北の暗雲
マスター名:御言雪乃
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: やや難
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/03/09 21:56



■オープニング本文


 暗殺を免れた獅子は苛立っていた。
 そこは広大な居室。椅子に一人の男が座している。
 年齢は五十ほど。すでに初老といってよい年頃であるが、その身体には煮えたぎるような覇気が満ちている。
 男の名はカラドルフ。ジルベリア帝国皇帝であった。
「まだか」
 皇帝は怒気を滲ませた声をあげた。侍臣を身を震わせると、
「はっ、それが」
 声を途切れさせた。帝国の人間にとって神同然である皇帝の怒りに触れることの恐ろしさは誰よりも知っている。
 その時だ。ドアを叩く音が響いた。
「只今到着なされました」
「うむ」
 皇帝が頷いた。
 直後のことである。ドアが開いた。
 姿を見せたのは娘であった。煌く金髪を無造作に後で括り、背に流している。
 年齢は二十歳後半であろうか。が、滑らかな肌といい、可憐な相貌といい、十代後半といっても疑う者はいないだろう。まるで妖精のように美しい。
 ただ眼のみ異様であった。やや灰色がかったアイスブルーの瞳には炯とした光がやどり、美少女然たる外見を裏切っている。
 娘は皇帝の前に歩き進むと、片膝ついた。
「皇帝親衛隊隊長、ユリア・ローゼンフェルド。お召しにより参上いたしました」
「うむ。よく来た」
 皇帝の顔が綻んだ。
 侍臣はほっと息をついた。若い親衛隊隊長は皇帝の大のお気に入りで、その顔を見るだけで機嫌が良くなるのだった。
 皇帝が問うた。
「何故、わしがお前を呼んだか、わかるか?」
「暗殺未遂のことでございますか」
 ユリアが顔をあげた。うむ、と満足げに皇帝は肯いた。そして恐れ気もなく平然と見返すユリアの瞳を見つめた。
 内心ではあるが、皇帝は微笑を禁じえない。何故なら己の判断に間違いなかったことを改めて認識したからである。ユリアを親衛隊隊長に抜擢したのは他ならぬ皇帝自身であった。
 その理由は何か。
 まず第一は家柄である。ローゼンフェルド家はジルベリア帝国の名門であり、過去、宰相を輩出したこともあった。
 第二はユリアの騎士としての能力である。戦闘能力は図抜けたものをもっており、さすがに女のことことて力では劣ることもあるが、その業と迅さを凌ぐ者を皇帝は知らない。
 が、本当のところ、皇帝がユリアを抜擢した理由は彼女の知と肝にあった。抜擢した皇帝自身恐ろしくなるほどその智謀は深い。そして豪胆である。放っておけば何を仕出かすかわからず、とりあえずは首輪をつけたという方が正解であるかもしれない。
「ユリア。おまえに命じることがある」
 皇帝はゆったりと口をひらいた。


 皇帝親衛隊の控え室に戻るなり、ユリアはどさりと椅子に腰をおろした。
「何か面倒なことでも?」
 鋭い眼をした、それでいて理知的な相貌の巨躯の男が口を開いた。親衛隊騎士で、名をスパルタクという。
 ああ、とユリアは肯いた。
「暗殺未遂の件は知っているだろう」
「はあ」
 今度はスパルタクが肯いた。
 つい先日のことである。ある青年が皇帝との拝謁の機会を得た。皇帝親衛隊騎士にと、貴族達の熱心な推挙により実現したのである。
 ところが、だ。その青年は拝謁の場で皇帝に襲いかかった。殺意をもって。
 その暗殺は阻止された。どうやら暗殺の件が事前にもれていたらしく、警護の者が用意されていたらしいのだ。
「しかし」
 スパルタクは疑念の声をあげた。
 いかに皇帝親衛隊候補の青年がおかした事件とはいえ、皇帝親衛隊には何の関係もない。何故隊長が皇帝に呼びつけられねばならないのか。
 さらにいえば青年の背後にはアヤカシの存在があったという。
「事が事だ」
 ユリアは至極平然といいはなった。
「どうやらその青年はアヤカシに操られていたらしい。が、事情はどうあれ、かりにも皇帝陛下のお命を狙ったのだ。ただではすむまい。おそらく推挙した貴族どもは震え上がっているであろうよ」
 くすくすとユリアは笑った。
 彼女には貴族どもの腹の内は読めている。いかに優秀であろうとも、記録を見る限り青年は下級騎士だ。そのような者をどうして貴族達は推挙したか。
 理由は簡単。己の立身出世のためである。
 皇帝親衛隊は文字通り皇帝直属の騎士だ。帝国最強の騎士達が集められ、その隠然たる影響力は絶大である。いかな有力貴族といえど無視することはできない。過去、皇帝親衛隊ににらまれ、取り潰された有力貴族がどれだけあったか。
 もし青年が皇帝親衛隊騎士となったあかつきには、推挙した貴族は青年を養子にし、帝国内における地位を磐石のものとするつもりであったのであろう。それは所詮砂の城にしかすぎなかったが。
「皇帝陛下は、この一件を調べるよう、私に命じられた」
「隊長に?」
 スバルタクが怪訝そうに眉をひそめた。事件の調査は皇帝親衛隊の仕事ではない。
「おそらくはあの女の仕業だ」
 苦々しげにユリアはいった。
 ユリアのいうあの女とは皇帝の側室のことである。名をオルガという。
「皇帝陛下をそそのかし、私を調査の任にあたらせたのだろう」
「何のために?」
「私の力量を見極めるためであろうな。それと恩を売るため」
 あの女の考えそうなことだ、とユリアは思った。
 オルガは騎士であったが政治工作を得意とし、実のところ、あまり他の騎士達からの評判は良くない。所詮は密偵にすぎぬと罵る者を何人もユリアは見てきた。が、ユリアのオルガ評は彼らとは別であった。
 帝国を成り立たせているものは剣のみではない。光があれば、やはり影もあるのだ。影を担う者がいなければ帝国の繁栄はありえず、その点において確かにオルガは有能であった。
「が、まあ、私としても気になることではある」
 ユリアは眼を眇めた。
「今回の暗殺、青年とアヤカシまでで事が終わればよし。が、さらにその先に糸が続くようなら事は重大だ」
 ふと、ユリアの脳裏をある凄惨な出来事がよぎった。ヴァイツァウの乱と呼ばれる叛乱のことである。
 帝国において、同じ帝国の者が血を流しあう。なんと馬鹿げたことであるか。
 首謀者であったコンラートをユリアはよくは知らない。幼少時、時折顔をあわせた程度である。が、戦乱の中でも高潔な人物であるとは聞いていた。
 その高潔の士にアヤカシがとりついた。ヴァイツァウの乱の裏ではアヤカシが暗躍していたのであった。
「あのようなことは真っ平だからな。――待て」
 勇躍立ち上がろうとするスバルタクをユリアがとめた。
「親衛隊は動かさぬ。我らが動くと大事になるからな。代わりに開拓者に動いてもらう。彼らをつかえば、調査の内容を私の胸におさめておくのも容易くなるだろうからな」
「‥‥なるほど」
 スバルタクはニヤリとした。調査結果を、内容によってはユリアは秘匿情報にしようとしているのだった。
「政治、ですか」
「いや、ゲームさ」
 ユリアも笑う。
「ゲームに勝つには切り札が多い方がいい。だろう?」


■参加者一覧
ヘラルディア(ia0397
18歳・女・巫
大蔵南洋(ia1246
25歳・男・サ
劉 那蝣竪(ib0462
20歳・女・シ
カルロス・ヴァザーリ(ib3473
42歳・男・サ
計都・デルタエッジ(ib5504
25歳・女・砲
雪刃(ib5814
20歳・女・サ
アリア・シュタイン(ib5959
20歳・女・砲
ミレーヌ・ラ・トゥール(ib6000
13歳・女・騎


■リプレイ本文


 雪はやんだ。が、依然として吹く風は身を切るほどに冷たい。
 ふっ、と。口から白い息をもらしたのは十三歳ほどに見える少女であった。騎士であるのだが。華奢で小柄で、とてもそうであるようには見えない。
 ミレーヌ・ラ・トゥール(ib6000)と名乗っているこの少女は、一度口元にもっていきかけた手をおろした。悴んだ手を温めようとしたのだが、人目を気にしたのである。侮られるのは我慢ならなかった。
「帝国が誇る皇帝親衛隊。帝国中の貴族や騎士達の憧れの的! 此処で手柄を立てたら入隊を許されるかも」
 ミレーヌは独語した。
 彼女の夢は帝国一の騎士になることである。英雄となれば誰にも侮られることはない。
 ミレーヌはちらりと傍らに立つ娘を見た。
 年齢は二十歳ほどに見える。銀色の長い髪を背にまで流した、冷然たる風貌の持ち主。アリア・シュタイン(ib5959)という名は先ほど耳にしたが、ミレーヌはアリアに羨望に近い感情を覚えている。
 何者にも屈せぬ、凛としたその姿勢。すべてを射抜くかのような視線。生来臆病であるミレーヌには決して持ちえぬものだ。
 そのミレーヌの視線に気づいたか、アリアが口を開いた。
「ユリア・ローゼンフェルド皇帝親衛隊隊長(iz0190)殿はおられぬようだな」
 残念だ、とアリアは付け加えた。それは依頼のためだけでなく。なんとなればアリアにとって、ユリアは興味ある対象であったからだ。
 ミレーヌが英雄に憧れているように、アリアは強い女性に憧れの思いを抱いている。そしてジルベリアにおいて強い女性の第一といえばユリアであった。
「仕方あるまいよ」
 淡々とした声をあげたのは二十歳半ばほどの男であった。目つきが悪く、ごつごつとした顔は決して二枚目とはてえないものの、独特の愛嬌がある。
 大蔵南洋(ia1246)という名のサムライはちらりとアリアを見ると、
「どうやらユリア殿は皇帝親衛隊が表に出ることを好まれぬようだ」
「何故わかる?」
 ひやりとする声で問うた者がいる。
 人ではない。竜の神威人だ。細身だが、強靭な発条をひめた体躯をしている。
「カルロス・ヴァザーリ(ib3473)殿か」
 南洋は、この男には似合わぬ冷厳たる声を発した。何故かというと、南洋はあまりカルロスのことが好きではなかったからだ。カルロスの発する虚無的ともいうべき頽廃の気が。
 南洋は続けた。
「皇帝親衛隊の力は絶大だと聞く。それなのに敢えて開拓者の力を借りるのは表立って動けぬ理由があるからに他ならぬ」
「相変わらず利口だな、おぬし」
 カルロスの口が嘲りの形にゆがんだ。南洋がそうであるように、カルロスもまた南洋のことが好きではない。彼とは真逆の存在である故に。
 義と仁。南洋を成り立たせている要素は煎じ詰めればこの二つに集約する。
 対してカルロスの精神を構成しているものは何か。それは凶と無であった。
「ユリアとやら、良い女と聞いていたので楽しみにしていたのだがな」
「失礼なことを口にするな」
 剃刀の声音をアリアは発した。それはユリアを庇ったわけではなく。
 アリアもまたカルロスのことが気に入らなかった。カルロスを見ていると、ある人物のことを思い出すからだ。それはアリアの父であった。
 ジルベリアの兵士であるアリアの父は、アリアに対してまったく愛情というものを持ち合わせていなかった。それと同じようにカルロスもまた愛無き者である。見ているだけでアリアはいらついた。
「まあ〜、いいではありませんか〜」
 間延びした口調で、アリアとカルロスの間に割って入ったのは二十歳半ばに見える娘であった。薄紅色の髪の下の眼が半円の形に笑んでいる。猫のように得体の知れぬ笑みだ。
「そうよ」
 肯いたのも娘。見たところ二十歳ほど。こちらも猫の印象がある。とはいっても雪豹だ。しなやかな肢体からは花の甘い香りが匂い立つようであった。
 二人の娘――計都・デルタエッジ(ib5504)と緋神那蝣竪(ib0462)は眼を見交わした。そして互いに微笑みあった。
 その瞬間、殺気の光波が疾ったと見えたのは気のせいであろうか。
 南洋とカルロスと同じく、彼女達もまた互いの内に異質のものを見出していた。そして憎悪した。
 那蝣竪にとって他者とは何か。それは繋がりという温かさである。が、計都は他者につながりなど求めていない。単なる欲望の対象でしかなかった。
「私は暗殺未遂犯の青年の自宅にむかうわ」
 那蝣竪が背をむけた。すると計都もまた背をむけ、
「私は青年と面会いたします〜」
 歩き出した。


 それは異様な組み合わせに見えた。
 長身の、昏い眼をした男。中背の、鋭い眼をした青年。その傍らを歩いているのは大人しげな、どこかふわりとした雰囲気をもった少女であった。蒼の瞳は深く澄んでおり、頬の辺りに垂れた髪がさらりと揺れている。
 男はカルロスと南洋。少女はヘラルディア(ia0397)。二人は今、暗殺未遂犯である青年を推挙した三人の貴族のもとにむかっていた。
「三人の名はベルナルト・アベルツェフ、コーリャ・ブラランベルグ、ミーチャ・コールンドルフ、か」
 南洋はユリアより与えられたという資料に視線をおとした。
「特に推挙すべき理由はないな」
 シンは貧しい騎士で、上流貴族であるベルナルト達との関係は特にない。
 ふっ、とヘラルディアが口を開いた。
「皇族の暗殺が起こったのは驚きですが、それにアヤカシが絡んでるとなると更に尋常な事ではございませんね」
「確かにそうだが」
 南洋は首を傾げた。
「杜撰すぎる。このような事をして、一体誰がどのような利を得たというのか?」
 仮にも皇帝を暗殺しようというのだ。もっと綿密な計画がなされていいはずなのに、情報がもれるとは。事実暗殺は失敗している。
「利を得た者はいるさ。いや、利を導き出そうとする者がな」
「どういう意味ですか」
 ヘラルディアが怪訝そうにカルロスを見た。カルロスは薄笑いを浮かべると、
「調査を命じられたにしては、情報があやふやなのが気になる。暗殺が漏れていたらしい、アヤカシに操られていたらしい‥‥。らしい、の羅列だ。そもそも暗殺が事前に分かっていたならば、謁見するだろうか。どうも人為的な工作の臭いを感じる」
「では皇帝陛下やユリア様は何もかも承知ではないかと?」
 ヘラルディアは愕然として瞠目した。さて、とカルロスは首を振った。
「暗殺の計画があったこと、おそらく皇帝が事前に知ることはなかったであろう。が、ユリアはどうか」
 ぞくり、とヘラルディアは身を震わせた。
 すべてを承知の上で、知らぬ顔で開拓者に依頼を出す。アヤカシよりもさらに恐ろしいものを、ヘラルディアはユリアに感じた。


 皮肉というべきか。
 結局のところ、計都と那蝣竪は再び顔をあわせることとなった。
 計都、そして同行したミレーヌは当初囚われたシンのもとにむかったのであるが。牢獄の中にある重犯罪者と面会できるはずもなく。ユリアの名を出せぬ以上、大人しく引き下がるほかなかった。
 が、ユリアによりシンの住まいは知らされていた。それで計都とミレーヌはジェレゾ郊外にむかったのである。そして、そこで那蝣竪と再開したのであった。
「シンには会えたの?」
 那蝣竪が問うと、計都は肩を竦めて首を振った。
「残念ですが」
 あまり残念そうには見えない。それくらいは計算済みであったのだろう。
「ここに何かあるはずなんだ」
 ミレーヌは粗末な家屋を見つめた。すでに主のいなくなった建物は、ただ空虚で。
 この家屋に住んでいた青年はきっと貧しい暮らしをおくっていたに違いない。皇帝親衛隊推挙の話がもちあがった時、果たして青年はどのような想いを抱いたことだろうか。
 哀れなるかな。
 ミレーヌの胸にこみあげるものがあった。彼女とて決して裕福ではなかったのだ。
 いいや!
 ミレーヌは我知らず首を振った。
 青年は未来に挑戦し、敗れた。が、私は違う。
 ミレーヌが家屋のドアに手をかけた。ドアに鍵はかかっていなかった。
 ミレーヌが足を踏み入れた。しんと冷えた空気が彼女の身を包む。
 続いて入り込んだ那蝣竪は室内を見回した。質素な家具がおかれている。
「今のジルベリア皇帝を討っても、代わりになる器の人っているのかしら?」
 誰にともなく問うた。計都は、さあ、と首を捻ると、
「噂に聞く皇子皇女は〜、変人や病弱な者ばかりらしいですよ〜。それよりも〜」
 計都もまた室内を見回した。
 シンはアヤカシに憑かれていた。となれば、どこかでアヤカシと接触したはずである。それはどこか?
 計都と眼がとまった。ある一点で。


 広壮な屋敷の前である。
 ヘラルディア達三人は見知った顔と出合った。
 背丈よりも長大な刀を担いだ、銀狼の神威人の娘。刃のような視線を屋敷にむけている。八人めの開拓者、雪刃(ib5814)であった。
「きみたちも嗅ぎつけたようだね」
 雪刃がヘラルディア達に冷然たる眼をむけた。どうしてここに、という南洋の問いに、雪刃は当然だといわんばかりに肩をそびやかせ、
「酒場を回ってみたんだ。強い戦士を探している貴族を知らないかってね。で、三人の貴族の誰かがひっかかるかと思ったら」
「ここか」
 カルロスが屋敷を見た。
 持ち主はフェリックス・バルシャイ。有力な貴族の一人であり、三人の貴族に敵対している。
 カルロス達は三人の貴族の周辺を調べた。ヘラルディアは雇用され、内部に潜り込もうとしたが、さすがに見知らぬ者を貴族に紹介してくれるはずもなく。仕方なくカルロス達は聞き込みにつとめたのが――
 三人の貴族に怪しい点は見当たらなかった。ただの権力に憑かれた亡者である。
 かわりに一人の貴族の名がうかびあがった。それがフェリックスであった。
「さあて。どうでるか」
 雪刃が門扉に手をのばした。と、その手をカルロスが掴んだ。
「何か算段はあるんだろうな」
「もちろん」
 雪刃が門扉を叩いた。
「あるわけないよ」


 一人の若者が立ち止まった。身形からして騎士である。
「何か、用か」
 振り返る。
 一人の娘。表情の少ない人形めいた顔の中で、挑むような赤い瞳が光っている。
「わかっているはずだ。グリゴリー・チェルノフ」
 娘――アリアはいった。若者――グレゴリーは顔を顰めると、
「知らないといったろう、シンのことなど」
「友人なのだろう、あなたは」
 アリアの声に怒気が滲んだ。
「よく知らないなどといえるな。関わりになるのが恐いのか」
「当たり前だ」
 グレゴリーは唾を吐き捨てた。
「皇帝陛下に刃をむけるなど‥‥八つ裂きにされても仕方のない重罪だ」
「弱虫め」
 アリアの怒声が響いた。彼女の人の脆弱さを憎む。アリアは続けた。
「彼を救いたいとは思わないのか。少しでも友情と騎士としての誇りが残っているならば教えてくれ。シンのことを」
「‥‥くっ」
 グレゴリーの顔が歪んだ。そして告げた。
「‥‥俺は本当にシンのことは知らないんだ。最近は付き合っていない。が、奴には親友がいた」
「親友?」
「ああ。騎士だ。名はヴィターリー・セルゲーブという」
「ヴィターリー・セルゲーブ?」
 アリアの脳裏を何かがかすめてすぎた。どこかで聞いた名だ。そう、どこか。大切な何かにかかわることで――


 雪刃の眼が凄絶に光った。それだけで――
 傭兵らしき男が後退った。
 一瞬の隙。
 踏み込みざま、雪刃が刀――天墜をはしらせる。斬る、というよりぶち砕くかのような一撃が男の顔面に迫り――
 ぴたりと刃がとまった。男の顔の寸前で。
 と、拍手が響いた。
 尊大に椅子に座した男。フェリックスである。
「見事だ」
 立ち上がると、フェリックスは背を返した。
「お前達を雇おう。いずれ動乱の時代がくる。その時は私のために働いてもらう」
「皇帝陛下のためではなく、か」
 南洋が問うと、フェリックスは足をとめた。
「私のために働くということは、皇帝陛下のために働くという意味だ」
 再びフェリックスは歩き出した。
「アヤカシには憑かれていません」
 ヘラルディアが告げたのは、フェリックスの姿が消えてしばらく後のことであった。


 鏡。
 質素な室には似つかわしくない、それは豪華な代物であった。巨大で、精緻な装飾が施されている。
 この鏡は密告の主――シンの家に仕えていた娘が用意していたものである。無論、この時開拓者達はその事実を知らない。ただユリアからの情報らより、彼らは娘の死を知っていた。
「いかにもって感じですね〜」
 計都の口の端がつっと吊り上がった。那蝣竪の手もすうと懐の苦無にのびる。こんな時ヘラルディアがいれば、と思わざるを得ない。ヘラルディアならばアヤカシの存在を感知できるはずだ。
 ミレーヌはごくりと唾を飲み込んだ。緊張で身体が硬直している。
 若年であるミレーヌには経験が絶対的に足りなかった。ただ那蝣竪と計都の発する凄愴の殺気に触発され、さらには魔空間と化しつつある室内の妖気に怯み――
 たまらずミレーヌは動いた。絶叫をあげつつ、十字剣――スィエールイーを鏡に叩きつける。待って、と計都が制止したが、遅い。
 それは鏡の砕ける音であったか。それとも何者かの哄笑であったか。
 光の砕片が舞う中、三人の開拓者は呆然と立ち尽くしていた。
「待つように〜、といったはずですが〜」
 計都の笑みがさらに深くなった。恐い笑みだ。
「お前の指図はうけない」
 ミレーヌは顔をそむけた。溢れる涙を隠すために。自分の未熟さが恥ずかしく、どうしても許せなかった。


「‥‥フェリックスか」
 呟いたのは十代後半に見える美女であった。可憐な面立ちであるが、そのアイスブルーの瞳には冷たい光がある。ユリアであった。
「小賢しい男であったが。さすがは開拓者。上手くやってくれた」
「手札が一枚増えましたな」
 怜悧そうな巨漢が笑った。皇帝親衛隊騎士の一人、スパルタクである。
 ユリアはつまらなそうに、
「たいした手札ではないがな。が、帝国を守るには役立つであろうさ。それに、これくらいのことがなくては皇帝陛下も甲斐がなかろう」
「甲斐がない? ふふふ。そういうことですか」
「ああ。そういうことだ。それよりも」
 ユリアはスパルタクに報告書を放った。スパルタクは視線をおとすと、
「ヴィターリー・セルゲーブ?」
「ああ。暗殺未遂犯であるシンの親友で、市民でありながら騎士までのぼりつめた優秀な若者だ。少ない給料を両親に送っている」
「たいした孝行息子ではないですか。で、そのヴィターリーがどうしたのですか」
「思い出さないか。帝国保管庫の事件を」
「あっ」
 さすがのスバルタクが息をひいた。
 先日のことだ。帝国保管庫からある品物が盗み出された。ある騎士の手によって。すでに処刑されたその騎士の名は確か――
「そう。ヴィターリー・セルゲーブ。そして盗まれたのは」
 ユリアの瞳が蒼く光った。
「コンラート・ヴァイツァウの軍から回収されたペンダントだ」