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■オープニング本文 ● 露骨に飛んでくる舌打ちの音に眉一つ動かさず、髪を金色に染めた中肉中背の男が女郎屋の中を歩いている。 「来るなら先に連絡の一つも寄越しなよ」 「女郎屋なんぞに何を遠慮する事があんだよ」 金髪は端的に答え、障子を開けて現れた着流しの女性をなめ回すように見た。さらしも巻かず、襟から豊かな胸がこぼれ落ちそうだ。 「何の用だい」 「仕事だ」 着流しの女はわざとらしく嘆息すると、部屋を出た。 「真朱さん、お出かけですか」 「あたしの部屋にいるよ。何かあったら呼びに来な」 部屋の中から掛けられた声に応え、女性、真朱は後ろ手に障子を閉めた。 「あたしの部屋で話そうか。影政」 ● ここは武天、侠客がそこを二分して治める、三倉。 うち一つ、瀧華一家の縄張りにある女郎屋。 「真朱。一つ聞きたいんだがよ」 「何だい」 「去年の末頃、高村屋を殺したな」 「そんなこともあったね」 行灯の明かりの中、裾から大胆に覗く滑白い太腿を隠そうともせず、真朱は答えた。その手には、銀砂子が鏤められた羽毛扇が握られている。要には深紅の宝石が埋め込まれていた。夜幻扇だ。 瀧華一家の参謀、影政が言っているのは、敵対する永徳一家を通して真朱が開拓者の力を借り、彼女の従姉妹を嬲り殺していた陰陽師、高村を殺した事件のことだった。 高村を手に掛けたのは彼女自身だったが、そのことを知っている者は瀧華一家にはいない。開拓者の力を彼女が借りたということも。 「お前、一体奴をどうやって殺した」 「あたしが邪魔者を消す時の手は知ってんだろ。毒だよ、毒」 真朱は素っ気なく答える。 二人の視線がかち合った。 「高村は、仮にも元開拓者の陰陽師だったんだぜ。そう易々と毒を飲んで死ぬか」 「現にそうして死んだんだから、信じてもらうよりないねえ。第一あたしはこないだ漸く毒蟲が使えるようになったばかりだ、あんたも知ってるだろ」 真朱は嘘をついていた。 彼女は、巷に広まっている陰陽術の殆どを使える。その事実を親分の琢郎や影政に知られた場合、瀧華一家の重要な戦力として使われることになるだろう。 「女郎屋の総元締め」として、女郎達を救い出せはしないにせよ、その心身に最後の一線を越えさせまいとする彼女は、それを何とかして避けたいのだった。 彼女を除いた瀧華一家の幹部に、女郎達の身を案じる者などいない。元締めを他の人間が担当する事になれば、どれだけの悲劇が生まれるかわかったものではなかった。 「なあ真朱、子供にも分かるような嘘は無しにしようぜ。一体どうやって殺した」 小机に頬杖を突いていた真朱は、艶紅の塗られた厚めの唇を持ち上げた。 「なら、あんたには白状しておこうか。人を雇ったのさ」 「雇っただと」 「ああ。開拓者って連中だ、散々煮え湯を呑まされてるあんたなら分かるだろ」 影政は苦虫を噛み潰したような顔をした。 「あの、神楽の都で飼われているって連中か」 「言葉は悪いがそんなもんさ。腕利きが揃ってる」 二人の視線が、無音のままでぶつかり合う。 「志体持ちなら、うちでも十分に雇ってる。どこの馬の骨とも知れない連中の力を借りて、恥ずかしくねえのかよ」 「別に。女郎屋に毛ほども興味のないあんたらが口を出す事じゃないだろ」 真朱の視線が、刃物の輝きを帯びた。思わず影政が口を噤む。 「‥‥なら、お前に頼んでるような仕事もその開拓者に頼んでみるか。そうすりゃ、お前のご機嫌を伺って女郎を甘やかす必要もないよな」 一瞬でも怯んだことが悔しかったのか、影政は獲物をいたぶる動物のような目で真朱を見る。 だが、 「ああ、そりゃ無理だ」 真朱は鼻で笑った。 「開拓者ギルドは、あたしが引き受けてるような非合法な活動にゃ手を貸さない。逆にあんたをとっ捕まえに来るよ」 影政は、再び口を噤んだ。 鉛のような沈黙が、二人の間を支配する。 虎鶫の鳴き声が、障子の向こうから聞こえてきた。 「それで、仕事ってのは何だい」 影政は唇を歪めた。 「その開拓者とやらの腕を見せてもらう仕事になりそうだな」 真朱は眉をひそめた。 「影政、あんた何を企んでる」 真朱の言葉に、影政は金色の前髪を掻き上げた。 「硝石の鉱道まで行く途中の道に、アヤカシが出た。その開拓者とやらを雇って、二日後に鉱山へ来い」 ● 「お帰りなさい、真朱さま」 襖を引き開けた真朱は、目を丸くした。 そこには、浅黒い肌の少女が一人、ちょこんと正座をしていた。 「珊瑚。来てたのかい」 「はい」 珊瑚と呼ばれたおかっぱ頭の少女は、畳に手を付いて頭を下げた。 「お仕事ですか」 「ああ」 真朱は襖を閉じ、珊瑚の隣を通り過ぎて文机の前に腰を下ろした。 「丁度いい。あんたに、一つ頼みがある」 「何でも言いつけて下さい。真朱さまのためなら、珊瑚は何でもしてさしあげたいです」 珊瑚は嬉しそうに顔を上げる。 「手紙を、届けておくれ」 「はい。どこまでですか」 真朱は答えず、人差し指で珊瑚を招いた。弾かれるように真朱の隣へいざりよった珊瑚の小さな耳に、真朱の艶やかな唇が近寄る。 「わかったかい」 「はい」 珊瑚は勢いよく頷いた。 一瞬の間を置き、真朱は意外そうに珊瑚の浅黒い顔を見た。 「驚かないんだね」 「真朱さまのなさることなら、必ずご理由がおありなんだと思います」 珊瑚はけろりとして答えた。真朱はくすぐったそうに笑うと、珊瑚のおかっぱ頭を撫でる。 暫く心地よさそうに撫でられていた珊瑚だったが、やがて小さく唇を尖らせた。 「でも、真朱さま」 「うん」 「珊瑚は口惜しいです。真朱さまは、影政なんかよりずっと」 白く細い真朱の指が、静かに珊瑚の唇に触れた。ただそれだけで、珊瑚はぴたりと黙り込む。 真朱はゆっくりと首を振った。 「いいんだよ。あたしの腕が知られたら、それこそ暗殺専門にされちまう。女郎屋の元締めをやらせてもらえてんのは、あたしが三流陰陽師の振りをしてるからさ」 珊瑚はまだ何か言いたげにしていたが、やがて目を伏せ、畳に静かに両手をついた。 「はい。珊瑚は、聞き分けます」 「お前の気持ちはようく分かってるよ」 その両手を取り、真朱はそっと珊瑚を抱き寄せた。細く小柄な珊瑚の身体を、真朱の柔らかな身体が優しく包み込む。 「ありがとうよ、珊瑚」 「真朱さま」 珊瑚は幸せそうに真朱の肩に顔を埋め、目を閉じた。 「真朱さまは、優しい。優しくて、柔らかくて、暖かい」 |
■参加者一覧
宿奈 芳純(ia9695)
25歳・男・陰
ミシェル・ユーハイム(ib0318)
16歳・男・巫
明王院 浄炎(ib0347)
45歳・男・泰
无(ib1198)
18歳・男・陰
鹿角 結(ib3119)
24歳・女・弓
アーニー・フェイト(ib5822)
15歳・女・シ |
■リプレイ本文 ● 春分を過ぎ清明を間近に控えても、風には冷たさが残っている。 だが襟ぐりを大きく開いた着流しのみという恰好の真朱は、寒そうな素振りすら見せない。 「しかし、これはまた‥‥」 肩に捕まった尾無狐と共に、无(ib1198)が眼鏡の奥で紫色の目を丸くする。 「綺麗な花にはなんとやら、というところですか」 「おうおう、危ない危ない。こんな阿婆擦れに引っ掛かったら、ろくな目に遭わないよ」 真朱は耳の奥に残る高い弦の音を聞きながら、真朱は畳んだ夜幻扇で胸元に掛かる髪を払った。 その様子を眺めていた少年が、眼鏡越しに花緑青色の瞳で真朱の顔を覗き込んだ。 「マソオは可愛いな」 白を基調とした祈祷服に蜂蜜色の髪が映える。ミシェル・ユーハイム(ib0318)だ。 「あたしの気を引こうってのかい」 「マソオの望みをかなえて、絆を結びたいんだ」 ミシェルは照れる素振りも見せずに真朱の目を見た。 「そう、絆。それが、僕ら開拓者の力になるんだ」 真朱はミシェルの額を人差し指でつついた。 「もう少し年食って、好い男になってからおいで、坊や」 「これでももう大人さ」 「それが坊やだってのさ」 深い色の紅が引かれた真朱の唇が、華やかに笑う。 再び、弦の音が低木の合間を抜けていった。 「いますね」 弓掛鎧に陣羽織を着た女性が呟いた。鉢金を巻いた頭から、白銀の獣耳が飛び出している。銀狐の神威人、鹿角結(ib3119)だ。 「ミシェル殿、宿奈殿」 戦闘を歩いていた身の丈七尺の巨漢、明王院浄炎(ib0347)が拳に填めた霊拳「月吼」を握り、ゆっくりと身構える。 「解ってる」 「ご安心下さい」 ミシェルと、最後尾を歩いていた異形の巨漢が冷静な声を返した。 烏帽子を含め八尺を越える身の丈、顔には風霊面をつけ、狩衣に細身の直刀を差し、手にはどこか愛嬌のある達磨型の人形を握っている。 宿奈芳純(ia9695)だ。 「なら、俺ぁ高みの見物を決め込ませてもらうぜ」 「好きにしな」 見張りとしてついてきた、尻っぱしょりをした男が、戦列から下がって数丈の距離を取る。 それを見届けると、ずっと口を閉ざしていた小柄な人物が、ぼそりと呟いた。 「見張りが黙って見てるだけなんてガキでもできるお使いすっかなあ」 真朱の目が細められた。 「確かに、影政の野郎がそんな事で納得するとも思えないね」 重ね着した忍装束に細身の忍刀「蝮」を差したその人物、アーニー・フェイト(ib5822)は、顔をすっかり覆う黒猫の面の奥で、ヴァーミリオンの瞳を光らせた。 「‥‥後ろの木陰にさ」 「うん?」 「誰かもう一人、来てるよ。‥‥オニって感じの足音じゃないね」 真朱が尖らせた唇に人差し指で触れた。 「弓術士の鏡弦では、アヤカシしか感知できないんだっけねえ」 「予備の見張りか、マソオを狙うつもりか、どっちだろね」 呟くアーニーの背後で、小さな羽音が立った。 芳純の空いた左手から、小鳥を象った人魂が飛び立ったのだ。 僅かな間を置き、風霊面の奥で芳純が薄く笑う。 「‥‥ただの見張りのようですね。暗器を使う可能性はありますが、特に弓や銃の類は持っていません」 人魂と視覚を共有した芳純は、歩みを緩める事なく囁いた。 「それで、真朱さん。真朱さんの力を誤魔化す方法として、今回真朱さんは呪縛符を主に多用し、必要に応じ治癒符や毒蟲等の他者から見て強さがわかりにくい術を使い続けるというのはいかがでしょう?」 「気が合うね、元よりその気で術を用意してきてるよ」 「流石です」 風霊面の奥で、芳純の目が細められた。 アーニーが、黒猫面の奥で小さく舌打ちを漏らして一行の注意を喚起する。 「そこの茂みに左右一匹ずつ。マソオもホージュンも、くっちゃべってっと不意打ち食うよ?」 ● 標的は完全に木陰に身を隠しており、陰陽術も巫術も届かない。 木陰まで、先頭の浄炎が三丈ほどの距離に入った。瞬間、豚鼻の鬼が二匹飛び出す。 振り下ろされる金棒を、浄炎は右手で後方へ捌きながら密着した。丁度浄炎の肩の高さにある豚鼻を、腰の捻りを利かせた左の肘打ちが叩き潰す。 更に浄炎が大きく拳を引く。逆突きを警戒したか、豚鬼は顔面を守るべく左腕を顔と喉の前に翳した。 浄炎の身体がぬるりと前進し、攻撃を放棄した豚鬼に密着した。かに見えた瞬間、辺りに地響きが轟き、豚鬼の身体が微かに宙に浮くと、その場に崩れ落ちた。 外殻を抜けて内部に衝撃を伝える、暗勁掌だ。 残る一体が横薙ぎに振るう金棒を、左手に持った直剣、カッツバルゲルで上へと受け流そうとした无だったが、尾無狐のナイが肩でバランスを崩した事に気付き、咄嗟に体勢を変えた。 「おっとっと」 无は金棒の突起に額を裂かれた。 鬼はかさに掛かって金棒を振り下ろそうとするが、その動きだしよりも早く、无は身体を右に開いていた。誰もいない空間を、緩慢な動きで金棒が通過する。 黒く禍々しい馬が描かれた符が、金棒を振り下ろした鬼の屈強な腕に、次いで額に触れた。 アーニーの耳が、次いで新たに作り出された芳純の人魂が、新たに現れた鬼の存在に気付いた。 「大きく囲まれてんね。二十秒で接敵するかな」 「距離二十丈弱、包囲を狭めています」 二人の言葉を聞きながら、浄炎の四指が膝をついた鬼の目を擦った。 出血こそないが視界を封じられた鬼の胸板を、大砲のような前蹴りが打ち抜く。 「无殿、ご無事か」 「ああ、こっちはもう終わりました」 新たな符を懐から出し、額から流れる血を拭いながら、无がけろりと答える。 その足下には、額と腕、そして胸に巨大な蚤を取り付かせた鬼が、干からびて転がっていた。相手の瘴気を喰らう、魂喰の符だ。 既に矢を番え限界まで引き絞っていた結が呟いた。 「来ましたね」 二十丈ほど先の低木の陰から鬼が現れた。一行の前後左右で、低木の上に頭を出さぬまま木陰から木陰へと走り回り、じわじわと距離を縮めてくる。 「ああ、なるほど、脳筋が取る動きじゃないですねえ」 手早く額に包帯を巻き血止めをした无が、呑気にそれを眺めていた。結び目が触ってくすぐったいのか、无の頭が動く度にナイが小さく身を捩っている。 「ま、あたしが囮になっからさ。狙い撃ち、よろしく」 アーニーは気軽に言い、懐の匕首を抜いた。 「山猫」 真朱はアーニーの偽名を呼んだ。 「気を付けなよ」 「あんなデクノボーに一発喰らうほど間抜けじゃないね」 「あの、それ私のことですか」 无の言葉に小さく舌を出して見せると、アーニーは匕首を逆手に握って駆け出した。 その行く手を遮るかのようにして木陰から現れた鬼の太腿を、閃光の如き一閃が撃ち抜く。 結の一射だった。続けて放たれた矢は、体勢を崩して地面へ近付いていく鬼の頭を待ち構えていたかの如く、頬骨を射抜いた。 「やるじゃないか」 「四十五丈先までは、僕の射圏ですから」 弱々しい陽射しに白銀の毛を輝かせ、結は耳を動かした。 「あたしも負けてられないね」 聞こえよがしに真朱は言い、茶目っ気たっぷりに大きな片目をつぶった。その細指が破った符の裂け目から、黒と黄色の煙が噴き出す。 それらは風に乗って西へと流れていくに連れ、徐々に明確な形を取り始めた。鈍く重い不吉な羽音を立てて空中を突き進む、雀蜂の群れだ。 一行に駆け寄りつつあった豚鬼がまともに雀蜂の群れの中に突っ込み、悲鳴を上げた。全身を無意味に叩き、蜂を潰そうとする。 その下腹部を、尾を曳く白い光弾が直撃した。下半身を払われてうつ伏せに倒れ伏した豚鬼の背を、更なる光弾が灼く。 「流石に頑丈だな」 ミシェルの花緑青色の目が曇った。自分よりも頭一つ分は丈のある魔杖「ヴィエディマ」の宝珠に、白い精霊力を宿る。 毒蟲に苦しみながらも更に近寄ってこようとする豚鬼の顔面に光弾が炸裂した。仰け反った右胸を、とどめの光弾が撃ち抜いた。 「よっと」 狙撃者の頭巾から零れるアーニーの金髪が、複雑な軌道を描いて宙に舞い上がる。 彼女の左手は、振り上げられた鬼の棍棒を掴んでいた。草履で鬼の縮れ毛を蹴飛ばして背中合わせに着地し、逆手に握った右手の匕首で鬼の背を抉る。 アーニーの身体が鬼の巨体で隠れた瞬間、鬼の首から血飛沫が噴き上がった。 目鼻も髪もない、口だけを持った白い頭が、頸部を噛み千切ったのだ。血飛沫をものともせず、口は牙を激しく打ち鳴らして鬼の肩に、脇に、腿に齧り付き、見る間に地面に血だまりを作った。こちらは芳純の魂喰だ。 「相変わらず良い腕してるねえ」 「どうも」 芳純は風霊面の下で長い息を漏らし、達磨型の呪術人形を握り締めた。達磨に白く残された目が角張り、巨大化して、真朱の傍に飛び出した。 厚みを持たない四角形が見る見るうちに巨大化して一丈半ほどの高さを持ち、厚みを得て膨れあがった。結界呪符「白」だ。 木と木の間を塞ぐかのように立った白い壁に、豚鬼が肩から体当たりを掛ける。鈍く重い音が壁越しに一行の耳へ届いた。 壁は僅かにひしゃげて鬼の身体を受け止め、弾き返した。逆上した鬼が両手で金棒を振り上げ、全体重をこめた一撃を白い壁に振り下ろす。 「多少指揮官に知恵を付けられても、個々は脳まで筋肉ですねえ」 无の手から放たれた黒馬の符は独りでに羽ばたき始め、蝙蝠の姿を取った。厚みを持たない蝙蝠は白い壁を越えて鬼へと襲いかかり、くぐもった悲鳴が低木の森に響く。 既に残った鬼は半数を切っている。残る半数も、寄せるか引くか判断が付かないまま木陰から姿を現しては、ミシェル、芳純、无の三人に狙い撃たれ、背を向けて逃げ出しては最長射程を誇る結の矢に下半身を射抜かれていく。 「ユー、あいつ撃てる!?」 アーニーの声に反応した結が、指し示された方向を見た。 波状攻撃がいとも容易く各個撃破され、実力の差を思い知らされた赤銅色の肌の鬼が、一行に背を向けてひた走っている。 その距離、およそ四十丈。 あと五丈走れば、結の射程距離の外に抜けてしまう。思うよりも早く、結の手は矢を愛弓「蒼月」に番え、渾身の力で引き絞っていた。 射程距離外まで、残り三丈。 「風は乾。高低差無し、移動速度一定‥‥」 結の目が細められ、その細腕から「蒼月」へ練力が注ぎ込まれていく。 残り二丈。 「疾!」 日没を待たず上り始めた青い月目掛け、矢が放たれた。 ● 「いらっしゃい」 店主の威勢の良い声が響き渡った。 暖簾を潜った人物は勝手に空いた椅子を動かし、白髪の神威人の隣に腰を下ろした。 「燗で頼むよ。食い物も適当に見繕って、どんどん持ってきな」 「へえ。そりゃ、構いませんが」 困惑を隠しきれない顔で、店主は白髪の神威人を見た。 「仁兵衛さん、よろしいんで?」 「好きにさせてやんな」 仁兵衛は微苦笑を浮かべた。 入ってきた着流しの人物、真朱は上機嫌で切り出す。 「呼び出して悪かったね」 「良いんですかい。敵と仲良く酒の席について」 「ミシェルと浄炎に、土産を貰ってね」 真朱は気にせず、話し出した。 「貰った女郎屋の餓鬼が、そりゃあ喜んでた。浄炎がね、外界にも、ささやかでも気に掛けてくれる奴がいるとさ」 「有り難え話だねえ」 「お人好しだねえ、開拓者ってのぁ」 口で言いながらも、真朱の口許は緩んでいる。 「ミシェルの坊やなんざ、あたしの目を盗んで見張りに白霊弾をぶっ放しててね‥‥見張りの野郎、本人が豚鬼みてえな面になってやがったよ」 「そうですかい」 「あの子のあんな笑顔、久々に見たよ」 仁兵衛はさらりと答え、猪口へと徳利を傾けた。 「それで、ご用件は何なんで?」 早口に、不自然アホ戸上機嫌で喋っていた真朱の顔から、やおら笑みが消えた。 喧噪が、猪口を傾ける二人の間を支配する。 「そんな事の報告に来たわけでもあんめえ」 「ああ」 店主が、燗徳利を真朱の前に置いた。 幾度か真朱の口が開きそうになり、その度に閉じる。仁兵衛は、ただ真朱の次の言葉を待った。 それから、四半刻ほども経ったろうか。ようやく、真朱が口を開いた。 「女郎屋の子の笑顔を見て、ちっと気が迷ってね」 「というと」 「この真朱、身体なり心なり病んじまった女郎を助けて、いい気になってるけどね」 真朱の目は、この上なく真剣だ。 「あたしはこのまま元締めをやってていいのか、そんな思いが鎌首をもたげてやがる」 出された燗酒を煽り、真朱は自虐的に笑った。 「あんたらに手を貸して一家を潰しゃ、手っ取り早く、女郎を全員助けられるんじゃねえか、そんな気がする」 「お止しなせえ、短気は」 猪口を置いた仁兵衛が、冷めた目で真朱を射抜いた。 「短気だ?」 「短気だねえ」 仁兵衛は猪口を置き、真朱の目を見た。 「何が短気だい」 「解んねえかい」 二人の視線が、空中で音も立てずに絡み合う。 「何が短気だい」 真朱が繰り返した。 仁兵衛は猪口に残った酒を口に流し込んだ。 「苦しんでる人を助けてえ、助けられねえ、そりゃあ辛い。辛いねえ。今この瞬間、女郎全員を助けられたら、そりゃあ喜ばれもするだろう、彼女らの英雄だろうよ」 無精髭の生えた顎を指先で撫でる。 「しかしね。英雄の出番は無え、英雄が出るまでもねえ、そういう世を作るために汗かいてんじゃあねえのかい、あたしらは。今こそ立場は敵同士だがねえ」 仁兵衛の黒い瞳は微かに潤み、唇は殆ど視認できない程度に震えていた。 「いいかい。あんたもあたしも、英雄になるこたあねえんだ。あたしらの一日一日が、あっちゃこっちゃ巡り巡って、少しずつ、あんたが助けたい人を助けてんじゃねえかい」 仁兵衛の口調は、徐々に熱を帯びていく。 「それじゃいけねえかい。英雄がいつまでも苦しんでる連中の傍にいてやれるかい。今この瞬間だけ百人を救う人間も要るだろう、だがこれからずっと、五年、十年、二十年かけて、少しずつ、僅かずつ、人の力になってやる人間だって要るだろう。どっちが偉いと、どうして言えるね」 すっかり気圧されていた真朱は、深呼吸をひとつすると、何かを誤魔化すかのように笑った。 「あんたも、そんな口をきくんだね」 だが、猪口を口に運ぶその指もまた、僅かに震えていた。 仁兵衛は続けた。 「仮に今女郎屋が無くなろうが、必ずまたできちまうんだよ。例えばだがね、芸妓とでも言やいいか、もっと客に強く出られる、身寄りのない貧しい女が芸だけを売って生活できる、そんな場所を残してやることじゃねえのかい。次に生まれてくる、苦しむ人のために」 仁兵衛が口を閉ざすと、二人の間に沈黙が降りた。 喧噪の中、囁くような声が真朱の耳に届く。 「あんたならできると踏んでるが、買いかぶりだったかい。『お嬢さん』」 真朱は黙って猪口を空けた。 「今夜は付き合いなよ」 「構いやせんよ」 仁兵衛は微かに口角を上げ、店主を呼んだ。 真朱は燗徳利から直接口に酒を流し込み、大きく息を吐いた。 「今夜は、ちっと苦いが、旨い酒になりそうだねえ」 |