琵琶楽師の一夜の夢
マスター名:真柄葉
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: 普通
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/09/13 17:58



■オープニング本文

●神楽の街
 今日も神楽の街は、残暑にも負けぬ賑わいを見せていた。
「さぁさぁ! 寄ってらっしゃい見てらっしゃい!! 当一座が誇る琵琶楽師『サイ』の演奏だよ!!」
 街の大通りに面した楽座の入口で、一際声を張り上げる呼子。
「さぁ、そこのお兄さん! 紺青の琵琶楽師『サイ』の音色で癒されて行ってちょうだい!」
 呼子の声に足を止めた一人の男に、呼子は殊更に琵琶楽師の名を強調して伝えた。
「へぇ、ここだったのか」
 足を止めた男が興味深げに入口から中を覗き込む。

 サイ。
 それは、神楽でも知る人ぞ知る名前。
 その名は、一人の琵琶楽師のものであった。

「さぁ、早く決めないと席が埋まっちゃうよ!?」
 じっと楽座を覗く男に向け、呼子が最後のひと押し。
「お、おう。じゃ、見ていくかな」
「ありがとさん!」
 そんな男の背を

 呼子の巧みな誘い文句のおかげか、楽座は数刻もせず満席となった――。

●舞台
「さぁ、サイ! 今日も頼むぞ!」
「はい‥‥」
 大事そうに琵琶を抱えるサイに向け、舞台袖で万代が声をかけた。
「今日も大入り満員だ! 皆、お前の演奏を楽しみにいているからな!」
「はい‥‥」
 鼓舞するように声を掛け、肩を叩く万代にサイは虚ろに答える。
「彩夏も頼んだぞ!」
 そして、万代は視線を奥へと移す。
「ええ」
 短く答える澄んだ声。それは、一座の歌姫彩夏であった。
「さぁ、開演だ!!」
 娘の答えに満足気に呟いた万代は、緞帳を引く綱に手をかける。

「サイ‥‥」
 舞台へと足を踏み出したサイの後姿を見つめ、彩夏が呟いた――。

●夜
「‥‥爺様、私はこれでいいのでしょうか‥‥」
 神楽の街の明かりに霞む星空を眺め、一人の琵琶楽師が呟いた。
「サイ。こんな所にいたのね」
 じっと空を眺めるサイに、声をかけたのは彩夏。
「彩夏さんですか、今日も素晴らしい歌声をありがとうございました」
 くるりと振り向いたサイは、そこに立つ歌姫にぺこりと首を垂れた。
「貴方の演奏もよかったわ」
 そう言うと彩夏はサイの隣に腰かける。
「ありがとうございます」
 このやり取りは何時もの事。奏者と歌い手の形式ばったやり取り。
「‥‥ねぇ、サイ」
 そんないつものやり取りは、普段であればこれで終わり。
 だが、今日は少し雰囲気が違った。
 夜空を見上げる彩夏がサイの名を呼ぶ。
「はい?」
「貴方は満足?」
 短く呟く彩夏。その言葉が何を意味する物かを語らずに。
「ええ。――座長に拾っていただき演奏できる場を頂いて、演奏できる。私にはこれしかできませんから」
 と、彩夏の問いにサイは答え、脇に置いた琵琶を引き寄せる。
「そう‥‥」
「どうしたのですか?」
 普段の明るい彩夏と何かが違う。
 サイは不思議そうに問いかけた。
「何でもないわ。貴方が満足ならそれでいいの」
「神楽の楽はどれも華やかで演奏していても楽しいですから」
「本当に?」
 笑顔で語るサイの顔を、彩夏がじっと見つめる。
「‥‥えっと、本当ですよ?」
 彩夏の澄んだ視線に、サイは取りつくろう様にこくりと頷いた。
「彩夏さんこそ、どうしたのです? 今日は何時もと違うというか‥‥」
「何でもないわ。ちょっと貴方の心が見たかっただけ」
「え‥‥?」
「じゃ、私行くわね。明日も舞台があるのだから、貴方も早く寝るのよ」
「え、あ、はい。お心遣い感謝します」
 そして、戸惑うサイを残し彩夏は立ち上がり、その場を後にする。

「ほんとに満足なの‥‥?」
 再び一人で夜空を見上げるサイの背を見つめ、彩夏が呟いたのだった――。


■参加者一覧
出水 真由良(ia0990
24歳・女・陰
紬 柳斎(ia1231
27歳・女・サ
喪越(ia1670
33歳・男・陰
アイリス・M・エゴロフ(ib0247
20歳・女・吟
繊月 朔(ib3416
15歳・女・巫
アルマ・ムリフェイン(ib3629
17歳・男・吟


■リプレイ本文

●神楽
 満月の光び負けず輝く神楽の夜。
「‥‥よし、見せてみろ」
 建物の影に蠢く人影があった。
「えっと‥‥これだけしかないんですけど‥‥」
 人影はどうやら二つ。
「ほほぉぅ‥‥よくもまぁこんなに貯めたもんだぜ‥‥」
 何やら呟く声は、若干震えているようにも聞こえた。
「足り無ければ、持ってきますけど‥‥」
 一方の声の主は、申し訳なさそうに相手を伺う。
「な、なんだと!? これ以外にもまだ貯めているっ!?」
 答える声。それは驚愕の声であった。
「‥‥は、はい。この倍くらいは‥‥」
「‥‥なっ!?」
 その答えに驚愕する男は空いた口が塞がらない。
「お、落ち着け、俺。この程度で動揺してどうする! 共に夜明けの黄色い太陽を拝むと誓ったではないか‥‥っ!」
「え‥‥?」
「お前ぇさんは何も気にする事はねぇ! 全てこの俺様に任せ――」

「‥‥喪越さん、何をやっておる」

「うおぉぉっっ!?」
 と、そんな怪しげなやり取りをじと目で眺めていた紬 柳斎(ia1231)が、呆れる様に声をかけた。
「お待たせいたしました。皆様お揃いですね」
 そして、続いて出水 真由良(ia0990)が現れた。
「え、えっと、皆さんご一緒で‥‥?」
 突如現れた二人に、まるで御機嫌を伺う様に下手に出る喪越(ia1670)。
「事前に申し合わせていたはずだが」
 と、問いかける喪越に柳斎が答えた。
「‥‥そ、そうか」
「皆さん、今夜はよろしくお願いいたします」
 驚愕の事実を思い出し今にも泣き出しそうな喪越を他所に、サイが二人に首を垂れる。
「お仕事の後でお疲れでしょうけど、気分転換になれば」
 と、そんなサイに真由良がにこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。楽しみにさせていただきますね」
 旧知の笑顔にサイの顔にも自然とえみが零れる。
「拙者は初見となるな。袖 柳斎と申す。今夜は共をさせてもらうぞ」
「はい、私はサイ。今日はよろしくお願いします」
 そして、柔らかい笑みを向ける柳斎に、サイも朗らかに微笑んだ。
「では、早速参るか」
「ですわね。あまり時間も無いようですし」
「はい」
 挨拶もそこそこに、夜の神楽の街へ消える三人。

「茶屋であの二人を甘味漬けにし、こっそり裏口から――」
 一方、一人残された喪越は、虎視眈々と大逆転の策を練るのだった――。

●吉祥塔
 いつもと変わらぬ歓喜と感動が観客席を包んでいた。
 そして、満場の拍手に見送られ、舞台の緞帳が静かに下りる。
「お疲れさまでした」
 観客に挨拶を済ませ、舞台袖へと戻ってくる彩夏にイリス(ib0247)が声をかけた。
「あ、これは皆さん、お待たせしました」
 かけられた声に彩夏は段下を見やる。そこには、舞台の終わりを待っていたイリス。そして、繊月 朔(ib3416)とアルマ・ムリフェイン(ib3629)の姿があった。
「とても綺麗な歌声でした! 私、思わず聴き惚れちゃいましたっ!」
「うんうん、サイちゃんの演奏も凄かったけど、彩夏ちゃんの歌もとっても暖かくて、感動しちゃった」
「あ、ありがとうございます。お気に召していただけて嬉しいです」
 惜しみない称賛を贈る二人に、彩夏は照れたようにぺこりと頭を下げる。
「あ、そういえば、サイは?」
 と、三人を見渡し彩夏が問いかけた。
「ご心配なさらなくとも、今わたくし達の仲間がお連れしていますわ」
 不安げに問いかけてくる彩夏に、イリスがにこりと微笑む。
「そうですか。サイも楽しんでくれるといいのですけど‥‥」
 そんなイリスに、彩夏は少し不安げに笑みを作る。
「大丈夫ですよ、きっと楽しんでくれますっ! なにせ皆、ツワモノゾロイ、ですから!」
 彩夏の不安を拭い去る様に、朔はグッと拳を握る。
「ふふ。頼りにしてます」
「はいっ!」
 にこりと微笑んだ彩夏に、朔は殊更元気に返事をする。
「えっと、彩夏ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど」
 と、談笑を続ける彩夏にアルマが声をかけた。
「はい?」
「えっと、明け方に、少し時間をもらえないかなって」
「え? 私です?」
 突然の提案に、彩夏はかくりと小首を傾げる。
「うん、彩夏ちゃんと、できれば団長さんも」
「父さんもですか?」
「うん、サイちゃんの為に少し協力してもらえたらなって」
「サイの為‥‥わかりました。でも一体何を?」
 サイの為と言われて納得はしたものの、一体何をするのか見当もつかず、彩夏はアルマに問いかけた。
「うーんと、それは今は内緒。ごめんね」
「いえ、なんだか楽しそうですね。父には私から言っておきます」
 申し訳なさそうに話すアルマ。しかし、彩夏はその言葉の端から何か楽しげなものを感じたのか、笑顔で快諾した。
「そうと決まれば!」
「ですわね。色々と準備しないといけませんし」
「うん、きっとサイちゃんも喜んでくれるよ」
 彩夏の言葉に、三人も笑顔で頷く。
 三人はそれぞれの想いを胸に、夜明けの宴に向け準備を進めた。

●神楽
「こういう趣向も悪くなかろう?」
 辺りの喧騒に圧倒されるサイに向け、柳斎が楽しげに微笑みかけた。
「は、はい‥‥なんだか、すごいですね」
 サイはその賑やかさに圧倒される。
 夜の酒場は、涙、笑い、怒り、喜び。人生の縮図が全て詰まっている様であった。
「サイ様。お猪口が空ですわ」
 と、そんなサイにすっと徳利を差し出した真由良。
「あ、すみません」
 酒をお猪口で受けるサイは、きょろきょろと落ち着かない。
「どうだ、夜の神楽はその顔を一変させるであろう」
 と、杯に注がれた酒に舌鼓を打つ柳斎がサイに語りかけた。
「まるで‥‥別世界の様ですね」
「うむ。世界はまだまだ広い劇場の中だけでは見えぬものも沢山ある」
 と、杯を片手に柳斎は今まで訪れた数々の土地に思いを馳せる。
「沢山‥‥」
「武天の楽は勇壮であるし、石鏡の楽は神秘的であった。国が違えば楽もまたがらりと様相を変える。なかなか楽しいものであるぞ」
「そ、そうなんですか」
 柳斎が語る異国の楽の話。
 サイは引き込まれる様に、柳斎の紡ぎ出す異国の話に耳を傾けた。
「あら、サイ様の楽も素晴らしいものですわ」
 と、そんな二人の話をじっと聞いていた真由良が声を上げる。
「そんな事は‥‥」
 しかし、サイは真由良の言葉に自信なげに俯いた。
「あの劇場の繁盛ぶりを見ればわかる。謙遜することではなかろう」
「ですわね。サイ様の楽を聞く為に多数のお客様が訪れていると聞きます。もっと自信を持ってください」
 二人は自身が思うありのままの感想をぶつけていく。
「そ、そうなのでしょうか‥‥」
 しかし、二人の讃辞にもサイは困った様に呟いた。
「自分の楽が紡げないと、自信は持てませんか?」
 と、今までの温かな声色を一変させ、真剣な口調で真由良が語りかける。
「え‥‥?」
 そんな真由良の言葉に、サイはハッと顔を上げた。
「やはり、気にしておるのだな」
 柳斎もまた、サイを心配そうな眼差しで見つめる。
「そ、そんな事は‥‥」
 二人の言葉がサイの胸に鋭く突き刺さる。
 それは、サイがぼんやりと感じていたことそのものだったのだから。
「ふむ、少し話題が重くなったな。すまぬ」
 俯くサイに、柳斎は声色を戻し殊更明るく謝罪する。
「え?」
「今日は日頃のしがらみを忘れ、楽しもう。なに、たまにはそんな日があってもよいであろう?」
「は、はい‥‥」
 にこりを優しげな視線を送る柳斎に、サイもなんとか笑顔を作り答えた。
「あ、そうですわ、サイ様」
「はい?」
 と、そんなサイにポンと手を打ち笑顔を向けた真由良。
「明日の明け方に少しお時間いただければと思うのですが、構わないでしょうか?」
「え?」
 真由良の突然の提案に、サイはきょとんと呆けた。
「それほどお時間は取らせませんので」
「は、はい、構いませんが‥‥」
「ありがとうございます。きっと楽しい事が起こりますわ」
 サイに真由良は満面の笑みを向けたのだった。

●深夜
「‥‥あ、あの」
「しぃっ!」
「は、はい、すみません‥‥」
「‥‥負負負」
「あ、あの‥‥」
「しぃぃっ!」
「す、すみません‥‥」
「どうやら巻いたようだな」
「巻いた?」
「しぃぃぃっっ!!」
「す、すみません‥‥」
「よし、行くぞ」
「行く?」
「‥‥だぁぁ! ここまで来てそのとぼけ様! 新手の焦らしプレイか!?」
「え、え、え?」
「‥‥ははーん、わかったぞ あのセニョリータが気になるってのか?」
「せにょりぃた‥‥?」
「‥‥男になれ」
「男ですけど?」
「さぁ、行こう、今すぐ行こう。夜の蝶達は待ってくれねぇ!!」
「え‥‥?」
 神楽の街の闇の中。
 二つの影が、更に深い闇の中へと消えた。

●夜明け
 神楽の西。
 遠く霞む山並みの間から、空が白ばんできていた。
「サイ様、遅いですわね」
 静かに眠る神楽の街を望み、真由良が溜息をついた。
「そう焦らずともよかろう」
 小高い丘の袂で同じく神楽の街を眺める柳斎が、ポンと真由良の肩に手を置く。
「何かあったのでしょうか」
「喪越さんが付いている。心配はなかろう」
「だといいのですが‥‥」
 と、再び真由良は街を見やる。
「ほら、心配なかったであろう」
 そこには、琵琶を大事に抱えこちらへ向かってくるサイの姿があった。
「ですわね」
 その姿に真由良はにこりと微笑み、サイに向け大きく手を振り上げる。
「さぁ、皆の元へ」
「はい」

 一方、丘の上では着々と準備が進む。
「お二人とも、お待たせしてごめんなさいっ」
 朔は丘の上に座して待つ二人にぺこりと頭を下げた。
「気にしないでください。もともと私が頼んだ事ですから」
 と、彩夏は笑顔で答える。
「こんな朝早くに何があるというんだ? 流石に眠いんだが」
 一方、訳も分からず連れてこられた万代は、眠い目を擦りながら問いかける。
「朝早くにごめんね。でもきっと後悔させないから」
 と、そんな万代にアルマがぺこりと頭を下げた。
「後悔? 一体何が始まる――」
 アルマの言葉に尚も怪訝な表情を向ける万代。
「あ、来ましたよ!」
 と、その時、朔が丘の下を指差した。

●朝
「サイさん‥‥今の貴方は何処においでですか?」
 集まった皆の視線を一身に浴びるイリスが、サイを見下ろす。
 そして、すっと瞳を閉じた。

「――」

 一呼吸。
 朝日に彩られ、イリスの澄んだ歌声が辺りに響く。
 その歌声の乗る色は、悲しみ、憂い、そして、喜び――。
 自身が感じる想いのままに、イリスは言葉を紡ぎだして行く。
「――貴方の道行き――」
 紡がれゆく言葉にイリスは自身の経験を乗せていく。
「――せめてその想いが、、皆の心に届くよう――」
 聴く者に染み渡るよう、そして、訴えかける様に続く歌声に、一行は自然と引きこまれていった。

 ――。

 響き渡る澄んだ歌声に、力強く弾かれた弦の音が乗った。
 弦の音はアルマのもの。
 三味線を力強く掻き鳴らす。
「サイちゃん程じゃないけど、僕だって楽師の端くれなんだ」
 座ったままちらりとサイの方を伺ったアルマは弦を弾く。
 それはイリスの歌声に合わせるよう、しかし、決して負けぬように。

「‥‥っ!」
 二人の協奏を前に、突然朔が立ち上がる。
「朔さん?」
 パンパンと服に付いた枯れ葉を払い、朔はサイの元へ。
「サイさん。あなたは楽が好きですか?」
 そして、朔はサイに真剣な眼差しを向ける。
「え?」
「私は開拓者です。でも、舞手でもあるんですよ」
 呆けるサイに、朔は力強く、そして、優しく語りかける。
「サイさんは一座の看板楽師だそうですね。でも、一人の楽師でもありますよね」
 そして、朔は満面の笑みを向けた。
「舞手としての私、見てください!」
 それだけを言い残し、朔は楽の輪に加わる。

 その舞は、自由。
 決して何者にもとらわれる事のない、活き活きとした舞。
 表情、指先、そして、袖の端までもが朔の心からの楽しみを懸命に表現する。
 その心を映す鏡の様に。

 唄い、奏で、舞う。
 三人の美はその道を極めた者から見れば、拙いものかもしれない。
 しかし、そこには確かにある。
 道を極めた、生業とする者には感じ取る事が難しくなった感情。『楽しみ』という感情が。

「皆さん、楽しそう」
 彩夏が呟いた。
 静かに想いを紡ぐイリス。力強く自身を表現するアルマ。そして、その動き全てに感情を乗せる朔の姿。
 彩夏の視線は三人の姿に釘付けとなった。
「見せたかったものというのは、これの事か‥‥?」
 そして、万代がぼそりと呟く。
「いいえ、まだこれからですわ」
 と、そんな万代に真由良が嬉しそうに微笑んだ。
「これから?」
「ふふ、お楽しみになさってくださいな」
 怪訝な表情を向ける万代に真由良は変わらぬ笑顔を向けた。

「どうだ、思い出したか?」
 いきなりかけられた声。
「え?」
 その声に振り向くサイ。そこにはこの一夜限りの共演を満足気に眺める喪越の姿があった。
「丁度一年前か。お前ぇさんの楽を聴いたのは。どうだ? お前ぇさんの目に移る神楽の姿は、あの時のままか?」
「え?」
「ヒトってのは、水と同じ。常に変化するもんさ。今の安定した生活に満足してんじゃねぇか? 何か大切な心って奴をどっかに置き忘れてよ」
「大切な心‥‥」
 決して視線を合わせない喪越の言葉。
 それは、サイの心を酷く揺らす。
「サイちゃん師匠!」
 そんな時、サイに別の声が掛けられた。
「え‥‥? し、師匠?」
「うんっ。勝手に師匠って呼んじゃってごめん。でも、僕、師匠の楽に惚れちゃったんだ」
 驚き戸惑うサイに、アルマはにこりと微笑んだ。
「ほ、惚れたって、そんな――」
「ほう、弟子が出来たのであれば、その願いを無碍にする事は出来ぬな」
 と、そんな二人のやり取りに柳斎がにこりと微笑み。
「さぁ、師匠の腕を見せていただけるか?」
 サイの背をポンと押した。
「‥‥」
 背を押されたサイは、静かに共演の輪を見つめる。
「私の心‥‥」
 サイは自身が抱える琵琶に視線を落すと、徐にその封を解いた。

 そして、サイの『本来』の楽が紡がれ始める。
 それぞれの想いを形とする三人に合わせるよう、そして、負けぬように。

 一夜限りの共演。
 観客は少ない。しかし、それは見た者皆の心の中に、深い感動をもたらした。

「これは‥‥」
 サイを加えた共演に、万代は呆気にとられる。
「これがサイ様の昔の、いえ、本来の楽の音ですわ」
 そんな万代に、真由良が静かに声をかけた。
「サイ様の事ですから、文句も言わずに与えられた楽を奏でていらっしゃるのでしょう」
 そして真由良が続ける。その声に憂いを込めて。
「でも、これが本来の楽。どうかそれをお気に止めていただければと思います」
「あ、ああ‥‥」
 万代はこの共演に見入る。
 その胸に、熱い何かが湧き起こってくるのを感じながら。

 次の日から吉祥塔の演目に新たなものが加わった。
 それは、譜面の無い演目。
 自由に歌い、自由に奏で、自由に舞う。
 観客を巻き込んだこの演目は新たな目玉とし、吉祥塔は一層の繁栄を見せたのであった。