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■開拓者活動絵巻
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■オープニング本文 ● 杭や木材を打つ木槌の高い音が、筋雲の広がる空へと吸い込まれていく。 武天は侠客の町、三倉。 元々外界との接点が少なく、隣の町へ行くために湿地帯の傍を通らねばならないこの町では、通信の手段として、産出する硝石を利用した狼煙が発達していた。 毎年この時期、町に複数存在する狼煙の流派が腕を競い合う祭が開かれる。木槌の音は、各流派が自慢の狼煙を打ち上げる為の櫓を組む音だった。 「禅ちゃん、だめだよ」 茂みの中で不安げな声を発し、身の丈三尺半ほどの少年、宗二は訴えた。年の頃は精々五つか六つというところだろう。その腕の中では、一匹の野良猫が丸くなって寝息を立てている。 「しっ」 宗二の兄、禅一は小さな指を口の前に立て、茂みの中で目を閉じ、耳を澄ました。 「きっとあいつら、わるいやつらだから‥‥仁兵衛じいちゃんにおしえてあげなきゃ」 「でも、見つかったら‥‥」 茂みのすぐ傍には、既に誰も使わなくなったあばら屋が建っていた。壁材はあちこちが朽ち果てており、申し訳程度に風を遮る以外の役には立ちそうにない。 「わるいやつらだから、こんな所に集まってるんだ」 禅一は真剣な顔で、耳に手を当てて意識を集中している。 「‥‥なんて言ってるの?」 「ひでんしょとか‥‥いちのせりゅうとか‥‥」 「いちのせりゅうって、のろしの?」 「たぶん‥‥」 禅一は声を殺して答え、頷く。 市野瀬流と言えば、三倉の町を二分して争う侠客、永徳一家が後ろ盾となっている狼煙の流派だ。 「いちじんとか‥‥にじんとか‥‥」 「いちじん‥‥?」 禅一は咄嗟に宗二の口を塞いだ。 「誰かいんのか?」 訝しげな声と共に、重い足音があばら屋から出て来たのだ。 逃げ出そうとする宗二の手を禅一が掴み、きつく身体を縮こまらせている。 「何か、物音がしたぜ」 「物音だあ?」 蜩や油蝉の合唱。遠く響く木槌の音。櫓を組む荒くれ達の怒鳴り声。 と、自らを抱く身体の緊張が伝わったか、宗二の手の中で野良猫が起き出し、小さく欠伸を漏らすや、するりとその腕を抜けて地面に降りてしまった。 「‥‥!」 宗二の腕を、禅一はきつく握りしめている。猫は、果たして何の警戒も無くあばら屋へと近付いていってしまう。 が、ぽかんとしている男の姿に気付いた猫はぴたりと足を止め、明後日の方角へと逃げ去っていった。 「くっくっく」 「だっはっはっは」 あばら屋の中から、遠慮のない笑い声が響く。 「確かに物音はすらあな」 「びびりすぎだ、馬あ鹿」 「う、うるせえ! 笑うんじゃねえ!」 「おう、虎吉、超越聴覚使えよ。猫の鳴き声がよーく聞こえるぜ」 禅一と宗二は息を殺しながら、茂みの中でそっと胸を撫で下ろす。 「いいか、ブツを頂戴するまではここに近付くんじゃねえぞ? 適当な宿に散って、配った間取り図でも頭に叩き込んでろ。狼煙が上がり始めたら、仕事開始だ」 「わかってるって」 ● 「ふうん」 黒楽の茶碗で茶を点てながら、白髪から生えた狐耳をくりくりと動かし、老侠客が鼻を鳴らした。 「市野瀬流の、秘伝書ねえ。頂戴すると言ってたのかい」 「ほんとなんだよ、仁兵衛じいちゃん! 男の人ばっかり、十人いじょういたんだよ!」 「ぼくも、ぼくもきいた!」 禅一と宗二が、勢い込んでまくし立てる。老侠客、仁兵衛は小さく小刻みに頷きながら茶筅を畳に置いた。 「嘘たあ言ってねえよ? お前さん達があたしに嘘をついたって、何の得もないだろうからねえ」 「うん、うそじゃないよ!」 「じゃないよ!」 兄弟は激しく頷く。 皺の寄った仁兵衛の手が茶碗を素通りし、傍に立てかけてある孫の手を掴んだ。 「余計に悪い」 瞬き一つの間に、孫の手が禅一と宗二の頭頂部を叩いた。 軽く乾いた音が室内に響き渡る。 「いいかい坊主達、もし気付かれたら、今頃湿地におっぽり出されてるんだ。解ってんのかい」 湿地とは、三倉の町の東に広がる、屍体や幽霊系のアヤカシの出る一帯の事だ。兄弟は片目に涙を滲ませ、叩かれた頭を撫でている。 「いたあ‥‥」 「だって、じいちゃんにほめてもらえると思って‥‥」 「褒めるもんかい」 もう一発、孫の手が二人の頭に炸裂する。 「いいかい、坊主達。今回だけは黙っておいてやるけどねえ、次に無茶しやがったら、あたしが代わりにお前さん達を湿地におっぽり出しちまうからねえ。覚悟しておくんだよ」 きつく言い含められ、二人はしゅんと肩を落とした。 「解ったら、とっとと父ちゃんの所に帰りねえ。市野瀬の方は、あたしが何とかしておくよ」 言われ、兄弟はすっかり落胆しきった様子で立ち上がると、とぼとぼと廊下へ出て行く。 「全く、肝が据わってんだか何なんだか」 二人の姿が廊下に消えた後、屋敷に居候しているもふらの風螺が、庭で呆れ顔で呟いた。 「一歩間違えばくたばってたってのに、おっかなくなかったのかねえ」 「下手に肝が据わってるから性質が悪いよ、全く‥‥禅坊! 宗坊!」 屋敷を出たところで紙芝居屋を見つけ、けろりとした様子で駆け出そうとした兄弟を、仁兵衛は呼び止めた。 「その‥‥何だ。無駄遣いするんじゃあないよ」 懐から取り出した十文銭二枚を、仁兵衛は指で弾いて飛ばしてやる。禅一は受け取った一枚を宗二に持たせ、落ちた一枚を自分で握りしめると、仁兵衛に大きく手を振った。 「ありがとう、じいちゃん!」 「ほれ、とっとと行きねえ」 紙芝居屋を追って駆け出した二人を見送る仁兵衛を見て、風螺は笑いを噛み殺した。 仁兵衛がじろりと風螺を睨む。 「何だい」 「いやいや、何でもねえもふ‥‥くっくっくっ‥‥」 仁兵衛は気まずそうに白髪を掻き回すと、神楽の都に風信を飛ばしに行く身支度をし始めた。 |
■参加者一覧
鬼灯 仄(ia1257)
35歳・男・サ
宿奈 芳純(ia9695)
25歳・男・陰
千代田清顕(ia9802)
28歳・男・シ
明王院 浄炎(ib0347)
45歳・男・泰
エラト(ib5623)
17歳・女・吟
アーニー・フェイト(ib5822)
15歳・女・シ |
■リプレイ本文 ● 明るく高い、物悲しい笛の旋律が、風に乗って運ばれてくる。 狼煙が上がった。白い煙が尖塔の如く立ち、その突端から青い煙が放射状に噴出される。 数秒遅れて、高らかな破裂音が届いた。 胸を騒がせる、太鼓の音。風が里芋の葉と竹藪を揺らす。 「お、来た来た」 キャスケットから漏れた金髪が秋風になびく。少女は右目で望遠鏡を覗きながら左目を開け、懐から取り出した金の懐中を顔の前に翳した。 「ホノ、やるじゃん」 次は市野瀬流の昼狼煙が上がる番だ。 竹藪の中から枯れ草色の頭巾が現れ、閉じられた屋敷の雨戸に取り付いている。 松葉色の龍袍に身を包んだアーニー・フェイト(ib5822)は首に提げたゴーグルを掛けると、望遠鏡と懐中時計を懐にしまい、板葺きの屋根を蹴った。 その足は屋根板を、瓦を、庭木を渡り、空を滑るかのように屋敷へと近付いていく。 だが、屋敷に近付くほどに、違和感が増す。 「あれ?」 アーニーは大きな目を幾度も瞬かせた。 屋敷の中が、妙に静かだ。 道を跳び越えて庭に降り、壁に貼り付いたアーニーが中を覗き込む。その視線が、天井から逆さに頭を出して茶色い髪を垂らした美女、エラト(ib5623)の視線と重なった。 事態を理解し、アーニーはがしがしと頭を掻く。 「あー‥‥あたし達はラクでいーんだけどさ」 男達は、主人部屋と家族部屋に分かれて家捜しを始めた所で、完全に爆睡していた。 「私達の出番がありませんね」 困惑顔で、縁の下から這い出てきた長身の陰陽師、宿奈芳純(ia9695)が風霊面を外して頬を掻く。 「私は多数の敵との戦いの方が得意でして」 エラトは茶目っ気たっぷりに笑うと、荒縄を取り出して男達の捕縛に取りかかった。 ● 「ったく、一陣は何やってんだ? 連絡もねえし‥‥」 雨戸を外して庭に放り出し、枯れ草色の頭巾に職人風の服を着た男達は土足で屋敷に上がり込んでいた。 「足跡だけはありますけどねえ」 ほんの微か、天井から降ってくる埃に、男達は気付かない。 程なくして、奥方部屋の箪笥を漁っていた男が声を上げた。 「何かそれっぽい本、あるぞ! 何かの目方が書いてある!」 「どれ。小麦粉三十匁、醤油適量‥‥この馬鹿」 漆黒の忍装束に身を包んだ青年、千代田清顕(ia9802)は、奥方部屋の天井裏で笑いを堪え、戦袍の裾で口許を覆っていた。 主人部屋の天井裏に潜むエラトも、マスカレードマスクの上から口を抑えている。 「こっちは‥‥土間か」 「土間には無えだろ。こっちは‥‥まあ、次の間ってとこか‥‥」 「座敷‥‥火を使う所には置かねえよな。‥‥こっちは客まあああ!?」 悲鳴、そして一瞬の静寂。そして失笑。 「何やってんだ馬鹿」 男は客間の畳を踏み抜き、床板を突き破って、縁の下に下半身を突っ込んでいた。破れ残った床板に腰を強打し、悶絶している。 ちらりと見える畳裏と床板は、通常ではあり得ないほどに黒く、ぼろぼろに腐食していた。 縁の下に落ちて悶絶していた男が、やおら息を呑んだ。 烏帽子の下にぬらりと光る、白い風霊面が縁の下の暗闇に浮かび上がっていた。その奥には、身の丈八尺はあろうかという、狩衣に包まれた身体。 「で、出たあああ!」 芳純を見て悲鳴を上げかけた男の姿が、縁の下に消えた。 床下で異音が響く。主人部屋を漁っていた男二人は跳び上がり、一人は家族部屋に、一人は縁側へと転がり出た。 「な、何かいんのか!?」 家族部屋で指示を出していた男が一瞬意識を集中し、声を上げる。 「やべえ、外に凄え数いるぞ!」 「あ」 縁側へ飛び出した男は、空の籠と麻袋を後ろに放り投げているゴーグルの少女を見て言葉を失った。籠から放たれた鼠を、野良猫が追い回し始める。中の男が察した気配の正体は、アーニーの用意した動物だった。 アーニーの右手が電光のように腰の後ろへと延び、風を切り裂く唸りと共に、その手指が蛇のように伸びて男の左足に食らいつく。 「!」 伸びた指と見えたのは、革の鞭だった。 「まっ、あたしらに会ったのが運の尽きってね」 アーニーの手が鞭を引く。咄嗟に右足で地を蹴った男は、鞭に引かれるまま宙を滑り、短刀を右手で振りかぶる。 血が飛び散った。 「天儀にゃ、キュウニイッショウヲオエルっつー言葉があるんだろ?」 板塀の上に片足一本で立ったアーニーは、白い歯を見せて意地悪く笑った。近付いてきた男の顔面に炸裂した礫が地面に落ち、鼻をひしゃげさせた男は堪らず引っ繰り返る。 その足からは鮮血が溢れ、いつの間にか敷かれていた茣蓙越しに撒菱が刺さっていた。 外で狼煙が上がる。 派手な物音と共に、悲鳴が発せられた。 「急に一生を終えてどうすんだ」 口の端に煙管を咥えたまま、男が呟く。 床板を跳ね上げて現れたのは、鉄紺色の夏甚平に、蜘蛛の巣だらけとなった茜色の傾奇羽織を引っ掛けた男、鬼灯仄(ia1257)だった。 その左手は、縁の下に引きずり込まれた男の頸部を、仔猫でも捕まえるかのごとく掴んでいる。 「祭の最中に盗みとは、ずいぶんと風情のねえ輩だな」 敵は、奥方部屋に三人。子供部屋に一人。次の間に一人。外に一人。 狼煙の音と共に奥方部屋の天井が突き破られ、黒い影が三人の前へと落ちかかった。 「ひ‥‥」 三人は更に後退し、土間に転がり落ちた。 「あんた達には偽物の秘伝書がお似合いだよ」 窮屈な天井裏に身を潜めていた清顕は、右手で忍装束の埃を払い、首を鳴らした。 その右踵はさりげなく敷居に体重を預けている。 仄が怒鳴った。 「宿奈、座敷だ!」 次の間の男が、仄に背を向けていた。仄の右腕に太い血管が浮かび上がり、筋肉が膨れあがる。獣のような唸り声がその喉から漏れた。 危機を感じた子供部屋の男は、頭を抱えてその場に伏せる。 人体が、空中を平行移動した。 獣の咆哮のごとき大音声に遅れること一瞬。投げられた男は襖を突き破り、土壁を肩で砕き、胸を中心に一回転すると、卓袱台に側頭部から激突した。 もう五寸狙いが右なら、座敷を逃げる男を直撃していただろう。座敷を駆け抜けた男は両手を交叉させ、雨戸を突き破る。 「ぶっ!?」 と同時に、男は座敷の床に転がっていた。 破れた雨戸から、何やら白い物が覗いている。これに弾き返されたのだ。 「わ、わ」 子供部屋の男を置いて大股に近付いてくる仄を見て、男は再度その白い「何か」に体当たりを仕掛けた。が、敢えなく弾き返される。 芳純の結界呪符「白」だった。尻餅をついた男が顔を上げた瞬間、その視界が茜色に包まれる。 その正体が仄の傾奇羽織だと気付かぬまま、男は脛から脳天へと突き抜ける激痛に身体を反り返らせ、声も出せずに床を転げ回った。 鋭く硬質の、張り詰めた音が、屋敷の天井裏で流麗な旋律を刻み出す。 「に、逃げろ! すり抜けろ!」 仄が座敷へ消えた途端、子供部屋に伏せていた男が怒鳴り、自らも庭へと飛び出す。土間の三人も奥方部屋へ上がり、清顕目掛けて走り出した。 男達は気付いていなかった。右踵で敷居に乗った清顕が左足で畳を押し、着地の衝撃で浮いた畳の下にその縁を潜り込ませている事に。 足下の畳が更に押し込まれる。上になった畳が、二寸宙に浮く。清顕は右踵で敷居を蹴り、左手を手前の畳につく。 風と埃が渦を巻いた。 蹴り上げられた畳がたわみ、立ち上がり、反対方向へと倒れ出す。泡を食った男達は土間に転がり落ちた。 「な、何なんだ、てめえは! くそ‥‥」 天井裏から聞こえるエラトの旋律が進むにつれ、男達の瞼が重くなっていく。 「俺はむかついてるのさ。あんたらのせいで今年は狼煙を見る時間が減ったからね」 清顕が一歩踏み出す。三人組が立ち上がり、台所へと後退する。 壁が、動いた。 男達がそう錯覚した瞬間、巨大な泡が水面に浮かぶかのような、濡れて濁った音が台所に木霊した。 一塊になっていた筈の男一人が、壁際で崩れ落ちる。 「え」 男の腰に触れていた大きな左掌が、ゆっくりと引き戻された。 動きを止めた二人が、恐る恐る振り返る。 泰国風の袍にコートを羽織った、腹が見える。視線を一尺上げる。盾と獅子を組み合わせた模様入りのメダル、そして翡翠の首飾りが掛かった胸板。更に視線を一尺上げる。鉢金の下に、金属製の面頬。 身の丈七尺の大男、明王院浄炎(ib0347)が、横目に彼らを睥睨していた。 「あ、あは‥‥はは」 乾いた笑いが止まる。指を下に向けた掌底が一人の腹に触れる。 再び、泡のような音。 宙に二尺浮いて一瞬静止した男が、口から夥しい吐瀉物を流し、土床に落下した 浄炎の右足は、土間の地面に二寸ほどもめり込んでいる。 残る一人は、浄炎の手をわずらわせるまでもなく、その場に崩れ落ちて寝息を立てていた。 リュートの音色が止み、主人部屋の天井板がずれる。 畳の上に降りたエラトが微笑んだ。 「狼煙を楽しまず盗みに勤しむ無粋な方々は訪問お断りです」 ● 狼煙が上がる。夜の街が、瞬く間に白い輝きで染め上げられた。 「何か怒られたんだって?」 「うん‥‥」 宗二は、貰った飴を握り締めて肩を落としていた。アーニーは、牛肉の柚胡椒焼きを囓りながら、悪戯っぽく笑う。 「下手に追わねぇで仕入れた情報だけ流して、あとは言われたコトはやる。それ以上は手ぇ出さねぇってのがコツだよ」 「? うーんと‥‥?」 宗二は大きく瞬きをした。 「確実にオイシイ思いできる所だけつまみ食いして、欲出すなってコト」 言い直し、アーニーは人差し指を唇の前に立てた。 「‥‥じーさんの小言はあたしも聞きたかねぇし、秘密にしといてくれよ?」 「うん! ひみつ!」 宗二は小指を出す。 「ゼンイチにも、後で教えてやりな」 アーニーは意地悪い笑みを浮かべ、その指に自分の指を絡めてやった。宗二は頷き、広場の外れへと駆けていく。 その向かう先では、禅一が貰った旋棍を振るっていた。頭の後ろで手を組んだアーニーは、広場の雑踏へと消えていく。 「うむ。筋が良い」 指に摘んだ小枝を振り、受けと捌きをさせながら、浄炎は意外そうに呟いた。 危なっかしい手つきながらも、自分の腕より長い旋棍を、禅一は器用に使っていた。 その傍に片膝を付いていた清顕が、声を掛ける。 「君たちが居なくなったらお父さんや俺達がどんなに悲しいか分かるだろ?」 狼煙が炎を吐いた。兄弟の背が、清顕の顔が、橙色に染まる。 「清顕殿の仰る通りだ。命を懸けてなすべき事か否かの見極めを誤ってはならぬ」 禅一は旋棍を下ろし、こっくりと頷いた。 「仁兵衛殿の役にと志すなら、竜三殿を説き伏せ師事し、師の元で認めらる位の事は為せ」 「竜三にいちゃんに?」 「力無くば、足手纏いにしかならぬからな」 禅一は暫し考えていたが、やがて頷いた。 「‥‥うん」 「命を大事にするんだよ。秘伝書は取り戻せたって命は取り戻せないんだから」 清顕の白い歯が零れる。 市野瀬流の職人と話しながら広場に現れた仁兵衛に気付き、浄炎は立ち上がった。 「兄ちゃん。おっちゃん」 「ん?」 声を掛けられた浄炎が、身体ごと振り向く。 禅一は、深々と頭を下げた。 「‥‥ごめんなさい」 清顕と浄炎が、口許を緩めてちらりと視線を交わす。 「くれぐれも無茶はせぬようにな」 「はい、みょーいんのおっちゃん!」 「‥‥みょーいん‥‥」 何か言いたげな浄炎の背に、声が掛けられる。 「以前よりは発音が近付いたのですから、良かったではないですか」 エラトの奏でるリュートの旋律に耳を傾けていた芳純だった。 「う‥‥うむ‥‥」 どこか納得のいかない顔で頷く浄炎を、市野瀬流の職人を連れた仁兵衛が見つけ、声を上げた。 「皆さん、こちらにお揃いでしたかい」 リュートを爪弾く手を止め、エラトが立ち上がって二人に深々と頭を下げた。 「どうも、お疲れさまです」 芳純も立ち上がり、それに倣う。 「エラトさん、大手柄だったそうで」 「いえ‥‥」 エラトは恥ずかしそうに頬を染め、目を伏せた。 職人は満面の笑顔で、嬉しそうに掌を擦り合わせた。 「それより、忘れないで下さいよ? すっかり直してもらっちゃあ、困りますよ?」 天井板が抜け、畳が破れ、床板が抜け、襖が破れ、卓袱台が割れ、土壁の砕けた屋敷を見るや、職人は大喜びで「そんな大立ち回りがあったなら、記念に、跡が残るよう直してくれ」と頼み込んだのだ。 昼狼煙に比べて控えめな破裂音と笛玉の音が響く。 雑踏から頭一つ飛び出させた仄が、長煙管から煙を立ち上らせて歩いてくる。 左手の徳利と、右手に重ねた檜の枡が掲げられた。 「よう千代田、一杯どうだ? 大吟醸だとよ」 「お、いいね」 仄は雑踏を掻き分けて清顕に近付き、渡した枡に徳利から酒を注ぐ。 橙色の光を放射状に撒いた竹から、黄色、緑、青と、様々な色の炎が噴き出した。 芝生にどっかと腰を下ろした仄は、枡から冷酒を一口飲むと、清顕を見上げる。 「随分と優しいじゃねえか」 檜の香りと共に酒を喉へ流し込むと、清顕は仄の隣に腰を下ろした。 「‥‥俺の小さい頃を思い出すなぁってね」 「ふん。男はそのくれえ肝が据わってた方がいいだろ」 仄は鼻で笑い、枡を傾けた。 そう言いながら、仄の口許は僅かに綻んでいる。 訝しげな声が、二人の横手で発せられた。 「‥‥千代田さん、鬼灯さん。あたしの饅頭、ご存知ありやせんかね」 「ん? いや」 皿ごと地面に落ちたのではないかと、仁兵衛は暗がりの中、屈み込んで辺りを探しだす。 仄が、その背中に声を掛けた。 「その饅頭ってのぁ、旨いのか」 「ええ。あの饅頭は、年に一遍しか食えねえんで‥‥子供達が、すぐに‥‥」 言いながら、何か思いついたのか、仁兵衛は恐る恐る顔を上げた。 「どうしたの、じいちゃん」 「‥‥お前さん達かい!」 禅一と宗二は、浄炎にもらった物を脇に抱えたまま、餡で口をべたべたにしていた。仁兵衛は怒るに怒れず、呆れ顔を見せる。 「もう売り切れちまってるだろうねえ‥‥」 「あのね、おいしいとこだけ、つまみ食いしろって!」 宗二が満面に笑顔の花を咲かせる。 「教えてもらった!」 禅一が甚平の袖で口を拭う。 「言ってたって、‥‥誰がだい」 「あのね、アーニー姉ちゃん!」 「でもね、ひみつなんだって! だから、じいちゃんもひみつね!」 仁兵衛の目が、ふと据わった。 「‥‥そうかいそうかい‥‥じゃあ、永遠に秘密になっちまうかも知れないねえ」 そして、俯くようにして肩越しに振り向く。 「千代田さん。鬼灯さん。アーニー嬢ちゃんはどちらへ行かれやしたかね」 「あっちだよ」 清顕が真っ先に指差す。 仁兵衛は頷き、雑踏の中へと消えていった。 仄は旨そうに煙管から煙を吸い込み、ゆったりと吐き出した。 「おい千代田。いいのか?」 「いいんじゃないかな。去年は俺がシメられたし」 すまし顔で言う清顕と仄の顔を、狼煙の赤い炎が明るく照らし出した。 |