雲海の帝王
マスター名:村木 采
シナリオ形態: ショート
危険 :相棒
難易度: やや難
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/11/29 22:01



■オープニング本文


 朱藩中東部にを南北に走る山脈の東麓。
 雲とも霧ともつかない白い靄が、まばらに辺りを漂っている。
「この辺りでござるか‥‥」
 開拓者ギルド職員のスティーブは、六尺半を越える身の丈に大きさの合わない蓑を軽く持ち上げて首を庇った。
 山から吹き下ろす肌を刺すような風が行き過ぎてから、再び歩き出す。
「臥鉢村」と彫られた石造りの道標が、直立不動で風に吹かれている。村の名の通り、擂り鉢を伏せたかのような、先端を切り取った円錐形の山がスティーブの前に聳え立っていた。
「風が運んできたのなら、おそらくこちらでござるな‥‥」



 時は、数日前へ遡る。
「大変申し訳ないのでござるが、ご提出頂いた依頼票は不備が多く‥‥というか、全く読めなくてでござるな‥‥必要事項をしっかり記入して、再提出して頂きたいのでござるが」
「あ、そうっすか」
 拍子抜けした声が、風信器から伝わってくる。
「いや、いいんすけどね‥‥別に俺が依頼したわけじゃないし‥‥」
「そうなのでござるか?」
 開拓者ギルド職員のスティーブは、風信器を前に瞬きをした。
「自分、それ拾っただけなんで‥‥」
 声を聞く限りでは、青年だろうか。飛脚だという人物は、困惑した声を発する。
「落ちてた紙が、ギルドの依頼用紙だったんで。で、血がついてたから、何か起きてるとまずいなって」
「血?」
「え? はい、裏にちょっと。泥かも知れないんすけど。受付の人に言いませんでしたっけ」
 言われたスティーブが手に握った紙の束の一番上を持ち上げ、裏を覗き込む。
 そこには、言われてみれば血に見えなくもない、黒い指紋とも何とも言えない跡がついていた。
 表には字とも言えない字、というか子供の落書きにしか見えないものが書かれている。
「‥‥じゃあ、自分関係ないんで、それ適当に処分しちゃって下さ‥‥」
「申し訳ない。これを拾った場所だけ、教えて下さらんか」



「これは」
 臥鉢村の入り口付近。スティーブは息を呑んだ。
「一体、何があったのでござろう」
 数町先に見える村では、家々や柵、納屋、蔵など、全てが漆黒の光沢を持つなにものかに覆い尽くされている。
 そしてスティーブの目の前に転がっているのは、巨大生物の骨らしき何かだった。こちらも、黒く濡れた輝きを発している。
 枯れ枝のようになった背骨と頭蓋骨が転がっている幅から見て、一丈半ほどある生物だったようだ。
 そして、その傍に転がっているのは、明らかに人骨だ。こちらも黒く腐食している。
「開拓者か‥‥あるいは、警備隊でござろうか」
 人骨の傍に転がっているのは、どうやら魔槍砲のようだ。が、宝珠を除いた全部品が腐食し、黒い液体に包まれている。スティーブが転がっている木の枝で魔槍砲だった物をつつく。
 途端、黒い液体が流動を始めた。蝸牛のような速度ではあるが、枝に絡みつき、這い上がろうとする。
「アヤカシ‥‥でござるな」
 スティーブは呟き、木の枝を放り捨てた。触らないに越したことは無さそうだ。
 見回せば、辺りにもう二体、巨大生物と砲術士らしき人間が寄り添うようにして朽ち果てているのが見える。
 刹那、スティーブは地面に身を投げた。
 上空から飛来した小さな氷の塊が右足を直撃し、見る間に足首から膝下までを白い氷で包み込む。
「な、な、な」
 スティーブは道を転がり、手近な茂みの中に頭から飛び込んだ。慌てて足を包む薄い氷を砕き、ふくらはぎを揉みほぐす。
 その頭上を、黒い塊が行き過ぎていった。
「雲‥‥では、ござらんな」
 スティーブは匍匐前進をする手足を止める事無く、空を見上げた。
 大きい。
 その尾から放たれた紫電が、スティーブの傍に立つ若木を直撃した。爆音に跳び上がったスティーブは、匍匐前進で茂みの中を元来た方向へと動き出す。
 「それ」は、上空二十丈ほどを悠然と泳ぐ、黒雲に包まれた巨大な蛇だった。蛞蝓を思わせる粘性の表皮が、初冬の陽射しを受けて妖しく銀色に輝いている。
 蛇の周りを漂う黒雲は、距離三〜四丈に近付いた烏へと突如食らいついた。烏は見る間に雲に包まれて黒い繭のようになり、逃れることもできず地面へと墜落する。
 地に激突した烏を見たスティーブは息を呑んだ。
 黒雲の正体は、小さな蛇の群れだった。烏の羽根や肉を食い千切っては分裂し、瘴気を撒き散らしては消えていく。
「‥‥え、えらいことでござる」
 既にアヤカシは、一町以上離れている。スティーブが立ち上がった瞬間、アヤカシが咆哮を上げた。
 反射的に振り向いたスティーブの視界の奥で、アヤカシの口が、大きく開いた。
 その四本の牙から白い冷気が発せられ、空中に、三尺を越える巨大な氷塊が生まれる。血相を変えたスティーブは纏っていた蓑を後方に放り投げ、全速力で走り出した。
 氷塊は一町を優に越える距離を飛び、宙に舞った蓑を地中深くへと突き込んだ。
「い、一大事でござった! やはり一大事でござった!」
 逃げ足だけならシノビにも負けないとまで言われた脚力を存分に生かし、スティーブは木立の中を全力で走りだした。


■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
鬼灯 仄(ia1257
35歳・男・サ
由他郎(ia5334
21歳・男・弓
神鷹 弦一郎(ia5349
24歳・男・弓
アーニャ・ベルマン(ia5465
22歳・女・弓
ルー(ib4431
19歳・女・志


■リプレイ本文


 山肌を這うように、小さく白い雲が漂っている。
 右を見ても、左を見ても、空と山。
 地平線は東、五行の方角に幾らか見えるばかりだ。聞こえてくるのは風の音、そして打ち下ろす翼の音。
「あれが‥‥」
 山麓に突如出現した、黒い池とも見える空間を見下ろし、由他郎(ia5334)はそっと愛龍、苑梨の首を叩く。首輪に付けられた鈴が、乾いた音を響かせた。
 黒い粘液に覆い尽くされた村の跡地には、人や動物はおろか、植物さえも存在していないようだ。
 肌を切るような風が、陣羽織を激しくはためかせる。錦の手甲に覆われた手を苑梨の鱗に当てると、冷たい手を当てられた苑梨が、不満げな鳴き声を上げた。
「既に1つ村を滅ぼしたということは、放っておけばこれからも同じような被害が続くということ‥‥」
 韓紅の髪をアル=カマルのカフィーヤに包み、風読のゴーグルで目を守った女性、ルー(ib4431)は白い息と共に呟く。
 増槽を三つ積み込み、色だけは薄汚れているが隅々まで丁寧に磨き上げられた滑空艇は、何ら危なげなく風を捉え、巡航速度でゆったりと飛んでいる。
「例え厳しい戦いであっても退く理由はどこにもない、ね」
 六つの影が、山肌を滑る。これだけ広い視界の中で、動いているのは雲ばかりだ。
 が、一際高い山の陰で、僅かに光が遮られた。
 咄嗟に左目のモノクルを摘み、アーニャ・ベルマン(ia5465)は呟く。
「大きいですね‥‥」
 山の陰から、黒い雲がゆっくりと這い出てきた。
 十五丈から二十丈という数字は聞いていても、現に動いている姿を見るとその威圧感は圧倒的だった。
 巨大な長屋が動いているようなものだ。その周囲を飛び回る分身のお陰で、実際の体躯以上に大きく見える。アーニャは右目に掛かる緑色の前髪一房を払い、身震いした。
「こんなアヤカシ見たこと無いです」
「震えてんのか?」
 軽口が、前方から聞こえる。
 大猪の毛皮で全身を覆った甲龍、シロこと白銀の背に跨った鬼灯仄(ia1257)だ。出発前からシロの負っていた傷は、霞澄の閃癒で完治させられている。
「武者震いですってば」
 アーニャの言葉に嘘は無かったが、それでもその声音に緊張は隠せない。
「不気味、というのも‥‥まだ、甘く思える様相だな」
 由他郎は唇を噛み締め、未だ視界の端に見える村へと一瞬視線を向ける。
「危険なアヤカシです‥‥油断せずに、敵の動きを見て対処して行きましょう‥‥」
 白い羽根飾りを首周りにあしらった炎龍、紅焔に跨った銀髪の少女、柊沢霞澄(ia0067)が表情を引き締めた。純白のローブが風をはらみ、持ち主の銀髪と共に大きくはためいている。
「‥‥空は広いな、八尋。アヤカシとはいえ、これ程の巨体が悠々と泳いでいるのだから」
 仄と二人揃って傾奇羽織をはためかせ、愛龍の八尋に跨って先頭を飛んでいた神鷹弦一郎(ia5349)は虎の面を被って目を風から守る。
 六騎の騎影に、臥鉢も気付いたらしい。悠然と空へ泳ぎ出るや、六騎の行く手に合流するようにしてじわじわと近付いてくる。
「逃げるでも、真っ直ぐ向かうでもなく‥‥少なくとも、警戒すべき敵と認識された‥‥のでしょうか‥‥」
「面白いな。墜とし甲斐がある」
 弦一郎は右手一本で五人張を回転させて宙に浮かせ、左手で掴み取る。
 その両腕に填められた弓術の腕輪が、物騒な輝きを放った。ちらと黒く染められた村の跡地を見ると、臥鉢の巨体を視界の中央に納める。
「あの巨体を天から叩き落として、臥鉢村の皆を弔うとしようか」
「そうですね」
 アーニャが今一度武者震いをすると、瑠璃色の瞳に炎が宿った。
「ねぇ、アリョーシャ、久しぶりに大暴れしましょうか!」



 悠然と身体をくねらせ、臥鉢は氷上を滑るかのように空を泳いでいる。
「身体をくねらせて加速‥‥慣性で進む最中は自由に動けるようだな」
 接近するまでの僅かな時間だったが、由他郎はその泳ぎ方を観察し、早くもその行動を理解していた。
「となれば、加速中が好機ですね」 
 弦一郎の両手が、五人張りの弦を引き始める。
 ゆっくりと、次第に加速していきながら、臥鉢の首が曲がった。その口が大きく開く。
「来るぞ」
 由他郎が短く声を上げ、右手を振るう。仄と弦一郎が右上方、由他郎と霞澄が左方へと分かれ、ルーとアーニャがその位置でそれぞれに獲物を構える。三組がそれぞれを射線上に置かない布陣だ。
 臥鉢の口の中に生まれた氷塊は、四本の牙から十二分な冷気を吸い込み、今や人間一人を中に閉じこめられるほど巨大になっている。
 臥鉢の頭部から六騎までの距離は、それぞれおよそ四十丈。
 豪速で打ち出された氷塊が、真っ直ぐに弦一郎と八尋を狙った。
 一町以上離れているという事実が、微かな油断を弦一郎にもたらしていた。氷塊は二十丈飛び、三十丈飛んでも、なお速度を落とさない。
 本能的に危機を感じた八尋が尾を振り下ろした。身体が垂直になり、風を受けた翼が八尋を更に上空へと押し上げる。
 だがその回避は、間に合わなかった。氷塊がその右膝を砕き、太い足をへし折る。白い羽根飾りの一部が、宙へ舞い散った。
 八尋の絶叫が、雲を眼下に望む青空に轟く。
「一町を越えて飛んできたぞ」
 大きく身体の均衡を崩した八尋の手綱を、弦一郎は何とか操る。
 仄が慌てて左踵でシロの腹を叩く。それだけで騎手の意図を汲んだシロは、一気に高度を下げた八尋の身体の下へ回り込むと、首でその身体を支えた。
 凍て付く冷たい風ではない、春風を思わせる暖かい空気の流れが八尋の足を包み込む。
 風で飛ばされそうなキャスケットを深く被り直し、アーニャは五人張りの強弓を引き絞った。
「そういえば、一町を越えるって言われた気もします」
 瑠璃色の瞳が睨む先は、雲霞の如き黒い分身がさざめく空間の奥、臥鉢の逆鱗の裏。一寸ほどの分身が生み出される、黒い穴だった。
 アーニャの練力を存分に注ぎ込まれた矢は、技の名の通り、その輪郭を曖昧にぼかし、幾つもの分身を引き千切りながら、臥鉢の身体へと襲いかかる。
 穴を、逆鱗が塞いだ。鏃が逆鱗に触れる。突き刺さる。突き刺さる。逆鱗が割れる。穴から、猛烈な勢いで黒い瘴気が噴き出す。
 臥鉢の口が開き、地鳴りの様な音が発せられた。
「効いてるみたい」
 アーニャと共に臥鉢の前へ付けたルーが、ヴァルプルギスの操縦席で振り向いた。
 前髪が風を受けて暴れ、ゴーグルを激しく叩く。微塵も気にせず、左肘を右腰骨に置いて固定し、狭間筒「八咫烏」の漆黒の銃身に白い頬を寄せる。慣性で空中を滑っていたヴァルプルギスが、突如として急制動をかけた。
 肺の空気を一度空にし、肩が持ち上がらないぎりぎりまで空気を入れる。息を止める。
 この一瞬、ルーの身体は、何の支えもない空中に固定された、一つの台座と化した。
 「八咫烏」の銃口が火を吹く。
 臥鉢の周りを漂う芋虫の如き分身が弾け飛び、粘体に覆われた銀色の鱗に弾丸が深々と突き刺さった。
 強力な攻撃を当てたわけでもないのに、二十丈ほどもある臥鉢の巨体が軽くうねり、傷から瘴気が噴き上がる。
 その様子を横目に眺めていた由他郎が、呟いた。
「なるほどな」
 ルーは射撃と同時にヴァルプルギスを再発進させ、急速にその場を離脱する。
 臥鉢の牙から生まれた氷弾が立て続けに打ち出され、ルーは思い切り騎首を下げた。一気に二丈急降下したヴァルプルギスの主翼が風を捉え直し、今度は急上昇する。
 その動きを忠実に追った氷弾は、全てルーの手前で力を失い、地表へと落下していった。
「何がですか? ゆたさん」
 愛龍アリョーシャを駆るアーニャが、金髪と虹色の外套を風に靡かせながら弓を放った。横手からも、後方からも、幾つもの弓音と弦音が響く。
「装甲は厚いが、中はかなり脆いらしい」
 由他郎も背の矢筒から取った矢を「雷上動」に番え、引き絞る。
「ルーのつけた傷から瘴気が出始めた途端、アーニャの潰した逆鱗の穴から漏れる瘴気が少なくなった。瘴気の風船のようなものと見た」
 由他郎の金色の瞳の前に、練力が集まっていく。
 圧縮され楕円形になった練力は複雑に光を屈折させ、臥鉢の逆鱗の位置、開閉の様子、そして僅かな鱗の裂け目から覗く目玉の向きさえも由他郎に伝えていた。
 由他郎の放った矢は幾匹もの分身を消し飛ばしながら臥鉢の首に突き立った。だが身体のうねりが鏃の入射角を浅くしたか、矢は鱗に付着した粘体に食い止められてしまう。
「なるほどね」
 直後、臥鉢の身体が大きくうねった。加速するものと判断した六騎は、一斉に速度を上げる。
 しかし、臥鉢の身体は急激に仄と弦一郎、後方の二人へと急接近した。
 加速ではなく、急制動を掛けたのだ。
 弦一郎は番えていた矢を放り出して鞍の上に伏せる。八尋が首を下げ、尾を持ち上げて、まっしぐらに降下を始めた。
 シロは手綱を引かれて首を引く。
「そのままだシロ!」
 反応の遅れたシロは、粘泥のごとく蠢く分身達の眼前で身体を起こし、身体を強張らせる。
 翼を動かすだけでも分身に触れてしまうであろうぎりぎりの距離を、シロは垂直に落下し始めた。
 前方から弦音と破裂音が響き、臥鉢の首周りから、幾条もの瘴気が噴き上がる。
 痛みを感じているのか、唸りを上げた臥鉢の尾に、紫色の電撃がまとわりついた。
「神鷹! 来るぞ!」
 急降下する弦一郎の姿が前方から流れてくる雲へ突っ込んで見えなくなるのと、雷が打ち出されるのとが同時だった。
 雷撃が雲の中へと消えていく。
 僅かな間隙を挟み、雷が地上に落ちた轟音が上がってきた。
「‥‥やれやれ、もう若くないんだが、な」
 首を回し、八尋の巨躯が小さな白い雲の中から現れる。
 軽い安堵の息を吐きながら、仄が弓を引き絞った。
「そりゃ俺に対する皮肉か?」
 八尋が得意げに鼻を鳴らし、白い息を吐く。
 飛行速度を調整し、発射直前に合わせて雲へと突入した弦一郎は、八尋を急旋回させて雷撃を回避したのだ。
 氷弾は届かない。電撃は外された。臥鉢は咆哮にも似た轟音を発し、上下の顎を胴と垂直になるまで開いた。
 四本の牙から、凍て付く霧が噴出し始める。
「アリョーシャ! 全力で逃げますよ!」
 アーニャは軽く手綱を引き、両踵でアリョーシャの腹を蹴った。一声啼き、アリョーシャは首を真っ直ぐに伸ばして足を揃え、矢のようにその場を離脱する。
 臥鉢の前方に位置する紅焔が、苑梨が、それに倣って急降下を始めた。
 最後にヴァルプルギスが機首を回し、臥鉢に背を向ける。
 後方を飛ぶ弦一郎が怒鳴った。
「間に合いません! 回避を!」
「解ってる!」
 背後で氷塊が膨れあがり、猛然と打ち出される。頸に目でもついているかの如く、ルーは右に倒していた操縦桿を引き上げ、左に倒して、機体を急反転させた。
「ルーさん!」
 アーニャが絶叫した。ヴァルプルギスが真上へと跳ね上げられ、不規則な回転を始める。
 地上に居るルーなら、難なく回避していたろう。だが氷塊は打ち出される速度は、ヴァルプルギスの回避性能を上回っていた。
 ルーの右半身を直撃し、右主翼の半分以上を削り取った氷塊は、遥か地上へと落下していく。
「紅焔、急いで‥‥急いで! お願い‥‥!」
 全身を打つ電撃を毛ほども気にせず、霞澄が山肌に墜落していくヴァルプルギスを追う。
 ルーの左手が、力無く振られる。
「生きてる‥‥! ただ、左手一本じゃ制動‥‥‥‥巡航でも‥‥」
 後の言葉は、風の音に掻き消された。
 小さくなっていくヴァルプルギスは、何とか大きな曲線と小さな曲線を組み合わせた不安定な軌道で、臥鉢村の方角へと消えていく。
「やってくれますね」
 仲間達が攻撃を再開する中、弦一郎は五人張の弦を一気に引き絞ると、両腕から渾身の練力を矢に注ぎ込んだ。
 尾から放たれた電撃がその身体を貫く。が、火傷による電紋が両腕に現れてさえ弦一郎は眉一つ動かさず、矢羽根を摘んだ指を放した。
 矢は寸分違わず逆鱗と鱗の合間をすり抜け、矢羽根の先端まで臥鉢の胴に突き刺さった。
 既に十数カ所からとめどなく瘴気を垂れ流し、届かない氷弾を連射して暴れ回っていた臥鉢の身体が、遂に力を失い始めた。
 だが、
「柊沢!」
「行けシロ!」
 とどめを刺さんと弓を引いていた由他郎と仄が叫び、苑梨とシロの腹を蹴飛ばした。
 臥鉢の身体は急激に高度を落とし始めていた。ルーを追って一度降下し、彼女の行方を見守っていた霞澄の身体に、臥鉢の分身がのし掛かろうとしている。
「あ‥‥」
 霞澄の顔に差していた陽射しが、翳った。
 紅焔の身体が大きく傾く。
 臥鉢と紅焔の間に割り込んだ苑梨が、渾身の力で蹴飛ばしたのだ。騎首を返しきれなかった苑梨の鞍で、急降下した臥鉢から逃れられず、由他郎の頭が雲霞の如き黒い分身の群れに触れかける。
 咄嗟に頭を庇った由他郎の右腕に、芋虫のような臥鉢の分身が二匹齧り付いている。咄嗟に払い落とそうとする左手に一匹が、そして右腕に一匹が、その細長い身体をくねらせて頭をねじ込んだ。
 肉の味、血の味に狂喜した二匹の分身は、それぞれ二体、四体、八体と次々に分裂を繰り返しながら、由他郎の身体の中へと潜り込んでいく。由他郎は激痛に顔を歪め、噴き上げる血の中に骨の見え始めた左手で、必死に分身を叩き潰す。
 由他郎の身体に、春の陽光の如き暖かい光が浴びせられた。分身に食い付かれた身体が見る間に元の姿を取り戻していく。
「由他郎さん‥‥!」
 霞澄の閃癒だ。しかし分裂を繰り返す分身の「食事」の速度は増すばかりだ。由他郎の両腕の皮が、肉が、失われていく。
 既に右腕は肩の下まで侵食されている。胸が食われるのも時間の問題だ。
「黎阿‥‥!」
 自分の身体に抱きついてくる妻の笑顔が、由他郎の脳裏を過ぎる。腕を這い上がってきた分身が、肩に食らいついた。
「由他郎、両手挙げろ!」
 怒号と共に爆音が響き、由他郎の身体が吹き飛ばされ、宙に投げ出された。
 仄だった。持参していた焙烙玉に火を付け、由他郎に投げつけたのだ。
 墜落を始めた由他郎の腕には、肉さえも半分ほどしか残っていない。しかし分身は焙烙玉の一撃で残らず吹き飛ばされたようだ。
 仄を冷気から守るように翼を畳んだシロが、まっしぐらに由他郎の身体を追う。
 だが、シロが由他郎の身体を拾うよりも早く、赤い騎影が仄の視界をよぎった。
 苑梨だった。焙烙玉の爆風を浴びて体勢を崩していた苑梨だったが、空中で姿勢を調えるどころか寧ろ自ら地上に向けて羽ばたきながら、由他郎を追っていたのだ。
 赤い口が由他郎の服に噛みつき、持ち上げて、臥鉢村の方角へと離脱していく。
「ゆたさんは!?」
 血相を変えたアーニャが叫ぶ。仄が怒鳴り返した。
「死んでねえ、分身ももう消えた!」
「‥‥良かった‥‥」
 一瞬安堵の息をついたアーニャだったが、直ぐに表情を引き締め、濁り始めた臥鉢の目を睨み付けた。
「村の人たちや警備隊の人たちの無念、この矢に込めます!」
 弓掛けを着けた右手を、引く。更に引く。耳元で唸る風の音に、弓音が混じる。
 右手を、そっと放す。弦音が響く。
「‥‥当ったれ〜〜!」
 視線は、切らない。標的とは、射るものではない。射抜くものだ。弓術士の狙いは、いつも必ず、標的の二丈先にある。
 女性の絶叫にも似た、絹を裂く様な甲高い音が上空を震わせた。
 音を発しているのは、臥鉢の鱗を割り、その胴に突き立った矢だった。ありったけ注ぎ込まれたアーニャの練力が、鏃から臥鉢の胴へと流し込まれていく。
 臥鉢の身体が、苦悶に激しくくねり始めた。
「今です!」
「畳み掛けます!」
 アーニャの声に、いの一番に答えたのは弦一郎だった。黒い瞳が初冬の陽射しを反射して妖しく輝く。全身の練力が突如その流れを変え、左手から五人張の弓へ、右手から矢羽根、そして鏃へと注ぎ込まれていった。
 殆ど無造作とも言える動作で放たれた矢は、矢羽根さえ触れさせずに雲霞の如き分身の隙間を滑り抜け、逆鱗の裏に深々と突き刺さった。
 膨大な練力に瘴気を吹き飛ばされ、臥鉢の身体が、枯れ草色へと変色を始める。
「父さま‥‥私に力を貸して下さい‥‥」
 霊杖「カドゥケウス」を両手で握り締めた霞澄の銀髪が、風を受け翼のごとくはためいている。
 銀髪の毛先からこぼれ落ちた小さな光の粒が、二匹の蛇が絡み合った形状の杖を中心に渦を巻く。
 霊杖の姿をなぞるかのようにして、絡み合う二筋の光の奔流が臥鉢の胴に食らいついた。激しく回転する細い光は遂に臥鉢の胴を食い破り、遥か上空へと消えていく。
 遂に、臥鉢の全ての逆鱗の裏から、黒い瘴気が絶え間なく漏れ出し始めた。
 アーニャと弦一郎が次の矢を番え、霞澄が追撃のため精神を集中する中、仄の手を離れた矢が、半透明の幻影を纏って臥鉢の背に突き刺さる。
 その一撃で、臥鉢の周囲に漂う分身が、自壊を始めた。冬の風を浴び、黒い瘴気を噴水のように撒き散らしながら、臥鉢は力を失い、墜落していく。
 その身体は地上に激突するよりも早く、飛散し、風に溶けて、消えていった。



「おい、そんなに威嚇すんなよ」
 困惑顔で言う仄に、苑梨は姿勢を低くして牙を剥きだし、低い唸り声をあげている。
「まあ‥‥苑梨からしたら、単にゆたさんが焙烙玉で吹っ飛ばされただけに見えたでしょうね」
 アリョーシャに首をすりつけられながら、服に小さな花弁を付けたアーニャが眉を八の字にして笑う。
「仕方ないだろうが‥‥」
 霞澄は力無く首を振った。
「すみません、由他郎さん、ルーさん‥‥これほどの重傷になってしまうと‥‥私の力では‥‥」
 右腕全体と左肘から先を包帯で覆い、薬草の臭いを辺りに撒き散らしている由他郎と、口から流した血の跡が痛々しいルーが、痛みに顔を顰めながらも大きく息をついた。
「謝らないで。生きてただけでも良かったし。ヴァルプルギスも、また飛べそう」
 喋るだけでも、骨が痛むようだ。無理もない。霞澄の見立てだが、右側の肋骨が全て折れ、肩胛骨は複数に割れていたのだ。ヴァルプルギスにしても、あと少し当たり所が悪ければ真っ逆さまに落ちていただろう。
「由他郎さんも‥‥その、ごめんなさい‥‥関節部分に、傷跡が残ってしまうかも‥‥」
「構わない。それにルーの言う通りだ。生きていただけでも感謝しなくては」
 由他郎の両腕に至っては、火傷、骨のひび、皮膚と筋肉の喪失など、正視に耐えない有り様だった。仄の機転が無ければ死んでいただろう。
 由他郎は仄に深く頭を下げる。
「済まない、助かった」
「止せ止せ。‥‥しかし準備ってのぁ、しとくもんだな」
 仄はひらひらと手を動かす。
「黒い粘液は、村中どこに行ってももう残っていませんでした。‥‥それから、生存者も」
 弦一郎が戻ってくると、途端に八尋が彼の頭を甘噛みし始める。
「こら、遊ぶのは後だ」
 弦一郎は八尋の顎を叩いて離れさせ、壊滅した村を眺め直す。
 六人は、誰からともなく手を合わせ、頭を垂れ、目を閉じ、黙祷を捧げた。
 臥鉢が活動を停止したためだろう、臥鉢村を覆っていた黒い粘液はすっかり消え去っていた。
 粘液の力で辛うじて原形を留めていた家々は風に崩れ去り、今や唯の更地に石や木材の破片が散らばっているばかりだ。
 仄が、弦一郎が、村に背を向けて歩き出す。翼を半分失ったヴァルプルギスを背に乗せた紅焔が、霞澄とルーに続いて踵を返した。
 包帯に覆われた両手を合わせた由他郎が、口の中で呟く。
「奴らがのさばっている限り、こういう事は無くならない‥‥だから」
「‥‥ゆたさん」
 アリョーシャと共にそれを見守っていたアーニャが、由他郎の背に声を掛ける。苑梨の鼻につつかれ、由他郎は漸く顔を上げて振り向き、小走りにアーニャの後を追った。
 積み上げられた石の前に撒かれた花が、そして供えられた線香の煙が、蝋燭の炎が、風に流れ、揺られていた。