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■オープニング本文 ● 風薫る初夏とは言いながら、早くも突き刺すような日差しが地面を照らしている。人々は浮かぶ汗に手拭いを当てつつ、日陰から日陰へ、足早に歩いていた。 武天の辺境、侠客の町三倉。特にここは、町を二分して争う永徳・瀧華両家の縄張りの中間地点、言わば緩衝地帯だ。 「遅い」 本多髷を結った羽織袴の男が、もぎ取るようにして店主の持ってきた角皿を取った。 人々が足早に道を行く理由の一つが、その男だった。茶店の前に出された毛氈敷きの席で反り返り、誰彼構わず怒鳴り散らしている。 武天の代官だ。 三倉の自治を公式に任せられているのは、侠客の瀧華一家。代官は基本的に遠く離れた町におり、瀧華一家が納めるみかじめ料の一部や袖の下を受け取っているばかりだが、時折物入りになると三倉を訪れ、更なる袖の下の催促をするのだ。 「こら、そっちに行くんじゃないの」 若い銘仙姿の女性が、走り回る子供を慌てて捕まえた。代官と視線が合うより早く、路地裏へと駆け込んでいく。 路地へと代官が声を掛けた。 「そこの女。何故逃げるか」 路地の奥から、返事はない。隣に控える侍に、代官が目で合図を送る。 その時だった。 「よう、婆あ! 茶出しな。茶だ」 野卑な怒鳴り声が代官の背に浴びせられた。辺りにいる町の人々が目を剥き、あっと言う間に青くなる。 「最悪だ」 「えらいことになるぞ」 男達は口々に囁き合いながら、手近な店や家の中に避難を始める。 振り向いた侍達は、通りを歩いて近付いてくる人物を見て目を剥いた。 袖や裾があちこち擦り切れた葡萄色の着流しに、総鉄拵えの打刀を落とし差し、短い髪は天を指している。鳩尾の辺りまで見えそうになっている襟元からは、平らな胸が殆ど覗きそうになっていた。 左手は手綱を握り、その先には体高七尺はあろうかという巨大な鹿毛の馬が従っている。 誰よりも青くなった茶店の店主が、おろおろと足踏みを始めた。 「な、菜奈ちゃん」 「よう婆あ、元気か? 茶出しな、久々に四人ばかり食ってきたんで喉乾いて仕方ねえや」 呆気に取られている侍達を空気のように無視し、菜奈と呼ばれた人物は毛氈敷きの席にどっかと腰掛けた。顕わになった白い両腿の間から、褌が見える。 巨大にして鈍重そうな馬が、侍達の眼前で糞をし始めた。 「お、女?」 「あん?」 思わず呟いた侍を横目で見回し、菜奈は鼻を鳴らした。 「おい婆あ、何だよこのチンピラ共は。永徳の縄張りでこんな連中にへいこらするこた無えんだぜ」 「貴様、この方をどなたと」 刀の柄に手を伸ばして気色ばんだ侍が、悲鳴を上げた。 「あんだよ、縮こまってんじゃねえか」 菜奈が傷だらけの右腕を伸ばして男の金的を鷲掴みにし、ぎりぎりと締め上げたのだ。 「おい婆あ、茶だよ茶。いい加減息子は嫁さん見っけたのかよ、佳い女紹介してやんぜ」 うずくまる男には目もくれず、菜奈は茶店の入り口に向かって手招きをした。入り口では、盆に湯呑みを載せた店主の老婆が、おろおろと辺りを見回している。 代官の隣にいた侍が刀に手を掛けて立ち上がった。 「この男女! 礼儀を」 「誰が男女だコラ!」 席に腰掛けたまま菜奈の足が跳ね上がり、侍の金的を直撃した。呆気に取られるばかりだった代官がようやく我に返り、辺りの店で好き勝手に商品をつまみ食いしていた侍達に怒鳴る。 「で、出会え! 者共、出会え! この馬鹿を、無礼討ちにせい!」 「馬鹿は手前だ! 喧嘩売ってんのか、ああ!?」 菜奈の手が地面に伸びる。そこには、彼女の愛馬がたったいま落としたばかりの、糞があった。 素手で持ち上げられた柔らかく温かい馬糞は、過たず代官の顔面を直撃した。 ● 小さく高い、可憐な鳴き声が空へと吸い込まれていく。 「これは、何の鳴き声ですか」 「ああ、ありゃルリビタキですかねえ。雄は、そりゃあ綺麗なもんですよ」 狐耳を小刻みに動かし、白髪の老侠客が目を細めた。三倉の町を二分する侠客、永徳一家の参謀、岸田仁兵衛だ。 広い邸宅の入り口に立ち、腰を屈めて両手で四角い包みを受け取っている。 「すいませんねえ、今度旨いもんが手に入ったら、お礼に伺いますんで」 仁兵衛は眉を八の字にし、すまなそうに頭を下げた。 正面に立つ壮年の男性が明るく笑う。 「これがお礼なんじゃあないですか。いつも仁兵衛さんや親分さんにはお世話になってるんですから。止して下さいよ、お気遣いは」 「そういうわけには行きませんや。そうそう、何かうちのもんがご迷惑お掛けする事がありましたら、遠慮無く言っておくんなさいよ。あたし達永徳一家は、皆さんのおかげでもってるんですからねえ」 「冗談じゃありませんよ、逆です、逆」 壮年の男性が激しく両手を振る。 「本当にお気遣いなく。女房が買い物に付き合えってうるさいんでね、早めに退散しますよ。それに開拓者の方がいらっしゃるそうじゃないですか」 「おや、お耳のお早いこって。ええ、ここんとこご無沙汰しちまってるんで、茶の席でも設けようかと‥‥そうだ、ちょっと待ってて下さいよ、ジルベリアのお菓子があるんで」 「いやいやいや、仁兵衛さん、いけませんよお気遣いなんて‥‥」 家の中に駆け込んでいった仁兵衛の背に、男性が声を掛ける。 その時、 「待ちやがれこのクソ女!」 「誰がクソ女だ!」 遠くから見る見るうちに近付いてくる怒鳴り声が、白い土塀を跳び越えてひらりと庭へ舞い降りた。 「おいクソ爺い! いるか!」 胸も尻も限りなく小さい、寸胴の女性が怒鳴る。庭で仰向けになり日向ぼっこをしていたもふらの風螺が、全身の毛を逆立てて飛び起きた。 「な、ななななななな」 「なは二回でいいんだよ」 菜奈は泥だらけの手で風螺の首っ玉を掴むや、軽々とその体を抱え上げた。 「な、ななななななにをするもふ!?」 「そんなにクソが好きならくれてやらあ!」 泥、もとい、馬糞にまみれた手を思い切り風螺の体になすりつけ、土塀に手を掛けて身体を引き上げようとしている侍達目掛け、菜奈は風螺を放り投げた。 悲鳴を上げて風螺は宙を舞い、慌てて土塀から手を離した侍達を直撃して路地に落下する。 「な、何ごとだい」 邸内へ駆け込んだ筈の仁兵衛が、目をまん丸にして庭へ顔を出した。 「菜奈じゃねえかい。何だい、この騒ぎは」 「後ぁ任せた!」 まるで機械仕掛けのようにぴたりと指二本を立てると、菜奈は猫の様に跳躍して馬糞にまみれた手を屋根に掛け、あっと言う間に瓦葺きの屋根を駆け抜けていってしまう。 「に、仁兵衛さん、何ごとです一体」 「‥‥すいませんねえ、うちのもんが厄介事を抱えてきたようで」 仁兵衛はため息混じりに杖を握り、改めて土塀を乗り越えてきた侍達を眺めた。 「開拓者の皆さんを、また面倒ごとに巻き込んじまうかねえ」 |
■参加者一覧
小伝良 虎太郎(ia0375)
18歳・男・泰
酒々井 統真(ia0893)
19歳・男・泰
鬼灯 仄(ia1257)
35歳・男・サ
明王院 浄炎(ib0347)
45歳・男・泰
マレシート(ib6124)
27歳・女・砲
烏丸 琴音(ib6802)
10歳・女・陰 |
■リプレイ本文 ● 「お爺分」 狩衣の上にジルベリアのローブを羽織った少女、烏丸琴音(ib6802)が紫色の髪を踊らせて同心達の間を駆け抜け、玄関に飛び込んだ。 「おやおや、琴音ちゃんじゃあねえですかい。お早いお着きで」 「あっちには追い付けないのです。だからお屋敷の方を手伝うのです」 「有り難い話だねえ」 仁兵衛は顔を皺だらけにして微笑み、琴音の頭を撫でる。 「‥‥ええい老いぼれ、我々に手を上げるなら、その小娘も」 声を張り上げる同心が、顔面から門扉に激突した。 「たしか茶会に呼ばれたと思ってたんだが‥‥、祭の間違えだったか?」 左手に長煙管を持った着流しの大男、鬼灯仄(ia1257)は高々と掲げた右足を同心の後頭部から離した。失神した同心が、門扉から地面へとずり落ちていく。 肩に掛けた茜色の華やかな羽織が、微風にはためいた。 「すいませんねえ、一家の小娘が喧嘩買ってきたみてえで‥‥死なねえ程度に片付けて頂けやすかねえ」 「やれやれ、しゃあねえなあ」 言葉とは裏腹に口元を綻ばせ、仄は側にいた同心の襟首を掴んだ。太い腕に血管が浮かび上がり、草履が柔らかい地面に食い込む。 「うわ、うわ」 同心の足が地を離れ、一尺ほど浮かび上がった。 顔を真っ赤にした仄は白い歯を覗かせ、大きく左足を踏み出して身体を回転させた。半瞬遅れて同心の身体が放物線を描き、仲間の同心の列に頭から突っ込んでいく。 仄の赤い目は、放り投げられた同心を避ける動きの一つ一つを的確に捉えていた。玄関前に、志体持ちは二人。 「鬼灯殿、こちらは任せた」 七尺もの巨躯を黒く簡素な長着に包んだ男、明王院浄炎(ib0347)が玄関前を駆け抜けた。 「行かせるな!」 叫ぶ志体持ち目掛け、仄が手首の返しを効かせて軽く喧嘩煙管を振るった。十手に受け止められた衝撃で、火の点いた煙草の葉が顔に落ちる。 火傷をして跳び上がる同心の鳩尾に仄の膝が突き刺さった。 胃液を吐いて崩れ落ちる同心の背を蹴り、ほっそりとした人影が黒髪をなびかせ、ふわりと青空へ跳び上がる。 黒いなめし革の鎧に毛皮の外套を重ねたマレシート(ib6124)だった。 「今は代官達の追い払いと菜奈さんの捕縛妨害等が優先ですね」 屋根へ飛び乗ったマレシートは、立てた左膝を胸に当てて長銃を構える。 乾いた破裂音が響き、路地を駆けて菜奈を追おうとした男が一人、派手に転倒した。細い煙を吐く銃口に手を翳し、弾薬の代わりに練力を流し込む。 燧石の飛ばした火花を練力が吸い込み、爆発的な炎となって膨張する。練力に押し固められた空気銃口から飛び出し、別の同心の足を打ち払った。 庭では、土塀を越えた同心達が縁側へ駆け寄っている。浄炎は同心達の前へ飛び出すや、頭上で回転させた八尺棍を振り下ろした。 轟音と共に庭の柔らかい地面が弾け飛ぶ。 「この先に向かいたくば、この地面の二の舞になると思え」 直径一尺ほどもある大穴を、志体の無い同心達が呆気に取られて見ている。 「馬鹿、怯むな。あっちは一人だぞ」 志体持ちらしい男二人が浄炎を挟み込み、全く同時に地を蹴った。 「無益な」 棍が回転し、唸りを上げて右の同心を襲った。十手が辛うじて棍の軌道に割り込もうとする。 が、棍は回転の半径を瞬時に狭め、尻の方向へと滑り始めた。引き戻された棍に鳩尾を突かれた後方の同心が、目を剥いてその場に崩れ落ちる。棍は反動で正面の同心の腹を突いた。 同心は十手でそれを受け止めたものの、梃子の原理で体重を掛けられ十手を取り落としてしまう。 棍が空を裂いて同心の腿を強かに打ち据えるや、真下の飛び石を突いた。 「貰った!」 膝をついていた後方の同心が、浄炎の腰に飛びついた。 が、その両手は空を切った。 「忠告はしたぞ」 天地逆になった七尺の巨体が、棍を支えに六尺ほどの高さで静止していた。棍の先端を支点に巨体が半回転し、棍を振り上げる。 二つの破裂音が、庭に響いた。 全体重を乗せた棍の先端が、同心の耳を掠めて深々と地面にめり込んでいる。屋根に上がったマレシートの空撃砲が、残る一人の同心を地面に薙ぎ倒していた。 「まだ向かってくる気か」 返事は、ない。 浄炎の足に肩を押さえられた同心は、恐怖の余り白目を剥いて失神していた。 ● 玄関と庭から、鈍い音と轟音、そして悲鳴が立て続けに届いてくる。 砂利を踏む音が、裏の庭に響いた。機転の利く同心が二名、仄や浄炎の背後を突こうと裏手に回っているのだ。 二人が頷き合い、音もなく障子を引き開ける。 瞬間、人の頭よりも巨大な牙が同心の眼前を掠めた。 「ん」 同心の眼前に広がるのは畳敷きの部屋ではなく、淡黄色の歯列と紅赤色の口腔だった。 「仁兵衛お爺分のお屋敷も大変なのです」 その隣で、琴音が小さな唇を尖らせて一丁前にため息をつく。 二人が悲鳴を上げ、尻餅をついた。龍だ。平屋の中に入りきろう筈もない巨龍が、激しく牙を打ち鳴らしている。 「変な人達が入らないように私も頑張るのです」 琴音が、胸に抱いたおかっぱ頭の天儀人形をきゅっと抱き締めた。薄い笑みを貼り付けていた人形の口元が、僅かに震える。龍が大きく口を開け、半ばまで開いた障子を鼻で押し開き同心に迫った。 「あばばばばけもの!」 「おおおばばばけ屋敷だ!」 腰を抜かした二人は縁側から転げ落ち、匍匐前進で前庭へと這いずっていく。 悲鳴を聞きつけた三人の同心が、巨大な龍の頭を見て飛び上がり、尻を捲って前庭へと逃げ帰っていく。 「くそ、このもふら、邪魔だ! 端に寄れ!」 「ふ、踏むなもふ! 蹴るなもふ!」 土塀の向こうで、風螺の悲鳴があがる。 「‥‥風螺親分はきっと大丈夫なのです」 琴音はこっくりと頷き、そっと障子を閉めた。 ● 「おっちゃん達、これ以上その人追いかけさせないよ!」 板葺きの屋根へと跳び上がった菜奈が、訝しげに振り向いた。 男とも少年ともつかない銀髪の人物が路地から飛び出し、同心達の前に立ちはだかっていた。 長着にも似た服の内側には、象牙色の袍が見えた。天儀の装いではない。何より、身のこなしが常人のそれではない。 同心達は目を白黒させていたが、すぐに事情を呑み込むと、小伝良虎太郎(ia0375)を取り囲んだ。 「邪魔立てするか!」 虎太郎は後方に跳躍して振り下ろされる十手を躱した。宙を泳いでいた両手が顔の前で交差する。地に触れた両足は跳躍に備えて大きく撓み、五尺強の身体が低く沈み込んだ。 両手が弧を描いて上下に展開し、高々と掲げられた右の鶴頭が蒼穹を指す。撓んでいた右足が真っ直ぐに伸び、天地を指していた両手が、先刻とは逆方向の弧を描いて左右に開いた。真紅の手袋が、何故か金属音にも似た硬質の異音を発する。 「‥‥な、なんだそれは!?」 泰拳士に馴染みのない同心達は、物理的とすら言える圧力を伴った虎太郎の構えを遠巻きに見守っている。 途端、同心の一人が血に染まる歯を撒き散らして地面に激突した。 「面白え技使うじゃねえか」 裾から覗く褌を隠そうともせず、菜奈が屋根から飛び降りざまに蹴りをくれたのだ。 「爺いの知り合いか」 「うん、狐の爺ちゃんに頼まれた」 答える虎太郎に、同心達が一斉に打ち掛かる。 虎太郎の右手が閃き、戦布が同心の右腿に絡みついた。体を開いて布を引きながら十手を躱す。後方から股に左足を差し入れ、跳ね上げる。 「何かあるなら、事情話して後は狐の爺ちゃんに任せなよ」 同心は見事に宙を舞い、首から地面に突っ込んだ。逃さず、その後頭部を菜奈が踏みにじる。 袍の襟元を狙う十手を躱してその場に屈み込み、地を舐めるような水面蹴りで同心の軸足を払う。ひっくり返った同心の金的を、菜奈が蹴り潰した。 「それがここのルールなんでしょ?」 「聞く耳持たんわ!」 虎太郎は小さく肩を竦めるや、細く長い息吹を吐いた。全身を駆け巡っていた気がその流れを止め、赤い炎となって両肩から漏れ出す。 翼の如く左右に広がった炎が渦を巻き、両腕に絡みついた。虎太郎は右足で軽く宙に跳ね、使われていない朽ちた樽に右腕を叩き込んだ。 耳をつんざく甲高い音を上げ、樽が炭化しながら宙を舞う。 「まだ続ける?」 呆然と立ちつくす同心達に、虎太郎はにっこりと笑いかけた。 ● あれよという間に、邸内へ押し入った同心達が制圧されていく。 路地に、濡れた布を叩きつけるような音が響いた。 「開拓者行くところ騒ぎあり、ってか? ま、茶飲み話で報酬ってのも気が引けてたところだ」 龍の刺繍を施した袍に身を包む銀髪の青年、酒々井統真(ia0893)が、布を巻いた右拳を左掌に叩きつけたのだ。 「こんな大勢で、女一人の尻追い回してんなよ、サンピン」 「だ、誰がサンピンだ! どこの馬の骨か知らんが、この阿久直輔に盾を突く気か!」 代官が顔を真っ赤にして怒鳴る。 「おう、幾らでも突いてやるぜ。神楽の都の開拓者。破天の拳、酒々井統真だ」 統真は道の奥で同心に囲まれている代官に人差し指を立て、あからさまに挑発をして見せた。 「人のツケで喧嘩をするのは趣味じゃねぇ。お安くしとくから、俺の喧嘩を買ってけよ」 軽く股を閉じて腰を落とし、両拳を胸の前に構えた。金色の瞳が、獲物を狙う猛獣の輝きを発する。 「神楽に居住義務のある開拓者が、こんな所にいるものか!」 代官は怒鳴り、十手を振るう。 「あの女を庇い立てするならば、貴様等も同罪! 捕らえよ!」 「‥‥開拓者だとは名乗ったからな」 統真の押し殺した声を共に、同心が血と前歯を撒き散らしてひっくり返った。 いつの間にか、統真が右腕を掲げている。手首と肘の動きだけで放った裏拳が、同心の右手ごと鼻柱を砕いたのだ。何気ない一撃の尋常でない破壊力に、志体のない同心達が一斉に後退る。 刹那、統真は風と砂煙を置き去りに地を蹴った。代官と統真を結ぶ直線上に立つ同心が、きょとんとした顔のまま立ちつくしている。 左足に蹴立てられた砂利が地に落ちるよりも早く、閃光と化した右拳が同心の顔面にめり込み、引き戻された。 統真が構えを戻すのと、顔面に拳形の窪みを刻まれた同心が地面で跳ねるのとが、殆ど同時だった。 「ぶちのめされて誰かに連れて帰られるか、懐深いところを見せて悠々帰るか」 小麦色の肌に映える銀髪がざわつく。発せられる闘気に、同心達の肌が粟立った。 「腕の一本でも折っちまえ」 十手と煙管の激突する金属音に混じり、土塀の向こうから仄の声が聞こえてくる。 一丈半の距離を置いて相対した代官に、統真は拳を向けた。 「好きな方を選ばせてやるが、どうする?」 ● 仁兵衛の屋敷から聞こえる喧噪が、小さくなっていく。 事情を聞いた虎太郎が、あんぐりと口を開いた。 「‥‥それって菜奈さんが悪いんじゃ」 「何でだよ! じゃあ何か、折角婆あが出した茶をぶっかけろってのか」 菜奈は気色ばんで腰に手を当て、軽く身体を屈めて虎太郎の前に思い切り顔を寄せる。平らな胸が長着の襟元から覗き、虎太郎は慌てて視線を逸らした。 「でも、流石に馬糞はどうかと思うよ‥‥」 「こちとら堅気の衆のもんを粗末にするような躾は‥‥ふむ」 やおら真顔になった菜奈は、まだ発育途中ながらよく引き締まった虎太郎の体躯を頭から爪先までじろじろと眺め始める。 「あのおっちゃん達がチンピラっぽいのはわからなくもないけど‥‥何見てんの」 「いやな。腕は立つわ、同心に喧嘩売る根性はあるわ。若い割に良い男ぶりだと思ってよ」 「そ、そうかな」 菜奈の笑みに潜む微妙に危険な香りを嗅ぎつけ、虎太郎は僅かに後じさりを始める。 「おいおい、母ちゃんのしか見たことねえか? お子様じゃあねえんだろ?」 「あ、当たり前じゃないか」 どちらが当たり前なのか聞こうともせず、菜奈の手が、はっしと虎太郎の泰服を掴んだ。 「だよなあ。なら、据え膳食わねえのは男の恥だよなあ‥‥」 「だ、駄目だよ、狐の爺ちゃん心配してるよ」 「なあに、俺が易々とくたばるタマじゃねえのは爺いが一番良く知ってらあ」 菜奈はアヤカシもかくやという不気味な笑みを浮かべ、赤く長い舌で唇をねっとりと湿らせ始めた。 「それに、胸見といてロハで逃げようってんじゃあねえよな、大人の男ならよ?」 ● 「汚れたまま動きまわっちゃダメなのです」 狩衣を襷で縛った琴音が言うや、天儀人形が手足を伸ばし、風螺の身体にしがみついた。 「な、何するもふ!」 「いい親分はいつも奇麗にしてるものなのです」 動きの鈍った風螺にマレシートが手桶で池の水を掛け、手が触れないよう手箒で弁柄色の毛を漉し始めた。持参したヴォトカを使い、しっかりと消毒までしている。 浄炎が黒い羽織の衿を正し、大きな葉の包みを四つ取り出した。 「仁兵衛殿、つまらぬ物だが」 「いや浄炎さん、お気遣いはご無用に願いますよ」 仁兵衛は慌てて手を振り、葉の包みを押し返した。葉の隙間からは、紅白の大福が見える。 浄炎は、改めて葉の包みを差し出した。 「いや、仁兵衛殿への手土産に二つ、残りは禅一と宗二の土産にと」 禅一と宗二は、浄炎を慕う三倉の子供達だ。 暫し仁兵衛は迷ったが、 「‥‥そうですかい、じゃあ二つは皆さんに召し上がって頂いて、二つはあの二人に渡しておきまさあ。本当にすいませんねえ」 「何。仁兵衛殿から茶の席の申し出とあれば、この程度のこと」 浄炎は、口元を緩めて首を振った。 「余計な騒動はあったが、少しくらい動いた方が茶は旨いしな」 足を崩した楽な姿勢ながら背筋を真っ直ぐ伸ばした統真が、首を回す。 「いい茶飲み話の話題にもなったさ」 笑うと、白い歯が小麦色の肌から浮かび上がるようだ。 「菜奈、つったか。ああいう派手な喧嘩をする奴は嫌いじゃない」 仁兵衛は柄杓で水を茶碗に注ぎ、苦笑した。 「気風の良い男っぷりには好感が持てるが」 微かに血の臭いの残る喧嘩煙管に丸めた煙草の葉を詰めながら、仄が渋い顔をする。 「女としては品が無いのがどうにもこうにも」 風螺を丁寧に洗う水音に混じり、琴音の声が庭から聞こえてくる。 「なななさんは汚くしなかったらきっとカッコいいのです」 呼び間違えを敢えて訂正せず、仄は煙を吐きながら笑った。 「ま、手柄は虎太郎に譲っておいた方がよさそうだな」 「虎太郎? てのぁ、どちらさんで?」 仁兵衛は目を瞬かせた。 浄炎が、不思議そうに首を捻る。 「そういえば、門も潜らず菜奈殿を追ったきりだが‥‥遅いな」 ようやく馬糞を落としきったか、風螺が庭で思い切り身体を震わせて水を飛ばす。琴音が小さく手を上げて喜びの声をあげ、柔らかな毛を雑巾で拭き始めた。マレシートが額の汗を拭い、荷物の中から緑茶とワッフルセットを取り出す。 「菜奈の野郎、まさか‥‥」 全員が素知らぬ顔をしている中、嫌な予感にとらわれて顔を引き攣らせている仁兵衛に、統真が笑いかけた。 「隠居はまだまだ先になりそうだな、じーさん」 |