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■オープニング本文 ※注意 このシナリオは舵天照世界の未来を扱うシナリオです。 シナリオにおける展開は実際の出来事、歴史として扱われます。 年表と違う結果に至った場合、年表を修正、或いは異説として併記されます。 参加するPCはシナリオで設定された年代相応の年齢として描写されます。 ※後継者の登場(可) このシナリオではPCの子孫やその他縁者を一人だけ登場させることができます。 ● 武天、秋川村。その小さな村にからくり藤娘の主が眠る。 「玄様……」 主の墓を前に藤娘は小さく呟いた。主が亡くなり今年で四年目を迎える。主の志を継ぎ、開拓者となり新しい知己も得た。 だがいまだにその名を呼ぶとき、胸が小さく軋みを上げる。 「今日はお伝えしたいことがあってやって参りました」 主の形見である太刀を胸に抱き締めた。 「私に新しい相棒ができたのです……」 その言葉と共に藤娘の肩から髪を掻き分け一匹の猫又が顔を覗かせた。 「桃さんとおっしゃる猫又さんです」 小柄な三毛の猫又が「にゃあん」と一声鳴く。その体の大きさに似合わず中々ドスの利いた声だ。 「あたしも数年前に主を亡くしてね。このまま一人で居ようかとも思ったんだが……まあ」 妙に人間くさい仕草で溜息を吐いた。 「この子ときたら危なっかしくてみてらんなくてねえ。少しの間あたしが面倒をみてやることにしたんだよ」 よろしくね、と猫又桃が二股に分かれた尻尾を振る。 「どうか見守っていてくださいね」 藤娘の下げた頭に肩からくるりと登り、前足を重ねて座る。藤娘が頭を上げればまるで猫の帽子を被っているようにもみえた。 「そうそう、あたしはこう見える通りか弱い女だからね、なぁんにも心配することはないよ」 声だけ聞いていると海千山千の女傑のようだ。 「玄様は焼もちをやいたりするような方ではないのです」 少し唇を尖らせた藤娘に「どうだか」と桃が明後日の方を見た。 「……と、また来ますね……」 暫く藤娘は主の墓を見つめる。その間桃も何も言わなかった。 風が吹き抜ける。その風に主の声が聞こえないかと思ってしまうのは仕方のない事だろうか。 「……では玄様」 未練を断ち切るように背を向けた。藤娘から飛び降りた桃が墓へと寄る。 「変な虫が寄り付かないように見張っているから安心しな」 一言告げて、桃は先を行く藤娘を追いかけた。 ● 理穴、清瀬村。かつての魔の森に寄り添うように作られたこの復興村も四度目の春を迎える。 陰穀国石見一族のシノビ佐保は村はずれの桜の下にいた。まだ五分咲きの桜はそれでも初めて見た頃に比べ枝ぶりも立派に花の色も大分濃くなってきている。 きっと村の発展と共に大きくなっていくのだろう。 「佐保ねーちゃん」 駆け寄る少年。かつて佐保が開拓者の協力を得て保護し、この村へ預けた五人の子供達のうち一番年上の早丸だ。 「そろそろお昼だってさ」 と言いつつも早丸も佐保に並ぶ。最近背も伸び始め、あと1、2年もすれば小柄な佐保は抜かれてしまうかもしれないという危機感を持っていた。 「分かった。すぐに行こう」 「ねーちゃん、一人で桜見てるとか寂しいなあ」 伸びた背に比例して最近めっきり口も達者になってきている。 「誰か一緒に桜見てくれるような好い人いないの?」 生意気どころかませてきた、と佐保は眉間に皺を寄せた。 「早丸に私のことを心配してもらう謂れはない。心配するなら自分のことを……」 「えっ……好い人いるの?!」 心底驚いたといった様子の早丸に益々深くなる佐保は益々眉間の皺。 「……あ、いないんだ。なぁんだ、驚いて損……いでっ……」 ごんと頭頂部に落とす拳骨。早丸は大袈裟に痛がった。 「志体持ちだろう。これくらいなんてことはない。ほら、皆を待たせたら悪いから急いで戻るぞ……」 「まあ、安心しろって。ねーちゃんが行き遅れたら俺がもらってやるから」 早丸がにやりと笑う。 「……早丸」 「なに、嬉しい?」 「いや、そういうことはせめて私から一本奪えるようになってから言うべきだ……」 早丸は時々佐保に稽古をつけてもらっている。といっても一方的に早丸が襲撃し一方的に撃退されているだけなのだが。 「じゃーさー、俺にシノビの技教えてよ」 「お人よしの開拓者じゃあるまいし、余所者に教えるか」 「ねーちゃんさ、そんなだから好い人できなっ……ぐがあああ……」 佐保は早丸の頬をこれでもかと抓ってやった。早丸の情けない悲鳴が桜の下に響く。 |
■参加者一覧
羅喉丸(ia0347)
22歳・男・泰
黎阿(ia5303)
18歳・女・巫
由他郎(ia5334)
21歳・男・弓
ウルシュテッド(ib5445)
27歳・男・シ
佐藤 仁八(ic0168)
34歳・男・志
不散紅葉(ic1215)
14歳・女・志 |
■リプレイ本文 ● 細い路地の先にある榊の垣根の古民家。 「此処だな」 羅喉丸(ia0347)は手にした地図を確認すると、木戸を開け中へ入った。 家屋を前に懐から折り畳んだ紙を取り出し開く。それは羅喉丸自身の手によって書かれた小さな道場の設計図だった。 開拓者として仕事の合間、独学で学び修正を重ね完成させたのだ。 大戦も終り太平の世となりつつある今、羅喉丸は己が志し学んだ武の道を、そこに込められた先達の想いを次代に遺そうと道場を開く決意をした。図面はそのための第一歩である。 そして第二歩目、道場を建てる土地探しだ。暇をみつけてはあちこち巡っている。 此処も候補の一つ。母屋は少し手を入れればすぐにでも暮らせそうだ。道場も裏手の蔵を取り壊せば十分だろう。 (……予定より大きい道場も建てられそうだな) という事に気づき慌てて頭を振る。 いやいやいきなり大きな道場はもてあましやしないか。やはり当初の計画通り自分一人で全員を指導できる身の丈にあった小さな道場が。外見ばかり立派で中身を伴わなければ意味がない……と此処まで考えてから肩を竦め苦笑を零す。 「まず弟子が集まるか……そこからだというのに」 いやそれ以前に建てるところからだろう、と内心突っ込む。 「此処も悪くはないんだがなぁ……」 ギルドから聊か遠いのが難点か、と首を捻った。 できれば理穴開拓者ギルドを統括する妻の手助けをいつでもできるようにギルド近隣に道場を構えたい。だがギルド近辺は土地が空いていないのが実情だ。 図面作成も然り、土地探しも然り、道場建設は自分にとって未知のことばかり。今までと勝手が違い過ぎて正直戸惑いも躓きもある。だがそれが面白い。 こうして図面ができ、土地を探し少しずつ進んでいくのを実感するのも昨今感じえなかった喜びだ。 「よもや開拓者になった時には道場主になるなんて夢にも思っていなかったな……」 むしろ異郷にて一人露と消える覚悟だった。その自分が妻を娶り道場を開くなど……。俺も立派になったものだと自身を茶化す。 「初めて尽くしならいっそのことギルドで依頼を出してみるか」 自分が依頼人になる日が来ようとは、と羅喉丸が堪らず声を上げて笑う。 道のりはまだ遠そうだ。だが何事も千里の道も一歩から。 「こんなところは武もなにも一緒だな」 羅喉丸は空を見上げた。 ● 小間物屋から不散紅葉(ic1215)、少し遅れて 雪切・透夜(ib0135)が出てくる。 「次は甘味処に行こう?」 大好きな同居人に教えてもらったお店がある、と紅葉は透夜を振り返った。 「それから枝垂れ桜を見に行って、神社に奉納された神馬も……」 指折り数えると透夜が笑う。その笑顔を紅葉は思わず見つめた。 (ボクの探しもの……) 目覚めてからずっと探していた。今ボクはその人と一緒にいる。 「どうしたの?」 透夜が紅葉の視線に気付く。なんでもない、と小走りに並ぶ。 朱色の欄干の橋、川岸には名残の桜。 「ちょっと待って。紅葉、そこに立って」 透夜が指差す橋の袂。紅葉がそこに立つと透夜は黙々と写生を始めた。こうなると描き終えるまで透夜は動かない。 (ボクにとって……) 探し出す―それが記憶を持たない自分を動かすただ一つだった。探し物は何かわからない。でも大切だということだけはわかる。それだけで十分だった。 透夜の肩に舞い落ちる桜の花びら。それはいつかの雪を思い起こさせる。 舞う雪、黒い鉱石、白い羽……惹かれるように紅葉の中で少しだけ記憶が蘇ったあの日から、記憶の断片をかき集めるようにそれを求め続け、焦がれ続け……そしてあの人を、父を見つけたのだ。 その瞬間分かった。探していたのはその人であり、その人との絆でもあったのだ、と。 父さま、呼ぶと胸の辺りがぽうと温かくなる。これがきっと絆。 尤もこの旅路はそれだけではなく沢山の宝物を齎してくれた。それは人との出会いであったり、新しい見聞であったり。その宝物探しはとても楽しく今も続けている。 宝物のなかでも……。 (大切で温かい……ボクの) ずっと傍にいたいと願える相手に出会えたことは感謝してもしきれない。 「はいはい、動かない」 透夜が目敏く注意する。 「まだかかるの?」 「ふふ、こういうのもまたいいものだよ」 ジト目の紅葉に透夜が笑う。 「これを終えたら甘味処に行こう」 透夜は筆を走らせた。 描く娘の姿。そう自分と紅葉は父娘である。それは世間とは少し違うかもしれない。でも彼女と出会った時、「ああ、この子は僕の娘なんだ」とするりと受け入れることができたのだ。 こうして娘との思い出を重ねるのだろう、と完成した絵に名を入れる。不意に袖を引かれた。 「父さま、行こう…。面白いもの、見たことないものが、いっぱい、だよ」 「次は甘味だったかな?」 歩き出し人ごみに紛れかかる透夜。 「もう、離れちゃ駄目……。探すの、大変だから」 紅葉は手を繋ぐ代わりにぎゅっと抱きつき微笑んだ。 ● 顔馴染みの話し通り、髪結の前で騒ぐゴロツキ共の姿を認めて佐藤 仁八(ic0168)は人の悪い笑みを浮かべた。 「おう、おう、鴨が葱しょってきてらあ」 佐藤にとって粋がるゴロツキは良い金蔓だ。 「あたしも混ぜてくんねえ」 下駄を鳴らして野次馬を掻き分ける。 「蛤は虫の毒、と。全部で十人かい?」 現れた佐藤にゴロツキの頭、頬傷の男が「あっ」と声を上げた。 「ああ、こないだお鶴婆さんに絡んでっとこあたしに伸された破落戸かい。今日ぁまた随分と人を揃えてきたねえ」 嬉しいじゃあねえか、と手を鳴らせば頬傷男も凄む。 「今日もあたしぁ刀使わねえでおいてやるからよ」 「まずはこいつを畳んじまえ」 挑発に頬傷男の号令一発。一番乗りだと飛び込むお調子者が佐藤に足を引っ掛けられすっ転ぶ。 唸る角材、それを防いだのは拳に赤く輝く拳鍔。そして古銭の束が男の顔を強か打ちつけた。 「八ぃ、ずりぃぞ!」 見物客から飛ぶ野次にくっくっく、と佐藤が肩を震わせた。 「刀を使わねえとぁ言ったが、武器を使わねえとぁ言ってねえ」 喧嘩は神楽の華である。野次馬は赤勝て、白勝て、無責任に旗を振る。 最後の一人を転がし、身包み剥いで喧嘩は終い。 「またいつでも来てくんねえ」 小銭入れを手に乗せる佐藤に、ほうほうのていで逃げ出す男達。 その金で買った酒を両手に下げ、更に瓢箪を腰に括り付けての帰宅。狭い路地はいつも賑やかだ。 「明日手ぇ借りてぇんだが」 「そいつぁ明日に頼まあ。 お、お富さん、いつも悪いねえ」 家の前、撒かれた水にお隣さんへ声を掛ける。 「構わないよ。これも持ってきな」 受け取る豆腐田楽。 「吉坊、これから夕河岸かい?」 小さな身体で天秤棒かつぐ子供を呼び止めた。 「おう。肴に刺身なんてどうだ?」 「そんなら平目でも仕入れてきてくんねえ」 「任せな」 走っていく子供を「売れ残りもあたしが買ってやらあ」と見送った。「ヨォ、太っ腹」なんて声が飛ぶ。宵越しの銭は持たない、あぶく銭は使うに限る。 二畳一間の掘立小屋、どかりと座り、腰から外した長巻の目釘を抜いて柄を外す。 端の欠けた湯呑みに酒を注ぎぐいと一杯、長巻の手入れを始めた。 開け放した戸からは春の少し温んだ風が入ってくる。夕焼けの赤いこと。 「明日も天儀晴れだねえ」 手酌でもう一杯。 「そういやあ、借金返したっけかねえ……」 顎を撫で首を傾げる。尤もすぐに頭の隅に追いやって空の湯呑みに酒を注いだ。 ● 1017年、春。 お産用に暖められた部屋でベッドに横たわるニノン(ia9578)の傍ら、ウルシュテッド(ib5445)は深呼吸。思い浮かべるのは立会いに渋い顔の妻と学んだ出産のイロハ。 「水差し、団扇……」 余裕があるときの時間潰し、同人絵巻まで抜かりなく、姉から聞いて揃えたあると便利な道具の確認。 あとは実家が手配してくれた優秀な医師と産婆に任せればいいのだ、と自分に言い聞かせる。 陣痛で苦しみ始めたニノンの手を握ろうとしたら逆に掴まれた。 「ここからはわしの戦いじゃ! 武運を祈っておれ!」 歴戦の将のような迫力に、素直に部屋から出て行くウルシュテッド。 「ああ、頑張れニノン!」 閉められた扉の前で声援を送る。 「ううっ! 鵺の雷の方が余程マシじゃーー!!」 突如響き渡る絶叫にウルシュテッドは思わず肩を揺らした。 呻きに絶叫。妻は、子は無事か……。 どんな戦場でも此処までの恐怖と不安を覚えたことがない。 この場において自分は、 「無力だ……」 抱えた膝に顔を埋める。 廊下の向こうから子供達が現れた。 差し出される毛布とサンドイッチにお茶。ウルシュテッドが食事を摂るのを見届け子供達は「赤ちゃん生まれたら起こしてね」と戻っていった。 それからは頭から毛布を被り、妻手作りのお守りを握り締め母子の無事を一心に祈る。 朝日が指す頃……。 酷い痛みと苦しみ、時折ニノンの意識が飛ぶ。夢の中、時にめくるめく同人絵巻にデュフフと笑い、時に談笑する家族に口元を綻ばせた。 次第に間隔が狭くなる痛みと苦しみの波。 あまりの痛みに霞む世界に見えるのは……。 『さあおいで、家族がそなたを待っておる』 ニノンは両手を広げた。 「ぉギャァー」 館に響く元気な赤ん坊の泣き声。 「ニノン!!」 ウルシュテッドはドアノブに手かけ妻を呼ぶ。 開けていいのか戸惑っていると内側から戸が開かれた。 朝日の中、おくるみにつつまれた子を抱く妻はやつれた様子だが晴れ晴れと美しい。 「存分に労うとよいぞ」 絶叫や呻きは嘘のような得意気な笑顔。 「…よ かった……無事で、本当に……」 妻と子の姿を見た途端安堵で涙が溢れた。 「ニノン、お疲れ様……ありがとう」 小さな手は柔らかく温かい。 待ち望んだ子、無意識に浮かぶ笑み。 「目元はニノン……耳の形がうちの家系か……」 「さすがわしとそなたの子、可愛いのう」 生まれたのは女の子、ウルシュテッドが名前を考える約束だ。 「エスターと……」 挙げた候補からニノンが選ぶ。 「俺達の娘…今日からよろしくな、エシィ」 ウルシュテッドはニノンの肩を抱く。共に見守る娘の寝顔。 遠くから子供達の足音が聞こえてきた。 ● 夫が生まれ育った村へ移り住む。 赤子が寝ている揺り篭を傍らに黎阿(ia5303)は風呂敷に衣類をまとめる。 夫婦共々、さして持ち物が多いわけではなく、しかも家具など大物は全て友人に譲ったり処分しているものだから荷造りといってもちょっとした旅行に行く程度だ。 「それでも……」 ぐずり始めた娘を抱き上げあやす。娘が生まれてからは大分増えた。荷物も半分以上娘のものかもしれない。娘を寝かしつけ再び始める荷造り。 「これからはあそこに住むのね」 結婚式などで何度か訪れた理穴の緑豊かな村が瞼の裏に浮かぶ。よもや自分が天儀を出て家族と暮らすことになろうとは、と黎阿は苦笑を浮かべる。 (天儀に来たとき、私は一人だった……) いや敢えて一人でいた、というべきだろうか。『高嶺の花』と称して壁を自ら作った。舞い手として各地を巡り、顔見知りは多いが近しい者は作らない。自分は強い人間だと言い聞かせ、そして周囲にもそう思わせ生きてきた。 そのような時に彼、由他郎(ia5334)と出会ったのだ。 なんてことない出会い。最初の印象も寡黙で真面目な男くらい。 多分その後会うことが無ければ「そんな人もいたわね」で終っていたことだろう。だが、何の因果かそれから彼とは何度も顔を合わせることとなった。 その内軽口を叩けるような仲となり、もう少し彼のことが知りたいと思うようになる。多分その時にはもう彼に惹かれていたのだろう。 彼の隣はとても心地良く、黎阿は彼の元へ足繁く通っていた。 出会った頃に比べれば大分親しくなり心安くもなった。それでも彼にはまだ強い自分を見せているつもりだったのだ。 だというのに彼は壁の内側にいる黎阿に気付いていた。それを知ったとき、怖くなった。落胆されてしまうのではないか、と。 だが「それでもいい」とそんな自分を受け入れてくれた彼。 彼への想いを自覚したのはその時だ。自分が彼を一人の男として意識している、と。その意味を。 今ならわかる。 (私は、由他郎に会う為に生きて来たのだと……) 着物を畳む手を止めた。 「改めて思うと気恥ずかしいわね……」 ぼそっと呟く。 家の掃除も終え、大家に挨拶もした。荷物も龍に積み終えている。 やり残した事は……と浮かんだ妹の顔に由他郎は軽く頭を振った。 確かに神楽の都に残る妹のことは気掛かりだが、二十歳にもなろうという相手に今更あれこれ口出しするのもおかしな話だろう。 「……行くか」 由他郎は黎阿と娘とともに暮らした家へ最後の挨拶に立ち寄った。 黎阿の腕に抱かれた娘愛梨はいつもとは違う様子にきょとんとしている。 「お前の生まれた家だ」 今日でお別れだ、という夫の言葉に腕の中の娘が家を良く見えるように黎阿は身体の向きをかえる。 「愛梨。よく見ておくのよ」 父と母が出会い、貴女が生まれた場所を、と心の中で娘に語りかける。娘はよくわかっていないなりに母を真似て家を見上げていた。 (大丈夫……) 家へ向かって伸ばされる小さな手。 (貴女のお父さんが愛する場所よ。きっと貴女も好きになるわ) ゆらりとゆらりと腕を揺らすうちに娘は眠りへ落ちる。 「もう、いいか? 苑梨も行くぞ」 由他郎の言葉に空で待機中の轟龍、苑梨が進行方向へ大きく旋回した。 「ええ。いきましょう。由他郎」 まっすぐに夫を見つめ返し黎阿が微笑む。この地にあるのは思い出で、未練は一つも無い。それに自分の居場所は彼の隣なのだ。神楽の都だろうと理穴だろうと場所なんて関係ない。 由他郎は妻から子を預かると歩き出す。 故郷へ戻り、そして森をアヤカシから完全に取り戻す、それが由他郎の目的の一つだ。 世の中には一応の平穏が訪れ、もう多くの開拓者が呼び集められる合戦もないだろう。鍛錬を重ね、これならばと納得できる力も身につけた。 死ぬつもりなど毛頭ない。だが無傷で終る戦いではないだろうし、いくら力を得たところで確実に勝てる保証も無い。 「……面倒を、掛けるかもしれないな」 妻に向けたのは共に進むことを前提とした言葉。「それでも一緒に来てくれるか」などは聞かない。今日まで共に歩みを刻んできた妻なのだ。それを聞く必要はないことも分かっている。それに自分にとって戻る場所とは妻の隣なのだから。何があったとしても自分と妻は共にいるのだ。 「落ち着いたらもう一人くらい欲しいわね」 答えの代わりに妻がそう言って笑う。 妻と子等と、そして今も昔も同じ村の猟師の自分。森から恵みを分け与えられ、森に寄り添い生きる日々を思い描く。それはもうすぐ実現するはずだ。 (いや……) 実現させる。由他郎は心に誓った。 |