億万回のありがとう
マスター名:御言雪乃
シナリオ形態: ショート
危険
難易度: 普通
参加人数: 10人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2014/07/14 22:28



■オープニング本文


 母の名は和枝といった。苦労ばかりの一生を送ってきた女だ。
 俺の家は貧しかった。親子でジルベリアに移ってきたのであるが、幼い頃の俺は何の不自由も感じたことがなかった。
 いつも満腹で、隣近所の子供達よりたくさん玩具をもっていた。それが何を意味しているか、幼い俺は、いやもっと大きくなっても馬鹿な俺はちゃんと理解していなかった。
 それを理解したのは妻と子をもつようになってからであった。
 ある日、高価な肉をもらったことがあった。とはいえ量が少なく、親子四人で分けた場合、一人あたりはたいした量にはならなかった。
 すると妻は子供達に自分の分の肉を与えた。子供達が、母さんの肉は、と問うと、妻は嬉しそうに微笑んでこたえた。
「わたしは、もうおなかがいっぱい。あなたたちの笑顔を見ているだけで」
 本当に嬉しそうに妻はいった。そして俺は悟ったのだ。親が子供を育てるとはこういうことなのだと。そして、俺が気づかぬうちに母もこうしてくれていたのだと。
 その母が病で倒れた。すると妻が高価な薬を手に入れてくれた。自分が食うのを我慢し、ぼろぼろの衣服を着てまで蓄えてくれた金で。妻はそういう女であった。
「急いで」
「ああ」
 俺は駆けた。薬を届けるために。これで少しは親孝行ができると思った。
 俺が受けた恩。あまりにも大きなその恩に報いるにはあまりにも小さなものだ。けれど、少しでも。もし孝行ができるなら。
 いや、孝行なんてものじゃない。ただ母に生きていてほしかった。
 伝えたい言葉があるのだ。百回、万回、いや億万回でも足りない言葉。
 俺は駆けた。故郷まで、母のもとまで後少し――。
 峠に奴がいた。アヤカシが。
 それは三面六臂の鬼であった。ある手は剣を握り、ある手は炎を燃え上がらせている。三面のうち、左右の憤怒と哀憐の相を刻んだ顔は眼を閉じていた。
 うずたかく積まれた死体の上で、ソレはニンマリと笑っていた。
 まさに人外のバケモノ。人を殺し、踏みにじることを喜びとする魔性であった。
 俺は近くの酒場に駆け込んだ。アヤカシを退治できる者を探すために。
 が、アヤカシを恐れ、退治しようといってくれる者はいなかった。たまにいても、俺のわずかな所持金を見ると、すぐに首を横に振った。
 仕方なく俺は棒を手にとった。母が待っているのだ。愚図愚図してはいられなかった。一人でもアヤカシと戦うつもりであった。
「やめろ」
 声がした。俺は足をとめると、声の主に眼をむけた。
「だめだ。俺は急いでいる」
「どうしてそんなに急いでいる? アヤカシは普通の人では斃せない」
「それでも。母が待っているんだ。病の母が」
「ならば」
 声の主はいった。自分が戦ってやろうと。
「どうして」
 俺は聞いた。そして多くの金は出せないと。
「母に会いたいという思い。それで十分」
 声の主はいった。
 俺は信じられぬものを見るように大きく眼を見開き、声の主を見た。いや、声の主達を。
「一体何者なんだ、あんたらは?」
「開拓者」
 彼らはこたえた。


■参加者一覧
秋桜(ia2482
17歳・女・シ
ルーンワース(ib0092
20歳・男・魔
グリムバルド(ib0608
18歳・男・騎
リンスガルト・ギーベリ(ib5184
10歳・女・泰
椿鬼 蜜鈴(ib6311
21歳・女・魔
ケイウス=アルカーム(ib7387
23歳・男・吟
ラグナ・グラウシード(ib8459
19歳・男・騎
戸隠 菫(ib9794
19歳・女・武
ジャン=バティスト(ic0356
34歳・男・巫
シマエサ(ic1616
11歳・女・シ


■リプレイ本文


「うん、親孝行したいと言うその気持ち、遂げさせてあげようじゃないの」
 開拓者と名乗った少女は胸を叩いた。朗らかに笑う彼女の名は戸隠菫(ib9794)という。
「そうさ」
 こちらも菫にまけぬほど明るい若者が肯いた。真っ直ぐでひたむきな瞳が印象的で。
 名をケイウス=アルカーム(ib7387)というその若者は続けた。
「そのためには邪魔なアヤカシにはさっさと退場してもらわないとね」
「そうにゃ!」
 十歳ほどの少女が口を開いた。猫の耳をもっているところからみて神威人であろう。
 少女――シマエサ(ic1616)は大きく胸をはった。
「つよーい先輩達と、そうでもないシマにゃんが、アヤカシなんてやっつけますにゃ!」
「そうでもないのかよ、おまえ」
 がくりと浅黒い若者がつんのめった。若者――ラグナ・グラウシード(ib8459)の鍛え抜かれた身体と比べるとシマエサのそれはいかにもひ弱そうだ。
「とかく急ごうぜ。おふくろさんのことが心配だ」
 右目に眼帯をつけた少年が促した。その身ごなしは俊敏そうで、幾多の修羅場をくぐりぬけてきた猛者であることを窺わせる。
 名をグリムバルド(ib0608)というその少年が走り出した。その後を四人の開拓者と男が追い――いや、さらに二人の男女の姿も見える。
 女はシマエサと同じほどの年頃の少女であった。ただシマエサは徹頭徹尾可愛いのに対し、リンスガルト・ギーベリ(ib5184)というその少女は高貴そうな美しい顔にどこか驕慢の色が滲んでいる
 そして、もう一人の男。こちらも気品に満ちた整った相貌の持ち主であった。衣服の上からでもわかるがっしりした体躯は騎士のそれだ。
 と、ケイウスが足をとめた。二人の男女を振り返ると、
「確かリンスガルト・ギーベリ(ib5184)とジャン=バティスト(ic0356)といったけっか。あんたらも来るのかい?」
「そうじゃ」
 リンスガルトが肯いた。すると慌てたのは男だ。
「手助けしてもらえるのはありがたい。しかし俺は満足に礼はできないんだ」
「礼などいりません」
 ジャンが薄く微笑んだ。
 そう。ジャンは礼など望んではいない。
 ジャンの母は、彼が幼い時に亡くなった。だからジャンにはあまり記憶はない。しかし母がどれほどの愛を彼に傾けてくれたのかは想像に難くない。そして母を思う男の心根も。
「……守らずにおられようか」
「そうじゃ」
 再びリンスガルトが大きく肯いた。その脳裏にあるのは、今も憧れの対象である母の姿であった。
「妾も郷里に母上がおるのでな……気持ちはよう分かる。破邪の剣となりて、我等の敵を討ち果たそうぞ!」
 リンスガルトは宣言した。


「あれかにゃ」
 シマエサが無意識的に身構えた。
 彼女の眼前。峠にソレはいた。鬼が。
「三面六臂か」
 苦いものを噛んだようにリンスガルトは顔をしかめた。
「同じ三面六臂でも生成姫とは違う。何とも野卑な出で立ちよの」
「……遠慮はいらないみたいだね」
 ケイウスの顔から表情が消えた。いや、正確には変わった。恐い顔となる。
 累々と横たわる死体。それに楽しげに腰掛けるアヤカシの心情をケイウスは見抜いていた。
 アヤカシは嬲っている。命を。尊厳を。
 と、菫が気がついた。アヤカシの不可解な点に。
 アヤカシは三つの顔をもっているのだが、眼を開いているのは真ん中の嗤っているそれのみで、左右――憤怒のそれと哀憐の情を滲ませたそれは眼を閉じているのだった。
「そういえば」
 何かを思い出したのか、リンスガルトが眼を見開いた。
「確か生成は、それぞれの面に力を秘めていた筈。こ奴も同じかのぅ。目を閉じている辺り、開眼がそのトリガーかも知れぬ」
「ふふん」
 アヤカシの口が嘲るようにゆがんだ。
「今までの虫ケラどもとは違うようだな。せいぜい足掻いて俺――アグルシャプを楽しませてくれ」
「ほざいてくれまするなぁ、アヤカシ風情が」
 可笑しそうな笑みの滲む声がした。可憐な美少女――秋桜(ia2482)の声が。
「親より先に黄泉路に逝く事は最大の親不孝ともうしますからなあ。それだけは防がなければなりませぬ。それに貴方のような心も何もない妖に、これ以上人の思いを踏みにじらせるわけにもまいりませぬ。この屍山血河一つ一つの無念、ここで必ず晴らします!」
「やってみるか」
 口の端を吊り上げ、アグルシャプはぬうと立ち上がった。開拓者たちが息をつめる。アグルシャプから吹きつける悽愴の殺気にうたれたためだ。
 が、この場合、むしろグリムバルドは不敵に笑った。そして男を振り返ると、
「すぐにあそこで剣持ってふんぞり返ってる野郎を磨り潰して、あんたをお母さんの元まで送り届けてやるからさ。億万回でも伝えたい言葉……しっかり伝えてやりなよ。出来れば最高の笑顔も添えてやるともっと喜ぶんじゃねぇかな」
「そうだよ」
 ケイウスが竪琴を手にした。羽ばたくフクロウの意匠をもつ優美な竪琴だ。
 ケイウスの指が絃の上でおどった。繊細な音色が響く。
「くかか。人間とはなんと脆弱か。修羅場において音楽とは――うん?」
 アグルシャプの嘲笑がやんだ。彼の鋭い知覚は開拓者たちの力が増していることを察知していた。
「ほう。おかしな術を使う。ならば俺も面白いものをみせてやろう」
 アグルシャプの四つの手が動いた。剣をもつ四つの腕が。踏みつけた死体にざくりと突き刺す。
「見ろ、我が力を」
 アグルシャプの六つの掌が開いた。
 瞬間、二つの掌から紅蓮の炎が迸りでた。他の二つからは凄まじい破壊力を秘めた稲妻が、そして五つめの掌からは刃のような氷柱が生まれ、疾った。
 咄嗟に開拓者たちは動いた。標的となった秋桜、グリムバルド、菫、ジャン、シマエサが。
 が、遅い。二人の開拓者が炎に灼かれ、一人が稲妻に撃たれた。逃れえたのはグリムバルドとシマエサだけで。
 グリムバルドの盾によって稲妻がはじかれた。飛び散る紫電が周囲の木々を灼く。
 そしてシマエサは足で地を蹴った。瞬間的に凝縮させた膨大な気を足から放つ。
 まるで足元で爆発が生じたようであった。瞬間的にシマエサの身体は数メートル先の空間に跳んでいる。彼女のもといた空間を氷柱が疾りぬけた。
「わっ」
 悲鳴はその時した。悲鳴の主は男である。その足元の地が刃のようにのび、男めがけて疾った。無論男には躱しようもなく――
 しまった、とジャンが呻いた時、水晶めいた煌きをもつ刃が突き刺さった。男の胸――いいや、男の前に立ちはだかった鉄の壁に。
「何とか間にあったようじゃのう」
 鉄の壁の背後からするりと女が姿を見せた。
 二十歳ほどか。肉感的といっていい美しい娘だ。が、人ではない。側頭部に漆黒の角をもつ龍の神威人であった。
「あ、あんたは一体……」
「椿鬼蜜鈴(ib6311)。開拓者じゃ。おんしの母御を想う気持ち、気に入った故まいった次第じゃ。わらわの背より前へ出るで無いぞ?」
 薄く口元に笑みをはいて、蜜鈴はいった。それから視線をアグルシャプに転じると顔をしかめ、
「しかし……汚らわしくも愚かしいアヤカシじゃの。死者を愚弄し、其の身に腰を下ろすとは……好かぬのう」
「また虫ケラが増えたか」
 くかかと嗤うと、アグルシャプは指を折った。
「全部で九か」
「十ですよ」
 声が発せられ、それと同時に槍の如き氷の刃が空を裂いて疾った。
「ぬっ」
 アグルシャプがわずかに身じろぎした。が、躱すことはかなわない。氷の刃はアグルシャプの腹に突き刺さった。
 刹那――
 刃が爆裂した。氷片と肉片が飛び散り、凍結した水蒸気が霧と変じて辺りをおおう。
「ううぬ」
 薄れ始めた霧の中、アグルシャプの苦鳴が響いた。やがてその姿が浮かび上がる。その腹には大きな傷があった。
「どうやら効いたようだね」
 先ほどの声の主がいった。二十歳ほどの若者で、端正な相貌をしているものの、表情は薄い。名はルーンワース(ib0092)といった。
「仕事じゃないから好きにさせてもらうよ。俺はアヤカシなんかに勝手されるのは気に入らないんだ。――うん?」
 ルーンワースが異変に気づいた。哀しげな相貌の閉じていた眼が開き、それにつれて開いていたアグルシャプの腹の傷が閉じていく。
「くっ」
 マグナが唇を噛んだ。
「ひとりで複数人の力を持つなど…反則ではないか! うさみたん」
「が、傷を癒すことができるのは奴だけではない」
 ジャンの身が淡く光った。まるで月光のように。
 驚くべし。その光をあびた者の傷がたちまちふさがっていく
「これで遠慮なく戦える」
 ラグナが吼えた。魂すら戦慄させる咆哮。アグルシャプの眼がマグナにむいた。
 何でその隙を見逃そう。秋桜とシマエサが地を蹴った。二人の女シノビが。
 秋桜は嘆きの顔に襲いかかった。シマエサは憤怒の顔に。
「無駄だ」
 薄笑いしつつ、アグルシャプは秋桜の刃とシマエサの投げた手裏剣を死体から引き抜いた剣ではじいた。同時に二本の手から稲妻を放つ。
「させるかぁ」
 グリムバルドとケイウスが疾った。秋桜とシマエサの前に立ちはだかる。
 紫電が散った。またもやグリムバルドの盾が防いだのだ。
「何っ」
 グリムバルドがはじきとばされた。稲妻の威力が増している!?
 そう。稲妻の威力は増していた。いつの間にか憤怒の顔の眼が開いている。
 同じ時、別の稲妻はケイウスを撃っている。刹那、ケイウスの指は絃の上で踊った。
「ううぬ」
 激烈な衝撃に身体を灼かれつつ、しかしケイウスの指はとまらない。彼の生み出した音色は空間をゆらめかせ――閃光。
「ぐあああああ」
 アグルシャプが絶叫した。ケイウスがはじき返した稲妻がアグルシャプの眼を撃ったのである。憤怒の顔の眼を。
「おのれえええ」
 閉じていた嘆きの顔の眼が開きかけた。
「そうはさせぬ」
 リンスガルトが殺到した。地を滑るように迫る。迎え撃つアグルシャプの刃が袈裟に。
 疾る剣光をかいくぐり、リンスガルトはなおも肉薄。が――
 逆袈裟の光がはねあがった。それは避けも躱しもならぬリンスガルトの股にはしり――
 がっきとばかりにアグルシャプの腕は受け止められた。菫のもつ棍によって。
「ぬっ」
 アグルシャプが呻いた。棍によってとめられた腕が瘴気と変じて消滅していく。
「どう、塵となる気分は?」
 菫が菩薩のように嗤った。瞬間、リンスガルトが跳んだ。
 はしる白光は横一文字。真っ赤な血飛沫代わりに散ったのは漆黒の瘴気だ。
「眼は潰したぞ」
「くそお。虫けらがあぁぁぁぁ」
 リンスガルトの掌が赤く光った。龍の顎のように。
 噴く炎。さしものリンスガルトも躱しようがない。
「彼の災いを塵と為せ、灰燼球よ」
 叫びは蜜鈴のあげたものであった。そして炎は消滅した。空間に現出した灰色の光によって。
 蜜鈴は妖しく嗤った。
「然様に険しい顔をしおるな。死したる魂達が怯えるであろ? それよりも」
 蜜鈴の眼が動いた。それを追って動いたアグルシャプのそれが驚愕に見開かれる。
 空に舞う影があった。それをラグナと確かめるより先にアグルシャプの手が動く。
「おまえは確かに強い。が」
 ジャンが静かに舞い始めた。余人は知らず、アグルシャプは異変に気づいている。腕が異様に重い!
「おまえは独り。しかし我らは多くの願いと共に戦っている。すでに勝負は決していたのだ」
 ジャンが告げた瞬間、ラグナの剣――魔剣ラ・フレーメが赤光をはねながらアグルシャプの頭上に振り下ろされた。
「私の一撃は重いぞ…耐えられるかッ?!」


 アグルシャプが瘴気へと還ってわずか後。
「さあ、急ごうにゃ」
 シマエサが促した。男はきょとんとすると、
「いや、ここからは一人で」
「いや、俺も一緒に行くよ!」
 とはケイウスだ。屈託ない笑顔は否やとはいわせぬ温かみがある。
「乗りかかった船だしね」
 菫もまた優しく微笑む。彼女の場合、実家だけではなく、男を妻子のもとまで送り届けようと思っている。この上ない優しいおせっかい焼きだ。
「しかし」
 男は言葉を途切れさせた。
「気にするな。ただの自己満足なんだからさ」
 グリムバルドがぽんと男の肩を叩いて片目をつぶってみせた。
「あいつも同じさ」
 グリムバルドが眼で示した先、ルーンワースもまた無愛想な顔で峠を越えようとしている。
「…行先、方角同じだから」
「だ、そうじゃ」
 蜜鈴が苦笑した。
「不器用な連中じゃが、邪魔にはなるまい。それよりもじゃ、今で無くては伝えられぬ想いもある故…な…早うお行き。わらわにはもう伝える事叶わぬ言葉と想いじゃ。おんしは然と伝えておいで」
「わかり……ました」
 男はようやくそれだけこたえた。それ以上言葉に出せば泣き出してしまいそうだった。
 そして男は駆け出していった。開拓者とともに。
 後に残ったのは蜜鈴とリンスガルトだ。蜜鈴は怪訝そうに、
「おんしも一緒にいくと思っておったがの」
「この人たちを放っておくことはできないからな」
 事務的にこたえ、黙々とリンスガルトが骸をあらためていく。その様子に蜜鈴はリンスガルトの想いを悟った。
 母と対面。少女であるリンスガルトはたまらぬ光景であるだろう。泣き出してしまうかもしれない。
「おんしは優しい女の子じゃ」
 蜜鈴が優しくリンスガルトの髪を撫でた。

 峠を駆け下り、さらに男は走った。やがて村に入った。それでも男は走る。そこで開拓者たちは足をとめた。
「へえ。すごい勢いで走っていくにゃ」
 シマエサが感心したように声をあげた。この後、彼女は母親の手助けもしてやろうと思っている。
「……ははおや、か」
 男の背を見送りルーンワースはふと呟いた。
 たった四文字の言葉。しかし何と心を揺さぶる響きがあることか。
「……うらましいな」
 昏く哀しい瞳でラグナは独語した。天涯孤独な彼には親に愛された記憶はない。だから母の背の温もりも知らない。
 ラグナはうさぎのぬいぐるみを抱きしめると、
「伝えたい思いがある者は…幸いさ。ならば、私は? 私は、何のために…?」
「それを探せばいいのさ」
 ケイウスが笑いかけた。
「さが……す?」
「ああ。彼のように一途に愛することのできるものを。それから全ては始まっていく。あーあ。久しぶりに 家族にあてて手紙でも書いてみようかな」
「そうだ」
 ジャンが肯いた。
「開拓者は明日をも知れぬ身。だからこそ今を懸命に今を生き抜かなければならないのだ」

 男は走った。
 息が苦しく、足も痛い。それでもとまるつもりはなかった。
 ああ。懐かしい家が見えてきた。思い出のいっぱい詰まった家が。
 待っていてくれるよね、母さん。俺を育ててくれた母さん。貴方なら待っていてくれるよね。
 がんばっている貴方に、これ以上がんばってくれとはいえない。それでも俺は母さんに生きていてほしいのです。
 貴方には伝えたいことがいっぱいあるのです。億万回も伝えたいのです。
 今までいえなかった、ありがとう、を。
 ずっといいたかった、ごめんなさい、を。
 そして――
 彼らのことを。