【妖精】夢は褪せても
マスター名:みずきのぞみ
シナリオ形態: ショート
危険
難易度: 易しい
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/12/19 19:29



■オープニング本文

「お琴さん、この度は…。でも勿体無い。何も店をたたむだなんて…」
「なぁに、前々から決めていたことさ。どちらかが先に死んだら、この店はたたもうって」
 こじんまりとした古い食料品屋の店内に佇む老婆は、がらがらになった棚を見ながらいつもの明るい笑顔で笑う。大きな通りから一本内に入った雑多な町並みの中、その店はあった。
 『渡来屋』(わたらいや)とかつて掛けられていた木札も今は外されて、白い木目を寒風にさらしている。
「店やめて、どうするんだい」
「孫夫婦がね、一緒に住もうって言ってくれてね」
「そりゃあいい!…寂しくなるけど、達者で居ておくれよ」
 なじみの料亭の板前がしみじみと頷く。
 夫を亡くしたお琴が生きる張り合いをなくしてしまわないかと心配したが、孫やひ孫に囲まれて暮らすのなら、それがいいと大賛成である。
「そうさね」
 お琴は、それだけを言って、皺だらけの手を擦りながら静かに微笑んだ。


 泰、ジルベリア、アル=カマルから商隊が運んでくる食糧品を仕入れ、買出しにくる行商や料亭に卸し生計をたてるささやかな暮らし。
 天儀にはない、独特の香りと空気を纏った香料や保存食、装飾品。最初はどう扱うのか分からずにダメにしたものもあったが、いい思い出である。
 最近では天儀での商品の流通も多くなり、以前ほどには捌く品数も多くはなくなった。
 それでも、行ったことのない、味わったことのない外の世界を教えてくれるこの商いが好きだった。
 いつか、年老いた二人して、商隊にくっついてよその儀に行こうと夢ばかり語っていたのだが、お琴を残して、夫は先に病で逝ってしまった。
 約束どおり、惜しまれながらも店をたたむ段取りを進めている。
「約束だものねぇ」
 誰が作ったのかわからない真鍮製の鍵を手に取り、位牌に向き合う。
 雪が降リ始める中、アヤカシから追われて無一文で村を出てきたお琴と夫が偶然、背に腹は変えられず、寒さしのぎに空き家を拝借しようとしたのがこの店だった。
 がらんとした店にあったのは、たったひとつの卓と、その上に古い書き付けを押さえるように置かれた真鍮の鍵。
『雪が降る夜、この鍵を見つけたのなら、きっとこの店に縁のある者になれます。この店をお使いください。』
 短い文章のあと、ずらずらと書き連ねられた色々な書体の大小入り混じった沢山の名前。申し送りのように代々の所有者が己の名を書いたものなのだろう。
 そして、お琴たちはこの店で慣れない商いを始めたのだった。
(もうすぐ、雪が降る日が来る…今がそのときなんだろう。よくできたもんさね)
 夫と共に、他の儀を訪れることは叶わなかったけれど、夢は十分に見ることができた。次はまた誰かの夢のために、この店を使ってもらいたい。
 あの時、自分達が店を見つけた時と同じように、お琴は準備をするつもりだ。
 綺麗に片付けて、チリひとつ落とさず。
 がらんどうなのに、ほんの少し前まで誰かが居たように温かなぬくもりを感じさせる。
――――誰かの生きていこうとする糧となりますように。
 いい人に店と鍵を見つけてもらえるといいのだけれど。
「…さて、商品の残りはご近所さまにでも貰ってもらおうか」
 お琴は鍵を懐へ仕舞って、外へ出る。
 すると、すっかり冷え込んできた路地をきょろきょろと何か探している女の子がいる。
「妖精さん……どこにいるのかなぁ?」
 見覚えがある気がする女の子が、桶をひっくり返したり、庇の上を覗いたり。聞けば白い妖精とやらを探しており、見つけるといいことがあるのだそうだ。
 見つけたら教えてね!と元気よく手を振って、また女の子は妖精探しに戻っていった。
「妖精、ねぇ。可愛らしいこと」
 つられて笑みながらしばらく歩いて考えていたが、お琴にもはたと案が浮かんだ。
「少しくらい、試してみようかね」
 書き付けと鍵と一緒に、小さな砂糖をひとつ置こう、と思った。
 真っ白で、薔薇を形どったものがいい。アル=カマルから伝わったあの苦い珈琲に入れる甘い砂糖。確か前に仕入れたものがまだ残っている。
 何の根拠もないけれど、それが無くなれば妖精がきてくれたしるし。
 そしてきっとそのあとよい出会いに導いてくれそうな気がしたのだ。
「雪が降り出す前に急いで片付けないと、妖精さんにも来てもらえないねぇ」


 翌日、ギルドにて。
 妖精探しの依頼が貼り出されているのを眺めつつ、店の片付けを手伝ってくれるよう、依頼の出し方を受付係に尋ねるお琴の姿があった。



■参加者一覧
玖堂 柚李葉(ia0859
20歳・女・巫
日御碕・かがり(ia9519
18歳・女・志
ラヴィ・ダリエ(ia9738
15歳・女・巫
フェンリエッタ(ib0018
18歳・女・シ
デニム・ベルマン(ib0113
19歳・男・騎
繊月 朔(ib3416
15歳・女・巫
フォルカ(ib4243
26歳・男・吟
シータル・ラートリー(ib4533
13歳・女・サ


■リプレイ本文

●夢の儀を持ち寄りて
 古く深い時間の色に染まった柱。傷のひとつ、磨り減った桟ひとつ。
 それらに気づいては、お琴の掃除の手が止まる。店じまいと知らずに訪ねてくる客も減ってきた。
「…約束どおり、そろそろ時間だね?」
 天井を仰いで無き夫に聞くと、腰を叩いてのばした。
 すると、店の表のほうで賑やかな声がする。
「お琴さま、お琴さまはいらっしゃいませんか?」
 赤い花を抱えたラヴィ(ia9738)が背伸びをしてぴょこりと硝子窓から店内を覗く。お琴が近づいていくと、いらっしゃる?見えます?と華やいだ女性達の声と窓越しに見える背の高い男性達の影。
 お琴が扉を開けると、寒風の中、八人の若者が店前に集まっていた。手に手に荷物を抱えながら。
「お片づけ手伝いに来ました」
 佐伯 柚李葉(ia0859)が両手をそろえてペコリと頭を下げる。
「今回は、お招きいただきまして、ありがとうございますわ♪」
続いてにっこりと挨拶したのはシータル・ラートリー(ib4533)。その友人の日御碕・かがり(ia9519)も満面の笑みで挨拶する。
「志士の日御碕・かがりといいます、よろしくお願いいたします」
「…開拓者の方達…かい? 本当に?」
「はい、お琴さん、今までお疲れ様ですっ。最後は楽しく…ですね」
 いたずらっぽく笑って、繊月 朔(ib3416)が両手を組む。
「終わりは始まりといいますし、大切な日にご一緒できるご縁にも感謝です」
 フェンリエッタ(ib0018)が胸に手をあててほわりと微笑む。
「まあまあ、愛くるしいお嬢さん方だこと。それに、男の方も?」
 お琴は初めての依頼であったが、開拓者たちがこんなに真面目に接してくれるとは予想外であったようだ。
 デニム(ib0113)とフォルカ(ib4243)は、嬉しそうに目を細めるそのお琴の言葉に顔を見合わせてから向き直る。
「レディの望みを叶えるのは騎士の誉れ。頑張ります」
「重いものは任せてくれれば。ただお嬢さん方の方が力持ちかもしれないが…」
最後のこそりと言った台詞にお琴が笑う。
「さあ、中へ入ってくださいな。一日だけど、宜しくお願いします」


 店の奥の居住部分に荷物を置くと、再び履物を佩いて、店に降りる。
 開拓者達が掃除のため襷を掛け、袖を捲くりあげた。入ってくるときにもそわそわと横目で見ていたが、改めて店に出ると、それぞれが思い思いに店の中を見て回って小さく声を上げる。
 食料品屋だったというが、主として扱っていた食べ物自体は既にほとんどが譲り渡したそうだ。
 それでも、わずかな商品が残っている棚や机には、独特の存在感と雰囲気が漂っていた。
「一人で片付けるのは流石にこたえてね」
 まじまじと見ている開拓者達を孫でも見守るような眼差しでお琴が説明する。
 一番店前にある膝の高さの大机は香辛料や香草、空で運んできた生鮮食料品を置いた。
 温暖な泰国からは冬でも新鮮な野菜が届き、ジルベリアからは身体を温める酒や、子供達の好きなチョコレートが届く。
 買付に来て一番に分かる目新しいものを置いておく台だったという。棚は作りつけに足したり、作って置いたりと、通路は狭い。さほど広くもない店に大層な量の物を扱っていたのだろう。
 奥にある箪笥には引き出しが沢山ついており、故郷から離れて天儀本島で暮らすごくわずかの人のために、お琴の連れ合いが商売にならないのに仕入れていたものが入っていたらしい。
 引き出しをあけるとコトリと古いインク壺が出てきた。小さな戸をくぐると狭い倉庫には埃を被った絵本がある。
 天儀本島にありながら、この店内だけが、色んな儀とつながっていた。
 その余韻が、そこかしこにまだ残っていた。


 開拓者達は実に手際よく分担して作業していく。次の店のまだ見ぬ主のために、お琴の意を汲んで、名残はつきねど通りに面した扉を全て外し、掃除と片付けを進めていく。
 ラヴィと柚子葉が冷たい水に雑巾を晒して洗っては、丁寧に拭き掃除を行う。汚れを落とすというより、撫でて磨き上げるように一生懸命心を込めて。
 ふぅ、と額をぬぐうと、店が息を吹き返すような感じがする。
「お琴さん、これどこに置きますか?」
 かがりがひょいと小ぶりの棚を持ち上げた。お琴が驚いたが、そうだった開拓者だった、と思い至る。
「ああ、それは表に。ご近所さんが貰ってくれるさね」
「分かりました。…あと、片づけが終わったら、最後にみんなで打ち上げやりませんか?」
「打ち上げ?」
「ええ、少しでもお話をしたいです。沢山、沢山、思い出が詰まっているお店でしょう」
「……それは、そうさねぇ。でも何も皆さんをもてなす準備が……」
 申し訳なさそうにお琴が言うと、かがりが慌てて大丈夫です、と首を振る。
「皆で用意も片付けもやります」
「そうです。お琴さんとご主人のお話をきいて、色々お訊きしたくて。勿論、お二人のお疲れ様会も兼ねています」
 フェンリエッタが荷物の中から急いでツリーと星の形のクッキーを持ってきた。続いて、ラヴィも持参してきたガレットを出す。
「お琴さまにと思って焼いてきたのです♪」
「あれまぁ。こんなことまで?」
 事前に家で焼いて用意してきたという二人が並んでふふ、と笑う。
 皆が口々に『パーティー』をやろうといってくれたので、お琴はこそばゆいような温かい気持ちになって、開拓者達の厚意に甘えて準備を任せることにした。


「へえ…俺の実家にもあったな。こういうの」
 フォルカが倉庫の隅にあった長い火かき棒を出してくる。長い柄の持ち手には金色の美しい曲線の装飾が施されている。一緒にあったのは暖炉と煙突の掃除用具。
「これってなんですか?」
 朔が大きな十能のようなものを不思議そうに持つ。どれも柄が長く用途が分からなくて首を捻る。
「寒いジルベリアでは必需品だから、って商隊がいうから買ったけど。天儀の火鉢や釜に使うは長すぎてねぇ」
 暖炉に使うための道具と聞いた時のあの人の顔ったら、とお琴がそのときの話を面白そうに話す。フォルカと朔がその失敗談に笑った。
 デニムもその話に色々と思い出したようだ。
「ジルベリアの雪は厳しくて、家に長い時間いますからね。暖炉は大切です。子供の頃は退屈で退屈で仕方なかったですね。…吹雪いている時は本当に恨めしかったです」
「私は雪だるまの精霊の童話を聞いて、精霊が宿らないかなと沢山雪だるまを作っては眺めて…風邪を引きかけたこともありました」
 フェンリエッタが後でしっかり怒られました、とクスと笑うと、お琴も微笑んだ。ジルベリアの冬の話に、それこそ子供のようにじっとお琴は聞き入っている。
 長く雪の中に閉ざされる時間の多いジルベリアの冬を少しでも知りたかった。


「アル=カマルかい?」
「…あらあら、ごめんなさい、お手伝いするはずが…故郷のものだったので」
 シータルがぱっと包みから手を離すと恥ずかしそうに笑った。
「何に使うのか分からなくてね。ただ、綺麗だから手元に残したのだけど…わかるかい?」
 お琴が尋ねると、シータルが包みとその中の木靴を取り出すと、公衆浴場へ女性が持っていく道具だと答える。湯船を使わないで大量の汗をかいて洗い流す風呂があるらしい。
「お風呂は湯船につかるものしかないと思ってましたが…」
 朔もびっくりしながらシータルとお琴の話に相槌を打っている。今まで知り合ったジプシーの話をするとシータルが相槌をうち、お琴が大きく頷いた。
「驚きだねぇ。相変わらず知らない事が山ほどあるよ」
 お琴が尋ねたり、それに纏わる開拓者達の故郷の話を聞いたり。お琴とその主人が仕入れて埃を被っていた商品が開拓者にも物珍しく、懐かしくもある。
 片付けて儀ごとにまとめて並べるとそれなりに量があった。
「…ラヴィの旦那さまとお話が合うかもしれません。ラヴィの旦那さまも異国の品が大好きでおうちに溢れかえっております♪」
 硝子の香水瓶をひとつ手にとって想像するとくすりとラヴィが笑った。異国の品がそこに住む人たちの生活を語りだすその時間が好きだった。
 食料品を扱いながら、その纏っている雰囲気に魅かれ、儀を知りたいと思い、僅かずつでも商品にならないものを集めてしまうお琴とその主人。たくさん話がしたかったと思うラヴィである。
「これだけの物を揃えるのは、たいしたものですわ」
 シータルも珍しい香辛料の袋をしげしげと眺めて感心する。
「ありがとうね。分かってくれる人に喜んでもらうのがあの人の一番の喜びだったからね」
「お琴さん…。全部譲ってしまわないで、小しずつ箱に詰めて残しませんか。ひ孫さんにお話してあげたらどうでしょう?」
 シータルの説明を熱心に聞いていたお琴を見て思いついたことを、柚子葉がそっと声にする。
「そうかい? 年寄りの話を聴いてくれるかね?」
「お琴さんはお話のときとても楽しそうです。だからひ孫さんがいつか彼方此方行くんじゃないかなって…夢がつながります」
「いつか……そうだね」
 夢だったものね、と連れ添った主人を思い出すかのようにお琴が呟いた。その様子に柚子葉は内心とほっとして残った品々を見つめた。
「連れ添っただんな様との思い出もここに一緒に詰まってるんでしょうね…」
 憧れてしまいます、とその日々に思いを馳せてかがりは優しく微笑んだ。
 自分にもそういう人が現れるといいなとつい呟いてしまうと、今度はお琴が大丈夫、とその手を包んでぽんぽんと叩いてくれた。
 皺だらけのかさついた手は、毛布に包まれたより温かい気がしたかがりだった。


「あとは…っと。この鍵と一緒においてあるのは…?」
 デニムがあらかたお琴の荷物を運び出したときに、神棚に残っている鍵に気づいた。小さく、ティースプーンに載るほどの薔薇を模した飾りが置いてある。
「それはお砂糖。白い妖精を見つけたらよい縁をもたらすっていうから、おまじない代わりに置いたんだけどね」
(白い妖精を見る前に、叶った気がするね)
 今日の開拓者達との出会いに感謝すると、残った小さな砂糖に苦笑する。後は綺麗に片付けた店をあの日のように渡せればそれでいい。お琴はそう思って書き付けにくるんで鍵とともに懐に仕舞った。


●此処へ来てほしい
 残った品を箱に詰めたり、棚や箪笥を表に出したり、挨拶がてら近所に配りに行ったり。最後に残す卓も部屋の端に準備し、木箱に座ってやっと打ち上げの時間を迎える。
 かがりが香蝋燭に灯を点した。
 卓の上に在るのは、お琴にとっては夢のようなご馳走であった。クリスマスをイメージして作ったクッキー。ガレットはやわらかく、その薄さに驚く。
 近所周りで御礼にと分けてもらった材料をかがりとシータルが残った香辛料で調理した手料理。立ち上る香りは、まさに異国の香りであった。
―――ヴォトカを初めて飲んだときの話。ハーブを使いすぎたときの話。砂の国の生活の知恵…楽しい茶会はあっという間に過ぎていく。口々に惜しみながら、ささやかなパーティーも片付けられ、店はそっと閉店を迎える――――
 そう思っていたのに、開拓者達がまた楽器や剣を手に持って戻ってきたとき、お琴はきょとんとしていた。
「俺は雑巾を持つより、楽器を持つ方が本業さ」
 フォルカがバイオリン『サンクトペトロ』に左手を添えると、ひと呼吸整える。即興で独特の旋律とゆたりとした曲調を奏で始めた。歌や音でお琴に旅をしてもらおうと考えたのだ。
(ああ…これは泰国だね)
 目を閉じる。お琴の脳裏には、賑やかな泰の街角、朱色の家並みが広がる。
 次いでフェンリエッタのフルートが追いかけて静かに入る。ジルベリアは高い凍れる雪が降り積もる。遠吠えをする森の狼の姿。
 デニムのリュートがジルベリアの曲を懐かしむように歌いだす。フェンリエッタの『フェアリーダンス』がやがて来る暖かな日ざしの春を歓喜の響きをもって導いていく。
 再びフォルカが引き取り、音階を変えトリルを重ねて神秘的な雰囲気を醸す。
 どこまでも続くアル=カマルの夜の砂漠。月の下、連なるキャラバン。
 そして、満を持して柚子葉の『哀桜笛』がもの切ない高い音で囀ると、お琴の中で桜が散る。優しいふるさと、天儀。
(天儀。ここも一つの国。生きた国…)
 かがりが鈴を振って歌い始めると朔が零刀『カミナギ』を手に舞い始めた。
 シャン、という音と共に、凛と朔の手足の爪先、カミナギの先まで神経が行き届く。剣の舞はどこまでも清らかで美しい。かがりの伸びやかな声。心に迫る笛柚李葉の音。呼び覚まされる記憶。
 鈴の音は、雪に似て。
「行けなかったのではなくて…とっくに旅を始めていたのにねぇ」
 優しい音楽に、お琴の頬を涙が伝った。
 そっとフォルカの弓が弦から離れた。


「ありがとうね。ここまでしてもらったから、もう大丈夫さね」
 お琴が残る卓を見つめる。そこには書き付けと真鍮製の店の鍵。紙にはもう名前を書いておいた。妖精が願いを叶えてくれるよう、最後の卓にはそっとラヴィが山茶花と椿を添えた。薔薇の砂糖漬けと雪だるまを想像させる白い団子も妖精のために置く。
 いい人にこの店がめぐり合い、その人の生きる糧となるように。
 それを願って、お琴と開拓者は店を出た。

「あ、雪です!」
 朔がちらと舞い込んできた白片に声を上げる。本格的な寒さを迎え、天儀の冬も深まりゆく。明日には辺りに真っ白な世界が広がるのだろう。
「積もりますね」
「積もるな、これは」
 口々にいって、勢いを増して降り注ぐ雪の合間にかすかな光がきらきらと輝くのを見つける。
 白い妖精だ、と思ったが誰もが捕まえることなくそっと見送った。
 
 お琴たちが居た店の方へ飛んでいく。あの楽しくてあたたかな空気を目指して。
 きっとこれで、あの店は上手くいく。

 店が見えなくなる曲がり角に来て一度だけと決めていたお琴が振り返る。
 そこだけ時間が巻き戻ったかのような感覚の中、小さな子供連の手を引く見知らぬ夫婦が店の前に立ち尽くしていた。
 角を曲がって、歩みを止めると、お琴はもう見えない店に向かって深く深く頭を下げた。
 


 柚李葉、かがり、ラヴィ、フェンリエッタ、デニム、朔、フォルカ、シータル。
 お琴は所有者である主人と自分の名の下…書き付けにその名を書き足していた。
 素晴らしき出会いが、この老いた手から店をつないでくれたことの感謝を込めて、という言葉と共に。



 例え旅立ちが遅れても、もう少し待てばいい。
 ひ孫たちに伝えることを伝えたら追いつけるだろう。


 いつか、あの人によくやったと誉められる日まで。
 その夢は色褪せないのだ。