女侠客、敵を頼る
マスター名:村木 采
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: やや難
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/12/20 22:28



■オープニング本文

「岸田仁兵衛だな」
 侠客集団、永徳一家の参謀である仁兵衛は、暗がりから声を掛けられた。
「知らないねえ」
 仁兵衛は狐の尾をふわりと動かして答える。
「惚けるか」
「知らないもんは知らないねえ」
「知らないにしては肝の据わった答えだな」
 刀の鯉口を切る音が、暗がりから響く。この三倉の町を二分して争う侠客集団、瀧華一家の手の者だろう。
「怖い怖い」
 低く笑うと仁兵衛は地を蹴り、軽々と板葺きの屋根に飛び乗った。
 空に浮かぶ満月をちらりと見ながら、鼻で笑う。
「老いたりと言えどこの仁兵衛、三下に捕まるようなヘマはしねえよ」
 仁兵衛の姿が、夜闇に消えた。
「早駆だ」
「逃がすな」
 散開する男達の叫び声は夜の町の喧噪に紛れ、小さな雲が満月を隠す夜空へと消えていく。
「‥‥いらっしゃい」
 しゃがれた声が、店内に響いた。
「お久しぶり。外が騒がしいね」
「全くだ。物騒だねえ」
 笑顔で答えたのは、仁兵衛だった。遠くへ逃げたように見せかけ、すぐ近くの居酒屋に入っていたのだ。
 混み合った店内をぐるりと見回して眉をひそめた仁兵衛の視線が、店主の視線と交錯する。
「いつものをもらおうかねえ。熱くなくていいからね、すぐに出しておくれ」
「あいよ。熱くないのを、すぐね」
「頼んだよ」
 窓際に空いていた席に腰掛けた仁兵衛は、ついさっきまで命を狙われていた事が嘘のように欠伸を漏らす。
 その彼に、数カ所口紅の付いた猪口が差し出された。
「出てくるまで、どうだい」
 食器に移りやすい艶紅は、尋常ではなく高価だ。仁兵衛はちらりとその手の主を見た。
 紅の引かれた、厚めの唇が妖艶な女だった。さらしも巻かない着流し姿だ。今にも豊かな胸が襟から覗きそうになっている。
「お嬢さん、見ない顔だね」
「鮮やかだったねえ」
 女の唇の両端がふわりと持ち上がる。
「何がですかい」
「惚けなくたっていいさ。瀧華の衆を撒いた手際の話だよ」
 手を伸ばさない仁兵衛に拘らず、女は自ら猪口を空けた。
「どうやってご覧になったんで」
「こう見えて、目が良いんでねえ」
 女は手酌で猪口に酒を注ぐ。
 それで徳利が空いたようだった。女は手を上げて店主を呼ぶ。
「もう一本。冷やでね」
「あいよ。へい仁兵衛さん」
 店主が、燗徳利を仁兵衛の前に置く。
「燗かい。あたしにもちょいとおくれよ」
 仁兵衛は黙って燗徳利を女に差し出した。女は屈託無い笑顔で猪口に酒を受ける。
「おっとっと‥‥もう結構結構」
 女はさも嬉しそうに、紅のついた猪口を口に運んだ。
 きつく目を閉じ、大きく息を吐く。
「くぅ、濃厚だねぇ。醇酒ってやつかい」
 仁兵衛は、手酌で自分の杯に酒を注いだ。
「何の用ですかい、お嬢さん」
 女は流し目で仁兵衛を見て、口角を上げた。
「あたしは、まそお。真の朱と書いて、真朱」
「真朱色の真朱ですかい」
「表向き、瀧華の女郎屋の総元締めでね」
 仁兵衛の言葉には答えず、真朱は続ける。
「女郎やってりゃ、病む奴なんざ幾らでも出てくる。身も、心もね。そういう連中を預かって治してやるのが、あたしの仕事」
 仁兵衛は無表情に酒を舐めた。
「もっとも、琢郎親分も参謀の影政も、そんな所にゃ見向きもしないがね」
「‥…お嬢さんが、自腹でやってんのかい」
「言ったろ。元締めなんだよ。撥ねた上前をそっちに回してんのさ」
 笑う真朱は、どこか寂しげだった。
 仁兵衛は杯を空け、店主の運んできた焼き魚を突き始める。
「そのあんたが、何の御用ですかい」
「身請けって知ってるかい」
 仁兵衛は頷いた。客が気に入った女郎や花魁の借金などを肩代わりし、妻、或いは愛人として引き取る制度だ。
「うちの女郎を身請けしたいって商人がいてね」
「良い事じゃあねえんですかい。まああたしは籠の中の鳥が必ずしも幸せだとは思わねえが」
「ただの身請けならねえ」
 意味ありげに真朱は言い、魚の唐揚げを頬張った。
「というと」
「その商人、この間もうちの女郎を身請けしたんだがね。それきり、その子を見たって奴がいないのさ」
 二人は黙り込むと、酒を呷り、肴をつつき続けた。
 いらっしゃい、という店主の言葉が聞こえて来る。入ってきたのは、長身痩躯の男だ。
 やがて仁兵衛が沈黙を破った。
「ただの女郎なら、居なくなれば捜すかも知れねえが‥‥」
「身請けされた女郎なら、居なくなっても誰も気にしないねえ。このあたし以外は」
 真朱の目は、笑っていなかった。
「わざわざ大金を積んで身請けをして、殺す意味があるんですかい」
「陰陽師絡みと、あたしは見てる」
 真朱は猪口を傾ける。
「理由は」
「その野郎が陰陽師だから」
「それだけですかい」
「ま、女の勘さ」
 言い、真朱は胸の谷間から、符を取り出して見せた。
「あたしら陰陽師ってのぁ、瘴気や怨念、負の心の働きを、式にする。身請けした女郎を殺すかなぶるかして、怨念を集めてるんじゃねえか、ってね」
 仁兵衛は杯に映った自分の姿を見た。
「‥‥何でそれをあたしに」
「それも言ったろ。親分をはじめ、瀧華の衆はこの話に興味が無いんでね」
 真朱は肩を竦めた。
「だがあんたら永徳の衆は、義に篤いと聞いた」
「いやだと言ったら」
「ここであんたが死ぬだけさ。あたしの裏の仕事としちゃ、願ってもない機会だからね」
 真朱は赤い唇をにっと吊り上げる。
「邪魔者を闇に葬るのが、お嬢さんの本業ってわけですかい」
 突如、仁兵衛の肩が震え出した。
「さっきの連中も、お嬢さんの手の者ってわけだ‥‥くっくっ‥‥」
 仁兵衛は、声を殺して笑っていた。
「何かおかしいかい」
「おかしいねえ‥‥なかなか冗談がきいてるよ、『お嬢さん』」
 笑いを堪えながら酒を飲もうとし、仁兵衛は軽くむせた。
「試してみるかい。老いぼれたあんたが、あたしに勝てるかどうか」
 真朱が僅かに気色ばむ。仁兵衛は左手で軽く胸を叩きながら、空いた右手を小さく振った。
「いやいや‥‥くっくっ、二対一で勝てるなら、やってごらんなせえ」
 真朱が弾かれるようにして振り向き、目を瞠った。
 先刻店に入ってきた長身痩躯の男が、いつの間にか背後に立っている。
「竜三、悪かったねえ」
「仁兵衛さんに呼ばれれば、いつでも」
 竜三の名を聞いて、真朱が舌打ちを漏らす。竜三と言えば、三倉随一の泰拳士と評判の男だ。
「いつの間に呼んだんだい」
 仁兵衛は呼吸を整え、再び酒を舐めた。
「いつもの、で始まる店主とのやり取りねえ、ありゃあ符牒なんだよ。命を狙われた後で見ねえ顔がありゃ、警戒もするさ」
「食えない野郎だね」
 真朱は舌打ちを漏らした。
「‥‥店に迷惑掛けたくないんでね、勘定済ませて良いかい」
 仁兵衛は余裕の表情で掌を見せた。真朱はため息をついて立ち上がり、ゆっくりと懐から小銭を掴み出して机に置く。
「で、あたしは尻尾巻いて退散してもいいのかい。それともこの命、ここまでかい」
 仁兵衛は肩を竦めた。
「帰んのぁ勝手だがね、その野郎の名前と屋敷は教えといておくんなさいよ」


■参加者一覧
宿奈 芳純(ia9695
25歳・男・陰
リン・ヴィタメール(ib0231
21歳・女・吟
明王院 浄炎(ib0347
45歳・男・泰
リア・コーンウォール(ib2667
20歳・女・騎
西光寺 百合(ib2997
27歳・女・魔
ルー(ib4431
19歳・女・志


■リプレイ本文


「夜幻扇たあ、洒落てるねえ」
 鳥の羽を要で留め、銀粉を鏤めた扇を、真朱はふわりと動かした。僅かに剥がれ落ちた銀粉が、冬の陽射しに輝きながら風にさらわれていく。
「今度ウチで遊んでいくかい。大抵の女郎は参っちまうよ」
「お気持ちだけ頂いておきましょう」
 烏帽子を含めると八尺半にも達する巨漢の陰陽師、宿奈芳純(ia9695)は、自分の腹ほどの高さにある真朱の顔を見て、曖昧に微笑んだ。
 その背中に、声が掛けられる。
「宿奈殿」
 頬に向こう傷の入った身の丈七尺の巨漢、明王院浄炎(ib0347)だ。雑踏の中から頭一つ以上飛び抜けた二人は、余程の距離があっても互いを容易に視認できる。
「明王院さん。どうでした」
 頭に巻いた鉢巻を取り、浄炎は憂鬱そうに首を振った。
「やはり、家の中に女性がいるのを見た事がないと」
「家の中に籠もっている、というのではないのですね」
「それでも、近所の人間が顔くらいは見るであろう」
 浄炎の表情は厳しい。芳純の端正な顔に、悲痛な陰が落ちる。
「そちらはどうだ」
「既にあの屋敷を手がけた棟梁は、天寿を全うされたそうです。図面はあの商人のたっての望みで残していないとか」
 芳純は力無く首を振った。
「そうか。‥‥口封じとまでは言わぬが、しかし隠し部屋の信憑性は高まったな」
 浄炎は呟き、空を仰いだ。
「願わくば‥‥失踪した娘御の心身が無事であらんことを」


「‥‥ちょっと右向いてな‥‥もう少し」
「これくらい?」
「ん。やっぱ元がお綺麗やから、仕上がりも期待できそう」
「もう。リンさん、口もお上手ね」
 腰にフロストフルートを挿したリン・ヴィタメール(ib0231)が、行儀良く椅子に腰掛けた西光寺百合(ib2997)の頬に桃染色の頬紅をつけ、更に上から白粉を重ねる。
 リンの黒い瞳が、ちらりと真朱を見た。
「真朱はんって、どうして‥‥」
「今、戻った」
 襖が開いた。
 羽織袴に行李を背負い、女商人に扮したリア・コーンウォール(ib2667)とルー(ib4431)だった。百合と真朱もだが、この二人もまた、紋付の中で質感のある胸が、これでもかと存在感を誇示している。
「どうだったい」
「あの商人が人を入れない部屋が、確かにあるそうです」
 韓紅の髪を簡素に後ろでまとめたルーは、襖の傍にぺたりと腰を下ろす。
 リアは、茜色の髪に乗っていた網代笠を壁に立てかけ、その隣に座った。
「気になった事が一つ。蝋燭、油、紙、炭‥‥日用品の類をまとめ買いしていたが、化粧品や小物、櫛、簪‥‥女物には、何一つ見向きもしない」
「家に、女の気配はないんだね」
「浄炎殿の情報通りだ。小間使いに男を二人、後は商人と護衛だけ」
 真朱の長い指が、尖った顎を摘む。
「‥‥ああそうだ、リア。用意してくれた化粧品の金、あんたの荷物に入れといたよ」
「いや、真朱殿。あれは私が自腹で‥‥」
 リアが首を振る。と、リンが華やいだ声を上げた。
「できあがり。ほんにべっぴんさんやん♪ ‥‥真朱はんどうどす?」
 聞かれて振り向いた真朱は、目をまん丸にした。
「へえ、やるじゃないか。素材も良いが、あんたの腕も大したもんだ」
 完璧としか言い様のない化粧を施された百合は、袖の袂でそっと口元を隠して笑って見せる。
「こんな感じかしら」
「いいねえ。こりゃ、大成功間違い無しだ」
 真朱は、さも愉快そうに笑った。


「これは、真朱さん」
 貼り付けた笑みで、護衛のサムライが一同を迎えた。
「今日はどんな御用で?」
「こないだの石蕗に続いて、また一人身請けしてくれるんだ。礼に、宴の一つも開こうかと思ってね」
 酒瓶の入った木箱を持ったまま、真朱は後ろに控えた女性四人組を紹介した。
「楽士に芸妓。こっちの二人は、あたしの護衛だ」
 護衛のサムライ達は、背後に控えた四人を見て、思わず息を呑む。
「これはまた、いずれ劣らぬ綺麗どころを‥‥しかし今生憎と、主人が留守で」
「リン、ちょっとあんたの腕を見せておあげよ」
「よろしゅおす。ほな‥‥」
 真朱に促され、リンは玄関の上がりかまちにそっと腰掛けた。、深紫の髪に差した真珠の簪が揺れ、ちりちりと音を立てる。
 三味線が、時に硬く、時に柔らかく、温もりを秘めた音色を発し始めた。
 ニ、ホ、ト、イ、ハの五音から成る天儀風の音曲を耳にするや、護衛達が、百合の顔をちらちらと窺い出す。百合は艶紅が引かれ潤いを帯びた唇で、あでやかに微笑んで見せる。
 護衛達は、息と共に生唾を呑み込んだ。
「ほな、フルートでもう一曲‥‥」
「いやいやいや! そんな、勿体ないお話を。十二分です」
 護衛達は三和土に飛び降り、五人を中へと押し上げるかのようにして誘う。真朱はそれに逆らわず、廊下へと上がった。
「高村屋はいつ頃帰るんだい」
「夜には帰ります! それまで、奥座敷でおくつろぎを‥‥」


 深夜。
 リンの三味線から流れ出す「夜の子守唄」が、ふと止んだ。
「‥‥あらあら。お酒が過ぎたかしら?」
 サムライ達は、大鼾をかきながら熟睡していた。百合が袂の陰で笑うと、彼らの両親指を背中で縛りあげる。
「‥‥いい子で眠っていてね?」
「大したことおへんな」
「まあ、酔った上にセイドが入って、しかも夜の子守歌じゃ、ね」
 リンとリアが便乗し、手際良く侍達に猿ぐつわを噛ませ始めた。
 廊下に上がった芳純は、風霊面の中から廊下を見回した。
「数度に分けて人魂で中を調べましたが‥‥中部屋にだけ、生活の気配がありません」
 前髪を払い、芳純が廊下の一点を指差す。
「芳純も怪しいと思った?」
 言ったのは、奥座敷から出てきたルーだった。
「ルーさんもですか」
「手洗いに立った時に、ね。仕掛けは見つけられなかったけど‥‥そこの床の間だと思う」
「ふむ」
 八尺棍を抱え、浄炎が中部屋の鴨居を潜った。
 殺風景な部屋だった。何もない。ただ床の間に、掛け軸が掛けられているだけだ。
 ルーが浄炎の後ろから、畳を指差す。
「見て。襖から床の間まで続く畳と、それ以外の畳。埃の積もり具合が、違うでしょ」
 浄炎は根を握り、渾身の力で床を突いた。
 根は派手な音を立てて床板を突き破り、その下の空間へと続く風穴を開ける。
「い、いきなり穴開ける? 普通?」
「厚さ、五寸ほどか」
 浄炎は穴の底を覗き込み、そして人差し指を穴の入り口に当てる。
「風は通っていない。この先は、縁の下ではないな」
 ルーの表情が、真剣味を帯びた。
「‥‥皆、呼んでくる。開け方、調べといて」
 言い残し、部屋を飛び出していく。
「血の臭いと‥‥腐臭ですね」
 ルーと入れ違いに入ってきた芳純が、風霊面を外して床の間で鼻を動かした。
 その時だった。
「誰だ!」
 怒鳴り声が、廊下に響いた。その声に、
「誰だ、とはご挨拶だね、高村屋」
 真朱の声が答える。
「‥‥? ま、真朱さん?」
 高村と呼ばれた商人が、護衛として連れていた三人のサムライを制した。
 奥座敷から、真朱が四人の女開拓者を連れて現れた。
「邪魔してるよ」
「い、一体何の御用で?」
「石蕗はどこだい?」
 高村の質問には答えず、真朱の視線が高村の目を射抜いた。
「つ、つわ、石蕗は‥‥今、体調を崩して‥‥そう、実家へ‥‥」
「そうかい。それじゃこの、中部屋なんだがね」
 商人の顔が強張る。
「そこは‥‥」
「ちょっと来て、見てごらんよ」
 真朱が、高村の胸ぐらを掴んで中部屋にその頭を押し込む。
 高村は、床の間を見て息を呑んだ。
「あの穴、一体どこに通じてんだい」
「‥‥え、縁の下ですよ、決まってるじゃないですか」
「じゃこの臭いは何だい」
「ね、鼠か何かが、下で死んでるんじゃあ‥‥」
「へえ、そうかい」
 真朱は、氷の微笑を浮かべた。高村の耳に唇を寄せ、囁く。
「ぶっ殺してやるよ」
 真朱が、荒っぽく高村を突き飛ばした。
 廊下に尻餅をついた高村が、懐から符を取り出す。
「‥‥こ、殺せ! こいつらも、お前達の好きにしろ! 符の材料にしてやれ!」
 高村の叫びで、サムライ三人は刀を抜いた。
 その中の一人が襖を蹴り開け、刀を振る広さを確保する。
「出会え! 皆、出会え!」
「お生憎様」
 百合が、濡羽色の髪を掻き上げながら笑った。
「おサムライさん達なら、もうお休みよ」
 芳純の手から煙となって流れ落ちた符が蛇のように廊下を滑り抜ける。
 高村が振り向いた時には、煙が風船の様に膨れあがり、純白の壁を形成していた。
「逃げ道を!」
「解っている!」
 一人のサムライが座敷から表店の間に走り、通りに面した雨戸を切り払おうとする。
 高い炸裂音と共に、屋敷の空気を火線が灼き切った。
「?」
 サムライは胸を押さえ、呆然と横を見た。
 先刻まで廊下に居たはずのルーが、僅かな砂煙と共に、表店の間の三和土に片膝をついている。
「それが誰かの籠の中だとしても、女郎の人生から新しい人生に踏み出せたかもしれないのに」
 その右手の宝珠銃「皇帝」の銃口からは、白煙ならぬ精霊力の残渣が飛散している。
「人の道を外れた実験の為に‥‥」
 胸から血を噴き出し、サムライは三和土に倒れ伏した。
「このアマども!」
 廊下で高村の前に立ったサムライが横薙ぎに払った刀が、受け止めようとしたリアのロングソードに触れることなく空過する。
「貰った!」
 返すサムライの刀が、リアの首を狙う。空振りの一太刀目を囮にした必殺の一撃だったが、しかしその刀身はリアの白い首の遙か前で停止した。
「何をだ」
 野太刀を扱うサムライの如く、リアは右手で柄の根元を、手甲に覆われた左手で刀身の鍔元を握り、長剣を短く扱っていた。
 サムライの肩口から噴水の如く血が噴き上がる。
 その攻防の隙をつき、高村と残るサムライが座敷を抜けようと試みる。
 屋敷中が、家鳴りのような音を立てて軋んだ。高村とサムライがたたらを踏み、辛うじて転倒を免れる。
「逃がさぬ」
 八尺棍を構えて仁王立ちになった浄炎だった。崩震脚だ。
「高村様、お逃げを!」
 サムライが、袈裟懸けに浄炎に斬り込んだ。
 棍が、滑るような動きで剣閃を逸らす。刀の切っ先は、あっさりと畳に食い込んだ。
 その柄を握っている者は、誰もいない。
 剣閃を逸らした勢いそのままに、雷同烈虎の下端がサムライの身体を吹っ飛ばしていた。サムライは襖を破って土壁に激突し、身悶えする。
 その間に雨戸を体当たりで破ろうとした高村の膝が、突如として崩れた。
「‥‥?」
 高村が、勢いよく振り向いた。襖の縁が、巨人の指で抉り取ったかのように削れている。
 百合の構えた扇子の上に、とても物理的には乗るはずの無い、人頭大の岩が乗っていた。そしてそれと同じ物が、三和土に深々とめり込んでいる。
 ようやく、高村は自分の右膝に走る灼熱感に気付いた。百合のストーンアタックが、高村の右膝の一部を削り取っていったのだ。
「真朱はん」
 暗い顔で、リンが中部屋から出てきた。
 その手には、一本の玉簪が握られていた。
「下‥‥きぎゃりい拷問室になっとって。これに見覚え、あらはる?」
 真朱は黙って簪を受け取り、左手に握り締めた。
 空いた右手で、夜幻扇を取り出す。
「真朱さん」
 芳純の手から放たれた符が、皮肉にも地下室から溢れ出す瘴気を吸い込みながら、神々しくも禍々しい、九尾の白狐へと変化した。
「‥‥あんたも、白狐を使うのかい」
 真朱は唇の端を吊り上げ、左手に握った簪を右手に突き刺した。
「まさか、外法を使う日が来るとは思わなかったよ」
 真朱の右手から流れ出した血が瘴気となって蒸発し、夜幻扇へと集まり出した。芳純が、思わず絶句する。
「血の契約。雑魚をなぶる趣味は無いんでね」
 外法の一種。自らの生命力を瘴気に変え、式の能力を高める術だ。
 次の瞬間、芳純の生み出した白狐の隣に、もう一頭の白狐が誕生していた。
「殺ろうか。芳純」
 がちがちと奥歯を鳴らし、失禁しながら後退る高村を、真朱の細い指が差した。
「許して‥‥助けて」
「石蕗も、そう言わなかったかい? あんたはそれをどうした」
「止めて、下さい‥‥」
「ほら、これが欲しいんだろ? 瘴気がさ。ええ、おい?」
 真朱の双眸が火を噴いた。
「その身で、とくと味わいやがれ!」


 夜霧が辺りを覆っている。
 真朱は小川に掛かる橋から足を投げ出し、座っていた。その手に、一本の丸簪が握られている。
「ここ、いいですかい」
 真朱は振り向かず、また答えない。
「百合さんからの贈りもんだ」
 仁兵衛だった。風呂敷包みが、真朱の隣に置かれる。
「薬はあって困るものじゃないでしょうから、だそうで」
「そうかい」
 真朱は、唇を殆ど動かさずに喋っていた。
 仁兵衛が、五尺の距離を置いて真朱に並び、腰を下ろす。
「石蕗さんて方ですがね」
 時が止まったかのように、二人が動かなくなる。
「あんたの従姉妹だとか」
「さてね」
「真朱はんは、女郎を治してあげたかったんやないか。リンさんがそう仰ってねえ」
 仁兵衛は、細く長く、白い息を吐いた。
「あの方も悲しい過去をお持ちのようで。近しく感じるんだと」
 小川の流れる音が、夜霧の中を満たす。
「石蕗の父親はね」
 ぽつりと、真朱は口を開いた。
「とんだ糞野郎だった」
 寒さに凍え、魚も跳ねない。小川は、静かに流れ続けている。
「先代の元締めさ。石蕗は奴の私生児なんだ。あの野郎、自分の子供だと最後まで認めず、石蕗を女郎屋に売り払いやがった。母親を騙してね」
 仁兵衛は、黙って水面を見つめていた。
「奴を半殺しにして、証文を奪い取ったさ。だが手遅れだったんだよ」
 真朱の声は、ひたすらに平坦だ。
「そんな方法で女郎屋に売り飛ばされてきた奴は幾らでもいる。一人逃がしたら、そいつらも皆逃がさなきゃいけない」
「それで女郎を、従姉妹を助けるために、元締めになったってわけですかい」
 真朱は、従姉妹という言葉を肯定も否定もせず、丸簪を見つめた。
「そのあたしが、よりにもよって、石蕗を地獄に送っちまった。とんだお笑いぐさだよ」
 真朱の細い足が、川面の上でゆらゆらと揺れる。
 仁兵衛は静かに、夜霧の中へ立ち上がった。
「真朱さん、あんた、永徳に来ねえかい。女郎屋も、女郎も、皆永徳で引き受ける」
「それ以上言うと、殺すよ」
 真朱は振り向かず、懐から夜幻扇を取り出した。
 仁兵衛は、真朱のうなじを黙って見下ろす。
「あんたがあたしをお嬢さんと呼ばなかった理由も、解るつもりさ」
 黒い川面を睨みながら、真朱は続けた。
「だが、あたしは瀧華の祟り狐、真朱だ。琢郎親分にも、縄張りの皆にも、恩もありゃあ縁もある。それを裏切れるわけがねえだろう」
 仁兵衛が、ふと辺りを見回した。
 夜霧が、微かに薄くなり始めた。風が出てきたのだ。
 微風が、湿った真朱の黒髪を僅かに揺らす。
 真朱は夜幻扇で顔を隠し、ぽつりと呟いた。
「もう、一人にしとくれよ。何も言わずに。一人にさ」
 呼吸一つの間を置き、仁兵衛の姿がゆっくりと夜霧の中へ薄まり、消えていった。
 霧の中、雫が一滴、川へ落ちた。