血の気配
マスター名:村木 采
シナリオ形態: ショート
EX :危険
難易度: やや難
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/06/20 19:34



■オープニング本文


 武天刀の鍛えには主として十二の流派があり、うち最古参の四つは「俊嘉四弟」と称される。武天刀の開祖とされる伝説上の人物、米野俊嘉の直弟子四名が伝えたとされる流派だ。
 それらは開祖の姓、山本、松下、鈴木、藤原の一字を取り、山家、松家、鈴家、藤家を名乗って数多の傍流を生みながら、今では武天の各地に散らばっている。
 その中の一つ鈴家は、鍛えの優美たることを旨とし、特に格式を重んじる一派だ。開祖の鈴木宗頼は、米野俊嘉の実子が姓を変えた人物という説もある。
 そして鈴家は、後ろ暗い噂のつきまとう一派でもあった。
 重ね薄く平肉の枯れる刀は肉を斬り裂く力に長け、人斬りに特に好まれる事もその印象を悪くする事に一役買っていた。



 武天は刀匠の里、理甲。傾き始めた太陽は山の稜線目掛けて落ち始めている。
 紙の擦れる乾いた音が、薄暗い板の間に響いた。刀匠、野込重邦は紙を折りたたみ、目の前に座る男へと差し出す。
 武天の腰物奉行、岩崎哲箭は紙を束ねて捻り、灯明の火を移した。炎が大きく燃え上がり、室内が僅かに明るさを増す。
「何とお詫び申し上げれば良いやら」
 重邦が岩崎に平伏す。燃える紙を側にあった皿に放り投げ、岩崎は笑った。
「重邦殿に責はあるまい。堂々としておられよ」
 岩崎はすっかり頭頂部にまで広がってしまった額をぴしゃりと叩いた。
「麓の村で光広殿を見た者がある旨、嗅ぎつけたようだ。人の領内をあれこれ探ったのだろう。伊沢の傍流如きが、鈴家の名を笠に着て好き勝手をしてくれる」
 二人が読んでいたのは、武天は伊沢の地に根を下ろす刀工一族、鈴木家傍流の当主から送られてきた書状だった。
 岩崎が当家の子息を匿っていることは分かっている、大人しく差し出せば良し、さもなくば力尽くで奪い返すという内容だ。
 鈴木家の子息は、確かに岩崎の領内にいる。この理甲の里で、重邦の「隠し子」として刀匠の修行を積む光広という少年だ。
 庶子であり、鈴木家は内紛の種として彼を抹殺したがっているらしい。その事実を知ってか知らでか、光広は伊沢の地を自ら離れ、父に贈られた守り刀の鍛えを頼りに、かつて似た刀を打っていた重邦を父として頼ってきたのだ。
「‥‥いや済まぬ、悪し様に言ってしまったな。伊沢の当主は重邦殿の知己であった」
「は」
 重邦が、欠けた急須から岩崎と自分の湯呑みに茶を注ぐ。
「伊沢に潜ませている草の報告では、どうやら柄本兄弟という鈴家の食客が、四名の志体持ちを率いて理甲へ向かったらしい。書状の文面通り、力尽くでも光広殿を連れ去るつもりと見える」
「しかし、私の所に光広が匿われていると知っていながら、当主が私に直接話をつけにこないとは」
 急須を置き、重邦は腕を組んだ。岩崎が頷く。
「当主に何ごとか起きたか、当主も知らぬ所で光広殿を亡き者に‥‥或いは、嫡子にしようとしている者があるか。‥‥まあ、今理甲に向かっている者共を叩いた所で何か知っているとも思っておらぬが、その辺りであろうな」
 岩崎の広がった額が、行灯の光を受けて鈍く光った。
「いずれにせよ、光広殿は野込家の嫡子。我が領内で野込殿のお子を好き勝手にさせるものかよ」
 重邦は深々と頭を下げる。
「ともあれ、そんなわけだ。私の連れてきた開拓者達が敵を排除するまで、光広殿は家から出ることの無きよう」
「家から、でございますか」
 重邦が訝しげな顔をする。
「麓へ向かう道を閉ざせば、里に近付く術もないのでは」
 岩崎が、意外そうにその目を見返した。
「そうか。重邦殿が理甲に来られてまだ二年弱、ご存知ではなくともおかしくはないな」
 音を立てて、扇子が閉じる。
「と、おっしゃいますと」
「理甲に入る道は、一つではない。麓へ向かう北の道とは別に、西から入る道がある」
 岩崎は、閉じた扇子で西を指した。
「西に、何かあるのですか」
「山と谷しかない」
 岩崎が扇子で手を軽く叩く。
「山中の偶然開けた空間が繋がっているだけに過ぎぬ、道と呼ぶのも躊躇われる難所だ。理甲の里を拓いた刀匠がこの道を通ってきたという話もあるにはあるが、眉唾でな」
 初めて耳にする話に、重邦は眉をひそめた。
「そのような道を、通れるのですか」
「志体持ちなら通ってくるであろう。下手をすれば、既にこちらに着いている可能性もある。柄本兄弟の弟なぞ、三十丈先の的をも射抜くと言うぞ」
 岩崎の言葉に、重邦は小さく身震いをする。
 毛のない前頭部をつるりと撫で、岩崎は小さく笑った。
「そういうわけだ。暫し窮屈な思いをさせるが、長くても半日ほどで決着はつこう。堪えてくれ」


■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
六条 雪巳(ia0179
20歳・男・巫
羽流矢(ib0428
19歳・男・シ
透歌(ib0847
10歳・女・巫
十 砂魚(ib5408
16歳・女・砲
ウルシュテッド(ib5445
27歳・男・シ


■リプレイ本文


「光広、雲雀、元気にしていたかい?」
「ウルシュテッド兄ちゃん!」
 隣の光広を気遣わしげに見ていた雲雀の顔が、ぱっと明るくなった。
「お土産だ。終わったら皆でお茶しよう」
 癖のある茶色い長髪を黒い紐で束ね、黒の忍装束と外套に身を包んだジルベリア人の青年、ウルシュテッド(ib5445)が、幾つもの小瓶が詰められた箱を置いて笑う。
「私達もいますの」
「砂魚姉ちゃん! 霞澄姉ちゃんも!」
 次いで顔を出したのは、駆け出しの開拓者を思わせる厚司織に簡素な外套を羽織っただけという軽装の神威人、十砂魚(ib5408)、そして白を基調としたローブを重ね着した銀髪の少女、柊沢霞澄(ia0067)だ。
 先日雲雀と光広の窮地を救った開拓者達だ。霞澄は、硬い表情で腿に拳を置いた光広をそっと抱き締めた。
「私は大福を持ってきました。戻ってきたら、皆で‥‥」
「‥‥はい。ご無事のお帰りをお待ちしています」
 唇を噛み、光広が小さく頷く。
「子を跡目争いの道具にするのは、良くある話ではありますけれど」
 静かに手を離した霞澄の後ろには、白皙の青年が立っていた。
「迎えの使者を立てるのでなく問答無用で奪いに来るとは、少々義を欠いておられる様子」
 耳から下がる白い耳飾りが、小さく揺れる。
 白い狩衣の懐に横笛を指した六条雪巳(ib0179)が雲雀を見下ろし、口の端をそっと上げた。
「仮に嫡子にするつもりとしても、そのような所へ迎え入れられては」
「よくないよね!」
 雲雀が勢い込んで拳を握り締める。雪巳は銀髪を揺らし、そっと頷いた。
「ええ。光広さんのためになるとは思えませんね」
「ですが‥‥」
 腰に届く銀髪にじゃれつくハバキをあやしながら、霞澄がそっとその頭を撫でる。
「いいのです‥‥私は、光広さんと雲雀さんや里の人、そして私達の絆‥‥守ると決めましたから‥‥」
「そういうこと」
 厚司織に皮の羽織を重ね、茶髪を黒い頭巾で隠した青年、羽流矢(ib0428)が庭から声を掛ける。その手は、何やら一枚の手裏剣を荒砥石に当てていた。
「生き抜いて、護り抜く。俺が望んだんだ」
 訴える様な視線を向ける光広に、羽流矢は薄く笑ってみせる。
「だから、気にすんなよ。な?」
 その様子を同じく庭で見守っていた、花冠を被った少女が二度三度と頷く。
 巫女袴に虹色の外套を羽織り、耳飾りと揃いの簪で髪を留めた、その辺りの神社にでもいそうな愛らしい少女だ。
「? えっと‥‥」
 自分と殆ど年の変わらぬ少女を見て、雲雀が目を瞬かせる。
「あ、私、透歌です」
 少女、透歌(ib0847)は小さくお辞儀をした。
「同じような身の上で、むりに連れて行かれそうになってる人がいるって聞いて。助けてあげられたらなって」
「透歌ちゃんていうんだ。ん、おねがい!」
 雲雀は嬉しそうに笑った。
「巫女がたくさんで、お役に立てるか心配ですけど‥‥」
「んーん! だって、巫女さんがいっぱいいたら、誰も怪我しないでしょ? ね、ウルシュテッド兄ちゃん」
「ふむ」
 戦支度を終えて庭に降り、ウルシュテッドはちらりと三人の巫女を見回す。
「俺達が怪我をしたら、三人の責任も重大だな」
「ち、ちがうの! そんな意味じゃないの!」
 雲雀が顔を赤くし、慌てて手を振る。
「大丈夫ですよ。居合わせたのも何かのご縁」
 女性的な顔に明るい笑みを浮かべ、雪巳はそっと雲雀の頭を撫でた。
「少しでもお役に立てますよう、力を尽くしましょう」
「皆さん、そろそろ‥‥」
 日の高さを確認し、透歌が一同に声を掛ける。
「準備もありますし。ねらった通りの道を来るかどうか、わかりませんけど」
「目的地は分っていますし。余程慎重でなければ、変な道は使わないと思いますの」
 砂魚は尾を背にぴたりとつけ、装弾を終えた愛銃「クルマルス」を担いで庭に降りる。
 柔らかく豊かな毛に覆われた砂魚の尻尾を、ハバキがまん丸い目で追っていた。霞澄の銀髪からこちらへ興味が移ったらしい。
「三十丈とか六十丈とか‥‥もし本当なら化け物ですの」
 彼女の愛銃でも、三十丈もの距離は届かない。六十丈という話がただの尾鰭でないなら、それこそ人間業ではない。
 光広が項垂れる。
「申し訳ありません。私のせいで」
「光広さんは悪くありませんの。当然ですの」
 砂魚はにっこりと笑う。
「そうそう。良いんだよ望んだ道を行けば。遠慮するな。気にするな」
 羽流矢は立ち上がって頷いた。そして、妙に真面目な顔で屋敷の中を覗き込む。
「そうそう、雲雀ちゃん」
「なあに?」
 安心しきった表情で開拓者達を見送っていた雲雀が、羽流矢に顔を向ける。
「岩崎さんに、伝えといてくれないかな。何かあったら、岩崎家の草として雇ってくれって」
 雲雀が、眉をひそめた。
「草? 何かって‥‥」
「‥‥行ってくる」
 羽流矢は屋敷に背を向け、軽く手を振った。




 下生えを掻き分ける音。鎧が鳴り、枝葉の踏む音が木立の間に吸い込まれていく。
 巫女の数丈先をゆく侍が、槍の石突きで下生えを払いながら、忌々しげに漏らした。
「こんな場所を通ると解っていれば、槍など持ってこなかったものを」
「無駄口を叩くな」
 低い声が、斜面となった後方から降ってくる。
「野込家は腰物奉行のお抱えだ、いち早く護衛を寄越している可能性も無いとは言えん」
「平太さんは慎重すぎるよ」
 まだ年若い侍が脳天気に答える。
 平太と呼ばれた男が苛立たしげに口を開こうとした刹那、前方に突出して歩く草色の忍装束が、突如後方へ跳んだ。
「どうした」
「苦無が」
 腰の脇差を抜き、忍が答えた。
「惜しかったんだけどな」
 低い声が、どこからともなく聞こえてくる。刺客達が顔色を変え、辺りを見回した。
「敵か」
 小さな音が、樹上の葉陰を理甲のある方角へと遠ざかっていく。
 鎖帷子を破って二寸ほど突き刺さった手裏剣を、忍は引き抜いて放り捨てた。
 平太が鯉口を切り、軽く腰を落とす。
「斥候だとすれば、既に敵には戦力が整っていることになるな」
 表情を引き締めた侍が槍を構え、忍は音を立てないよう下生えを掻き分けながら進んでいく。
 気の早い虫が鳴いている。葉擦れの音が近付いては遠退いていく。鶯が鳴き、人影を見て怯えた鹿が跳ねる様にその場から逃げ出していく。
「誤導か!」
 忍が叫び、肩口から血を噴き上げながら前方へ転がる。仄暗い森の空気を袈裟懸けに斬り上げたのは、木陰に潜んでいたウルシュテッドの忍刀「黒龍」だった。
 苦し紛れに苦無を放りながら、忍が地を転がる。ウルシュテッドの左足が柔らかい地面を蹴り、そこへ肉薄する。やや緩慢に返す忍刀が、忍の鉢金を真っ二つに割る。
 苦無を受けたウルシュテッドの身体から、光の殻が剥がれ落ちた。雪巳の加護結界だ。
 木陰で、透歌の虹色の外套が緩やかに宙を泳いでいる。白塗りの杖が、覗いては隠れ、隠れては覗く。
 巫女とは判っても、今見えている透歌が結界の使い手と別人などと、忍には思いも寄らない。
「忍だけじゃない、巫女が一人」
 いる。額から滝の様に血を流し、忍が下生えの中でウルシュテッドと正対した。
「上!」
 巫女が悲鳴を上げる。それに反応し、忍が上を向いて目を瞠る。
 草陰の兎を狙うかの如く、透歌の神楽舞の光を曳いて怪鳥が男に覆い被さった。爪にしては長く鋭すぎる白刃が、半開きになった男の前歯を割り、下顎を貫く。
 漸く、危機に反応した侍の雄叫びが届いた。
 だが、ウルシュテッドはそれをそよ風ほどにも意に介さない。羽流矢の手裏剣が作った鎖帷子の傷跡に、忍刀「黒龍」が抉り込まれ、捻り抜かれた。
 噴水の如き返り血が、二人の忍を汚す。
 獣を思わせる牙を剥き出した面頬が、小さく動いた。侍の咆哮を、羽流矢が振り払ったのだ。
「あと、五人」
 呟く羽流矢が、次いでウルシュテッドが、下生えと木立の陰へ消えた。
「相手も同じ『人』ではありますが、手加減のできる状況ではありません。全力で当たるまで‥‥」
 雪巳の静かな、しかし決意を秘めた声が、人影の見えない森の奥から響いてきた。




「上と思わせて下。下に目を引かせて追い込み、上。相当できる相手だ」
 平太と呼ばれた侍が重ねの薄い打刀を抜いた。
「子供一人殺すだけって話じゃなかったのかよ」
 ぼやきながら、若侍が打刀を僅かに揺らす。肉の強張りを避け、肩の力を抜くための構えだ。
 槍使いと背中合わせに立ち、じりじりと里に向かって進んでいく。二人の視線は南北に分かれつつ、今度は上方への注意も怠らない。
 突如、間の抜けた柔らかな音が森に木霊した。弾かれたように二人が同じ方向を向く。木立で滅茶苦茶に跳ね返りながら落ちてくるのは、
「‥‥鞠?」
 若侍が、異様な声を発した。太腿に、黒い手裏剣が刺さっている。羽流矢が鞠で意識を引き、手裏剣を投じたのだ。
「あっちか!」
 手裏剣を引き抜き、若侍が飛び出した。
「馬鹿、迂闊に」
 制しようと槍使いが声を上げた途端、若侍は光の洪水に飲み込まれて弾き飛ばされる。
「アヤカシ絡みでなく人同士が傷付け合うのは好みませんが‥‥」
 大木に寄り添うようにして立っている、霞澄だった。榊の杖には、荒れ狂わんばかりの精霊力が既に蓄積され始めていた。並の開拓者なら一発撃って一呼吸必要な筈の精霊砲が、既に準備されている。槍使いは、来るべき二撃目に備えて身体を縮こまらせた。
 だが、
「霞澄さん、来ます!」
 理甲のある方角から、静かな凜とした声が飛ぶ。後方に位置取り、視野を広く確保した雪巳だ。
 風斬り音と共に、小さく圧縮された殺意の塊が飛来する。
「‥‥!」
 咄嗟に身を捩った霞澄の左腕を、一条の閃光が貫いた。
「まさか心臓を避けようとは」
 遠くで、低い声が唸る。平太が後方へ声を掛けた。
「平次、気にせず続けろ」
 霞澄は痛みを堪え、眉をひそめた。弓を持った人影が、視界内に見当たらない。忍の術でも使わない限り、そんな事は不可能だ。
 視線を彷徨わせる霞澄に、雪巳の声が飛ぶ。
「およそ三十丈先、楢の木の横です」
 言われ、霞澄は目を疑った。
 雪巳の言った通り、三十丈ほど離れた小高い斜面の頂上に、大弓を構えた小男が立っている。
 この距離で、矢はまず直線上に飛ばない。数十の木々、数百の枝葉の隙間を縫って、心臓目掛け緩い放物線を通したのだ。
 木陰を挟み、平次の反対側へと霞澄が逃れる。
 下生えが、風に逆らって揺れた。
 次いで飛来した矢は、最早霞澄を狙っていなかった。咄嗟に立てられた手盾を僅かに射抜き、その陰に隠れた透歌が小さく身を震わせる。
「透歌さん、無理をしないで! 羽流矢さん、援護を」
「だいじょうぶです!」
 木立の中から聞こえてくる雪巳の声に、透歌は気丈にも声を返した。
「あそこか!」
 若侍が、斜面の上に現れた手盾目掛けて突進する。が、その足下で何かを引き千切る異音が起こり、若侍は顔面から地面に激突した。
 濡れた土を貼り付けた顔を上げて振り向くと、下生えの一部が二束結び合わされている。草結びだ。
「こ、こ、こんな初歩的な罠に‥‥」
「ごめんなさい!」
 四尺七寸の清杖を、固く目を閉じた透歌が顔を背けながら突き出した。宝珠から飛び出した三条の光の塊は、跳躍する兎のような軌道を描いて若侍に真っ向から激突する。若侍は鎧を鳴らしながら背中から地面に叩きつけられ、斜面を転がり落ちた。
「あ、あのガキ‥‥」
 顔を上げた若侍の側に、霞澄が立っている。
「馬鹿、何やってんの」
 巫女が進み出ると、閃癒の光を発した。霞澄が榊の杖を腰に差し、左手に握った杖を両手で握る。

 あと七丈。




 風に揺れる下生えが、不吉なざわめきを上げる。
 着実に暗さを増していく森の中、木の幹や下生えから浮かび上がった光の粒子が、透歌の杖へと集まり始めた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 光は白い杖の先端に集まり、岩をも穿つ奔流となって、近付こうとする槍使いを吹き飛ばした。
 近付こうにも草結びに邪魔をされ、足下を気にして慎重に進めば、透歌の精霊砲に吹き飛ばされる。
「おのれ」
 斜面を転げ落ちた槍使いが、巫女の閃癒で傷を癒しながら吼え、剣気を発した。
 木立に隠れた忍二人の苦無、巫女二人の精霊砲。後方の雪巳の指示に従い、四方向から来る攻撃に注意を払いながら、しかも足下の草にまで注意を向けねばならない。刺客達は完全に進軍を食い止められていた。
 三度斜面を駆け上がろうとし、槍使いは慌ててその場に屈み込んだ。その頭を、一筋の銀光が掠める。
「行きたきゃ俺を倒してからにしろよ、おっさん」
 手裏剣を投じた羽流矢が、左胸と太腿の矢傷から血を流しながら、木陰から現れた。
「そうせざるを得んようだな」
 侍は、槍を下段に構える。下生えに穂先を隠し、間合いを測らせない構えだ。
 直後、一条でも致命傷になりかねない矢が、透歌の側に羽流矢の立てた水晶の盾に突き立った。身体を震わせた透歌の手はきつく杖を握り締め、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「動きました、戌の方角、およそ五十丈。太い椚の脇です。透歌さん、盾の角度を変えて! 四秒後、来ます!」
「は、はい」
 雪巳の声を受け、透歌は慌てて盾の向きを変える。
「羽流矢さん! 狙われて‥‥」
 雪巳が叫ぶ。木陰に飛び込む羽流矢の動きを予期していたのか、飛来した矢がその腰に深々と突き刺さった。
 隙を衝いて振り上げる穂先に草鞋の底を叩きつけ、羽流矢は血を撒き散らしながら後方へ跳ぶ。
「羽流矢さん!」
 透歌の杖から巻き起こった風が下生えを揺らし、羽流矢の周りで渦を巻いた。風が見る間に腰の傷口へ吸い込まれていく。羽流矢が矢を引き抜くや、血に混じって赤い肉が盛り上がり傷跡を塞ぎ始めた。
「おのれ、射ても射ても‥‥」
 遠くから、平次の苛立った声が上がる。
 平次にとって誰より厄介なのは、視界を広く取り仲間に指示を出している雪巳だった。仲間の遠距離攻撃に守られて刺客を近付けず、仲間を癒し、加護結界を掛けては、射線の通らない位置へと仲間を誘導している。
「精霊さん、そっと傷を癒して‥‥!」
 霞澄が両手で放り投げた光の花束が、暗くなり始めた森の中で砕け散った。花弁の雨となった光は槍使いと渡り合う羽流矢の身体を包み込み、その傷を完治させる。
 平次が場所を移り、木々と枝葉を通す射線を探す間に、側にいる巫女の神風恩寵、そして十丈近く離れた味方をも癒す愛束花が、傷を癒し終えてしまうのだった。
 無数の枝葉を通し、五十丈近い距離を挟んで、雪巳と平次の視線が激突した。
「ここは、通しませんよ」
 雪巳の口が、確かにそう動いた。平次は歯噛みをする。
 接近して射撃を容易にすることも、雪巳を狙う事もできるが、シノビが早駆でも持っていれば懐に入り込まれてしまう。柄本兄弟の顔は、明らかに焦りと苛立ちの色を濃くしていた。
 弦音が響き、風切り音が続く。矢は、虚しく樹皮を斬り裂いて地面に突き刺さった。
 矢が立て続けに外れ、遂に巫女達の手が空いた。
「羽流矢さん、お待たせしました」
 雪巳に握られた杖が輝きを増し、羽流矢の踵に、小さな翼が生えた。
「助かるっ」
 羽流矢は気合の声を発して槍使いの剣気をはね除け、木の幹に左爪先を蹴り込んだ。
 槍使いが目を瞠った。羽流矢の身体が一足で木を垂直に駆け上がり、枝を掴んで、幹の反対側から飛び降りてきたのだ。
 槍を返し、抉り込むようにして穂先を上空へ突き出す。だが下生えに石突きが掛かり、動きが鈍い。身を捩り、左腕尺骨を砕かれながらも、羽流矢の忍刀が首を狙う。
 一歩下がる槍使いが突如足をもつれさせ、盛大に尻餅をついた。
 草結びだ。散々邪魔をされながらもまた失念していた槍使いは舌打ちを漏らし、咄嗟に獲物を捨てて脇差に手を掛ける。
「透歌ちゃん、いい仕事してるぞ」
 喉元目掛けて忍刀を突き出す。身体を傾けて突きを避け、抜き打ちに脇差を振るう。羽流矢が跳躍する。雪巳の与えた踵の翼が、その身体を更に一尺前方へ押し出した。
「羽流矢さん、矢が」
「了解!」
 脇差を突き出した槍使いの手首を掴み、宙で回転しながら羽流矢が叫ぶ。
 脚絆に覆われた羽流矢の左足が光を曳き、槍使いの頸動脈に突き刺さった。
 引き抜かれた草鞋の先端が、赤く怪しく濡れている。羽流矢の身体を樹上に運んだ動きの正体は、草鞋裏に仕込まれた手裏剣だった。
 直後、光の塊となって飛来した矢に臍の右を射抜かれ、羽流矢の身体が地面に打ち倒される。
「羽流矢さん!」
 透歌が悲鳴を上げる。
「生きてる‥‥」
 地面に縫い止められた恰好の羽流矢が、弱々しく手を挙げる。
「けど、‥‥ちょっときつい、かも」
「当たり前です!」
 顔色を変えた雪巳と透歌が物陰から飛び出し、羽流矢を盾の陰へ引きずっていく。

 あと四丈。




 若侍は、緊張の面持ちで八相から正眼へと構えを移した。
 霞澄が左手に携えていたのは、ただの杖ではなかった。反りが浅く重ねの薄い刀身が僅かに光っている。仕込み杖だ。二尺の短い刀身を片手に、半身で構えている。
 片手打ちに五寸の利あり。間合いの近い小刀でも、片手で半身に構えれば不利を補える。侍達の間で口伝として言われる言葉を、霞澄は忠実に守っている。
 眼前に立つ少女の、人形の様に整った顔を若侍は見据えた。時間を掛ければ、忍が襲ってくる。
 ちらりと、霞澄が横手の雪巳と視線を交わした。
 その隙に若侍が剣気を発し、渾身の突きを繰り出す。薄く軽い仕込み杖がその刀身を払いのけ、そのまま突き出された右手首を狙う。若侍が右手を柄から離して避ける。開いた両手の間から面を打つ。打刀を横にして受ける。
「二歩下がって! 矢が」
 発せられた雪巳の声に従い、霞澄が袈裟懸けに仕込み杖を振るいながら後方へ下がる。逃がさじと若侍が踏み込む。
 霞澄の左手が、仕込み杖の鞘を大きく振るう。
 若侍は右足を大きく前方に滑らせ、肩から地面に激突した。
 呆気に取られ、自分の足に掛かっているものを凝視する。
「‥‥な、縄!?」
 それは、地面に置かれた荒縄だった。雪巳と呼吸を合わせ、輪を作った縄の中に誘い入れたのだ。鞘の動きは、縄の片側を引いて若侍の軸足を払う動きだった。
「なりふり構わずです‥‥」
 打ち込みが来る。若侍は左手を刀の棟に添え、振り下ろされる仕込み杖を防ごうとする。
 だが霞澄の右手は仕込み杖を捨て、腰に差していた榊の杖を構えている。異様な速度で霞澄の眼前に集まっていく純白の光を見て、若侍はここでも致命的な過ちを犯したことに気付いた。
 爆発的な光の本流が若侍を呑み込み、木々の枝を薙ぎ払いながら後方へと吹き飛ばした。

 あと二丈。




 自分より頭一つ以上小さな柄本だったが、大小を抜き低い姿勢に構えたその姿を見て、ウルシュテッドは即座にその厄介さを見て取った。
 どのような攻撃も受けられるよう的を小さく構え、後の先を取る構えだ。小刀の間合いの外で戦うことが常道だが、脇差ほどの忍刀と苦無しか持たないウルシュテッドの不利は火を見るよりも明らかだった。
「光広には己の道がある。雲雀たち家族もいる」
 だがウルシュテッドは怯まない。その左手が閃き、朱苦無が投じられた。
「光広? あの庶子の事か」
 小刀がその軌道を逸らし、平太が踏み込む。大刀を後方に隠し、そのまま小刀でウルシュテッドの頭を狙う。忍刀で流す。小刀で胸を突く。血飛沫が上がる。
「名も知らぬ子供を殺すというのか」
 ウルシュテッドの常磐色の瞳が、剣呑な光を帯びた。
「俺達は人を斬るために雇われているのでな」
 小刀を振り上げながら右足を踏み出し、右の大刀を薙ぎ払う。忍刀で流す。大刀を返し、斬り払う。忍刀で受け止める。がら空きになった頭へ小刀を振り下ろす。血飛沫が上がる。
 車懸かりの陣を思わせる嵐のような攻撃で、圧倒的に攻めているのは平太だ。だがそれを繰り出す程に、血飛沫を上げているのも、また平太だった。
 ウルシュテッドは遠い弦音を聞く度に、時間を停止させる忍の奥義を発動していた。視界に入った矢に小石や苦無を当てて方向を逸らしながら、平太の太刀筋を見極めている。
 時間を止めて平太を斬るのは容易い。だが、その瞬間に仲間が平次から狙われることを警戒し、ウルシュテッドは「時」を待っていた。
 苦戦する兄を遠目に見ながら、平次は舌打ちを漏らした。
「‥‥手套を脱するか」
 そして深呼吸を始める。全身を駆け巡っていた練力が、肩甲骨に集う。
 ウルシュテッドのいる方向へ放った矢が、時折前触れなく方向を変えている事実。時折、まるで分身してもう一人の自分になりかわったかの如く、二刀の軌道から抜け出している事実。
 その二つから、平次はウルシュテッドの危険性を正確に認識していた。
 弓を天に向けて右手の矢を番え、ゆっくりと前方へ下ろしながら引き絞る。肩から漏れ出した練力が糸となって弦に絡みつき、弓に悲鳴をあげさせるまでにきつく矢を引いた。
 ウルシュテッドの首の高さに狙いをつける。葉の一枚、小枝の一本に矢が触れても決して当たらない距離だ。月涙を活性化して来なかったのを悔やむ気持ちは、脳裏の隅へ追いやる。
「ウルシュテッドさん、あと八秒です!」
 緊張を隠せない声で雪巳が叫ぶ。
 平次の視界の奥で、ウルシュテッドの忍刀が大刀を、逆手に握った苦無が小刀を、それぞれ抑えた。
「透歌の言う通り、何も知らぬかと思い鎌をかけてみれば‥‥胸が悪くなる連中だ」
 突き上げる平太の左膝を、横手から右膝で払いのける。
「手心を加える余裕も必要もない」
 ウルシュテッドの姿が、消失した。尾を曳くような、早駆によるものではない。徐々に薄れていく影舞でもない。文字通り、その場から消え去った。
「もらった」
 兄の眼前、狙いをつけた首の高さ目掛けて矢を放つ。互いでさえも、戦とあらば利用するのがこの兄弟の常だった。囮になった兄に斬りつけた忍の首筋を矢が射抜く様を平次は確信し、放たれた矢の行く末を見守る。
 雷鳴の如き轟音が木立を揺らし、矢が視界から消えた。
 違う。濡れた何かが顔に触れている。地面だ。地面に打ち倒されている。轟音が耳の奥で木霊している。一瞬遅れて、脳髄が灼き切れるほどの激痛が襲ってきた。
「何が‥‥起きた‥‥」
 あの忍が、一刹那の間にここまで来られた筈はない。全く事態が理解できず、平次は痛む右胸を押さえた。夥しい血液が、瞬く間に左手を真紅に染める。傷は小さく、そして深い。矢か。だが矢羽根は無い。
 否、弾丸だ。砲術士が隠れていたのだ。雷鳴のような音の意味を理解し、平次は痛む右腕を無理矢理動かして矢を番えた。
 だが、視界の奥には誰もいない。白煙が漂っているだけだ。
「撃ち合いになったら、分が悪いですの」
 自分に迫る命の危機とはかけ離れた、愛らしい少女の声が聞こえた気がした。
 目を懲らす。風を受けて流れゆく白煙と下生えの中、比較的動きの少ない草と枝の塊がある。反射的に平次は矢を放っていた。
 だが、その矢の行方を見届けるよりも早く、砂魚のクルマルスが爆煙と共に銃弾を放った。右腹を撃ち抜かれた平次が、声を上げる事さえできず後方の斜面を転げ落ちていく。
「流石に、危ないところでしたの‥‥」
 夥しい血を流しながら、砂魚が呟く。
 手負いで放った平次の矢が、砂魚の左鎖骨と肩甲骨を削り、大胸筋を射抜いていた。あと一寸ほど下に当たっていれば、臓器を貫いていただろう。小さな手で矢をへし折り、背に抜けた矢を引き抜く。
 斜面の下で平次がぴくりとも動かなくなった事を確認し、砂魚は伏せていた耳をゆっくりと立てた。粗末な外套には枯れ草と木枝が取り付けられ、小柄な砂魚の身体を完璧なまでに下生えの中へと隠している。
 一般人に比しても小柄な身体は本物の狐よりも完璧に物陰に潜み、緩慢にすぎるほど緩慢に戦場の脇を這い進んで、十丈を超える射程の差を埋めた。
 そして敵を捉えるや、完璧に虚を衝いた最大火力の二連射で、遥かに場数を踏んできたであろう平次を撃ち倒したのだ。
 雪巳が、居場所を晒す危険を冒してまで平次の居場所を叫んでいたのは、誰よりも横手に離れて潜んだ砂魚の為だった。
 眼下では、時を止められた数秒の間に首筋を斬り裂かれた平太が、血を噴き上げながら崩れ落ちていた。
 ウルシュテッドは路傍の石のようにそれを無視し、一人残った巫女へと歩みを進めている。
 槍使いを斃し、若侍の前に立ちはだかった羽流矢が眼を細めた。
「まだやるかい? 相手してやるよ、最期まで」
 槍使いは倒れ、巫女は杖を捨てて頭の後ろで両手を組んでいる。
「‥‥参った。殺さないでくれ」
 若侍は刀を捨てた。




 とっぷりと日が暮れ、重邦の屋敷は夜闇に包まれていた。
「父上。お暇を頂きとうございます」
「家族に暇とは、妙な事を」
 行灯の明かりの中、顔を強張らせて重邦が答える。
 返り血を洗い落とし、里の符水と巫女達の精霊術ですっかり傷を癒した開拓者達は、用意してきた大福と茶を前に、その様子を見守っていた。
「既に、父上もご承知の筈。私が実父より譲り受けた短刀、父上の刀とは鉄色が違いましょう」
 蔦丸は狼狽えて重邦と光広を見比べている。
「父上の下で刀を見る事数多。刀を見る目だけは磨かれたものと自負しております。あの守り刀を打ったのは、私の実父は、父上ではないのですね」
「光広さん‥‥」
 雪巳が気遣わしげに声を掛ける。だが、
「これ以上、父上にも雲雀さんにも、皆さまにも、ご迷惑は掛けられません」
 光広は首を振る。
 重苦しい空気の中、
「でも、‥‥美味しいご飯をみんなで食べられる所なんですよね」
 家族と、好きな人と、何を疑うことなく食事ができることの幸せを、年若い身で誰より知っている透歌が呟く。
「もう決めたことです」
 光広は硬い表情で言い切った。
 重苦しい沈黙が降りる。
 その中、一人の人物がぼそりと声を発した。
「出て行った結果鈴家の者共に討たれたとて、御身に悔いはあるまいな」
 岩崎だった。光広が向き直り、平伏する。
「無論にございます」
「であろうな。他人と付き合い、八方丸く収まる道を探るのに比べ、自分が望んだ通りに生き、思い通りに死ぬほど楽な事はない」
 普段温厚な岩崎が、珍しく険しい顔をしている。
「‥‥自分の望みを放り捨てられた回りの人々は、堪ったものではなかろうが」
 光広が、ぎくりと身を竦ませた。
 ウルシュテッドが、厳しい視線を光広に向ける。
「光広、それは独善というものだ」
 常磐色の瞳が、行灯の光を受けて強く光っていた。
「皆はここに残って欲しいという。光広はそれを捨て出て行くという。光広の言い分ばかりが通る道理はない」
「光広さん‥‥」
 霞澄が目でウルシュテッドを制し、静かに声をかけた。
「私は、貴方を一人にしないと約束しました‥‥一人で決めてはいけませんよ‥‥?」
「そうだよ! 光広兄ちゃんがいなくなったら、誰が父ちゃんの刀を見はるの! わたし、まだ鉄色なんてわかんないんだから!」
 雲雀が、古い床を掌で叩く。
「光広兄ちゃんが見張ってなかったら、また父ちゃんが刀の鍛えを変えるに決まってるでしょ!」
「それは、‥‥はい」
 ちらりと視線を向けると、重邦が居心地悪そうにしながらも頷く。
 目を赤くした雲雀は休みなしにまくしたてた。
「古釣瓶の鍛えが変わって、偽作なんて言われたらどうするの! カチがボーラクして、また里のザイセイが火の車になるに決まってるでしょ! 何かあったら、岩崎様がみんなを呼んでくれるんだから! それで何か問題あるの! どうなの!」
「ですがそれでは、岩崎様のご負担が‥‥」
「ところがだな、光広殿」
 しかつめらしい顔を作り、岩崎が指先で顎を撫でる。
「お抱え刀工の偽作が万商店に並んだ、なぞと言われようものなら、私は腹を切らねばならん。野込家もまた流浪の旅だな。その程度、必要経費というものだ」
「は‥‥はい‥‥」
「光広さん、解りますね‥‥?」
 霞澄が、そっと光広の背を撫でる。光広はふと顔に手を当てた。
「これからのことは、『家族』みんなで‥‥」
「はい」
 滝のように目から涙をこぼしながら、光広は深く頷く。
 雲雀もまた、目尻に涙を浮かべ怒鳴りつける。
「光広兄ちゃんにしか父ちゃんはカンシできないんだから! わかった!?」
「‥‥はい」
 重邦に頭を撫でられ、泣き崩れる光広を見て雪巳がほっと息をついた。
「ひとまず、落着ですかね。‥‥どうしました?」
 雪巳が青い目を隣に向けると、透歌が眩しそうに目を細めていた。
「仲の良い家族みたいで、少し羨ましいかなって」
「透歌さんも色々あったのですね」
 成人前からどれほどの苦悩を乗り越えてきたのか思いやり、雪巳は急須を取ると透歌の湯呑みに茶を注ぐ。
「‥‥さて」
 岩崎が大福を手に取り、二つに割りながら、やおら開拓者の側に向き直った。
「羽流矢殿。先刻の、草として使ってほしいという話だが」
「いや、怪我もそれほどじゃなかったし‥‥」
 訝しげな顔をしている羽流矢に、岩崎は穏やかな目を向ける。
「今の状況に疲れたかな。‥‥儂の考えすぎやも知れぬが、御身の考えにも、僅かではあったが、光広殿のそれと近いものを感じた」
「考えすぎだよ」
 羽流矢は苦笑する。
「草とは、家のためになら愛する者をも地獄に蹴落とさねばならぬものぞ。御身には少々向かぬ」
 岩崎は口元をほころばせ、続けた。
「疲れたならば、休まれるが良い。天も地も人も、なべて世は美しい。それらに抱かれ、緩やかに朽ち果ててゆくもまた良し。だがまた御身の心に火が入らぬとも限らぬ。その時に必要とあらば、遠慮なく当家の門を敲かれよ。閂と役職は御身のため、いつでも開けておこう」
 岩崎は視線を外し、一同を見わたす。
「この頭のすっかり禿げ上がる前に、その時が来てくれる事を祈っていよう」
 そして頭頂部まで広がった額をぴしゃりと叩き、大笑した。