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■オープニング本文 ● 朱藩のとある街にある花街での話。 太鼓橋を渡り大門を潜ればそこは浮世のしがらみを忘れるこの世の極楽。灯篭から漏れる緋色の灯が照らす大通りには老舗の茶屋や賭場、射的場が並び、美しく着飾った女達が婀娜っぽく格子の向こうから誘う。絶えず楽の音や唄が流れ、あちこちで陽気な声があがる華やかな別世界。 そこで心中騒ぎが起きた。 芸者玉蔓と大店『伊歳屋』の若旦那伎助が花街を取り囲む堀に手を取り合い飛び込んだのだ。しかしなんということか若旦那だけが助かった。なんでも若旦那の様子がおかしいと心配しひそかに後を着けていた伊歳屋の奉公人によって救出されたらしい。 玉蔓と伎助は将来を約束していた仲だった。しかし芸者と大店の若旦那の恋、上手くいくはずもない。ほどなくして伎助にとある良家の娘との結婚話が持ち上がる。最近傾きかけた店を立て直すための避けて通れぬ結婚だった。 伎助は優しいといえば聞こえはいいが少々気が弱く押しに弱い質である。だから父や奉公人に強く勧められると断れない、しかも家の将来もかかっているとなればますます断るのが難しい。でも自分には将来を約束した玉蔓がいる。悩みに悩んだ伎助は終には「来世で夫婦になろう」と心中を選んだ。 一人助かった伎輔は以降姿を見せていない。なんでも数度玉蔓の後追いを試み失敗し、塞ぎ込みとうとう心労から床に就いてしまったということだ。 心中騒ぎの話題が下火になってきた頃に、実は伎助は良家の娘と結婚するために邪魔になった玉蔓を心中を装って片付けようとしていたという噂が流れ出した。 なんでも伊歳屋の奉公人と名乗る男が花街で強かに酔っ払いこいつは内緒だと芸者相手に話した、と。しかもその男、その後伊歳屋を首になったという話もあり、噂の信憑性が増した。 ● そんな噂が立ってから数日の後。 とある茶屋の提灯持ちが客を送った帰りのことである。丁度二人が飛び込んだというあたりを通りかかった。普段はなんてことないが、ここから人が飛び込んだと思えばどことなく気味が悪い。揺れてる柳すら幽霊に見えそうだ。 …と、柳の陰に人影を見つけた。 「ひっ……。こ、 んな夜更けに誰だい?」 かざした提燈の光にぼんやり浮かぶのは茜地に咲き誇る山吹が染め抜かれた女物の羽織。どうやら生きている人間のようだとほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。 柳の陰から出てきた女の姿に提灯持ちは思わず息を呑んだ。 尋常な様子ではない。乱れ濡れた髪が頬に張り付き、肌は蝋のように青白く、草履は片足だけ。鮮やかな羽織だけが浮いている。 女が抱えた三味線を鳴らす。割れた音が夜気を震わせた。 「お……… う ら み」 三味線の音に絡む低い唸るような声。女の声というよりも亡者の呻きのようだ。 「おう……らみ もぅ し あ……げ、ます」 女が一歩踏み出す。たまらず悲鳴を上げ提燈持ちは転げるように逃げ出した。 「例の噂を聞いたかい?」 老舗茶屋『朧月楼』の女将李燕が煙管をふかす。高く結い上げた髪に大きく胸元を開けた着物、30代半ばの艶っぽい女である。花街の顔役の一人だ。 「提灯持ちが見たっていう女の?」 帳簿の確認をしていた男が顔をあげる。キツネを思わせる風貌。番頭の伊佐という。めでたそうな金色の髪の上にひょこりと動く三角の耳、神威人だ。 女はその後も目撃され、玉蔓が化けて出たという話になるまでそう時間はかからなかった。なにせ玉蔓の気に入りでもあった茜地に山吹の羽織りを幽霊が羽織っていたのだから。 「番頭さん、御用はなんでしょうか?」 利発そうな少年が姿を見せる。奏という玉蔓の弟だ。 「物置にある紫陽花の器を厨房に届けておいておくれ。左の棚の一番下にあるはずだから」 奏は丁寧に頭を下げると倉庫へ向う。奏の足音が聞こえなくなってから李燕が伊佐に尋ねた。 「少しは落ち着いたのかい?」 伎助が良家の娘と結婚するために玉蔓を亡きものにしようとしたと噂を耳にした奏は真相を聞くために伊歳屋に押しかけちょっとした騒動を起した。結局門前で追い払われ、真相どころから伎助にすら会えなかったのだが。 「ええ、少し休んじゃどうだいと勧めましたが、仕事する方が気が紛れるって聞かないんですよ」 「そうかい。ねぇ伊佐……。その幽霊ってのが現れたのは奏が伊歳屋に押しかけた日の夜じゃなかったかい」 「……ですね」 実は伊佐は奏の荷物に玉蔓の羽織があるのを偶然見つけていた。多分、幽霊の正体は奏であろう。李燕も察している。だが互いに口にはしない。 「そういえば伊歳屋が幽霊退治のために人を雇っているそうじゃないか。花街で起きたことに首を突っ込んでくるなんて無粋もいいところだよ。そんなんだから後ろめたいところがあると勘繰られるんだろうに」 代わりにそんなことを口にした。 「なんでも若旦那が寝たきりなのはその幽霊の祟りだなんだと息巻いているそうですよ」 「ふぅん、あちらさんの事情はどうあれ花街の面子ってもんがある。私らも開拓者を雇おうかね」 煙管を左右にゆらゆらと揺らす。 「幽霊を成仏させてやってくださいってね。本懐を遂げさせ、見事成仏させてやりたいじゃないか」 あの子はとても良い子だったよ、あの子が化けて出るならそれ相応の理由があるもんだろう、と李燕は煙管を咥えた。 ● 伊歳屋の奥、表の喧騒も届かない静かな部屋。障子から薄明かりが漏れている。 敷かれた布団の上、伎助は手にした櫛をみつめていた。日がな一日そうしている。 玉蔓の元に行きたくとも部屋の外にいる使用人達が直ぐに気づいて止めに入る。せめても墓参りをさせてくれと頼んでも許してもらえない。 「……た、ま かず、ら」 呟く唇。櫛はかつて彼女に贈ったもの。そして来世の約束の手形として玉蔓が己が髪を結んで渡してくれたものだ。 |
■参加者一覧
劫光(ia9510)
22歳・男・陰
アグネス・ユーリ(ib0058)
23歳・女・吟
サフィリーン(ib6756)
15歳・女・ジ
玖雀(ib6816)
29歳・男・シ
源三郎(ic0735)
38歳・男・サ
庵治 秀影(ic0738)
27歳・男・サ |
■リプレイ本文 ● 花街の人間は死んだとしても外には出れないらしい。亡骸の多くは故郷に引き取られることもなく片隅にある墓地に葬られる。 サフィリーン(ib6756)は玉蔓の墓の前で手を合わせた。これからする事への謝罪のためへ。 水の流れる音は直ぐ横の堀からだろうか。 (現と花街を分け隔てるお堀……) 覗き込めば建物に光を遮られ横たわる深く冷たい闇。開拓者のサフィリーンですら少し怖いと思ってしまう。玉蔓はどうだったのか。隣に伎助がいたから怖くなかったのだろうか。 (死んでも構わないほど好きって、どんな気持ちなんだろう……) 胸に手を当ててみるが答えは分からない。 花街への道すがら。 「大門は此方じゃぁないんですかい?」 伊歳屋に用心棒として潜入した源三郎(ic0735)は四辻で立ち止まり大門がある方を指さす。先輩用心棒に連れられての下見だ。 「噂のせいで花街の連中には良ぃ顔されねぇからな、裏から入るんだよ」 男が肩を竦めた。大門のみが花街と現を繋いだのは昔の話。今は堀に橋も架けられ自由に往来することができた。 源三郎が揺れる柳を避け堀の縁に立つ。流れる水は清い。かつてのお歯黒溝も名を残すのみ。だが身分違いと二人は飛び込んだ。痛ましい、と眉を寄せる。 「新入り、飛込みがあったのはその辺りだぜ」 「くわばら、くわばら。あっしはこう見える通り小心者なんです」 飛び退く源三郎に男が笑う。 「そういや、お味方は何人ばかしいらっしゃるんで?」 「…十、いや十二か」 「もちろん幽霊に強い方も?」 「旦那が陰陽師をかき集めてたよ」 「そいつあ、心強い」 源三郎は男の話を心の中で書きとめた。 花街と堀を挟んだ宿の二階には庵治 秀影(ic0738)がいた。開け放した窓枠に体を預け、咥える葉巻。朧月楼の番頭伊佐に頼んで用意してもらった宿だ。幽霊が出る辺りを一望できた。 「あっちも上手い事入り込めたようで何より」 眼下では源三郎達が橋を渡り花街へ入るところ。 二人が飛び込んだという橋の袂で揺れる柳の影に一瞬だけ山吹が輝いたように見えた。 (道を見つける案内ぐれぇしてやるよ……) それは死んだ玉蔓のか、それとも現の奏か、伎助か……。 ふぅ、と溜息と共に紫煙を吐き出した。 伊歳屋屋敷。伎助の父、伊歳屋主人義平が劫光(ia9510)を息子の元へと案内する。 「先生、此方にございます」 劫光が若旦那の病はアヤカシに祟られたせいかもしれない、と伊歳屋に自らを売り込んだ際に己の身分の証とした陰陽寮の卒業証書が予想以上の威力を発揮した結果の『先生』である。 「此処からは俺の領分だ。悪いが人払いをして貰えないか」 瘴気の流れを判じるのに他人の気配は邪魔だ、とかなんとか理由をつけ使用人だけではなく義平も部屋から遠ざけた。 「他人の恋路の縺れなんぞ首をつっこんでもろくな事が無さそうな気はするんだが……」 姉のためか、と視線を伏せた。兄弟のため、そう言われると見捨てる事ができない。劫光には守れなかった妹がいる。 一度呼吸を整えた。先の依頼で負った傷は深く 狩衣の下、巻いた包帯に血が滲む。だがそれを悟られぬよう不機嫌そうな仏頂面を保つ。 入るぞ、と襖を開けた。薄暗い部屋の中央に敷かれた布団の上に座る男。心労のせいか頭髪には白が混じり、頬は幽鬼のように青白く、眼下は落ち窪んでいる。 「あんたが伎助か?」 伎助はただ掌の櫛を見つめていた。櫛に絡んだ黒髪。約束だ、と花街の女は己の髪を相手の小指に巻く。ならばあの髪は玉蔓のものか。花街に流れる噂の真相を確かめるまでも無い憔悴ぶりだ。 劫光は伎助の傍らに膝をつく。 「何があったか、それは当人達だけが知ってればいいと思う」 そこにどんな想いがあったのか、聞くつもりも無い、と。一方が既にこの世からいないのならば尚更だ。だが、と続ける。 「残されたものには何かあってしかるべきだろう。それがスジじゃねえかな?」 弱々しく伎助の唇が動いた。劫光の耳には届かない。返事の代わりにそっと肩に手を置いてから立ち上がる。 「残されたのはアンタだけじゃねぇよ」 部屋を辞した後、義平に許可を得て屋敷内を調査した。 脇道から現れたアグネス・ユーリ(ib0058)は伊歳屋の店先を通り花街へと向かう。伎助を連れ出す際の経路の確認だ。人目の少ない夜とはいえ、店に雇われた用心棒たちが花街周辺をうろついている。なるべく人と出会わないような道が望ましい。 「いっそ船とか?」 堀の石垣はアグネスの背より高そうだが、一人くらい抱えたところで問題は無い。ただ船だと万が一見つかった場合、対応が遅れそうである。 「……冷たかっただろうな」 季節は初夏。だがまだ水は冷たい。冷たく暗い水の中で玉蔓は何を思ったのだろう。 噂が本当だとしても、嘘だとしても。このままでは浮かばれない。 「成仏させてあげたい……な」 コンと頭上から軽い音。振り仰げば、堀に面した宿の二階で庵治が葉巻を燻らせていた。 伊歳屋の裏で玖雀(ib6816)は用心棒として忍び込んだ二人からの連絡を待つ。忍び込んで伎助を連れ出すにも内部の事がわからないのでは動きようも無い。 屋敷から棚引く雲のような小さな龍が飛んできて頭上を二度回る。劫光からの合図だ。 「らしいっちゃ……らしいがな」 玖雀が苦笑を零す。劫光の式神は龍の姿をしている事が多い。だからといって合図代わりの式神くらい小鳥などにしても構わないと思うのだが。暗に自分はいつも通りだ、怪我の事は心配するなと言っているのかもしれない。 意識を耳に集中させ感覚を研ぎ澄ます。塀の向こうから用心棒の人数、屋敷の造りなど劫光と源三郎が入手した情報が伝えられる。 ● 夜更け、花街が静けさを取り戻し始めた時分。 庵治は裏通りの屋台で一杯引っ掛ける。朧月楼から例の堀への通り道、奏が動けばすぐに分かる。 暫くして提燈も持たず荷物を抱えた奏が現れた。周囲を確認し足早に去って行く。奏が通り過ぎ、少しばかりしてから「夜風にでもあたろうかね」と立ち上がった。 奏は小さな神社へと入っていく。芸事の神様を祀っている神社だ。そこで準備を始めた。 神社の前を通る伊歳屋の用心棒達。数は全部で十名。劫光と源三郎の姿もあった。話に聞いていたよりも多い。劫光が屋敷を手薄にするために伎助に纏わり着く瘴気が濃く、早めに決着を着けるべきだと義平を丸め込み常より用心棒を多く連れ出したのだ。 庵治と劫光が視線を交わす。 「一旦二手に別れて幽霊を探すか」 有無を言わさない調子で劫光が用心棒たちを二つに分け、自分達は墓地、源三郎達を此処から近い大門へと向かわせた 先の角からはサフィリーンが覗いている。此方の準備も万端だ。 庭の茂みに身を隠し玖雀とアグネスは伊歳屋の様子を伺う。用心棒の大半は見回りに行き、残りも劫光が張ったという結界を守るため屋敷の四隅で札を見張りだ。よって伎助の部屋周辺には使用人が一人。だが襖の前に陣取っているため通り抜けるのは難しい。 「注意を他所に惹きつけてその隙に……だな」 玖雀は拾った小石を軽く投げる。小石が池に落ちて音を立てた。 「誰だ?!」 其方へ向かった使用人の背後を気配を殺した玖雀とアグネスが通り抜けていく。 布団の上、座る伎助。表情には生気が無い。玖雀は背後に回ると手拭で口元を押さえる。 「傷つけるつもりは無い、静かにしてくれ」 耳元で囁く。伎助は抵抗する素振りも見せなかった。 「まずは話を聞いてくれ」 玖雀は手を離す。 『玉蔓の墓参りの手助けをする』 アグネスが紙に走り書く。思わず呻く伎助を再び玖雀が抑えた。伎助が初めて見せたまともな反応だ。 「落ち着いて」 アグネスは伎助の腕を掴む。そして彼が平静さを取り戻したのを確認すると計画を簡単に書いて説明をした。 伎助の了解を得ると、アグネスと玖雀は布団の中に着物やら書物やらを入れ人が寝ているように細工をし、手早く抜け出す準備を整える。勿論筆談に使った紙は焼却だ。 一人で立ち上がることも覚束ない伎助は玖雀が背負い、まずはアグネスが来たときと同じように使用人の注意を逸らし外へ出る。 間もなくアグネスの奏でる子守唄が聞こえてきた。使用人が船を漕ぎ始めたのを確認し、玖雀も屋敷から抜け出した。 玖雀と伎助を先行させるとアグネスは猫の鳴き声を真似、使用人を起す。寝ていたのは一瞬、伎助がどこかへと消える時間もなかったと思わせるためだ。 並ぶ灯篭の灯に白い煙が揺らめく。 「人を待つってなぁ幾つになっても気もそぞろになるねぇ」 防火用水桶の脇、積み重なった箱の上に布を広げ腰掛けた庵治が、たまには悪くねぇと楽しそうに喉を鳴らす。 近くから男の悲鳴が上がる。 源三郎達も悲鳴を聞き駆けつけた。だが腰を抜かした男が幽霊を見たという場所には何もいない。 「誰か陰陽師を呼んで来い。お前らは周囲を探せ」 まとめ役が怒鳴る。 闇に紛れ逃げる奏の腕を庵治が捕らえた。 「ちと待ちな。花街で無粋なこたぁ似合わねぇ」 驚く奏に匿ってやるってことだ、と腰に敷いていた布を掴んで持ち上げる。 「おう、お前さん、こっちに幽霊来るのを見なかったか?」 庵治は己を囲む源三郎と用心棒達を一瞥し、もったいつけて煙を吐く。 「おい、てめぇ……」 胸倉を掴もうと伸びた腕を煙管で制する。 「俺ぁ余韻に浸ってるんだ、邪魔しねぇで早く行っちまいな」 源三郎は幽霊を探すふりをし物陰に隠れているサフィリーンに合図を送る。サフィリーンが山吹の羽織を頭から被り物陰から飛び出し反対側へと走っていく。 「あそこだ!」 源三郎が声を上げる。 「幽霊があっちの角に……」 指差す方向に翻る山吹。 「追いかけろ」 用心棒達が後を追う。 「ちょっと遠くまで行ってもらっちゃった」 羽織りと鬘を取ったサフィリーンが庵治の前に姿を現す。顔や腕など着物から覗くところだけ丹念に白粉を重ねる、庵治が無言で目を瞬かせた。 「奏さん、お話があるの」 布を捲って覗き込む。サフィリーンさん、と裏返った奏の声。 「そりゃあ、驚くよなぁ……」 庵治が呟く。 三人は待ち合わせ場所の宿へと向かう。李燕が雇った開拓者サフィリーンがいたので奏は案外素直に着いてきた。ただ幽霊の正体がばれてしまった、と表情が強張っている。 「幽霊の噂を聞いてひょっとしたら、と思ったの」 奏の説得はサフィリーンに任せ庵治は周囲を伺う。用心棒達は源三郎と劫光に先導されあちこち探し回っているようで当分心配はなさそうだ。 「後で女将さんにも謝ります……ですから今は見逃して……」 畳に額を擦りつける奏の手をサフィリーンが取る。 「私も少しでも魂が報われるようにお手伝いしたいなって」 思わぬ申し出に奏が目を瞠った。 伎助を連れ出すこと、その後に墓地で行う計画について説明を終えたころ、玖雀達が戻ってくる。 「会っても大丈夫かね?」 庵治の問いにぎこちない仕草で頷く奏の頭に手を置いた。 「まぁ、無理そうなら何時でも言えってなぁ」 子供が溜め込むな、と髪をかき回す。 庵治の心配は生霊さながらの伎助の様子に杞憂に終わった。 上手く泣くこともできず噎せ返り言葉を詰らせながら伎助は玉蔓と奏に謝罪を繰り返す。その間も片時も櫛を離さない。 「後を頼む……」 玖雀は庵治にそっと耳打ちするとその場を離れた。 ● 玉蔓の眠る墓場は静かなものだ。玖雀はせめても、と墓を掃除する。 (身分、立場か……) 二人を隔てる目には見えない壁。誰もが想い人と結ばれることを許されるなら、こんなことも……。枯葉を拾う手が止まった。 「起きなかったんだろうか……」 零れた呟きとともに脳裏に浮かんだのは……。それを振り払うかのように力をこめて墓を磨き始める。 不意に耳元で聞こえる少し勝気な声。 「そう、だな……」 唇に笑みが浮かぶ。傍らにいてくれる愛しい人、その相手との新しい生活。人は一歩踏み出すことができることを、再び時間が流れ出すことを玖雀は身を持って知った。 同時にそれは容易では無い事も。だから伎助にしたり顔で何かを言うつもりはない。ただ……。 (いずれそんな日が来ればいい) と願う。それを怒りはしないだろうと玉蔓に語り掛け、途中見繕った杜若を供えた。 遠くから近づく足音。そっと姿を闇に溶け込ませる。 後は静かに祈るのみだ。 「今そこで小耳に挟んだんが、墓地に幽霊が出たってよ」 源三郎は用心棒達を墓地へと誘導する。墓地の周辺には人だかり。中には予めサフィリーンに頼まれ酔客と共に肝試しに来た伊佐の姿もある。 垣根の向こう墓の前で崩れ落ちる伎助の姿があった。 乗り込もうとする用心棒達を「待て」と源三郎が制する。 「様子が変だ」 風に乗って三味線が聞こえてくる。「玉蔓の十八番…」と誰かが呟いた。 何時の間にやら墓石の背後に立つ一人の女。山吹の羽織り。玉蔓だと人々がざわめく。 「此処は陰陽師さんにお願いしやしょう」 源三郎に話を振られ劫光が「終わるまで近寄るな」と野次馬達に告げ墓地へと向かう。 「伎、助さ…ま…」 夜気を震わせる掠れた女の声。伎助が目を瞠った。 「嘆いてはおられませぬか……」 私も一緒に、と請う声には応えずに玉蔓に扮したサフィリーンはもう一度伎助の名を呼ぶ。 「ともに命を絶つこと叶わずとも……」 流れる三味線はアグネスだ。玉蔓が好んだという曲を弾く。 「三瀬川に隔てられるとも… 誓いは永久に……」 玉蔓が伎助の手中の櫛を見る。それは二人の約束の証。 (何時かは来て欲しい。けど……) 震えそうになる声をぐっと堪える。 (けど……好きな人には生きて幸せになって欲しいと思うんだよ 私は) 「再び見えるその時まで、どうぞお健やかに……」 流れる黒髪の合間から唇が微笑む。そして姿を消した。 劫光が空へと手を翳す。掌からふわりと浮かぶ小さな光。光は三味線の音と共に天へと昇る。あたかも玉蔓の魂がこの世から離れるように。 伎助が声を上げ涙を流す。墓地を囲う人々のすすり泣きが聞こえた。 (もう後追いはしない……よね?) アグネスがその背に問い掛ける。 「……姉さんは心底、思われていた……んですよ、ね」 涙で滲んだ奏の声は庵治は聞こえないふりだ。 「……」 源三郎は袖の中隠した数珠を握り、そっと人の輪から抜けた。伎助に重なるのはかつての自分。とある親分の情婦との道ならぬ恋。駆落ちに失敗し、滅多切りにされた自分を見て絶望した相手は海に身を投げた。一命を取り止めた自分に突きつけられた絶望。 「いずれ人は……」 彼女は三途の川の向こうで自分を待っているのだろうか。 その後、奏が玉蔓の墓参りに行くと、花が供えられていることがあった。多分伎助であろう。 伎助は数日泣き暮らしたが、今は縁談を断り店を継ぐ為、修行の身だ。 花街の幽霊は愛しい人の幸せを願い成仏したと、噂好きの娘達が話している。 |