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■オープニング本文 嗚呼、そうだ。どこか面影が似ている。 仲人が形どおりの締めの挨拶をしているのを聞きながら、岳峻(がくしゅん)は目の前に静かに佇む女性を見つめた。女性は目が合うと照れたように視線をそらして、コホンとから咳を打つ。 「あー‥岳峻先生、そんなに見つめると穴が空きますぞ」 冷やかす仲人に、 「や、これは申し訳ない」 と真面目に頭を下げた。 齢四十にもなって、見合いをするとは思わなかった。妻が亡くなってから十年が経つ。最初は身の回りの世話などに苦労したが、何とかやってこれた。 しかし、思いもがけず飛び込んできた見合い話を受けようと思ったのは、単なる興味でもなく、必要にかられてのことだった。 目の前の見合い相手も夫に先立たれており、同じような境遇のもの同士、と話がトントンと進みそうだった。 岳峻には一人家族がいるが、あの子が気に入ってくれるだろうか、とちらりと頭をよぎった。 「では。千代さん、岳峻先生、ぜひともよいお返事を待っておりますぞ」 二人の様子を見ながら、まとまったも同然、と世話焼きな親父は卓に手を突いて勢いよく礼をしたのであった。 「お帰りなさいませ」 玄関で帰りを待っていた千佳(ちか)が、そのままお辞儀をした。 「寒いのに待っていたのか?」 目を丸くしながら岳峻が草履を脱ぐ。 「そろそろお戻りになると思って。さほど待っておりません」 冷えた足など厭いもせずに立ち上がると、千佳は岳峻から外套を受け取る。幼少の頃から岳峻の家に引き取られ、今年でもう十七。立派な娘に育ったと岳峻は思う。 「仕事場に作務衣だしときました」 「うん。ありがとう。やはりいつもの格好が良いな」 慣れないことはするもんじゃない、と岳峻は苦笑する。 「それと、今日‥相手の方からいただいたものだ」 千佳に渡されたのは、赤い和紙で丁寧に包まれた小さな菓子折り。 「なんでしょう?」 「さぁ、菓子じゃないのかな?」 「じゃあ、あとでお茶をいれましょうか」 今日のお話をじっくりききたい、とは千佳も言えなかった。なんとはなく、「見合い」という単語が二人の間ではばかられる気がしている。 岳峻は画家である千佳の父に師事していた。その父が病で逝ったあと、身寄りのない千佳をひきとったのは、岳峻夫妻だった。 以来、娘のように育ててきた岳峻である。 がらんとした古い屋敷に、妻が亡き後二人でずっと暮らしてきた。 ―――このまま、千佳ちゃんが嫁に行ったらどうするんだい。 ―――一人で何とか生きていけるさ。 ―――でもね、千佳ちゃんは優しい子だから、嫁に行きにくいじゃないか。 そんな小さな言葉で、岳峻はハッと気づいて見合い話を受けたのだった。もちろん千佳には内緒だが。 気づけば千佳はもう立派な娘になっていた。 あの小さい手を差し出したおかっぱ頭の娘ではない。 真っ白な紙を広げながら、岳峻はぼんやりと思い出していた。 「どうしましたか」 その千佳に声をかけられ、飛び上がらんばかりに驚いた。 「な、なにも!」 「そんなに慌てなくても。外寒かったでしょう。はい」 二人分の湯飲みをもってきて、小さな卓におくと、満面の笑みで千佳が湯飲みを差し出した。先ほどの小さな包みももってきた。 「‥あけてみましょうか」 やや、声が暗くなったことに岳峻は気づかない。千佳はそろっと包みを解いた。中から出てきたのは小さく仕切られた箱に収まる六つのチョコレートの塊である。 「チョコレートだわ‥」 「‥なんだ、これは」 岳峻は不思議そうに一つを掴み上げ、匂いをかいだ。 「大丈夫、お菓子ですよ」 その様子がおかしくて、千佳がくすくすと笑った。 「そうか。なら‥」 ぽんと口に放り込んだ。今まで食べたこともない甘さと溶けていく食感に驚く。 「おお、これはおもしろい。しかし甘いな。千佳、どうだ」 ほら、ともう一つをつまんで差し出す。 「え‥あ‥」 千佳の顔がつい真っ赤になった。子供のころなら「あーん」といってお菓子をもらっていたのに。 岳峻も千佳の様子に手が止まる。 「あ‥すまん。つい」 「い、いえ! そうだわ、紙問屋さん行ってきます!」 あたふたとしている空気をかき消すように千佳が勢いよく立ち上がると、急用のように座敷を出て行った。 残った岳峻は、白髪が混じってきた髪をかきあげ、しまったなぁ、とチョコレートを箱に戻した。 「年頃の娘に。やれやれ、年をくったものだ」 ずず、とすすったお茶は苦い味がした。 「‥ぁーん。もうどうしたら!」 寒風の中、ぺちぺちと頬をたたきながらものすごい速さで歩く千佳であった。 幼い頃からずっと一緒にいた岳峻が大好きだった。家族として、ではないものに切りかわったのはいつからだったかは思い出せない。 情けなくて恥ずかしくて涙目になる。 にもかかわらず、ほら、といわれた時の岳峻の優しい顔を思い出せば頬がゆるむ。 湯気がでそうな顔を抑えつつ、紙問屋に向かっていると、途中の甘味屋に行列が出来ていた。チョコレートを求めて並ぶ女の子たち。 「‥‥‥そうだった」 見合い相手から岳峻が貰ったのは、たぶんそういうこと。 岳峻にとっては自分は娘のような存在だろう。 だが、いつまで一緒に居れるのか。 新しい妻をむかえた家に、自分は居られないだろう。 千佳の心を締め付ける甘い香りが漂っていた。 なんとなく、気まずい思いをしながら、見合いから三日後。 「隣の町に物が届かない?」 「おお、どうやら峠の道に盗賊が出るらしくてな。金品その他、なーんでも巻き上げるらしいぜ」 岳峻の画家仲間が茶のみ話に話題を提供した。 「するとなにか、文とかも‥?」 「そうだろうな。飛脚なんぞは格好の獲物だろう‥」 「たいへんだ‥返事が遅れてしまう」 「おい、岳峻?」 「先生?」 「千佳‥ちょっと、出かけてくる!」 岳峻は血相を変えて飛び出していった。向かうのは峠ではない。 目指す先は、ツワモノ共が集うギルドであった。 |
■参加者一覧
風雅 哲心(ia0135)
22歳・男・魔
エグム・マキナ(ia9693)
27歳・男・弓
アグネス・ユーリ(ib0058)
23歳・女・吟
ニーナ・サヴィン(ib0168)
19歳・女・吟
リア・ローレンス(ib1791)
17歳・女・騎
蓮 神音(ib2662)
14歳・女・泰 |
■リプレイ本文 ●話を一緒に 依頼人からの依頼事項は文を取り戻すこと。 だが、相手に届けることも併せて提案した。 「そうですか。届けることまでお願いできれば確実かもしれませんね」 岳峻が、目の前に集まっている若い開拓者一同をゆっくりと見やった。 正直、取り合ってくれるか危ぶんだが、迅速に依頼を受けてくれた上、更によき方法を提案してくれた事に驚いた。 「念のため、書き直しをお勧めします。最悪の場合、破棄されているでしょうから」 エグム・マキナ(ia9693)が冷静に判断し、岳峻に一考を促した。 「成程。汚れたり破れたりしたものを相手にお渡しするのも失礼ですね。では、見つかればまず小生にお返し願いたい。大事な文なので‥」 岳峻は頭を下げて、改めて頼んだ。 「失礼します」 そっと襖を開けて入ってきたのは、千佳である。六人の開拓者の訪問に目を丸くしたが、茶の準備が整ったようである。 馥郁とした香りの立ち上る茶を、開拓者達の前にことりと差し出していく。 千佳という少女は美しく、可憐でけなげな雰囲気をもっている。自分が入ってきて話が止んだことに恐縮しているようだった。 「‥‥‥」 岳峻は、若く凛々しい風雅 哲心(ia0135)やエグムに並ぶ千佳を見ては、彼女はもう十分大人であり、彼らのような良人がいてもおかしくはないのだと認識した。 その岳峻の視線の先を見て、石動 神音(ib2662)の内心は、穏やかではなかった。静かだが、そこに詰まった切ない気持ちが分かる。 (きっと、岳峻さんは気づいてないんだよ) 同じく、ニーナ・サヴィン(ib0168)とリア・ローレンス(ib1791)は二人の様子を見てピンときたのか、彼女の事も仕事の視野に入れることを決め、二人して目で合図した。 ●盗賊と一緒に 峠に出没するという盗賊の噂は既に町中に広まってきたようだ。バレンタインという贈り物を送っている時期を狙ってのやっかみにも似た犯行。 なんとかしてくれ、という訴えが他方からもギルドに集まりつつあった。 岳峻から早々に盗賊を捕まえることを依頼された開拓者達は、一計を案じ、噂の峠道を上っていた。 「まったく、捻くれるのも大概にしてほしいもんだな。それで人様のもん盗むとは‥一度痛い目みせてやらんといかんか」 哲心が呆れながら先頭を登る。自分で料理をつくる哲心にしてみれば、女性が心をこめたお菓子が盗られるというのは許し難い。 「この先、ですかね」 エグムが視線を送った。哲心も足を止めて顔をあげた。人ひとりとして通らない道が、更に細くなって右へと曲がる先。 「そろそろ、追いついてくると思うけど‥」 アグネス・ユーリ(ib0058)は後ろを確認し、三人の開拓者達が追いついてくるのを待っていた。急いで駆けて来る仲間を見つけると胸の前で手を振る。先頭の神音が大きく手を振り返した。首尾は上々らしい。 「準備はできたようだな」 「私達は隠れるとしますか」 「がんばらなくっちゃ」 哲心、エグム、アグネスは引き返すそぶりを見せて折り返し、ニーナ、リア、神音とすれ違う。 そのまま、木陰と藪に分散して身を隠した。 入れ替わりに、盗賊たちの出没するという場所に近づくにつれ、はしゃぎ始める三人娘。 「どうする?! リアさんほんとーにいっちゃうのね!?」 「え! じゃあ、まず神音さんから!」 「そんなぁ、神音が先なんて! ニーナおねーさんがお手本を‥」 恥じらいながら、三人がそれぞれの腕を取ったり、背中を押したり。誰が一番先に胸に抱いた可愛らしい包みのお菓子を渡すか、賑やかに騒いでいる。 (演技か、あれが‥!) 木陰で息を潜めている哲心が、つい口に出しそうな言葉を飲み込んだ。 「おうおう、ここは通さないぜ!」 樹上でがさりと枝が鳴ったと思うと、古典的なセリフと共に、盗賊が一人降ってきた。きゃあ!と三人はことさら盛大に驚きの声を上げて、その場にしゃがみこむ。 それを皮切りに、ぞろぞろと男達が現れた。 六人が刀や槍を持ち、ボロボロの鎧を身にまとっている。娘三人と分かると流石に切っ先を収めたが、疑いの眼を向けた。 「――何者だおまえら?」 最初の男が無精髭を掻きながら尋ねる。 「‥私、貴方達のファンなんです!」 髭を掻く手が止まった。頬を染めてもじもじするリアの様子に男達の動きも止まった。 「――よかったら、チョコレート、食べていただけませんか?」 リアが包みを差し出した。ニーナが透き通る声で柔らかなメロディを歌い始める。まるで盛り上げるかのように聞こえる旋律であるが、その実は『偶像の歌』である。 「俺達に?!」 むくつけき男達は、奪った荷物の中に、甘ったるい言葉を添えた贈り物を見てきたが、自分達に渡されるのは無論初めてである。 警戒はしている。 最近は噂が町に届いて、獲物が激減した。 だが、目の前の美しい女性達に関連づけて考えることが出来なかった。 「神音達、おにーさん達のふぁんなんだよ!」 おさげを揺らした可愛い神音が念を押した。 「豪気な盗賊さまに想いを伝えにきたの! きゃ〜♪ どうしましょう! 言っちゃったわ!」 ニーナが照れてリアの袖に顔を隠す。ちらっと太陽を宿した瞳で見やり、目が合うと恥じらって逸らす。 「お、俺達あてに‥だと?」 まんざらどころでもなくなってきた男たちの興奮は哀れなほどに高かった。 「頑張ってつくりました‥これです! 是非食べてください」 「女の子の気持ち、疑ったりしちゃだめよ」 その中身‥即効性強力下剤入りのチョコを差し出すリアと神音。ニーナの分は抹茶と見せかけて大量わさびの練りこまれた鮮やかなチョコ。 そんなこととは露知らず、ひったくるようにして受け取った男たちは、包みを開けて覗き込むと、おおお、と盛り上がっていた。 しかし、これで終わりではない。後、一押し。 「格好良く食べるおにーさんが見たいな‥」 「お口にあうかどうか‥ご迷惑じゃなかったらいいんですけど」 涙を浮かべて、心配そうに上目遣いでねだるリア。 「う、よし。ここは一口で」 人生初チョコ。 取っておきたい気もしたが、いじらしい乙女の願いである。 先を争うように盗賊たちは小さなチョコを奪い合い、口々に放り込んだ。 「きゃあ! やったあ♪」 ニーナが嬉しそうに手を組み合わせた。これは本心である。 「ん。うま‥‥んんんーーーッ?!!」 緑のチョコを食べた盗賊たちが目をぎゅっと閉じて鼻を押さえ始めた。ボロボロとこぼれる大粒の涙。悶絶して地面を転げている。 「ニーナさん‥量‥」 「だってぇ、味見できないじゃない?」 リアの呟きにニーナがちろりと舌をだした。 「どうした!?―――おまえらぁ! 何しやがっ‥」 刀を振り上げて、仲間の仇をとろうとした一人が、うっ、と腹を抑えた。次々と動こうとしては歩みを止めるものが続出。軒並み腹を押さえて脂汗を垂らし始めた。 「リアおねーさん‥量‥」 「だって、紳士的なほうがタイプなんですもの」 リアが微笑みを浮かべて神音に諭した。 「う‥ちくしょう‥」 まだ動ける盗賊が一人、懐から呼子笛を取り出して、仲間を呼んだ。 「どうした!」 即座に駆けつけた盗賊三人が、地面を転げまわっている仲間に驚き、抜刀した。 「あ、あい‥つら‥」 新手の盗賊にそこまで伝えて、下剤を喰らった盗賊が林に消えていった‥。 三人の盗賊がジリジリと開拓者達と間合いを詰めてきた。 「あら、こちらもぱっとしないわね」 「ニーナさん、顔じゃないわ。でも、盗賊はタイプじゃないのよね」 「おねーさんたち、下がって」 全く動じない二人をかばうようにして、神音が泰拳士らしく盾となる。 「このぉ――!!」 盗賊が刀を振りかざした時、ひゅんと空が鳴り、男の頬を何かが掠めた。 「ぐぁ!」 一人目の注目をそらせたエグムの矢が、そのまま後方にいた盗賊の肩に突き刺さる。女達だけではないと気づいて刀を振りかざしたままの男が、もう一度頭を前に向けたとき、沈み込む哲心の姿が映った。 「ここからは俺らの仕事だ」 哲心が佩びていた太刀を鞘ごと打ちつけた。脛に喰らってしゃがみこもうとする男の鳩尾にそのまま柄尻を打ち込む。 「ぐ‥ふ」 「このヤロぉ!」 肩に矢を喰らった男が槍を持ち替え、崩れていく仲間の背中越しに、哲心に突きを繰り出した。 哲心がそれをかわさずに見据える。 ふ、と笑った。 微動だにしない哲心の背後から、風がすり抜けるがごとくエグムの援護が駆け抜ける。先ほどとは比較にならない重い音がして、槍を繰っていた男の腕と肩に突き立った。 「―――ガ‥はぁ!!」 槍は哲心に髪一筋の傷もつけられずに、矢の勢いで後ろへと引き戻される。盗賊がそのまま後ろに倒れた。 「‥少しぐらいはかわしたらどうですか」 やれやれ、という風にエグムが姿を現す。もっとも、それだけ信頼されているということを割り引いての言葉だが。 「動くと邪魔になるかと思ってな」 哲心が太刀を手に何事もなかったように立ち上がる。 そのまま、仕切りなおしのように、最後に立ちはだかる盗賊の前に立つ。一番図抜けて大きな体をもつ盗賊は、鈍く光る斧を持っていた。 力任せにぶつ切りにせんと哲心を横凪ぎに払う。瞬時に抜刀した哲心が盗賊の手元まで滑らせた刀身でその一撃を受け止めた。 己の一撃を受け止めた志士に目を瞠る。 礼とばかりに弾き返して、その開いた腕に狙いを定めて一閃をこめる。神速の『秋水』は過たずに盗賊の腕を捕らえた。 「―――う、あぁぁ!」 血さえもしぶかず、何事が起こったのか分からずにいた男だが、手から力がぬけ、斧を取り落としたときには、腕が斬られたことに気がついた。腕ごと落とさなかったのは、せめてもの慈悲である。 痛みに転げまわっている盗賊たちを、アグネスと神音が縛り上げる。比較的ましに動ける一人を見つけて、エグムがにこりと微笑む。 「さて、私は実に気がたっておりまして。チョコレートとは関係はないのですが――丁度よいですね、案内を頼めますか?」 岳峻の文を始めとして通行人から巻き上げた金品を隠しているアジトを探らなければならない。 多少の拷問は辞さない構えだったが――散々な目にあった盗賊はあっさりと残りの仲間の守るアジトの位置を白状したのであった。 ●御一緒に 「―――ふむ。書き直しを依頼して正解でしたね」 エグムが開封されて破れた岳峻の文を見つけた時の一言はそれだった。 お話を謹んでお受けいたします、という趣旨の丁寧な文であった。これはこれで千佳との関係をどうまとめるか、悩ましいところである。 チョコレートを用意するから台所を貸してほしい、と口実をつくって千佳を誘い出し、その気持ちを聞いていたニーナ、リア、神音は表情を曇らせた。 ―――岳峻さんのこと、好きなの? 核心の部分を単刀直入に聞いた神音。 びっくりしたのは千佳だけではなかったが、その問いに耳まで真っ赤にしてこくり、と千佳が頷いたのは確かな事実だった。愛があれば年の差なんてとは言うが、自分は娘としてしか見られていないと千佳は話した。 「‥‥二度と先生が結婚しないなら、このままでいいのに」 「千佳さん‥」 「ごめんなさい。子供ですよね」 「‥‥‥‥」 「すごく、悪い子だって思います。嫌な子だって」 千佳が笑って誤魔化そうとして、滲む涙を指先で拭う。しかし後から後から溢れてくる涙を誤魔化しきれず、白い頬に透明な線を描いては、床にぽつと落としていく。 潤んだ瞳は、鮮やかな愛しい過去を見つめている。 「このまま居たい。先生と居たい。――だけどもう時間なんです」 神音はその言葉に心をえぐられる気がして、そっと拳を握りこむ。 「そんなに苦しいほどに育った気持ちなら‥伝えなければ分からないでしょう?」 リアがそっと千佳の肩に手を置いた。 「岳峻さんの全てを見て一緒に育ってきた千佳さんなら、何があっても乗り越えていけるわよね?」 ニーナが涙を拭いてやり、ぎゅっと力いっぱい抱きしめた。 びっくりした千佳にリアがこつんと額を合わせる。 「このまま岳峻さんが結婚したら後悔するでしょう? 文は、取り戻してくるわ」 信じていてね、とリアも抱きしめた。 「神音のエゴかもしれない。だけど、千佳さんの気持ちが叶ったら、神音の気持ちも叶う。――だから、千佳さんも頑張って」 神音に力をちょうだい。神音も泣きそうになりながら、最後に千佳を抱きしめた。 千佳は開拓者達が帰ってくるまでに気持ちを決めると答えた。 きっと依頼を果たして帰ってきてくれたなら、自分も頑張れると思う、とけなげに微笑んでいた。 岳峻に文を届けて、彼はどう書き直すのか。神音達は千佳を応援しながらも、文の内容に少し落ち込んだ。 岳峻の家に近づくにつれ、どうしたものかと悩んでいたとき、当の岳峻本人が屋敷の前で腕組みをしてうろうろしていた。 「‥岳峻さん?」 「あ、無事帰ってこられましたか! 丁度よかった!」 ほぅと安心した顔で出迎えられて、複雑な開拓者達だったが、次の言葉に耳を疑った。 「千佳が、家出したんです!」 作務衣の胸元から書置きを取り出すと、大慌てでエグム達に見せた。そこには千佳らしいたおやかな文字で『家をでます 千佳』とだけ記してあった。 「千佳さん‥」 唇をかんだ神音にリアとニーナがそっと寄り添う。 (ダメだったの?) 「どこにいったのか。私にはさっぱり‥」 草履もはかず、足袋のまま飛び出した岳峻を見てふむ、と屋敷に入っていくと、エグムが小さな箱を手にして戻ってきた。 「岳峻さん、これは?」 「‥それは、確か書置きを押さえていたかと‥」 「しっかり確認すべきはこちらでしょう」 言われて、岳峻は包みを開けた。中には小さなチョコレートが入っている。その隙間に折りたたんだ紙が入っていた。大事そうに折りたたまれたその紙片を広げて、岳峻の目が大きく開いた。 『お嫁さんとして、戻ってきてもいいですか』 「千佳―――」 拳を口元に当てて、信じられないという風に岳峻が呟いた。ただ、胸のあたりに温かい気持ちが広がっていく。ああ、と岳峻が紙片を手のひらに包み込んだ。 岳峻から、愛情という気持ちが開放されていく。 「自分の気持ちには素直になった方がいい。気持ちを受け止めるかはあんた次第だ」 哲心が岳峻の肩にぽんと手を置いた。 「人の心など聞くまでわからないものです。言いにくいならば‥文などいかがでしょう?」 驚天動地でなにもかも放り出して探し回った岳峻にとって、答えなどもう出ているだろうに。 何が大事か。誰と居たいか。 「届けてくれますか」 ――岳峻が照れたように笑った。 『初めて君と呼んで文を出します―――』 私の嫌いなものも嫌なところも何もかも知っている君へ。 とびきりの甘いお菓子は君と一緒に。 いつまでも、君と一緒に。 |