が、霊騎の真後ろに突っ伏しかける。
 鈍い音が響いた。
 三人が息を呑んだ。真後ろに近付いた三下の顔面を、霊騎が後肢で思い切り蹴り上げたのだ。
 キースに袴を掴まれた膝を支点として、三下の身体が直角にまで跳ね上がり、泥の中に落ちる。
 濡れた音と共に泥が跳ね上がり、グレイブの鱗をまだらに汚した。
 湿地を、沈黙が押し包む。
「‥‥死んだな」
 ぼそりと、キースが呟いた。
「多分」
 イーラは引きつった顔で頷いた。
 霊騎は数丈ほど歩いた所で足を止め、頻りに鼻を腫らしている。
 泥に頭を突っ込んだ三下が、微かに動いた。




「まだ食うのかよ」
 イーラは呆れ顔で、すっかり綺麗になった風螺を眺めた。
 既に月餅を五つ、大福を二つ、キャンディボックスを一つ平らげているが、まだその食欲は衰えない。
 一方、
「へえ、こいつがからくりですかい」
 仁兵衛は顎をつまみ、しげしげと漣を眺めた。
「へにょ三下〜、クスクス♪」
 漣は仁兵衛が眼中に無いのか、体の機構と半ば一体化した鋏で三下を指差し笑っている。
「親分と御爺分に、新しいお友達を紹介しに連れてきたのです」
「そうかいそうかい。嬉しいねえ」
 仁兵衛は相好を崩し、琴音の頭を撫で回した。
「しかし」
 三下の隣に張り付くようにして座っている楓を見て、イーラはしみじみと呟いた。
「これで野郎かい。確かに、見た目だけじゃぁ騙されるわな」
 薄紅色の振袖に包まれた肌は磁器のように滑らかで、つぶらな瞳は化粧無しでも十分なほどに大きい。
 イーラが三下の脇を小突く。
「随分なお別嬪じゃねぇか。隅におけねーな、おい」
「‥‥いっそ持っていってくれ‥‥」
 三下は呻くように呟いた。
 仁兵衛は笑いを噛み殺し、何やら硯を取り出した。
「さて。で、これからのお前さんの身の振りようなんだがね」
「う」
 三下が、肩をすぼめて項垂れる。
 正座を崩さず、出された茶を静かに啜りながら、キースは軽く肩を竦めた。
「霊騎まで盗んだのは早計だったな。自ら裏切ったも同然だと思うが」
「現にこうして盗まれた霊騎が、犯人と共に永徳一家の手元にある訳だからな」
 ゼスが静かに頷く。
 捕まった時の事を考えていなかったのか、三下の顔が青くなった。
 長身を窮屈そうに畳んで正座している芳純が苦笑する。
「ですから、町から出ても追ってきますよと申し上げたのですが」
「でもね? 何処に行っても秘密のままだと、おじいちゃんの言う通り何も変わらないんでしょ?」
 慣れない正座に足を崩したサフィリーンが、存分に風螺の尻尾を撫でながら首を傾げる。
「なら、偉くなってぱーっと盛大に結婚式挙げれば良いのに」
 楓はサフィリーンの小さな手を取り、目を輝かせた。
「まあ素敵。結婚式というと、天儀に言う祝言ですわね」
「そうそう! おじいちゃん驚くよ。其処までするとは思わなかったーって」
「ええ! 只蔵さん、お嫌でしょう?」
「当たり前だ!」
 楓は満面の笑顔で、細い腕を三下の腕に絡める。
「只蔵さんの嫌がる事なら、私、何でもして差し上げますから」
「喜ぶことをしてくれ!」
 振りほどこうとする手を絡め取り、肩関節を極めながら、楓は三下に抱きついた。
「嫌がっていた事を嫌がらなくなっていく過程が楽しいんじゃありませんの」
 楓は邪悪な笑みを浮かべた。
「それに、私を捨てて一人だけ逃げ出そうとしたお仕置きもしなきゃ」
「お前がそうだから、一人だけ逃げ出そうとしたんじゃねえか!」
 三下が、苦痛に顔を歪めながらわめく。
「仲の良いこって」
 仁兵衛は苦笑し、小筆を取った。
「さ、約束通り、おめえにゃ永徳一家の志体持ちとして、数字の入った名前をくれてやろうじゃあねえか」
 言い、半紙にさらさらと筆を走らせる。
「前っからな、おめえの名前は、最後の『う』が邪魔っけだと思ってたんだ」
 肩を極められながら、涙目で三下が顔を上げた。
 そこには、「三枝只世」と大書されていた。御丁寧に読み仮名まで振ってある。
「今日からおめえは、さんしただよ、だ」
「さんしじゃねえ! さいぐさだ!」
 三下が絶叫する。
 その肩を、白い手が軽く叩いた。
「時に自分を殺すことも必要になる」
 ゼスだった。静かに目を伏せ、噛んで含めるように言い聞かせる。
「‥‥何かに属するとはそういうことだ」
「せめてまともな名前にしてくれ!」
 三下の悲痛な叫びが、仁兵衛の屋敷に虚しく木霊した。