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■オープニング本文 ● 「はあ‥‥」 武天は侠客の町、三倉。 紙屋の娘、藤野綾は、欅の盆栽に鋏を入れながら、幾度目かになる溜息をついた。 「なあに? わざわざ遊びに来てあげたのに、辛気くさい」 隣でお手玉に興じていた妙齢の女性、お杏が唇を尖らせた。 「だって‥‥」 「竜三さんとうまくいってないの?」 「そうじゃないもん」 綾はむくれ、僅かに頬を膨らせて楓の手入れに入る。 「図星ね」 お杏は笑った。 竜三というのは、町を二分する侠客集団の一つ、永徳一家の一員だ。 町随一の泰拳士と名高く、不器用でひねくれ者の無骨な男だが、どういうわけか綾を気に入ったらしい。大抵は用心棒や喧嘩の仲裁などを頼まれて忙しそうにしているのだが、時間を作っては「藤野屋」に足繁く通ってくる。 若くして紙細工や盆栽が好きという変わり者の綾と、ひねくれ者の竜三。二人は妙に気が合うのか、去年の秋祭りを期に、ちょくちょく連れ立って町へ遊びに行ったりもするようになった。 「ま、手を繋ぐくらいはしてるんでしょ? もっと他のことがしたいわけ?」 綾の手が、ぴたりと止まった。 「し、しししてるわよ、もちろん」 「本当に解りやすいわね、綾ちゃんは」 お杏は二重の意味で呆れかえった。 「まだ手も繋いでなかったんだ」 綾は頬を赤らめるばかりで、答えない。 「それなら、綾ちゃん。『バレンタインデー』っていうのがあるわよ」 聞いたこともない言葉に、綾は目を瞬かせた。 「‥‥ばれた隠蔽?」 「バレンタインデー。知らないでしょ?」 綾は鋏を止め、ぽかんと口を開けている。 「これでもあたし、ジルベリアに引っ越した友達と文通してるんだから。多分、この町で唯一バレンタインデーを知ってる女よ」 「‥‥なあに、そのバレンタインデーって」 お杏はお手玉を全て受け止め、含み笑いを返す。 「女の子から、男の子に愛を告白する日」 「お、お、女の子から、あああ愛を?」 見る見るうちに、綾の顔に血が上っていく。 「だ、だめ、だめだめだめ! そんな、私、まだ嫁入り前なのに!」 「一体どこまで想像してるのよ」 お杏の放り投げたお手玉が、綾の頭に命中した。 「ジルベリアでは、恋人達の思いを守ろうとした偉い方が亡くなった日を記念して、女の子の方から思いを伝える日にしてるんだって」 「お、お、思いを‥‥」 「そう。女の子がね、『チョコ』を渡して、思いを伝えるの」 それを聞いた綾は、耳まで真っ赤に‥‥は、ならなかった。 顔から赤身が引いていき、訝しげな表情を作っている。 「ちょ‥‥『ちょこ』を?」 「そう、チョコ。知ってる? チョコ」 聞かれ、綾はさも当然のように頷いた。 「‥‥ジルベリアでは、そんな物あげるの?」 「そうみたいね」 「ちょ、猪口を?」 「そう。チョコを」 二人は真面目な顔で見つめ合う。 「竜三さん、甘いの嫌い? 綾ちゃんの甘い気持ちが詰まってれば大丈夫だと思うけど」 「甘い‥‥甘口ってこと?」 「甘口‥‥まあ、甘口と言えば、そうね」 綾は頬に人差し指を当て、考え込んだ。竜三は綾の前で決して酒は飲まないが、しかし綾は人づてに、竜三の好きな酒の銘柄を聞いたことがあった。 「竜三さん、辛口のが好きって聞くけど‥‥甘口のも好きなのかなあ」 「か、辛口? 辛口があるの?」 「そりゃ、あるでしょ。甘口があれば辛口があるのは当たり前じゃない」 「‥‥そ、そうなんだ‥‥奥が深いわね、ジルベリア‥‥」 腕を組み、お杏が唸る。 「でも、お杏ちゃん。何で猪口なの?」 「そりゃ、美味しいからじゃない? 食べて美味しいものをあげたいのは、普通でしょ?」 綾は瞬きを繰り返し、聞き返した。 「た、食べるの!? 猪口を!?」 「‥‥そりゃ、食べるでしょ‥‥ああ、まあ飲むチョコもあるわね」 「ていうか、食べる猪口があるの?」 「むしろ、飲むチョコの方しか知らない方が不思議なんだけど‥‥」 言われ、綾は腕を組んで唸った。 「猪口‥‥かあ。お腹壊しそうだけど‥‥」 綾とお杏は、合わせ鏡のように首を傾げ合う。 しばし二人は互いの表情を探り合っていたが、ふとお杏が意地悪い顔をした。 「でも綾ちゃん、すっかりその気なのね」 赤味の去っていた綾の顔が、瞬く間に耳まで真っ赤になった。 「な‥‥ななななななな」 「いいから、いいから。わかってるわよ、手を繋いでって言うんでしょ? 頑張って」 お杏が、綾の背中をぽんと軽く叩いた。 「て、ててててを」 「落ち着きなさいよ。 いい? チョコを渡して」 「ち‥‥ちょちょちょ猪口を渡して、で、で、で」 「気持ちを伝えるの」 「き、きき気持ちを」 「伝えるの」 「つ、伝えるのね」 綾は小刻みに震える指で鋏を置き、深呼吸をした。 「それからね、綾ちゃん」 お杏は含み笑いで囁いた。 「竜三さんに会う時は抜き衣紋にしてね、ちゃんとうなじを見せるのよ。ガッと。ガーッと。肩まで見せるくらい」 「し、しない! そんな、破廉恥なこと!」 綾は首まで真っ赤にし、泣きそうな顔で縁側に上がり、家の中に飛び込んでいってしまった。 ● 「竜三ってのは、アレだろ、いつだったか俺達を伸してくれやがった‥‥」 垣根の傍で、囁き声が発せられる。 「やっぱ綾のやつとデキてやがったんだ、畜生、あのデカブツ‥‥」 綾が玄関を小走りに出て行く、軽い足音がする。 「おい。ここは一つ‥‥」 「おう。真っ向からやったって勝てやしねえ、邪魔してやろうぜ」 瀧華一家の侠客達は、下卑た笑顔でどこかへと去っていった。 |
■参加者一覧
平野 拾(ia3527)
19歳・女・志
千代田清顕(ia9802)
28歳・男・シ
ミシェル・ユーハイム(ib0318)
16歳・男・巫
明王院 未楡(ib0349)
34歳・女・サ
西光寺 百合(ib2997)
27歳・女・魔
アーニー・フェイト(ib5822)
15歳・女・シ |
■リプレイ本文 ● 芝居小屋は、外の寒さが嘘のような熱気に包まれていた。所狭しと人が座り、足の踏み場もないほどだ。 いつもより三分ほど肌を見せた肩を頻りに押しつけ、綾はちらちらと竜三の顔を窺っていた。 「悪いな、図体がでかくて。邪魔か」 当の竜三は、隣の少女に頭を下げている。 「いいえ、大丈夫ですっ」 笠を膝に置いた赤い髪紐の少女、拾(ia3527)が大きな茶色い目を輝かせ、嬉しそうに答えた。 と、 「‥‥ね、そういえば。知ってる? 今日、『ばれんたいんでい』なんだって」 横手から、女性の囁き声が聞こえてきた。 「‥‥馬連と印泥? 版画?」 「『ばれんたいんでい』! ジルベリアではね、女の子がチョ‥‥」 瞬間、何かに噎せたのか、綾の隣に座った、巫女袴に外套という軽装の女性、明王院未楡(ib0349)が大きく咳き込んだ。 「‥‥お姉さん、大丈夫ですか?」 慌てて狩衣の袖から手拭いを出して口に当てて頭を下げた。 「んんっ‥‥ごめんなさいね」 「いいえ」 綾は笑顔で小さく首を振る。 「それでね、バレンタインの話なんだけど、チョ‥‥」 途端、拾が叫んだ。 「あ、二まいめのお兄さんですっ!」 『えッ!?』 辺りの女性客が、一斉に色めき立った。 「ほら、あそこっ! 今まくのうらに‥‥」 「‥‥何だ、ありゃ田村真之介だ、三枚目だよ、お嬢さん」 「‥‥え? おもしろい役の人じゃないんですか?」 「二枚目はね、美男役の人をいうのよ」 綾の向こうから、未楡が微笑む。 「そうなんですか」 拾は照れ笑いを浮かべ、小さな舌を出した。 「でね、チョ‥‥」 拍子木、そして笛と太鼓の音が小屋に響きだす。 未楡と拾が、そっと胸を撫で下ろした。 ● 「悪いね、無理言って」 ウシャンカを被ったヴァーミリオンの瞳の少女、アーニー・フェイト(ib5822)は、受付に片目を瞑った。 「なに、いつも永徳の人にゃ世話になってるからね」 「でも天儀のヤツはお人好しが多いなあ‥‥あ、ちょっとごめん」 アーニーは何かに気付いて受付を離れ、暗闇の小屋に滑り込んだ。 その目は、芝居小屋に似つかわしくない一人の男を捉えていた。綾が持っていたのと同じ紫色の風呂敷包みを抱えて、竜三の長身を目指している。 拍子木の音に合わせ、アーニーは魔法の空気銃でコルク弾を発射した。 「あたっ!」 男が思わず後頭部を押さえて声を挙げ、途端に傍の女性が男を小突いた。 「うるさいよ。ちったあ静かにしとくれ」 「な、何しやがる!」 「何だうるせえな、無粋な野郎め」 「誰かが‥‥」 「静かにできなきゃ出ていってよ」 反論の余地すら与えられず、男は周囲の客からこづき回され、這々の体で小屋を出て行く。 頭の後ろで両手を組んでそれを見送りながら、アーニーは受付に鼻で笑って見せた。 「天儀じゃあ人のコイジを邪魔したヤツはウマに蹴られてシチュー引き回しなんでしょ?」 「そ、そこまではしねえけどな」 受付は苦笑いを返す。 遠く雑踏の中へと逃げ去っていく男の背に、アーニーは同情の声を掛けた。 「あんたらよくやる気になったなあ‥‥ガンバってね?」 風に吹かれ、男が一つ、大きなくしゃみをした。 ● 甘味処、「桔梗庵」。 店の前で、ジルベリアの少年ミシェル・ユーハイム(ib0318)がリュートを弾いて客を集めている。お陰で客足が増え、店主はほくほく顔だ。 中性的で整った顔立ち、豊かに波打つ蜂蜜色の髪、花緑青色の瞳。町の女性達は易々と心を射止められていた。 店内は、ミシェルの奏でる甘い楽曲に満たされ、普段とは違う独特の雰囲気となっていた。 「面白かったな、芝居」 「本当ですか?」 綾は向かいに座った竜三の顔を見上げる。 以前教えられた桔梗の花言葉「優しい暖かさ」を覚えていた綾は、店名からここを選んだのだ。 「あの二枚目、なりは細いが腹に響く声だった」 「倉惣一郎ですね、あの声ですっかり参っちゃう女の子も多いんです」 「はわわっ‥‥」 隣の机に腰掛けていた少女が、華やいだ声を上げる。 白と青の帽子に雪の結晶の形をしたピアス。白い絹のドレスに、小柄な身体に相応しいハイヒール。ジルベリア出身なのだろう。 「このお団子すごくおいしっ‥‥コホン」 店中の視線を感じた少女、拾は慌てて咳払いをした。お茶を注ぎに来た前掛けの少女に声を掛ける。 「そういえば今日はバレンタインですわね」 「‥‥バレンタイン? ですか」 少女は湯呑みに茶を注ぎながら、小首を傾げる。 「異国の風習ですわね。ご存じないですか?」 口を挟んだのは、近くに掛けていた女性だった。巫女袴に外套という軽装に、綾と竜三が目を丸くする。 「さっき、隣に居た方ですね」 「だな」 暗がりでは解らなかったが、質感豊かな胸が腕の上で猛烈な存在感を示している。綾は何となく気落ちし、さりげなく自分の胸を両腕で抱え込んだ。 そうとは知らず、未楡は説明を続けた。 「今年は、食べられるお猪口‥‥甘い飴細工のお猪口等も用意してみたんですよ」 竜三は素知らぬふりで、汁粉を掻き込み始める。 拾が、大きな目を輝かせて身を乗り出した。 「貴女は誰か『ちょこ』をおくる相手の方はいらっしゃいますの?」 「え、私ですか? ‥‥えへへ、いないことは、ないですけど‥‥」 少女は前掛けを両手で握りしめ、薄く頬を染めた。 「殿方も、気持ちが伝わった事を言葉にせず‥‥ただ手を握り返すだけで伝えられるので、気が楽みたいですよ?」 「え、手、繋いでくれるんですか? うーん、いいなあ、彼と手繋げたら‥‥」 夢見る乙女の目で、少女は天井を見上げた。 綾は頻りに目を泳がせ、竜三はほんのりと顔を赤くし、汁粉を啜っている。 ● 「どけよ、ガキ」 甘味処の前でリュートを弾いていたミシェルの肩を、四人組の男が突いた。 「何をするんだ」 体勢を崩しもせず、ミシェルの碧眼が男を見上げた。 「うるせえ、余所者がスカしてんじゃね」 ミシェルの顔を叩こうとした男の手の甲は、虚しく空を切った。 その手が地に着き、口から吐き出された胃液に塗れる。 「人の恋路を邪魔する奴は馬の代わりに俺が蹴ってあげるよ」 横手から文字通り「現れた」青年、千代田清顕(ia9802)がくぐもった声を掛けた。 手刀を打った右手で一尺六寸ほどの長煙管を手に取り、ミシェルの顔を見下ろす。 「怪我はないね」 ミシェルは、清顕の紫色の瞳を穴が開くほどに見つめた。 だがそのミシェルを押し退け、男の取り巻きが清顕に迫った。 「何だこの野郎、妙な術使いやがって。そんなもんでビビると思ってんのか」 白黒の襟巻きを背に流し、清顕は吸い込んだ煙を吐き出した。 「永徳の縄張りでやる気かい?」 「だから何だってんだ!」 「コケにされて黙ってると思うなよ!?」 「永徳なんざ、こちとら欠片も怖か‥‥」 凄んでいた男の膝が、ゆっくりと崩れた。 残る二人が、ぽかんと倒れた仲間を見下ろす。 「‥‥あら。静かになったわね。何だったのかしら」 店の片隅に座っていた女性、西光寺百合(ib2997)が、手の甲で口許を隠して含み笑いを漏らす。緑と黄色の振袖の襟を、鎖骨の端が見える程にまで抜いており、輝かんばかりの白い肌が店内の男達の目を奪っている。 紅緋色に塗られた唇を離れた白い指が、左手の扇子の裏でなまめかしく動く。その爪の先端から発せられた精霊力の煌めきが、格子窓から見える男の身体にまとわりついた。 男の身体が、ゆっくりと入り口の前にくずおれる。 「お嬢さん。お勘定、ここに置くわね」 小銭を置いた百合が暖簾をくぐった瞬間、集まった人々の視線が一斉に百合の首と胸元に集中した。その隙をつき、残る一人の鳩尾に「瞬風」を履いた膝の一撃が突き刺さる。 「騒がせてご免なさいね。仁兵衛さんの知り合いなの」 「さ、立った立った。ここじゃ店の邪魔になるよ」 蹴飛ばされ、眠り込んでいた男が目を覚ました。四人組はすごすごと立ち上がり、路地裏へと連行されていく。 清顕と百合が妙に満ち足りた顔で路地裏から出てくるのは、ミシェルの演奏が再開された数分後のことだった。 ● 「本当に、こっちに来るかしら」 「こないだ、この広場で告白‥‥ってほどでもないけど、してたからね。きっと来るさ」 呟いた清顕が、突如左手を百合の腰に、右手を背中に回した。その唇が、ゆっくりと百合の白い首筋へと寄っていく。 「ちょ‥‥!? フリだから‥‥っ。ここまでしなくてもいいんじゃ‥‥」 目を丸くした百合の頬が、見る見るうちに熱を帯びた。清顕の唇が白い首筋に触れるか触れないかの所を上がっていき、百合の顎から耳元へと近寄っていく。 「やばい。竜三達が真後ろにいる。近寄らせたら気付かれる」 清顕の声とともに、白く温かい吐息が百合の上気した耳にかかる。くすぐったさに百合は身を捩り、清顕の胸元に顔を埋めた。 「ごめ‥‥紅、付いちゃう‥‥」 「行ったかい」 顔を赤くして進行方向を逸らした竜三の長身を、清顕の肩越しに確認した百合は、清顕の背を軽く叩いた。 「‥‥ん、行った‥‥から」 まだ警戒を解いていない清顕は、百合の髪に顔を埋めるようにして視線を遠くへ飛ばした。 竜三と綾は、リュートを奏でる少年の傍の芝生に腰を下ろす。 「ちょ、いつまで‥‥」 「良し、良い所に座ってくれた」 清顕の右手が、百合の背で小さく鳴る。 少年、ミシェルの前には、拾が立っていた。 「あ、あの、あのっ、みっ、み」 しどろもどろの拾の顔は、早くも真っ赤になっていた。 「あら? あの子、ひょっとしてさっきの‥‥」 綾が呟き、竜三の肩越しに少女を見た。 ミシェルはリュートを弾く手を止めて微笑み、両手で拾の手を包み込んだ。 「冷え切ってるじゃないか。まだ、春は遠いよ?」 ミシェルは立ち上がると羽織っていたコートを脱ぎ、拾の肩に掛ける。 「あ‥‥暖かい‥‥」 「それで、どうしたの? そんなに慌てて」 「‥‥あ、でもでも、ミシェルさんがっ」 「いいさ。それで?」 促され、拾は大切そうにコートの前を内側から掻き合わせ、深呼吸を繰り返した。 「今日、おたんじょう日だって聞いたし、バレンタインデーだし、それで‥‥」 拾は震える手で、ポケットから黒い猪口を取り出した。 小さな両手に捧げ持ち、勢いよく差し出す。 「あなたがすっ‥‥す、すきですっ! 私のおもいを、うけとってくださいっ」 綾と竜三は、思わず顔を見合わせた。 ミシェルの細い手がすっと伸び、差し出された猪口を取ると、ふっくらとした唇がそっと猪口に触れた。 「ありがとう」 リュートを小脇に抱え、ミシェルは大切そうに猪口を懐にしまった。その手が拾の小さな手を取り、指を互い違いに組み合わせるように繋ぎ、隣に座らせる。 拾の帽子の下にそっと顔を止せ、彼女だけに聞こえるよう何かを囁く度に、拾は恥じらいながらも嬉しそうに頷いている。 綾が、隣を歩く竜三の服の裾を握った。 「あ、あの」 流石に一日掛けて延々と話を聞かされれば、鈍い竜三でも気付く。竜三は赤く強張った顔で、普段の猫背が嘘のように直立不動になった。 「い、いつも、あの、色々付き合ってくれて、ありがとうございます」 言葉を切った途端、綾は石像になったかのように動かなくなってしまった。 気まずい沈黙が漂った。 (‥‥話、終わっちゃったよ) 茂みの陰に潜んでいたアーニーが、呆れかえる。 毛皮の外套を羽織った未楡が、折れた大根を胸に抱き、口の中で呟いた。 その背後には、アーニーに宝珠銃「皇帝」の銃口を眉間に突きつけられ、涙目の男が座っていた。 「あ、静かにしててね? これだけで金になる美味しい仕事なんだから」 アーニーは笑顔で男の肩を叩く。長ドスを持ちながら未楡の大根一本に敗北した男は、必死に頷いた。 「大丈夫かしら‥‥」 未楡は心配そうに広場の端の方角を見ている。 長い沈黙を挟み、綾がおずおずと口を開いた。 「今日、バレンタインデーで、私、猪口買ってきてて」 綾は、風呂敷包みの中から、赤と黒の猪口一対を取り出した。 ミシェルと拾の握り合った手に、汗が噴き出す。 (拾さん‥‥あれは、夫婦用のじゃないのか?) (は、早いっ!? それは早いですっ、綾さんっ) 上目遣いで竜三の顔を見ながら、綾は両手で猪口を差し出している。 「い、いつか、ひひ‥‥必要に‥‥ならないかも、だけど‥‥」 (千代田さん! 綾さんがこんなに積極的なんて、聞いてないわよ!) (俺だって聞いてないよ!) (何とかできないの? 影舞とか!) (無茶だよ! 今片方無くなったら、いくら何でもおかしいって!) 清顕と百合が、抱き合った姿勢のまま青い顔で囁き合っている。 (計算外でしたわね‥‥) (まあプレゼント受け取らなくても、手さえ繋げばいーんだよね? 依頼としてはさ) アーニーと未楡は、渋い顔をしている。 果たして竜三の長い指は、おずおずと猪口を受け取った。 「そ、その‥‥良かったら、今度、ボロ家だけど、家で酒飲もうか」 「‥‥はい!」 竜三は両袖の隠しに猪口を一つずつ入れ、決まり悪そうに赤くなった首筋を掻く。 暫しの沈黙の後、綾の手が僅かに竜三の手に近寄った。竜三の大きな手が、少しずつその手に近寄っていく。 (繋いだかい) (もう少しですっ! 竜三さん、がんばってっ) ミシェルと拾が手を握り合い、二人の手の行方に意識を集中する。 二人の小指同士が、僅かに触れあった。綾も竜三も、そのまま動かない。 焦れったくなるほどの時間を経て、竜三が口を開いた。 「お、遅くなると心配掛けるし、送っていく」 竜三の大きな手が、綾の手を掴んだ。綾はすがるようにして立ち上がり、まるで酔っぱらいのようにふらふらと、竜三についていった。 夕暮れの広場を去る二人を見送り、ミシェルと拾、清顕と百合が姿を現した。 「‥‥こういう依頼なら、母様も喜んでくれるかな」 四人はアーニーと未楡の元へ集まり、安堵の溜息をつきあった。 「依頼完了ね」 「初々しくて微笑ましい方々でしたね」 未楡と百合が笑い合う。 百合と寄り添うように立っている清顕は、食いつくような、熱の籠もった視線を感じて首を傾げた。 「‥‥ん? 俺の顔に何かついているかい」 「な、なんでもない。ぼうっとしただけだ」 視線の主、ミシェルはすぐにそっぽを向く。 「‥‥あのう」 遠慮がちな声が、地面の辺りから発せられる。 アーニーに銃口を突きつけられた男だった。 「そろそろ銃を‥‥」 「あ、悪り」 笑って銃口を引いたアーニーに代わり、百合が男の前に立った。 「瀧華の人なのね。邪魔しにきたの?」 「は、はあ‥‥うげッ!」 男は白目を剥いて奇声を発した。その股間に、百合のヒールが突き刺さっている。 百合の細い足が、回転を加えながら男の急所を踏みにじる。 「昔から言うでしょ? 人の恋路を邪魔する奴は‥‥馬に蹴られて、し・ん・で・し・ま・え」 押し殺した悲鳴が、広場に響き渡って消えていった。 |