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■オープニング本文 ジルベリアにおいて山岳地帯とは、前人未到の秘境と同義である事が多い。 稀に地図を作らんと挑むものがあっても、或いは厳しい自然により、或いは出没するアヤカシにより、追い返され、又は死を迎える。 その山もまた山頂付近を万年雪が覆う、人の手が入るを頑なに拒み続ける、実にジルベリアらしい山であった。 それでも、いやだからこそ、人間は挑む事をやめない。 道なき道を切り拓き、作り上げた街道の安全を確保し、山を削り谷に橋を掛け、じわりじわりと山へと侵食していく。 フレデリックという測量士がこの山に挑んだのも、そんな最中の事であった。 「やべぇ! 橋が落ちるぞ! 急げフレデリック!」 聞こえるはずもないだろうに、男は崖の向こうに向けて大声で叫ぶ。 ぐらりぐらりと揺れるつり橋は、深く切り立った崖を渡るのに必要不可欠なもの。これが今正に、アヤカシによって斬り落とされようとしていた。 「頼むよ! まだ地図は完成してねえだろう! 止せよ止めろよ! フレデリックが帰ってこれなくなっちまうだろ!」 男は哀願するように叫ぶも、対岸のアヤカシは当然意に介さず、遂につり橋は斬り落とされてしまった。 男の絶叫。そして、男の周囲に布陣していた兵士達も沈鬱な表情を見せる。 橋の向こうに運悪く取り残された男、フレデリックを救う手段は、最早残されていないのだ。 「いいえ! まだ諦めるには早いですわ!」 そう叫んだ声に皆が振り返ると、そこには金髪、縦ロール、悲しいぐらいに胸が無い、見るからに派手な女が居た。 大抵の者は言っても信じないが、彼女はれっきとしたシノビ里出身のシノビで、名を雲切と言った。 「私に良い考えがありますわ! 準備もしてありますし、皆様! 後の事は頼みますわね!」 二十にも満たぬ小娘が何を言った所で、戦士が集まるこの場所で説得力なぞなさそうなものだが、この場に集まる百人近い兵士の皆が、雲切の言葉に耳を傾けているではないか。 山を開拓する中、数度のアヤカシ襲撃を撃退した時、雲切はこの場の誰よりも勇敢に、そして強力に、戦ってみせたせいだ。 だが、惜しむらくは、彼等は雲切が一体どういう人間なのかをまだ良く理解しきっていなかったのだ。 雲切は自信満々で、この軍が虎の子として用意していた大砲を引っ張り出してくると、射角を調整し導火線に火をつける。 一体何をするつもりなのか。たかが一発の砲弾で状況が変わるはずがないだろう。 誰もがそんな目で雲切を見ていたが、雲切はやはり確信を持って行動し続け、胸を張って砲身の中に我が身を突っ込んだ。 兵士全員が、一斉に目を剥いた 『はあ!?』 「雲切砲! 発射ですわあああああああああああああ!!」 砲弾の代わりに装填された雲切は、足元に鉄板を置いていたせいか爆発の勢いに怪我する事もなく、勢い良く彼方へとすっ飛んでいった。 意識が遠のく。 いや、今でも意識は半ば夢の中にあるかのよう。 シノビならば即座に自分の体の状態を把握すべく知覚を働かせるべきなのだが、そんな精神的な余裕は持てそうにない。 まず、見えない。 凄まじい速さで周囲がめまぐるしく変化し、無数の色の帯が踊りまわっているようにしか見えないのだ。 更に音だ。 耳鳴りで響く音が銃の号砲、そんな勢い。そこから意味のある音を拾い上げるなぞ、どう考えても不可能だ。 そんな中に叩き込まれれば、百人中百人の人間が意識を失うだろう。 意識を保っていた所で、何も知覚出来ぬのであれば、さして意味は無いのだから。 それでも雲切は、流れるというより流れ去って行く色の帯から景色を見出し、耳元でさんざ喚き続ける風の音から速度を感じる。 姿勢制御、無理。回転、したら最後意識を保つのが不可能になる。 せめても雲切に出来たのは、足を先に全身を丸め、頭部からの落着を防ぐだけ。 そして着地。いや、一度地につくと、その全身が大きく跳ねあがる。 速度は尚も落ちぬまま、ゴム鞠のように幾度も大地を跳ね転がる。 跳ねる、飛ぶ、砕く、へし折る、削り取る、そんな大転倒だ。 大きく口を開いた崖を一飛びに越える速度の砲弾となった雲切は、最後は地面にめり込むように突き刺さり、そこでようやく静止した。 先日、漸く懸案事項の一つを解決したビィ男爵は、その祝杯を上げる間もなく次の厄介事に見舞われる。 どうしても皆の役に立ちたいとの事で、天儀より預かっている雲切なるシノビをとある山の開拓作業に参加させたのだが、そこから緊急の報せが。 報告を聞いた男爵は、心底からこれを押し付けてきた前任者を恨んだ。 「……コレが、一体どうやってこれまで生きながらえて来たのか、俺はそれが不思議でならない」 完璧に、確実に、間違いなく死んだ。 そう判断し、せめても遺体の回収をと開拓者の手配を始めるビィ男爵。 しかし、現場から追加で上がって来た情報は、男爵の判断を裏切るものばかりであった。 曰く、定期的に、崖の向こうからのろしが上がるとの事。雲切か取り残されたフレデリックかはわからないが、ともかく、誰かが崖の向こうで生き延びているのだ。 そうとなれば一刻の猶予もない。 男爵はただちに開拓者を手配し、崖を飛び越える龍を人数分用意する。 帰還は崖側にまで来れば、再び龍に乗って崖を越えられるようにしておく。 探索中は下手に龍なぞ連れていては、アヤカシを招きよせるだけなので、これは待機しておくべきだ。 矢継ぎ早に指示を出した後、ビィ男爵は再度報告書類に目を落とす。 「やはり、何度見ても生きていられるとは思えないんだが……天儀にはこんなバケモノがぞろぞろ居るのか?」 のろしは天儀のシノビが用いる暗号で、それは、生存者が二名だと報せて来ていたのだ。 「おい雲切、本当に大丈夫なのか?」 そう心配げに声をかけてくるフレデリックに、雲切はぐっと拳を握って答える。 「もちろんですわ。この程度、怪我の内にも入りませんっ」 全身に夥しい手当ての痕があり、左腕は肩から先に全く力が入らないのかだらりと垂れ下がったまま。 それでも、雲切は元気に笑ってみせる。 「大丈夫です、踏ん張っていればきっと、みんなが、来てくれますわ」 丸二日の間、発見されたアヤカシ全てを屠って来た雲切は、見るからにやつれて見えるフレデリックとは対照的に、強い眼差しと覇気に満ち溢れていた。 |
■参加者一覧
真亡・雫(ia0432)
16歳・男・志
佐久間 一(ia0503)
22歳・男・志
叢雲・暁(ia5363)
16歳・女・シ
からす(ia6525)
13歳・女・弓
鬼灯 恵那(ia6686)
15歳・女・泰
狐火(ib0233)
22歳・男・シ
ヘルゥ・アル=マリキ(ib6684)
13歳・女・砂
ディラン・フォーガス(ib9718)
52歳・男・魔 |
■リプレイ本文 テントの中、テーブルの上にはまだ未完成ながら周辺一帯を示す地図がある。 これを取り囲むように開拓者達が居た。 狐火(ib0233)はこの地図上に、のろしが上がったと思しき場所を書き記していく。 しかし何分アヤカシの出る土地であり、細かな測量なぞ望むべくもなく、また一番の専門家が遭難している事もあり、地図の精密さには疑問が残る。 ディラン・フォーガス(ib9718)は、ふむ、とひとつ頷く。 「大まかな指標、程度にしかならんか」 そもそも狐火もそこまでの正確さを期待していなかった模様。 「距離感は随分ズレるでしょうが、方角等の参考にはなるでしょう」 予想されるルートは云々と話し合いが進むと、ヘルゥ・アル=マリキ(ib6684)の頭から煙が噴出しはじめるが、皆さんさらっとスルーしてあげる優しさを持っていたり。 佐久間 一(ia0503)は、出立前にこちらからのろしを上げるよう狐火に頼む。 ヘルゥも頭部発火より立ち直ってうんうんと頷いている。 要救助者が捜索隊の存在を認知していれば、発見の確率は格段に跳ね上がるだろう。 予定していた通り二チームにわかれての捜索になる。そこでディランが思い出したように口を開いた。 「おっとそうだ、発見後の合流はどうする? のろしの合図でも決めておくか?」 こんな感じで幾つかの事を決めた後、全員は崖へと向かう。 そこで、今回の依頼人ビィ男爵が崖の向こう側を眺めていた。 狐火は彼の表情から、何を考えているのかわかったらしい。というより同じ思いである模様。 「何の冗談でしょうかね」 首だけで振り返る男爵。 「現地に来て、やはり確信した。あの距離を飛んだというのなら間違いなく死んでいる。のろしは何かの間違いだ」 崖の対岸はうっすらと霧で覆われ、よく見えない。そんな距離だ。 ヘルゥは驚きを隠しもせず目を大きく見開く。 「天儀のシノビ、やはり侮れん存在なのじゃな……!」 狐火が一瞬だけそちらに視線を向けたのは、一緒にするな、とでも言いたいせいか。 そしてもう一人のシノビ叢雲・暁(ia5363)はというと、崖ではなく山を大きく見渡している。 「何だかTAIKENSHI辺りが修行してそうな山だけど、水とか大丈夫かな?」 心配すべきは水なのか。 一は苦虫を噛み潰したような顔をする。 「確かに、天儀のシノビの狼煙だったんですよね」 男爵はこの地の兵に、もう十回も確認した事を告げる。 「ああ、半日前にも私が直接確認した。だが、しかしな……」 「なら間違いありません。彼女の身体能力は常軌を逸していますから」 「……だとしても、だ。理屈だが、大砲の弾になって大地に落着したという事は、同じ速度質量の砲弾の直撃に耐え得るという話にならんか」 鬼灯 恵那(ia6686)は事も無げに言う。 「出来るんじゃないかな、多分。怪我ぐらいはするだろうけど」 「…………」 雲切の生存をまるで疑っていない様子に、男爵は言葉もない。 そんな男爵の背後より声が聞こえる。 「ふふ、天儀だけに限らず変人曲者というものは強者でもあるのだよ男爵」 「からすか。そうか、お前も来ていたんだったな」 出立前にからす(ia6525)は、男爵に簡単な頼みごとをしておく。 ディランは男爵に向かって笑ってみせた。 「無謀な女だとは思うがな、それでもこういう奴は嫌いじゃない」 その意図を汲み取った真亡・雫(ia0432)も大きく頷く。 「結果的にはそれでフレデリックさんは助かったわけですし」 男爵はぴしゃっと言い放つ。 「まだだ」 そうだね、と恵那は肩をぐるんとまわす。 「さ、助けに行くよー」 突き出した巨岩を迂回しながら、からすは小さく身震いする。 「少し、山の気温を侮っていたかな」 からすの様子にヘルゥは毛布を取り出し渡してやる。 「むむっ、冷やすのはいかんぞ」 「すまない、助かるよ」 二人がそんな話をしている間に、残る二人、狐火とディランは地図と地形を見比べながら現在地は何処かを話し合っている。 「失礼」 突然そう口にした狐火は、人の背丈程はあろうかという大岩を駆けのぼる。 体重をまるで感じさせぬ羽のような身軽さに、からすは感心したように小さく息をもらし、ヘルゥは流石はシノビとうんうん頷き、ディランは小さく口笛を吹く。 岩の下からからすが声をかける。 「北西に瘴気の流れがある。そちらを確認してもらえるか」 狐火が確認しようとしたのも正にその方向。つまり、聞こえてきた微かな音はかなりの確率でアヤカシのものだという事だ。 迂回ルートを探す。候補は二つ。見るからに滑りそうな急斜面と、奇妙な形に突き出した大岩を登り超えるルート。 狐火はメンバーの能力を考え、登りきってさえしまえばかなり遠距離までの視界が確保出来そうな大岩超えを選ぶ。 ヘルゥのバダドサイトはこの手の捜索にはかなり有用なのである。 他にも時間が限定されるが現在地がわかる技術を持っていたりと、実に頼もしい限りなのだが、地図とにらめっこしてると頭から煙を吹くのは一体どういう理屈なのだろうか、などと狐火はかなり本気で気になっていたり。 狐火が岩から降りてくると、ディランが黒ずんだ土を手に持っていた。 「ようやく見つけたぜ。狼煙の跡だろこれ」 狼煙を上げた後、雲切達は燃やした残骸の処理も行っていたようで、狐火が幾つか伝え聞いた雲切像からは少々かけ離れた繊細さであった。 すぐにディランは自分なりの考えを口にする。 「一緒に測量士がいるらしいし、そいつの知恵だろうな」 その言葉で、狐火は捜索のヒントを得る。 「そうか、測量士が居て、その言を雲切嬢が重んじているというのであれば、彼女達の移動はかなり理にかなったものであるはずです」 二人の逃走経路、その目星がついた。後は二人より早く移動しこれを追うのみ。 からすは考え深げに口元に手を当てる。 「探してほしいのに、痕跡を隠すのは不自然では……」 そこまで口にして、その理由に思い至るからす。 狐火を見ると、彼は大きく頷いた。 「つまり、ここのアヤカシは狼煙の跡を残しておいては追撃を受けるような相手、という事でしょう」 エライ不安要素が飛び出して来たものだが、からすは口の端を僅かに緩める。 「ふむ、随分と情報が出揃って来たな。二人の逃走ルート、これでほぼ絞れたと考えて良いか」 やっぱり煙吹いてるヘルゥ以外は、皆捜索に手ごたえを感じ始めていた。 一歩歩くのですら膝を大きく胸の付近まで上げなければならない、そんな斜面を四人は愚痴の一つも溢さず黙々と登る。 特に、低身長の女性二人にはキツイ。足の長さは悪路走破性能に直結するのだ。 狐火もディランも、これに無言のまま合わせてやる程度の配慮は出来る男達だったが、任務を疎かにも出来ぬ。 ヘルゥもからすも、無論泣き言なぞ言わないし、弓術によるアヤカシ警戒も怠らず、遠見による捜索も折々行っている。 である以上、狐火もディランもその点に関して口を開く事も出来ぬ。 せめても出来る事は、一刻も早く発見する事だけだ。 結局その日は発見出来ぬまま夜営となるが、翌日午前、雲切、フレデリックの二人を発見したのだった。 分かれていた方のチーム、一、恵那、雫、暁の四人も近場まではたどり着いていたようで、合図の狼煙を上げるとアヤカシに見つかるより早く合流する事が出来た。 ちょうどからすが雲切の包帯を巻きなおしてやっている時だ。 「こんな腕でよく頑張ったね」 「あ、アリガトウゴザイマス」 口調が固いのは寒いせいか、そう考えたからすの後ろから、合流してきた四人が顔を出して来た。 かつて見た事が無い程に、全身に治療跡が見られる。 そんな姿に、一、恵那は一瞬硬直したようだが、まず恵那が立ち直り、はいっと毛皮のマントを被せてあげる。 「寒かったよね」 まず、きつく結んでいた口元が緩んだ。 一は内心を何とか隠しつつ、月餅を一つ、雲切の手を取って渡してやる。 「おなか、すいてませんか?」 次に、目元が垂れ下がる。雲切は月餅を一噛み、二噛み、三噛みで食べてしまうと、甘味が口の中に広がり、遂に決壊した。 「……あの、ですね。えっと、ごめんなさい、わたし、もう、泣いちゃいますわ。だめです。我慢、出来ません……」 ぐしゅぐしゅと目元を何度もこすり、雲切は声を噛み殺しながら泣き出した。 雫は困った顔でディランを見ると、ディランは首を横に振る。これ以上の滞在はアヤカシに発見される可能性を著しく上げてしまうだろう。 こんな時、頼りになるのは超空気読まないマイペース人間、そう、具体的には叢雲とか暁とか言う人の事である。 「あーそこ、面倒な事してないでさっさと移動するよー」 その必要性は誰しも、そう雲切ですら理解している所だ。 ぐずりながらだが、雲切も移動を始めるのだった。 狼煙を上げた場所から少し離れた所で、皆休憩を取る事にした。その頃には雲切も落ち着いており、やつれ顔であったフレデリックも食べ物にありつけたおかげか血色も良くなっているように見える。 「で。」 と切り出した恵那は、登山の疲れも何のそのでお説教タイム開始である。 そりゃまー当然怒るだろーなー、と皆は聞いていたわけだが、雲切はしゅんと小さくなってしまうのみ。 せめても出来る事は、助けを求めるように一の方をちらっと見る事ぐらいだったが、無表情のままでこれを受け流す一。 そろそろ止めてくれるかな、とか思っていた恵那も、一のスルーには驚いた様子だ。 思わず説教を止めてしまった恵那は、怪訝そうな雲切と目が合い、二人は同時に一の方を向いて言った。 「「もしかして怒ってる(ます)?」」 一は、彼らしい柔和で穏やかな笑みを浮かべたまま答えた。 「はい、とても」 狐火達四人が雲切の直接護衛につき、一達四人は先行し進路を確保する。 険しい山道は行きと一緒だが、捜索という負担が消えた分、かなり余裕が生まれていたので、ヘルゥは上機嫌で雲切に話しかけていたのだが、ものっそい勢いでドへこみしている雲切に何時もの元気はない。 よほど怒った一がショックだったと見える。 ディランは後ろを歩くフレデリックが、傷一つ負っていないのを見ているので、雲切の無茶をどうこう言うつもりはないようで。 うつむき加減の雲切のおでこを指先で弾くと、良く頑張ったな、と称えてやっている。 からすは、他の者には気づかれぬよう狐火の耳元でつぶやく。 「瘴気が帰路に集中しているのだが、どうも流れが妙でな。きみの耳には何か聞こえるかい?」 狐火もまたからすに倣って小声で返す。 「全てが聞こえた訳ではありませんが、恐らく彼女に配慮したのでしょう。聞く所によれば彼女、イノシシの如くらしいですから」 なら、尚の事余計な事は言うべきではない、と二人は沈黙を守る。 あっはっはー、と笑う暁は、声と物音から察しえた敵の配置を皆に伝える。 「いっやー、笑うっきゃないねーこれ」 下山ルートの大半がアヤカシにより抑えられていたのだ。 雫は渋い顔で、大地に描いた敵の布陣図を見下ろしている。 「……これ、どうしましょうね」 頬をかく一。 「いやー、どうもこうも……」 恵那は事も無げに言った。 「全部やっつけるしかないんじゃない? 多分これ、何処か一つ潰しにかかったら、残る連中も動くよ」 とはいえ、と一は続ける。 「後続組に戦闘の音が聞こえた場合、最悪、彼女が動きますよ」 だよねー、と恵那は深く嘆息する。 きょろきょろと周辺を見回していた雫は、熟考の末、口を開いた。 「あの尾根の下、来る時通りましたが、他と比べればまだマシな斜面になっています。あそこに連中全部引きずって行きましょう」 暁は他人事のように暢気に言い放つ。 「んー、アヤカシ総勢三十ちょい。全部下級ならこの四人で何とかなるかな。元々、後続の安全確保が仕事の先行組だしさ」 鬼型アヤカシの膝裏を、一が伸ばした腕が思い切り払うと、重心を失った鬼アヤカシは斜面を盛大に転がり落ちていく。 長物を用いず全身の重心を落とす事を最優先した装備は、相応しいピーキーな立ち回りを要求するが、一はこれによく応え、斜面最中でありながら抜群の安定感という利点のみを享受する。 暁は逆に重心を上半身に乗せて、すぐに大地から離れてしまう体を利する方法を採る。 かわせぬ距離まで踏み込んだ後、斜面を駆け下りながら飛び蹴りをくれてやると、アヤカシは面白いように吹っ飛んでいく。 狙う敵は自分より低い場所に居る相手のみに絞り、飛び蹴りで落ちた高さはシノビならではの跳躍を用い再びアヤカシの上を取る。 実に堅実。捜索の時からそうだったが、今回の暁は実用優先である。 「環境利用闘法とかいうヤツを400年前に通過していたのだ!」 言動は相変わらずデムパ気配漂うが。 ともあれ、環境利用闘法とやらはアヤカシも使ってくる。 恵那の上方より、大岩が転がり落ちて来ていたのだ。 右、無理。左、届かない。 一瞬でそこまで判断すると、恵那は刀を大上段に振り上げ、見る。 転がる岩の中心線、これを撫でるように刀を振り下ろすと、バターを斬るようにすっぱりと岩は両断される。 落下していく岩。足場のせいで斬りが甘かったその切断面を見て、まだまだだなぁ、と肩をすくめた。 雫は極力その場を動かず、振るった刀が巻き起こす豪風にて攻撃を仕掛ける。 その選択は正しかったのだが、雫の考えていた以上に足元の大地は心もとないものであったのだ。 致死の烈風を生み出す雫の踏み込みに、斜面が耐え切れず大きく崩れ落ちる。 咄嗟に刀を口にくわえ、両手を大地につく。 特に力を入れずとも下半身が跳ね上がり逆立ち、すぐに足が大地、というより奈落の底向けて振り下ろされる。 後一回、大地を蹴るような事があればそれは致命的な加速を生み出してしまうだろう。そうなれば斜面を転がり落ちていったアヤカシ達と同じ末路を迎える事になる。 その一回を、雫自身にもどうしようもない速度勢いにて蹴りだしてしまう。 だが、雫は断じて無策であったわけではない。 くわえていた刀を両手で掴み、大地の一点をにらみつける。 ハタで見ていた者はそれが大地と刀であるとは思わなかっただろう。 水面に飲み込まれるように、雫が突き出した刀は大地へと吸い寄せられていったのだ。 その半ばまで突き刺さった所で神秘の技は終わりを告げ、常の世界の理が蘇る。 雫の両腕に凄まじい力がかかるがこれを何とか堪えると、転がり落ちて行く速度は完全に失われたのであった。 帰還した皆を出迎えたビィ男爵は、見るからに高そうなティーカップに、テントの中いっぱいに広がる程の香気を持つ茶を用意していた。 出立前にこれを頼んでいたからすはその大仰さについ噴出してしまうと、ビィ男爵は少し照れくさそうにそっぽを向いてしまうのだった。 |