彫刻家は筋肉が苦手
マスター名:桐崎ふみお
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: やや易
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2013/06/29 21:36



■オープニング本文


「こんなんじゃないのぉ〜」
 若い女の絶叫が響き渡った。
 ここは朱藩のとある街にある新進気鋭の彫刻家、相楽正華の自宅兼工房である。
 秘書の笠置が工房を覗くと、作りかけの彫刻に頭を打ち付けている正華の姿があった。
「正華さん、落ち着いて!額から血が、血が流れてます」
 慌てて背後から羽交い絞めにして彫刻から引き剥がす。彫りかけの真っ白い石に、うっすらと残る血の跡。
 正華は製作中、煮詰まると時折このような奇行に走る。それにしても今回は少々激しい。このままでは自分を壊してしまいそうだ。
「できないの…できないのっ。盛り上がる上腕二頭筋、固く引き締まった大臀筋、割れた腹筋、どれも私には無理ぃい」
 羽交い絞めにされたまま駄々っ子のように手足をばたつかせる。
 正華は最近名が売れてきた彫刻家だ。得意とするのは天女などの優美でたおやかな女性像、うっすらと光を通す白い石で作れらたそれらはまるで生きているようだと評される。
 しかし現在、彫っているのは180度方向性が違う逞しい男性像なのだ。これがどうしても上手くいかない。何度彫っても、逞しさを表現することができず、どこか頼りない姿になってしまう。
「お断りいたしましょうか?」
「それはできないわ。長岡のお爺様には私が小さい頃からお世話になっているんですもの」
 長岡という商人が像の発注者だ。長岡と正華は祖父と孫ほど年齢が離れている。正華がまだ幼い頃に、一家の大黒柱であった父が亡くなった。父の商の師匠であった長岡は、その後何くれと無く正華たち家族の面倒をみてくれたのだ。正華も祖父のように慕っている。
 現在彫刻家としての相楽正華がいるのも長岡のおかげだ。
 その長岡から今度家を新築するので、その家の守り神になるような逞しい像を二体、彫って欲しいと依頼があった。長い付き合いであるから当然、正華が逞しい像を不得手としているのは知っている。でもどうしても正華の像が欲しいと長岡が言うのだ。
(「長岡のお爺様は私に……新しい試みをさせてくれようとしてるんだわ」)
 一過性の人気だけではなく、これからも彫刻家としてやっていけるように作風の幅を広げさせようとしてくれている、そんな長岡の心遣いがわかるからこそ正華は断ることができない。見事完成させて、長岡に成長した自分をみてもらいたいという気持ちもある。

 でも……。

「筋肉が、筋肉の神様が全然私に降りてきてくれないのっ」

 床にへたりと座り込む。絶賛不調中であった。正華は19歳、作家としてそれほど長い時間を過ごしてるわけではないが、もうこれ以上はないであろう思えるほどの不調であった。
 道場ほどの広さの工房のあちこちに作りかけの像が立っている。今手がけているので何体目であろうか。いい加減にしないと長岡の新居が完成してしまう。

「笠置、お願い。私に筋肉を! 迸る筋肉を! 逞しい筋肉を! 躍動する筋肉を! 頂戴!!」
 縋りついてくる正華の姿は酷いものだ。長い黒髪はぼさぼさ、寝不足のせいで目は血走り、肌は荒れ放題、しかも割れた額からは一筋の血、自らが彫った天女像にも負けないとまで言われた可憐な姿が台無しである。色々と限界、そんな様子であった。
「筋肉の見本となるような方をお招きしましょうか?」
 資料ばかりではなく実物をみたらどうだ、という笠置の提案に正華の顔が微妙に引き攣る。
 実は正華は男性が苦手だ。男性全般というわけではない、子供や老人は大丈夫だし、古くからいる使用人も平気だ。ただ父亡き後、母と姉二人の女性だけの家庭で育ったこと、また遊びといえば一人で絵や工作ばかりの大人しかった少女時代に、近所の男の子達に苛められた経験などが重なった結果、同世代の若く逞しい男性が苦手なのだ。少し怖い。
「……笠置?」
「もちろん正華さんが、若い男性が苦手なのは存じております。でも長岡様の期待に応えるためにも」
 ちなみに笠置は妙齢の女性だ。仕事一筋、気付いたら友人は皆結婚しており、自分だけ一人……そんな状況だった、今回関係ない話だが。
「……わかったわ。私だって何時までも子供みたいな事は言ってられないもの。頑張ります」
 頷く正華の顔は少しばかり青ざめている。しかし彼女もどうにかしなくてはいけないと思っているのであった。


「……というわけで、彫刻の手本となってくださる方を探しに参りました」
 開拓者ギルドの職員に笠置は事のあらましを述べる。
「それと表向きの依頼とは別に……」
 これは相楽には内緒にして下さいと前置きをしてから、正華の男性に対する苦手意識を和らげる手伝いをして欲しいと付け足す。
 製作中はともかく正華はとても可愛らしい娘なのだ。それが一日、工房に篭り石と向かい合っているだけでは勿体無い。今は良いかもしれないが、いずれ年を経た時に後悔することがないよう、また創作活動の糧となるよう色々と経験させてあげたいというのが使用人達、そして長岡の意見であった。
「それにこのままでは折角の花の盛りに、恋の一つもできなくなってしまいますっ」
 笠置がググっと身を乗り出し力説する。それから姿勢を正して何事も無かったかのように咳払いを一つ。
「……依頼の期間中に気分転換などと言って相楽を街に連れ出していただきたいのです。その時……」
 背後に控えた男に目配せをする。ひょろりとした体格のどちらかというと読書などが似合いそうな青年だ。その青年がいきなり懐から取り出した覆面を被る。
「このように我々が相楽を襲う真似をします。そこを開拓者の皆様に助けて頂ければ、相楽も逞しい男性に対する恐怖が和らぐのではないかと……」
 ギルド職員は覆面の青年を見る。どう見ても悪漢役に向いていない。どちらかと言うと悪漢にやられる方だ。
「わかりました。ただ悪漢役はそちらの方ではなく、開拓者に相談したほうがよろしいかと思われます」
 依頼票に内容を追加される。

 ギルドから出てきた笠置がお供の青年を振り返った。
「正華さんのいい気分転換になると良いわね」
 本音はそこかもしれない。それに接した時間が楽しければきっと苦手意識だって克服されるのだ。


■参加者一覧
赤銅(ia0321
41歳・男・サ
慄罹(ia3634
31歳・男・志
荒屋敷(ia3801
17歳・男・サ
ラグナ・グラウシード(ib8459
19歳・男・騎
金剛寺 亞厳(ib9464
26歳・男・シ
ジャミール・ライル(ic0451
24歳・男・ジ


■リプレイ本文


 正華との挨拶を済ませ開拓者達は笠置に案内され工房に向かう。
「ほら、うさみたん。これが今日からの仕事場だ」
 背負った可愛らしいウサギのぬいぐるみに話しかけつつ、ラグナ・グラウシード(ib8459)は素描が散乱し、作りかけの像が並ぶ工房内を見て回る。
「彫刻のモデル、だそうだ…ふふっ、私のようなたくましく美しい若者にぴったりの仕事だ、そう思わないかうさみたん?」
 高い身長、引き締まったラグナの肢体はモデルに相応しいと言って差し支えない。しかも騎士は女性の苦悩を払う者、微力ながらもお手伝いをと協力を申し出てた姿は非常に男らしい。しかし漂う残念感。
 荒屋敷(ia3801)は書架を確認している。
「解剖学の教科書でも医院から持ってこうか…と思ったが、やっぱり資料はだいぶあるな」
 彫りかけの像も人体の構造的におかしなところはない。ただ気が弱そうだ。
「こうインスピレーションが欲しいってのならしょうがねえな!」
 一肌脱ぎますか、とばかりにぐっと着物の襟元に手をやったがそこで止まってしまう。
「なに恥ずかしいのー?」
 ジャミール・ライル(ic0451)が囃し立てる。
「そ、そういや医者の訓練でもお互いの身体に筆で筋肉の地図を描いた事あったもんな、べ、別に恥ずかしくねーよ!」
 勢いで脱ぐ。
 金剛寺 亞厳(ib9464)が彫りかけの像と並ぶ、一行の中で一番背丈のある彼よりも大きい。これを金剛寺の胸元にも届かないであろう正華が彫っているのだ。
(「こう見えて、拙者も幼い頃は大人が怖かったでござる」)
 正華は自ら変わろうと一歩踏み出した。だからきっと彼女も克服できると心の中で語り掛ける。
 開拓者達が落ち着いた頃、笠置が徐に頭を下げた。
「先程は正華が失礼をいたしまして、まことに申し訳ございません」
 挨拶の時のことである。開拓者が通された客間にやってきた正華は彼らを見た途端、笠置の背に隠れてしまったのだ。
「はぁい、ご要望のガチムキの大男、てわけにはいかないけど、よろしくねー」
 一行の中で柔らかい雰囲気のジャミールが笑顔を浮かべて手を振ったときも、啄木鳥か?! という勢いで首を振っただけだった。
「見事に男ばかり集まってるが大丈夫かな…」
 慄罹(ia3634)が心配そうに周囲を見渡す。慄罹自身、鍛錬を欠かしておらず、それなりに筋肉が着いているのだが、周囲は自分より背が高い上に逞しい男ばかりである。
「依頼とはいえ突然屋敷に…って厳しいんじゃねぇのか?」
 赤銅(ia0321)も似たような事を考えていた。
 赤銅には同じ年頃の娘がいる。だから正華ができる筈のことさえできなくなるほどに、煮詰まる前に手助けしてやりたいと思っていた。そのために手間を惜しむつもりもない。
 何より笠置の背から覗いた正華の泣きそうな顔には正直、娘がいる身として本気で凹んだ。
「なぁ、嬢ちゃんのことなんだが」
 笠置から正華について詳しく聞く。男の怒鳴り声が苦手だとか、二人きりは無理だとか。それらを確認すると赤銅は「ふむ」と頷く。
「初見の印象から、悪漢策はちと遠慮させてくれ。開拓者にボコられる覚悟を決めた兄さんの漢気を無駄にしちまうのは惜しいが、な」
 赤銅がみたところ、悪漢と開拓者の争いをみたら逆に男に対する恐怖心が酷くなるように思えた。焦って事を運ぶべきではない。
「会話をふつうに楽しめる経験をすることが、何より大切なんじゃないか?」
 荒屋敷が提案する。
「皆で宴会とかってどーだ?」
 というわけで最終日、神社近くの小川で蛍狩りをする事にした。

 ラグナはポーズを決め既に準備万端である。
(「ふふっ…鍛え抜かれた私の肉体!女性の胸をときめかさずにはおれぬはず」)
 その逞しい背中のうさみたんに集まる視線。
「…は、離すと若干、さみしいのだ」
 実はシャイなのかもしれない。


 初日午前中、正華は画板を手に遠くから開拓者達の姿を描いていた。時折笠置を通して動きの指定が伝えられる。
 しかし正華も本気なのだろう。非常に熱の篭った視線を向けてくる。
 その視線を気にして慄罹は正華を振り返った。実は演武だけをやればいいと思っていたが、筋肉の動きが見えるように服を脱いでくれと頼まれ、少なからず動揺したのだ。
 上半身だけで勘弁してもらったのだが、それでも肌を見せることには抵抗がある。
「…いいや」
 自在棍を握りなおし、棍棒の薙払い、打ち込みそして多節に変化させ巻き付けという型を繰り返す。
「ま、研究ついでにやってれば視線も気にならなくなるしな」
 型に意識を集中させた。
 赤銅は上半身を肌蹴させ、背中の動きもみえるように髪も高めに結いなおす。そして素描などから、読み取れる正華の目指すものを踏まえた立ち姿や得物の構えを取る。
 動きを尋ねるときも声を抑え目にし、なるべく刺激しないように努めた。
 午後になり、両者の距離を縮めたのはラグナだ。うさみたんを胸に抱えるとゆっくりと近づいていく。
 正華は最初驚いたようだが、腕の中のうさぎのぬいぐるみに気を取られ笠置の背後に逃げる機会を逸する。
 ラグナはしゃがみこむと、うさみたんを自分の顔の前に置いた。
「正華殿は真摯なのだな、己の職務のために」
 読み聞かせをするような穏やかな声。暫し視線をさ迷わせていた正華が画板に視線を向ける。
「いいえ……。皆様にご迷惑をおかけして……」
 消え入りそうな声であったが、開拓者達が始めて接触に成功した瞬間であった。
 その様子を屋外から見ていた荒屋敷が手を振る。
「俺からは土俵入りを見せてやるよ! 普段だったら土俵に上がらないと見れない距離だから貴重だろ?」
 何時の間にか力士よろしく回しを締めての登場である。正華にとって体格のいい力士がぶつかり合う相撲は怖いが、興味もある。幸い荒屋敷は力士のように威圧感があるわけではないので、画板を手に庭におりた。
「最後に雄叫びをあげっから、そん時は少し耳塞いどいてくれよ…」
 正華に向けてビシッと親指を上げてみせる。
 深呼吸すると庭に敷かれた砂利を踏みしめた。
 力強く四股を踏むと両手を広げせり上がる。そして四股を二回繰り返し最後に「うおおおおおおお!!!」と雄叫びを上げた。

 それ以降、徐々に開拓者たちに慣れた正華は途切れがちだが笠置無しでも会話もできるまでになった。しかし製作は順調とは言えず素描ばかりが増えていく。
 金剛寺が素描を一枚拾い上げ、それを隣から荒屋敷が覗き込む。体の表情が硬い。
「相楽殿に形を確かめてもらうのはどうでござろう?」
 目で見るだけではなく、実際にどんなものか体感してもらうほうがいいのではないか、と。
 怖いのならば目隠しを服の上から触ってもらえばいい。
「触診つってな。骨折や肉離れの治療する為にも、実際に触って筋肉の構造を知っておくのは大事な事なんだぜ?」
 正華を説得したのは荒屋敷だ。
 ほら、と金剛寺の腕を取って差し出す。いくら会話できるようになったとはいえ、いきなりそれはと金剛寺が驚いたが、正華のそっと触れた。
「……温かい」
 呟く。正華は今まで男が自分と同じ体温を持っている事を知っていはいたが理解していなかった。


 夜が更けても明かりの消える気配のない工房に慄罹は皿を手に向かっていた。皿には手作りの桃饅頭と花の形に切った野菜。工房の戸を叩き反応を待つ。
 戸が開けばまずは皿だけを差し出した。「可愛い」と小さな声。
「息抜きにでもどうぞ。ところで作品を見せてもらってもいいかな」
 少し躊躇った後、正華が脇に避けた。工房に二人きり、正華の表情が微妙に強張っている。
 慄罹が工房を去ったあとも明かりはついたままだ。
 ジャミールが廊下に座り込んでいる正華を見つけたのは丑三つ時も過ぎた頃。虚ろな顔をしている。
 不意に「やはり無理なのでしょうか」と弱い声が聞こえてきた。
「ちょっとお喋りでもどう?」
 少し離れた所から顔を覗きこむように体を屈め声をかける。
「おにーさん特製の甘いテュルク・カフヴェスィを淹れてあげるよ」
 待っててね、と自分は厨房へと向かう。そして手に異国の器を持って戻ってきた。
「はい、どーぞ」
 正華に白い繊細な器を差し出し隣に座る。テュルク・カフヴェスィは粉末珈琲と砂糖とを煮立てた飲み物だ。ジャミールのそれは砂糖少し多めの特製レシピ。
 緊張してる正華が視線を不自然なまでに正面に固定したまま一口飲む。
「……美味しい」
 嬉しそうな声が零れた。
 飲み終えた器を皿の上にひっくり返す。驚く正華に「コーヒー占いでも」と片目を瞑った。
 カップの底に残った珈琲の粉で飲んだ者の運勢を占うのだ。
「えーっと、この図柄は…閃き、克服、いい方向に進む…かな?」
 独学の占いは気休めにしかならないかもしれない。しかし少しでも不安を晴らすのに役立てばいい。

 翌朝少々疲労が見えるが、挨拶をする正華の浮かべた笑顔は明るかった。
 金剛寺は頼まれない限り、正座の姿勢を保っている。まるで像になってしまったのかと疑うほどに微動だにしない。
 その姿を素描してる正華を、ジャミールが金剛寺の背後から手招きする。ジャミールと金剛寺は顔見知りらしい。
 手には鳥の羽。金剛寺の足を指差してから羽を正華に差し出す。擽れということらしい。
「なにしてんだ?」
 そこに慄罹が声をかける。両手に大きな飯切を抱えている。正華の不思議そうな視線に気付いたのだろう。
「何も演武とかばかりじゃなくって、普通の動きも見たほうがいいだろうって思ってな、パンでも作ろうかと思ったんだ」
 鮪の解体でも良かったが、手に入らないからなと笑う。
「ぱん?」
 耳慣れない単語に首を傾げる。
「できたら、皆で食べるか」
 百聞は一見に如かずだ。
「ならさ気晴らしに夕飯の買い出し一緒に行こう?」
「では拙者も荷物持ちでご一緒するでござるよ。拙者は大食いでござるからな…責任もってガッツリ運ぶでござる」
 金剛寺が正座を崩し力瘤を作る。

 午後の作業終了後、三人は連れ立って市場へと向かった。
「逸れないように手ぇつなぐー?」
 ジャミールの申し出は丁重に断られる。
 人混みに酔った正華とそれに付き合ったジャミールが横道に逸れ、金剛寺を待っていた時である。
 酔っ払い数人が声をかけてきた。当然正華のところの使用人ではない。
 酒臭い息を吐きながら手を伸ばしてくる男に正華の息を飲む。
 突然その酔っ払いが宙に浮いた。金剛寺が猫の仔でも捕らえるように酔っ払いの首根っこを掴んで持ち上げたのだ。
「拙者、忍ぶのも手加減も苦手ゆえ…少々痛い目を見る事になるでござるよ」
 酔っ払い達をぐるりと見渡し、掴んでいた男をポイっと投げる。拳で争えば、また正華に男性への恐怖を植えつけてしまうのではないかと考えたのだ。
 酔っ払い達が金剛寺に気を取られた隙に、ジャミールは正華の手を取って逃げ出した。
「それじゃ、ごんちゃん。後は任せた! その間に俺たちは逃げる」
 人の間を縫うように走っていく。
「も、大丈夫かな?」
 市場を抜けた辺りで二人は金剛寺を待った。
「手ぇつなげたねー」
 ジャミールが繋いでいた手をヒラリと翳す。

 買い物から帰り、工房へ戻る途中、正華は笛の音を耳にする。誰であろうか、覗いてみれば縁側に座り笛を吹いている赤銅の姿。
 赤銅は常に一歩引いている、そんな印象だった。仕事のときも、それ以外の時間のときも。必要な事以外、正華に話しかけてくることはない。だというのに、まるで此方の心のうちを読み取ったかのように動いてくれる。無口だが頼りがいのある姿は、像の印象に一番近い。従って素描も赤銅のものが一番多かった。
「そういえば…」
 そんな赤銅が珍しく自分に掛けた言葉を思い出す。

『笛の音がする時は縁側に居るから、怖いもの見たさに覗きたくなったら茶でも差し入れてくれると有難い』

 笠置がいれば一緒にと言えるのだが生憎いない。
「……」
 昨夜の慄罹やジャミールのことを思い出す。自分のために力を貸してくれている人に感謝の気持ちを伝えるのに、どうして躊躇うのか、と厨房へと向かう。

「……お茶を」
 少し離れた位置から、盆ごと湯飲みを赤銅に向けて押した。
「あの、普段淹れたことがないので……」
 感謝の言葉など言わねばと思った事が上手く出てこない。結局、言えたのはそれくらいだ。
「美味かった」
 茶を飲んだ赤銅の静かな一言に正華は微笑んだ。


 全てが終わった最終日、慄罹は廊下で工房から出てくる正華を待っていた。手には人参で作った鳳凰を持っている。工房で作品を見て、自分の創作意欲も刺激されたのだ。
 角に隠れ、工房からやってくる正華に鳳凰をさっと差し出す。桃饅頭の時と同じだ。
「鳳凰……?」
 驚いた声、そして「慄罹様ですね」と名を呼ばれる。
「包丁細工って余りやった事ねぇからなぁ…どうだろうか? こういうのはおまえさんの方がうまそうだよな」
 姿を現す。
「慄罹様にもお世話になりま……」
 頭を下げようとする正華を手で制した。
「別れの挨拶にはまだ早い。今夜、皆で蛍狩りにでも行かないか」
 少し間をおいてから「喜んで」とこたえが返ってくる。

 陽が沈んでから、一行は蛍狩りに向かう。
「夜道、危ないよ。手ぇつなごうか?」
 買い物の時と同じように差し出したジャミールの手を正華は取る。傍にはやはり「拙者は大食漢でござるゆえに」と重箱を包んだ風呂敷を両手に持つ金剛寺。
 川原に着くと、赤銅が提燈の灯を消した。
 川縁の下草の辺りに生まれる小さな光。
 一つ、二つ、三つ…あっという間にいくつもの光が生まれ、飛び交う。その光景に誰もが息を飲んだ。

 最初静かだった宴も次第に賑やかになっていく。
 荒屋敷と赤銅の笛の音、ジャミールが地を蹴って軽やかに踊り出す。
「美しいな…」
 蛍にラグナがぽつりと漏らす。背中にはうさみたん。
「正華殿、どうであった?」
「うさみた…いいえ、ラグナ様……楽しかった、です」
 初日、うさみたんを介し正華と話して以来、ラグナと話すときは何故かうさみたんと話してる気分になるらしい。
「何も焦ることはない、正華殿」
 正華が頷く。
「少しずつ変わっていければいいのさ…人間は」

 宴の終わり、「皆様」と正華が一同を見渡す。
「この度は本当に申し訳ございませんでした。彫刻のためだけではなく私のためにも…」
 頭を下げる。どうから笠置達の思惑に気付いていたらしい。
「そこは『ごめんなさい』じゃねーよ」
 荒屋敷が言う。
「謝られるのは悲しいねぇ」
 荒屋敷の言わんとしてることを赤銅が補足した。そこで正華も気付いたらしい。顔を上げる。
「皆様、ありがとうございました」
 この数日間一番の笑顔を向けた。

 そして出来上がったのは災厄を切り捨てる太刀を構えた像と地を鎮めるために舞う像、そしてそれぞれの足元にはいち早く災いの足音を聞きつけるために耳を立てた兎達、そんな像だった。