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■オープニング本文 ● 女は歌う。可愛い我が子のために。 「お母さんが貴方を守ってあげる……だから今度こそ」 私を置いていかないで……。 ● 泰国広江は商人の街だ。五つの組合があり、街に拠点を持つ商人達はいずれかに属するのが決まりとなっている。街を統治するのは国から派遣された太守ではなく、組合の長達からなる五行会という組織。 商業都市広江には荷を運搬するための水路が網の目のように通っている。その一部は街の地下を流れており、ちょっとした迷路だ。尤も地下といっても水路の上に蓋をしそこを道として使用しているといった程度のものだが。 歓楽街の裏通り、強かに酔っ払った柄の悪そうな若い男が二人足を止めた。 「女の声が聞こえねぇか……」 風に乗って聞こえてくるのは艶のある女の歌声。 多少年嵩だが滴るような色気がある女が水路の脇で歌っていた。男達に気付いた女は歌いながら笑みを浮かべ誘うように手を差し伸べる。 男達は我先にと水路へ降りた。だが女まで後数歩のところで、女の横の水路の横穴からいきなり飛び出した黒い影に襲われてしまう。 襲われた勢いで水路に落ちた男は流され溺れつつ見た。ぶよぶよとした赤黒い化物につれが飲み込まれているのを。 ● 朱乃は刀を抜くのももどかしく、アヤカシと旅人の間に割って入る。 「早く逃げて」 視線はアヤカシから逸らさない。旅人が半ば転がるように逃げて行くのを確認し朱乃は刀を握りなおす。 障子から差し込む薄明かり、ぼんやりと視界に浮かぶ天井は見慣れた長屋のものではない。 「あ……れ?」 額に挙げた手に塗れた布が触れる。 「此処は…?」 確か自分は街道でアヤカシと対峙し倒したと思ったところに現れたもう一体に体当たりを喰らい吹き飛ばされた……ところまでは覚えていた。 「傷の具合はどうですか、朱乃さん?」 襖を開け放った隣の部屋に少女と男がいた。少女は以前理穴の清瀬村で出会った小鞠だ。 「小鞠さ…ん? どうして…?」 起き上がろうとして肩に痛みを感じる。慌てて小鞠が手を貸し再び朱乃を布団に寝かせた。 「まあ、無理せず大人しくしときなよ」 小鞠の背後から男がのんびりと声をかけてきた。癖のある黒髪に目を惹く派手な着物、見覚えがある。 (そうだ……) 意識を手放す瞬間に見えた背中を思い出す。確かこんな感じだったと。 ● それから数日、朱乃は六郎と共に広江降り立った。六郎と商品の護衛のためである。助けてもらった礼をさせてくれ、と頼みこんでの護衛だ。護衛は朱乃のほかにも数人いた。 商品は工芸品。繊細なもので、六郎だけでは心許ないため開拓者を雇ったということである。六郎は九十九屋という店の店主だそうだが、奉公人からの信用度は今一つといったところか。その証拠に朱乃は小鞠から六郎の見張りも頼まれていた。目を離すと直ぐに花街などに遊びにいってしまうから、と。 六郎の取引相手は商人組合蘭亭の長であり五行会最年少構成員朱瑞静だ。商談の後、護衛の開拓者達も一緒に屋敷の池に浮かぶ東屋での茶に招かれた。 「実は一つ頼み事があるね」 「いい予感はしないなあ」 「得意先の話を聞くのも商人の仕事よ」 大袈裟な溜息を吐く六郎に朱がしれっと答える。 「……とりあえず聞くだけならば」 「尤もお前というより、一緒に来た開拓者に頼み事ね。実は街にアヤカシが潜んでいるよ、それを退治して欲しい」 一ヶ月ほど前、いや実際はもっと前かもしれないともかく水路にアヤカシが住み着いたらしい。 自警団による地下水路の探索も行った。だが自警団は対アヤカシ戦の経験がなく、しかも狭く暗い地下での戦いに甚大な被害を出しただけであった。 その後アヤカシの調査が進み、とある歌により出現する事が判明した。その歌を使用すればアヤカシを引きずり出すことができる。今度こそ必勝を期すために対アヤカシ戦の本職である開拓者に依頼をしようという話になった。だが今からギルドに依頼を出しても、開拓者が派遣されるまで時間が掛かり新たな被害者が出る可能性もある。そこに六郎が開拓者を連れて現れた、というわけだ。 「歌ってさぁ……」 六郎が鼻歌を軽く口ずさむ。 「それよ、良く知られた子守唄ね。どうして知っている?」 「昨夜……」 朱乃の視線に気付いた六郎が咳払いをして誤魔化した。 「希儀のさ伝承にそういう化物いたよね…なんだっけ?」 歌で船乗りを惑わし船を難破させるという。 「セイレンね。まさしくよ。助かった男達が言うには女の歌声に惹かれてふらふらと水路に出たら襲われたらしいね」 助平心出すからよ、と朱が眉を顰める。 「人が飼っているってことか。穏やかじゃあないなあ……」 顎を撫でる六郎。朱が池に向かって手を叩く。途端に錦鯉が集る。 「飼っているかは別として、アヤカシが此の鯉と同じく歌が聞こえたら餌に在りつけると思っている事だけは確かよ」 幸いというべきか作夜生き残った男が女の顔を見たということで、目星はついたらしい。 「さっさと捕まえて話を聞きたいところよ、でも……」 朱が溜息を吐く。 「その女の声じゃないとアヤカシが反応しないね、困ったことに…」 朱が肩を竦めた。アヤカシの方はわからないが、その女菊蘭はアヤカシを数ヶ月前に亡くした子だと思っているようだ、と。 「子を亡くした母の絶望に惹かれた瘴気が赤子の遺体に宿ったのだろうな……」 いやだなぁ、と呟く六郎の隣、突然朱乃が立ち上がる。 「その女性の処分はどうなるのでしょうか?」 「アヤカシに人を食わせていた…その罪は軽くないね」 「せめて…親子の別れくらいは……。そのままでは菊蘭さんもお子さんも…」 「子じゃないね。アヤカシ、よ」 そこを履き違えるな、と朱が目を細めた。 「でも子の亡骸を抱かせてあげることくらいは…」 「朱乃ちゃん…」 食い下がる朱乃の言葉を六郎がやんわりと遮る。 「まあ、彼らには帰りもお願いしてるから無理はさせたくはないんだよねぇ」 言外にお断り、という六郎を朱が睨む。 「お前がやってくれるなら話は早いよ?」 「一介の商人に何を…」 じゃあ、黙れと一喝。 「新たな被害者を出す前に一刻も早くアヤカシを退治したい。力を貸して貰えないだろうか」 朱が開拓者達に向いた。 ● 開拓者に宛がわれた部屋であれから黙り込んでいた朱乃が口を開く。 「……アヤカシになったとは言え、お子さんを目の前で倒すのは……」 幼い頃、目の前で親を殺されている。その時の事は未だに思い出しては魘されるのだ。それに、と続ける。 「もしもお子さんの体が残ったらせめても墓に入れるなり、お母さんからの言葉を……」 |
■参加者一覧
フェンリエッタ(ib0018)
18歳・女・シ
羽流矢(ib0428)
19歳・男・シ
朱華(ib1944)
19歳・男・志
ケイウス=アルカーム(ib7387)
23歳・男・吟
結咲(ic0181)
12歳・女・武
ヴァーナ(ic1329)
25歳・女・吟 |
■リプレイ本文 ● 「再び失うばかりか殺されるなんて……」 そんな残酷な事、フェンリエッタ(ib0018)の言葉に異を唱える者はいなかった。開拓者達は赤子を母の手に戻すために動き出す。 不測の事態が発生した場合に備え菊蘭の見張りに羽流矢(ib0428)が加わる。 見張りに行く前、羽流矢は朱乃に声を掛けた。二人は顔見知りだ。 「考えは人として間違っちゃ居ないさ……」 朱乃が親子の処遇について依頼主の朱に食い下がった件のことだ。母の前で子を殺したくない、朱乃の気持ちはわかる。わかるのだが……。一拍置いて「ただな?」と続けた。 「思うままに口にしたら、その後上手く立ち回れなくなる事もある……」 朱に警戒され、別の誰かに依頼される可能性だってあった、との言葉に朱乃ははっとする。 どうにも危なっかしい、というのが羽流矢の朱乃に対する印象だ。 「ま、難しいけどさ」 肩を落とす朱乃に羽流矢も肩を竦めてみせた。 「そういえば水路に落ちた酔っ払い良く助かったな」 そしてこの話はこれまでと変える話題。誰か他に目撃者でもいたのか、などと言いつつ探るのは六郎の様子。商人だというがどうにも引っかかるのだ。 そもそも朱乃と出会った村にいた六郎の店の奉公人という少女。 (あの技の癖は……) 細かい事が気になるのはシノビとしての性分みたいなものだろうか。 視線に気付いた六郎から愛想の良い笑みだけが返ってきた。 ヴァーナ(ic1329)は手持ちのもふんどしの縫い目を解く。もふらの毛を編みこんだ真新しいもふんどしの心地よい肌触り。子の亡骸を包むためにおくるみを作るのだ。 (残されて一人ぼっちは寂しい……) いる筈の人が傍にいない悲しさはきっと経験した者にしか分からないだろう。 ヴァーナの主人が亡くなった時に感じた、体の中が全てなくなってしまったかのような感覚。 それが別離だと理解した瞬間、溢れ出した感情が歌となった。 (もしも大切な人にお別れができなかったなら……) 胸に手を押し当てる。きっと此処に開いた穴がずっと痛いままだ。 きちんとお別れを言わせてあげたい、そして他の人に負わせてしまった悲しみを謝らせてあげたい……。 じゃないときっとその人は進めない。 (子を抱かせてあげることができますように……) ヴァーナは願いを込めて一針、一針進めていく。 ● 日付が変わる頃、菊蘭が動き出した。朱華(ib1944)は物陰から菊蘭の様子を伺う。周辺の人払いも完了済みだ。 水路へと下りていく菊蘭。今宵の狩場はそこであろうか。朱華は囮役の羽流矢に合図を送った。 合羽を頭から被った羽流矢が通りに姿を見せ暫くすると歌が聞こえてきた。 菊蘭をほぼ見下ろす位置に結咲(ic0181)は身を潜める。逃走防止用の網を何時でも投げ込めるように傍ら置いて。 「……あーのこーが、…ほーしい…」 小さく口ずさむ唄。 (ボグが、知ってるの、この唄、だけ) 小さい頃に聞いた。膝を両手で抱え込む。爪先に向けられた目は焦点を結んでいない。 脳裏に浮かぶ幼い自分と母の……。 足音を忍ばせケイウス=アルカーム(ib7387)は橋桁の影に身を寄せた。数歩先の菊蘭はケイウスに気付いた様子もなく羽流矢に手を差し伸べる。 (絶対に止めないと……) 彼女の歌を聞きその思いを改めて強くなった。 (あれは子守唄じゃないよ……) 子守唄は子の眠りを優しく守るもの。だが彼女の唄に込められているのは深い悲しみと狂気にも似た怒り。行き場を持たぬ怒りは、子の死に向き合うのを恐れ誤魔化すためのもの。 悲しみから目を背けアヤカシに人を食わせる事で心を紛らわせているように……。 (それは間違っているんじゃないかな……) 竪琴に抱えなおす。菊蘭の頭上に網を構えた朱華と結咲が見えた。 (来る……) 朱華達の足元を大きな塊が移動していく。 (赤ん坊か……) その気配はとても赤ん坊の、いや人のものではないというのに。 (例え、他人にはアヤカシでも…子は子、親は親…てことか) 僅かに細めた双眸は、すぐさま油断無く水路に向けられた。 「準備はいいな?」 結咲が頷く。 水路に降りた羽流矢が間もなく地下水路の前に出る。 空気に腐臭が混ざり始めた。 腹の底がぞっとするような笑みを菊蘭は浮かべる。 (母は強し、と言うが…) その想いの強さが仇となるのか、と羽流矢は菊蘭へと向かい合う。 フェンリエッタが背後から出て暗がりに紛れたのを確認し菊蘭へと踏み出した。 一歩、地下水路の前へ出た刹那……羽流矢を目掛け伸びる無数の手。 咄嗟に背後に飛び、追いすがる触手を着地と同時に放った真空の刃で切り落とす。腐臭を撒き散らしアヤカシが姿をみせた。 水路に灯る炎。一つ二つ……それはあっという間に増え、辺りを照らす。フェンリエッタが昼間のうちに水路や通りのあちこちに松明や篝火を仕込んでいたのだ。彼女の点火を合図に自警団が火を点けて回る手筈となっていた。 フェンリエッタは次手のため水路に飛び込んだ。 朱華と結咲が通りから網を投げ入れる。広がった網の先端は錘とともに水中へ沈み、地下水路への道を閉ざす。 さらに水中に潜ったフェンリエッタが水路の上流下流を四枚の白い壁で塞ぐ。アヤカシは袋の鼠だ。 菊蘭が動くよりも早く、ケイウスが竪琴を爪弾く。柔らかい旋律は菊蘭の意識に霞をかけ眠りへと誘った。 飢えたアヤカシは菊蘭をも取り込もうと触手を伸ばす。咄嗟にケイウスは菊蘭の腕を引き自らの背後に庇った。ケイウスの肩から脇腹を打ち据えた触手が、間髪入れず翻り再び襲い掛かる。 (こんな事でお母さんが死んだら、亡くなった子が悲しむ) 空を切る音。だが庇ったケイウスに衝撃はなく、代わりに手裏剣が足元を抉る。 「お前の相手はこっちだよ」 篝火を受け輝く羽流矢の忍刀。 アヤカシと距離を取ったケイウスは傷をつけないよう包帯で菊蘭の手足を拘束し後は朱乃達へと託す。 ヴァーナの視界に菊蘭の横顔が映った。他の人に自分と同じ悲しみを与える存在となってしまった菊蘭。 (不幸な行き違いがあったのかもしれない……) 悲しみが目を曇らせたのかもしれない……きっかけはヴァーナには分からない。 「でも……」 今起きているのは一番悲しい不幸の連鎖だ。 ヴァーナが前に出る。 「ヴァーナ、身体に違和感は?」 瘴気による間接部分の腐蝕を心配するケイウスに大丈夫、と答え竪琴を鳴らす。繊細な乙女の彫刻が施されたそれからは想像ができないほどの重低音にアヤカシの動きが鈍る。 アヤカシの赤黒い寒天のような体から覗く赤子。 「…あの子は、要る子…? なら、…助けない、と」 手摺を蹴って水路に身を躍らた結咲は壁を伝い走り背後から回り込む。 「まず、外……」 子を助け出すためには外皮を剥がさなくてはいけない。邪気を祓うとされている桃の木から削り出した剣のによる突き。練力を宿した切っ先はかわされるがそこに矢が刺さる。しかし矢傷は瞬く間に再生されてしまう。 ギャアアぁ…… むずがる赤子の泣き声に大気が震えた。 その声に羽流矢は足がすくみ、冷や汗が背を伝う。 足を止めた羽流矢に迫るアヤカシの鋭い一撃。軌道が見えているのに動くことができない……。 結咲が羽流矢を突き飛ばす。結咲の肩を貫く外皮。更に片足を絡み取られ、壁に向かって振り上げられた。 「間にあって……」 回り込んだフェンリエッタが壁に叩きつけられる寸前にその体を抱え受身を取る。 「ぐっ……」 壁に打ちつけられた衝撃で息が詰る。だが一呼吸し、治癒を精霊に祈る唄をフェンリエッタが歌いだす。緑の光が彼女を静かに包み込む。 その唄に寄り添うように奏でられるケイウスの優しい調べ。羽流矢の心を支配していた恐怖が晴れていく。 突如水中から飛び出した触手がヴァーナを水路へと引きずり込んだ。浮き輪代わりに巻き付けていた皮水筒の浮力はその力の前にわずかな抵抗でしかなった。 朱華が水中に矢を向ける。雷を纏う矢。水は雷を通す、だが迷っている暇は無い。ヴァーナは完全に水の中だ。朱華は矢を放つ。 ヴァーナの脚に絡む触手は矢を喰らい弾けた。水面に浮かび上がった水筒をケウイスが手繰り寄せ、ヴァーナを引上げる。 どうやら精霊の力による雷は本来のものと性質を異にするらしい。彼女の無事を確認した朱華は再びアヤカシ本体にその矢を向けた。 羽流矢の繰り出す真空の刃が触手を切り裂き生まれた空白に、すかさず結咲が突きを入れる。 「……?」 しかし結咲は突きの速度に違和を覚えた。そういえば先程から自分の体が重いし息苦しい。瘴気の毒による影響だろうか。 異常に気付いたフェンリエッタから飛ぶ解毒の術。仄かに光る結咲に惹かれるように撓った外皮が、ほんの一瞬前まで彼女がいた空間を抉った。 「……動ける、ね」 横に転がり、直撃を避けた結咲は体の具合を確かめ、アヤカシへ詰め寄る。 弓を手に橋上から朱華が水路を見下ろす。一点に集中した攻撃は再生能力を上回りつつある。だが開拓者側の損耗も激しい。 「そろそろケリをつけたいとこだな……」 片足を欄干に乗せ矢を弓を引く。腐臭に混ざる微かな梅香。 全ての意識を指先に集中させる。 「……っ」 白い燐光を棚引かせ矢が外皮を穿つ。衝撃にアヤカシが仰け反った。 (ここだ……) ケイウスが奏でる調べは見えない波となりアヤカシを内側から揺さぶる。外皮が掻き乱されたように漣立ち、再生が止まった。 アヤカシに取り付いた羽流矢は、矢傷に忍刀を突き刺す。そして広げた穴に手を深く差し入れ外皮をこじ開けていく。腕に走る痺れ。皮膚が溶け出す痛み。 外皮に浸食された忍刀は既に刃とはいえない。だがそれを楔代わりに強引に亀裂を広げる。 傷を塞ごうと蠢く外皮、結咲は無理矢理体を捻じ込み、足まで使って穴を更に押し広げた。 赤子までの道が開く。 「い、ま……」 飛び込むフェンリエッタに躊躇いは無い。 果たして赤子は操られているのか、アヤカシと化してしまったのか。 赤子に向かって懸命に伸ばした指先の皮膚が溶け鈍い痛みを訴える。胸甲の表面が爛れ始めた。頬も火傷したように熱い。 (それでも……) 赤子に絡みつく外皮を手で引き千切る。 「何もしないよりはずっといい!!」 叫びと共に赤子をその腕に抱きしめた。 フェンリエッタをヴァーナが力任せに引っ張り出し、勢いで二人地に転がる。 羽流矢がアヤカシから飛び降り、二人を庇い前に立つ。 アヤカシは激しく身を捩り、崩れ消えた。残ったのは赤子……の遺体だけ。 「お母さんが、きみを、待ってる、から…」 フェンリエッタが寝かせた赤子の前へ結咲が歩み出る。 木剣を赤子の胸に置き、印を結ぶ。抑揚の無い声が紡ぐのは東房の寺院に伝わる経文。遺体のアヤカシ化を防ぐために行われる葬送の儀礼だ。 木剣が内側から照らされるように淡く輝く。 経文が半分くらい過ぎた頃、突然赤子がカッと目を開いた。覗くのは濁った赤。赤子から噴出す瘴気の渦。 絡みついた母の悲しみ故か……それとも……。 (…倒すしか、ないの、かな……) 木剣に手を伸ばす。母は赤子が死んで尚、傍にいてほしいと願ったというのに。骸だけでも母に返してやることはできないのか、と……。 「ボクと、違って、要る子、なのに……」 でもアヤカシならば倒さないと。 要る子なのに? ぐるぐると回る思考。 視界が霞む。結咲の体が瘴気に捕らわれゆっくりと沈んでいく。 「危ないっ……」 羽流矢が結咲を抱えて後ろに下がった。 ケイウスの奏でる旋律が瘴気を押さえ、赤子が苦悶がのたうつ。 「可哀想だが……」 遺体を傷つけずに終わらせる事は難しそうだ。ギリっと朱華の耳元で限界までに引き絞られた弦が音を上げた。鏃に精霊の力が集る。闇夜に咲く白梅。 篝火に照らされた朱華の横顔は常と変わらない。ただ一度だけ、目を伏せた。 矢が空を切り、赤子の胸に吸い込まれる。 赤子の動きが止まり、そして傷口から瘴気が流れ出す。 赤子の傷は精霊の力を持ってしても治す事は叶わなかった。せめてもと、フェンリエッタは汚れを拭い、そしてヴァーナがおくるみで傷が見えぬように包んでやる。 ● 開拓者達は菊蘭の元へ赤子を連れて行く。自害を懸念し猿轡代わりの布を噛まされた菊蘭が朱華が抱くおくるみに、ただ人とは思えぬ力で暴れた。朱乃の腕を振り解き、地を這いずり我が子へと。 戦闘の終了に集ってきた自警団を朱華は目で牽制し、膝をつき朱乃に抱き起こされた菊蘭に赤子を差し出す。 血走った目は瞳孔が開き瞬き一つしない。獣の唸りにガチガチと布を食い千切ろうとする音が響く。 鬼気迫る母の姿。悲しみと絶望で歪んだ顔。 歩み寄った結咲が菊蘭の両頬を捉えた。 (お母さんの、悲しい、顔…) 自分の母は己を売る時どんな顔をしてただろうか……。 『要らない子』 ふいに結咲の耳に蘇る母の声。胸の中で言葉にならない想いが幾つも巡った。それを押し込めるように目を閉じ…… 「…おばあちゃんの、おまじない」 こつんと額を合わせる。こうすれば悲しいのが自分に移るのだ、と。 暴れていた菊蘭の体から力が抜ける。嗚咽と共にその頬を伝わる涙。 菊蘭が落ち着いたのを見計らい、猿轡と手枷を外してやった。難色を示す自警団も「開拓者がこれだけいるんだ」と言われれば口出しはできない。 赤子を抱く菊蘭が肩を震わせ泣く。繰り返し呟く子の名前。 (赤ん坊が生き返ったわけじゃないって……分かっていたんだな……) ケイウスが震える肩を見つめる。 「自分の為にお母さんが人を傷つけるなんて悲しいし…心配だと思う」 フェンリエッタが菊蘭の傍らに寄り添う。 「お子さんは安らかに眠る事もできずに彷徨っているわ」 「冷たい身体に囚われたままじゃ傍にいて見守る事も、生まれ変わる事もできないだろう?」 フェンリエッタの言葉に羽流矢も頷く。菊蘭は震える手で我が子の胸の傷を撫でた。 「痛かった? 苦しかった? ごめんね…」 「…二度も辛い思いをさせてしまった事の責は負おう」 朱華は再びその目に宿った怒りを正面から受け止めながらも「けれど…」と続けた。 「間違えないでほしい」 視線を胸の傷へと。 「悲しみや苦しみに囚われて…大事な人を、醜いものに変えてはいけない」 人には見えぬように拳を握る。 「……俺も、同じような経験をしたからこその……」 一度言葉を止め、浅く息を吸った。「お願いだ」と告げる掠れ声。 「お母さんだけなのよ、ちゃんと供養してあげられるのは……」 赤子の傷を撫でる菊蘭の手に重なるフェンリエッタの手。 「守る為に何でもして良いものじゃないのを知るのは…これからか」 羽流矢の呟きに六郎が何か言いたげな視線を投げた。 皆から外れ結咲は母の声が残る耳に手を当てる。 数日後、墓地の片隅に真新しい墓が建てられた。誰も居ない墓地に子守唄が流れる……。 |