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■オープニング本文 ● 宵の口。武天は侠客の町、三倉。 気の早い虫の音に紛れ、軽い足音が襖の向こうから近付いてくる。 「真朱さま。いらっしゃいました」 遠慮がちな声と共に、十歳程の子供が襖を開けた。 桑染の布を思わせる色の濃い肌、彫りの深い顔。小袖を着て頭に簪を刺していなければ、少年にも見えそうだ。 「すまないねえ、嬢ちゃん」 微笑み、白髪から狐耳を生やした老神威人、岸田仁兵衛が鴨居を潜った。 楽器の音や、舞の指導をする声が階下から聞こえてくる。 障子を開け夜空を見上げていた着流しの人物、真朱が振り向き、少女を手招きした。 「来たかい。おいで、珊瑚」 珊瑚と呼ばれた少女は眩しそうに真朱を見た。長着の裾から覗く足は雪のように白く、衿元からはうっすら汗ばんだ乳房がこぼれ落ちそうだ。 座布団に腰を下ろした仁兵衛に会釈を送り、その後ろを通って珊瑚は真朱の隣へ歩み寄る。 「ご苦労さん。昼間も言ったけどね、これからちょいとばかし物騒になるからね。知らない奴に声を掛けられても、のこのこ出て行くんじゃないよ」 「はい」 珊瑚は小さく頷いた。真朱はその細い身体を抱き寄せる。 「いい子だ。何かあったら、すぐにあたしに言うんだよ」 「はい。あ」 豊かな胸元に色の濃い頬を寄せ、心地よさそうにしていた珊瑚は、ふと目を開いて下から真朱の顔を見た。 「そういえばこの前、小さな男の人に声をかけられました」 途端、真朱の瞳が剣呑な光を帯びる。 「何て声を掛けられたんだい」 「何をして暮らしているか聞かれました」 「その小僧、他に何か言ってたかい」 「いえ、男の子じゃなくて男の人です。小さな、顔の汚い」 真朱は眉根を寄せて考え込む。 だが仁兵衛の視線に気付くと、腕に抱いていた珊瑚をそっと離した。 「まあいい、店の中にいりゃ安全だ。いいね、外に出るんじゃないよ」 「はい」 「いい子だ。ちょっと客人と話をするから、下で待っといで」 珊瑚の背を叩き、真朱は彼女を部屋から送り出す。 ゆっくりと閉じる襖を見つめていた仁兵衛が、視線だけで真朱を見た。 「あの子は、あんたの娘かい」 「そんなとこさ。街を歩いてたらついてきた捨て子だけど、可愛がって育てて、一年になる。すぐ泣くのが玉に瑕でね」 遠ざかる足音を聞きながら、真朱は目を細めた。 と、 「石蕗さんの代わりってんじゃあ、ないんだねえ」 仁兵衛と真朱、敵対する一家の幹部同士の視線が、真っ向からぶつかった。 石蕗とは、真朱の親類だった。親の借金で女郎部屋へ売られ、身請けされた先で非業の死を遂げたのだ。 だが、真朱は目元の力を緩めた。 「冗談は止しとくれ。石蕗は石蕗。珊瑚は珊瑚さ」 その寂しげだが穏やかな目を見て、仁兵衛は口許を綻ばせた。 「で、あたしを呼び出した理由は何なんで」 「そうだね。さっさと本題に入ろうか」 真朱は居住まいを正した。 「あんたらのお陰で、この芸妓屋もそれなりに形になってきた」 彼女の店は、石蕗が殺された事件を切っ掛けとして変わり始めていた。これまで不遇に過ぎた女郎達に様々な芸事を叩き込み、芸妓として一本立ちさせようとしているのだ。 「もちろん、元は大した取り柄もなかった女郎達だ。覚えの良いのも、悪いのもいる。顔と身体だけで稼げてた時の方が楽だったと零す奴もいる」 仁兵衛が頷く。 真朱は白魚の様な指を胸の谷間に差し入れ、親指の爪ほどの大きさに畳まれた紙片を摘み出した。 「挙句、こんなもんに手を出す馬鹿も出てくる」 紙片を指で弾き、向かいに座る仁兵衛の手元へ送った。 何かが入っているようだ。右膝に頬杖をついたまま、仁兵衛は左手指で紙を開いた。 紙の中身は、乾燥した見慣れぬ葉と、花穂だった。 「ご禁制の葉さ」 「麻薬ってわけかい」 行灯の光がゆらめき、仁兵衛の顔の陰影が濃くなった。 「売人は一人突き止めたんだが、目先の末端を叩いて警戒させても仕方ないだろ。仲買人から、卸業者を直接叩こうと思ってね」 仁兵衛は節くれ立った指で白い前髪をしごきながら、何ごとか考え込んでいる。 真朱は文机に置かれた扇を開き、胸元を煽ぎだした。 「ただね。四六時中売人に張り付かせてたあたしの部下が、薬と金の受け渡しの現場が解らないと言い出したのさ。まだ調べ始めて半月、蓄えがあるだけかも知れないが」 「手下が買収されてるんじゃあねえかい」 どこか上の空で、仁兵衛が尋ねる。 真朱は小さく首を振った。 「見張りを変えても同じ報告が返ってきてね。四六時中張り付かせてみたが、家出て、通りに筵敷いて、物売って、帰るまでの間、金以外のものは何も受け取ってないとさ」 「ふむ」 仁兵衛は前髪をしごく手を止め、忌々しげに呟いた。 「近頃瀧華の金回りが良くなったのぁ、そういうことかい」 真朱が扇を閉じ、仁兵衛の顔を指した。 「聡いね」 「黒幕が影政だとすりゃあ、色々と説明がつくじゃあねえか」 「そういうこった」 影政とは、瀧華一家の参謀だ。一家の財政面から縄張りの管理までを一手に引き受け、縄張りの中では大きな権力を振るっている。 「影政の野郎、芸妓屋からの上納金が少ねえってんで、やかましかったからね。腹いせも兼ねて、店から取れない分の金を芸妓から巻き上げようって魂胆だろ。もっとも、芸妓屋どころか縄張りにまで広がりだしてるけどね」 吐き捨てるように真朱は言う。 「最近金回りが良くなったのを、隠そうともしてないしね。野郎をぶっ殺すのが手っ取り早いんだが、腕利きの私兵を飼い始めやがった。そこへもってきて」 真朱は文机に置かれた紙を取り上げ、仁兵衛に放り投げた。 「今朝方、こんなもんが店に放り込まれてた」 仁兵衛が紙を開く。 そこには簡潔に、「内通者に気をつけられたし 八」とだけ書かれていた。 「この、八ってのぁ」 仁兵衛の白い眉がひそめられる。 真朱は、探るように仁兵衛の目を覗き込む。 「あんたにも、覚えはないかい。永徳の志体持ちは、数字の入った名前を名乗るのが慣わしだろ」 仁兵衛は首を左右に振った。 「仁兵衛、竜三、剣悟郎、弥勒、菜奈。二、三、五、六、七はいるが、八はいねえよ」 短い沈黙が二人の間に降りる。 外から聞こえる虫の音が、部屋の中を支配した。 「まあいいさ。本当に内通者がいたなら、あたしの動きは向こうに知れちまう。影政の息が掛かってない腕っこきが、神楽にいるだろ」 真朱は、諦めたかのように溜息をつき、座布団から降りた。 「一つ貸しを作ると思って、あんたから頼んじゃくれないか」 真朱の細い指先が、畳の上に触れる。が、そのまま頭を下げようとする真朱を、仁兵衛の声が止めた。 「そこまでにしときねえ。貸しもくそもあるもんかい」 真朱が顔を上げる。 「あたし達永徳一家が、あの糞野郎に借りがあるんだ」 仁兵衛は、不敵に唇を歪めていた。 「真朱と仁兵衛が開拓者と組んで、影政に一泡吹かせようなんざ、こんな痛快な話、後にも先にもあるもんじゃねえ」 |
■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067)
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694)
45歳・男・サ
十 水魚(ib5406)
16歳・女・砲
カルフ(ib9316)
23歳・女・魔
乾 炉火(ib9579)
44歳・男・シ
稲杜・空狐(ib9736)
12歳・女・陰 |
■リプレイ本文 ● 「お似合いですよ」 耳の尖った少女の唇に薄く紅を引きながら、珊瑚が少しだけ羨ましそうに呟いた。 「あの、ところでお名前は何とおっしゃるのですか」 「クーコは、陰陽師の稲杜空狐なのです。よろしくお願いするのですよ」 小さな身体を羽衣と薄衣に包んだ年若いエルフ、稲杜空狐(ib9736)は微笑んだ。 「空狐さんですね。何かお困りの事があったら、何でも言って下さいね」 「ありがとうございます」 珊瑚は空狐に微笑み返し、耳元で囁く。 「お店の人達には新入りの禿と、真朱さまが」 「‥‥おや、エルフでも髷は似合うもんだね」 廊下から顔を見せた芸妓が、空狐を見て笑みを浮かべた。 「真朱姐さんが、小遣いやるからその辺で遊んどいでとさ。売られてきたばかりで不安もあんだろ」 煙管をふかしながら、芸妓は空狐の小さな手に小銭を握らせる。 珊瑚に頷かれ、空狐は小走りに店を飛び出した。 ● 日が傾き、町並みは橙色に染まりだしている。 歌いながら鞠をつき、お手玉を投げて遊んでいた子供達が、一人、また一人と輪から離れ、雑踏に消えていく。 右手を振ってそれを見送っていた空狐は、袂に入れた左手でそっと符を握り潰した。符は手の中で滑らかな塊へと姿を変え、白い蜥蜴となって袂から這い出す。 空狐の視線の先では、売人が広げた筵の前に、ぼろを纏った路上生活者が立っていた。 「何でえ」 「や、竹籠が入り用でよ」 男は筵の上を物色し、小銭を放り投げると、中でも小さな竹籠を持ち上げた。 「こいつでいいかな。もらっていくぜ」 「おう」 白い蜥蜴は、そこで熱湯を浴びせられた砂糖のように宙へ溶け消える。 男は買った篭を振り回しながら、角を曲がった。 「旦那、これでいいんですかい」 男は、露店を冷やかしている長身の中年男に声を掛けた。 「うむ」 竹林柄の手拭いを頭に巻いた甚平姿の男、鬼島貫徹(ia0694)が頷き、腰に提げていた酒瓶を籠と引き替えに手渡した。 「悪かったな、競争相手の作る品を調べているとは知られたくない」 「堅気の衆はマメだねえ」 男は嬉しそうに中身の香りを一嗅ぎすると、軽い足取りで立ち去っていく。 鬼島はそれを見送り、茶店の席に腰を下ろして籠に鼻を寄せた。竹以外の臭いはない。軽く舐めてみるが、変わった味もない。作りは予想よりずっとしっかりしているようだ。 鬼島の側を、子供達が小走りに駆け抜けていった。 「また明日なのです」 空狐が子供達に手を振り、鬼島と視線を交わして小さく首を振りながらすれ違う。交代の時間だ。 鬼島の視線の先には、淡い桃色の小袖を着た市女笠の女性がいた。笠から垂れた薄絹のお陰で、結ってかつらの下に隠した銀髪は全く見えない。 「‥‥氷はいかがでしょう‥‥」 市女笠の女、柊沢霞澄(ia0067)が白い手でそっと薄絹を持ち上げ、鬼島と頷き合う。 その時だった。 「あらお姉さん、氷売り?」 壮年の小柄な女性が、下から市女笠の中を覗き込んだ。 「あの‥‥はい‥‥」 「まったく、そんな蚊の鳴くような声じゃ売れないでしょ。氷もこんなに溶けてるじゃないの」 「いえ、その‥‥」 戸惑う霞澄を他所に、女性は大きく息を吸い込むや、両手を口に当てて怒鳴った。 「ほら氷だよ! 別嬪の姉ちゃんが作った氷だよう! みんな買っておやりよう!」 霞澄が狼狽えている間に、通りをゆく人々が押し寄せた。 「別嬪と聞いちゃ黙ってらんねえな」 「何でえ、氷売ってたんなら買いに来たのによ」 半ば溶けかかっていた氷はあっと言う間に籠の中から消えていく。 と、 「氷だって?」 声を掛けられ、霞澄の動きが僅かに止まった。 「‥‥はい‥‥」 売人だ。懐から取り出したがま口を開き、中から小銭を摘み出している。 色のついた眼鏡の奥で、霞澄の銀色の目が光った。 ● 昼間の暑さが嘘だったかのように、町を涼やかな夜風が吹き抜けていく。 「ちょっとあんた、そんなとこで寝てないでおくれ」 物陰に身体を収めるようにして眠っていた着流しの男に、中年の女性が声を掛けた。 「お? あ?」 男は大柄な身体をのっそりと動かした。 「あんた、家はどこだい」 「やあ、すぐそこらからよ」 男、乾炉火(ib9579)は呂律の回らない口で呟く。着流しの帯は革製で、だらしなく開いた長着の裾からは桜の花弁が描かれた褌が覗いていた。 「でかい図体してだらしないね。帰れんのかい」 「お? おお、本当、すぐそこらからよ」 立ち上がり、炉火は千鳥足で角を曲がって消えていく。 戸板の節穴からその様子を覗き見ていた鬼島が、声を殺して囁いた。 「乾が戻ってくる」 売人の自宅の直近。真朱の手配した民家では、五人の開拓者が昼間の情報のやり取りをしていた。 「扱っている売物と買っていく人を重点的に見ていたら、偶然売人が氷を買いに来たのですが‥‥」 笠とかつらの重みで凝った首を揉みほぐしながら、霞澄が形の良い眉をひそめる。 「売人のがま口には、貨幣だけが入っていました‥‥受け取ったお金をがま口以外に入れた様子も見られませんでしたし‥‥」 「昼間に来た客は十人と少しでしたね。薬を買う人と籠や蓑を買う人が半々程度でしょうか」 三倉の女性と大差ない身の丈をした金髪のエルフ女性、カルフ(ib9316)が顔の下半分を覆って唸る。 「前回に続いて今回も来た客を注視しましたが、ただ薬を買いに来ただけの人間でした。仲買人が客に扮して薬を渡している可能性は、低いかも知れません」 呟きながら、カルフは腕を組んだ。 「これは、売人不在時の家の出入りも監視すべきでしょうか?」 耳や尾が人目につく事を警戒し、売人の自宅を見張っていた十水魚(ib5406)が、徹夜組のために濃い茶を淹れながら尋ねる。 「カルフさんは、今朝がたムスタシュィルを使ってましたわ」 「そうなのですが、範囲が広いので通行人を拾ってしまって」 カルフが頭を掻いた。一足先に布団に入っていた空狐が、くすりと笑う。 「空狐さん、早く休まないと明日に差し支えますよ‥‥?」 行灯の明かりを受けて橙色に輝く金髪を撫でながら、霞澄が微笑んだ。 「はい」 空狐はこっくりと頷き、鼻まで布団を被った。 「乾さん、遅いですね」 カルフが、ぼそりと呟いた。 開拓者達は何となく顔を見合わせ、室内が沈黙に包まれる。 遠くで野犬の吼える声が聞こえた。 炉火のために淹れた湯呑みを盆に載せた水魚が、ぽつりと呟く。 「薬の売買は手っ取り早く稼げますけど、余り良い手とは言えませんわね」 戸板に顔を付けた鬼島が、鼻を鳴らす。 「組織の金回りを任されている人間が、一か八かの運否天賦ではあまりに心許なかろう」 鬼島は、不敵に口許を歪める。 「立場が上の者が不安定なシノギしか有さないのであれば、一家の土台は揺らぐ」 「でも、中毒者が増えれば他のしのぎに影響が出ますわ。長期的に見れば損が大きいですわ」 水魚が不満げに答える。 「もっとも、他所の一家の稼ぎなんて、私には関係ありませんけど‥‥」 「対立する永徳まで薬漬けにできれば、薬を握る者がそのまま町を握る事になるとも言える。その点影政は確かに下劣であり、外道かも知れないが、少なくとも無能ではない」 鬼島の右手が器械仕掛けのように動き、指関節が乾いた音を立てた。 「そして、だからこそ叩き甲斐がある」 「鬼島さんは、相変わらずですね‥‥」 霞澄が、蚊帳を吊りながら苦笑する。 その時、家の空気が揺らいだ。音もなく裏手の戸が引き開けられたのだ。 「近所の主婦に目つけられちまった。顔は覚えられてねえと思うが」 酔っぱらいのふりをしたまま裏口へ回り、帰ってきた炉火だった。 「見ていた」 障子に顔を付け、鬼島が頷く。炉火は外の様子を一度窺ってから、裏口の戸を閉じた。 「音を聞く限りじゃ、籠を編んでやがるな。薬で稼げてんだろーに、真面目なこった」 「お疲れさまですわ」 「おう、悪ぃな」 炉火は草鞋を脱ぎ、水魚の差し出す湯呑みを左手で受け取る。 「酒や女は付き合い方さえ判れば、割合上手く付き合っていけるもんさ」 かつらを毟り取り、炉火は鬼島の側に腰を下ろした。 「だか薬だけはそうはいかねぇ。普段薬師の真似事してるってのもあるけどよ、これだけはちぃと許せねぇわ」 言いながら炉火は湯呑みから茶を啜り、顔を引きつらせた。見た目は若草色に澄み渡るただの茶だが、異様に濃く、渋い。 「‥‥これ‥‥何入ってる‥‥?」 「? お茶だけですわ」 水魚は不思議そうに答える。 それ以上味には言及せず、炉火は表情を改めた。 「それから気のせいかも知れねぇが、裏口に戻ってくるまでに、誰かにつけられてたような気がする。撒いてきたつもりだが」 開拓者達が、顔を見合わせた。 三倉へ幾度も顔を出している鬼島が、戸板から顔を離さず呟く。 「夕刻から今に至るまで、通りに瀧華の志体持ちはいなかったが」 「となると、気のせいか‥‥二重尾行かも知れねぇな」 炉火が顔をしかめる。 「ぞっとしねぇ話だぜ。次に売人が出る時は、注意しねぇと‥‥で、何か進展は?」 カルフが力無く首を振る。 「売人が通りへ出たのは二度目ですが、やはり怪しい動きは認められませんでした。ムスタシュィルも不発です。不在時の自宅も水魚さんと私で見張りましたが‥‥」 「ちっ」 炉火は舌打ちを漏らし、天井を仰いだ。 「まだ六日目だが、ちぃと手強いな」 空狐の布団の前に衝立を置いて光を遮ってやり、水魚が押し殺した声を発する。 「でも末端売人に、長期分の売上げと薬を持たせるとは思えませんし、こまめに集金をしている筈ですわ」 「だよな。半月や一月分も薬を蓄えさせたら、そいつを持って雲隠れする奴が必ず出てくる」 炉火は袖を通さず懐に入れていた右手で顎を撫でる。 「なぁ、外で蚊に食われながら思ったんだがな。もし籠なんかの売り物の材料を誰かから仕入れてるならよ」 お茶のおかわりを用意していた水魚が、ふと顔を上げた。 「‥‥材料を卸す業者に成り済ましている可能性もありますわね」 「だろ。その時には売人から金払っても不自然じゃねぇよな」 炉火は水魚と顔を合わせ、にやりと笑った。 ● 日は早くも中天に差し掛かろうとしている。 「来ましたわね」 仲買人がシノビである可能性を考え、押し殺した声で水魚が囁く。 背負子に竹や藁を積んだ男が、売人の家の扉を拳で叩いた。 暫くの間を置き、立て付けの悪い戸が開く。 家の鎧戸から滑り出した白い蜥蜴が路地を横切り、売人の家の縁の下へ滑り込んだ。 右手を耳に当て、目を閉じていた炉火が顔を上げる。 「当たりだな。金の音がするぜ。竹だの藁だのを買う金額じゃねぇ」 炉火は、ちらりと床を見た。一刻前まで起きていた鬼島が、爆睡している。 常人なら、目覚めるどころか気絶しかねない音が鬼島の側頭部から発せられた。慌ただしく戦闘態勢を整えていた開拓者達がぎょっと目を剥く。 「おい、来たぜ」 長煙管で鬼島の側頭部を殴った炉火が、素知らぬ顔で声を掛けた。 「うむ。来たか」 寝起きの頭を掻き回しながら、鬼島がゆっくりと起き上がる。 人魂の聴覚を通して内部の会話を盗み聞いた空狐が小さな手を握り締めた。 「‥‥聞こえたのです。今確かに、薬の売り上げ、と言っていたのです」 「お互いの連携が、一番の肝ですわね」 水魚が床の間に立てかけて置いた愛銃「クルマルス」を掴む。 鬼島は肉厚な包丁を二口腰帯に差し、立ち上がった。 「出てきた所を抑える。左右から行くぞ。俺は裏を塞ぐ」 「はい。足手まといにならない様に頑張るのです」 空狐は緊張気味に符を握って戸を潜る。 「良し。行くぞ」 ● 「また来る」 仏頂面で戸を引き開けた男の顔色が、一気に青くなった。 「小松原さん? どうしたんで」 中から、売人の声が聞こえる。 「‥‥島田さんのお友達で?」 小松原と呼ばれた男が、笑顔を取り繕った。 いつになく厳しい目を、霞澄が小松原に向ける。 「その背負子に乗っているものを、改めさせて頂きます‥‥」 「くそが!」 小松原が怒鳴り、勢いよく戸を閉じる。 だがその数秒後、戸板はあっさりと敷居から外れた。炉火が長煙管を戸の裏に突き入れ、梃子の原理でこじ開けたのだ。 「な、な、な」 何が起きているのか全く理解できない売人が、池の鯉のように口を開閉していた。 踏み込もうとした炉火が、顔を歪めて足下を見た。草鞋の底に、撒菱が突き刺さっている。 小松原はその隙に、鰻の寝床のような家の中を早駆で抜け、雨戸を突き破って裏手へと飛び出していた。 「右に行ってすぐの角を曲がったのです」 家を挟んで向こうから聞こえる空狐の声に、小松原はぎょっとして振り向く。 板葺きの屋根の上で、白い鳥が激しく羽ばたき滞空していた。 その隙を衝き、十丈の距離まで近付いたカルフが、家の床に手をついた。 直後、地面を貫いて噴き上がった緑色の蔦が小松原に絡みつく。すぐに根を引き千切って走り出すが、絡みついた蔦は引き千切られてもなおその腕を締め上げる。が、動きを制しはしても、走る勢いを制することはできない。 行きがけの駄賃とばかりに売人を蹴倒した炉火が、早くも眼前に迫っている。小松原は泡を食って踵を返し、更に仰天した。正面から、両手に巨大な包丁を握った長身の中年男が鬼の形相で駆けてくるのだ。 腕には蔦、前後に大男。空には人魂。小松原は咄嗟に側にあった荷車から板葺きの屋根へと這い上がろうとし、更に自分の動きが緩慢になっていることに気付いた。 駆け付けた霞澄の右掌から発せられた光の粒子が身体にまとわりついている。 直後、くぐもった破裂音と共に庇が砕け散り、掴まっていた小松原が腰から地面に激突した。 売人の家の中で、教本通りの膝射の体勢で水魚が長銃「クルマルス」を構えている。 「や、やべえ、やべえ」 小松原は起き上がり、包丁を振りかざす鬼島に背を向ける。その眼前に、着流しの襟元から覗く炉火の分厚い胸板が聳え立っていた。 霞澄の神楽舞で鈍った小松原の腕が、反射的に首から上を守る。炉火の草鞋が地を踏みしめ、小松原の腹に長煙管の先端が叩き込まれた。 「何だ、なんだ」 銃声に驚いた町人達が、めいめいに戸を開けて顔を出し始める。 未だ白煙を吐いている長銃を布に包み、水魚が素早く路地裏へ駆け込む。小柄な空狐はいち早く物陰に潜み、霞澄とカルフは炉火と頷き合うや人込みの中に紛れ込んだ。 胃液を吐いて悶絶する小松原の後頭部に容赦なく包丁の柄を叩き込んで気絶させ、鬼島がその身体を肩に担ぎ上げた。 「早々に引き上げるとするか」 「だな」 炉火は野次馬を軽く手で追い払い、腰を抜かした売人を担ぎ上げると、素早く屋根の上へ上がった。 高所から見回しても、怪しい人影はない。 「この騒ぎでも、顔は見せねぇか…気のせいか?」 数日前の夜、背中に感じた視線を思い出し、炉火は顔を顰めながら板葺きの屋根の上を走り出した。 |