秤釣り合う日―芙蓉―
マスター名:村木 采
シナリオ形態: シリーズ
相棒
難易度: やや易
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/07/25 20:29



■オープニング本文


「先生。壁画が」
「壁画?」
「はい。相当古くて、何というか‥‥色々と、凄い絵です」
 先生と呼ばれた男が、青年に連れられて、東向きの穴を潜った。
 先に奥へ進んでいた青年達がランタンで照らす壁を見て、男は思わず唸り声を上げた。
「地獄‥‥の絵でしょうか」
 青年の一人が言う。
 その壁画は、異様としか言い様のないものだった。まず目に入るのは、火。そして血を流し、或いは逃げまどう人々。それを追い回す長身の有角人‥‥鬼。
「いや、地獄ではないな。だいぶ剥落していて見づらいが、火の中に建物が見えるだろう。それらは、当地が理穴と呼ばれていた時代の建築物の特徴を良く現している」
 男は壁画の左端、火に包まれる建物を指差した。
「人々の服も理穴時代のものだが、服や小物に泰、ジルベリア、アル=カマルのものが若干混じっているだろう。地獄の絵なら、そこまで写実的に描く必要はない」
「なるほど」
「つまり神話・宗教画ではない。またアル=カマルの装飾品が入ってきている以上、少なくとも天儀暦1011年以降の作と見ていい。地獄や神罰の恐ろしさではなく、歴史的事実‥‥実際にこの地を襲った惨事を後世に伝えるためのものではないかな」
 青年達は納得と感嘆の声をあげる。
「つまり、この‥‥鬼がこの地を襲って、『後世に伝えなくては』と当時の人々に思わせるだけの事態に至ったと」
「うむ‥‥そして、この壁画に武器を持った人間の姿はない。当時の開拓者は、この場に居合わせなかったのではないかな」
 青年達はうそ寒そうに肩をそびやかし、朱を基調としたその絵を見上げた。
「これほどの、歴史的事実、ですか‥‥」



「ふうむ」
 開拓者ギルド職員のスティーブ・クレーギーは、弁柄色の肌に浮かんだ汗を手拭いで吸い取った。
 太い指に摘まれた紙には、間違いだらけの大きな字で、こうあった。

「お店ののこりものをもらつてるともだちの、てんすけくんが、いなくなつてしまいました。しんぱいで、よるしかねられません。さがしてあげてくだちい。ギルドのお兄さんへ。田村八ろう」

 スティーブの主な仕事は、「事件性無し、開拓者必要無し」と判断されて受理されなかった依頼の中から、見逃された「事件性のありそうな」依頼を受付に差し戻す事である。
 が、彼は非常にしばしば、開拓者が不要としか思われない依頼を「臭うでござる」と差し戻すのだった。
 その度にスティーブは受付から苦情を受けるのだが、今回の「友達に謝りたい」という依頼はあまりに酷いと言うことで、スティーブが一人で調査に乗り出すこととなったのだ。
「ふむ」
 スティーブは白い歯を見せ、母の隣に行儀良く座った八郎の頭を撫でる。
「ではその友達‥‥纏助君が居なくなる前、誰かがいなくなったような事を言ってござったかな」
「‥‥あ」
 思い当たる節があるらしい。八郎は口を小さく開けた。
「あるの? 八郎?」
「うん、言ってた!」
 八郎は母の顔を見上げながら頷く。
「いなくなったのは、子供でござったか? 大人でござったか?」
「どっちも! てんすけと同じで家がない子と、おじさんがいなくなったって」
「いつ頃でござるか?」
「んー‥‥あったかくなってきたくらいだったと思う!」
 スティーブは頷き、手の中の紙に何やら書き付ける。
「あいつ、絵がうまくって、にがおえかいて、家がない子さがしてた」
「その絵、今あるでござるか?」
「あると思う! 取ってくるよ!」
 八郎は勢い込んで立ち上がり、廊下へと飛び出していった。
 残された母親に、スティーブが尋ねる。
「では、母上殿にお尋ねするでござるが‥‥最近、余所者が怪しげな動きをしていたことは? おじさんが居なくなったということは、複数と思われるでござるが‥‥」
「‥‥あ。います」
 母親はぽんと手を打つ。
「どんな人でござるか」
「夫婦だと思います。桜の頃から町で見掛けるようになって。いつだったか、真夜中に狐のお面を被った人と‥‥芙蓉の人間だと思うんですけど、それと話してるのを見た人がいて。それからみんな相手にしなくなったんです」
 スティーブは聞き慣れない単語に、思わずおうむ返しに聞いた。
「ふよう?」
「お花の、芙蓉です。アヤカシを奉じていると言われてる一族の名前で‥‥薄気味悪くて」
 スティーブは首を捻り、唸った。
「その芙蓉一族というのは、町で悪事を働くのでござるか?」
「‥‥いえ、まあ別に。ただ、昔から森の中でアヤカシを崇めて生きていると、祖父から伝え聞いています」
「崇めている、でござるか。具体的に何かをするわけではないのでござるな」
「‥‥まあ、そう言われればそうですけれど」
 母親は不満げな表情を浮かべた。。
「その芙蓉一族というのは、いつも面を被ってるのでござるか?」
「いつもというか‥‥昔、お面を被って変な儀式をしていたら、何もない所からアヤカシが出たのを、見た人がいるんだそうです。それで、アヤカシを奉じる一族と」
「‥‥そうでござるか」
 ただの差別なのではないか、そんな疑念を抱きながらも、スティーブは話題を戻した。
「ともあれそのお面の人物が、怪しい二人と話をしていた。町の人々はその三人が芙蓉の人間と思い、極力触れぬようにしている。そうでござるな?」
 母親が頷いた途端、軽い足音が近付いてきた。廊下から現れた少年が、スティーブに一枚の紙を手渡す。
「はい、おじさん! これ、てんすけがかいた絵だよ」
「かたじけのうござる」
 スティーブは受け取った紙を見て、目を丸くした。線が多く荒い筆遣いだが、しかし黒子や目の形など、細かい特徴に関しては良く描き込まれている。
 紙を丁寧に折り畳みながら、スティーブは母親に視線を移す。
「それで、その夫婦は一体何をしてたでござる?」
「顔を見るのは、いつも日が落ちた後なんですけれど。何か‥‥いつも、人をじっと見てるんです」
 スティーブは筆を走らせる手を止め、顔を上げた。
「それで?」
「それだけなんです」
 母親は不安げに言った。
「時々、人や子供をつけ回すこともあるみたいですけど‥‥」
「誰かに危害を加えたりはしない、と?」
 母親は頷く。
 スティーブは眉をひそめた。
「その怪しい二人でござるが、今もいるでござるか? どこへ行ったかわかるでござるか」
「今でもときどき見ます。二丈橋の辺りに桜並木があるんですが、大抵その辺りにいますね」



 手を振りながら夕陽の中を帰路についたスティーブは、しかつめらしい顔で呟いた。
「‥‥やはり、事件でござろうかな‥‥」
 生暖かい風に吹かれ、袴の裾から垂れ下がる赤いふんどしの端がたなびいていた。


■参加者一覧
柚月(ia0063
15歳・男・巫
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694
45歳・男・サ
皇 りょう(ia1673
24歳・女・志
不破 颯(ib0495
25歳・男・弓
ディディエ ベルトラン(ib3404
27歳・男・魔


■リプレイ本文


「芙蓉という一族についてお話を窺わせて頂きたいのですが〜」
「芙蓉ですか?」
 赤と黒のジルベリア服に白いローブを羽織ったディディエ・ベルトラン(ib3404)の不健康そうな風貌に、八郎の母はどこか薄気味悪そうに尋ね返す。
 気にせず、ディディエは薄い唇に笑みを浮かべた。
「はい〜。どこかにですねぇ、彼等の隠れ里のような場所があるとお聞きになった事はおありですか」
「まあ‥‥隠れてはいませんけど、ここから何里か東の森に」
「え? あ、普通に住んでいるんですか」
 ディディエは些か拍子抜けした顔を見せた。
「では、え〜‥‥儀式ですか? それを行っていると噂される森については‥‥?」
「芙蓉の里の外れの、崖だったって聞いてます」
「そうですか。‥‥それ以外で芙蓉の一族が住むような場所の噂は、ご存知ないですか」
 母親は首を横に振った。
 ディディエは細い腕を組み、唸る。
「仮に街の方々の予想通り、怪しい二人組‥‥と、狐面の人物が芙蓉一族の人間だったとして。芙蓉の里からこの街に入る場合、街のどの辺りから入ってきますかねぇ」
 母親は少し考え、明瞭に答えた。
「東の街道です。森から街道に出て、そこから街に入るのが一番早いです」



「あんな連中に関わるのは止めなされ」
 腰の曲がった老人が、弓掛鎧に白い陣羽織、銀のモノクルにキャスケットという一風変わった弓術士の青年、不破颯(ib0495)を気の毒そうに見上げる。
「関わらずに済むならそれが一番なんですがねぇ」
 颯は人差し指にかけたキャスケットをくるくると回しながら苦笑した。
「仮面は、いつも狐なのかなぁ」
「知らん。大の男ではなかったと聞いた事はあるが、儂が見たわけでは無いからの」
「昔、儀式を見た人はいるんですよねぇ? その時の仮面も、解らないかなぁ」
 老人は、ゆるゆると首を振った。
「怪しい面を被った人間、としか聞いておらん」
「そうか〜‥‥」
 颯は困惑顔になった。
「じゃあ、芙蓉の人間かも知れないっていう二人組について、何か知らないかなぁ? 姿形とかさ、どの辺りで何時頃によく見掛けるとか」
「ん? あの夫婦のことかの」
 老人が小さな目で瞬きをする。颯は頷いた。
 老人は腕を組んだ。
「男も女も、あんたより頭一つは背が低いな。二人とも五尺と少しというところじゃろ。男は笠を被っておって、女は髪を結わずに顔を隠しておるよ」
「どの辺にいるかなぁ?」
「それ、そこの」
 老人は杖で川の下流を指した。
「二丈橋から始まる桜並木、その辺りじゃな」



「兄ちゃん、気持ちは嬉しいけどよ、最初からそう気前よくしてるといざって時に困るぜ?」
 五人の男が車座になり、芝生の上で酒盛りを繰り広げていた。
「何。仲間に入れて貰う為なら酒の一本や二本」
 肩を越す長髪に竹林柄の手拭いを巻き、襤褸を纏った中年男、鬼島貫徹(ia0694)は拾ってきた湯呑みを指で拭った。
「それとも何か、『いざという時』があるのか、この界隈は」
「ん? おお」
 壮年の男が鬼島の湯呑みに酒を注ぎながら頷く。
「無かあねぇな。たまーにな、人が居なくなるからよ」
「宿無しがな。街じゃ誰も気にしてねえが」
 鬼島は顔を顰めた。
「さっき妙な二人組にじろじろと見られたが、ひょっとして関係があるのか」
「ああ、そりゃまずい。夫婦だろ? 俺達に酒振る舞って正解だったな、兄ちゃん」
「‥‥というと?」
 砂混じりの酒を呷る鬼島の目が、鋭さを帯びる。
「あの二人組が怪しいとニラんでんだ、俺らは」
「兄ちゃんみたいにガタイの良い奴はな、よくあの二人に目付けられるんだ」
「ふむ」
 鬼島は差し出された欠けた茶碗に酒を注ぎながら、宙を睨んで考え事を始めた。
「一人でいるとヤバいぜ。いや、一人歩きはいいんだが」
「誰ともつるまずに居るとな。何か、あの二人がじろじろ見やがんのよ」



 輝く銀髪と白い肌、端正な顔。見た事もない年上の美少女に声を掛けられた少年は直立不動、顔は耳まで真っ赤になっていた。
「その‥‥緊張しなくても‥‥」
「は、はいっ」
 少年は手指を揃えて腿に当て、答える。
 柊沢霞澄(ia0067)は困ったように微笑み、腰を屈めて少年の顔を覗き込んだ。
「この子を、ご存知ですか‥‥?」
 霞澄の見せた似顔絵を見て、少年は首を左右に振った。
「し、知りません」
「そうですか‥‥どなたもご存じないようですね‥‥」
 霞澄は人差し指の上に頬を乗せ、眉根を寄せた。
「では、纏助さんのことはご存知ですか‥‥?」
「す、スリです!」
「ご存知なんですか」
「はい! ご、ごぞんじです」
 霞澄はくすりと笑い、少年の頭に手を乗せた。
「どんな子か、教えてもらえますか‥‥? 外見や、癖などについて‥‥」
「せ、背は俺より少し高いです! 色が白くて、右目の下にホクロがあります! 足が凄く速くて、大人でも追いつけないです! スリも滅多に失敗しなくて‥‥力も強いけど、喧嘩になりそうだと、すぐ逃げてます!」
 霞澄は、微かに眉をひそめる。
「それは大分、並外れた身体能力ですね‥‥」



 傾きだした陽の光が容赦なく降り注ぐ川原に、笛の音が流れ出した。
 襤褸を身に纏い、ねこみみ頭巾を被った少年、柚月(ia0063)の指が跳ね踊るように笛の上を滑り、旋律を刻んでいる。
 まるで胸の奥が持ち上げられるかのような、明るい旋律。中天を過ぎ地平を目指し始めた太陽が、まるでこれからもう一度上り出しそうだ。
 その場に集まっていた子供達は、今や飴や干飯を置き、拍子を取って手を打ち合わせていた。
「ゆずくんすごーい!」
「ひょっとして柚、どっかのオンゾーシじゃね!?」
「そんなんじゃナイったら」
 照れ臭そうに鼻の頭を掻き、柚月は笑う。
「この町、来たばっかでさ。仲間に入れてくれるカナ」
 子供達が一斉に拍手を送った。柚月は嬉しそうに握り拳を作る。
「ホント? ヒトがいなくなるって怖いハナシ聞いて、不安でさ」
「友達がいる子は、大丈夫!」
「柚は、俺達が友達になるからさ!」
 口々に、子供は自らの顔を指差した。柚月の目が、幾度も瞬きをする。
「友達がいる子は? 大丈夫?」
「いなくなるのってさ、柚月とは違うタイプの奴なんだよ」
「一匹狼気取りのな。付き合い悪い奴」
「そっかー‥‥」
 柚月は軽く唇を噛んだ。その視線の先で、笠を被った男と前髪で視線を隠した女の二人組が、興味を失ったかのように踵を返している。
「‥‥ね、今さ。そういう‥‥一匹狼の子って、誰かいるカナ?」



「柚月もだけど、鬼島さんは何というか‥‥絵になるねぇ」
 人気のない橋の下で、颯が苦笑する。彼の正面には、襤褸を纏ったままの鬼島が胡座をかいていた。
「殺されたのか、攫われたのか、自分の意志でいなくなったのか、何かの目的で利用されてるのか‥‥わかんないケド、さ」
 やはり襤褸を着た柚月は、真剣な顔で一枚の地図を凝視している。
「ふよーの一族とかいかにも怪しい響きだよねっ」
 鬼島は無精髭まで生やした顎を撫でた。
「だが野宿者の中には各地を漂泊する者も多い。纏助にしても元は余所者。自らの意志で姿を消す可能性は、少ないにせよゼロではないぞ」
「そこなんですねぇ。はい」
 ディディエが深く頷いた。
「皆さんが聞き込んだ結果、叫び声とか、言い争う声とか、聞いたというお話が出てきていないのはどういうことなんでしょうねぇ?」
 一同の視線が、一斉にディディエに向いた。
「つまり‥‥、本当に自らの意志で出て行ったということですか‥‥?」
「或いは、騒ぐ暇も与えずに標的の意識を奪っているか、ですかねぇ」
 霞澄の言葉に、ディディエは肩を竦めてみせる。
「鬼島さんと柚月さんが集めた情報からすると、他人との関わりが薄い、孤立した人が狙われているように思いますねぇ。そういった人々を連れ出すのはそう難しくありません。住む場所と食事と〜、‥‥」
「仲間、でしょうか‥‥?」
 ディディエは霞澄に頷き、細く節くれ立った指で一房の髪をしごく。
「三つ揃った場所があるよと囁かれましたら、じゃあ行ってみようかという気になっても不思議はございませんですね、はい」
 更にディディエの口許が僅かに動き、どこか憂いを帯びた笑みを見せる。
「‥‥何か言ったかい?」
「いえいえ」
 顔を覗き込む颯に、ディディエは緩やかに首を振った。
 颯は首を傾げつつ、呟く。
「でもなぁ。それだと纏助君の失踪が説明がつかないよぉ」
「僕もそう思う。何か纏助君だけ、この事件から浮いてナイ?」
 柚月の言葉に、一同は考え込んでしまった。
 眉間に人差し指を当てていたディディエが、顔を上げる。
「‥‥そこから先は、犯人に聞きませんか。桜並木から上手・下手に分かれて犯行現場を押さえましょう」
「ま、そだね。次に狙われそうな子は目星がついてるんだ。桜並木の辺り、確かに人気が少なくて人を襲うのに良さそうだし」
 柚月が立ち上がった。次いで、残る五人が。
 最後まで座っていた霞澄は、小さな唇を動かしてぽつりと呟いた。
「何かよくない事が動き始めている気がします‥‥」
 その前に立った鬼島が肩越しに振り向く。
「うむ?」
「それが何かは判りませんが、未然に防ぐ為にも出来る限りの事を致しましょう‥‥」



 太陽が、山の稜線に触れた。街の人々は、多くが家の中に引っ込んでいる。
 刻限は酉四つに差し掛かろうとしていた。
 川面にさざ波が立ち、下流からの風が川原に寝そべった宿無しの男の髪を揺らす。
 青々と葉を茂らせた桜並木の下、瞳に警戒の色を残した少年が、脇に立つ女を見上げていた。
「なあに?」
「お腹、空いてる?」
 女は、少年の前に熊笹の包みを差し出した。
「何だか、寂しそうにしてるなって思って」
 少年は唇を引き結び、女の顔を見返した。
 女の背後に、笠を被った男が姿を現す。
「良かったら、食べて」
「‥‥」
 少年は暫し男女を見比べ、人の良さそうな笑みに警戒を解いたのか、熊笹の包みを手に取った。ちらちらと二人の方を窺いながら包みを解き、中の握り飯に噛みつく。
「おいしい?」
 少年は頷いた。
 女はそっと少年に手を差し伸べた。
「ね。もし寂しいなら、私たちと一緒に来ない? 貴方みたいな境遇の子も他に沢山いるわ。すぐ仲良くなれる」
「って、皆に言ってたんだね」
 男は跳び上がった。
「だ、誰だ」
 男の後ろに、柚月が立っていた。黄昏時の葉桜に浮かび上がるかの如く、白羽扇が胡蝶の軌道を描く。
「風鳴の姫囃子‥‥なんてねっ」
 男は咄嗟に周囲を見回し、自らに近寄ってくる気配を察すると地を蹴った。その足は川の下流へ向かっている。一瞬遅れて、女が続いた。
「逃がさないよっ」
 柚月の声に反応して女は横へ跳ぼうとし、自分の身体が水の中のように緩慢にしか動かないことに気付いた。
 小袖の上から腿にダーツが突き刺さり、紅い染みを作る。
「‥‥神楽舞か!」
 女は腰に手を伸ばした。
「あたたたっ!」
 夕闇を銀光が切り裂き、柚月が大げさに声を上げた。女の放った苦無を躱しきれなかったのだ。
 女は踵を返そうとし、大きくつんのめる。
 いつの間にか川原に生えていた下草が伸び上がり、女の両足に絡みついていた。
「面白い手を使いますねぇ」
 白い真鍮製の杖、ウンシュルトを握ったディディエが堤の下から現れ、ゆっくりと女に歩み寄っていく。
 草を引きちぎって足を踏み出す度、待ち構えていたかの如く新たな草が伸びては足を這い上がってくる。そうこうしている内に、女の眼前にディディエが立った。
 その目は、全く笑っていない。女は震え上がり、慌てて頭の後ろに両手を組んだ。
 その脇、堤の斜面を、銀色の光が流れ落ちた。
 夜空の魔法帽からこぼれ落ちた銀髪。霞澄だ。その手が榊の杖を振るい、銀髪の一本一本が意志を持った蛇の如くざわめく。
 先に逃げ出した男は走る勢いを緩めなかったが、それでも悲鳴を上げた。圧倒的なまでの精霊力が男の手足に絡みつき、締め上げたのだ。
 だが肝心の鬼島が下流側にいて男に追いついていない。男の走り寄る先、川面に張りだした茂みの中には、小舟が隠してあった。
「今です‥‥!」
 霞澄の声に弦音が重なり、夜闇を銀光が切り裂く。男は盛大に躓き、茂みに顔から突っ込んだ。
「次は当てるよぉ。一人捕まえた以上、遠慮は要らないんでねぇ」
 対岸の堤の上に、六尺の黒弓を構えた颯が仁王立ちをしていた。
 蚊や蟻に噛まれながらも茂みに身を潜めていたのだ。
「い、痛え‥‥な、何が次だ!」
 男はただならぬ悲鳴を上げる。
 暗闇越しに足下を狙った矢は、驚異的な確率を乗り越えて、男のふくらはぎを射抜いていた。
「あ、あれぇ? まいいかぁ‥‥」
「畜生‥‥!」
 男は片足で小舟に飛び乗り、水棹を押した。颯の目が針のように細められ、二の矢が弦に番えられる。
 舟は、ぴくりとも動かない。
「‥‥な、な、な」
 男は目を剥いた。下流から追いすがった鬼島が右腕一本で舟の縁を掴み、引き留めているのだ。
「逃すとでも思ったか、たわけが!」
 肩に掛かる長髪の隙間から、額に浮かび上がった血管が見える。鬼島の筋肉は幾何学的なまでの形に膨れあがり、舟の縁は軋みさえ上げていた。
 咄嗟に水棹を川面から上げた男は、何者かに顔面を張り飛ばされて船底に接吻をする。
 鬼島の左手が、手繰り寄せた舫綱で男の顔を打ったのだ。倒れ込んだ男の腿を、今度こそ颯の矢が、寸分違わず射抜いた。



「無事、二人とも捕らえられたようですね‥‥」
 微笑みながら、霞澄がゆっくりと堤を上がってくる。
「ひとまず依頼完了、かなっ! ごめんね、怖か‥‥った‥‥?」
 少年の姿が、無い。
「ね、良かったの? こいつらに協力して」
 少女の声。弾かれるようにして、霞澄と柚月が横を向いた。
 ディディエは女の身体に縄を掛け、颯は橋を渡って此岸へ向かっている。
「誰っ!?」
「一足遅かった以上仕方ないさ。顔は覚えたしね。行くよ、うさぎ」
 姿は見えないが、囮を頼んだ少年の声だった。
 柚月が霞澄と背中合わせに立つ。
「どうしました!?」
 ディディエが、女の捕縛もそこそこに堤を駆け上がってくる。
「えー。そこの奴、綺麗キレイしてて壊し甲斐ありそうなのに。悲恋姫で皆殺しだよ」
「駄目だよ。さ、行こう」
 白い影が、宙を滑る。
 いち早く気付いた霞澄の榊が宵闇を切り裂き、有無を言わせぬ膨大な量の精霊力が白い影を覆い、包み、締め上げた。
「柚月さん、これは‥‥!」
 白い影は、耳まで口の裂けた狐の面だった。
 ただ、それだけだ。
 色を失った霞澄の隣で、柚月の身体が、薄い光を帯びる。
「霞澄、反応ないケド、気を付けてっ!」
 乾いた音と共に狐面が虚しく地面を叩く。
「かすみ、ね。覚えちゃった、覚えちゃった」
 男とも女ともつかない声は、囁き声のようになっていた。放られた狐面に気を取られた間に、距離を取られたようだ。
 少年の声が呟いた。
「ゆづき? さん? 忠告しておくけど、手を引いた方がいいよ」