哀を呼び寄せる愛
マスター名:香月丈流
シナリオ形態: ショート
EX
難易度: やや難
参加人数: 10人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2013/05/10 01:19



■オープニング本文

 雨。
 天よりの恵は、全てを洗い流す。家屋の汚れも、動物の体も、草木や花々も。
 そして……人の想いや、涙も。

「あなた! しっかりして! あなた!」
 ドシャ降りの中、半狂乱になって叫ぶ女性が1人。その腕に、彼女の夫らしき人物を抱いて。
 2人の足元には、赤い液体が広がっている。その出所は、男性の腹部。抉られたような大きな傷跡から、止め処無く流れ出ていた。それに反比例し、体温が徐々に下がっていく。
 何故、彼が襲われたのか?
 誰がこんな事をしたのか?
 犯人も、動機も、凶器も、何もかもが分からない。
 1つだけハッキリしているのは…『このままだと彼が死んでしまう』という事実だけである。
『助けてやろうか?』
 雨の中に響く、不気味な声。それは耳から聞こえるのではなく、脳に直接響いていると表現した方が正しいかもしれない。
 今まで感じた事の無い感覚に、動揺しながら周囲を見渡す女性。その視界に、黒いフードを目深に被った黒衣の人物が飛び込んできた。
『もう一度言う。その男、助けてやろうか?』
「そんな…そんな事が出来るの!?」
 女性の言葉に、黒衣の人物が静かに頷く。手袋に包まれた手をゆっくりと伸ばし、彼女を指差した。
『命の灯が消えようとしているなら、再び命を吹き込めば良い。そう…お前の命を引き換えに、な』
 突然過ぎる、衝撃的な言葉。どう考えても、怪し過ぎる取引である。
 だが…愛する者が息絶えようとしているこの状況で、冷静な判断が出来るだろうか?
「お願い…この人を…助けて…」
 答えは『否』である。例え怪しくても、愚かな行為だとしても、藁にもすがる想いで助けを求める…それが、人間の愛情なのかもしれない。
 女性の言葉を聞き、黒衣の人物はコートを翻す。次の瞬間、手に黒い刀身の剣が握られていた。その切先を女性に向け、ゆっくりと喉元に近付ける。迫り来る恐怖に、彼女は夫の手を握りながら瞳を閉じた。
『1つ言い忘れていたが…この男を襲ったのは、私だ』
 首に激痛が走るのと同時に、絶望的な言葉が脳内に響く。疑問や叫び声を出そうとしたが、声にならない。代わりに、鮮血が口から零れ落ちた。
『そして…お前が命を懸けても、この男は助からない』
 絶望を加速させるような、致命的な一言。同時に、黒衣の人物はフードを外した。その下から現れたのは…山羊の頭。人ではない異形の存在、つまりは、アヤカシ。
 ここに至って、彼女はようやく自分が騙された事に気付いた。後悔と絶望が、心を塗り潰していく。
『感じるぞ…恐怖と絶望を。その感情こそ、最高の美味…! お前達の屍も、残らず喰らい尽くしてやろう』
 笑い声にも似た歪んだ声が、頭の中に響いた。その言葉に、女性は微塵も反応しない。生きる理由も、希望も、アヤカシに砕かれた。
 そして…彼女自身の命も。


■参加者一覧
風間・月奈(ia0036
20歳・女・巫
空(ia1704
33歳・男・砂
九竜・鋼介(ia2192
25歳・男・サ
リューリャ・ドラッケン(ia8037
22歳・男・騎
イデア・シュウ(ib9551
20歳・女・騎
緋乃宮 白月(ib9855
15歳・男・泰
宮坂義乃(ib9942
23歳・女・志
帚木 黒初(ic0064
21歳・男・志
紫ノ眼 恋(ic0281
20歳・女・サ
白崎 鼎(ic0426
25歳・女・魔


■リプレイ本文


 空一面に広がる、厚くて暗い雲。今にも泣き出しそうな天候は、街の住人と開拓者達の心情を表しているのかもしれない。
 辛く悲しい事件を知った、人々の心を。
「今の所は…よくある、のどかな街並みだね。もっと騒ぎになってるかと思ったよ」
 風間・月奈(ia0036)の言う通り、街中は至って普通。誰もが、普段通りの生活をしている。もしかしたら、平静を装う事で事件を忘れようとしているのかもしれないが…。
「ああ。だが…この平和の裏にアヤカシが潜んでいるのは、良い気分じゃないな」
 吐き捨てるような、九竜・鋼介(ia2192)の言葉。今回のアヤカシに対して、嫌悪感にも似た怒りを感じているのだろう。それは、彼以外の開拓者も同じハズだ。
 今回の依頼に参加したのは、全部で10名。街を歩く開拓者達の脚が、『ある場所』で止まった。
 それは、雨の日に1組の夫婦が命を落とした場所。未だに、血の跡が地面に生々しく残っている。雨で血痕が消えなかったという事は…『大量の出血があった』という証拠である。
「…夫婦の殺害なんて、嫌悪がする。吐き気がする…」
 現場の雰囲気、周囲を漂う空気、現場の状況…その全てが、白崎 鼎(ic0426)には不快で堪らない。夫と死別した過去が、嫌でも脳裏に浮かんでしまうのだろう。
「わざわざ街中で、選んだように殺しているのは少し嫌な感じだな…」
 周囲を見渡しながら、独り呟く紫ノ眼 恋(ic0281)。人目の多い住宅地で事件を起こしたのは、自信の表れなのか、それとも別の狙いがあったのか。真相は分からないが、納得出来る理由は無いだろう。
「はてさて、未だ死体も上がらずとは…これでは、葬式もままなりませんね」
 そう言って、帚木 黒初(ic0064)は軽く苦笑いを浮かべた。ここに来る前、彼らは目撃者の少女や同心達から事件の話を聞いている。詳しい状況や調査の進展を尋ねたが、残念ながら新しい情報は無かった。
「大量の血痕と、行方不明の死体。相手がアヤカシなら、その夫婦は恐らく……」
 宮坂 玄人(ib9942)は一度言葉を区切り、目を伏せる。アヤカシは、人に仇為す異形の存在。その餌は人々の負の感情だけでなく、『生物自体』も含まれる。つまり…夫婦の遺体は、アヤカシに喰われたとみて間違いない。
「さて…そろそろ、見回りに行こうかねェ。街の奴等に警告する必要もアルしな」
 不敵な笑みを浮かべながら、街の巡回を提案する空(ia1704)。重苦しい空気が苦手なのか、自身のために行動を起こそうとしたのかは不明だが、彼の言動で開拓者達の雰囲気が変わった。『落ち込んでいる場合じゃない』と、前向きに。
「それと、同心達に協力を要請しないとね。狼煙を確認次第、周辺住人の誘導を…さ」
 冷静を装っている竜哉(ia8037)だが、内心ではアヤカシに対する怒りが燃え上がっている。それでも、一般人への配慮は忘れていない。アヤカシを発見したら狼煙を上げて周囲に知らせ、広い場所に誘き出して戦うつもりなのだ。同時に、同心達が誘導を手伝えば、住民への被害は格段に減るだろう。
「念のために確認しておきますが、アヤカシと戦うのはこの広場で間違いありませんよね?」
 イデア・シュウ(ib9551)は地図を広げ、全員に声を掛ける。そのまま、赤く印を付けた一点を指差した。街中にある広場だが、位置的に敵を誘き出し易く、戦闘をするのに充分な広さがある。事前の打ち合わせで決めた場所であり、住人も承諾済みである。
「人を騙し絶望させるアヤカシ…これ以上被害者を出す前に、必ず退治しましょう」
 緋乃宮 白月(ib9855)の心情を表すように、いつもピョコンと跳ねている頭髪がピンッと立った。穏やかな表情の裏には、熱い想いがあるのだろう。
 開拓者達は互いに顔を見合わせると、3つの班に別れて別々の方向へ歩き始めた。どこに出るか分からないアヤカシを探すなら、手分けした方が効率的である。次に彼等が再会するのは、敵と戦う時だろう。


 捜索を始めてから数時間。未だに、敵の姿や痕跡を発見出来ずにいた。相当狡猾なアヤカシらしく、手掛りになるような物は何も残っていない。
「やはり、簡単には見付かりませんね。相当、骨が折れそうです」
 溜息混じりに言葉を漏らすイデア。彼女と玄人、鼎、黒初の4人は、身を隠せそうな場所、人目に付かない箇所を重点的に探していた。丁寧な探索が続いているが、収穫はゼロ。愚痴の1つも言いたくなるのは、当然だろう。
「まぁ、地道に探すしかないですね。他の皆さんも頑張ってると思いますし」
 イデアに声を掛けながらも、黒初は周囲への警戒を怠らない。視界に不審人物が居ないか、常に目を光らせていた。今回のアヤカシは、黒服に黒いフードで一般人と接触している。周囲の人物に注意を向けて、損は無い。
 他の班も同様に、不審者と不意討ちに警戒していた。恋は太刀に片手を添え、いつでも抜刀出来るように備えている。その数歩後ろで、月奈と竜哉は瘴気の流れを探っていた。
「竜哉君。男は君だけなんだから、ちゃんとボク達を守ってね?」
 からかい気味に、イタズラっ子のような笑みを浮かべる月奈。竜哉の実力を認めた上で、冗談半分、本気半分といった処だろう。無論、恋の腕も信じているが。
「了解。年上のお姉様達を守らせて頂きますよ」
 言いながら、竜哉はジルベリア紳士のように礼儀正しく頭を下げた。ノリの良い返答に、月奈と恋の顔から笑みが零れる。3人は静かに視線を合わせると、アヤカシの捜索を再開した。
 特に会話をせず、黙々と作業を進めているのは、空、鋼介、白月の班。3人別々の方向に視線を向け、警戒しながら歩き回っていた。時折、空が弓の弦を鳴らして索敵している。
 街の大通りを進む3人の進路上に、横道から不審者が姿を現した。黒いフードを目深に被った、黒衣の人物。アヤカシの目撃情報と一致しているが、こちらを攻撃してくる素振りは無い。警戒を強めつつ、3人と黒衣の距離が徐々に近付き……そして、擦れ違った。
 直後。背後から黒い刀身が迫る。完全な不意討ちだが、気を張り巡らせた白月には行動が手に取るように分かっていた。素早く背後を向き、裏拳で刀剣を払い落とす。
「…突然、物騒ですね。僕達に何か用ですか?」
 戦闘体勢のまま、鋭い視線を向ける白月。空は素早く弓を構え、弦を掻き鳴らした。微細な共振音が、周囲に広がっていく。
「てめぇ、アヤカシだな? 強盗の類ナラ、足腰立たなくシテたぜ」
 少々物騒な発言をしつつ、不敵な笑みを浮かべる空。強盗の可能性を考慮し、人かアヤカシか確認したのだろう。相手が強盗だったら多少暴れていたが、アヤカシならこの場で戦うワケにはいかない。
 鋼介は狼煙銃を取り出し、天に向かって射ち上げた。弾丸が激しく輝きながら、薄暗い空に昇っていく。その発砲音と赤い狼煙に、周囲の一般人達が騒ぎ始めた。アヤカシ発見時の合図を事前に伝達していたため、悲鳴を上げながら一目散に逃げていく。
 開拓者達と対峙しているアヤカシは、逃げる一般人を追おうとしない。恐らく、障害となる開拓者の排除を優先する気なのだろう。
「予定の場所まで、奴を誘導しないとな。空、緋乃宮、いけるか?」
 周囲の避難状況を確認しつつ、仲間に声を掛ける鋼介。一般人が逃げているのは、南の方向。広場のある東には、逃げて行く者も逃げて来る者も居ない。
 空と白月は、言葉を返す代わりにアヤカシに水平蹴りを放った。2人の蹴撃が敵の腹部に直撃し、体勢が崩れる。その隙に、3人は広場に向かって駆け出した。彼等を追うように、アヤカシも走り出す。一定の距離を保ちながら、3人は街中を駆け抜けた。
 鋼介の打ち上げた狼煙は、街の上空で広がっている。赤い輝きは、一般人や仲間達に合図を伝えた。
「漸く姿を現しやがったカァアァッ!」
 獣のような雄叫びを上げ、恋は広場に向かって疾走していく。戦闘狂という事もあり、狼の血が滾って性格が豹変したのだろう。突然の事に、若干戸惑う竜哉と月奈。それでも恋を追い、地面を蹴って駆け出した。
 裏路地を探索していた玄人達は、素早く大通りに出て空を見上げる。狼煙が上がった瞬間を見ていなかった事と、雲の流れが速い事が災いし、合図は既に残っていない。裏路地に居たため、発砲音も微かにしか聞こえなかったのだ。
 玄人は目を閉じ、意識を周囲に広げるように集中する。遠くにある気配が、感覚となって彼女に届いた。逃げていく大勢の気配と、逆方向に移動する4つの気配。その規模から察するに、避難する住民と、アヤカシを誘き出す仲間達だろう。
「この反応…間違い無い、アヤカシを誘導してるぞ」
 その言葉で、予感が確信に変わる。空耳でも見間違いでもなく、狼煙銃は確かに撃たれたのだ。そして、アヤカシの誘導が始まっている。
「…急ぎましょう……今は時間が惜しいわ」
 鼎の発言に、同じ班の仲間達が静かに頷く。敵が見付かった以上、最優先は仲間との合流。広場の方向を確認し、4人は一気に走り出した。


 アヤカシの攻撃を避けながら、広場まで到達した白月達。鋼介は放たれた斬撃を盾で受け止め、全力で弾き飛ばした。そのまま、アヤカシは距離を置いて開拓者達と対峙する。今までは防戦一方だった開拓者達だが、ようやく兵装を構えて戦闘の準備を整えた。
「ここまで来れば大丈夫ですね。他の班の皆さんが来るまで、足止めします!」
「これ以上、悲劇は繰り返させん。俺が…『俺達が』ここで終わらせてやる…!」
 白月と鋼介の気迫が、言葉となって空気を震わせる。手加減も、周囲への気遣いも要らない。今すべき事は、眼前の敵を撃破する事のみ。
 隙を伺う2人の間を、1本の矢が高速で通過した。薄緑色の光を纏った一矢は、フードの中に吸い込まれるように突き刺さる。反動でフードが脱げ、山羊の頭部が露になった。
「おっと、『不意討ちは卑怯』ナンて言わせねェぜ? これは、試合じャねぇんだカラよ」
 くつくつと笑いながら、不敵な表情を浮べる空。アヤカシに突き刺さった矢は、彼が放った物である。敵に対して一切の手加減も無く、手段を選ばない…仲間としては心強いが、敵に回したら厄介かもしれない。
 魔羊は眉間に刺さった矢に手を伸ばし、無造作に引き抜いた。ほぼ同時に、白月と鋼介が距離を詰める。
 白月は全身の気をコントロールし、地面を大きく踏み締めた。渾身の力を込めて拳を握り、重々しい一撃を叩き込む。衝撃で、敵の体が『く』の字に折れ曲がった。
 次いで、鋼介は気合を集中して太刀を下から振り上げる。切先がアヤカシの胸を黒衣ごと斬り裂き、傷口から瘴気が漏れ出した。
 連続でダメージを喰らいながらも、魔羊は脚を踏み締めて踏ん張る。全身のバネを駆使し、黒い刀を一気に振り下ろした。
 高速の斬撃に合わせるように、鋼介は盾を構える。が、その威力は今までとは段違い。走りながらの攻撃と、本気の一撃では大きく差があるようだ。
 衝撃が鋼介の全身を駆け抜け、片手では受け止め切れない圧力が襲い掛かる。盾が斜め下に弾かれ、刀身が鋼介の胸を浅く薙いだ。
 手首を返し、魔羊は白月に向かって剣を突き出す。咄嗟に、白月は後方に跳び退いた。柔軟な回避機動が、空中に白い軌跡を描く。
「見付けたぁぁァ! 喰らえ羊野郎!」
 突然、広場に獣のような叫び声が響いた。声の主は、恋。全員が驚愕の表情を浮べる中、彼女は魔羊の隙を突くように強襲。赤みがかった太刀が、敵の背中を斜めに斬り裂いた。
「少し落ち着きなよ、紫ノ眼。まぁ、猛る気持ちも分かるけどね!」
 恋と同じ方向から駆け込んで来た竜哉は、長大な騎士剣を振り下ろす。2人の斬撃軌道が魔羊の背面で交差し、バツ印のような傷を深々と刻み込んだ。瘴気が漏れ出す中、黒衣の隙間から山羊の体毛が覗いている。
 広場に集まったのは、恋と竜哉だけではない。右奥の通路から鼎達4人も駆けつけ、兵装を構えた。
「…これ以上の被害は、絶対に阻止する!」
 玄人は全身に精霊力を纏い、抵抗を上昇させて突撃。無骨な野太刀を振り上げ、全力で叩き付けた。重々しい一撃が、魔羊の体を縦に斬り裂く。
 間髪入れず、黒初は刀に紅い精霊力を纏わせた。敵の懐に潜り込み、それを大きく薙ぐ。紅葉のような燐光が散り乱れる中、黒衣と瘴気も周囲に舞った。
「それにしても…随分と醜悪なアヤカシですね。コートで不細工な外見を隠していたのも、納得ですよ」
 黒衣を失った魔羊は、『筋肉質で二足歩行の山羊』のような姿をしている。黒初が嫌悪感を抱くのは当然だが…少々、言葉が過ぎているかもしれない。とは言え、アヤカシがそれを気にするかは不明だが。
「…ジルベリアで、山羊は『悪魔の使い』だとか……あなたの目的は、何?」
 問い掛けるように呟き、魔導書と短剣を構える鼎。聖なる精霊力を矢の形に凝縮し、アヤカシに向かって撃ち放った。聖なる矢が光の筋と化し、敵の両肩に突き刺さる。
「白崎様、そんな事は関係ありませんよ。敵なら倒す…それだけです」
 イデアは鼎に言葉を返し、盾を握って駆け出した。魔羊の顔面を狙い、それを全力で叩き付ける。打撃の威力でアヤカシの体が大きく仰け反り、姿勢が崩れた。
 その隙を狙うように、月奈の弓撃が殺到する。肩と脚を狙った矢が双方に刺さり、瘴気が漏れ出した。
「そういう事。アイツを倒せば、事件は無事解決だね!」
 弓を握り直しながら、元気良く笑う月奈。役者は全員揃った。アヤカシを取り囲むように、前衛の7人が一定の距離を保っている。彼等を援護するように、後衛が3人。
 対するアヤカシは、たった1体。しかも、手傷を負って瘴気が漏れている。
 だが…。
『フフフ……』
 魔羊はまだ、本当の力を見せていない。脳内に響く、不気味な声。次いで、アヤカシは指を鳴らした。乾いた音に乗って、微量の瘴気が周囲に広がっていく。一瞬も間を置かず、玄人と恋の体が揺らいだ。
『お前達か…さぁ、悲しみと嘆きを見せてみろ!』
 魔羊が玄人を指差した瞬間、彼女は小刻みに震えながら膝から崩れ落ちる。他の者には分からないが、アヤカシが『何か』をしているのだろう。
 次いで、指が玄人から恋に移る。恋は苦悶の表情を浮べ、頭を抱えながら片膝を付いた。過去が、記憶が、悪夢が、2人の心を蝕んでいく。
 苦しむ様子を眺めながら、羊魔は楽しそうに顔を歪めた。笑いを堪えきれなかったのか、下品な声が全員の頭に響いて来る。
「…話には聞いていたが、これが奴の声か。想像以上に不愉快だな」
「同感です…九竜さん、力を貸して下さい」
 全身から激しい怒りのオーラを放ちながら、鋼介と白月が兵装を構えた。
 開拓者達の動きに気付いたのか、魔羊は刀を振り上げる。その刀身から高濃度の瘴気が吹き出し、周囲に広がっていった。
「人の弱みに付け込む、か…やれやれ、笑えねえぞ。アヤカシ如きが…!」
 普段の竜哉からは想像出来ない程、低くて怒りの籠った声。兵装に聖なる精霊力を纏わせると、広がる瘴気を斬り裂くように素早く薙いだ。刀身が触れた瞬間、瘴気が塩となって地面に降り落ちる。予想外の事態に、魔羊は驚愕の表情を浮べた。
 更に、竜哉は大きく踏み込み、残った瘴気ごとアヤカシに斬り掛かる。反射的に、敵は体を捻って直撃を避けたものの、聖なる斬撃が胸を斬り裂きながら角を切断。敵が生み出した瘴気、傷口から噴き出した瘴気、斬り落とした角が、塩と化して舞い散った。
「宮坂さん、紫ノ眼さん、落ち着いて!」
 竜哉が斬撃を放ったのと同じタイミングで、月奈が叫びながら舞を踊る。穏やかな舞踏が精霊に干渉し、玄人と恋に加護を与えた。
 2人は苦悶の表情を浮べているが、精神異常を引き起こしているワケではない。つまり…未だにアヤカシの術に抵抗しているのだろう。月奈はその手助けをするため、抵抗力を高めたのだ。
 アヤカシの被害を防ぐため、鋼介と白月が地面を蹴る。自身の名前と対極の黒い布を翻し、舞うように軽やかなステップを踏む白月。布の先端で撫でるように薙ぐと、まるで剃刀のように魔羊の全身を切り刻んだ。
 鋼介が気合を入れて太刀を握ると、刀身が炎に包まれる。その様子は、まるで彼の怒りを表しているようだ。そのまま、アヤカシに向かって炎刃を奔らせる。切先が敵を斬り裂き、傷口を焼き、火の粉と瘴気が舞い散った。
 仲間達が戦う姿が、玄人と恋の瞳に映る。目の前で起きている事は、現実。脳内に流れているのは、過去の幻影。幼少の記憶が無い恋は、残った記憶が全て消えていく幻覚に襲われていた。心の傷痕が広がり、精神を締め上げる。常人には、耐え難い苦痛だろう。それでも、2人は抵抗を続けていた。
 そして、気付いた。過去に囚われていたら『仲間と共に戦えない』という、今の現実に。
「…俺にも、取り戻したい過去はある。だが…『玄人』を名乗っている限り、俺は屈しない!」
「あたしにゃ…失って困るモンなんて無ェんだよ。恐怖など、狼の牙が噛み砕く!」
 自身の心の傷を、自身の『心の強さ』で乗り越える。力強い叫びが響く中、2人は兵装を握り直した。
 悪夢が恋の逆鱗に触れたのか、威圧感にも似た剣気が魔羊を圧倒する。怯んだ隙を狙い、狼の如く飛び掛かった。鋭い太刀が敵の脇腹に突き刺さり、噛み切るように抉り取る。
 玄人は野太刀を握り、激しい殺気を込めて振り下ろした。斬撃を受け止めるように魔羊が武器を上段に構えたが、彼女の攻撃はフェイント。素早く手首を返して軌道を変え、真横に薙いだ。
 緋色の剣閃が奔り、魔羊を斬り裂く。その瞬間、玄人の目尻に涙が浮かんでいるように見えた。もしかしたら…彼女が斬りたかったのは『失った故郷を想う、自分の気持ち』なのかもしれない。
「あなたを見てると、無性にイライラするんですよ。自分らしくない事ですけどね…!」
 珍しく感情を露にし、盾で殴り掛かるイデア。八つ当たりにも似た一撃がアタカシの頭部を直撃し、体勢が崩れた。追撃するように、霊剣を素早く奔らせる。流れるような斬撃が敵の胸を斬り裂き、瘴気を噴き出しながら片膝を付いた。
「…人間を小馬鹿にしたようなアヤカシだから…神経を逆撫でされるのも、当然ね」
 誰に聞かせるワケでも無く、呟きながら兵装を構える鼎。彼女の周囲に聖なる精霊力が集まり、2本の矢を生み出した。
 それに合わせて、空も薄緑色の光を纏った矢を連続で撃ち放つ。4本の矢が入り乱れ、白と緑色の軌跡を描きながら、敵の体を貫通した。穿たれた穴から、瘴気が立ち昇っている。
「では、そろそろご退場願いましょうか。私達の精神衛生上、長居されては困りますし」
 羽織を翻し、黒初は刀を掲げた。直後、夕陽のような淡い光が魔羊を照らし、精霊の力で攻撃能力を大きく低下させた。そのまま、今度は精霊力を武器に宿し、鋭く薙ぎ払う。紅葉のような紅い燐光が散り乱れ、アヤカシを深々と斬り裂いた。
 噴き出す瘴気を突き抜け、魔羊は素早く腕を伸ばす。黒初の頭部を掴んで力を込めると、腕に瘴気を集め始めた。
『確か…さっき、不細工とか醜悪とか言ってたな? 今度は、お前が無様な姿を晒してみろ!』
 アヤカシの声が全員の脳に響いた直後、黒初の口から悲鳴が零れた。恐らく、瘴気を直接送り込んで、強烈な幻影を見せているのだろう。
「この感覚…魔声か!? 帚木殿!」
 一度魔声を受けたためか、感覚で魔声の発生に気付いた玄人。その苦しさと辛さを知っているため、黒初を助けるために駆け出した。更に、鋼介とイデアがそれに続く。
 しかし、魔羊は邪魔が入る事も予想していたようだ。イデア達の進路に、黒初の体を向ける。仲間を盾にされ、3人の動きが一瞬止まった。間髪入れず、魔羊は水平蹴りを放つ。強烈な一撃が玄人に命中し、衝撃で3人の体が後方に吹っ飛んだ。
「帚木さん! そんな言葉なんかに、絶対負けないで!」
 月奈の声援に反し、黒初の叫び声が徐々に小さくなっていく。アヤカシが手を離すと、黒初は自身の肩を抱くように身を縮め、ガタガタと震え始めた。顔は伏せ、敵と視線を合わせようとしない。怯える様子から察するに、恐慌状態に陥ってしまったようだ。
 魔羊は軽く鼻で笑い、剣を振り上げる。精神異常だけでは終わらず、命を奪おうとしているのだろう。周囲の開拓者達がアヤカシと黒初の間に割り込もうとしたが、もう遅い。行動を起こそうとした瞬間、魔は全力で刀剣を振り下ろしていた。
 次の瞬間、黒初は刀の鞘で斬撃を受け止める。周囲が驚愕する間も無く、そのまま刀を納めた。立ち上がりながら大きく踏み込み、素早く刃を抜き放って奔らせる。完全に虚を突いた斬撃が、敵の胸を深々と斬り裂いた。
 大量の瘴気を噴き出しながら、驚愕の表情を浮べる魔羊。それ以上に驚いているのは、開拓者達だ。行動不能だと思っていた仲間が見事なカウンターを決めたのだから、驚くのは当然である。
「なかなかの名演技だったぜ? 案外、役者に向いてルかもな」
 ただ1人。空だけは黒初の状態を見抜いていたようだ。言葉と共に不敵な笑みを向けると、黒初はサワヤカな笑顔を返した。
「『敵を欺くには、先ず味方から』ですよ。全力で演技した甲斐がありましたねぇ」
 アヤカシを倒すためなら、みっともない姿を晒す事も躊躇わない。器用なのか不器用なのか分からないが、それが黒初の強さに繋がっているのだろう。
「この機を身逃がす手は無い! みんな、一気にケリを付けるぞ!」
 吼えるような恋の叫びに、開拓者達が静かに頷く。兵装を強く握り、一斉に行動を起こした。
 地面を蹴り、狼の如くしなやかな動きで飛び掛かる恋。燃えるような色彩を放つ太刀が敵を斬り裂き、周囲に瘴気が舞った。
 空は弓を大きな鋏に持ち替え、武器全体に白く澄んだ気を纏わせた。その状態で距離を詰め、鋏を大きく開く。
「切り刻ム…その血肉を撒き散ラせ…」
 敵の左腕を挟み込み、一気に切断。血肉の代わりに瘴気が舞い散り、空の鋏に触れた瘴気は梅の香りを残して浄化されていった。
「頭に話し掛けようが、俺の考えを覗けやしないだろうよ!」
 裂帛の叫びと共に、竜哉が剣を振り下ろす。魔羊は片腕になりながらも、剣を構えて防御を固めた。固い金属音と共に、火花が飛び散る。
 アヤカシは斬撃を受け止めたが、そこまでは竜哉の想定内。剣を手放して踏み込み、革製の篭手を装着した腕を伸ばした。指に繋いだ紐を引くと、手首の内側からバネ仕掛けの刃が飛び出す。刺突用の刃が敵の首に突き刺さり、瘴気が噴き出した。
 竜哉と入れ替わるように、白月が距離を詰める。自身の気と精霊力を全身に満たすと、両腕が真紅の炎に包まれた。攻撃の構えをとって拳を突き出すと、炎が鳳凰の翼のように広がる。周囲に鳥の鳴き声が響く中、拳撃が魔羊を直撃。炎が体表を焦がし、衝撃が全身を駆け抜けた。
「……私だって、ずっと一緒に居たかった人が居る…でも、アヤカシ風情が愛という感情を利用したのなら、許せない…!」
 鼎の心の中には、死別した夫への想いが詰まっている。その愛情は、今でも消える事は無い。だからこそ…彼女は、愛や人の弱さを利用するアヤカシが許せないのだ。
 ゆっくりと魔羊に歩み寄り、短刀を逆手に握る。心中の想いを刃に乗せ、全力で振り下ろした。切先が皮膚を突き破り、アヤカシの肩に突き刺さる。その状態で鼎が指を鳴らすと、短刀の先端から電撃が奔り、敵を内部から破壊した。
 開拓者達の猛攻を受け、アヤカシは既に満身創痍。全身から瘴気が漏れ出し、今にも消滅しそうだ。こんな状態になっても、魔羊は『諦める』という選択をしない。片腕で剣を握り、鼎に向かって振り下ろした。
 鋭い斬撃が彼女に届くより早く、イデアが間に割って入る。黒い刀身がイデアの白い肌を大きく斬り裂き、鮮血が派手に飛び散った。
「…この身が斬り裂かれようと、最後に立っていれば何の問題もありません!」
 痛みを無視するように叫び、剣を強く握り直す。流れるような斬撃を連続で放ち、アヤカシの体勢を崩しながら十字の傷を刻み込んだ。
「気持ちは分かりますが…色んな意味で大問題な気がします」
 白月の呟いた言葉は、誰もが思っている事だろう。イデアの覚悟は見事だし、簡単には真似出来ない事ではあるが。
 玄人は地面を蹴り、魔羊との間合いを詰める。太刀を構えて腰を下ろし、下段から水平に向けて振り上げた。緋色の剣閃がアヤカシを深々と斬り裂き、瘴気が一気に噴き出す。
「死への恐怖と絶望を…貴様自身が身を持って味わえ!」
 敵に止めを刺すため、鋼介は盾を構えて疾走。至近距離から盾を投げ付け、アヤカシの視界を塞いだ。間髪入れず、空いた手で長曽禰虎徹を握る。そのまま大きく踏み込み、虎徹を全力で突き出した。高速移動からの刺突が、魔羊の脇腹を大きく抉り取る。
 更に、鋼介は逆の手で握った太刀に炎を纏わせ、擦れ違い様に薙ぎ払った。燃える斬撃がアヤカシを両断し、斬り裂かれた体が地面を転がる。鋼介が双刀を軽く振って鞘に納めると、魔羊の全てが瘴気と化して空気に溶けていった。
 こうして…人の精神的弱味を利用するアヤカシの事件は、静かに幕を下ろす。傷の手当をした後、開拓者達は最初に事件が起きた現場に戻って行った。事件に巻き込まれた夫婦は、遺体が見付かっていないため墓も建っていない。そのため、最後に目撃された場所で黙祷を捧げたのだ。
 アヤカシが存在する限り、今回のような被害に終わりは無い。人々を護るため、悲しみを減らすため、アヤカシと戦う決意を再び固め、開拓者達はその場を後にした。
 被害に遭った夫婦が、静かに眠れるよう祈りを捧げながら。