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■オープニング本文 ●心津 「申し訳ありませんっ!」 梅雨の中休み。青空覗く心津の空の下に、領主代行『会刻堂 遼華』の声が響く。 「まったく‥‥折角楽しみにしていたのに、残念だよ」 「ほんと、折角の休暇が台無しだわ」 深々と頭を下げる遼華の目の前には、不機嫌そうに眉を顰める中年の夫妻の姿。 「見たことの無い絶景。確かに絶景だったのかもしれないね。見えなかったけれど」 「あんな霧を見に来たわけじゃないわっ」 男は落ちついた声の中にも怒りを孕み、女はあからさまに不機嫌に不満をぶちまける。 「本当に、申し訳ありませんっ!!」 何度となく下げた頭を再び下げる。 「帰りましょ、あなた」 「そうだな」 そして、言い訳など聞きたくないとばかりに、夫妻は足早に実果月港に停泊中の船へと姿を消した。 「はうっ‥‥」 消えた夫妻の背を眺め、遼華は大きく溜息をつく。 「なんだ、元気ないな。どうした?」 と、そんな遼華に心津船籍の船『桔梗丸』の船長、道が声をかけた。 「あ、道さん‥‥。ははは、ちょっと失敗しちゃいました」 顔を覗き込んでくる道を、遼華は苦笑いで見上げる。 「失敗? って、さっきの二人か?」 「はい‥‥」 肩を落とし、しゅんと落ち込む遼華から視線を移すと、そこには甲板上で出航を苛立ちと共に待つ先程の夫妻の姿。 「怒らせちゃいました‥‥」 「怒らせた? 心津が気に入らなかったのか?」 「いえ、気に入ってくれてました‥‥途中まで」 「うん?」 「実は、海岸までいけなかったんです‥‥」 「海岸までってことは‥‥ああ、あの沼か」 「はい‥‥ちょっと初めての人には霧が濃すぎたみたいで、足を踏み外しちゃって‥‥それで」 「どぼん。か」 「はい‥‥」 「んー、せっかくの海岸もあそこ通らなきゃいけねぇしなぁ。なんか考えないといけねぇな」 「はい‥‥ちょっと伯父様に相談してみます」 「そ、そうだな。領主のおっさんに相談するのがいいかもな。‥‥まぁ、あんまり気を落とすなよ」 と、そこに出ない自分の名前にがくりと肩を落としつつも、道は遼華の背をポンと押してやった。 ●陵千 「失敗しちゃいました‥‥」 怒って帰った夫妻への謝罪の文を書きつつ、遼華は肩を落とす。 「まぁまぁ、そう気を落とさずに。何でもかんでも、完璧になんて行く訳ないんだからさ」 と、そんな遼華に声をかけるのは、窓辺で黄昏る領主の戒恩であった。 「そうなんですけど‥‥折角遠路はるばる来ていただいたのに、残念な思い出しか提供できなかったのが‥‥」 「それは違うんじゃない?」 「え?」 「まぁ、最終目的地まではたどり着けなかったみたいだけど、途中の矢立ヶ原とか、言葉川とか、楽しんでもらえた場所は沢山あったんでしょ?」 「え、ええ。それは‥‥」 「なら、そこまで気を落さなくても――」 「違うんですっ!」 慰めようと優しく声をかける戒恩に、遼華は突然顔を上げドンと机を叩いた。 「せっかく‥‥せっかく皆さんが半年もかけて整備してくださった『場所』なんです! それを‥‥それを‥‥」 机についた手をぎゅっと強く握り、遼華は声を震わせながら続ける。 「昔に渡った旅人さんって、どうやってあの道を行ったんだろう‥‥」 そして、塞ぎ込むように視線を机に落とした。 「歩いて渡ったみたいだよ。結構苦労したみたいだけどね」 と、そんな遼華の疑問に、戒恩は何気なくそう答える。 「そうなんだ‥‥やっぱり濡れていくしか――って、伯父様、なんでご存じなんですか‥‥?」 「え? だって、その旅人って、私だからね」 「‥‥へ?」 あっさりと告白された事実に、遼華は思わず口を開けたまま固まった。 「あれ? 言ってなかったっけ?」 と、そんな遼華を楽しそうに見つめ、戒恩は惚けた表情を浮かべる。 「いいい、言ってませんよっ!? って、えええっ!?」 街の老婆の薄い記憶の中にのみ存在した、古の旅人。 心津の東方を始めて踏破し、その恩恵と絶景の報を齎した人物。 それが、その心津では伝説とも思える人物が、あろうことか目の前にいるのだ。 遼華は目を大きく見開き、身を乗り出して目の前の人物を見つめた。 「そんなに見つめられると照れるんだけど?」 「そそそ、そんな‥‥えええっっ!?」 「って、聞いてないね。まぁ、反応が面白いからいいけど」 治まらぬ動揺を隠しもせぬ遼華に、戒恩はいつもの柔和な笑みを浮かべる。 「で、あの霧をどうにかしたいのかな?」 「え? どうにかって‥‥そりゃ、どうにかしたいですけど‥‥」 突然の問いかけに、遼華ははっと我に返りこくりと頷いた。 「なら、原因を探ればいいんじゃない?」 「え‥‥? 原因‥‥ですか?」 「そう、原因」 「そんな、簡単に言いますけど、自然現象の原因なんて‥‥」 「自然現象? あれが? どう見ても不自然じゃないかな、あの霧の濃さは」 「え‥‥。えっと、そうは思いますけど‥‥ここは『霧ヶ咲島』ですから、そう言うのもあるのかなって‥‥」 「確かに霧はよく出るよ。この街も年の半分は霧に覆われるしね。でも、あそこは年じゅうでしょ? しかも、ずっと濃霧」 「は、はい‥‥」 「そんな自然現象はありはしないよ。そもそも霧だって、結構な気象条件がそろわないと出ないもんなんだしね」 「そ、それはそうですけど‥‥じゃ、じゃぁ、本当にあの霧には自然現象以外の原因があるんですか‥‥?」 「さぁ?」 「へ‥‥?」 「私の言ってるのは、あくまで推測だよ。絶対そうだ! なんて、三文学者みたいな断定はできないよ。でも、『何か』はあるんだろうね。不自然だから、そう感じるだけ」 「そ、その不自然って‥‥?」 「うーん、聞かれてもねぇ‥‥強いて言えば『勘』?」 「え‥‥勘って‥‥」 「だって、断言なんてできないんだから」 「そ、それはそうですけど‥‥」 「でもさ、挑んでみるのも面白いんじゃない?」 「挑むって‥‥霧にですか!?」 「いやいやいや、霧に喧嘩売っても勝てないでしょ。そうじゃなくて、霧の原因の究明だよ」 「そ、それは、心津の為に解明したくはありますけど、私一人じゃ‥‥」 「一人じゃなくてもいいでしょ? いつもみたいにさ」 「え、いいんですか?」 「いいも何も、遼華君にはそういう権限も与えてる筈だよ?」 「え‥‥えっと、はいっ! やってみますっ!」 戒恩の笑顔に答える様に、遼華は力強く頷いた。 そして、遼華はこの島の七不思議の一つである『潜碧湿地の濃霧』に挑むことになる。 この謎を解明し、真の観光の場として、心津の良さを外の世界に知らせる為に――。 |
■参加者一覧
一ノ瀬・紅竜(ia1011)
21歳・男・サ
天河 ふしぎ(ia1037)
17歳・男・シ
皇 りょう(ia1673)
24歳・女・志
御神村 茉織(ia5355)
26歳・男・シ
アルセニー・タナカ(ib0106)
26歳・男・陰
ドクトル(ib0259)
29歳・男・魔
蓮 神音(ib2662)
14歳・女・泰
夜刀神・しずめ(ib5200)
11歳・女・シ |
■リプレイ本文 ●陵千 朱藩の南に浮かぶ島『霧ヶ咲島』の南部には、霧の中に人々の営みがある。 千人にも満たない住民。絶海の孤島ともいえるこの島にへばりつくように生きる人々の街、それが心津の領都『陵千』。それは天儀本土であれば『村』と呼ばれるかもしれないこの街一番の建物が、領主『高嶺 戒恩』の住まう邸宅だろう。 「邪魔するで」 「邪魔するなら帰ってくれるかな?」 「ほなさいなら――って、なんでやねん!?」 「おぉ、見事なツッコミだね」 ビシッと、まるでお手本の様なツッコミを戒恩に向けるのは夜刀神・しずめ(ib5200)。 「あかん‥‥おっちゃんのペースに呑まれかけてる‥‥!」 にへらとだらしない笑顔を浮かべる戒恩に背を向け、しずめは自我を保つ為にぐぐっと拳に力を込めた。 「おっちゃん」 「うん? なんだい?」 振り返ったしずめの表情は、ツッコミを入れた時とは打って変わり、至極真剣なもの。 「遼華の姐はんを使て、なにするつもりや?」 「いきなりだね。でも、何するって?」 しかし、問いかけられる言葉にも、戒恩はその惚けた表情を変えようとはしない。 「私利私欲の為に使てる。とは、まぁ思わへん」 「そう? どうしてそう言いきれる?」 「‥‥眼を見ればわかる。ゆぅてもうちじゃ説得力はあらへんか」 「まぁ、確かに十やそこいらの娘さんに言われてもねぇ」 じっと真剣な眼差しを逸らさないしずめに、戒恩は少し困った様に苦笑い。 「それでもや、これだけはわかる。おっちゃんは、遼華の姐はんをええように騙しとる」 そんな戒恩に向け、しずめは取って置きの決め台詞をぶつけた。 「うん、そうだね」 「え‥‥?」 しかし、その答えはしずめの予想を越えるもの。戒恩はあっさりと肯定したのだ。 「確かに色々騙して仕事してもらってるからね。彼女の性格からいって、普通に頼んでも素直に受けてくれる、とは思うけどね」 「なら、なんでや! わざわざ回りくどいことまでして、なんで騙すんや!」 相変わらずのだらしない笑顔に、しずめの怒りが爆発する。 所詮、遼華は他人。しかし、半年間この地との関わりを持ったしずめにとっては、ただの他人ではなくなったのかもしれない。 「遼華の姐はんはおっちゃんの玩具とちゃうんやで!」 最早ペースは完全に戒恩の物。しかし、しずめの心はまだ折れていなかった。 「別に答えを知ったかて、どうこうしよ思てるわけやない」 一呼吸置き、ゆっくりと話し始める。 「今回の件に意味があるんやったらそれでえぇ」 そして、更に一呼吸。 「そやけど、無理やりにやらすんやったら、うちも黙ってへん!」 放たれた言葉と共に、しずめはどんと机に両手を置いた。 それは誰に向けての言葉だったのだろう。しずめは遼華と自分を重ね合わせる様に、戒恩に向け寛恕のまま言葉をぶつけ続ける。 「うん、実に耳が痛い言葉だね。でも、そんなに顔を真っ赤にして怒ってくれるって言う事は、君も遼華君を好いてくれているんだね」 「なっ!? ななな、何でそんな話になってんねん! おっちゃんは黙って、おもてること全部吐いたらええんや!」 「黙ってたら、吐けないんだけど?」 「っ! ああゆぅたらこぉゆぅ‥‥!」 「ほら何せ私は、口先三寸で朱藩の有力氏族になった男だからなね」 「ウソ臭っ!?」 この後、真相を何度となく問い詰めるしずめであったが、戒恩はのらりくらりとその口撃かわし続けた。 ●潜碧湿地 絶えず島のどこかで霧が発生する霧ヶ咲島にあって、ここだけは違った。 かかる霧は必ず晴れる。そんな、島に伝わる言い伝えも、この場所には適応されない。 「濃霧、と一言に片付けるにしては些か芸が無いというもの」 手を伸ばせば指先が霞む程の濃い霧に、ドクトル(ib0259)は買ったばかりの哲学書の一ページ目をめくる感覚に似たものを感じる。 「‥‥ふむ、実に興味深いですぞ」 手を何度も開いては閉じる。確かにあるのに何も無い。ドクトルは無尽蔵とも思える水の一様をゆっくりと見渡した。 「さすがに触れただけではわかりませぬか」 触れているのか触れていないのか、それすらも感じることのできない霧。べっとりと纏わりつく不快な湿気だけがその感触なのだろう。 「人工物であるかとも思ったのですがな。まぁ、いいでしょう」 と、一通り霧の在りようを観察したドクトルは、くるりと踵を返した。 「じっくりと腰を据え、この怪現象を調査するとしましょうぞ」 そして、歩いてきた道をゆっくりと戻っていった。 ●陵千 しずめが去った戒恩の部屋は、先程までの賑やかな雰囲気とは一変し、いつもの時間だけがゆっくりと流れる部屋へと戻っていた。 コンコン――。 「うん?」 しばしの静寂は戸を叩かれる音と共に終わりを告げる。 『戒恩さん、お邪魔してもいいですか?』 「ああ、開いてるよ。どうぞ」 戸の向うから聞こえて来た幼い声に、戒恩は先客とはまるで異なる応答を見せた。 「お邪魔します!」 戒恩の許しに、戸を開いた石動 神音(ib2662)は武術家らしい、礼儀正しい礼を尽くす。 「はい、こんにちは。えっと、君は確か以前にも来てくれたことがあったかな?」 「うんっ! ご無沙汰してます!」 泰式の礼から顔を上げ、神音はにこりと太陽の様な笑みを浮かべた。 「はい、御無沙汰だね。で、今日はどんなご用だい?」 「あ、えっと。今回の件、神音もお手伝いさせてもらう事になりました! で、えっと、戒恩さんが何か知ってるって聞いてきました」 「ふむふむ、それで?」 「えっと、それから‥‥戒恩さんを言いくるめて何とかお話を聞き出そうと、色々考えたんだけど‥‥神音頭良くないし‥‥」 必死で今までの経緯を言葉にする神音を、戒恩は微笑ましく見守る。 「でも! 遼華おねーさん困ってるし、何とか力になってあげたいから!」 そして、改めて戒恩に向き直った神音の瞳には、力強い決意の気が満ちていた。 「神音の頭でよかったらいくらでも下げるから、どーか知ってる事があるなら教えてください!」 そして、部屋へ入ってきた時の礼とはまた違う、心からの願いを向ける神音がそこに居た。 「武術家らしい、実に真っ直ぐな頼み方だね」 深々と首を垂れる神音に、戒恩は優しく微笑む。 「でもね、お嬢さん。誠意だけで人は動かないよ?」 「え‥‥?」 「人を動かすには、その人の心を動かす何かが必要なんだ」 「何かって‥‥?」 神音は泣きそうな顔になりながらも、じっと戒恩の言葉に耳を傾けた。 「それは人それぞれ。権力や金、そんな人もいるだろうね」 「え‥‥。えっと、神音そんなにお金持ってないんだけど‥‥」 と、戒恩の言葉を真に受けた神音は、懐に忍ばせているお気に入りの小銭入れをギュッと掴む。 「幸か不幸か、私はお金にあまり興味が無いんだよ」 「そ、そうなの‥‥? よかった‥‥」 くすくすと笑う戒恩の言葉に、神音はほっと胸を撫で下ろした。 「でも、君の誠意じゃ私は動かなかった」 「う、うん‥‥」 「何で動くか。もう一度考えてくるといいよ」 戒恩はまるで娘に向ける様な笑みを湛え、そっと神音の背を押したのだった。 ●陵千 住民が少ないとは言っても、そこは領都。行き交う人々の顔には活気ある生活の匂いが色濃く表れていた。 『‥‥』 「‥‥」 そんな街の一角。真白な毛玉に身を包む男と、真黒なスーツに身を包む男が無言の火花を散らしていた。 「はっ!」 『なんの!』 「とうっ!」 『それがどうした!』 幾度となく繰り返される男と男の熱い戦い。 スルメ片手にこの世紀の決戦を観戦する野次馬達。 「ふむ‥‥」 『諦めるんだな!』 「そうはまいりません。お嬢様にきつく仰せつかっています――わたがし様への挨拶は怠らぬように、と」 寸胴を地面すれすれまで落とし臨戦態勢を解かないわたがしに、アルセニー・タナカ(ib0106)は表情一つ変えることなく深く一礼した。 『今したじゃねぇか! それでいいだろ!?』 「いえ、そう言う訳には参りません。お嬢様からはわたがし様への挨拶作法を、みっちりと三日三晩徹夜で特訓されました」 『無駄なこと甚だしいなっ!?』 「ですので、後生ですからご挨拶をさせてください」 『男に抱かれる趣味はねぇ!!』 「そこを何とか」 『何ともならねぇよ!?』 「ふむ‥‥おっと、そうでした。私とした事がついうっかり」 『な、なんだ‥‥?』 何かを思い出したのか、アルセニーはポンと手を打つ。 「これを忘れていました」 『そ、それはなんだ‥‥!』 アルセニーが取り出したのは、小さな木箱。 「お嬢様より預かった、わたがし様への献上の品でございます」 『け、献上の品‥‥?』 「山吹色、という訳には参りませんが、当ベルマン家お抱えの菓子職人の作でございます」 『お、おぉ‥‥! これは実に旨そうな』 小箱をそっとわたがしに差し出すアルセニー。 そこには見た目も鮮やかなもふら饅頭が華麗に鎮座していた。 『では一つ‥‥へ? ぎゃぁぁぁ!! 卑怯だぞ貴様! 俺にそんな趣味はねぇぇ!!』 差し出された菓子に、わたがしが食いついた一瞬が命取りとなる。 突如、背後に回ったアルセニーは、わたがしを抱き上げもふもふむにゅむにゅはぐ〜。 「ふぅ、これでわたがし様への挨拶も滞りなく完了ですね。ようやく調査に向えます」 散々もふり尽くしたアルセニーは、全く表情を変えることなくわたがしを地面へと下ろし、その場を立ち去った。 『もうお婿にいけない‥‥』 アルセニーの去った通りには、戦いに敗れた一匹のもふらが灰となって――消えた。 ●矢立ヶ原 梅雨の中休み。雨は降らずとも、この心津には霧がある。 「半年、か。随分と見違えたな」 原生する茶木に囲まれた矢立ヶ原に立つ御神村 茉織(ia5355)は、薄い霧に霞む絶景を見渡した。 「よくここまで開拓が進んだもんだ。あいつもよくやってんじゃねぇか」 矢立ヶ原の茶屋の脇に掲げられた道標を眺める。 「それにしても、この看板誰が書いたんだ?」 そこに書かれた次なる地への道標には、武骨な文字で書かれた地名と、文字とは対照的な可愛らしい挿絵。 「って、この字を見りゃわかるか」 それは、この地で共に一人の少女を想う者。白髪の武神の字であった。 「いやまぁ、あいつらしいっちゃらしいけどよ‥‥何とも、しまらねぇ看板だなぁ」 開拓が進んでいることを示す確かな道標に、茉織はこれの書かれた状況をありありと想像する事が出来た。 「とにかくま、問題の湿地とやらに行ってみっかね」 ひとしきり看板を吟味した茉織は、こきりと首を鳴らすと道標の差す霧の向うへと足先を向けた。 ●陵千 領主屋敷の厨房を占拠する武神。 「‥‥初夏とは言え、心津は南国に位置する。やはり天儀本土より若干であるが暑いか」 額に滲む汗を拭いもせず、もくもくと水蒸気を噴き出す大釜を睨みつけた。 「これほど暑いのだ、食で涼を取るというのは悪くない。やはり、これを持ってきて正解であったな」 と、皇 りょう(ia1673)は持参した風呂敷一杯の乾素麺を、大釜に投下する。 「此度の料理は喜んでくれるだろうか。この間の喜びよう、瞳を閉じれば今でも蘇る」 すっと瞳を閉じ、彼方を見上げるりょう。その瞼の裏には白い彼の君が浮かんでいた。 「ただの素麺ではわたがし殿はきっと満足してくださらぬな。しかし、素麺に工夫の余地などあるのだろうか‥‥」 ぐつぐつと煮える大釜の中を舞う様に泳ぐのは、素麺の白い肢体。 「いや、ここは考えの転換が必要であるな。素麺を改良しようという邪まな考えが、新たな創作を邪魔するのだ」 煮えたぎり泡を吹く大釜。水泡に翻弄され踊り狂う素麺。 「やはり手を加えるべきは薬味であろう。山葵、生姜はありきたり過ぎるか‥‥しかし、素麺に辛味は必須。さすれば――」 と、りょうは占拠した厨房を見渡す。 「‥‥これは」 そして、目に留まったのは小さな小瓶。 「鷹の爪‥‥なるほど、これは使えるやもしれぬ」 小鬢の中には、毒々しい程にまで真っ赤な鷹の爪の粉が入っていた。 「辛味はこれでよいとして――。山葵や生姜は解毒作用もあると聞く。夏は食品の足が速くなし、やはり必須か。なれば――」 再び店内を見渡すりょう。 「うん? これは‥‥どくだみ。ほう」 手にした小瓶には、『どくだみ』と毒々しい文字で書かれていた。 「薬だとばかり思っていたが、料理にも使えるとは驚きだ」 摘み上げた瓶の中身を見つめ、りょうは感心するように呟く。 「これは体に良さそうであるな。よし、これにしてみよう」 そして、超目分量でツユの中へと二つの新薬味を投下した。 「しまった。薬味に気を取られ、肝心の素麺が‥‥」 薬味と奮闘する事数分。目を離した隙に、溢れる湯が薪にかかり盛大な音を立てる。 「つつ‥‥。ふぅ、間にあったか?」 りょうは慌てて大釜を火から下ろし、ざるにあけた。 「む‥‥。これほど大盛りになるとは‥‥。当たりを引いたのやもしれぬな」 湯を吸い伸びきった素麺――だった物を見つめ、りょうが日頃の行いを精霊に感謝する。 「では、早速味見といこう。わたがし殿に気に入ってもらえる味であればよいが」 そして、りょうは山と盛られた素麺を、この世の物と思えぬ色の着色されたツユへと投入した――。 ●海岸 晴れ渡る空はすっかり夏色。 ギラギラと指す太陽の日差しに照らされる白亜の砂浜は、まさに南国のビーチであった。 「あの霧のせいでこの景色が見れない人がいるなんて‥‥本当にもったいないよ」 夏の日差しと海から吹く風を浴び、天河 ふしぎ(ia1037)が物憂げに呟いた。 「うん、もっと沢山の人に見てもらいたいね」 吹き寄せる風に揺れる髪を押え、ふしぎの隣に佇む遼華が答える。 「大丈夫、心配しないで遼華。僕達が必ずこの謎を解き明かして見せるからっ!」 どこか元気の無い遼華に、ふしぎは力強い言葉で励ました。 「うん、ありがとう、ふしぎくん。期待してるねっ」 「任せてよっ! まだ調べ初めて間がないから何とも言えないんだけど、きっとこの地形に何かヒントが隠されてると思うんだ!」 「ヒント?」 「うん! だって、ここだけ霧が無いのは絶対おかしいもん。霧ヶ咲島の名折れだよ!」 「な、名折れって‥‥」 グッと拳を握り力説するふしぎに、遼華は苦笑交じりに答えた。 「うん、やっぱり遼華は笑顔の方が似合うよっ!」 苦笑に塗れた顔であっても、笑顔は笑顔。 ふしぎはにきょとんと見上げる遼華に、かっと子供の様な笑みを向けた。 「もぉ、なに? ふしぎくんなりの励ましだったの?」 そんなふしぎに呆れる様な、困った様な、不思議な表情を浮かべる遼華。 「どうかな? 僕はただ遼華の笑顔が見たかっただけだよ」 「‥‥なんだろ、ふしぎくん。ちょっと変わったね」 「そうかな? ‥‥うん、そうかもしれない。遼華のおかげでね」 「え? 私の‥‥?」 「うんん、何でもない! それじゃ、僕はこの辺りをもう一度調べてみるからっ!」 「え、あ、うん、お願いねっ!」 砂浜を駆けだしたふしぎに、遼華は大きく手を振った。 ●陵千 「なかなかの一品だね。五行辺りの蔵の物かな?」 「へぇ、利き酒なんて出来るのか」 二人に続き戒恩の部屋に訪れていたのは、一ノ瀬・紅竜(ia1011)であった。 「まぁ、何であれ日の高いうちから飲む酒は、また格別だねぇ」 「相変わらずというかなんというか‥‥」 紅竜が持ち込んだ酒に舌鼓を打つ二人。 上質の酒に上機嫌の戒恩を、紅竜は苦笑交じりに見つめる。 「遼華に聞いたんだが、昔、心津の東方を旅したのって、戒恩だったんだな」 「うん? ああ、そうだよ。言ってなかったっけ?」 「言ってないな。まぁ、聞かなかった俺達も悪いんだがな」 「別に問題無かったんじゃない? 開拓は大体うまく行ったんだしさ」 「ああ、問題を全部解決できたわけじゃないけどな」 「それは高望みが過ぎるというものだよ。何でも程ほどが一番さ」 「おかげで今、遼華が苦労している」 「苦労は人を成長させるんだよ。何事も経験だよ経験」 「経験ね。っと、それより、旅人の話だ。戒恩はその頃はまだここの領主じゃなかったんだろ?」 戒恩の巧みな話術に誘われて逸れ掛けた話題を、紅竜は無理やり引き戻した。 「うん、違ったね。冒険心に溢れる好青年を演じながら、放蕩三昧やってたいい時代だったよ」 「‥‥その光景が、目に浮かぶようだな。で、戒恩はどうしてあんな地に行きたいと思ったんだ?」 「うーん。なんとなく、かな?」 「‥‥予想通りの返事をありがとう」 「いやいや、期待に答えられて嬉しい限りだよ」 呆れる様に目頭を押さえる紅竜に、戒恩は実に楽しそうに答える。 「ま、実際は噂を聞いたんだ」 「噂?」 「ああ、朱藩の辺境『心津』って所には、女神がいる、ってね」 「女神‥‥? 何だそれは、随分と漠然とした‥‥というか、胡散臭すぎないか?」 「はは、全くだなね。でもね、私にはどうにもその噂が引っ掛かったんだ」 「で、実際に来てみたと。さすが放蕩息子だな」 「褒めても何も出ないよ?」 「褒めてない‥‥。で、会えたのか、その女神さんとやらに」 「うん、会えたよ」 「え‥‥?」 冗談で聞いた質問にも即答する戒恩に、紅竜は呆気にとられた。 「はい、話はここまで。お酒ご馳走様」 「お、おい! ちょっと待て! どういう事――」 「ほらほら、遼華君達が待ってるよ。女性を待たせるもんじゃないぞ?」 「うぐっ‥‥」 そして、戒恩は縋る紅竜の背を押し無理やり部屋の外へと追い出した。 ●上空 自前の龍を駆るドクトルが、霧ヶ咲島の遥か上空へと舞い上がる。 「‥‥なるほど、この霧では確かに飛空船は無用の長物でありますな」 眼下に見える島は、全体を霧に囲まれその姿を霞ませていた。 「さて、島の観察は後回しにして、問題の湿地は――」 と、ドクトルは龍の背に広げた心津の地図を見やる。 「海岸と川に挟まれた場所でしたな――」 眼下に見える地形と地図を照らし合わせ、ドクトルは目的の地を推定する。 「これは‥‥入道雲でも発生しているのですか」 それは、一見で判断できる程の濃い雲。 「この高さからでも霧の濃さがわかるとは、これは一筋縄ではいきませんな」 まるで入道雲の如き霧の塊を、ドクトルは興味深げに見下ろした。 「しかし、上から眺めていても何も解決しませんな」 と、ドクトルは事前に用意していた錨付きの荒縄を霧の中心へ向かって下ろし始める。 「さて、何が待っているのやら」 錨が水に触れる感触が、縄を走りドクトルの手に伝わる。 そして、ドクトルは一直線に垂らされた縄に手をかけ、ゆっくりと伝い降りていった。 ●心津温泉 「‥‥ここだけですか」 じっと地面に手を当て、手の先から伝わる熱に集中するアルセニー。 「周りも調べましたが、まるで感じられない」 と、立ち上がったアルセニーはゆっくりと辺りを見渡した。 「地熱ではないと‥‥?」 後ろを振り向けば、主人達が手塩にかけて開拓した温泉から、もうもうと湯気が立ち上る。 「せいぜい温泉の周り数十mだけ‥‥これでは到底霧の発生源とするには不十分ですね」 アルセニーは霧の発生の要因が、この温泉に深いかかわりがあるのではないかと、調査に乗り出していた。 「いや、まだ湿地の方がどうなっているかわかりませんね」 温泉の近くでは芳しい成果が得られなかった。 しかし、問題の現地の調査はまだ行っていない。 アルセニーは服についた土埃を丁寧には払い落すと、霧深い湿地帯へ向けゆっくりと歩み出した。 ●海岸 「ここが境目‥‥」 海岸と湿地の境目。それは、簡単に確認する事が出来る。 ふしぎは霧の境目に立ち、左右を交互に見渡した。 「まさに境目だな。以前来た時にはそれほど気にしていなかったが‥‥」 そしてもう一人、紅竜もまたこの境目を探る。 「そうだね。僕も気にしてなかった。でもこの境目に何かヒントが隠されてるんじゃないかと思うんだ」 「ヒントか‥‥戒恩に聞いても無駄だったしな。俺達で見つけるしかないか」 「あ、ダメだったんだ。さすが戒恩」 「酔わせてみたんだけどな。余計に饒舌になって、こっちが逃げてきた」 「はは、その光景が目に浮かぶようだよ」 彼方の屋敷で今も窓辺からぼーっと景色を眺めているであろう男を思い浮かべ、二人はくすくすと笑い合う。 「さてと、お仕事しなきゃね。早くこの謎を解き明かさないと!」 と、ふしぎは霧の境を目印に地面へと耳を当てた。 「どうだ、何か聞こえるか?」 「うーん、水の音は聞こえるけど、これは湿地の流れだよね‥‥」 「ああ、雪解け水が海まで流れてるからな。さすがに地下水脈の音までは拾えないか」 「そうだね。さすがに無理――え‥‥これって」 と、地面に耳をつけたまま瞳を開いたふしぎが声を上げた。 「うん? どうした」 「これ‥‥霧が無いよ」 「何?」 ふしぎの言葉に、紅竜は頭を下げる。 「ほら、水面すれすれの所」 「お、本当だ」 ふしぎに倣い顔を地面へと近づけた紅竜。 そこには、くっきりと分かれた霧の層があった。 「これは、霧の謎に迫るヒントになるかも!」 「ああ、気付かなかったが、これは発見かもしれないな」 「皆に報告だね!」 「そうだな。詳しい奴に聞いてみる方がいいかもしれない」 そして、二人はこの不可思議な現象の答えを求め、一旦この場を後にした。 ●潜碧湿地 「視界が極めて悪い。くれぐれも注意されよ」 深い霧の中を進む、りょうと神音、そして、アルセニーと茉織。 4人は桟橋から湿地へと降り立ち、霧深い潜碧の中心へと足を向けていた。 「本当にすごい霧だね‥‥」 「うむ、この地図と羅針盤が無ければ迷いかねぬな」 と、りょうの手にはしずめに渡された湿地帯の地図と方位を示す羅針盤があった。 「少し肌寒くなってきましたか‥‥? 地熱で温度が上がっていると思っていたのですが、予想が外れたようですね」 と、辺りの熱を測るアルセニーがふと顔を上げた。 「確かに、触れる水は冷たく熱せられている風ではないな。やはり真冷山脈からの水のせいなのだろうか」 「雪解け水にしては、指すような冷たさが無い。さりとて熱せられている程の熱さもない、ですか‥‥ふむ」 りょうの言葉に、アルセニーはうーんと悩みこむ。 「辺りの気温も下がってんな。まったく、幽霊でも出そうな雰囲気だぜ」 深い霧、肌にまとわりつく湿気、そして、冷気。 まさに、『出そう』な雰囲気に、茉織は冗談交じりに呟いた。 「えっ!?」 そんな茉織の冗談に、神音はびくりと肩を竦ませる。 「御神村殿、冗談が過ぎるぞ」 「はは、悪い悪い」 茉織の冗談に、背に隠れた神音の背を優しく撫るりょう。 「りりり、りょうおねーさん! あ、あれ‥‥!」 と、突然神音が震える声で、霧の彼方を指差す。 「あれ? む‥‥!」 クイクイと袖を引かれ、りょうは神音の振るえる指が指す方を見やった。 「何かいるぞ‥‥」 そこには、ぼんやりと霧を照らす光の玉。 それは、まるで漂う様にゆらりゆらりと揺れていた。 「アヤカシやも知れぬ。皆、心されよ」 りょうの心眼には確かに反応がある。 一行は、各々の武器に手を当てた。 「おっと、私はアヤカシでも幽霊でもありませんぞ」 と、そこから聞こえて来たのは、どこかで聞いた声。 「ドクトル殿‥‥?」 「ふぅ、こんな所で斬られるのは御免被りたいところですな」 手に淡い光を抱いたドクトルが霧の中から現れた。 「ビックリしたぁ‥‥」 と、見知った顔に神音もホッと胸をなでおろす。 「ここに貴方がいるという事は、何か見つけましたか?」 「はい、面白いものを。そうですね。皇さん、その刀で霧を払ってもらえますかな?」 アルセニーの問いかけに、ドクトルは言葉を濁し、りょうへと話を振った。 「霧を‥‥?」 「一瞬でよいのです。それでわかる」 「‥‥うむ、心得た」 と、りょうは腰に下げた刀の柄に手を当てると、一気に刀を抜き放った。 精霊力を纏ったりょうの一閃が、霧を切り裂く。 霧薙ぎの一閃に、隠された湿地本来の姿が一行の前に現れた。 「これって‥‥なに?」 「風穴でしょうな」 神音の問いかけにドクトルが答える。 そこには、ストロー状の鍾乳石らしきものが地面から無数に突き出していた。 「湧き出ていた物は、熱ではなく冷気でしたか」 アルセニーは突起物の先にある穴に手をかざす。 そこから噴き出るのは、手をも凍りつかせる程の冷気であった。 「それにしてもすげぇ数だな。百本以上あるんじゃねぇのか?」 突起物は大小合わせると百を越える。 茉織は見た事もない不思議な光景を、感心するように見渡す。 「これが霧を作ってるの?」 「霧を作る要因の一つでしょうな。おっと、また霧が戻りますか」 神音の問いかけに答えたドクトル。 そして、再び深い霧が辺りを覆い尽くした。 ●海岸 湿地を捜索し、一応の成果を出した一行は、海岸へと集まっていた。 「双子の岬と申しましたか。あれに囲まれる砂浜が肝ですな」 と、ドクトルの発した言葉に、皆が耳を傾ける。 「あの砂浜、遠浅の海が広がっておりました。遠浅の海、そして照りつける太陽。そして、南からの温かな風。これらの気象条件がここでそろったのです」 「え、えっと、どういう事なんだろう‥‥?」 まるで学問を教える教師の様なドクトルの言い回しに、神音は恐る恐る問いかけた。 「‥‥水蒸気‥‥そうや、水蒸気や。水深の浅い湾の海水は、太陽の熱で暖められて蒸発するんや」 と、答えたのはしずめ。じっと地面を眺め考え込んでいたしずめは、ドクトルの謎かけの様な問いに、答えを導き出して行く。 「海水の蒸発が霧と関係あんのか?」 何かに気付いたしずめに、茉織が問いかけた。 「あの独特の地形。それに天河の兄はんが気付いた、あの現象や」 「え、あの現象? やっぱり何かのヒントだったの?」 「そうや。霧の層は空気の層。気温の層や」 「そう、あの層と地形。この関連性が重要なのですぞ」 問いかけるふしぎに、しずめとドクトルは事の説明を続ける。 「あの海岸は所謂お椀型の地形や。盆地とゆぅてもええ」 「うん、それは気付いたけど、それと空気の層の関係は?」 「条件の問題なんや。この地形も条件の一つ。で、ドクトルの兄はんが一番言いたいのは、双子の岬の見えへん部分」 しずめの答えに、ドクトルは無言で頷いた。 「あの岬、水面下でつながっとるやろ? せやから、水の流れが堰きとめられるんや」 ドクトルの頷きに合わせるように頷いたしずめは、再び言葉を奔らせる。 「所謂、水溜り。という訳か」 「そう、水溜りや。水の流れの無い水は、熱せられても冷め難い。更に海底は全部白い砂や。余計に熱せられるやろな」 「まるでフライパンの様ですね」 と、この地形をジルベリアの調理器具に例えるアルセニー。 「こんだけ条件がそろえば、夏の太陽だけやなくて冬の太陽でも十分水蒸気が湧く。ここは南国やからな!」 自信に満ちた表情でグッと拳を握るしずめ。 「ええ、私の推理も概ね同じ所に行きつきました。そこに、先程皆で見つけたあの風穴が鍵となるのです」 息荒く興奮気味のしずめに変わり、聴衆となった一行へ向けドクトルが言葉を続けた。 「要は、湾を通り多量の湿気を帯びた南風が、湿地の地下風洞を通ってくる冷気とぶつかり、あのような濃い霧を発生させるのですな」 そして、ドクトルとしずめはこの心津の七不思議のひとつ『潜碧湿原の濃霧』を見事に解き明かして見せたのだった。 「結局自然現象か。これは俺達じゃどうしようもないか」 二人の話が終わり、一行もようやくこの現象を理解した。 紅竜は、両手の平を天に向ける。 「南風さえ遮れば霧を止めることもできますぞ?」 と、そんな紅竜にドクトルが答えた。 「いや、このままでよいと思う。確かに霧はこの地にとって邪魔ものであるかもしれない。しかし、これはこの地を心津と成さしめている要因の一つであるのではないだろうか」 「うんっ、僕もそう思う。あの深い霧を抜けて見たこの海岸の感動は今も忘れられない。これは、湿地の濃霧があればこその感動だったと思うんだ」 皆を見渡し問いかける様なりょうの言葉に、ふしぎが答える。 「俺もそう思うぜ」 そして、茉織もまたこの意見に同調した。 「ここには初めて来たけどよ。これはこれで他にはない景色じゃねぇか? 折角、ここでしか見れない景色があるんだ。取り除くのは勿体ねぇよ」 初めて見た景色であるが、それはここだけの景色。ここにしかない景色は、立派な財産だと。 「ま、決めるのうち等とちゃうやろ? 遼華の姐はんどうするんや?」 と、しずめが遼華に話を振った。 「えっと‥‥」 皆が見つめる中、遼華が口を開く。 「霧はそのままにしておきたいなって思います。やっぱり霧があっての心津です。ふしぎくんの言ったように、霧を抜けた後に見えるこの海岸は、素晴らしいと思うからっ」 言葉を締めくくった遼華は顔を上げ、一行を見渡す。 「だってよ。どうするドクトル」 茉織がドクトルの肩に手を置き、問いかけた。 「多対一では勝負になりませんな。原因の排除は諦めるとしましょう」 どこかほっとした様なドクトルの言い回しに、皆はくすくすと小さく笑い声を上げたのだった。 一行の地道な調査と推理によって、潜碧湿地の異常に濃い霧の正体は解明された。 しかし、それは人の手には余る自然現象。一行はこの濃い霧を取り除くことを諦め、堅実な策に出る。 それは、渡された桟橋に転落防止用の柵を取りつけること。 ただこの湿地を抜けるのであれば、これだけでよいと一行は判断したのだった。 そして、この方針が吉と出る。 安全に行き来が可能になった潜碧湿地は、この濃い霧が醸し出す幻想的な雰囲気を売りに、観光地として拓かれた心津東方の新たな名所の一つとなったのだった――。 |