待ち人来たらず
マスター名:
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: 普通
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/01/10 22:30



■オープニング本文

 その村人が気づいたのは夜も更けた頃、山の中腹を見たせいである。
 山はアヤカシの森が広がってきたせいで、立ち入り禁止となって久しい。
 なので世捨て人のように山の中腹に暮らしていた夫婦も、とうに避難していると思っていたのだ。
 だが、二人が暮らしていたと思しき山小屋に、毎夜毎夜火が灯るのだ。
 初めて確認した日から、次の日も、更に次の日もと一週間、絶えることなく毎日同じ時間に火が見えた。
 どうやら夫妻はあの危険な山の中でまだ生きているらしい。これは一大事と村人は大慌てで開拓者ギルドへと駆け込んだ。
 アヤカシが徘徊する山に居られては、村人ではどうしようもないのだ。
 話を聞いたギルドは登録があったおかげで、それが開拓者と元開拓者の夫妻であると断定する。
 ならばアヤカシが相手でもこれまで生き残っていたというのはわかる話だ。
 しかしここで話が少し妙な方向に流れていく。
 ギルドの職員が確認した書類では、夫の方は現役の開拓者であったのだが、つい先日受けた任務がまだ終わっていないらしいのだ。
 とうに仕事も終わっているはずである。
 一体何事かと当地の職員に確認させると、何と、作戦中に夫は死亡しているとの知らせが来たのだ。
 夫婦共通の友人であり、共に夫の最後の作戦を行った志士は、事の次第を聞くなり重傷の身を引きずり起こして叫ぶ。
「私が行かねば! 奴と約束したのだ! 彼女だけは、あの人だけは私が守ると!」
 職員は、開拓者を向かわせる手はずを整えていると、必死に志士を止める。
 志士はそれでも話を聞こうとしなかったので、結局志体を持つギルド員が力づくで黙らせたのだが。
 妻は結婚して開拓者を引退した巫女である。
 回復、支援は得意であろうが、攻撃手段に乏しい彼女ではアヤカシ達の本格的な攻勢を受けては一たまりもあるまい。
 いずれにしても、即座に救援、救出に向かわなければならない。

 現地に下調べの職員が先行する。
 村人への調査と地図の確認をした職員は、苦い顔で地図に印をつけていく。
 妻が居ると思われる山小屋にたどり着くのに、どうしてもアヤカシの集積地を突き抜けなければならないせいだ。
 猿型の下級アヤカシ、俊敏な動きを得意とし、木々の間を縦横無尽に飛び回る。
 猿のボス型中級アヤカシ、これは大きな金棒を手にしており、巨体を信じられぬ程俊敏に操り、明らかに体重が支えきれぬだろう木の枝にすら飛び乗り、足場とする。
 地の利はあちらにある以上、充分な警戒が必要であろう。

 夫の遺体は回収してギルドで保管しており、これを妻に渡し弔わせてやりたいと職員は語る。
 夫婦揃って亡くなったなどという事があってはならないと、何としてでも奥さんだけは救い出して欲しいと皆に告げた。



「旦那様‥‥」
 そう呟いた妻は手に松明を持ち、火打石で火を灯す。
 崖沿いまで歩き、ゆっくりと火のついた松明を振る。これを毎日毎日繰り返してきた。
 夫が夜道に迷わぬように、目印となるようにゆっくり、ゆっくりと松明を左右に揺らす。
 彼方から聞こえる遠吠えは、いかなる生物の発したものか。
 ぶるっと震える。
 我が身を危ぶんだのではない、遠吠えの主に夫が襲われぬかと不安に思ったのだ。
 何時もそうだ。
 夫は遅れたり、不安にさせたり、困らせたりと、何時も何時も女に労苦を負わせて来た。
 それでも、バツの悪そうな顔でただいまと戻る夫が、誰よりも大好きで。
 次の仕事までの間、二人っきりでゆっくり出来る時間があれば、それだけで他には何もいらなかったのだ。
 不安はある。開拓者の妻である以上常にあり続ける。
 だから女に出来る事は、ただただ夫が無事に戻ってくると、信じる事だけであった。


■参加者一覧
朧楼月 天忌(ia0291
23歳・男・サ
那木 照日(ia0623
16歳・男・サ
虚祁 祀(ia0870
17歳・女・志
赤マント(ia3521
14歳・女・泰
黎阿(ia5303
18歳・女・巫
新咲 香澄(ia6036
17歳・女・陰
瀧鷲 漸(ia8176
25歳・女・サ
エステラ・ナルセス(ia9094
22歳・女・シ


■リプレイ本文

 開拓者の一行は木々に囲まれた山道を登っていく。
 ギルドの係員が警告した一帯、猿アヤカシが出ると言われている場所にたどり着くと、誰からともなく足が止まる。
 エステラ・ナルセス(ia9094)は関心したように呟く。
「あらあら、いらっしゃいましたわよ。流石にギルドの情報はしっかりしてますわねぇ」
 瀧鷲漸(ia8176)が頷きながら槍を構える。心なしか、顔が笑っているように見える。
「まったくだ。ふん、コイツらなかなかに良い気配をしている。これは楽しめそうだ」
 余裕の漸に対し、真剣な表情で新咲香澄(ia6036)は朧楼月天忌(ia0291)と黎阿(ia5303)に視線を送る。
 それだけで意図が通じたのか、天忌と黎阿は後を頼むと山道を駆け上っていく。
 木々に隠れていた数体の猿アヤカシが枝を伝いこれを阻止せんとするが、那木照日(ia0623)が立ちはだかりそれ以上進ませない。
 すぐに虚祁祀(ia0870)が隣に並ぶ。その僅かな表情の変化から、彼女の心配を感じ取った照日もまたきっと眉を引き締める。
 欠かすべからざる大切なモノを失ったという女性、彼女が得るであろう想像するだけで寒気がするような灰色の世界を、二人共が自分に置き換えて連想しているのかもしれなかった。

 追撃が無いのを確認した天忌は、黎阿に自分の考えを語る。
 出来れば山を降りるまでは夫の死を伝えないでやりたいと言う天忌を、からかうように笑う黎阿。
「へえ? 随分と古風なコトいうのね。惚れちゃった?」
「顔も見た事ねえ相手にどうやって惚れんだよ」
「あはは、冗談よ冗談」
 天忌は真剣な、真顔のままである。
「黎阿、どう思う? 殉じる奴は男も女もキライじゃねえ。ああ、そっとしといてやりてえくらいさ。けど、アイツは約束したんだ。それを破らせるワケには――いかねえよなあ‥‥」
「その上で力づくで連れ出したく無いって? ホント甘いわよね、男って‥‥」
 そこから先は口にはせず、代わりにぽんと天忌の背中を叩く。
「付き合うわよ。だから貴方の好きになさい」

 猿アヤカシの数は報告にあった通りである。
 なので赤マント(ia3521)は攻撃班に残る事にした。
 ぴょんぴょんと枝を飛び周り、間合いを外しながら一撃離脱の攻撃を仕掛けてくる猿アヤカシ。
 これに対し気功波で応対していた赤マントであったが、その動きを見てふむと一つ頷く。
「‥‥うん、これなら僕にも出来るかも」
 言うが早いか、踏み込んで一撃を仕掛けた猿アヤカシの後に続いて枝へと飛び移る。
 まさかの行動に対応が遅れた猿アヤカシに、強烈な蹴打を打ち込んだ後、ひらりと飛び降り護衛対象である香澄の側に戻ってくる。
「うーん、思ってたより頑丈だね猿達は。素早さも人並み外れてるし、これはちょっと手ごわいかもしれない」
 香澄は他者への支援の間を外さぬ程度に、つっこみを入れる。
「いやその人並み外れてるのと五分で飛べるきみも大概だと思うけど」
 直後、漸の長槍が真横に振るわれる。
 木々が乱立する中で、である。
 当然そこらに引っかかってしまうのであるが、そこから先がヒドイ。
 漸の腕力か、はたまた長槍の威力か、ぶつかった幹を抉り、枝を斬り落とし、七尺弱(220センチ)の長物を障害なぞ見えぬとばかりに振り回すのだ。
 これにはさしもの猿アヤカシも近寄り難いのか、遠巻きの距離を取って仕切りなおす。
 エステラは少々呆れ顔である。
「まるで台風ですわね」
 かくいうエステラは木葉隠を用いて、ひらりひらりと俊敏な猿アヤカシの攻撃をかわしている。
 開拓者側にも猿アヤカシ側にも、まだ目立った損害はない。
 照日と祀も深く踏み込む所までにはまだ至っていない。今は、猿アヤカシの動きを見切るべく間を計っているのだ。
「鬼さんこちら‥‥手の鳴る方へ‥‥」
 咆哮の技も照日にかかれば歌声のように聞こえてくるから不思議である。
 なめられたとでも思ったのか、猿アヤカシは照日に攻撃を集中させるが、二刀で器用に受け捌く照日相手に思うような効果は得られない。
 弓を引く祀は、今にも照日に飛びかからんとする猿アヤカシに向け矢を放つ。
 尋常でない俊敏さと身の軽さを誇る猿アヤカシは、木々を盾に飛び道具をやり過ごさんと飛び回る。
 だが、祀の放つ矢は尋常のそれではない。
 木々枝々の隙間をかいくぐり、一瞬とて一所に留まらぬ猿アヤカシを、導線でもつないでいるかのごとく正確に射抜いていく。
 それでも、猿アヤカシは相互に位置を入れ替えるため、集中攻撃もなしえず倒しきるには至らない。
「照日、本命が来るまでは控えて。おそらく頭が出て来ると同時に、他の奴等も踏み込んでくるはず」
「‥‥ん」
 危なげなく四方八方から襲い来る攻撃を受け止める照日は素直に頷く。というかあまりに鉄壁すぎて仕掛けてくる猿アヤカシが可愛そうに思えてくる程だ。
 開拓者達が猿アヤカシの動きを計っているように、猿アヤカシ達もまた開拓者達の戦力を見極めんとしていた。
 そしてその見極めが済んだ時こそ、アヤカシ達の親玉が出てくる時であろう。

 幸い妨害も無く天忌と黎阿は目指す山小屋へとたどり着く。
 小奇麗に纏めた庭、良く手入れされている草木、端々まで掃除の行き届いた小屋。
 アヤカシが出る山であるのに、ここだけはまるで人里の中であるような錯覚を覚える。
 天忌はここであまり騒々しくはしずらいと思ったか、小屋の戸をやかましくない程度にこんこんと叩く。
「はい」
 しっとりとした、そんな形容がぴったり来る声と共に、二十台前半ぐらいの女性が現れる。
 天忌は生唾を飲み込み口を開いた。
「あんたが巫女か? 依頼頼まれてな、迎えに来た。ここは危険だ、降りろってな」
「アヤカシ、でございましょうか」
「わかってるなら話が早ぇ。その‥‥アンタの旦那達も下で待ってる」
 彼女は大きく目を見開いた後、まっすぐに天忌を見つめてきた。
 黎阿も彼女を説得すべく口を開く。
「ここで帰りを待ってたいって気持ちもわからなくもないけど、旦那さんもその親友さんも下で待ってるから、行ってあげて、ね? お願い‥‥」
 黎阿が声をかけている間も、彼女は天忌から目を逸らさない。
 居た溜まれず目を逸らしそうになった天忌は、懐から旦那の形見の品を引っ張り出しこれが証拠だと見せてやると、彼女はこくんと頷き小屋の中に戻る。
 黎阿は不安そうに小屋の中を覗き見るが、彼女は上着のみを羽織って、いそいそとこちらに向かってきた。
「もし、アヤカシが出るようでしたら、私も多少なりとご支援出来ますので‥‥」
 とりあえずついてきてはくれそうだと安堵する二人は、彼女が懐深くに隠し持っている短刀に、まだ気づいていなかった。

 赤マントがその気配に気づき叫ぶ。
「来るよ!」
 そう猿アヤカシのボス、大猿アヤカシが姿を現したのだ。
 同時に一斉に攻撃に転ずる猿アヤカシ達。
 赤マントの元には二体が。これは後ろの香澄を庇わんとするせいである。
 足元に食らいつく一体、首筋を薙ぎ払わんとする一体、これを赤マントは体ごと二体の前から消え失せる事でかわしてみせる。
 真後ろで見ていた香澄ですら、一瞬姿を見失った程である。
 しかしこれは好都合と既に作り上げていた式を解き放つ。
 霊魂砲と呼ばれる陰陽師の技を、真正面からもらった猿アヤカシの一体は、その場で大きく仰け反る。
 残る一体を赤マントが、そう動こうとした彼女の頭上に新たな敵影が現れる。
 この機を狙っていた三体目の猿アヤカシは、両手を組み、これぞ必殺と赤マントの頭頂目掛けて振り下ろす。
『このっ!』
 しかし打ち砕いたのは赤き残像。
 猿アヤカシはマントの端にすら触れられぬ。
 信じられぬといった顔の猿アヤカシの側頭部に、赤マントの拳打が炸裂する。
 いや、その一撃のみではない。
 見れば猿アヤカシは斜めに回転しているではないか。
 それはほぼ同時に放たれた肘打、蹴打による衝撃が原因である。
 蹴り飛ばされた下半身と、殴りぬかれた上半身と、衝撃を叩き込まれた胴中央、これらが複雑怪奇にまるで別の生き物のように跳ね回り、猿アヤカシは奇妙な格好でひっくり返る。
 すぐに、残った二体が両脇から赤マントを狙う。
 右手で払い、左手で受ける。両方に目を向ける事など出来ぬ角度である。片方は完全に勘のみが頼りだ。
 その勘も、たったいま殴り倒した猿アヤカシが動き出す所までは読めなかったらしい。
 胴体をひねり上げられたそのままに、猿アヤカシが赤マントの肩口に食らいついた。
 ぐしゃりと嫌な音がして、肉が裂ける音が続く。
 更に両脇に居た猿アヤカシもここぞとばかりに動くが、赤マントは片方のみにしか対応出来ない。
 殺ったと確信した残る一方の猿アヤカシは、中空にて真横から霊魂砲をぶちこまれ、木の幹に派手に叩きつけられる。
 痛みに片眉をしかめながら赤マントが感謝の視線を送ると、香澄はいえいえ何のこの程度と笑って返すのだった。

 鋭く突き出す槍先に、猿アヤカシは踏み込みきらず大きく後退する。
 漸を相手にした猿アヤカシは、ひっきりなしに激しい出入りを繰り返す事でその消耗を待つ策に出た。
 運動量は圧倒的に猿アヤカシの方が大きいのですぐにバテるかと思いきや、猿アヤカシはこれだけ激しい運動をしても一向に動きが衰えない。
 常に集中を切らせない漸の方が、確かに消耗してきているかもしれない。
 軽い舌打ちと共に、大きく槍を数回転させながら振りかざす。この挙動一つで槍の届く間合いは全て支配出来るが、猿アヤカシの出入りの早さはこの間合いの距離を凌ぐ。
 ならばとエステラは敢えて漸の間合いに踏み込む。
 これで漸は好き放題槍を振るえなくなる。猿アヤカシはここぞとばかりに飛び掛ってきた。
「では失礼」
 早駆一つ、あっという間に間合いから遠ざかるエステラ。
 後に残るは、良くやったとほくそ笑む漸である。
 一撃専心、一打必倒、一斬一殺、防御を一切無視した蜻蛉の構えより放たれるは、必殺と書いて必ず殺す大技、両断槍の奥義なり。
「‥‥そこだっ」
 タフさも売りにしている猿アヤカシの厚い毛皮を、ただの一刺しにて貫くは鍛えに鍛えし長槍「羅漢」。
 ただ貫くだけでは飽き足らず、背なの骨を背後にぶちまけ、猿アヤカシは一撃で倒れ伏す。
 あまりの威力にそちらに目が釘付けとなる猿アヤカシに、エステラは風魔手裏剣を投げつける。
 ぎゃっと飛び上がる猿アヤカシ。挙動は乱した。これで充分であろう。
 より素早いもう一匹の猿アヤカシが先に漸に飛び掛るが、地面に槍を突き立て、すっと身を翻すのみで受けきり、その回転の勢いを利用して槍を抜いた漸は、エステラの援護で動きの鈍った猿アヤカシをぶっとばす。
「‥‥文字通りぶっとんで行きましたね。くわばらくわばら」
 彼方にかっとんで行く猿アヤカシを見ながら、エステラは最後の一匹に対するのであった。

 ボス猿が真っ先に狙ったのは、圧倒的な防御能力を誇る照日であった。
 その照日の受けをして防ぎきれぬ強大な攻撃力。
 他の猿アヤカシと比べても遜色ない、いやより以上の俊敏さを8尺(約260センチ)近い巨体で行うのだ。
 間近で跳ねるその巨体は凄まじい迫力であろう。
 しかし、今日の照日は秘めた想いの深さが違う。
『‥‥必ず生きて祀を護り続ける‥‥』
 改めてそう、心に思ったのだ。
 失われた大切な半身、そんな女性の話を聞いて、何より大切な人を持つ我が身を重ねずにはいられない。
 断じて、受け入れられぬっ。そして、そんな想いを彼女にさせるわけにはいかない。
 両の腕に握った二本の刀を、左右から大きく後ろに振りかぶる。
 踏み込む大猿の突き出した腕を額に受けながら、それでも照日は止まらない。
 両側より包み込むように、左の刀は伸ばした猿の右腕を、右の刀はその強靭な足腰を、同時に捉える。
 額より僅かに血を垂らす照日。
「照日っ!」
 弓をかなぐり捨て駆け寄る祀は、腰に差していた刀「泉水」を抜き放つ。
 紅葉の様に赤き燐光を放つ刀身を、大猿は辛うじて刀身のみを仰け反りかわすが、精霊力の満ちた紅き輝きを避けきる事適わず。
 体表を真っ黒に焦がし絶叫をあげる大猿に、照日は目の上を滴る血にも構わず二刀を振るう。
「‥‥肆連撃・爻っ!」

 奥方を連れ下山する天忌と黎阿は、途中戦闘を終え治療を行っている攻撃班と合流する。
 お互い為すべき事を為しえたとあっては、本来笑って健闘を称えあう所なのであろうが、生憎とそんな事が出来そうな空気ではなかった。
 天忌がまだ旦那の死を伝えていないのは、何となく三人の雰囲気で皆が察した。
 誰もが思う所はあったが、口にはせず山を降り、夫の遺体と親友である志士が待つ宿に向かう。
 建物の前まで来た所で、天忌がこれは自身の役目だと頑として他人に譲らなかった、妻に真実を伝える任を果たさんと妻の前に神妙な顔で立つ。
 一言、実はと言った所で妻は俯いたままぽつりと答える。
「‥‥夫は、死んだのですか?」
 天忌は僅かに眉を潜める。
「知ってたのか?」
 この期に及んで、妻は微かにだが微笑んだ。
「貴方は、嘘をつくのには向いていませんよ」
「‥‥そっか。すまねぇ‥‥旦那は中だ、会ってやってくれ」
 宿に入るなり、全身包帯まみれの男が駆け寄ってきて、妻の前に土下座する。
「すまん! お、俺は貴女に会わせる顔もないっ! 俺はっ‥‥俺はっ!」
 そちらを見ようともしない妻の姿を見て、黎阿は次の動きを読んで飛び出す。
 彼女は、懐から短刀を取り出し、自身の首へと突き出したのだ。
 黎阿の手の平から血の滴が零れる。
 刃の切っ先を手の平で掴み取った黎阿は、きっと女を睨みつける。
「自分の男に恥を欠かせないのがいい女ってものでしょう? 自分のせいで貴女が死んだらどう思うと思うの? 大切なら‥‥自分の足で立ちなさいよ」
 自刃すら奪われた女は、力なくその場に崩れ落ちた後、夫の遺体にすがりついて泣いた。
 志士は開拓者達に、よくぞ彼女の命を守ってくれたと感謝を述べ、戦場に向かう戦士の顔で、後は任せろと言い放つ。
 今の彼女に必要なのは、時間と、激情に流され取り返しのつかぬ事をせぬよう見守ってくれる人間であり、その役目は私が必ずや果たしてみせると。
 泣きじゃくる彼女の姿を見ているととてもそうは思えないが、天忌はそれでもこの言葉を信じられる気がした。
 自身の嘘をあっさり見破り、その上で恨み言の一つも言わず赦してくれた、聡明で心優しい彼女ならば、今がどれだけ辛くても、きっと何時かは立ち直れるだろうと、天忌は思うのだ。