理穴、月不見月の花雨
マスター名:風華弓弦
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: やや易
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/06/13 18:40



■オープニング本文

●雨音
 緩やかに、初夏の雨が降る。
 理穴の都、奏生へ静かに降る雨音を聞きながら、じっと弓削乙矢(ゆげ・おとや)は的を見つめていた。
 だが、弓を射るわけではない。
 射場へ正座したまま、雨垂れを聞きながら物思う。
 失った家族と奪われた弓と、そして壊した弓。
 行方が分からなくなった三つの弓のうち、一つはアヤカシに憑かれた付喪弓となり、それを打ち壊す結果となった。
 それ自体は致し方ない事だが、それでも‥‥と、時に思う。
 生き残ったのが何故、至らない自分だったのか。
 父や母や、あるいは兄の甲矢ならば。きっともっと上手く立ち回って、誰かに迷惑をかけたり誰かを傷付けたりもせず、事を収められた筈だろうと。
 そう考える事自体が「逃げ」だとは、百も承知はしているが‥‥。
「あまり、思い詰め過ぎぬようにな」
「え、あ‥‥っ」
 不意に声をかけられて、ぼんやりしていた乙矢はハッと我に返った。
 振り返れば、声の主――弓作りの師匠である壮年の男が弓道場の戸口に立っている。
「ご心配、かけます。突然にお邪魔した上‥‥」
「いやいや。久し振りに顔を出してくれるのは、嬉しいがね」
 苦笑しながら、彼女の師匠は雨の降る矢道へ目を向けた。一方の乙矢は的場と正面から向かい合ったまま、射場で正座をしている。その傍らに弓はなく、雨が止むのを待っている訳でもなさそうだった。
「ともあれ、そろそろ飯にしよう。しっかり食べていきなさい‥‥お前が顔を出してくれたから、あいつも喜んでいたしな」
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げて応じてから、ふと乙矢は開拓者となって神楽に旅立つ報告をした日を思い出す。
 そして重い息を射場へ落とし、立ち上がった。

●忘れ物、一つ
「乙矢さん、里帰りしてるんだ」
 へぇと小首を傾げる桂木 汀(かつらぎ・みぎわ)に、ほうきを担いだ崎倉 禅(さきくら・ぜん)が腰を叩く。
「ま、それで長屋の部屋の風通しを頼まれたんだが。軽く掃いていたら、ちと気になるものを見つけてな」
「え、なになに?」
 興味深げに見上げてくる汀に崎倉は懐を探り、懐紙に包んだ小さな水晶玉の破片を取り出した。
「崎倉さん。コレ、何?」
「おそらくは宝珠の欠片だろう。だがこうなってしまうと、宝珠としての価値もない物だが」
「そうなんだ‥‥」
 親指の爪ほどの、小さな宝珠の欠片を珍しそうに汀が眺める。
「これが、土間に転がっていてな。近頃は妙にぼんやりしていたし、落とした事に気付いていないのかもしれない」
「あれ? じゃあもしかして、大事な物?」
「そうだな。本当は、これを墓前に備えに行くつもりだったのかもしれないが」
「だったら、大変だよ! 忘れ物、届けに‥‥って、乙矢さんのお里って、ドコ?」
「理穴の奏生だな。一応は」
「そっ‥‥!?」
 ここからずっと離れた街の名に、さしもの汀も大人しくなった。
「忘れ物を届けてくれるよう、ギルドへ仲介を頼んでみるか」
 そして、出来れば‥‥と思いつつ。
 懐紙を戻し、宝珠の欠片を懐へ大事そうにしまった。


■参加者一覧
小野 咬竜(ia0038
24歳・男・サ
有栖川 那由多(ia0923
23歳・男・陰
胡蝶(ia1199
19歳・女・陰
空(ia1704
33歳・男・砂
斎 朧(ia3446
18歳・女・巫
只木 岑(ia6834
19歳・男・弓
透歌(ib0847
10歳・女・巫
テーゼ・アーデンハイト(ib2078
21歳・男・弓


■リプレイ本文

●忘れ物の届け人
 雨雲に覆われた理穴の首都、奏生。その表通りには様々な色柄の傘が花の様に開き、行き交っていた。
 それでも晴れた日より人気はなく、行商に出る者の数も少ない。
「晴れると、もっと賑わうんですよね。最初きた時なんかもそうでしたけど、今でも迷うんですよ‥‥たまに」
 苦笑まじりで先頭を歩くのは、理穴出身の只木 岑(ia6834)。とはいえ、人の多い奏生ではなく、理穴国内に幾つも点在する小さな里育ちなせいか、のんびりと奏生を道案内していた。
「理穴って、美味しいお菓子や果物も沢山あるんですよね」
「なにか、手土産でも買っていくか?」
 菓子屋や饅頭屋を気にする透歌(ib0847)の頭の上から、着物の袖へ腕を入れた小野 咬竜(ia0038)もまた店先を覗く。
「そうですね。でも突然、沢山でおしかけたら驚かれるかな。やっぱり、先に風信機でお知らせしておいた方が、よかったんじゃないですか」
 心配そうに窺う透歌に、少しばかり不機嫌顔の胡蝶(ia1199)がぷくりと頬を膨らませた。
「ちょっとくらい、驚かせた方がいいのよ。大事な物を忘れるくらいなんだから」
「大事なモンを忘れちまうほど、何かに心が捕われてたのかな‥‥?」
 腕を組んで思案する有栖川 那由多(ia0923)に、何だか置いてけぼり感じを覚えたテーゼ・アーデンハイト(ib2078)がガックリと肩を落とした。
「那由多なら‥‥なんて言うか、この微妙な落ち着かなさを共有してくれる筈! と、思っていたのに。いや、多分、だけど」
「え? でも一応、乙矢さんは同じ長屋のご近所‥‥だし?」
「ご近所‥‥!」
 どこか衝撃を受けたような依頼仲間に、那由多は慌てて頭を振る。
「言っとくけど、俺も親しいって程でもないからなっ。乙矢さんの家とか依頼での事とか、よく‥‥知らないし」
「よかった、じゃあ大丈夫だ」
 何がどう大丈夫かよく分からないが、とりあえずテーゼは安心したらしい。
「何か、訳アリみたいだからなぁ。とにかく届け物をしっかりやればいいんだよな、うん」
「まァ‥‥忘れ物を届けるだけに開拓者を頼むとか、中々に懐に余裕があるのか」
 思いの他『楽な仕事』に、へらりと笑いながら空(ia1704)がぽしぽしと髪を掻く。
「おそらく、『依頼人』が心配するほどの忘れ具合だったんでしょう」
「ほォ、金払いの良い客は嫌いじゃないがな」
 笑んで答える斎 朧(ia3446)へ、得心した風な空は呆れ半分、感心半分に笑い。
「で、肝心のブツは誰が持ってんだ?」
「俺が預かってる。価値はないも同然とはいえ、預かり物。幾許か打たれ強い者が持つのが良いだろう?」
 懐をぽんと一つ叩く咬竜を、頼もしげに透歌が見上げた。
「お兄さん強そうですけど、だいじに無くさないようにお願いします。あと、渡す時には‥‥」
「胡蝶に渡せ、じゃな。ちゃあんと心得ておる」
「お願いしますね、胡蝶さん」
 そっと岑が声をかけ、予想外の気遣いに胡蝶は驚きを隠しながらも口を尖らせる。
「わかったわよ。仕方ないわね」
 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、岑もこくりと頷いて。
「やっぱり、砂より理穴がいいな。雨でも」
 乾いたアル=カマルとは違い、懐かしい湿り気を帯びた空気に彼は故郷へ帰ってきた事を実感した。
「ああ、雨は良いのう。色々なもんを覆い隠して、押し流す。優しい天気じゃ」
 しみじみと言う咬竜もまた、傘を手に案内の後を付いていく。

●弓削屋敷
「あの‥‥あの?」
 突然の来訪者を前に、弓削乙矢は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
 奏生の中心部よりやや外れの屋敷が建ち並んだ一角に、弓削家の屋敷はあった。
「なんじゃ、下男の一人も置いておらんのか」
「えっと、それは‥‥」
「これまた、それなりに立派な屋敷だな」
「これは、その‥‥」
 奥を窺う咬竜に空も純粋に感心し、乙矢は戸惑った視線を見知った顔へ向ける。
「やっぱり、連絡した方がよかったです?」
「もう来ちゃった後だからなー」
 こっそり尋ねる透歌へ、苦笑いをしながらテーゼは髪を掻いた。
「何か、取り込み中でしたか?」
「いえ。そういう訳では‥‥すみません、少し取り乱してしまいました」
 都合を確かめる朧に乙矢は束ねた髪を左右に揺らし、申し訳なさそうに岑が頭を下げる。
「確かに、驚きますよね。お邪魔します」
「これ、お供えに。折角ゆるりと里帰りしてるとこ、悪い‥‥忘れ物、届けに来た」
 携えた白いカキツバタの花を差し出す那由多が、ちらと胡蝶へ目をやった。
「忘れ、物‥‥?」
「そうよ。ここで話も何だから、お邪魔してもいいかしら?」
「あ‥‥すみません、申し訳ありませんっ!」
 花を受け取った乙矢はやっと気付いて謝罪し、やれやれと胡蝶が首を横に振った。
「私が言うのもなんだけど、客だからって変に改まらなくていいから」
「はい、助かります。あいにく屋敷には他の者がおりませんので、何のお構いも出来ませんが」
 事情を説明する乙矢に案内され、ようやく一行は屋敷へ上がった。

 客間の一つに通された者達は、ひとまず旅装を解いて寛ぎ。
 座っているだけも手持ち無沙汰だと、幾人かは茶の用意をする乙矢を手伝う。
 道中で買った茶菓子を分け、全員に茶が行き渡ったところで、胡蝶が『本題』を切り出した。
「コレを忘れるなんて‥‥まったく、仕方ないわね」
 預かった咬竜より布包みを渡された胡蝶は、それを乙矢の前に置く。
 未だ不思議そうに乙矢は『届け物』を手に取り、かけた布を開いてから‥‥見る間にがっくりと肩を落として脱力した。
「本当に‥‥忘れていた事に、気付いてなかったんですね」
 表情は笑顔のまま、微妙に呆れたような気配をまじえて朧が指摘した。
 我が事ながら、情けないやら何やらといった乙矢は、ただただ顔を赤らめて恐縮する。
「お恥ずかしながら、返す言葉もございません‥‥有難うございます。もしや、わざわざこのために奏生まで‥‥?」
「だな。酔狂な依頼人がいたもんだ」
 恐る恐る尋ねる乙矢へ、アッサリと空が答えた。
 先程よりも一層ガクリとうな垂れた相手に、「まぁまぁ」と煙管を片手に咬竜が声をかける。
「人間、そういう事もある。あまり気にせぬ事じゃ」
「えぇと、元気を出して下さい。依頼したのは、崎倉さんですから」
 気落ちした様子を見かねた岑が依頼の内容を手短に説明し、やっと乙矢は居住まいを正した。
「そうでしたか‥‥遠いところをご足労いただき、重ねて御礼を申し上げます」
「だからそんな、かしこまらなくてもいいからさっ。その、事情とか知らない、初対面の俺みたいなのもいる訳だし」
 浅く墓穴を掘りながらテーゼは笑ってフォローをし、言葉に迷いながら透歌はとりあえず茶菓子を食べる。
「これ‥‥理穴のお菓子、美味しいですね」
 ほのかな甘さの生菓子に、ほんわりと透歌が嬉しそうに目を細め。
「あっ、ごめんなさい。本当に美味しかったから、つい」
「いえ、どうかお気になさらず。届け物のお礼という程でもありませんが、今日はどうか当家へお泊り下さい。屋敷には私しかおりませんので十分な持て成しも出来ませんが、部屋だけは空いておりますから」
 透歌へ微笑んでから、改めて乙矢は丁寧に一同へ頭を下げた。
「それは嬉しいけど、黙って客人扱いも落ち着かないから‥‥勝手に手伝わせてもらうわよ。食事や部屋の掃除なら、邪魔にならないでしょ」
 有無を言わさぬ胡蝶に、胡坐をかいた咬竜もまた大きく頷く。
「そうじゃな。男手もいるなら手伝うぞ、うちの可愛い犬が」
「うっさい、バカ咬竜。それに俺、力仕事できねーからな!」
 那由多の抗議にも咬竜は聞こえぬフリをして、わしゃわしゃと容赦なく友人の頭を撫でた。
「じゃあ、話は決まりね。ちょっと待ってなさい」
 乙矢が返事をせぬうちに話をまとめた胡蝶は席を立ち、縁側でじっと天を仰いで目を閉じる。
「‥‥この雨は、もうじき止むわ。でもそのまま晴れる訳ではなく、夜にはまた振り出すみたいね。明日も、降ったり止んだりって感じ」
 しばらくして彼女は振り返ると、『あまよみ』の結果を告げた。

●一泊の恩
「ふんふふ〜ん♪ おいらにかかれば〜雨漏りなんて〜♪ 一撃必殺ほえほえ〜♪」
 明るくのん気な鼻歌が、頭の上から聞こえてくる。
「テーゼさん、大丈夫ですかーっ?」
 庭に出た岑が口に手を当てて呼びかければ、屋根に上ったテーゼは手を振って答えた。
「平気平気〜! と、とぉ〜っ!?」
 幾らか身を乗り出して応じたせいか、勢いよく手を振ったためか、直後にテーゼの視界が微妙にぐらりと傾ぎ。
「あわわわわわわぁー!
「だ、大丈夫ですかっ!?」
 下で焦る岑に見守られながらジタバタと彼は手を振り回し、半ば気合でバランスを取り戻した。
「大丈夫、だった‥‥!」
 いい笑顔を返す相手に、ほっとして岑も冷や汗を拭う。
「雨で濡れて滑るところもあるでしょうから、気をつけて下さい!」
「そ〜する〜」
 テーゼはマイペースな返事をして、屋根瓦が痛んでいないか再び屋根を調べ始めた。
 無事に安堵した岑が部屋へ視線をやれば、座敷では空が無造作に畳を起こしている。
「よッ‥‥こんなトコか」
「大掃除には便利そうですね」
『畳返し』の無駄づか――もとい有効活用に、岑が感心した。
「一応は、手伝った方がいいだろ。ま、気分転換にはなるんか、ね」
「だといいですね。ボクは、家事はさっぱりですけど‥‥」
 少しばかりバツが悪そうな岑に、空が手招きをし。
「じゃあ叩くの、手伝え」
「あ、はいっ」
 二人は縁側まで畳を運び、軽く叩いて汚れを落とす。
「皆見てると、アヤカシ討伐から家事まで颯爽と右から左に片付けて、さらに人の手助けもできちゃいそうですね」
「そんな仕事熱心な奴ばかりとは、限らねェがな」
「それも、そうですか」
「‥‥感心するなよ」
「えっ?」
 そんな会話を交わしながら、二人は畳を風に当てた。
 彼らだけでなく、滅多に使わぬ部屋を他の者達も手分けして掃除している。
「えいっ、えいっ」
 出来るだけ高い場所と爪先立った透歌がハタキを振るが、それでも隅々までは届かず。
「仕方ないのう」
「ひゃあっ?」
 咬竜にひょいと担ぎ上げられ、不意の事に透歌が驚く。
「抱えておいてやるから、高い場所を終わらせてしまうが良い」
「ありがとうございます」
 小さく頭を下げた透歌は早速ぱたぱたと鴨居をはたき、それに合わせて咬竜も部屋の中を移動してやった。
「良いなぁ。屋敷ちゅうのは人が手を入れると、やはり喜ぶものじゃ」
「はいっ」
「こっちは、空拭きで終わりね」
「分かりました。こちらも、もうすぐです」
 はたき終わった後の部屋に、胡蝶と朧は手際よく雑巾をかけている。
「私も、何かお手伝いを‥‥」
「いいよ。掃除は泊まらせてもらうお礼だし、乙矢さんは座ってて」
 汚れた水を交換した那由多が、重い手桶を廊下へ置いた。
「掃除が終わったら、買い物かな。乙矢さんも何か用があれば、留守番するからさ」
「あるとしたら‥‥大した用では、ありませんが」
 物思うように乙矢が目を伏せ、何か言わなければと那由多は話題を探して視線を泳がせる。
「家族へ報告に行くのでしょ。一緒に行くわ。私も、詫びないといけないからね」
「それじゃ、頑張って掃除を終わらせないとな。それまで、乙矢さんは休んでるといいよ」
 雑巾を洗う胡蝶に那由多も腕まくりをし、掃除に戻る者達の背を乙矢は見送った。

●空は晴れず
「それでは、後で〜」
 買い物に行く透歌らは、墓参りの胡蝶と朧、乙矢の三人と分かれた。
 静閑とした墓地で、弓削家の墓に彼女らは手を合わせる。
「壊れたといえ、宝珠も弓本体もある訳ですから、宝珠弓の修復を考えてみてはいかがでしょうか。完全に元のままとはいかないまでも、宝珠の加工技術もありますし、修復が無理なら宝珠は新しいものでもいいでしょう」
 切り出す朧の『助言』に、辛うじて細く繋がっていた何かが乙矢の中でふっつりと切れた。
 弾かれた様に、乙矢は急にケラケラと笑い始める。
「斎殿は、面白い事を仰います。弓は既にあの時、跡形もなく壊したというのに‥‥何処にあると? それともアレは斎殿が打った芝居で、無様で滑稽な身を笑っておられたのですか? ならば返して下さい! 弓も、家族も、全てを‥‥返して!」
「乙矢!!」
 鋭い声と乾いた音が、錯乱した言葉を断った。
 乙矢の頬を打った胡蝶は相手の腕を掴み、人のいない方へぐいぐいと引っ張る。
「落ち着きなさい。その、弓の事は‥‥悪かったわ。希望を持たせるような真似をして。でも残りの弓の探索、続けなさいよ! できれば、だけど‥‥」
 まずは謝罪をしてから、煮え切らない自分の思いの強要もしたくないと最後はすぼむ様に告げて、胡蝶は唇を噛む。
「その、上手く言えないけど‥‥私は、乙矢に感心してるのよ。応援した、いえ、手も貸すけど、つまり‥‥力になりたい、とか」
 自分自身への悔しさと、先を行っていると思っていた相手の、不意の激情に面食らって。
 諦めて欲しくないというのは、自分の勝手な感情かもしれないが。
「なんだかんだで結構、関わってきたし‥‥ゆ、友人程度にはね」
 明後日の方向を見ながら付け加えた胡蝶へ、その場へ崩れ落ちるように座り込んだ乙矢は深々と頭を下げた。
 ありがとう、と。ただ短く。
「でも、もう‥‥私は開拓者を辞めるよ。不器用者に二足の草鞋なんか、最初から‥‥」
「乙矢?」
 胡蝶が今までに見た記憶のない‥‥道に迷った子供の様な顔を一瞬だけ浮かべて、それきり彼女は動かなくなる。
「朧! 急いで、他の皆を呼んで‥‥連れて来て!」
「取り乱したせいか、気が昂ぶって疲れたのではないですか? ずっと追い続けてきた弓の1つが付喪と化し、しかも自分が操られ、果ては目の前で壊されるにいたる‥‥少しばかりぼうっとしても仕方のない事ですし‥‥」
 真剣な胡蝶とは対照的に、崩れぬ笑みを朧が返した。
「さして、心配する程の事でもないですよ」
 聞くところによれば、悲しむだけ悲しめば、人はまた前を向けると聞く‥‥だから朧は、あまり心配してはいなかったが。
「いいから、早く!」
 糸の切れた操り人形の様にぐったりとした乙矢を支え、声を荒げた胡蝶が繰り返す。
「それで、気が済むのでしたら‥‥」
 慌てる様子もなく踵を返す相手を、もどかしく胡蝶は見送った。

 朧の知らせに駆けつけた咬竜らは、乙矢を背負って弓削屋敷に戻った。
 だが夜になっても目を覚ます気配もなく、急いで岑が探してきた医者は心労で倒れたのだろうと見立てた。
 翌日も乙矢の様子は変わらず、医者から話を聞いた弓師の夫妻が駆けつけ。神楽へ戻らねばならない者達は、後ろ髪を引かれつつも後を託す。
 重い鉛色の空からはまた、しとしとと重い雨が降り始めていた。