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■オープニング本文 ● 十三夜の月を、薄雲が覆い隠している。 食器の触れあう音が、屋台の中で重なった。 「ね、弥勒さん? もっとそのお話、聞かせて」 「まだ聞き足りねえのか」 ぼさぼさの長髪の青年、弥勒は呆れ顔で笑い、あたりめを囓った。 ここは武天、侠客の町三倉。 弥勒は町を二分する侠客集団の一つ、永徳一家の一員だった。 「だって、恰好良いじゃない。町からも離れて、助けもないところで侠客に囲まれて、子供一人守って大立ち回りなんて」 隣に座った女は、とろんとした目で弥勒の顔を覗き込んだ。 「開拓者の皆に助けてもらったんだけどな‥‥」 「んもう。でもそれは、アヤカシが来てからでしょ? 侠客相手は、一人で全部やっつけたんじゃない。ほら、話せ話せ」 「‥‥お前、結構絡み酒だな。もう終わりだ」 弥勒は女の前から徳利を取り上げた。 女は上気した頬を僅かに膨らせた。 「意地悪」 「お前を担いで帰るのなんざご免だ。聞き分けろ」 「ちぇっ。はあい」 唇を尖らせながらも笑った女の頭を、弥勒は荒っぽく撫でた。女は心地よさそうに目を細める。 「変わった女だよ、お前は。俺なんぞを気に入るたあな」 「だって、弥勒さん優しいし、恰好良いもん」 弥勒は照れ臭そうに笑うと、女の頭を抱き寄せた。逆らわず、女は頭を弥勒の肩に預ける。 「ね、他にその話、知ってる人いないの? 他の人から見た弥勒さんの話も聞きたい」 「他に? いねえよ、一人で誘い出されたって言っただろ」 「つまんない。‥‥あ、でも永徳に逃げてった瀧華の人は見てたんでしょ? その人達に聞けない?」 女の僅かな失言に、弥勒は気付かなかった。 「馬鹿、言えるわけねえだろう。瀧華の連中に知られたら、そいつらがぶっ殺されちまう」 「大丈夫よ、誰にも言わないから‥‥それとも弥勒さん、何か嘘でもついてる? 大風呂敷がばれちゃうのが怖いんじゃなあい?」 潤んだ目が、悪戯っぽく弥勒の目を見る。僅かにたじろいだ弥勒だったが、女の額を軽く指で弾いただけで徳利の中身を空け始めた。 「逃げてった‥‥ねえ」 屋台の陰で、獣毛に覆われた尾を持つ人影が呟く。 その影は誰に気付かれることもなく静かに暗闇へと消えていった。 ● 「‥‥またコレだと?」 三十路半ばと見える総髪の男、永徳一家の親分、剣悟郎が小指を立てて訝しげな声を挙げた。 「へえ」 獣毛に覆われた耳をくりくりと動かし、呆れ顔の老人が頷く。永徳一家の老参謀、仁兵衛だ。 「竜三に続いて、弥勒の野郎もか」 竜三も、永徳一家を支える志体持ちの一人だ。剣悟郎はだらしなく顔を緩ませた。 だが、 「いや、それがちっとばかし面倒な事に」 「あん? なんだ、のっけから修羅場か?」 顎を前後から指二本で摘んだ剣悟郎に、仁兵衛は首を振って見せた。 「瀧華の衆が一枚噛んでやがるんでさあ」 「またあいつらかよ」 うんざりした顔の剣悟郎に、仁兵衛が苦笑いを返す。 「残念ながらそうなんで。先日、弥勒が一悶着起こしたのを、覚えておいでで?」 仁兵衛が言っているのは、瀧華一家のはかりごとに引っ掛かった弥勒が町外れの湿地帯へと誘い出された時のことだ。弥勒はそこで瀧華一家の不意打ちに遭ったのだ。 しかもそこがアヤカシの出るという曰く付きの場所で、血の臭いと阿鼻叫喚に誘われた不死のアヤカシが湧いて出たのだった。 「あの時弥勒の襲撃にしくじった衆を、うちが保護して住まわせてやってるでしょう」 「おう」 「その女、シノビでしてね。そいつらの居場所を探ってやがるようなんで」 緩んでいた剣悟郎の顔が、真顔になった。 「裏切り者を消そうって腹か」 「消すというよりも、見せしめでしょうねえ。裏切り者が殺されりゃ、瀧華の衆は裏切れなくなる。頼ってきた奴を守れなかった永徳の評判もがた落ちだ」 剣悟郎が、頬杖をついて仁兵衛の目を見た。 「それで? いつもならその程度の話、お前一人に任せてるじゃあねえか」 「へえ。その女、シノビの部下を何人か抱えて潜伏してましてね。弥勒にゃあ悪いが、暫く泳がせて、配下どもを全部洗い出そうと、こういうわけで‥‥」 剣悟郎が下唇を尖らせて顔を顰めた。 「仁兵衛、お前は頭が回るが、人情てえものが薄くていけねえよ。騙されたまんまじゃあ弥勒が可哀想じゃあねえか。長くいりゃあ情も移るだろう」 「そう仰ると思って、許可を頂きに来たんで」 仁兵衛は剣悟郎の前に片膝を付き、頭を垂れた。 「弥勒が、シノビの女を相手に嘘を突き通せるとお思いですかい」 「そりゃ、無理だろうけどよ」 若さ故の勢いだけが武器という弥勒の性格を知っている剣悟郎は苦笑する。 仁兵衛は頷いた。 「今回に限って言やあ、弥勒に危険は無えでしょう。弥勒はまだ未熟ですが、本来の目的を果たす前にわざわざ敵の縄張りで騒ぎを起こすような馬鹿はしねえ筈だ」 「駄目だと言ったら?」 「永徳の縄張りに、敵の子飼いの連中が残ることになりやすね」 上目遣いの仁兵衛と、頬杖を突いた剣悟郎の視線が交差した。 僅かな沈黙が部屋に降りる。 「‥‥ったく、解ったわかった。その代わり、一人でも瀧華の野郎どもに殺させたらただじゃおかねえぞ」 「ありがとう存じやす」 「それと、後で弥勒に謝っておけよ」 「へえ」 仁兵衛は口許をほころばせた。 「で? 敵はどこまで逃げてきた連中の事を調べてるんでえ」 「弥勒は何も話しちゃいませんがね、部下が嗅ぎつけたようで。今更引っ越させちゃあこいつだと言ってるようなもんなんで、普段通り生活させてまさあ」 「そうかい、抜かりねえな」 剣悟郎は幾度も頷いたが、ちらりと仁兵衛の目を盗み見た。 「‥‥しかし、人手が足りねえな?」 「ええ、そういうわけで‥‥」 |
■参加者一覧
千代田清顕(ia9802)
28歳・男・シ
明王院 浄炎(ib0347)
45歳・男・泰
カーター・ヘイウッド(ib0469)
27歳・男・サ
ノルティア(ib0983)
10歳・女・騎
リーゼロッテ・ヴェルト(ib5386)
14歳・女・陰
アーニー・フェイト(ib5822)
15歳・女・シ |
■リプレイ本文 ● 茶屋前の大傘の下に腰掛けた弥勒が笑った。 「お前、本当甘い物好きだな。出掛けると毎日じゃねえか」 「いいじゃない。女の子はみんなそんなものよ」 女は弥勒にぴったりと寄り添って座り、紙皿に乗ったみたらし団子を頬張る。 「んー! 美味し」 女は満面に笑みを浮かべ、堪えられないといった風にきつく目を閉じた。 「太っても知らねえぞ」 弥勒の声も、女は聞こえないふりだ。 「‥‥まんまと引っ掛かっちゃってるみたいね」 ローブを重ね着した茜色の髪の少女が、茶店の前を歩きながら苦笑した。リーゼロッテ・ヴェルト(ib5386)だ。 弥勒の隣で、女は異様なほど真剣な顔をしている。少なくとも、団子を味わっているような顔ではない。 次いでリーゼロッテの瞳が、茶屋の前で何やら呟いている二人の男を捉えた。 「‥‥あれです、低い銀の簪‥‥あと高い茶の酒、低い金の簪‥‥」 「やたら高い黒の酒‥‥大工‥‥的じゃない‥‥」 リーゼロッテの口の端が、僅かに持ち上がった。 (‥‥女が超越聴覚で報告聴取。符牒は色で髪の色、酒と簪が男女ってとこかしらね) その左手から飛び降りた鼠が、茶屋の席の下を滑り、男達の足下を駆け抜ける。 「!?」 咄嗟に片足を上げて飛び退いた男達の顔は、まるで能面のように無表情のままだ。 鼻で笑ったリーゼロッテの姿が、雑踏に溶けていく。 無表情の男達は息をつき、茶を飲み干すと、やがて席を立ち路地裏へと消えていった。 「はい、弥勒さん。あーん」 女に差し出された団子に、弥勒はかぶりつく。 「甘い物だって、悪くないでしょ」 「だな」 弥勒は餡の乗った団子を咀嚼しながら頷き、女の頭を抱え寄せる。 その前を、長身の男が歩きすぎていった。見るともなく、弥勒の視線が男を追う。 身の丈六尺強。格闘用の脚絆に着流し、蘭華鎧に眼鏡に外套という、かなり傾いた恰好の伊達男だ。泰拳士だろうか。 「‥‥知り合い?」 「いや、全然」 弥勒が首を振る中、長身の男、千代田清顕(ia9802)は角を曲がった。 行き交う人々を躱しながら、茶店の前にいた男‥‥女の手下と、つかず離れずの距離を保つ。 手下が角を曲がった瞬間、清顕は小走りになった。角を曲がるのではなく民家の塀に跳び上がり、角に貼り付いていた男のつむじを見下ろす。 清顕の身体が男の影に重なるかのように舞い降り、男の口を手で覆った。金属で補強された「瞬風」の爪先が、男の足の甲を踏み砕く。 「残念だがこの仕事はあんたには荷が重かったのさ」 悲鳴も上げられず、うめき声だけを発する男の耳に、清顕は皮肉っぽく囁いた。 「文句があるなら美人の上役に言うんだね」 男の首に、清顕の腕がするりと巻き付いた。 ● 「‥‥もう勘弁してくれよ浄炎さん」 「そう言うな。今後の生活の為にもなる」 「飯時以外、朝からぶっ続けじゃねえか。もう日も暮れてるしよ‥‥」 八畳一間という小さな一軒家の中から、声が外へ漏れ出ている。 「さあ、次だ」 柱に寄りかかり、腕を組んだ大男が言う。手拭いを捻って頭に巻き、仁兵衛が用意した鳶服から腹に巻いたさらしが覗く。どう見てもどこかの大工の棟梁だ。 「これだけ鉋掛けできる奴なんてそうそういねえでしょうが」 「ならば、町随一になるまでは続けさせるぞ。そうすれば永徳の衆も重宝がってくれよう」 大男、明王院浄炎(ib0347)は窓の外をさりげなく警戒しながらも、笑った。 「一番じゃなくても、そこそこおまんまが食えりゃ、それでいいのに‥‥」 ぶつくさと言いながらも、男は手を動かし続ける。 「‥‥やってるね、浄炎さん」 「千代田殿」 戸をそっと開けて滑り込んできた男を見て、浄炎は微笑んだ。 「清顕の旦那! ちょっと浄炎さんを止めてくれよ、こんな重いもん着て朝からぶっ続けだ、もう肩と腰がおかしくなっちまう」 「ま、その鎖帷子はあんたのためだからさ」 清顕が、伊達眼鏡の奥で紫色の目を細める。 「そりゃ、有り難い話だけどよ‥‥」 「有り難いと思うんなら我慢だよ。永徳の恩義に報いる為にあんた達に出来ることは、死なないことさ」 清顕は言い、浄炎に目を移した。 「締め落とした男が吐いたよ。浄炎さんのお陰で、こっちは敵の監視から外れた」 「おお、そうか。わざわざ変装した甲斐があったというもの」 「あとはカーターさん達が見てるところを守ればいい。今夜襲撃があるかも知れないそうだ」 ● 「こんばんわ」 「どわ!」 床板を持ち上げて顔を出した銀髪の少女、ノルティア(ib0983)に、布団を敷いていた男は仰天した。 「下から、来る‥‥言ってた、のに」 ノルティアは白いフリルシャツとウシャンカについた埃を払う。青い珊瑚の首飾りに、蜘蛛の糸がついていた。 「いや‥‥ビクビクしながら過ごしてっから」 「だいじょぶ‥‥必ず、守るから。今は。安心、して‥‥」 「そうそう」 今度は文字通り、男が仰天する。天井板を外して、ヴァーミリオンの瞳が覗いたのだ。 金髪の上にキャスケットを乗せゴーグルを首に提げた少女、アーニー・フェイト(ib5822)だ。 「カーターは?」 「借りてる、家。‥‥誰もいない、不自然、だから。そっち。何かあったら、来る‥‥だって」 「そっか」 「じゃ、俺ぁ寝るからな」 「どーぞ」 アーニーは音も無く床に降り立った。男は二人に背を向け、布団に潜り込む。 「ノルティアも、昼間監視してて疲れてんでしょ。あたしの番の時間だから、取り敢えず寝ときなよ」 「ん。‥‥ありがと」 ノルティアは小さな口をいっぱいに開けて欠伸をした。 「天儀、では。裏切り者には塩、言うって聞いたけど」 「‥‥それ、塩じゃなくて、死を、ね」 笑いを噛み殺したアーニーが返す。 「命、狙う。輩、居るのは‥‥何処も同じなんだね」 「ま、ヤクザもんだからね。キッタハッタは‥‥」 ふとアーニーの言葉が止まった。掌をノルティアに翳し、家を出ようとする彼女を制止する。 「‥‥来た?」 アーニーは頷き、懐に隠していた匕首を逆手に握った。 ノルティアが、布団の上から男を揺さぶる。 「寝てない。でしょ‥‥? 敵‥‥。物陰、に、隠れてて」 「て‥‥」 咄嗟にアーニーの手が、男の口を抑える。 「気付かれちゃまずいんだって」 男は目を白黒させつつも頷き、つづらの陰に身を隠した。夜目にも銀髪と金髪が目立つ少女二人は、それぞれ髪を帽子の中に押し込み、布団の中と押し入れに潜む。 家の中に、静寂が訪れた。 音もなく、家の戸が引き開けられる。三和土で履き物を脱ぐでもなく、土足のまま二人の人物が布団に忍び寄った。 その手には、黒く塗られた抜き身の刀が握られている。 刀が振り上げられようとした瞬間、布団がはねのけられ、銀光が薄闇の中を切り裂いた。 ノルティアの投じたダーツは男の脇腹と鳩尾に突き刺さった。襖の隙間から飛び出したアーニーは暗闇をものともせずに刀の柄を握り、右腕に容赦なく匕首を突き立てる。 悲鳴を上げようとした男の股間をノルティアの右足が容赦なく蹴り上げた。残る一人は鳩尾にアーニーの蹴りを叩き込まれ、悲鳴よりも先に胃液を吐き出して悶絶する。 それでも、超越聴覚を使っていたか、表で物音がし始めた。 「窓前に三つ、玄関に二つ!」 アーニーは叫び、玄関を飛び出した。ノルティアは入り口の脇にあった水瓶を蹴飛ばす。 「ああっ! お、俺の水瓶‥‥」 悲痛な叫び声と共に、高い音が辺りに響き渡った。 「そっち頼んだよ!」 「ん」 アーニーのブーツが地を蹴り、窓の前から逃げ出した男達を追った。 ノルティアは前を走る二人を追ったが、二人は早駆で即座にノルティアの前から離れる。 だがその正面には、身の丈六尺を越す奇抜な髪型の男が立っていた。 「どけ!」 男達は怒鳴り、忍刀に手を掛ける。が、行く手を塞ぐ男は怯みもせず、杖らしきものに唇を当てた。 現れた男と逃げる男を結ぶ線の延長上、垣根の一部が、突如として小刻みに震え出す。 「‥‥あ、おい!?」 男の一人が突如頭を抱え、足を止めて棒立ちになっていた。残る一人がその腕を引こうとすると、棒立ちになった男は猛然と男に殴りかかる。 「どわ! や、やめ‥‥」 「来るな! 来るなあ!」 わめきながら、棒立ちになっていた男は仲間の胸ぐらを掴んで垣根に押しつける。 「はい、捕まえた」 ぴんと夜空を指したモヒカン頭の下で、カーター・ヘイウッド(ib0469)は微笑んだ。 「カーターさん、何したの?」 発せられた指向性の音が届いていないノルティアは、緑色の目を丸くして、掴み合う二人を見ている。 カーターは二人を引き離し、その襟首を掴んだ。 「吟遊詩人の技。あ、ノルティア、捕まえてくれる?」 「ん」 ノルティアはこっくりと頷き、混乱している男を縛り上げる。 「はいはい、大人しくしてね」 何とか逃げだそうとする男の頬に、杖のような巨大な楽器、龍笛が当てられる。 「な、何しやが」 夜の三倉の町に、龍笛の重く低い音に混じって、男の悲鳴が響き渡った。 ● アーニーは単身三人の男達を追っていた。 いや、一人は女だ。弥勒に近寄っていたという女と、外見上の特徴が一致する。 アーニーの口から、舌打ちが漏れる。男達の護衛を最優先した結果ではあったが、早駆を使うシノビ相手では流石に追い切れない。 と、その時、耳元を通り過ぎた不吉な羽音に驚き、彼女は地面に身を投げた。 「敵じゃないわよ」 羽音は男達目掛けて真っ直ぐに突進し、悲鳴に掻き消されて聞こえなくなった。 リーゼロッテだった。懐から取り出した符が微かな呻きを上げて黒変し朽ち果てる。瘴気が夜の大気に溶け、悲鳴が大きくなった。 「頑張って躱しなさい♪」 瘴気の蜂に首を刺されて身体の自由を奪われた男の上空から、禍々しい金属の輝きが落ちかかった。ジルベリアの処刑具、ギロチンの刃だ。男は死に物狂いでその場から倒れ込み、刃の端で脇腹を切り裂かれた。 「何でこっちにいんの?」 「あっちは監視から外れたそうよ。向こうから明王院達も‥‥ほら」 リーゼロッテの視線の先、倒れた男を見捨てて走る女と男の前に、カーターや清顕よりも更に頭一つ高い大男、浄炎が立っていた。 その手から蛇のように伸びた黒い影が、女の顔面を横から襲う。女は迷わず併走する男の顔を掴み、体を入れ替えた。 「何と」 浄炎は思わず唸った。瞬時に戻った多節根が今度は膝に食らいつこうと襲いかかるが、その先端に女は左甲を叩きつける。 指数本が異様な方向に折れ曲がっているが、女は気にせず垣根を跳び越えて明後日の方向へと逃げ出した。 どちらも直撃すれば只では済まない一撃だったが、女の逃走への執念もまた尋常ではない。 しかし、その足もやがて止まった。 「悪いけど、逃がさないよ」 その行く手を、清顕が塞いでいた。 「‥‥」 女は、右へ駆け出すと見せ、早駆で左へと切り返しかけた。 が、それよりも早く清顕の「瞬風」が女の踵を払っていた。女は自らの力で吹っ飛ぶ羽目になり、背中から地面に叩きつけられる。 それでも立ち上がろうとする女の前に、闇に紛れて黒い風が近付いた。 「うちの弥勒に」 それは小さな人影だった。その手が女に触れた瞬間、女の身体は喉を支点に高々と両足の爪先を跳ね上げ、頸椎から地面に叩き落とされる。 「随分と舐めた真似してくれたねえ」 浄炎と清顕の一撃で既に十二分な痛手を負っていた女は、その一撃で失神した。 人影は顔を上げ、にっこりと笑った。 「皆さま、お手数お掛けしてすいませんねえ。今永徳の衆が、洗い出した瀧華の連中全員をふん捕まえた所でさあ」 ● 「‥‥おい弥勒。ちっと飲み過ぎじゃあねえかい」 「うう、放っといて下さいよ。どうせこのシマを守ってんのぁ、親分と仁兵衛さんすよ。俺じゃあねえんだ」 隣の仁兵衛のつけ払いなのを良いことに、浴びるように酒を飲み続ける弥勒は、机の上に涎と涙の水たまりを作っていた。 机を囲み、はす向かいに座ったアーニーが呆れ顔をする。 「ミロクもウブなねんねじゃねーんだからさあ。キョーカク? ならとっとと気ぃ取り直せよ」 「‥‥ウブでいいから、本当であってほしかった‥‥」 弥勒は机の上に頭を置き、滂沱の涙にくれる。 「気にしちゃ駄目だよ、弥勒さん。ほら、俺のお菓子あげるから元気だして?」 隣に座ったカーターが優しくその肩を叩いた。 「本当ならお喜代がお酌してくれるとこなのによおおおお‥‥」 言いつつも、カーターに差し出されたひなあられを口の中に流し込み、その胸にすがって弥勒は号泣する。 「よしよし」 「ま、男は女に騙されて成長するって言うわよ」 鴨肉を散らした揚げ豆腐をつついていたリーゼロッテにしれっと言われ、弥勒は勢いよく顔を上げる。 「だ、騙されてねえよっ! 本当の本当は、俺だって心のどっかで、俺がこんなにもてるなんておかしいと思ってたよ! あー思ってたよ!」 「はいはい」 リーゼロッテは苦笑し、弥勒の猪口に酒を注ぐ。 「まだ若いんだから、しっかりしなさい」 「ぐぐぐ‥‥こんな女の子に諭されるなんてよお‥‥ううう、お喜代‥‥」 リーゼロッテが実は年上などとはつゆ知らず、弥勒はさめざめと泣く。 その隣で、しみじみと清顕が呟いた。 「まあ、女の口車はアヤカシより手ごわいもんだしね」 「へー? 何、キヨアキも経験あるわけ?」 アーニーの悪戯っぽい視線に、清顕は視線を逸らす。その裾を、小さな手が引っ張った。 「‥‥ん? 何だい」 「ね。男の人、って‥‥」 ノルティアが、小首を傾げていた。 「皆、あーゆー。女の人、が‥‥好きなの?」 「そうだ! 男は皆、巨‥‥」 勢いよく口に流し込んだ雛あられが気管に入ったか、弥勒は勢いよくむせかえった。 「みょいーんのおっちゃん!」 居酒屋の格子窓に、小さな顔が二つ飛び出した。 先日浄炎が付き合いのあった、禅一・宗二の兄弟だ。未だに「明王院」が言えないらしい。 「みょいーんではなく‥‥というか、こんな夜中に何を」 『あめ、ごちそうさまでした!』 二人は声を揃え、直ぐに顔は窓の下に消える。 女達を永徳の衆が連行していった後、居酒屋への行きがけに浄炎が顔を出し、土産に飴を渡したのだった。 「礼、ちゃんと言ったか?」 「うん、いった!」 親子の話し声が、遠くなっていく。 店の中は一瞬静寂に包まれたが、すぐに何事もなかったかのように喧噪に支配される。 「‥‥あの子らがあのように安心して笑って過ごせているのは、永徳の衆が親身になっているお陰だ」 「ううう、どうせ俺は捨て石だあ‥‥もてない俺のお陰で、皆が幸せなら俺ぁそれでいいんだ‥‥」 清顕と浄炎は視線を交わし、苦笑いを浮かべた。 「ま、人生に無駄な経験なんてないさ」 「くそ‥‥、清顕さん! 付き合え! 飲もう! 今夜は!」 清顕の猪口に溢れんばかりに酒を注ぎ、弥勒は残った酒を徳利から一気に空ける。 今夜も、三倉の夜は平穏に過ぎていった。 |