狩人の跡
マスター名:碇星
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: やや難
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/10/16 23:46



■オープニング本文

●狩りを終えて
 理穴東部。鬱蒼と茂る暗い森の中で、日に日に取れる獲物の量が少なくなっているのを感じながら、猟師――栃具(とちぐ)は今日の仕事を終えた。
 やはり魔の森が近いこの場所では、森の獣の幾らかがアヤカシによって食べられているのだろうか。緑茂の戦いで縮小したとはいえ、間近に迫っていることに変りはない。
 人の生息が許されている森が少ないことも、理由の一つだ。探す範囲が狭いのだから、見つかる獲物も限られる。
 今の理穴では、狩り一つもままならない。その昔は狩猟の民として森を駆けていた彼ら猟師も、最近では他の働き口を見つけ、西の方へと住まいを移すものが多い。
 栃具も猟師仲間だった者から仕事に誘われているが、未だ森を離れる決心がつかず、こうして狩猟を続けている。
 自分ひとりが実直に猟師を続けているからと言って、そうでないものたちを揶揄するつもりはないし、古くからの伝統を守ろうとかいうお題目があるでもない。
 ただ単に、狩りが楽しい。それに尽きる。
 息を殺し、脈を殺し、動きを殺し、さながら自身も一匹の獣となって獣を追う。時を計るのも忘れたままに追って、追って、追い立てて、矢を引き絞って突き立てる一瞬を創出する。
 生業と言いながら、その作業は実に楽しい。金が貯まらないのが難点と言えば難点だが、暮らしには困らない。何となれば木の実や草木を食んでいれば良いのである。実際、思うような値で獲物が捌けなかった時、栃具は自分の父や祖父が教えてくれた野草やきのこを採っていた。
 ここで暮らせるのならば、都会に出る必要は無い。アヤカシに遭遇する可能性は高いだろうが、昨今では都市部でもアヤカシが出没したという噂を、この田舎でもちらほらと聞く。
 元より獣相手の稼業だ。いつ何時、自分が獣に食らわれようとも、覚悟は出来ている。それがアヤカシだったとて、売り捌けないということ以外に不都合はない。
 そろそろ森に差し込む陽の色が赤みを増してきた。夜の帳が落ちる合間。黄昏の時である。
 この時間を過ぎれば、次は夜。獣の時間である。如何な狩猟に長けた者とて、だからこそ、夜陰の只中で獣と戯れる愚を犯さない。夜の、しかも月明かりも鈍る鬱蒼では、獣から見れば人間など盲目も同然。必定、狩る者と狩られる者との立場は逆転する。
 その鉄則を心得ている栃具は、懐から取り出した鈴を首にかけ、足早に麓の小屋へと向かった。
 ちりんちりんと殊更に音を鳴らすのは、獣避けの意味合いからである。むろん狩猟の最中には鳴らぬよう仕舞っているが、今日のように夕方頃まで長引いた時には、こうした音で獣を威嚇して家路を確保する。
 それでも最近は、鈴の音が鳴ると獲物を持った人間が歩いていると言うことが分かるらしく、偶に目の前に躍り出てくることがある。
 知恵があるものだと感心するが、それこそ格好の獲物。荷物をその場に打ち捨てて矢を引き絞るか、向かい来たところへ鉈を振るうかすれば、むしろ収穫が増えると言うものだ。
 本当に賢い獣は、音を鳴らして歩く人間を襲いはしない。そんな無駄で危険な労を、彼らは犯さない。
 襲うにしても、人間なんぞに気づかせはしないだろう。首元に牙を突き立る、その一瞬まで。
「それはそれで、喜ばしいけんど……」
 残念ながら栃具は、そのような知恵者に出会ったことは無い。
 猟師が獣に殺される。何とも純然たる因果応報。我が身のこととて、被るのが相当と納得してしまう。
 取り留めのないことを考えていた栃具の耳に、かさかさと草を踏む音が聞こえる。
 自分の足音ではない。自分と他人の足跡を聞き違うほど耄碌していない。そしてその足音が、人のものかどうかさえも聞き違えはしない。
(二匹。前後ろからかえ? これはまた――)
 念の入ったことだと、栃具は嬉しそうに呟いた。
 俊敏な四足の音から察するに、肉食、あるいは雑食の獣だろうか。
「狐かのう。それとも、狸かのう」
 音が近い。先ほどよりも鈴の音を高く上げているにも拘らず、こちらに来るのを止めない。
 どさりと、捕らえた猪をその場に落とす。身を軽くした次の瞬間、その手は背に携えていた弓を握り、矢を番える。
 獣との対峙は至福だが、覚悟を有するからと言って自分から首を差し出せば、それは茶番に堕する。
 人は人の武器を持って向かい合えばこそ、獣に殺される覚悟が持てると言うもの。
 きりきりと弦が張り詰め、鏃が引っ込む。再び押し出されるときを、今か今かと待ち構える。
 道の脇より、白い影が飛び出す。同時して、栃具の後方にも気配が現れる。
 まずは目の前の獣。そして振り向きざまの第二射で、後ろの奴を狙う。そう思案していた栃具が獲物の姿を寸分なく捉え、矢を番えたままに固まってしまった。
 目の前に佇んでいたのは、姿の良い白犬だった。
「犬とな!? これは如何な事か」
 振り向けば鏡写しのように、今度は黒い犬がいた。姿はやはり同じである。
 これほどの犬を、この山で見たことは無かった。野犬の類も居るには居るが、この二匹が有する精悍さは、何故か野犬と程遠い。
 むしろ狩人と共に獲物を追い立てる、狩猟犬に通じるものが――。
「狩れ」
 明瞭な声が、栃具の耳朶を打つ。自分は口を動かしていないし、そんな台詞を意図してもいない。
 前の犬に目を見張り、続いて後ろ。しかしそこには、しっかと四足で立つ犬が佇むだけ。
「狩れ、狩れ」
「い、言われんでも、狩っとるきに……」
「人を、狩れ」
 まるで、耳の傍元で囁かれるような音。近すぎて、どこから聞こえるのか分からない。もしかすれば、もっと、もっと近くから聞こえてくるのかもしれない。
「なして、なして人ば狩るか!? 俺あ獣さ狩るのが仕事だ。人様を撃つための矢は持たね!」
「狩りたかろうよ。たくさん、たくさん……」
「狩っても、狩っても、狩りつくせぬぞ。山の獣は、いつ尽きるやら」
「やめろ。聞きとうない!」
 弓矢を振り捨て、童子の如く耳を塞いで蹲る。
 まるで自分の胸の底が、詳らかにされるような声だ。あの犬たちの声なのか。そうだすればありがたい。だが、そうでないとしたら――。
 その声が、自分の声だとしたら。
「わしは、わしは……」
「狩れ、狩れ」
 木霊のように反響する声が、体に浸透する。まるで自分の血肉と入れ替わるように、蝕まれていく。
 喰われている。自分が、食われている。望んだとおりに、中身が跡形も無く貪られる。


●狩られても
「善からぬ事件ですよ。これは……」
 受付の青年は額の痛みを抑えるように、手を当てて顔を伏せた。
 理穴東部の山村で、謎の失踪事件が相次いでいた。確かにこれは、由々しき事態と言えるだろう。
「アヤカシだと思われるのですが、如何せん目撃者が少なくて。中には現場の近くで猟師と二匹の犬を見たというものもいるのですが、どこまで本当なのか……」
 自信なさげに、青年は開拓者を見送った。


■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
葛切 カズラ(ia0725
26歳・女・陰
千代田清顕(ia9802
28歳・男・シ
シュヴァリエ(ia9958
30歳・男・騎
賀 雨鈴(ia9967
18歳・女・弓
藍 玉星(ib1488
18歳・女・泰
田宮 倫太郎(ib3907
24歳・男・サ
浄巌(ib4173
29歳・男・吟


■リプレイ本文

●狩りの支度
 仄かに色付き始めた山が、朝の日を浴びてまだら模様に輝いている。麓の村では、朝から仕事の支度に追われる人々がちらほらと出始めていた。
 そこへ八人ほどの男女が、村の方へ歩いてくる。
 八人の男女は、それぞれに刀、杖、篭手などを備え、中には鎧を纏う者もいた。
 多様な武器防具を憚ることなく持ち出すのは、やはり開拓者を置いて他にいない。
 彼らが村に着くなり、老齢の女性が杖を突きつき歩み寄ってきた。
「あんたがた、開拓者かい?」
「はい。そうですが……」
 柊沢 霞澄(ia0067)がやんわり受け答えると、老婆は徐に手を取って言った。
「私の息子を、どうか、どうか探してくだされ」
 泣き崩れる老婆を柊沢が支え、一先ず彼らは彼女に事情を聞くことにした。
 老婆を介抱しながら彼女の家に着くと、千代田清顕(ia9802)はさっそく話を聞くことにした。
「それで、息子さんを探してくれということは、やはり失踪されたのですか?」
 老婆は何度も頷く。
「私の息子は、あの山で猟師をしとるんじゃ。いつもなら獲物をこの村に卸しにくるはずなんじゃが、ここ数日から連絡が無いんじゃよ」
 それなら、失踪と疑うのも無理はない。もしかすれば、解決に必要な手掛かりを得られるかもしれない。
「ご老人。他に何か知っていませんか?」
 シュヴァリエ(ia9958)が鎧の奥から聞く。
「他は、よう知らんのう。向いの家の旦那さんと、あと二つ隣の家の子供も帰ってこんち言うとったなあ」
 やはりこの村で行方不明者は出ているらしい。
「その二人の特徴を教えてもらえます?」
 賀 雨鈴(ia9967)が控えめに言い、老婆はつらつらと答える。
「旦那さんのほうは、野良仕事の最中にいなくなったから、そのような格好じゃ。子供は薄着らしい」
 賀はさらにその二人の人相を聞き、しかと記帳した。
「ちなみにお婆さんの息子と言うのは、どんな人相なんですか?」
 田宮 倫太郎(ib3907)がそつなく会話に加わると、老婆は少し言葉を詰まらせながらに言った。
「わしの息子は、栃具と言う。狩りの上手い子でなあ。最近はめっきり猟師が少なくなってしもうたが、それでもあの子はやめんでのう。あの山に小屋を建てて、たまに獲物を卸してくれとった。
しかしここ数日、それが無い。じゃから行方の知れんようになったものたちと同じように、何かに巻き込まれたに決まっておる」
 じゃから探してくれ。縋りつくように悲痛な声を、皆が押し黙って聞いていた。
 ただ一人に肩入れするというのでは、ギルドに依頼された手前、面目が立たない。
 だからといって、目の前の老婆の願いを蔑ろにする道理も無い。
 藍 玉星(ib1488)は老婆の手をぐっと握り、熱い視線を向ける。
「大丈夫アル。お婆さんの息子さんも、他の人達も必ず見つけるネ」
 こうした口約束を軽々しく行うのは感心しないが、皆も心意気は同じにしていた。
「あの、ここら辺で犬を使う猟師って、いないかしら?」
 犬を使う猟師。ギルドの依頼に記載されていた、犯人と思しき人物の特徴である。葛切 カズラ(ia0725)が意味深そうに言うと、老婆は首を傾げた。
「昔は犬を使う者もおったが、今の時分にそれだけのことが出来るものはおらんのう」
 そうですか、と返した葛切だったが、別に落胆したわけではない。犬を使う猟師が珍しい存在だということが分かっただけでも収穫だ。
「さて、そろそろ御暇するとしよう。他の者達からも事情を聞かねばならぬ故」
 浄巌(ib4173)が厳かに言い、皆は老婆の家を辞した。その際、老婆は懇ろに息子のことを頼み込んだ。


●いざ狩りへ
 失踪者の出た家から事情を聞き終えたころ、既に陽は天頂へ差し掛かっていた。
「行くぞ」
 シュヴァリエが短く言うと、後ろに賀が続き、他の六人が少し離れたところから付いて行く形で山道に入った。
 前の二人は、言わば囮である。防御に優れたシュヴァリエと、それを扶助する賀を配し、敵を誘き寄せる。
 無論残りの六人も、ただ敵を待つばかりではない。二人が襲われたら迅速に対応できるよう、犯人の痕跡を見落とさぬよう、警戒を怠る隙は無い。
「……あの、お待ちください」
 山道の入り口近くで、柊沢が二人を呼び止めた。
 そして控えめに手をかざすと、何やら複雑な口訣が紡がれ、柊沢の手から躍り出た光が二人を包む。
「加護があるのは一度きりです、ご無理はなさらぬよう……」
 光が収まると、柊沢はぺこりと頭を下げ、後ろの列の中ほどに戻っていった。
 一番の危険に晒されるのは、言わずもがな囮である。こうして出来うる限りの備えを施すのも、警戒の一つだ。
 警戒班の列の先頭を、千代田と葛切が練り歩く。
 猟師の罠らしきものが無いか、どこか不振なことは無いかと聞き入り、あるいは注視して警戒している。
 程なく賀は暇を持て余したのか、携えていた二胡を取り出し、歩きながら弾き始めた。
 それを見咎めたシュヴァリエが注意しようとするが、すぐに彼女の意を察し、玄妙な音を聞き入る。
 その勇壮な調べは、聞いているだけで体に力が漲る。さすがは吟遊詩人と、シュヴァリエは素直に感嘆した。
 風に乗り、警戒班の者達にも二胡の弦音が届く。そしてシュヴァリエと同じく、体に力を漲らせる。
「山歩きに、音楽は欠かせないわね」
 演奏が通常のものへと変わると、そんなふうに賀は嘯いた。
 丁度、山の中腹に差し掛かったとき、シュヴァリエが遠方に獣を見つけた。
 シュヴァリエはすっと賀の前に手を出し、残りの手を斧槍の柄に添えた。彼が警戒するのも無理はない。その目に狂いが無ければ、獣は犬の様相を呈している。
 そのままゆっくりと前進する。件の犬かもしれない以上、油断は禁物である。
 賀も周囲に目を配り、猟師か、もう一匹の犬がいないか探る。
 じりじりと近づく二人を見ても、犬は一向に反応を見せない、大人しそうに座りながら、射竦める視線を向けている。
 単なる野犬ではない。その所作、そして真っ白な毛並みが、一種の高潔を感じさせる。
 どこか腑に落ちないものを二人は感じていた。これほど立派な犬が、何故この山中にいるのか。
 唐突に犬は顎をくんと立て、天に向かって真っ直ぐに吼え上げた。それは長くゆるゆると、一直線に伸び上がってゆく。
 同じ音が、二人の真後ろからも響いた。もしやと思って賀が後ろへ向き直る中、シュヴァリエは即座に斧槍を抜き払った。
 後ろから吼え声が聞こえるのと同時して、何かが放たれるような弦の音も彼は聞き留めていた。
 遠くで何かが煌いたときには、シュヴァリエの肩辺りが爆ぜていた。
「ぐあっ!」
 その衝撃で、シュヴァリエの体は回転しながら吹き飛ばされる。
 後ろにいた賀を追い越し、道の脇に生えた木に当たってようやく止まった。
「シュヴァリエさん!?」
 驚きながら賀が寄る。シュヴァリエの右肩の鎧に大きな裂け目を見て、はっと口を押さえた。
「それより前を見ろ。矢が来るぞ」
 矍鑠とした声で、シュヴァリエが立ち上がる。右腕を動かすのは億劫そうだが、それほど支障はないらしい。柊沢の加護結界と、賀のナイトソウルのお陰だ。
「精霊さん、この人の傷を癒して……」
 いつの間に近寄っていたのか、柊沢がシュヴァリエの横に座し、淡く光る掌を押し当てる。
 じんわりと、鎧の奥に光が浸透する。
「大丈夫かい?」
 千代田が飄けた感じで聞くと、シュヴァリエはそれに答えず、顎で道の先を示した。
「あちらから矢が飛んできた。鎧を割るほどの強弓だぞ」
 それだけ聞けば十分とばかりに、千代田が前方へひた走る。
 忍刀と苦無を携え、身を低くして地を駆ける。その後を田宮、藍の前衛陣が続き、遅れて浄厳、葛切ら後衛が付く。
 狩るか、狩られるか。まだ昼の間から、激しい狩猟が繰り広げられる。


●白の狩り
 皆が猟師を追っている中、賀と柊沢とシュヴァリエは、加勢も出来ないほどの緊張に晒されていた。
 まだ白い犬が、三人を見据えている。
 これほど近ければ、白犬が放つ瘴気が匂い立つ。尋常ならざる存在だと言うことを、嫌でも思い知らされる。
 柊沢は巫女であり、賀は吟遊詩人である。前衛のいないこの状況で立ち回るのは、些か難儀というものだ。
 じりと後ろに下がる彼女らの前に、シュヴァリエが斧槍を携えて立ちはだかる。まだ右腕が心許ないが、ここは弱音を吐いている場合ではない。
 何か言いたげな柊沢に、シュヴァリエは顔を向けず先に言う。
「加護を」
 それだけで柊沢には十分だったのか。彼の背に手を当て、もう一度加護結界を張る。
「グラビティ・ロア!」
 さらに賀が、重低音を響かせる。まるで重石が乗せられたように、白犬の体が沈む。
 好機! シュヴァリエは斧槍を振りかぶり、白犬に向けて叩きつける。しかし白犬は撓めた足を一気に開放し、彼に向かって突進した。
 白犬が、シュヴァリエの首元にぶら下がる。柊沢と賀がはっと息を呑む中、彼は呟いた。
「離すなよ、犬コロ」
 犬よりも獰猛に笑い、シュヴァリエは掌を白犬の首に押し当てた。鎧を纏った手が、俄かに燐光を帯びる。
「セイッ!」
 途端、白犬の頭が爆裂した。衝撃で吹き飛んだ体は、首から先が消失していた。
 零距離からのオーラショット。武器ではなく防具を介して放つという、変則的な打ち方だったが、犬の首を弾くには十分だったようだ。
 仕留めた事を確信し、シュヴァリエが膝を突く。あとは他が猟師さえ仕留めてくれるのを祈るばかりである。


●黒の狩り
「うおっと!」
 ただでさえ頭を低めながら走る千代田が、さらに地を這うほどに低まり、飛んできた矢を避ける。
 鎧を割るほどの矢である。小さな苦無や忍刀で防ぐ代物ではない。
 そうして射撃をやり過ごし、敵の姿を確認する。それは皆の予想に反せず、猟師の姿をしていた。
「あれはアヤカシか? 人にしか見えないアルよ」
「分からん。制圧した後に確かめるとしよう」
 藍の言い様に田宮がすげなく返し、距離を縮める。猟師はその場から動こうとせず、矢も番えない。
 しかし、右の手を口に銜えていた。
「くうっ」
 途端、千代田が悶える。超越感覚を使用していたところへ、何か許容を超えるものが引っかかったらしい。
「如何なされた?」
 気遣う浄厳に手を上げて大事ないことを伝え、すかさず後ろを向いて叫んだ。
「犬笛だ。犬が来るぞ!」
 その言葉に偽りなく、間を置かずして林の間から真っ黒な犬が飛び掛かっていた。
「アイヤ!」
「だあっ!」
 藍と田宮が飛び出し、共に拳と刀を黒犬に向かって繰り出す。
 しかし黒犬はぬるりとした身のこなしでそれを避け、葛切へと迫る。咄嗟のこと、彼女の鞭による迎撃は既に間に合わない。
 あわや喉笛を噛み切られるという瞬間、黒犬の腹を鉄の塊が強かに打ちつけた。その衝撃で、黒犬はほぼ真横にすっ飛んでゆく。
 千代田の放った苦無で事無きを得た葛切だったが、その目はかっと見開かれたまま黒犬をじっと見つめている。
「あの犬……」
 葛切が顔を顰める。折角の美人が台無しだが、そんなことは言ってられなかった。
 藍と田宮を避け、浄厳でも千代田でもなく、葛切を真っ先に狙ってきた。明らかに彼女を、獲物として扱っている態度であった。
 アヤカシ風情が、陰陽師を相手に随分と舐めた真似をしてくれる。
「こいつは、私がやるよ」
 そう短く言い、葛切が懐から符を抜き放つ。
「白面九尾の威をここに、招来せよ! 白狐!」
 白煙が展開し、うねうねと形が作られてゆく。それは黒犬を大いに上回る体躯を持った狐の姿として現れた。
 犬よりも高めに吼え、白狐が威嚇する。負けじ黒犬も喉をごろごろと鳴らして毛を逆立てる。
「葛切、一合で決めるよろし?」
 藍は白狐に並び立ち、葛切を見ずに言う。
 葛切が頷くのを、藍は雰囲気のみで感じ取った。
 一足にて、黒犬に切迫する。瞬脚の勢いを殺さず、拳を突き出す。黒犬も素早く反応し、藍の脇を抜けて木を蹴り、彼女の背面へ飛び掛る。
 そのとき、何かが断ち割れるような音響が轟いた。
「破っ!」
 凄まじい震脚で地面を砕きながら、藍は背後の黒犬を裏拳で突き飛ばした。
 自分の仕事は終ったとばかりに藍は拳を戻し、残心を済ませる。
 何故なら、背後では白狐がその顎を開き、黒犬の喉笛を噛み砕いているのが、見ずとも分かっていた。
「クオオンッ」
 白狐が突き立てた牙から瘴気を流し込む。如何なアヤカシであろうとも、自分のものではない瘴気が入り込むと只では済まない。
 すぐに瘴気は黒犬の許容を越え、その体を破って爆散した。ずたずたに引き裂かれた黒犬は瘴気へと還元され、大気に溶けていった。


●狩りの始末
 田宮が矢を切り払い、千代田が苦無を投擲し、浄厳が人魂を繰り出す。
 既に間合いは切迫し、矢を用いるには不向きと思える状況の中、未だ開拓者三人を以っても、猟師一人を押さえる事は適わない。
「引き摺り足摺り這いずり慄け」
 呪文に答え、毒蟲が湧き出づる。ぞわぞわと這い回り、猟師に殺到する。
 しかし猟師は慌てず、数本の矢を束ねて番えた。
 その手から銀光が瞬くと、数秒と立たず毒蟲共に鏃が突き立つ。複数の矢を同時に命中させ、間断なく撃つ技術は、人の業とは思えない。
 射の後を狙い、田宮が背後から斬り付ける。その勢いには何の呵責も無い。
 田宮の手に、がつんと重い手応えが返される。彼の顔が見る間に曇る。
 果たして刀と鉈が鍔競り、ちりちりと火花を放つ。
「こいつは高かったんだけど、なあ!」
 田宮は体当たりをかまし、猟師を突き飛ばす。体勢を崩した猟師に、千代田が襲い掛かる。
 苦無で相手を釘付けにし、動きを止めるべく足を殺ごうとする。
 脛を狙った薙ぎが空振り、千代田はぞくりとした怖気に捕らわれる。そんな彼を踏みつけ、猟師は高々と舞い上がった。
 そうして器用に枝に着地し、猟師は三人を眇める。
「お主らに、頼みがある」
 その切り出しに、三人は身構える。
「わしを、狩ってみせろ」
 三人は、訝しげに猟師を見た。
「それは如何な意味か?」
 浄厳の台詞に、猟師はにっと笑う。
「ここは狩場ぞ。たまさか狩る方も狩られる方も、人間だったというだけよ!」
 猟師が枝から飛び上がり、旋転して真下の三人に矢を放つ。
 最早一刻の猶予も無い。猟師の身を案じていたはこちらが狩られる。
 決断してから、三人の行動は迅速を極めた。
 浄厳が掌勢で人魂を操り、降り注ぐ刃の雨を弾く。それに千代田も加わり、苦無を中空にばら撒く。
 猟師もまら苦無を弾き、向かいの木へ飛び移る。寸分違わず、彼は枝へ降り立った。
 その枝が、ズレる。
 重心の喪失と共に猟師を襲ったのは、背を断ち割る冷たい斬撃だった。
 地に落ちた猟師を一瞥し、田宮がぼつりと吐いた。
「やれやれ、嫌な事件だった」
 刀を納める鞘鳴りが、山に凛と沁み込んでいった。