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■オープニング本文 ● 「春殿。良ければ、お昼を食べに行かんでござるか」 神楽の都、開拓者ギルド。 執務室の一つで胡桃材の机の前に立った長身の黒人職員、スティーブ・クレーギーは、同室に勤務する女性、佐藤春に声を掛けた。 が、 「お弁当なの」 目尻に皺の寄り始めた中年女性、春はさらりと言い、風呂敷包みを取り上げた。 「‥‥さ、左様でござるか」 一言で却下され、スティーブはがくりと肩を落とす。巨大なアフロが、心なしか力無く下へと垂れた。 「実は、美味しい蕎麦屋さんが見つかったのでござるが‥‥」 「へえ」 風呂敷包みからお重を出した春の目が、興味深そうにスティーブの弁柄色の顔を見上げる。 「珍しいわね。いつも脂物ばっかり食べてるスティーブさんが」 「いや、本当に旨いのでござるよ! 拙者、天儀の食物の事は良く解らんでござるが、しかしあの蕎麦は‥‥!」 スティーブは大きな握り拳を振り回して熱弁を振るおうとする。 「はいはい」 春はすげなく左手を挙げ、その言葉の先を制した。 「つまり美味しいのね」 「‥‥そ、そうなのでござる」 言うまでもなく、スティーブはジルベリア生まれだ。農夫として過ごしていた期間が長いようだが、とにかく肉や油が大好きで、天儀食にあまりなじめていない。 「スティーブさんが美味しいって言う蕎麦だと、かなり不味いか、凄く不味いか、凄く美味しいかの三つに一つね」 「美味しいのでござる!」 歯に衣着せぬ春の言葉に、スティーブが拳を振り上げる。春は箸を取り上げ、幾何学的なまでに形の整った出汁巻き卵を摘み上げた。 「そう。じゃ、今度時間を作って行ってみましょうか」 ● 鎧戸の外は、死んだように静まりかえっている。神楽の都の外れ、大通りから一本入った薄暗い路地に、ひっそりとその店は佇んでいた。 「へえ」 春はツユに付けずそのままに蕎麦を啜り、眉を動かした。 「スティーブさんが美味しいお蕎麦を見つけることもあるのね」 「旨いでござろう!」 得意満面でスティーブが吠えた。こちらは蕎麦の九割以上にツユをつけ、勢いよく啜り込む。 「確かに美味しいわ。奇跡ね」 「で、ござろう! で、ござろう!」 「その割には流行ってないけど」 二人を除いて誰一人客のいない店内を、春は目だけで見回した。 台所の奥で、小太りの店主が居心地悪そうに肩をすぼめている。スティーブが、気まずそうに春と店主とを見比べた。 お世辞にも小綺麗とは言い難い客席は、尋常でなく暗い。換気用の小さな鎧戸が一つ壁についているだけだ。土壁はあちこちが崩れかけ、練り込まれた藁があちこち飛び出していた。 その土壁に一枚張られた品書きには「挽きぐるみ 丸抜き 更科」としか書いていない。 殻ごと挽いた風味の強い「挽きぐるみ」、蕎麦の中心部分だけを使った上品な「更科」、そしてその二つの中間、殻を取った蕎麦を挽いた「丸抜き」の三種。つまり、蕎麦しか売っていないのだ。 辺りに飲食店があることはあるが、どこもすっかり閑古鳥が啼いていた。正直、治安もあまりよろしくはない。 「名前もひどいわね」 戸すらなく、暖簾だけが下がっている入り口前に、二枚の板を山型に合わせた看板が置いてある。そこには、大きく「真髄庵」とあった。 「まずいあん、って言われない?」 蕎麦の下一割ほどにツユをつけ、春は一気に啜り込んだ。 「‥‥言われます‥‥」 台所に立った板前帽の店主が肩を落とす。 殆ど噛まずに啜った蕎麦を呑み込むと、春は満足げに頷く。 「ちゃんと、蕎麦粉に合わせてツユは変えてるのね。水も良い水を選んでるわ」 「はい、それはもう」 「蕎麦以外に、何か出せないの」 「出せないことはないんですが、何を出して良いやら‥‥」 店主は弱り切った表情だ。 「蕎麦と言えばお酒でしょ。何かないの」 「お酒ですか。‥‥まあ、都の中を回ってみれば何か見つかるとは思うんですが‥‥」 「あと、蕎麦の味が素直な分、挽きぐるみに少し力が無いわね。他の蕎麦粉は試してみたの?」 「‥‥いえ、‥‥美味しい蕎麦粉が見つかったので、それ以降はずっと同じものしか‥‥」 「広告力、立地条件の悪さ。やや研究不足。こんな所ね」 春はばっさりと切り捨て、残った蕎麦をあっと言う間に平らげてしまう。スティーブも目を丸くする速度だ。 箸を手にしたまま、春が台所に声を掛けた。 「蕎麦湯を頂戴」 「あ、はい」 余りにも堂々とした食べっぷりに呆然としていた店主が、慌てて粗末な湯筒に蕎麦湯を注ぎ始める。 一人で殆ど蕎麦つゆを使い切ってしまったスティーブが、立て付けの悪い椅子を鳴らして身を乗り出した。 「な、何とかする方法は無いものでござろうか!?」 「あるわよ」 春は湯筒から蕎麦猪口に蕎麦湯を流し込み、箸で軽く混ぜてからそっと啜る。 「スティーブさんが開拓者の人に依頼を出せばいいでしょ」 「せ、拙者がでござるか? それこそ、開拓者不要と言われはせんでござろうか‥‥」 ギルドに提出された依頼の中でも、開拓者を出す必要無しと判定された依頼書の確認という閑職がスティーブの職責だ。 つまり受付の判断にけちをつけるのが仕事であって、ただでさえ数多くの受付嬢から恨みを買っている身なのだ。 が、スティーブの躊躇にも春は全くお構いなしだった。 「依頼料はできるだけギルド側の負担を増やしておくから、不足分はスティーブさんが立て替えておいてね。受付のスエちゃんに話は付けておくから。彼女の不倫の現場を抑えてあるの、きっと快く受け付けてくれるわ」 春は言い、代金よりもかなり多めの小銭を机に置くと立ち上がった。 「依頼票はスティーブさんが書いてね。それじゃ、ごちそうさま」 |
■参加者一覧
由他郎(ia5334)
21歳・男・弓
ジルベール・ダリエ(ia9952)
27歳・男・志
明王院 千覚(ib0351)
17歳・女・巫
ウルシュテッド(ib5445)
27歳・男・シ
サフィリーン(ib6756)
15歳・女・ジ
烏丸 琴音(ib6802)
10歳・女・陰 |
■リプレイ本文 ● 「いやあ‥‥そう言われましても」 細面の雑貨屋店主は、困惑顔で頬を掻いた。 「もちろん、来店されたお客様には、こちらのお店の宣伝をしますから」 「ね、おじさん? おねがいっ」 店内改装用の障子紙や布、糊、糸、縄、食器、置物等々を腕一杯に抱えた二人の少女が頼み込む。 「それ、全部?」 「はい」 兎の耳を模したヘアバンドを着けた割烹着の少女、明王院千覚(ib0351)がこっくりと頷く。 「四割引で?」 「はぁいっ!」 小麦色の肌に銀髪とサファイアの瞳が映えるバラージドレスの少女、サフィリーン(ib6756)が満面の笑みで頷く。 「その分、宣伝でこちらのお店の売り上げにも貢献しますから」 千覚が、訴えかけるような上目遣いで店主を見つめる。 「‥‥じゃ、三割引きで」 「そこを何とか! もう一声、ね?」 両手に小物を抱えたサフィリーンが、店主にすり寄る。期待に充ち満ちた目で見つめられ、雑貨屋の店主はたじろいだ。 「こんなに沢山買っていくんだから、いいでしょ?」 「‥‥ええい、三割三分! これ以上は駄目です! ちゃんと宣伝して下さいよ!」 「ありがとうございます!」 「ありがとうございまぁす!」 ● 光の射し始めた店内に、土を擦る音と木を削る音が反響する。 作業用のツナギに革ベルトを締めた長身の青年、ジルベール(ia9952)がマイスターグレイバーをふるい、木材に凹凸と溝を付けていた。 穴を開けられた壁から外光が射し、黙々とコテに灰白色の壁土を取って壁に塗りつけている青年、由他郎(ia5334)の茶髪を明るく照らしている。 「それ、窓ですか」 異音に気付いた店主が、台所から顔を覗かせた。 「そや。食べ物飲み物って味覚は当然やけど、周囲の空気とかも含め、五感で味わうものやと思うねん」 四本の木材が組み合わされ、窓枠ができあがる。待ち構えていた由他郎が穴の縁に壁土を盛り、ジルベールが窓枠を填め込んだ。 「そやから、気持ちよぉ来てもらえる場所やないとな」 由他郎がコテを振るい、見る間に壁と枠の間が均された。あっと言う間に、格子窓のできあがりだ。 小筆を置き、何やら書き付けられた古布を手に、千覚が微笑む。 「折角美味しいお蕎麦も‥‥お客様に食べて頂けなかったら、宝の持ち腐れ‥‥ですものね」 千覚の前の机には何やら書き付けられた古布が幾枚も重なっている。 不思議そうに店主が尋ねた。 「あの、それは何をなさって‥‥?」 「通りのお店の売り物を書いています。通りは狭く薄暗いですが、店先にこれを張った提灯が並んでいたら、少し違うでしょう?」 「中が暗いから、俺達は外の光を取り込むことを考えていたが‥‥逆転の発想だな」 由他郎が感心する。 「千覚ちゃん、字、上手!」 座布団に古布を当て、針と糸を滑らせるようにして繕っていたサフィリーンが、布を見て華やいだ声を上げる。千覚は気恥ずかしそうに頬を染めた。 「さあ、今度はお品書きに行きましょう」 「お蕎麦の説明はやっぱり欲しいのです」 エプロンドレスに白リボンつきの黒いハットを被った少女、烏丸琴音(ib6802)が鴨居にはたきをかけながら声をあげた。 「十割だと、それぞれ作れる太さも食感も大違いなのです」 「では、まずお蕎麦の種類と説明から‥‥」 千覚は一つ深呼吸をすると、筆を走らせだした。 「それから、煩くない程度に店主の蘊蓄でも張り出してみてはどうだろう」 コテを振るいながら由他郎が言う。 「玄人は『この店はできる』と見抜くだろうし、素人でも興味が湧くかも」 千覚は得たりとばかりに頷き、新しい和紙を手に取った。 「俺のように、良く解らないが美味いものが食いたい、という客の為にお勧め品の掲示もあるといいな」 「それから、お値段はちょっと考える必要があるのです」 琴音が、古い品書きを指差した。 「同感だな」 料理を出す小窓から、ウルシュテッド(ib5445)の白い肌と常磐色の瞳が覗いた。 揚げ物をしているのか、台所から油の音が聞こえてくる。 「たとえば、四人以上で来た客にサービスができないか」 「四人以上、ですか?」 訝る店主に、ウルシュテッドは頷いた。 「ギルドにチラシを置いて来ようと思う。宣伝効果も大きいし、治安向上にもなる」 コテを振るっていた由他郎が手を止め、僅かに口元をほころばせた。 「依頼は四人以上でこなすものだからな。依頼帰りの開拓者が寄れば、更にサービスが受けられるわけだ」 「ははあ‥‥」 泉の様に湧き出てくるアイデアの数々に、店主は感心するばかりだ。 「それと、お蕎麦は沢山食べたい人も、少しでいい人もいるのです。だから、せいろ一枚の量を抑え目にして、基本の値段を低く設定するのです」 「なるほど‥‥」 感心しながら、千覚がさらさらと筆を走らせる。 「あとは一枚いくらで追加していくようにするのです。沢山食べたい人はせいろを積み上げていけばいいのです」 「せいろの高さを競うお客さんも出てきそうですね」 巧みな筆致で、千覚が品名と説明を書き上げていく。 「肴は、出汁巻き卵とか、板わさとかが定番なのです」 「いたわさ? ってなあに?」 アル=カマル出身のサフィリーンが、目を瞬かせる。 「蒲鉾をわさびでいただくのです。それから、お豆腐があれば揚げ出しが美味しいのです」 「では、出汁巻き卵から書いていきますね‥‥そう言えば、天ぬきというのを聞いた事がありますが」 「天抜きはお品書きには入れないものなのです」 「琴音ちゃん、物知り!」 女三人寄れば何とやら、窓が開けられて明るくなった店内に華やいだ声が充ち満ちていた。 ● 「お、随分変わったなあ」 明るい声と共に、初老の男性が暖簾を潜った。店主がぽかんとその顔を見返す。 「あ、居酒屋の‥‥」 「これ、辺りの店の引き札な。代わりにあんたん所の引き札も、配っておいたよ」 初老の男性は紙の束を手近な机に置いた。 「は?」 立ちつくしている店主を尻目に、 「おおきにな」 溶かした蝋をかき混ぜながら色をつけていたジルベールが声を返す。 「がんばりましょうね」 千覚がにっこり微笑んだ。呆気に取られている店主を他所に、男性はさっさと店を出ていってしまう。 サフィリーンが、小麦色の手をぐっと握った。 「横丁みんなで元気になろうって、声を掛けてきたの! みんなでお互いのお店のチラシを置いたら、ついでに寄ろうってなるかもでしょ?」 「いつの間に‥‥」 開拓者達はとっくに根回しを済ませていたらしい。 店主は、改めてジルベールの手元を見た。 「それで、そちらは何を‥‥」 「ん、寒天で蕎麦やら甘味やら型取りしてな、色をつけた蝋を流し込んで、見本を作るんや」 ジルベールは会心の笑みを浮かべる。 「小路を歩いてると漂ってくる出汁とかえしの香り、入り口の前には本物そっくりの蕎麦や甘味の模型。腹が減ってる所にこれは堪らんやろ」 「‥‥うまくいくでしょうか‥‥」 「その辛気臭い顔があかん。店の空気も大事や言うたやろ」 「は、はい」 「これだけ準備もしたんや。あとは元気よぉ『いらっしゃい』が言えれば完璧や」 左手で蝋をかき混ぜながら、ジルベールが勢いよく店主の背を叩いた。 途端、 「できたぞ」 明るい声と共に、大きな盆を抱えたウルシュテッドが暖簾を潜って台所から出てきた。 その姿を見るや、竹を切って花挿しを作っていた由他郎と、寒天の用意を始めたジルベールが噴き出す。 「ん、どうした」 「いや、テッドさん‥‥エプロン姿、似合うとるなあ」 ジルベールは手を動かしながら。身の丈六尺を越える長身に白い前掛けをし、長く豊かな茶髪に手拭いを巻いたその姿は、堂に入った主夫ぶりだ。 「各地で覚えた甘味を、姪に振る舞うのが常だからな。試作の揚げ蕎麦と蕎麦白玉だ」 「テッドさん、揚げ蕎麦口に入れてくれんか」 「解った」 ウルシュテッドが、揚げたてでまだ油の音を立てている狐色の揚げ蕎麦を摘み上げ、粉砂糖につけて、蝋をかき混ぜているジルベールの口に入れた。乾いた小気味よい音。軽い食感に続き、しつこくない油に混じって砂糖の上品な甘さが広がる。 「お、これいけるで。蕎麦屋さんで、こういう食感はなかなか無いやろ」 「では、俺は蕎麦白玉を」 由他郎は箸を取り、黒い粒の見える枯色の団子に黄粉と黒蜜を付けて頬張った。黄粉の香りと黒蜜の強い甘味。噛むともっちりした白玉が口蓋を撫で、飲み込んだ後にどこか鄙びた感のある蕎麦の香りが残る。 「これは旨い。‥‥これは旨い」 呟き、由他郎は恐ろしく真剣な顔で白玉を味わっている。 「くるみ味噌を乗せても、きっと美味しいのです」 横から顔を出した琴音が、早速蕎麦白玉に箸を付けた。 「あ、琴音ちゃんずるい! 私も!」 「あの、私も揚げ蕎麦を」 「一人三個なのです。由他郎さんはもう三個食べたからだめなのです」 「まだ二個しか食べていないぞ」 集まった開拓者六名中四名が明確に甘味好きというなかなか無い状況だ。あれよあれよという間に、試作品の甘味が消えていく。 「おおい、俺の分も残しといてんか。まだ蝋の色づけが終わってへんねん」 一人、蝋から手と目が離せないジルベールが、哀れっぽい声を挙げた。 ● 開拓者ギルド。依頼参加権を争うべく扉の前に鈴なりになっている開拓者がいる。支給品を受け取るべく、受付の前で時計を気にしている開拓者がいる。 そして、 「何故でござる!」 大声を上げて衆目を集める、紫色の長い羽織を着たアフロの黒人がいる。 「や、規則なので‥‥商活動の引き札は無理ですよ」 受付は困惑顔で返す。 「ギルドには公共の通知や催し物の掲示板しかないですし‥‥」 「この蕎麦は、世のため人のために働く開拓者のため! いわば公共の蕎麦でござるぞ!」 「屁理屈にもほどが‥‥」 食い下がるスティーブに、受付の青年はほとほと困り果てている。 「なになに、どうしたの? サフィリーンちゃん」 休憩時間なのか、ギルドの受付嬢がサフィリーンを見つけて近寄ってきた。 「うーん。お蕎麦屋さんの立て直しをお願いされてね? ギルドにチラシを置かせてくれないかなって」 「ああ、それで」 受付嬢は、サフィリーンが手にした一色刷りのチラシを見て頷いた。 「お蕎麦ねえ。美味しいの?」 「美味しいの!」 チラシの束を抱き締め、サフィリーンは青い目を輝かせた。 「はじめて食べたんだけど、しこしこつるるんって‥‥白いお蕎麦で」 「ん? 白いお蕎麦って、お素麺じゃないの?」 「白いお蕎麦もあるの! もっちり、しこしこしてて、喉をするするって‥‥」 サフィリーンは小振りな右手を必死に動かして説明しようとするが、自分の感覚をうまく言葉にできないのか、もどかしそうに足踏みをする。 「へえ。おいしいのね?」 「うーん、でもお話だけじゃ伝わんない! 一度食べてみて! お蕎麦の白玉とか、揚げ蕎麦とか、甘味もあるの!」 「甘味!」 受付嬢の目が、飢えた野獣の輝きを放った。 ● 新装開店から二週間後の夜。開拓者によって「かまど小路」と名付けられた通りを照らす明かりは、居酒屋に新しく作られた窓から漏れる光だけになっていた。 「うーん」 唸り声を上げ、店主が暖簾を潜る。 暖簾を下ろし、読み仮名が振られた看板を仕舞った真髄庵に、再び開拓者達は集まっていた。 「見た目にも綺麗ですね。沢山食べられない女性には、一層嬉しいと思います」 三色の蕎麦が乗った蒸籠を見て、千覚が小さな口をほころばせた。 琴音の発案で、蕎麦三種を蒸籠一枚で食べられる「三色盛り」を作ってきたのだ。 「そうなんですが‥‥種類によって茹でる時間が違うので、その調整が難しくて。天気によっても微妙に変わりますし」 由他郎が、僅かに透き通る、緑がかった丸抜きを箸で摘み上げた。 「難しいものだな」 「商品化は難しそうで。ですから、今日皆さんに召し上がって頂く限定品です」 「お、それ嬉しいなあ」 琴音の持参した極辛純米酒を舐めていたジルベールは箸を取った。 「やっぱり通は更科なのです」 言いながら、琴音は更科に少しだけツユをつけ、啜り込んだ。 「この歯応えと滑るようなのどごし、それに雑味のない味がいいのです」 「琴音ちゃん、もう飲み込んじゃったの?」 サフィリーンが青い目をまん丸にした。 「お蕎麦はのどで味わうものなのです。いつまでもお口の中に入れておくのは野暮なのです」 屋号の書かれた湯呑みから茶を啜り、琴音は得意顔だ。 「あ、でもその感じはわかるかも。もぐもぐするより、つるんって啜って食べた方が口の中で香りがわかるの」 「サフィリーンちゃんも、よくわかってるのです」 「お茶と一緒ね」 琴音とサフィリーンは仲良く肩を並べて、見る間に蒸籠の上を片付けていく。 「香りと味は、挽きぐるみがわかりやすいな。薬味に負けない」 由他郎が山葵を乗せた挽きぐるみを啜る。 「丸抜きも美味しいですよ。喉ごしと味と香りを、全部一度に味わえて」 琴音の前に座った千覚は、小さな口で少しずつ、鼻に抜ける蕎麦の香りをじっくり楽しみながら丸抜きを啜っていた。 挽きぐるみと丸抜きを食べ比べていたジルベールが、ふと考え込む。 「テッドさん、ピートを思い出さへんか? この香り」 「‥‥ああ、それだ。砂というか土というか、懐かしい香りがすると思った。確かに少し似てる」 「まだまだ蕎麦はおかわりがありますから、お好みのものをご注文下さい」 台所の小窓から、店主が顔を出した。 「あと甘味と、ウルシュテッドさんに頂いた紙の通り、蕎麦クッキーも用意してあります。もちろん、蕎麦湯もお好きなだけ」 誰より早く蒸籠一枚分を平らげた琴音が、次の蕎麦を待ちながらほくほく顔で言う。 「蕎麦湯の飲み放題とか夢だったのです」 「ええ、お好きなだけ飲んでいって下さい。甘味目当てのお客様が多めですが、お陰様で小路の一番人店ですよ。ただ」 店主が、ふと言いよどんだ。 「あの‥‥何か問題が?」 千覚が不思議そうに店主を見つめる。 「その、そろそろ夏至になるでしょう」 「はい」 「太陽が高く上がるわけなんですね」 「‥‥?」 言いにくそうにしている店主を、一同は訝しげに見つめる。 「表に出しておいた、これが‥‥」 「あ」 ウルシュテッドが声をあげ、ジルベールが箸を取り落とした。 店主が取り出したのは、ジルベールが丹精を凝らして作った大作、蕎麦や甘味の食品模型だ。 蝋細工の食品模型は、細い小径の真上から浴びせられた強烈な日差しで柔らかくなり、あまりの出来の良さに行列の客につつかれ、見るも無惨に変形していた。 「す、すみません、い、い、忙しくて、外を気にする余裕が‥‥」 「え、ええよ‥‥ほ、本来の目的は‥‥一応果たしたわけやし‥‥」 苦心の成果、正確には苦心の成果だったものを、ジルベールは引きつった笑顔で見つめていた。 数日間出現した「食品模型」が噂を呼び、神楽の都にその専門職人が現れるのは、まだ少し先のことである。 |