刀匠と蜘蛛
マスター名:村木 采
シナリオ形態: ショート
危険
難易度: やや難
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/04/13 23:16



■オープニング本文


「父ちゃん! ハバキがクモ獲ってきた!」
「蜘蛛を?」
 武天は刀匠の里、理甲。
 里長の野込重邦は、早朝から続く鍛冶仕事で火照った身体を外気で冷ましながら、麦の握り飯にかぶりついていた。
 その前に駆けてきた少女は、両手で抱えた白い毛玉、もとい猫を差し出した。
 白猫の太い尾は、根元で二股に分かれていた。ただの仔猫に見えるが、立派な猫又なのだ。
「‥‥確かに、蜘蛛だな」
 重邦は呆れ顔で麦の握り飯を口の中に詰め込み、立ち上がった。
 ハバキの口には、子供の掌ほどはあろうかという蜘蛛が咥えられていた。まだ動いている足を含めると、大人の掌ほどの大きさになるだろうか。
「毒など、なければいいが。ハバキ、離しなさい」
 ハバキは首を振った。
 困惑顔で、雲雀が言う。
「なんかね、取り上げようとすると、おこるの」
「怒る? ハバキがか?」
 重邦は目を丸くした。基本的にのんびり屋で気を荒げるということを知らず、いつも雲雀に付き添って甘えてばかりのハバキには滅多にないことだ。
「いえあいお」
 ハバキは蜘蛛を咥えたままで唸った。
「い、いえあいお?」
「いえあいお」
 ハバキはこっくりと頷いた。
「私にもね、いえあいおって言うの」
「いえあいお‥‥?」
「あら重邦さま。どうなさいました?」
 屋敷の隣に住む中年の女性、好枝が洗濯籠を抱えて前を通りかかった。
「ハバキが蜘蛛を捕ってきたのだが、様子がおかしくて」
 困惑顔で重邦が言った途端、ハバキは口にした蜘蛛を地面に取り落とし、猛烈な勢いで爪を立てて蜘蛛を叩き始めた。
「は、ハバキ、どしたの!?」
「噛んだ! こいつ、噛んだ!」
 思い切り伸ばした太く短い前足で、ハバキは必死に蜘蛛を叩く。蜘蛛はすぐに叩き潰され、どういうわけか、地面の中に溶けていくかのように消えてしまった。
「かまれたの? 大丈夫、ハバキ!?」
 しばらくの間、ハバキは荒い息をつきながら蜘蛛の消えた地面を睨んでいたが、やがて前足を折り、後ろ足の力を失って、その場に倒れてしまった。



 雲雀のしゃくり上げる声が響く中、行灯の光が揺らめいた。
「父ちゃん、ハバキ大丈夫だよね? 大丈夫だよね?」
「わからん。取り敢えず風信術で開拓者の方を呼んだから、明日の早朝には来て下さると思うが‥‥それまでもってくれるだろうか」
「私が、私が早くクモを取り上げなかったからいけないんだ」
 雲雀は大粒の涙を流しながら、正方形の小さな布団の中で荒い息をついているハバキの顔を撫でる。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね、ハバキ、ごめんね、何でもしてあげるから、元気になって」
「雲雀、後は私が見ておく。お前はもう寝なさい」
「やだ! ハバキの傍にいる!」
 涙を拭こうともせず、雲雀は怒鳴った。重邦は唸り、隣の好枝にそっと肩を叩かれて項垂れる。
「解った。なら、私と一緒にいよう」
 雲雀は答えようともせず、ハバキの口に匙で水を垂らしてやる。荒い息をつきながら、ハバキの舌が弱々しく水を舐め取った。
 と、その時、表の雨戸が乾いた音を立てた。雲雀ははっと顔を上げ、雨戸に駆け寄る。
「開拓者の人!?」
「‥‥雲雀様、早すぎますよ」
 一番弟子の蔦丸が、訝しげな顔をしながらも雨戸を開ける手伝いをした。
 雨戸の立て付けが悪い事が、蔦丸にとっては幸いだった。三寸ほど開いた雨戸の隙間から、鋭い牙が突き出したのだ。牙の先端は蔦丸の作務衣の半寸先で止まり、雨戸に何か固い物のぶつかる音が響く。
「雲雀!」
 咄嗟に重邦が駆け寄り、雲雀の身体を後ろへ庇った。蔦丸は咄嗟に腰の短刀を抜き、牙を斬り飛ばす。
「重邦様、奥へ! 蜘蛛です!」
「蔦丸、無理をするな!」
「ご案じめさるな!」
 蔦丸は叫び、渾身の力を込めて雨戸の隙間に短刀を突き込んだ。重邦が丹精を凝らして鍛えた短刀は、八つの目を持つ蜘蛛型のアヤカシの顔面を易々と切り裂く。
 紙を裂くような音が雨戸の外で響き、遠ざかっていった。
「‥‥逃げたか?」
「解りません。‥‥重邦様」
 蔦丸は短刀を翳したまま、背後の重邦に声を掛ける。
「ハバキ殿が捕らえ、叩き潰した蜘蛛。そしてこの巨大な蜘蛛‥‥無関係とは思えませぬ。ひょっとして、ハバキ殿がおっしゃっていたという『いえあいお』というのは‥‥逃げないと、では」
「ハバキ、さいしょから言ってくれてたんだ!」
 雲雀は叫び、布団ごとハバキの身体を抱き上げた。
「‥‥しかし、今は夜。どこに逃げる」
「里の外に逃げる事は、却って危険です。森や林の中を逃げようとすれば、却って餌食になるでしょう」
 重邦は一瞬迷ったが、直ぐに顔を上げた。
「蔦丸、一刻も早く里の皆を集めろ。私の工房が、恐らくこの里で最も作りが頑丈だ。開拓者の方々がいらっしゃるのを、工房に籠城して待つ」
「直ちに!」
「死ぬな」
 重邦の言葉に返事すらせず、雨戸を閉じた蔦丸は部屋を飛び出していった。
 それを見送った重邦は、腰を抜かしたか、へたり込んだ好枝に声を掛けた。
「好枝、雲雀と共に工房へ。私は風信術で都にこの事を伝え、派遣する開拓者の方の内訳を変えて頂く」
「父ちゃん! そんなことしたらあぶないでしょ!」
「雲雀、早く工房へ行きなさい」
 布団ごとハバキを抱えた雲雀の必死の形相に、重邦は淡々と伝えた。刀台に掛けた渾身の一振りを手に取り、廊下へと向かう。
「父ちゃん!」
「早くしろ! 馬鹿者!」
 生まれて初めて聞く父の怒声に、雲雀は跳び上がった。
 大きく見開かれた雲雀の目から、滝のように涙が流れ出す。
「蔦丸は私などより遥かに危険なのだ。時間が経つほどに危険は増すだろう。好枝、今直ぐに工房へ」


■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694
45歳・男・サ
深山 千草(ia0889
28歳・女・志
リン・ヴィタメール(ib0231
21歳・女・吟
羽流矢(ib0428
19歳・男・シ
央 由樹(ib2477
25歳・男・シ


■リプレイ本文


 激しい馬蹄の音が六つ、闇のわだかまる森の道を駆け抜けて行く。
「絶対間に合わせる、絶対に助ける。間に合ってくれ‥‥!」
 忍刀を背負い、忍装束に虹色の外套を羽織った少年、羽流矢(ib0428)が呟いた。
「‥‥必ず、助ける。誰も死なさへん」
 羽流矢の隣にぴたりとついて走る月毛の馬上で、鬼の顔が描かれた外套を小具足の上から羽織った青年が呟く。
 央由樹(ib2477)だ。月明かりの下で、由樹の白い歯が覗く。
「な、そやろ?」
 併走する馬上で、羽流矢と由樹の拳が軽く触れあう。
「もう少しだけ頑張って、かんにんね」
 風に深紫色の髪をなぶられながら、片手で魔法帽を押さえたリン・ヴィタメール(ib0231)が、手綱を持った手で馬の首を軽く叩く。
「見えました‥‥!」
 里の入り口を抜けた瞬間、夜闇に浮かび上がるかのような淡い銀髪の少女、柊沢霞澄(ia0067)が叫んだ。
 一行の前に、工房が見えてくる。
 地に生える雑草が波紋の如く同心円状に波打ち、人語ですらない咆哮が家々を震わせた。
 工房の壁に貼り付いていた大蜘蛛のうち、三体が動きを止めて振り返った。
 地鳴りの如き咆哮は、体高六尺を越える馬から発せられていた。胴巻に緋色の陣羽織、茶筅髷、全長八尺の巨大戦斧。鬼島貫徹(ia0694)だ。
 工房の壁を蹴り五丈の距離を一足に跳んだ大蜘蛛二匹が、一行の前に立ちふさがった。
 疾駆する馬の鞍に立った人物が、不退転の決意を秘めた兜「香車」の前立てを翳し、乗騎の進路を横に逸らしながら極端な前傾姿勢で飛び降りる。
 夜目にも鮮やかな紅の天儀鎧と陣羽織。深山千草(ia0889)の振るう殲刀「朱天」が、急激に減速しながら近付く仲間に触れぬ様、地を擦り、天を衝く。
 縦に描かれた弧をなぞるかのように銀光が奔り、仲間たちの合間を縫って、殺気を具現化した光跡が夜闇を斬り裂いた。
 閃く銀光を避け損ねた大蜘蛛は顔面を割られ、猩々緋の色をした血を滝のように流し始める。
 それを合図として、工房の前に柔らかくも芯のある音色が流れ始めた。
「かんにんやで、精霊はん‥‥」
 馬から舞い降りたリンが、髪を揺らしながらハープをかき鳴らしていた。切なく、哀しみと狂気を帯びた熱情的な旋律に、辺りの精霊達が一斉に励起させられた。
 散り狂う桜を思わせる狂乱の楽曲に、叩き起こされ引きずり出された精霊達は大混乱に陥った。手近にいた蜘蛛達に取り付き、めいめいに絶叫を放ち始める。
 縋り付く精霊を振り払おうと手足を蠢かせながら、女郎蜘蛛が顔を歪めた。
 大蜘蛛達はそれだけでは済まない。離れていても脳髄を掻き回される精霊の絶叫に瘴気を削られ、苦しみ出す。
 その隙をつき、二人のシノビが左右二手に分かれて地を蹴った。
「時間稼ぎは任せてくれよなっ」
「鬼島、深山! 大蜘蛛どもよろしゅう!」
 頭から血を流す蜘蛛が、突如として後肢を立てて尻を上げた。咄嗟に横へ飛んだ鬼島の陣羽織に、濡れた音を立てて白い粘体が貼り付く。
 陣羽織を引っ張る力にも微動だにせず、鬼島の戦斧が重い音と共に地面に突き刺さり、糸を両断した。
「抜かるなよ深山、下手に斬ろうとすると武器に貼り付くようだ」
 頷いた千草は手首を翻し、地面すれすれに桔梗を放った。顔を割られていながらも、蜘蛛は見え見えの一撃を宙に浮いて躱す。
 瞬間、その身体が圧倒的な力で地面に叩きつけられ、圧し斬られ、まるで水袋が張り裂けたかの如く辺りに血と体液を撒き散らした。
 鬼島の、渾身の一撃だった。
「まず一匹!」
 千草は工房の中に向けて叫び、残る大蜘蛛に視線を移した。三匹のうち、一匹は混乱しきり、その場でうろうろと足踏みをしている。一匹は鬼島に向かって飛びかかっていった。
 その時、工房の中から、安堵とも歓声ともつかぬ声が漏れ聞こえてきた。
「リンちゃん! 霞澄ちゃん!」
 千草が咄嗟に叫んだ。残る一匹が、榊の杖と松明を掲げている霞澄に向かって跳躍したのだ。
 が、その大蜘蛛は、空中で突如として真紅の炎を撒き散らして爆発した。
「おいたはあきまへんえ」
 リンの放り投げた焙烙玉だった。
 直撃にはほど遠かったが、八つの瞳を炎と光で灼かれた蜘蛛は仰向けにひっくり返り、足をばたつかせる。リンは霞澄の肩を抱いて後方へと下がり、ハープを構えた。
 工房の前の空気が、低く小刻みな震動を始める。
 先刻の狂乱の音色とは全く違う、臓腑までをも震わせるような暗く重い音がリンのハープから発せられていた。何とか仰向けの体勢から立ち直った蜘蛛が、足を大きく広げ、その身体を地面ぎりぎりの位置で辛うじて支えている。
 蜘蛛の周囲の雑草は、ぴたりと地面に押しつけられていた。重力の爆音だ。
「あら、意外にきばってはる」
 リンの口が不満げにへの字を作る。
 だがその大蜘蛛の腹が突如破裂し、体液を飛び散らせた。
「二匹!」
 鬼島の大斧が引き抜かれると同時に千草は叫び、次の獲物を求めて走り出した。



 金属の擦れ合う音と共に、棘の生えた女郎蜘蛛の硬質の足に鎖が巻き付いた。
 工房の扉を突破し、中の人々から負の感情を啜って力を増そうと考えていた女郎蜘蛛が、眦を裂いて振り向く。
「おばさん其処から離れろってんだよ」
 普段は明るく光っている羽流矢の茶色い瞳が、怒りに燃えていた。一矢纏わぬ女性の裸身が蜘蛛の下半身ごと振り向き、大きく口を開く。
 羽流矢は鎖分銅を引こうとしたが、重量差を察して手を離し、その場を飛び退いた。刹那の差で白い粘体が羽流矢の立っていた地面にぶつかり、小石を貼り付けて戻っていく。
 その動きに合わせ、引いた波が押し寄せるかの如く羽流矢が地を蹴った。
「由樹さん!」
「おう!」
 上から降ってきた声に、女郎蜘蛛は目を剥いた。由樹が、いつの間にか工房の屋根に上がっていたのだ。
 それだけではない。由樹の身体から伸びる影が鎖の形を取り、羽流矢の投じた鎖の影に重なって、女郎蜘蛛の身体に食らいついていた。
「その中の人らを、お前にやる事はできへんな」
 口に苦無を咥え、両手で印を結び仁王立ちになった由樹はくぐもった声で言う。
「こざかしい!」
 女郎蜘蛛は叫び、影縛りに動きを制限されながらも羽流矢の忍刀を硬質の左足二本で受け流し、その喉を掻き切ろうと右足二本を振るった。
「お」
 跳び退った羽流矢の身体が発光していた。外套と忍装束に裂け目ができ、覗いた肌から血が流れ出す。
「さっすが霞澄さん」
 里に入る半刻前に霞澄が掛けた、加護結界だった。無ければ、肋骨くらいは削られていただろう。
 羽流矢の忍刀が女郎蜘蛛の足の付け根を狙い、他の足に受け止められる。
 鍔迫り合いになれば、足が余分にある女郎蜘蛛が圧倒的に優位だ。羽流矢の頸部目掛けて、女郎蜘蛛の足が近寄っていった。
 瞬間、女郎蜘蛛の左肩を銀光が突き立った。
「何も、縛っとる間術者が動けへんわけやないで」
 下に翳した由樹の掌から、練力の残滓が拡散していく。
 だが、打貫による一撃ですら、女郎蜘蛛の動きは止めきれなかった。蜘蛛の足についた突起が、梃子の原理で羽流矢の忍刀を奪い取ろうとする。
「あかん、羽流矢!」
 更に由樹の投じた苦無は間に合わなかった。反射的に刀を引こうとした羽流矢が、身体ごと女郎蜘蛛に引き寄せられてしまう。
 羽流矢の口から、苦悶の声が上がった。
「さあ、良い子だから、言う事をお聞き」
 女郎蜘蛛の口から伸びる牙が、羽流矢の肩に深々と食い込んでいた。
 ゆっくりと肩を離れた女郎蜘蛛の顔が、羽流矢とじっと見つめ合う。
 瞬間、
「やだね」
 羽流矢の左手が渾身の力を込めて苦無「獄導」を女郎蜘蛛の顔に突き刺した。
 血飛沫と共に甲高い悲鳴が上がり、羽流矢の身体を二本の腕が離した。地に落ちた羽流矢の身体を、四本の足が突き刺し、切り刻み始める。
「ちっ、世話焼かせよって!」
 由樹が屋根を蹴り、女郎蜘蛛の上半身に背後から組み付いた。
「羽流矢、早よ逃げえ!」
「悪い‥‥!」
 全身から血を流しながら羽流矢は地面を転がり、女郎蜘蛛から距離を取る。由樹は逆手に握った苦無を女郎蜘蛛の肩に突き刺し、渾身の力を込めて抉った。
 足の一対が由樹の身体を掴み、地面へと叩きつけた。由樹の身体もまた、霞澄の加護結界の光に包まれる。
「精霊さん、皆さんの傷を癒して‥‥!」
 細い、しかし張り詰めた声が後方から響き、後退した羽流矢の身体を柔らかい光が包み込んだ。
「ありがとなっ」
 ただ一度の閃癒で最も深い傷を癒された羽流矢は、即座に忍刀を構え女郎蜘蛛へ突進する。
「央さん、怪我を癒します‥‥! 一度下がって‥‥!」
「羽流矢、頼むで!」
 蜘蛛の糸を受けた腕甲を捨てながら、由樹が叫ぶ。既に足四本に切り刻まれ、血だらけだ。後退した由樹の背に、霞澄の閃癒の光が降りかかる。
 その時、後方から低い声が掛けられた。
「待たせたな」
「羽流矢くん、由樹くん、どうもありがとう。あとは任せてね」
 「朱天」と左腕のガードを糸に取られて珠刀「阿見」を抜いた千草と、血塗れの戦斧を担いだ鬼島だった。その声を聞いた途端、羽流矢と由樹が女郎蜘蛛から離れる。
 鬼島の目が、針のように細められた。工房の扉は既に破られ、内側に積み上げられた工具の山が覗いている。
「ひ‥‥」
 鬼島の発する闘気が、殺気に変わっていた。
 全身に傷を負いながらもまだ意気軒昂と言える女郎蜘蛛だったが、鬼島と千草の二人、正確にはその発する気配を見て恐怖に顔を歪めた。
 口の中で貯めた糸を手で引きずり出し、投げ縄の如く体の横で回転させ始める。
「‥‥粘着するのは先端だけか」
 呟いた鬼島が、大股に間を詰める。
 回転する糸が女郎蜘蛛の手から放たれた。鬼島の斧が易々と糸の半ばを断ち切り、球状の先端は明後日の方向へと飛んでいく。
 だが、鬼島の腕は女郎蜘蛛の糸に捕らえられていた。尻からも糸を出していたのだ。女郎蜘蛛は後肢一対で糸を掴み、引き寄せようとする。
 だが鬼島の体は、巌の如く動かない。慌てて更にもう一対の足で糸を掴んだ女郎蜘蛛は、その丸い腹にいつの間にか灼熱感が生じている事に気付いた。
 振り向いた女郎蜘蛛の顔が、訝しげな表情を浮かべる。振り抜かれた重ねの薄い刀身が、霞澄の掲げる松明の火を受けて紅く輝いていた。
 いつの間に近寄っていたのか、千草が音すら立てずに刀を振るっていたのだ。
 直後、女郎蜘蛛の腹から噴水の様に体液が噴き出す。
「何をした‥‥!?」
 更に振るわれる神速の一刀を、女郎蜘蛛は後方へ跳躍して逃れようとした。が、着地と同時に胸から噴水の如く体液が噴き上がる。
「この糸が無ければ、避けられたものを」
 女郎蜘蛛の顔は、恐怖に凍り付いていた。恐る恐る振り向いた女郎蜘蛛の目に、糸を巻き付けた鬼島の腕が、そして高々と掲げられた戦斧が映る。
 跳躍に併せて、鬼島の腕が糸をたぐり寄せたのだ。
 天を衝く異形の大斧が、熱狂的な破壊力を秘めた練力をまとう。危機を察知した女郎蜘蛛の両腕、そして六本のうち四本の足が、真上へと差し上げられた。
「貴様の身体なぞ、微塵にもこの世に残らぬものと知れ!」
 緋色の練力が鬼島の両肩裏から噴き上がり、一つの火柱となった。
 地響きに驚いた鳥や蝙蝠達が一斉に逃げ出していく。
 暫くの間を置いてから、白々しいほどの静寂が訪れた。
 鈍い音と共に、大斧が宙に浮き、鬼島の肩へと戻る。
 女郎蜘蛛は、六本の手足ごと脳天から胸までを練力に叩き潰されて肉塊と化し、腹の下半分と足の残骸だけが辛うじて原型を留めていた。



 歓声に沸き立つ工房の中、海を渡る聖者の如く、鬼島が人々を掻き分けながら奥へと向かう。その後ろには、リンと霞澄がついている。
「雲雀はん、ほんにようきばりはったね」
「リン姉ちゃん! 貫徹おじさん! ‥‥そっちのお姉さんは?」
「巫女の、柊沢霞澄と申します‥‥。今は、まずハバキさんの手当を‥‥」
 霞澄とリンは、揃ってハバキの容態を診始める。
「‥‥鬼島さん、本当に、本当に有り難うございました。どうなることかと‥‥」
「うむ」
 駆け寄ってくる重邦に一つ頷いて見せ、鬼島の太い無骨な指がハバキを撫でる。
「ハバキも無事な様だ。柊沢、リン、後は頼む。気になることがある」
 言い残し、早々に鬼島は工房を後にしてしまう。
「ハバキもお手柄どしたな。危険を知らそうとしはったんやね」
 リンはハバキの腫れ上がった顔に眉をひそめ、手早く傷口を洗い消毒を始めていた。
「霞澄はん、どうどす?」
「‥‥大丈夫‥‥。ただの麻痺毒です‥‥」
 霞澄の唇が薄く微笑み、手にした榊の杖を静かに小さく振るう。
「精霊さん、この子の体から邪なる毒を消して‥‥」
 ハバキの身体が、白い粒状の光に包まれていく。
 その間にも、抱き合い、手を取り合って喜ぶ村人達一人一人を、由樹が見て回っていた。
「怪我人はおらへんか? 少しでも体調がおかしかったら、言うてな」
「お兄さん、あんたの方がよっぽど重傷だよ」
「そっちの兄さんも、大丈夫かい」
 血塗れの羽流矢は、ぐったりと座り込んでいる蔦丸の前で軽く手をあげて村人の声に応えた。
「蔦丸、生きてる?」
「怪我はありません。練力を、殆ど使い切ってしまって‥‥すっかりなまっていましたね」
 蔦丸は苦笑いを返す。
「羽流矢。深山。央。少し手伝え」
 工房の扉が開き、鬼島が三人を呼んだ。
「どないした?」
「子蜘蛛だ」
 鬼島はハバキに噛みついたのと同じ小型の蜘蛛を、掌で握り潰した。
「まだ居るやも知れん、逃げられる前に踏みつぶしておく。大蜘蛛はいないようだが、森に逃がしたくはない」
「大変。直ぐに行きます」
 千草が、いの一番に立ち上がって扉へ向かう。シノビ二人組もそれに続いた。
「雲雀ちゃん、終わったら熱い茶漬けが食いたいな」
「ほな、霞澄、リン、後頼むわ」
「はい。そっちは頼みましたえ」
 リンがにっこりと笑う。
 三名を伴って踵を返そうとした鬼島が、ふとその動きを止めた。
 鬼島の陣羽織の裾を、雲雀の小さな手がしっかりと掴んでいた。
「貫徹おじ‥‥兄ちゃん、‥‥あの‥‥あの‥‥」
 強張った顔で、雲雀が懸命に言葉を発しようとする。
 鬼島は軽く腰を屈め、その大きな手を雲雀の頭に乗せた。
「――――よくぞ皆を守った」
 鬼島と雲雀は暫し見つめ合っていたが、徐々に雲雀の大きな目が潤み、あっと言う間に目尻から涙が溢れ出した。
「怖かったよう、ハバキも死んじゃうかと思ったし、怖かったよう‥‥」
 泣きじゃくる雲雀の身体を、そっと包み込む腕があった。
「大丈夫よ、大丈夫」
「千草姉ちゃん‥‥怖かったよう‥‥」
 雲雀は千草の頬に顔を擦りつけ、更に泣きじゃくる。
「‥‥ほな、俺ら三人で行こか」
「だな。美味しい所は千草さんにお任せってことで」
 羽流矢と由樹は笑い合い、鬼島と共に工房を出て行った。
 千草の腕の中で号泣する雲雀の声が、微かに白み始めた夜空へと消えていった。