|
■オープニング本文 ● 夜明け前、女が目を覚ます。 静まり返った空間に隣で寝ている男の鼾だけが響く。 「あぁ……」 女は胸を掻き毟り小さく呻いた。 (食べたい、食べたい、食べたい……とても食べたくて堪らない……) 隣に眠る男を……。 噛み切った皮膚から溢れる血はどんな香りだろうか。 女は口を開く。闇夜に浮かぶ白く小さい歯。 「あ……ぁっ ぁ……」 戦慄く唇。胸元を握る指が小刻みに震える。 毎日土を耕す男の肉は硬いのだろうか。 少しずつ、ゆっくりと顔を男に近づけた。開いた唇か滴る涎が男の頬を濡らす。 「ん……あ」 身じろいだ男が目を覚ました。 「……結、どうした……怖い夢でもみたのか……」 はっと我に返る女を子供をあやすように男が抱き締める。 一層強くなる男の匂い。 (ああ……食べたい、食べたい、食べたい……食べたい……) でも、と思う。 (食べたら……きっと私は、私ではなくなってしまう……) ● そのアヤカシには名前が無い。今は「結」と名乗っている。 さして力のあるアヤカシではない。ただ人に化けるのだけは滅法上手かった。力ある者も欺けるほどだ。 結は巧みに人を真似、人間社会に紛れ生きてきた。 結が喰らうのは人の血肉ではなく生気、そしてそこらのアヤカシのように手当たり次第というわけではない。自分の仕業だと疑われぬよう、病の者や老人など先の短い、死んでもおかしくない者の生気ばかりを食らってきた。 己の分を弁えていた結はその慎重さ故に下級アヤカシでありながらたいそう長く生きてきたのだ。 今は理穴の山間部のとある小さな村にて暮らしている。二年前行き倒れを演じていたところ、偶然通りかかった晋作という村の若者に助けられたのがきっかけだ。 晋作をはじめとして村人は気が良く、余所者の結にもよくしてくれた。冬に雪深いことを除けば長閑で中々に悪くない村である。 だがそろそろ潮時だろう。一箇所に長くいるのは危険なのだ。 「お〜い、結!」 農道を歩く結に畑を耕していた晋作が気付き手を振る。 「お弁当もってきましたよ、そろそろ休憩にしませんか?」 結は手にした風呂敷包みを掲げる。助けられた日から結は晋作の家に世話になっていた。 この春夫婦になる予定だ。それを周囲に告げたとき「ようやくかあ」と笑われ祝福された。 結にとって夫婦となるのは何もこれが初めてではない。今までも成り行き上、夫婦となったことはある。 夫婦というものは人間社会において優秀な隠れ蓑の役目を果たしてくれるのだ。 だから初めて晋作に想いを告げられた時も村にいる間利用させてもらおうとだけ思っていたはずなのに……。 その日から結の体の内に少しずつおかしなものが育ち始めた。 いやおかしなものではない。それはアヤカシにとってごく当たり前の欲……「食欲」なのだから。人間を喰らいたいという。 最初のうちは晋作を見るたびに腹の辺りがむずむずとした。 それから胸を掻き毟りたくなるような焦燥感。そしていつの日がそれが食欲だと気付く。 あの人を食べたい、脳髄まで啜りたい。 生気だけを喰らって生きてきた結にとって青天の霹靂ともいえる欲である。 一度自覚してしまえば食欲は益々盛んになっていく。昼間はまだ良い。動いたりして気が紛れる。しかし夜、例えば皆が寝静まった深夜……その欲は結を飲み込むほどの大きくなった。 何度その無防備な首に齧りついてしまと思ったことか。 だが強まる食欲、だが次第に結の中にもう一つの声が聞こえてくる。 声は「晋作を食べてはだめだ」と結に告げた。 その声がどこから生まれてくるは結は知らない。 ただ結は今まで自分が生き残れた理由を理解している。だから血肉の味を覚えれば呆気なく人にみつかりこの身を滅ぼしかねない、と己の生存本能の警告だと思っていた。 ● 深夜、やはり目覚めた結は畳に爪を立てた。 食べたい 食べたい 食べたい 食べたい 食べたい 食べたい…… 晋作の血肉がほしい、胸が狂おしいほどの欲。 食べるな 食べるな 食べるな 食べるな 食べるな 食べるな…… だが同時に渦巻くもう一つの声。 食べたい 食べるな 食べたい 食べるな 食べ…… 「食べたい……」 掠れ声が漏れる。闇に炯々と輝く結の双眸。赤い舌が唇を舐める。 晋作を覗き込んだ。 「晋作……さ、ん」 その手を取り、歯を立てる。ぷつり、と皮膚が破け血の味が口腔に広がった。 甘い、甘い……血。 「……結?」 夢現な晋作の声。 「なんだ、お前、泣いてんのか……どうした?」 手から流れる血も意に介せずに晋作は結の頬に手を伸ばした。頬に触れる晋作のごつごつした温かい手。結は初めて自分が泣いていることに気付いた。 口の中に晋作の血の味が蘇る。 (私は……この人を 食べてしまう……。 食べたら……私は……) 途端、冷や汗がどっと噴出す。心臓というものが自分にあるとすればそれを冷たい手で掴まれたような。全てを飲み込むような真暗闇を覗き込んだような。自身が崩れていくような恐怖……。 結は立ち上がり、土間へ走る。そこで口に指を突っ込んで全部吐き出した。晋作が飛び起き追いかけてくる。 「大丈夫です……」 吐いたら落ち着きました、と笑みを浮かべる裏で結は一つ決心した。 自分が壊れる前に自分を止めてしまおう、と。 ● 結は「村周辺にアヤカシが出た」と偽って開拓者を呼び出す。 そして語る、自分がアヤカシであること。長いこと人の生気を喰らって生きてきたこと。 晋作に想いを告げられてから自分がおかしくなって来たこと。 「あの人のことを食べたいのです。でも食べてはだめだと思う私もいる……。きっと食べたら私は私ではなくなるのでしょう。ひょっとして滅びを迎えるのかもしれません」 だから、と続けた。 「どうか私を殺してください。私があの人を食べる前に……」 と、頭を下げる。 「これはあの人宛の手紙です。私が滅んだ後、渡してください」 内容は以前暮らしていた村に子供を残してきたことを思い出した。だからすぐに帰らなくてはならない、と自分が突然消える理由と今までの礼だ。 その手紙と晋作に貰ったのだという簪を重ね、開拓者へ差し出した。 ● 開拓者達は晋作に呼び止められる。 「開拓者様お願いです」 晋作は必死な様子で、夫婦になる約束をした結という娘の体調が最近優れない、と話し出す。 「夜も中々眠れずにいるようで、漸く寝たかと思えば苦しそうに呻いていたり。顔色もどんどん悪くなって……。先日の夜中は食べたもん全部もどしちまって……」 開拓者に縋る晋作。 「良い薬を持っていたら分けてくれませんか? じゃなければどこか大きな町のお医者様に……。礼ならば何年掛かっても払いますから……っ!!」 |
■参加者一覧
天河 ふしぎ(ia1037)
17歳・男・シ
朱華(ib1944)
19歳・男・志
羽喰 琥珀(ib3263)
12歳・男・志
ウルシュテッド(ib5445)
27歳・男・シ
笹倉 靖(ib6125)
23歳・男・巫
ケイウス=アルカーム(ib7387)
23歳・男・吟 |
■リプレイ本文 ● 薄暗い部屋に沈黙が訪れた。部屋には依頼主の結と六人の開拓者。 「村に出るアヤカシとは私のことです」 結が先程の言葉を繰り返した。 「アヤカシ、が……自身を討伐してほしいってことか……?」 真意を計ろうとする朱華(ib1944)の視線。手は何時でも抜けるように刀の柄に。 アヤカシが自身を殺して欲しいなど前代未聞だ。何か裏があると思うほうが普通である。 朱華は結の様子を注意深く観察する。正座のまま動く気配はない。少なくとも敵意はなさそうだ。だが刀から手は放すようなことはしない。 「私の話を聞いてください」 結が自身について語りだす。 (共存は不可能……) ケイウス=アルカーム(ib7387)は軽く下唇を噛む。結もそれを望んではいない。ならば……。 「分かった、引き受けるよ」 了承してから慌てて「いいよね?」と一同を見渡した。 最初罠を疑っていたが、結の言葉に天河 ふしぎ(ia1037)の疑いの心は消えていく。 (ああ、これは本物だな……) 多分本人以外、結の抱く想いの正体が分かったことだろう。彼女、アヤカシに対し彼女というのもおかしな話かもしれないが、だが自然とその言葉がでてきた――は理解できるか不明だが。絶対にこれは……。 「えっと、それはただの食欲とはちょっと違うと思うよ」 お節介だと思いつつもつい口にしてしまう。 「食べてしまいたいほど可愛い……」 人間だって嫌いなものは口にいれたくない、とウルシュテッド(ib5445)。 「あんたは彼を案じ、己より彼の命を優先している」 それが全てじゃないか、と腑に落ちない様子の結に告げたウルシュテッドが「さて」と話を戻した。 「俺としては人として有り触れた形の死別としたい……」 例えば記憶が戻り故郷に帰ったなどとすれば未練が残る、また結がアヤカシであったことが伝わるのも晋作はこの地で平穏に暮らせなくなる可能性が高い。ならばこその人としての死の演出である。 ウルシュテッドはアヤカシにかける情もなければ信用もしていない。見逃せと言われれば迷わず討っていたであろう。だからこれは結のためというよりは遺される晋作のためである。 結が己の最期を受け入れる覚悟をし、さらに自分が消えた後の晋作を気遣っているのだ。晋作が別れを受け入れ乗り越える道筋を作ることが自分達の役目だ。 「俺も賛成だ、がな……」 どうする、と笹倉 靖(ib6125)が視線で問う。その意味をウルシュテッドも理解していた。遺体の話だ。人は死ねば遺体が残る、だがアヤカシは残らない。結の遺体の扱いをどうするかということだ。 「それは葬送の価値観の違い、でいこうかと」 ウルシュテッドが説明を始める。 結の故郷では遺体は埋葬ではなく散骨をする。それは遺された人を故人に縛るのではなく、歩いていって欲しいという想いがあるため。病による己の死期を悟った結はその故郷の風習を思い出した。 晋作を自分の死で縛りたくはない、だから自分も故郷の風習で葬って欲しいと考え、開拓者に依頼をする。 「……んで、病の治療のためと俺達と村を出た結は道中死亡。俺達は彼女の遺言に従い散骨をしたってことか。確かにそれが良さそうだ」 そう言って顎を摩る笹倉に反対を唱える者はいない。 「俺は村に残って晋作が後を追わないようにするよ」 役割分担の際に羽喰 琥珀(ib3263)が名乗り出た。万が一晋作に結の最期を目撃され全てが台無しになることを避けるためだ。 文机に向かう結。朱華の提案で結の亡き後、晋作に対して心配することなど手紙に記し親しい人に頼むことにしたのだ。 うっかり手紙を見てしまったふしぎは胸が締め付けられる想いにかられた。 春夏の着物はどこだとか、糠床の手入れの仕方だとか日常のこまごましたことが並んでいる。それは二人が重ねてきた日々だ。 きゅ、と絞まる胸の辺りに手を置いた。 愛し合うもの同士がずっと一緒にいられないのはなんと悲しいことだろうか。 せめて二人が築きあげてきたものを壊さないように、そこから晋作が一歩を踏み出せるようにするために結の願いをかなえてあげたい、と思った。 結が手紙を書いている間、笹倉は晋作に会いに行く。 「アンタの未来の嫁さんの体調なんだが……」 言い難そうな笹倉に晋作が顔色を失う。 「かなり悪い。すぐに腕の良い医者に診せる必要がある」 治癒を司る巫女である笹倉の言葉を晋作は疑う素振りも見せない。 「俺達は結を医者に連れて行く。寝ずの行軍だ……」 申し訳ないが、と笹倉は晋作の機制を制した。 「アンタは村に残って結を送り出しちゃくれねぇか」 有無は言わせないとばかりに肩に手を置く。 「出発は明朝だ。繰り返し言うが危険な状態だ」 揺れる晋作の肩。 「心残りは無いようにちゃんと話し合っておけよ……」 自分の死を乗り越え進んでほしい、自身ですら気付いていない結の願いを託すように笹倉は晋作に告げた。 結の遺言状を手に朱華は晋作と親しい村人を訪ねる。結の病のことを説明し「少し、頼まれてくれないか」と切り出した。 「結さんの帰りが遅くなった時のことなのだが……」 晋作の様子をそれとなく見ていて欲しいと。 「帰宅の予定?」 尋ねられた朱華が思案するように遠くを見る。帰宅の予定はないのだ。 (自分が死んだ後……大切な者が死んだ後、か……) 遺す者、遺される者、それぞれの苦悩と願い……難しいな、と内心吐息。 「どうかしたのかい?」 「あぁ、いや晋作さんが今の話をきいたら心配して何が何でもついてきそうだな、と……」 苦笑を零すと、村人も「違いない」と笑う。晋作が結にベタ惚れだとかそんな話を聞いた後、 「ここから、都までは遠いからな」 念のためだ、と強調しながら手紙を託した。 夜明け少し前、もしもの事態に備え晋作達の様子を伺っていたケイウスは異変に気付く。呻き声に畳を引っかく音、すかさず竪琴を爪弾く。流れ出す優しい子守唄。開拓者達は眠りに落ちた結を外へと運び出す。 開拓者達と結は村外れを急ぐ。できれば晋作に気付かれる前に村を出て行きたい。だが背後から結を呼ぶ声。晋作が結を追いかけてきた。 「やっぱり心配だ。俺も連れて行って欲しい」 懇願する晋作の背後で「ごめん」と手を合わせる羽喰。 羽喰ならば力尽くで止めることもできたはずだ。それをしなかったということは最後に一目会わせてやりたかったのだろう、その気持ちを理解しつつも笹倉は晋作へと歩み寄る。 「足手纏いだ。アンタの我侭で嫁さん殺す気か?」 強い語調に、晋作が呻く。 「着いたらすぐに手紙を書きますから、心配しないで下さい」 結が晋作の手を握り微笑む。 結達の姿が見えなってなお立ち続ける晋作の背を羽喰は叩く。 「風邪でも引いたら余計な心配かけるだろ。家に戻ったらさ、晋作の事色々聞かせてくれよ……」 項垂れる晋作を家まで連れ帰った。 先頭にウルシュテッド、殿に朱華。周囲の物音や気配を探りながら一行は山を行く。人通りもめったにないが用心に越したことは無い。 結は時折心配そうに道を振り返る。 「結は本当に、晋作が大切なんだね」 隣に並ぶケイウスに首を傾げる結。 「今更だがなぁ……」 笹倉が髪をかき上げた。 「アンタのは食欲じゃねぇよ」 「晋作を食べてはいけないと思ったのもきっと生存本能なんかじゃない……」 ケイウスが少し躊躇ってから再び口を開く。 「彼を、愛した人を失いたくないから、彼を食べちゃいけないって思ったんだよ」 結が目を瞠る。そして「アヤカシに人の言う愛はありません」と首を振った。 「アヤカシにとって欲望は食欲しか無いのか?」 ふぃ、と笹倉は煙管を吹かす。視線は紫煙の先。結を見てはいない。 「独占欲、保護欲……そうさね、失う怖さ、傷つける恐れ……ぜーんぶひっくるめて愛情ってんだよ」 「失う怖さ、傷つける恐れ……」 あぁ、と結が胸に手を置き、目を細める。 村から十分離れたところで朱華が結に声をかけた。 「最期の場所にしたい所はあるか……」 結が選んだのは山の中腹の少しばかり開けた場所だ。遠くに村を見下ろせる。 「……流石に、嫌な気分だな……」 周囲を探りつつ朱華はそっと零す。村を見つめている結は晋作のことを考えているのだろう。 周囲に誰もいないことを確認し開拓者達は改めて結と向き合う。 「ありがとうございました」 頭を下げる結にケイウスは竪琴を構え、 「……おやすみ、結」 子守唄を奏でた。せめても苦痛がないように。力を失った結の身体をウルシュテッドが支える。 「次は人に生まれておいで……」 彼女の身体を横たえた。 抜いた逆刃刀を手に、朱華が結が寝ていることを確認する。結の胸の上、翳す返した逆刃刀。 刃を仄かな梅の香りを宿した澄んだ気が覆う。 「せめて、苦しまずに……」 一気に刃を胸に下ろした。その器から開放された瘴気は刃が纏った気に浄化され大気に溶けていく。結の形は喪われた。 「遺品を晋作さんに……」 朱華は櫛や根付など小物を拾い手拭に包む。 「死出の旅路を裸で送り出すわけにはいかねぇだろ」 笹倉の言葉で着物や草履は荼毘に付すことにした。印を結ぶウルシュテッド。生まれた炎がそれらを飲み込んだ。 (命は野に還り、いずれ芽吹いて次の命を育み廻るもの、か……) ウルシュテッドはさらさらと流れていく灰を見送る。向かうは晋作のもとだろうか……。 その頃村で晋作と羽喰は畑仕事中だ。 不意に晋作が手を止め山を振り仰いだ。 「どうしたー?」 「今結に呼ばれたような気がしてなあ……」 そろそろ昼飯を持ってくる時間だからかもしれん、と晋作が笑う。 「今日は俺がつくった握り飯。結には負けるかもだけどさ、中々美味いからなー。期待しとけよ」 羽喰は勤めて明るい声をあげた。 翌日の朝、開拓者達は村へ戻ってくる。結と話した部屋に今度は晋作と開拓者。 「結は亡くなった」 笹倉が簪と手紙を晋作に差し出した。 「冗談を。お医者に預けてきたのでしょう?」 ねえ、と笹倉に掴みかかろうとする晋作を背後に控えていた羽喰が抑えようと手を伸ばす。それをケイウスが瞳で制した。 流れる琴の音色……。晋作がへたりと座り込んだ。 「騙す形になって悪かったが、結は俺が診た時には生きているのが不思議なくらいの状態だったんだ……」 「亡骸はどこに? ないのに信じろと?」 それでも晋作は食い下がる。 「申し訳なかった……」 深々と頭を下げウルシュテッドは「実は」と用意していた筋書きを語りだす。 「価値観の差は大きい。それが死に関することならば尚更。結はそれを知っていたんだ。そして彼女には話し合うだけの時間が無かった……」 「晋作も結の体調がかなり悪いって思っていたんだよね……」 ふしぎの指摘に晋作が息を飲んだ。知っていたからこそ開拓者に頼ったのだ。 「自分の死期を悟った結はね、晋作には綺麗な時の自分を……笑顔の自分を覚えていて欲しかったんだと思うよ」 最期の別れ、手を取り微笑んだ結の笑顔……。晋作が結に握られた手を見つめる。 「結は、晋作を心配していたよ」 ケイウスはその手に脇に置かれたままの簪を握らせてやった。 「結が故郷の風習を選んだのは、貴方を縛り付けたくなかったからだ」 その意味はわかるな、とウルシュテッドが晋作を覗き込んだ。 「意味?」 「自分が居なくても前を向いて生きて欲しいって願ってたんじゃないかな……」 ケイウスの声に苦味が混じるのは己の無力さを自覚しているから。それでも結の気持ちを知って欲しい、と手紙も晋作へ手渡した。 手紙を読み始めた晋作の瞳から涙が溢れ出す。結の死を知らされ始めて流す涙。それは彼女の死を受け入れ、その死を悼む涙……。 涙が落ち着くと晋作は「最期はどうでしたか?」と尋ねる。 「眠るように静かに逝った」 「そうですか、苦しまなかったのなら……」 良かった、という声がまた涙に飲まれた。 「……すまない。かける言葉は、俺からは無い…」 朱華は眉根を寄せる。 「ただ……大切な人がいる以上、失う辛さも……分かる気がする」 朱華が結の遺品を広げた。彼女が日常身につけていたものだ。晋作が愛しそうに一つ一つ撫でる。 部屋を辞す時、ふしぎがもう一度晋作へと寄った。 「これは結の想いだよ」 手紙と簪を抱く晋作の手の上から自分の手を重ねた。 「本当はずっと一緒にいたかった、でもそれが叶わないならと。ただ晋作の幸せを願った彼女の……」 忘れないで、と手に力を込める。 ふしぎ自身、死別を経験したことはない。だが多くの別れを経験し、胸の真ん中にぽかりと穴が開いてしまったかのような、喪失感は知っている。 だからこそ晋作には結の想いを忘れないで欲しかった。喪失感に飲み込まれそうになった時の支えとして。 それでも一人きりの夜などどうにもならないときのため、ふしぎは近所に晋作をきにかけてやって欲しいとお願いして回った。 ● 夕暮れ時の村外れ。 結が最期を迎えた辺りを見つめる笹倉の背をケイウスは気遣わしげに見守る。 彼の煙管から立ち上る煙が線香代わりのようだ。 笹倉が口を開いた。 「アヤカシって死んだらどこに行くとか、考えたこと無かったなぁ……」 多分これは自身に言い聞かせるための言葉。 「巫女って命を救い、アヤカシを倒すのが仕事だが……」 割り切るか、ね、と無理矢理作ったかのような妙に軽い口調。 「靖、大丈夫?」 「……割と、参っている」 沈黙の後、珍しく素直に認めた親友にケイウスは自分ができることはないかと考えた。 そして奏でる鎮魂曲。だが、それは死者への手向けではなく、生者達の為に。 再び前を向けるよう願いを込めて。心を慰める為に。曲が終るまで笹倉は煙管を吹かしていた。 羽喰は晋作の様子が心配だと一人村に残る。 昼間はいつも通りに振舞っていても、夜は遺品を手に泣く日々だ。羽喰はそれで構わないと思う。自分が子供の頃流行病で家族を全て喪ったときは吐くほどに泣いた。泣いて怒鳴って……手を付けられない状態だっただろう。それでも気持ちを無理矢理殺すよりは全然良い。 ある日、晋作が「これからどうするか」と畑仕事中にふと漏らす。 「何でもいいから目的をみつけてみたらどーだ?」 結の思い出を綴ったり、旅をしたりと羽喰は指折り数えた。 「生き甲斐ができたら幸せに繋がる。幸せになって一年に数度程度思い出せるようになる事が、一番の供養だって俺は教わった」 羽喰は家族のことを晋作に話している。 「そう……だなあ」 呟いて晋作は空を見上げた。 それから二人は遺品の櫛を家の傍の梅の根元に埋める。 「こうしておけば結が俺を見守っていてくれるように思うんだ……。結が悲しむようなことはしちゃいけねぇって……」 羽喰は晋作と並んで散りかけの梅を見た。 今はその一歩で良い。きっと結はゆっくりとでも一歩ずつ歩んでいく晋作の背を見守ってくれるだろう。 |