クルィーク
マスター名:御言雪乃
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: やや難
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/03/19 03:27



■オープニング本文


 ジルベリアの冬は深い。春が近いというのに、風にはまだ白いものが混じっている。
 その雪風の中、一人の娘が駆けていた。必死の形相だが、それでも美しい。整った、優しげな相貌。白銀の髪が風に翻っていた。
「待て」
 野太い声がした。
 大柄の男。その手には細身の剣が握られている。眼に殺意の光があった。
 さらに二人。こちらはともに細身だ。が、しなかな体躯の持ち主であった。手には、大柄の男同様剣が握られていた。
「あっ」
 娘がつまずいた。雪煙をあげて倒れる。三人の男が娘を見下ろすようにして立った。
「もう逃がさん」
 大柄の男が剣を突きつけた。
 その瞬間だ。娘が短剣を閃かせた。が――
 娘の短剣が空に舞った。眼にもとまらぬ速さで動いた大柄の男の剣がはじきとばしたのだ。戦いなれた物腰であった。
「むだだ。おまえの腕では俺達には勝てん」
「アンドレイを返して!」
 娘が叫んだ。大柄の男はせせら笑い、
「返す、だと? 何をいっているんだ。俺達はアンドレイを浚ったわけじゃないぜ」
「嘘! アンドレイは貴方達の口車にのせられて」
「ほう」
 細身の男の一人の口から声があがった。
「やはり聞いていたか」
「ならば生かしてはおけぬなあ」
 もう一人の細身の男がニヤリとした。剣を抜き払う。
「死ね!」
 細身の男が剣をふりあげた。娘が思わず眼を閉じる。続いて斬撃が――来ない。
 うっすらと眼を開いた娘は見た。剣をふりあげた姿勢のまま、凍結してしまっかたのように動かない細身の男の姿を。
 細身の男に凍てついた風が吹きつけていた。それは雪まじりの風よりもさらに冷たいもので。
 凄愴の殺気。
 白の幕のむこうから放射される凄絶の殺気により、細身の男は骨がらみ呪縛されているのだった。
 いや、細身の男だけではない。他の二人もまた茫乎として立ち尽くしている。
 その時、風を割って人影が現出した。
 三人の男達は別の意味で凍りついた。陶然として人影に見惚れてしまっていたのである。
 人影は男であった。女と見紛うばかりに美しい若者である。
 艶やかな黒髪は長く、黒瞳は夜を結晶化させたかのように煌いている。頬は磁器のごとく白く滑らかで、唇は蕾のように紅い。
「その娘から離れてもらおうか」
 若者が告げた。その声が男達の呪縛を破った。
「邪魔するか」
 剣を舞わせて男達が殺到した。
 疾る三条の光芒。が、そのどれもが空をうった。そして――
 三人の男達が崩折れた。閃いた三つ刃をすりぬけざま、若者の手刀が男達の首を叩いていたと見とめ得た者がいたか、どうか。
「大丈夫か」
 若者が手を差し出した。娘もまた陶然として若者を見つめていた。


「‥‥叛乱?」
 エレーナと名乗った娘の話を遮り、若者は問い返した。さすがに叛乱との言葉は聞き捨てにはできない。
 はい、とエレーナはこたえた。
「彼らがいっていました」
「傭兵団クルィークか」
 若者は倒れた三人に眼をむけた。気を失って倒れている。エレーナの恋人であるアンドレイもまたクルィークに属していた。
「簡単には話すまい」
 若者は三人から視線をはずした。
 三人は仮にも傭兵である。少しばかり責めてみたところで叛乱という言葉の意味をもらしはしないだろう。またそのような時間もない。三人の行方が知れなくなったらクルィークがどのように動くか。
「さて、どうするか」
 若者はしばし迷った。
 クルィークがどのような規模の傭兵団であるかわからない。ジルベリア帝国最強騎士団に属する彼の腕をもってすればそれなりに戦うこともできよう。が、問題はそんなことではなかった。叛乱の意味を探らねばならない。さらにはアンドレイの対処。
 成功し、金と力を得てエレーナと結婚するのがアンドレイの目標であったようだ。エレーナのため、アンドレイをこのままにはできない。
「まだ隊長の力を借りるわけにもいくまい。であるならば開拓者か」
 アンドレイのことは任せておけと告げて若者は背を返した。その背にむかい、エレーナは問うた。お名前を、と。
「サーシャ・トリストラム」
 若者はこたえた。


■参加者一覧
梢・飛鈴(ia0034
21歳・女・泰
ヘラルディア(ia0397
18歳・女・巫
神咲 輪(ia8063
21歳・女・シ
劉 那蝣竪(ib0462
20歳・女・シ
カルロス・ヴァザーリ(ib3473
42歳・男・サ
ルー(ib4431
19歳・女・志
雪刃(ib5814
20歳・女・サ
ミレーヌ・ラ・トゥール(ib6000
13歳・女・騎


■リプレイ本文


 ひらり。
 ひとひら。
「あら?」
 舞い降る雪片を小さな掌で受け止め、一人の娘が眼を細めた。
 流麗な娘だ。華奢で小柄で、少し蒼みがかった黒髪を背に揺らせたその姿は天女のようで。
 神咲輪(ia8063)は呟いた。
「風花?」
 輪の胸に自ずと詩がうかんだ。
 君が為、花散る里に風が舞う。
「たまらないな」
 輪は溜息を零した。
 彼女はシノビ。そのシノビの世界はまさに弱肉強食であった。
 そのシノビの掟が輪は嫌いであった。彼女は命が愛しくてたまらない。
 だから救う。命を。アンドレイを。エレーナのために。
「サーシャさんもそうなの?」
 輪が眼をむけた。その視線の先には一人の若者が立っている。
 寒気のするほどの美麗な相貌。まるで夜空に煌く星の光を結晶化させたかのような。
 サーシャ・トリストラム。皇帝親衛隊騎士だ。
 そして、もう一人。サーシャにじっと視線を注いでいる者があった。
 輪と同じような体格。が、こちらは十三ほどの少女に見える。気が強そうに感じられるのは、睨みつけるかのような目つきのせいであるかもしれない。
 今も少女――ミレーヌ・ラ・トゥール(ib6000)はサーシャを睨みつけていた。
「あいつも親衛隊の騎士みたいだけど、一体何を考えてるのかしら」
 ミレーヌは独語した。
 気に入らない。あいつより、私の方がもっとユリア隊長の役にたてるはず。私の方がもっと――
「ある意味予想はしてましたが」
 声を発したのは十八ほどに見える少女であった。金髪をはらりと頬にたらした、大人しげな相貌。が、その蒼の瞳の中には強い光がやどっている。
 少女――ヘラルディア(ia0397)は傍らの娘に眼をむけた。
 それは夏の光の滲む色香をもった娘であった。名は緋神那蝣竪(ib0462)というのだが、どうやら二人は顔見知りらしい。ヘラルディアの言葉に、小さく那蝣竪は肯いた。
「皇帝暗殺未遂の次は、叛乱。何かが蠢きつつあるという感じね」
 那蝣竪はいった。
 その予感は那蝣竪故にこそ持ち得たものであるかもしれない。シノビである彼女は、元来勘と情報分析能力に優れている。
 ヘラルディアは哀しげに睫を伏せた。
 彼女の両親はジェレゾに住む一般市民であった。もし再びヴァイツァウの乱の如きものが起こったらどうなるか。
「芽のうちに摘み取らなければ」


 村の外れ。
 レンガ造りの建物があった。どうやら使われなくなった倉庫であるらしい。入り口らしき戸の前に二人の男が立っていた。
「うん?」
 男の一人が怪訝そうに眼を眇めた。
「何だ、貴様ら」
「俺達か」
 足をとめた男が口を開いた。
 男は四十ほどの年配に見えた。人間ではない。角と、肌の一部に鱗をもつところから神威人――おそらくは竜の神威人であろう。
「俺はカルロス・ヴァザーリ(ib3473)」
「あたしは梢飛鈴(ia0034)」
 女らしきもう一人も名乗った。らしき、というのは顔が見えなかったからだ。
 その影は仮面をかぶっていた。ただ声は子猫の鳴き声のように甘く、胸は豊かな膨らみをもっている。
 飛鈴は続けた。
「ここは傭兵団クルィークの本拠でアル、な」
「だったらどうした?」
「仕事がほしい。俺達は金がいる」
 カルロスはいった。餌をまいたのである。
 真にクルィークが叛乱に加担しているのであれば、人手がいるはずである。だからこそ理想などもたぬアンドレイのような阿呆がつられたわけで。
 カルロスは、基本、世には二つの人種しかないと思っている。使う者と使われる者だ。そして使う者は、大抵使われる者を多く必要としている。
「用はない」
 男の一人がいった。するとカルロスはニヤリとして、
「いいのか。腕はいいぞ」
「面白い」
 ドアが開いた。中から現れたのは引き締まった肢体の巨漢である。
「その腕、見せてみろ」
「試験、というワケ、か?」
 飛鈴が問うた。するとカルロスの口から嘲りの滲んだ声がもれた。
「俺はな、本当は金なんてどうでもいいんだ。この破壊衝動を満足させられれば、それでいい。来いよ。壊してやる」
 カルロスが抜刀した。今いったカルロスの台詞だが、あながち嘘ではない。
 触発されたように二人の男が殺到した。
 刹那、カルロスの刀が縦一文字に薙ぎ下された。男の一人の剣を叩き落す。
 同じ時、飛鈴の脚が眼にもとまらぬ迅さで疾った。もう一人の男の剣を握った手を蹴り上げる。
「そこまでだ」
 巨漢が獰猛に笑った。


 ジェレゾの外れ。
 一人の娘の姿があった。
 鮮やかな紅色の髪に宝玉のような金色の瞳。涼しい相貌には似つかわしくないほど胸や尻が豊かに見える。それは肢体がしなやかに細いせいであるかもしれないが。
 ルー(ib4431)。かつてはオーガとも恐れられた、そして今は無角の一角馬の神威人である娘は一軒の店の前で足をとめた。
 看板には剣が描かれている。武器屋であった。
「傭兵団クルィークか」
 呟くルーの瞳は昏い。何故なら彼女は傭兵団なるものにあまり良い印象を抱いてはいなかったからだ。
 かつてルーを買ったもの。ルーを飼っていたもの。
 傭兵団は彼女にとって茨の枷であった。身体と魂を縛り、ルーを血まみれにした。自由となった今でも、傭兵という言葉を聞くだけでルーの心は震えるのである。
「大丈夫。私は好きに走ることができる。もう誰も私を捕まえることはできない」
 ルーはドアを押して中にはいった。
 
 同じ時。クルィークの本拠のある村。
 その中央広場に美麗な二つの人影があった。
 ひとつはサーシャである。そしてもう一つは開拓者のものであった。
 銀髪蒼瞳の娘である。銀狼の神威人であるせいが、どこか凛然とした孤高の気風を漂わせていた。サーシャと似ていなくともない。
 雪刃(ib5814)という名の開拓者は豪壮な屋敷の門扉を叩いた。
「何か用か」
 庭の方から一人の男が歩み寄って来た。初老で、倣岸な目つきをしている。身形からして屋敷の主であろう。
 二人が物乞いとでも男は勘違いしたのか、
「ここはお前達のような者が来るところではない」
「ドミトリーだな」
「何っ」
 呼び捨てにされて、男――村の有力者であるドミトリー・マラシュキンは血相を変えて、サーシャを見た。そしてはっとして眼を瞬かせた。サーシャの顔に見覚えがあったからである。
「貴方は‥‥貴方様は」
「皇帝親衛隊のサーシャ・トリストラムだ」
 声をなくしドミトリーは後退った。眼前の若者が簡単に領主の一人や二人を抹殺できる存在であることに思い至ったのである。
 そのドミトリーの惑乱ぶりを、雪刃は驚きの眼で見つめた。騎士というから、連れていけば少しは役に立つだろうとは思っていたが‥‥。
 雪刃はいった。
「聞きたいことがある」


「二十人、か」
 呟く声は木陰から流れた。
 ヘラルディアである。彼女はずっと木陰に身をひそめ、クルィークの動向を見張っていた。
 出入りの人数は二十人ほど。が、これが全てとは限らない。三十ほどはいるとみていいだろう。
 叛乱とは何か。
 ふとヘラルディアは思った。
 彼女は無意識的にクルィークの目的は帝国に対する叛乱だと考えていた。が、三十人ほどの規模の傭兵団のみにての帝国に対する叛乱は成るか? 否、と答えざるをえない。
 では地方領主に対する叛乱であろうか。それなら一傭兵団にても成し得るかもしれない。
 この辺りの領主についてサーシャに調べてもらっている。そのこたえがわかれば――
 その時、ヘラルディアの眼が驚愕に見開かれた。


 そこは町で最も大きな酒場であった。故に客は多い。いつもは喧騒で満ちているのだが、しかし――
 今宵は違っていた。酔客は口を閉ざし、眼を一点にむけている。一人の娘に。
 少女はハープを手に、詩を口ずさんでいた。その音色が溶けて、娘の可憐な姿を春の幻のように見せている。
 輪であった。
 と、一滴の雫が落ちた。グラスから。男の膝に。
 男はクルィークのリーダーであった。クルィークの本拠のドアから姿を見せた男だ。名をイーゴルという。同じ卓についているのは誰あろう飛鈴とカルロスであった。
 イーゴルはちらりと眼をあげた。グラスを手に、一人の娘が立っている。
「ごめんなさい」
 娘は謝罪した。
「私、たくましい男性に弱くって‥‥ここ、いいかしら?」
 こたえを聞くより早く、娘はイーゴルの隣の椅子に腰をおろした。
「私、那蝣竪というの」
「俺はイゴールだ」
 イーゴルはこたえた。腕に這った那蝣竪の指が心地よい。
「いい女だな。どうだ、今夜?」
 イーゴルが熱にうかされたような眼を那蝣竪にむけた。用心深いイーゴルにしては珍しい、と同席しているクルィークの傭兵――ラーヴルは思った。それが那蝣竪の技である夜春の仕業であるとは、無論ラーヴルは知らない。
「私も一緒にいきたいな」
 声とともに、すうとラーブルの隣に腰掛けた者がいる。輪であった。
 輪は無意識を装い、ラーブルの膝の上に手をおいた。
「だめ?」
「い、いや」
 ラーブルが首を慌しく振った。
 その時だ。飛鈴が口を開いた。
「そろそろ答えてもらおう、カ。あたしたちを仲間にするのか、どうカ」
「慌てるな」
 イーゴルが顔を顰めた。
「まだお前達を信用したわけじゃない」
「だったらそいつらは信用スル、のか。女にでれでれするだけの奴、ニ。小娘の尻追いかけてノされた三人組といい、ここの奴等はこんなんばっかりカイ?」
「何っ?」
 イーゴルの眼がぎらりと光った。飛鈴のいう三人について心当たりがあったからだ。
 ナウム、ステンカ、カルルの三人の姿が見えなかった。情婦のところにしけこんでいるのだろうと思っていたが、それにしては長い――
「飛鈴といったな。聞きたいことがある。戻るぞ」
 イーゴルが立ち上がった。そして那蝣竪を見遣ると、
「続きは今度だ」


「何か呪文でもかかっているのか」
 雪刃が問うた。夕暮れの街路である。
 雪刃達は幾人かの有力者のもとをまわった。有力な情報を得られたわけではないが、驚くことがひとつあった。どの有力者もサーシャの名を聞いただけで態度が急変するのである。
 いや、とサーシャが答えた時だ。
 ぴたりとサーシャの足がとまった。雪刃も。
「気がついたか」
「ああ」
 雪刃が肯いた。
 殺気がある。針のように密やかなものだ。数は――
「四つ?」
「いや、五つだ」
 サーシャがいった。
 刹那、空に黒影が躍りあがった。
「さがってて!」
 雪刃が怒鳴った。これでもサーシャを思いやっているのである。
 雪刃が前に出た。一気に黒影のひとつに襲いかかる。ただ攻撃のみに特化した一撃は鋭く、黒影が叩き伏せられた。峰は返してあるのは斬り捨てることはない。
 次の瞬間、四つの光がはねた。風車の如く回転しつつ刀がとぶ。刺客の得物だ。
「剛い。が、無茶だ」
 細身の剣をだらりと下げたサーシャが忠告した。
「そうかな?」
 雪刃は首を傾げた。素直には肯けない。
 気づけば四つの黒影の姿は消えていた。雪刃が叩き伏せた黒影は――
 天儀の男であった。舌を噛み切って死んでいる。
「私達がよほど邪魔だったようだね」
 雪刃がぼそりと呟いた。

 同じ時、ルーもまた足をとめていた。振り向くなり、宝珠銃――皇帝の筒先をむける。
 建物の屋根の上に異様な者が立っていた。
 眼の部分のみ開いた銀色の仮面。フードをかぶっているために、他の部分はわからない。
「無駄だ。デニスはすでに始末した」
 仮面の者からくぐもった声が発せられた。男か女かはわからない。デニスとはルーが探り出した武器商人の一人であった。
「何者なの?」
 ルーは皇帝をおろした。仮面の者との距離はおよそ三十五メートル。皇帝の射程外であった。
「さあて」
 ニヤリ、と笑ったらしい。次の瞬間、仮面の者の姿がふっと消えた。


 どれほど時がたったか。
 クルィークの本拠の前に佇んでいたミレーヌは口を開いた。大音声を発する。
「出て来いアンドレイ! 私と勝負しろ!」
 まずい、と。ヘラルディアは慌てた。
 計画では仲間が潜入するはずである。真正面からぶつかった場合、どうなるか――
 そのヘラルディアの憂慮も知らぬげに、ミレーヌは再び叫んだ。当たって砕けるつりであった。
 騎士たる者は常に堂々としているべきとミレーヌは考えている。何をこそこそする必要があろう。
 その時、ドアが開いた。一人の若者が姿をみせる。優しそうな相貌の若者だ。
「アンドレイは俺だ。お前は?」
「私の名はミレーヌ・ラ・トゥール。エレーナのためにここに来た」
「エレーナだと?」
 アンドレイの顔色が変った。
「エレーナがどうかしたのか?」
「クルィークのメンバーに殺されそうになった。叛乱を企んでいると知ったが故に」
「そういうことだ」
 声が、した。イーゴルの声が。愕然たるアンドレイの声が響いた。
「どういうことなのですか? 叛乱とは、いったい」
「死んでもらうしかないな」
 イーゴルの冷たい眼が飛鈴とカルロスに向けられた。
「あの二人を殺れ。見事仕留めたならクルィークに迎え入れてやろう」
「いいだろう」
 カルロスのみ動いた。するすると蛇の速度で歩み寄ると、ミレーヌを斬り下げた。
「な、何を」
 鮮血にまみれ、ミレーヌが呻いた。カルロスはニンマリすると、だらりと下げた血刀をはねあげ――
 刃がとまった。ミレーヌの顎寸前で。
 カルロスの手を踵がおさえていた。飛鈴の踵が。
「ここまでだ、ヨ。これ以上ハ」
 飛鈴の脚に殺気が込められた。
 その瞬間だ。イーゴルの手からナイフが飛んだ。それは気死したように佇んだままのアンドレイの胸に吸い込まれ――
「逃げて」
 声は、ナイフを背で受け止めた娘の口から発せられた。那蝣竪だ。
 と、アンドレイの腕を温かな手が掴んだ。輪である。
「こっちへ」
「俺は」
 アンドレイが反射的に手をひいた。すると鞭のような鋭い声がとんだ。ヘラルディアの怒声だ。
「愚かな真似はやめてください。貴方の愛する者を殺そうとした者達の為に、まだ捨石となるつもりなのですか」
「くっ」
 唇を噛み締め、アンドレイが走り出した。舌打ちすると、イーゴルが絶叫した。
「逃がすな。皆殺しにしろ」
「待て」
 声がした。ひやりとした無機質なもの。
 イーゴルと十数人の傭兵達の動きがとまった。声の主を見る。
 それは黒影であった。雪刃を襲った者と同じ黒装束をまとっている。
 黒影はいった。
「すぐに退け。皇帝親衛隊が動いている」


「ごめんなさい」
 悄然と那蝣竪は項垂れた。したたか、かつ伸びやかである那蝣竪にしては珍しい。
「クルィークの背後を探ることはできなかったわ」
「仕方あるまい」
 冷然とサーシャはこたえた。そして、しかし、と続けた。
「ミレーヌという騎士。面白いな。それはそうと」
 サーシャは問うた。
「それでエレーナは?」
「喜んでいたわ。すごく」
「そうか」
 サーシャの口元に小さな微笑がういた。
 どんなに辛くとも明日からもまた生きていけると那蝣竪は思った。それは、そんな微笑であった。