瀧華、蠢動
マスター名:村木 采
シナリオ形態: ショート
EX :危険
難易度: 難しい
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/06/05 20:43



■オープニング本文


 梅雨にはまだ入っていないが、庭から見える空には暗く重い雲が垂れ込めている。
 ここは三倉、武天辺境に位置する侠客の町。
「しかし、こりゃ一体どうしたわけだ」
 町を二分して争う侠客一家の一つ、永徳一家の親分、剣悟郎は不思議そうに首を捻った。
「一昨日も親子五人、着の身着のまま永徳の縄張りに逃げ込んで来やがった。今月だけでもう五件目だ」
 白髪の老神威人、参謀の岸田仁兵衛は剣悟郎の向かいの座布団に座り、腕を組む。
「どうも近頃、瀧華の連中が大層な数の志体持ちを雇って、縄張りの締め付けを厳しくしてるようで」
 剣悟郎は忌々しげに鼻を鳴らした。
「金の或る連中は違えなあ。どっからそんな金が出て来やがるんだか」
「元々金のある連中ではありますがねえ、どうも今回はそんな話じゃなさそうなんで」
 仁兵衛の耳が小刻みに動く。
「何か別の金づるができたんじゃあねえかと」
 剣悟郎は立てた片膝に顎を乗せ、顔をしかめる。
「もう調べは入れてんのか」
「へえ、蜘蛛助が探りを入れてまさあ」
 蜘蛛助とは、仁兵衛が片腕とも、半身とも恃む情報屋だ。
「流石だな。しかし、こうも逃げ込みが多いと手が足りなくて仕方ねえ」
 剣悟郎は大あくびをした。仁兵衛が苦笑する。
「全くで。落ち着くまでは臨時雇いでも志体持ちを増やしてえ所なんですがね」
 寝返った者を放置しておけば、瀧華一家の面子に関わる。彼らを見せしめに処罰しようとし、永徳の縄張りで喧嘩が起きることも飛躍的に増加していた。
 仁兵衛はため息をつく。
「ただ、下手に腕利きばかり集めても治安を悪化させかねねえのが難しい所で」
「筋だきゃ、きっちり通せる奴が欲しいな」
 言いながら、剣悟郎は眉をひそめた。邸宅の前に、切羽詰まった声が近付いてきたのだ。
 声は門の前で立ち止まった。二人は顔を見合わせる。
「親分さん! 剣悟郎親分さん、えらいこってす! 開けますよ!」
「おう、開いてるぜ」
 剣悟郎の声を待たず、門の隣に作られた通用口が開く。
 途端、仁兵衛が腰を浮かせた。
「弥勒、どうしたい」
「剣悟郎親分、仁兵衛の旦那、すまねえ」
 町人二人に両肩を支えられて、見るも無惨に顔が変形した血だらけの男、侠客の弥勒が門を潜ってきたのだ。剣悟郎が仁兵衛を押し退け、真っ先に弥勒へ駆け寄る。
「どうした、何があった」
「瀧華の奴らに、やられちまった」
 右腕が青黒く異様なほど腫れ上がり、右足首もまともに地面につけないようだ。仁兵衛は町人の一人に声を掛けた。
「悪いが医者を呼んでおくれでないかい。巫女もだ」
「お安い御用で」
 町人は威勢良く返事をし、門から走り出て行く。
 仁兵衛は弥勒の身体を支え、ゆっくりと地面に横たえた。剣悟郎がその隣に膝をつく。
「おい、しっかりしやがれ」
「すまねえ親分。情けねえ」
 弥勒は折れた歯を食いしばり、嗚咽を漏らす。
 おろおろと立ちつくしているもう一人に、剣悟郎が顎で指示を出した。
「おう、家の中にな、符水があるから二つ三つ持ってきてくれや」
「う、請け合いました」
 町人は慌ただしく草履を脱ぎ捨て、剣悟郎の邸宅に上がり込む。
「で、どうした」
 弥勒は左腕で目を隠し、暫く歯を食いしばっていたが、やがて涙声で話し始めた。
「昨日、竜三兄貴と一緒に見廻りをしてたんでさあ。そうしたら、うちの縄張りへ逃げてきた連中に、瀧華の志体持ちが絡んでやがって」
「まさか、竜三がやられたのか」
 剣悟郎が目を剥く。竜三は、三倉で随一の泰拳士と言われる男だ。弥勒は首を振った。
「その時は二人がかりで叩きのめしたんだ。ただ、俺の顔を覚えてたらしくてよ」
「意趣返しか」
「今朝方、木刀振って稽古してたら、奴ら、瀧華から逃げてきた堅気の連中を人質に取ってやがって」
「んだと」
 剣悟郎が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「その三人を連れてって、明日の正午、見せしめで橋に括るっつってんだ」
「外道が」
 広い家が、剣悟郎の大音声に揺れた。仁兵衛が顔色を変える。
「親分、ちっと落ち着いて下さいや」
 剣悟郎は、肩を押さえる手を振り払って仁兵衛の目をはったと睨み付けた。
「やかましい、竜三と菜奈呼んで来い」
「勿論、呼んで来まさあ。ただ親分、短気はいけません。弥勒、明日の正午と言ってたんだねえ」
 弥勒は血混じりの涙を流しながら頷く。
 剣悟郎は勢いよく立ち上がった。
「明日まで待つ必要もねえ、今すぐ乗り込んで」
「親分」
 仁兵衛があきれ顔で、杖の先端を剣悟郎の膝に触れる。
 剣悟郎はぎくりとして、老神威人の顔を見返した。
 八の字になった眉の下で、仁兵衛の両目は剣呑な輝きを帯びている。
「気持ちはあたしも同じでさあ。それぁ、親分なら誰よりお解りでしょうが」
 剣悟郎は鋭く舌打ちを漏らして頷く。
「あたしは人を集めてきまさあ。必ず助けなきゃならねえ」
 弥勒は頷き、まだ動く左手をきつく握り締めて、声を絞り出した。
「あの親子、泣きながら引きずられてったんだ。頼む、頼みます、親分、仁兵衛の旦那」




 三倉の東端。弧を描く川沿いの堤防に植えられた柳が、雨交じりの風に揺れている。
 川は雨で増水し、半尋以上の深さになっているようだ。
 堤防の上には、黒山の人だかりができていた。その多くが笠と蓑で風雨から身を守っている中、屋号の入った蛇の目傘が幾つか小さく揺れている。
 川に掛けられた橋の欄干には太い柱が斜めに括り付けられ、その間に梁が渡されていた。梁からは、その目的が一目瞭然の縄が三本ぶら下がっている。
 人を欄干に立たせて首を縄に通し、川に向かって突き出した梁の下へと蹴り出すのだ。
 青い布を腕に巻いた男達が、押し合って近付こうとする人々にがなり立てている。青布は、どうやら瀧華の志体持ちの目印らしい。
 青布を付けた男達は、十名ほどが堤防に広がって野次馬の最前列を押しとどめていた。橋の上には六人の志体持ちがおり、親子三人を取り囲んでいる。
 手足を縛られた年端も行かない子供は母親と共に泣きじゃくり、父親はがちがちと歯を鳴らして橋を見ていた。
 八百屋の陰で、低い声が漏れる。
「志体持ちは他に‥‥堤防の上流側に四人、下流側に四人」
 狐耳を伏せて頭巾を被り、狐尾を袴の裾に仕舞った老人、仁兵衛が呟いた。
「大通りは、両端に三人ずつ。計六人」
 橋のたもとから斜面にかけては階段がつけられており、そこを降りると正面へ伸びる大通りがある。
「堤防の上と大通りから、家の屋根と路地を見張ってやがる。ちっと面倒だねえ」
 仁兵衛はちらりと隣を見た。
 額に血管を浮かび上がらせた剣悟郎がきつく拳を握り締めている。
「折角一日待って下すったんだ、もうちっとの辛抱ですよ」
「ぐぐぐ‥‥」
 剣悟郎は獣のような唸り声を上げる。
 側の女に傘を差させた男が、顎をしゃくった。
「おう、始めるぞ」
 瀧華一家の参謀、影政だ。親分の琢郎は出てこないらしい。
 橋の上の志体持ちが、親子三人を小突いて立ち上がらせた。


■参加者一覧
柚月(ia0063
15歳・男・巫
鬼島貫徹(ia0694
45歳・男・サ
鬼灯 仄(ia1257
35歳・男・サ
メグレズ・ファウンテン(ia9696
25歳・女・サ
アグネス・ユーリ(ib0058
23歳・女・吟
羽喰 琥珀(ib3263
12歳・男・志


■リプレイ本文


 瀧華一家の縄張りに一人住まう老人、野沢スヱは、首括りの話を思い出して顔を顰め、炉端で茶を啜った。
「嫌な世の中になったもんだ」
 と、その眼前で雨戸が二度、三度と鳴ったかと思うと、轟音を上げて外れた。外の肌寒い空気が、家の中へと流れ込んでくる。
「あ? 人が居たのか」
 湯呑みの転がる音に気付き、中を覗き込んだのは、身の丈六尺を超える長身の伊達男だった。鉄紺の長着を着流し、肩には茜色の羽織を掛けている。
 伊達男、鬼灯仄(ia1257)は咥えた煙管を小刻みに動かしながら、
「ちと借りるぜ」
 明るく言い、左手を軽く立てて見せると、外した雨戸を掴んで踵を返した。右手で役者のように巨大な傘をくるりと回して掲げる。
「ゴメンね、おばあさん」
 表では、巫女袴に漆黒の衣を羽織った細身の人物、柚月(ia0063)が赤い舞傘を肩に預け、白い両手を合わせていた。整った目鼻立ちと官能的な顎の輪郭は、男とも女ともつかない。
「‥‥なんだろーね。僕さ、縄張りとかなんとか、あんまり興味ナイんだケド」
 柚月はその隣に立ち、雨の路地を軽い足取りで歩き出す。
「こゆのはスキじゃナイな。全然楽しい話じゃナイもん」
「そこは同感だな」
 肩と顎で傘を挟み、仄は煙管を摘み上げた。紫煙が傘から漏れ、雨の中を空へ上っていく。
「見せしめに女子供を殺す連中も、それを見物に集まってる連中も、どうも気に入らん」
 他所見をしている間に水溜まりに足を突っ込み、柚月は飛び退いた。
「もー、天気、サイアク! 何でこんな日に‥‥」
「愚痴るな愚痴るな」
 座ったまま腰を抜かした老婆の前で、二人は堤防前の通りを曲がって消えていった。



 鉢金に面頬、茶筅髷の中年男、貫徹(ia0694)が、腕を組んだままゆっくりと寄りかかっていた壁から離れた。
「なんだかんだ言ってやくざの世界はビビらせたもの勝ちだ。その点、瀧華の奴は良く分かっている」
 鬼島は堪えきれずに喉の奥で笑い出し、剣悟郎と仁兵衛の背を叩く。
「そしてそういう小賢しい奴の計画を滅茶苦茶にして面子を潰す、なんと愉快な事か」
「全く、鬼島さんにゃ敵いませんや」
 仁兵衛は苦笑した。
 壁に立てかけた手鏡に映る堤防に、人影が無くなった。剣悟郎がちらと首を覗かせて大通りを見ると、年若い侠客が小走りで堤防に向けて駆けていく。
 野次馬の一人が気付き、目を細めた。
「お、可愛い侠客がいるぞ」
 身の丈四尺ほど。甚平に雨よけの外套を着込み、三度笠を被った少年が、階段に屈み込んでブーツの紐を直している、ように見える。背には、蓋から芋の覗いた籠を負っていた。
 羽喰琥珀(ib3263)だ。背負った脇差は籠の内側に完璧に隠れている。見事な町への溶け込みぶりに、緊張の糸を緩められた仁兵衛が微かな苦笑を漏らす。
 鬼島が巨人のものとも見紛う八尺超の巨斧を掴み、狭い路地で壁に触れぬよう肩へ担いだ。三人は頷き合い、物音を立てないよう鏡を回収して堤防に近い物陰へと移る。
 階段を上がった琥珀は後ろ手に握っていた爆竹に懐炉から火を移すと、指で強く弾いて堤防の下へと放り捨てた。
 その時、野次馬がざわつき始めた。
 泣きわめく子供を小突いた志体持ちが振り向き、目を瞠る。
「で、でけえ‥‥」
 巨大。堤防に群がる身の丈五尺半ほどの人々の中に、身の丈七尺を優に超える異形の人物、メグレズ・ファウンテン(ia9696)がいた。頭巾に外套を被ってはいるが、身体の厚みと横幅から言って、中に鎧を着込んでいるのだろう。
 身体に相応しい巨大な行李を背負い、橋に近付こうとしている。
「あちゃ」
 琥珀が笠の下で顔を覆った。
「おいそこのデカブツ、近付くんじゃねえ! その図体なら、そこから見えるだろうが!」
 口から唾を飛ばしながら、志体持ちが怒鳴る。大通りと下流側の弓持ちが一斉に矢を番え、橋のたもとにいた志体持ちが五人、野次馬を押し退けて頭巾の人物へと近付いていく。押された野次馬が、一部堤防を転がり落ちた。
 瞬間、爆竹が破裂した。野次馬達が飛び上がり、慌てて振り向く。
「何だ! どう」
 した、と影政が叫ぼうとした時、爆音が轟いた。野次馬は一部で将棋倒しになり、ある者は腰を抜かし、ある者は頭を抱えて屈み込んでいる。
 続いて、階段の下部で爆発が起きた。
 野次馬達が恐慌に陥る。
「死にたくなかったら上流か下流に逃げろっ」
 三度笠の下で、琥珀が叫んだ。それを引き金にして、野次馬達が蜘蛛の子を散らすように逃げ始める。弓を構えていた志体持ちが人波に飲まれ、引き絞られた矢が明後日の方向へと飛んでいった。
 派手な水音が響いた。二人ほど野次馬が川に転がり落ちたようだ。
 今度は、階段の中ほどで爆発が起きた。弾け飛ぶ鉄菱に混じって、蓑と笠が放り投げられる。
「気に入らない」
 透けるような薄い舞衣を雨の中にはためかせながら、物陰に潜んでいたコルク色の肌の女ジプシー、アグネス・ユーリ(ib0058)の足が泥を蹴立てた。跳ね上げられた泥水が地に落ちるよりも早く、階段の五段目、九段目の水溜まりに波紋が生まれる。霧の精霊が、彼女の姿も足音も、全てを隠している。
「ものっすごい気に入らない。腹立つ」
 五歩で階段を駆け上がったアグネスの身体は野次馬と志体持ち、そして親子三人さえも跳び越え、空中で反転した。前方に背を向け、傘を差した女と影政の側へ飛び降りようとする。
 その視線が影政のそれと交差し、アグネスは歯噛みをした。この男には、ナハトミラージュが通じていない。見えている。
 だが、まず動いたのは隣の女だった。その両の瞳が、頭巾の下からちらりとアグネスを見た。
 アグネスの肌が、一気に粟立った。巨大な蛇に睨まれたかのような気分だ。できる。目の前にいる影政よりもできる。
 だが女はさりげなく影政から離れ、階段へと一歩半歩み寄った。
 やっちまいな。女の唇が動いた。
 アグネスの足が橋に触れ、しなやかな脚が撓んで衝撃を吸収する。真上までアグネスを視線で追っていた筈の影政は、懐に手を入れたまま動かない。
 短い白刃が、雨に打たれながら影政の首にそっと当てられた。
「動かないで。魔法の気配や、身じろぎひとつが命取りよ」
 緩慢に振り向こうとしていた影政の動きが止まる。
「メグレズを、あの大柄な女性を橋に通しなさい。部下を親子から離して、橋のたもとに行かせるのよ」
「言う通りにしろ」
 影政が微かに顎を動かした。親子三人を捕らえていた志体持ちが顔を見合わせ、一歩、二歩、下がる。
 上流から、呼子笛の音が聞こえた。アグネスは視界の端に舟を捉え、メグレズが近付くのを待つ。
「無駄な抵抗は止めとくことね」
 堤防の下流側でメグレズが行李から盾を出し、刀を抜いた男達に近付いていく。
「あたし達は寄せ集めとは違う‥‥動き見てれば、わかるでしょ」
「おう。無駄な抵抗はしねえよ」
 影政の、皮肉っぽい声が漏れる。
「無駄な抵抗は、な」
 危険を察したアグネスが、咄嗟に右手を走らせる。乾いた音が、川面を揺らした。




 三つめの焙烙玉が破裂した直後、琥珀は階段を一足に飛び降りて大通りの志体持ちの前に踊り出していた。
「邪魔だガキ!」
 まだ琥珀を町の子供と思っているのか、男は刀を振りかざして横を抜けようとする。その前足を、琥珀の前足がさりげなく突いた。泥の中に膝を突いた男の目線が、琥珀の目線に並ぶ。
 一尺六寸七分の脇差が、無数の雨粒を真っ二つに切断した。瞬き一つする間に、刀身は背中の鞘に収まっている。
「熱‥‥」
 男が絶句した。指四本が全て落ち、鮮血が手首から肘へと流れ出している。
「てめえ! 永徳の‥‥」
 琥珀は低い体勢のまま跳躍し、横手から身体ごと突き出された打刀を躱した。指先で三度笠を軽く持ち上げ、ちらりと周囲を見る。
 剣悟郎の放った螺旋が、弓使いの右腕を削っている。が、その腕でも弓を引ける可能性はある。もう一人の弓使いはまだ無傷だ。琥珀は脇差の柄に手を掛けた。
 弓音が届くよりも早く、琥珀の足は泥を蹴り上げていた。放たれた矢が上腕に刺さるのも構わず、剣林の中を弓使いへ突進する。
 振り下ろされる刀が外套と甚平を裂き、琥珀の腕と背を浅く斬る。弓使いが二の矢を番えるよりも早く、琥珀の身体は弓使いとすれ違い右後方へと抜けていた。
 高く張り詰めた音をたて、弓の弦が男の手指と共に宙を舞う。
 追いすがった男が、逆袈裟に刀を振り下ろした。斬撃は、背負った刀が抜かれる軌道に重なっている。
 今抜けば、右手を切られるだろう。琥珀の左手が、背負った脇差の鞘尻を持ち上げた。
 銀光が迸る。
 男が顔を歪め、腹を押さえて飛び退った。背負った刀の角度を変えた琥珀が、右腰側から逆手で脇差を抜き、前腕を棟に押し当てて無防備な脇腹を抉ったのだ。
「攻撃してもオメー等が怪我するだけだぜ?」
 瞬き一つする間に脇差を鞘へ納め、琥珀が白い歯を見せた。弓使いが左手で脇差を抜き、琥珀の包囲に加わる。
 刹那、橋で乾いた音が響いた。反射的に振り向いた琥珀の視界に、異形の鉄塊を担いだ紅樺色の人影が映る。
「アグネスさん!」
 メグレズが叫んだ。
 首を浅く裂かれ、左側頭部をざっくりと抉られた影政が身体をくの字に折っていた。その手には、殆ど切り離された血塗れの耳が掴まれている。
「このアマ‥‥マジに殺る気でいやがったな」
 流れ出す血が、雨に濡れた長着と羽織の左半分を赤く染め上げる。
 その後方で、アグネスは腹を抱えて屈み込んでいた。
 懐に隠していた宝珠式小型銃で、脇の下から後方を撃ったのだ。直撃はしていないが、弾丸はアグネスの左脇を削り、鮮血を流させていた。
「おい、この女をふん捕まえとけ。殺すな」
「あいよ」
 男達が刀を抜いて桁板の間に刺し、鞘を構えた、その瞬間だった。
 巨大な赤い塊が階段の下から飛び上がった。銀色の風が背筋も凍る唸りを上げ、轟音と共に無数の木片が弾け飛ぶ。
「‥‥は?」
 呆然と、男達が欄干を見た。
 欄干ごと、絞首台の柱の一本がへし折られている。折れた柱と梁の重みに耐えかねて残る一本の柱が傾いていた。
 足を前後に目一杯開き、八尺超の巨大すぎる戦斧を振り下ろした鬼島が吼えた。
「掛かってこい、雇われ共!」
 呆気に取られていた男達は我に返り、鬼島を取り囲む。
 鬼島の発する闘気が、柳の幹と水面を激しく震わせた。前足に後足を引き寄せ、鉄塊の如き斧頭が雨に打たれながら分厚い雲を指す。
「迂闊に近付くんじゃねえ馬鹿野郎!」
 影政が声の限りに絶叫する。
 鬼島の身体が前方に倒れ込み、次いで鉄塊が雨に従って落下を始める。紅樺色の羽織が回転を始め、鉄塊の直線軌道が円軌道に変わった。勘の鋭い男達が後方に跳ぶ。
 金属音。肉の潰れる鈍い音、骨の砕ける固い音、欄干のへし折られる乾いた音、派手な水音が、滅茶苦茶に入り交じった。
 右腕と鎖帷子ごと右胸を粉砕された男が吹っ飛び、欄干で跳ねて川に落ちる。咄嗟に翳した刀ごと下顎を割られた男が尻餅をつき、胸を裂かれた男がその場に膝を突く。
「‥‥こいつ、できるぞ」
 上流の男達が駆け付け、橋のたもとに残っていた男達と共に鬼島を遠巻きに囲んだ。
 同時に、下流側で切羽詰まった声が上がる。
「おい、こっちも手が足りねえぞ」
「鉄の塊みてえな女だ」
 前後から八人がかりでメグレズを囲んでいる男達だった。
 傷が負わせられないわけではない。が、全員で何度刀を突き立てても鋒一寸程度しか刺さらない。それどころか半分以上は二枚の盾に阻まれ、傷一つ負わせられない始末だ。
 メグレズが地を蹴った。男達がめいめいに獲物を翳し、衝撃に備える。重鎧に包まれた七尺超の巨躯が、全体重を掛けて盾を振り下ろす。防ぎきれず、盾の縁で奥歯を折られた男が水溜まりに尻餅をつき、泥を跳ね上げた。
 打刀が、長脇差が、白銀の鎧目掛けて突き出される。メグレズの盾が弧を描き、雨粒ごと白刃を二つ薙ぎ払った。三口の鋒が鎧の隙間に潜り込み、二口の刃が鎧に激突して雨の中へ火花を散らした。煩そうにメグレズが身じろぎすると、一口の鋒が鎧に挟まれてへし折れる。
 常人なら動けなくなっても不思議でない傷だが、まるで痛みを感じないかの如く、メグレズは二枚の盾を振り回している。
「畜生、組み付け、川に放り込め」
「それだ」
 腰に飛びついた男を、メグレズの黒い瞳が冷たく見下ろす。盾を握ったままの両手が、背中から両腕ごと男の胴を抱え込んだ。メグレズの身体が、急激に反り返る。男の身体が天地逆になり、地面と平行になるまで抱え上げられた。メグレズの頭の高さ、七尺半の高さまでだ。
 悲鳴を上げる男は、メグレズの全体重を乗せられて後頭部から濡れた地面に突き刺さった。




 志体持ち達に囲まれてもなお、アグネスは動じない。
 振り下ろされる鞘を、身体から垂直に伸ばした左爪先でいなす。流れるように右足で地を蹴って半回転し、切り返す鞘を躱す。両足で着地するや身体を二つに折り、右踵を後方へ跳ね上げる。男の肘に阻まれた右足は縦に逆回転し、真上から男の頭頂部に叩き落とされた。
 地についた右爪先が柔らかく橋を蹴り、突き出された二本の鞘は力点を外されてアグネスの身体を叩く。
 宙に浮いたアグネスの右足指が、橋に刺さった刀の柄を捉え、細い肢体を支えた。
「見せしめですって? ‥‥自分らの恥、衆目に晒してあげようじゃないの。観客は減ったけどね」
 手足を艶めかしく踊らせてバランスを取り、アグネスは刀の上に立っていた。柄を蹴り、横薙ぎの鞘を躱して影政の前に降り立つ。
 だが、その足が届くよりも一瞬早く影政の術が完成した。
 地鳴りと共に、橋のたもとから爆発的に灰色の雲が噴き上がった。雲は降り注ぐ雨粒を弾き飛ばして凝集し、光沢を放つ鈍色の鉄塊となって橋のたもとを塞ぐ。アイアンウォールだ。
 堤防から切り離された橋にはアグネスと親子三人、そして志体持ち六人と影政、そして女が残っている。
 殆ど切り離された左耳を自ら引きちぎり、影政は後方へと飛んだ。その指に填められた太い指輪から、赤い光が放たれる。
「くらえ」
 アグネスの身体を、渦巻く金赤の炎が包み込んだ。歯を食いしばり、アグネスは全身を貫く灼熱感に堪える。が、更に一度。アグネスは思わず苦鳴を漏らし、自分の不覚を悟った。
 侠客の攻撃を躱すには最適の防備も、必中の魔術を耐えるには不足がすぎた。この二連発がもう一度来たら、耐えられない。
 その前に影政を倒すには、アグネスの一撃が軽すぎる。打ち倒すにはあと七発、いや八発は叩き込まなければ。手数が足りない。しかし鉄壁に阻まれ、助けは来ない。呼子笛の音も、まだ僅かに遠い。
「殺しゃしねえよ。精々可愛がってやるぜ」
 影政が唇を歪める。
 刹那、鉄壁が甲高い金属音を上げて大きく揺らいだ。影政を含む男達が、ぎょっとして鉄壁を見る。
 鬼島が、宣花大斧を鉄壁に叩きつけたのだ。
 火花を散らした八尺の斧が、鬼島の全身ごと半回転して一瞬止まった。色の濃い肌に血管が浮き上がり、白い歯が剥き出される。
 鬼島が、渾身の気力と全身の体重を掛けて大斧を振り下ろした。
 爆音と共に鉄壁は四つに砕かれ、折り重なってその場に崩れる。
「クハハハハ! 愉快! 実に愉快!」
 赤鬼の二つ名通り、頭に血を上らせ顔を真っ赤にした鬼島が、粉砕された鉄塊を足で蹴倒し、橋の上へと一歩を踏み出した。その背に斬りかかった志体持ちが二人、鎖帷子ごと肋骨を削られて尻餅をつき、一人は腕を叩き潰されて膝を折っている。
「‥‥に、二発だと」
 影政は目を剥いた。並の志体持ちなら、破壊に十発、運が良くとも五、六発は要る鉄壁だ。アグネスを捕らえようとする男達も、示し合わせたように口を開け鬼島を見ている。
 その時だった。アグネスの背に、何かが触れた。
「え?」
 アグネスは目を疑った。火傷が治っている。まだ仄と柚月の乗った舟は川上だ。閃癒の光も発せられていない。
 敵の怪我が癒されていることに気付いた影政が、辺りを見回して新たな敵を探した。
 同じく事態は理解できずとも、アグネスの判断は迅速かつ合理的だった。燕の様に低空を飛び、影政の膝を真っ向から蹴る。両手で蛙のように跳ね、爪先で顔面を狙う。炎が、アグネスを包む。
「真朱! 手伝え!」
「手負いの女一人くらい、てめえで片付けな。あっちの侍と子供を何とかしねえと、負ける」
 真朱と呼ばれた女は鼻で笑い、影政から離れた。
 橋のたもとを固めていた男達は、鬼島に近付くのを諦めて地奔や地断撃による攻撃に切り替えていた。一丈を超える高さから振り下ろされる斧頭の威圧感は、瀧華に義理の無い志体持ちには余りにも圧倒的すぎる。
 そして更に浮き足立っているのは、大通りだった。通りすがった剣悟郎に弓使いが一人殴り倒され、一人は脚の腱を断ち切られて動けず、残る四人も血塗れだ。
 琥珀は後の先に徹しており、最初に手を出した者は雁金の反撃を受ける。結局大通りの男達も、遠距離から散発的に攻撃を放つばかりになっていた。
「てめえ如きが加勢したって、あんな化け物に勝てるか! 今はこっちだ!」
「邪魔くらいはできるさ」
 真朱は傘を肩に担ぎ、志体持ちの間をすり抜けて歩き出した。
 アグネスは、男達の鞘を躱しながら形の良い眉をひそめた。最初に視線を躱した瞬間、彼女は真朱という女の実力を見て取っている。だが影政は、この女を下っ端か何かだと思っているようだ。
 絶対的優位が揺らぎだしていると気付いた男が、親子に駆け寄った。
「おい、てめえらこの親子が‥‥」
 子供に突きつけられようとしている刀が跳ね上げられ、川に落ちる。
「寝言は寝て言うんだねえ」
「仁兵衛さん!」
 アグネスの顔が明るくなった。堤防から橋桁に飛びついた仁兵衛が、欄干に立って杖で刀を巻き上げたのだ。
「岸田!」
「おう影政、相変わらず狡っ辛い手を使ってるねえ」
 両家の参謀が、雨の中で視線を激突させる。
 弧を描く川の上流から、猛然と小舟が近付いてきた。




「さあて、上はどんな塩梅かね」
 弱まる気配の無い雨の中、仄が尋常ならざる腕力で水竿を押す。
 舳先に立つ柚月が小刻みに水竿を突き、敢えて流れの急な所を選びながら、堤防にぶつけず、草に引っ掛けもせず、まっしぐらに橋目掛けて舟を進めている。
 仄は左腕で六尺の戸板を抱え、自分と柚月を矢と雨から守っている。
「ガキだ! 舳先のガキを射ろ! 転覆させてやれ!」
 影政が、アグネスの猛攻を凌ぎながら怒鳴る。
 柚月の手で、目に染みるような純白の羽扇が踊り始めた。降りしきる雨粒は羽に弾かれて丸い水滴となり、銀砂のように輝いていた。柚月の黒い衣が回転し、羽扇が、光の粒子と共に水玉を舞い散らせる。光は、後方の仄の身体を柔らかく包み込んだ。神楽舞だ。
「んな事言ったって、戸板が‥‥」
「うるせえ、早くしろ!」
 影政に怒鳴られ、上流の弓使いが矢を放った。渾身の矢は一本が戸板を割ったものの、三本は戸板に刺さって止まり、或いは弾かれる。
「仄、だいじょうぶ?」
「お陰さんでな。ったく、いくら天気が悪かったって、矢まで降らすこたぁねえだろ」
 戸板を撃ち抜いた矢に耳を裂かれた仄は舌打ちを漏らす。一、二寸ずれていたら、目を抉られていたかも知れない。
 柚月はちらと戸板を動かして橋の上を見る。アグネスが全身から白煙を立ち上らせ、魔術師らしい男と対峙していた。こちらは一目で相当な劣勢と解る。
 鬼島はと言えば、異様な雰囲気の女が手から出して糸の様な式に絡まれ、十人近い敵に囲まれている。メグレズも驚異的な防御力で相当数の敵を引き受けているが、橋まではまだ距離があった。堤防の向こうでただ一人、琥珀の元気な声が聞こえてくる。
 剣悟郎が、漸く上流に残った最後の弓使いに追いすがった。これ以上の射撃はないだろう。
「アグネス、こっち来て!」
 柚月の羽扇が、弾け散った。否、弾けたのは、羽根の形の光の塊だ。その中心に、白い鳥が翼を大きく広げている。欄干を背にした仁兵衛、欄干に駆け寄ったアグネス、鬼島と彼を囲んでいる男達、そして親子が、舞い散る光の羽根に包まれた。見る間に怪我が治り、各々の肌に血色が戻っていく。
 仄が水竿を突きながら怒鳴った。
「仁兵衛、下ろせ!」
「助かりまさあ」
 仁兵衛の手が振り上げられ、振り下ろされた。途端、親子三人と仁兵衛の身体が猛烈な煙に包まれる。
 柚月の投げた縄が、水面に顔を出した岩に引っ掛かる。影政が怒鳴った。
「行かせるな!」
「と、言うだろうねえ」
 男の断末魔が響き、四尺ほども鮮血が噴き上がる。
 煙に乗じて逃げる事を予期した男の首を、仁兵衛の抜いた仕込み杖が斬り裂いたのだ。仁兵衛の空いた手が、子供の襟首を掴んで川へと放り投げる。
「うわあ!」
 子供が悲鳴を上げた。
「ちょっと!?」
 猛烈な速度で進んでいた舟を止めようと、柚月が慌てて水竿で前方の川底を突く。
 落下してくる子供は、舟尾の更に後ろへ落ちようとしていた。仄が思い切り手を伸ばし、子供の腰帯を掴む。舟が思い切り後方に傾く。絶妙の間で柚月が後方に向け水竿を突いた。
 影政が怒鳴った。
「岸田を止めねえか! 何やってやがる」
「な、んな事言ったって‥‥」
 仁兵衛の前に立つ二人は、煙の中からまた白刃が現れるのではないかと気が気ではない。
 顔だけで前方を見ながら、柚月が岩に掛けた縄を少しずつ繰り出し、舟を橋の真下へ近付けていく。
 だが、舟尾に立つ仄が切羽詰まった声を上げた。
「一度戻せ、柚月! 縄が岩から外れ掛かってる!」
「あとちょっとなんだカラ、戻してらんナイよ! 水竿で掛け直して!」
 振り向かず、柚月が叫び返す。
「岩に水竿が届かねえ!」
「水竿で縄を下に押さえればいいじゃナイ!」
「もうやってんだよ!」
 舟の舳先が、橋の真下に差し掛かろうとしている。母親が目を閉じ、手を合わせて宙に飛ぶ。
 刹那、縄が岩の上を滑って宙を舞い、水面に浮かんだ。舟が一気に動き出す。
「仄、あっちお願い!」
 柚月は叫び、勢いよく縄を手繰りだした。舳先へ走った仄が、母親を空中で掴んで引き寄せる。
 縄を引き寄せた柚月は、振り向きざま輪になった先端を鬼島目掛けて放った。縄は、鬼島が先刻粉砕した絞首台の根元に引っ掛かる。柚月はすぐさま手元の縄を舟の竜骨に結わえ付けた。舟は、橋の下流側で見事に停止する。
「仁兵衛、反対側だ!」
 仄が叫ぶ。柚月は抱き合う母子に戸板を翳した。
「もう大丈夫だよっ!」
「父ちゃん‥‥父ちゃんも‥‥!」
 子供が真っ赤な目を擦りながら叫ぶ。母親に戸板を支えさせ、柚月は青いレザージャケットを子供に掛けた。
「大丈夫、すぐに来るカラ!」
 開拓者としては小柄な柚月の身体に合わせたジャケットだが、子供には頭から腰までを覆えるだけの大きさがある。
 その時、
「柚月、後は任せた」
「え、ちょっと、仄!?」
 仄は思い切り床を蹴って縄に飛びつき、左脇に傘を抱えたまま、右腕と両腿で上り始めた。均衡を失った舟が、更に増水した水面で大きく揺れる。
「真打登場ってな」
 見る間に縄をよじ登った仄はぐるりと辺りを見回し、大きな左手を開いて突き出した。影政の炎に文字通り手を焼いているアグネスの身体を、癒しの風が包む。そのまま、左手がうずくまる父親の襟首を掴んだ。
「クハハ、良い所を持っていくではないか」
 鬼島が血塗れで笑う。半分ほどは返り血で、傷も軽傷ばかりとはいえ、並の開拓者なら倒れていてもおかしくない状態だ。
「アグネス!」
 幾度目になるかもわからない炎を浴びて火達磨になっているアグネスに、父親の身体が放り投げられた。
 待ち構えていたかのように、仁兵衛が影政の前に飛び出す。
「‥‥岸田!」
 反射的に影政は炎の標的を仁兵衛に変える。老いたりとはいえ、その剣の冴えに衰えが無い事は百も承知だ。
 父親の身体を受け止めたアグネスが、滝の様になった雨に打たれながら、辛うじて下流側の欄干に辿り着く。
「柚月! お願い‥‥」
 アグネスの手が父親の身体を離し、舟の上の柚月が何とか受け止めた。アグネスの身体はそのまま均衡を失い、川に落下していく。
 考えるよりも先に、柚月は父親を舟に置いて川に飛び込んでいた。
 鬼島が斧を振るい、縄の掛かっている絞首台の柱を叩き折る。舟は親子三人を乗せて、下流へと滑り始めた。
「おい、矢を射ろ! 何やってんだ!」
「弓使いなら、全員片付けちまったぜー」
 自らの血と返り血で全身を真っ赤に染めた琥珀が、階段を上がって笑った。
 堤防の上流側で、自ら囮となって十数条の矢を浴びた剣悟郎が吼える。
「だとよ。仁兵衛、帰って風呂だ。客人もな」
「へい親分」
 仁兵衛は、鬼島の前に立つ男の喉元を杖で突き倒して応える。
 仄が咥えていた煙管から焙烙玉に火を移した。琥珀が左手を大きく回す。
「もう大通りは誰もいねーぞー」
「ご苦労」
 鬼島は哄笑し、高々と斧を振り上げた。
 回転切りを警戒して、手負いの男達が下がる。その隙を突き、仄が堤防の下流側へ焙烙玉を投げる。メグレズ一人に三人が殴り倒され、浮き足だった男達が跳び上がった。
「風邪ひいちまう前に引き上げて一杯やりたいとこだ」
 爆発が起きた。咄嗟に伏せた男達が、爆風と鉄菱を浴びて苦痛の呻きを上げる。
 メグレズが突撃を始めた。盾を防ごうと刀を翳せば、グリーブに覆われた足が襲い掛かる。亀になって耐えようとすれば、巨躯の体当たりを受けて吹き飛ばされる。三頭立ての戦車もかくやという突進を、男達は止められない。
 逃げる剣悟郎を追おうとした影政の眼前に、灰色の煙が膨れあがった。仁兵衛の煙遁だ。
「入ってくるかい? この中で決着をつけても構わねえよ」
 笑みを含んだ仁兵衛の声が聞こえてくる。
 巨斧を担いだ鬼島が階段を駆け下り、血塗れの羽織を傘に掛けた仄がその後に続いた。六人の志体持ちが、泥水の中に突っ伏し、あるいはうずくまって、雨交じりの血溜まりを作っている。
「おい琥珀、行くぜ」
「あいよー」
 言いながら、琥珀は低い姿勢で階段目掛け踏み込んだ。高さの差で、駆け下りてくる男の刀が届かない。血塗れの脇差が閃き、男の膝が断ち割られる。腰にしがみつく男を引きずりながらメグレズが階段を駆け下りた。
 悪戯小僧の笑みを浮かべ、琥珀の手が腰に伸びる。橋のたもとにいた男が階段を蹴り、膝を割られた男を跳び越えた。その顔面に、鋭い針の生えた鉄塊が叩きつけられる。
 痛みと驚愕で足下を狂わせた男が、盛大に足を捻って地面に激突した。余った鉄塊を階段周りに撒き散らし、琥珀が踵を返す。
 同じく階段の仲間を跳び越えて着地した男達が、撒菱の上に全力で着地して悲鳴を上げた。
 剣悟郎と仁兵衛は、既に別方向から逃げたようだ。下流へ流れた舟を追う者はないらしい。それを確認してから、琥珀は大通りを走り出した。




 数日前の雨が嘘のように、空は晴れ渡っている。
「こちらへ。体調にお変わりありませんか」
「はい、お陰様で。‥‥失礼します」
 緊張した面持ちの親子三人が、メグレズに連れられて剣悟郎の部屋へと入ってきた。くつろいでいた剣悟郎と仁兵衛が飛び上がり、慌てて居住まいを正す。
「何でえ、具合が良くなったなら言ってくれりゃあ、俺らから謝りにいったもんを」
「いえ、そんな。開拓者の皆さまもいらっしゃると聞きまして、お礼に」
 三人は、行儀良く二人の前に正座をした。
「とんでもねえ。あたしらの不手際で、危ねえ目に遭わせちまって」
 剣悟郎と仁兵衛が、勢いよく畳に額をうちつけた。
 親子は慌てて二人にいざりよる。
「親分さん、仁兵衛さん、止めて下さい」
「危ない目に遭ってまで助けて頂いて、弥勒さんまで大怪我をさせてしまって‥‥」
 夫婦と侠客二人は、頻りに頭を下げ合う。
 子供が向き直り、風呂敷に包んでいたジャケットを柚月に差し出した。
「お姉ちゃん、貸してくれた服!」
「あの‥‥お姉ちゃんじゃ、ないんだケド」
「どうもありがとう!」
「う、うん。こっちこそ、ありがとう」
 笑いを噛み殺す琥珀に複雑な顔を見せ、柚月はジャケットを受け取った。
 小具足を着て川に飛び込み、アグネスと共に流された柚月を、親子が舟に残る水竿を使って何とか引き上げたのだった。
 柚月は仁兵衛に視線を向ける。
「今度はもうこんな目に遭わないように守ったげてね?」
「へえ、そりゃあもう」
 仁兵衛が向きを変え、開拓者達に深々と頭を下げた。
「そう言えば仁兵衛さん。影政の隣にいた女、知ってる?」
 アグネスがふと思い出して口を開く。
 仁兵衛は頷いた。
「来てるとぁ思ってませんでしたがねえ、ありゃ真朱ってえ女で。表に立ちたくねえそうで、駆け出しの陰陽師の振りをしてまさあ」
「ああ、それで‥‥」
 アグネスは影政の態度を思い出し、腑に落ちた顔で頷いた。
「全然本気じゃなかったよなー」
 幸せそうに月餅を頬張りながら、琥珀が言う。
 湯呑みから茶を啜りながら、鬼島が頷いた。
「一応、呪縛符らしいものを使ってはいたがな。効かせようという意志は全く感じなかった」
「‥‥ていうか、助けてくれたんじゃないかしら」
 アグネスは呟いた。身に覚えのない治癒を受けた時、確かに彼女は背中に何かが触れたのを感じた。あの時彼女の後ろにいたのは、真朱一人だ。
「まあ、確かに情けの深い女ですがねえ。あたしらが助けに行かなかったら、どう動いていたやら」
 仁兵衛は口をへの字にし、顎を撫で回した。
「ともあれ、増えた瀧華の頭数に対抗できるだけの連中をかき集めることにしまさあ。このままじゃ、柚月さんに嘘をついちまう事になりかねねえ」
「その、増えた頭数ってのがな」
 縁側で破れた鉄傘を貼り直していた仄が、紫煙をくゆらせながらぼそりと呟いた。
「テキの金回りが良くなったってのは、気になるよな」