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■オープニング本文 ● 今日の武天の空は快晴に恵まれ、 陰鬱とした心地で少女が一人、畦道を行く。その小さな両手には桶を抱え、時おり鬱憤をぶつけるように蹴り付ける。 桶はまだ中味が無いらしく、ぱかんと軽い音を立ててくるりと回った。 そんな様を眺めたところで、少女の顔が晴れやかになるはずもなく、腕を支点にして帰ってきたところを、また小突いてやる。 別段、水を運ぶのが嫌なのではない。重い桶を家まで運ぶのは大変だが、それ自体は顔を曇らせるほどのことでもない。 少女が行こうとしている井戸は、この辺りでは大井戸と呼ばれ、すり鉢状に広く掘った穴の中心から、さらに縦穴が掘られている。つまり水を汲むには、蟻地獄の巣のような斜面を降りていかねばならない。 何でも、この辺りは水脈が乏しいらしく、より深い場所から水を汲み上げるための工夫なのだという。しかしそんなことは、少女の知ったことではない。 少女が嫌なのは、その斜面の上り下りだ。無論、きちんと階段が整備されてはいるのだが、そこを降りていくと段々、奇妙な心地を覚えてしまう。 まるでそのすり鉢ごと、自分が井戸の中に引きずり込まれるような、危うい感覚。真実それは蟻地獄のように、井戸の底で待ち受ける何かの巣ではないのかと。 そう思ったが最後、少女はもう平静な心地で水を汲みにはいけなくなってしまった。 嫌だ怖いと親に訴えてはみたものの、そんな理由で水汲みを許されるわけもなく、少女はとぼとぼと件の井戸へと向かうほか無かった。 井戸に着くと、そこには誰もいなかった。あるいは他に水汲みにきている人がいるのではと期待していたが、そんな淡いものは叶えられず、さらに顔をうつむかせて少女は大井戸の底へと降りていった。 子供の歩幅でも不自由ない、整った階段である。しかし少女は足裏に全神経を張りつめて、一段一段、慎重に踏みしめてゆく。 こんなに怖いのは、嘘だ。底に引きずり込まれることはない。井戸に落ちることもないのだと自分の心に言い聞かせるたび、体はより緊迫し、呼吸の程が浅くなってゆく。 底に降り立った頃には、少女の息はすっかり上がっていた。その薄い頬はじんわりと赤みを帯びて、むずがゆそうに綻ばせている。怖くはないのだと思えば思うほど、口元がひきつって表情を奇妙にさせる。 あとは水を汲んで終わりだ。そしたら急いで駆け上がって、早く家に帰ろう。 誰かに背を押されるようにして少女は井戸の縁に取り付き、井戸の直上に架けられた桶を勢いよく下へ落とした。 本来は桶を傷めぬよう、ゆっくり降ろさねばならないのだが、早く家に帰りたい衝動にせっつかれている少女は、そんなことに頓着しない。 案の定、桶は井戸の壁に幾度もぶつかり、がつがつと音を立てて着水した。 桶に水は入ったかどうかも確かめず、少女は力の限りを振り絞って縄を引いた。確かめる必要はない。あんなに派手に落ちたのだから、水は入ってるに決まってる。だから見ないだけだ。 そう心の中で呟きながら、少女は一心に縄を引く。 しかしいくら縄を引いても、一向に桶が上がってくる気配がない。というより、もはや縄はびくともせずに張りつめている。 何だろう? 桶が何かに引っかかったのだろうか。それを確かめるのは、井戸を覗き込むしかない。 滑車の回りが悪いだけだ。水草か何かが絡んだんだ。壁の隙間に入り込んだのだ。 そのいずれも有り得ないことを、少女の理性は知っていた。落ちるときはきちんと回っていた滑車が、いきなり悪くなるわけがないし、井戸の底で水草が育つわけもないし、壁の隙間は桶など入り込む隙間がないほどきっちりと石が組まれている。 案外とのぞき込んでみれば、下らない理由だったりするものだ。そう言い募る理性がついに少女の直感を上回り、首だけで恐る恐る井戸の底をのぞき込んだ。 少女の思惑に反して、井戸は日の光さえも避けて通らず、ほの暗い縦穴を晒しているだけであった。 何のことはない。ただの井戸だ。ただの穴だ。 そこまで思い至って、少女はふと気がついた。先ほど投げ込んだはずの桶が見えないのである。黒い水の中に隠れているのか。縄がだらりと吸い込まれて、その先が判然としない。 興味をかき立てられて、少女はいつの間にか身を迫り出して賢明にのぞき込んでいた。 そのとき、少女の耳に聞き慣れない音が届いた。かたかた、ころころ。何かが小刻みに震えるような音だ。 自分が怖くて震えているのだろうか――そうではない。井戸を形作る石組の壁が、軋んで悲鳴を上げているのだ。 その震えはとうとう少女の体でも実感できるほどになり、彼女は思わず迫り出していた体を降ろし、へたりこみながら顔半分を井戸の中に覗かせる。 井戸の底が、競り上がる。ごろごろと獣の喉鳴りのような音を立てて、何かが上がってくる。 「ひ――」 少女は小さな悲鳴をもらし、顔を除けてその場から飛び退いた。勢いが余り、膝が抜けてすっ転ぶ。それでも地面で床を拭くように、じりじりと遠ざかろうとする。 井戸から上がってきたのは、白々と突き立つ水の尖塔だった。吹き上がる泡がてらてらと西日にきらめき、まるで宝箱が開け放たれたかのようだ。 そこにうねる水の流れがなければ、少女はそんな幸せな妄想に浸れたことだろう。 水と同じなのに、それは四肢があり、尻尾があり、胴体があり、ぎょろりと丸い両の眼を、少女へぴたりと向けていた。 しずしずと水が這い寄る。強いて言えばトカゲに似ているそれは、井戸から止め処なく吹き上がる水と、長い腹を引きずって這い寄る。 「ひい、いいい……」 もはやまともに喋れず、少女は水を避けるようにしてその場から逃げ出した。背後からは牛の声を束ねたような音が響くが、それでも彼女は止まらずに斜面を駆け上がり、走り続けた。早く家に帰って、布団に包まって眠ってしまいたかった。 いや、夢なのか。これは全部夢なら――。 「ボオオオオオ!」 少女の願いを打ち消すように、遠くから、牛のような鳴き声が聞こえた。 |
■参加者一覧
篠田 紅雪(ia0704)
21歳・女・サ
鴉(ia0850)
19歳・男・陰
九竜・鋼介(ia2192)
25歳・男・サ
ノルティア(ib0983)
10歳・女・騎
盾男(ib1622)
23歳・男・サ
朽葉・生(ib2229)
19歳・女・魔
マリアネラ・アーリス(ib5412)
21歳・女・砲
白仙(ib5691)
16歳・女・巫 |
■リプレイ本文 ●大井戸のトカゲ 武天のとある村の大井戸は、何事もないようにすり鉢上の窪地に佇んでいる。しかし、その井戸から水を汲もうという者は皆無だ。 この下に、アヤカシが潜んでいる。井戸水と共に吹き出して現れたその姿は、多くの村人が確認していた。故に恐れ戦き、近づくことさえ嫌うのは必然と言えた。 そんな大井戸を見下ろすのは、占めて八人。それぞれが見ようによっては奇矯とも言える服装を纏い、あるいは銃器や刀剣の類を携えている。 「‥‥ちょっと、変わった形の。井戸‥だね。吸い込まれる。思っちゃう、のも分かるかな‥」 ぽそりと呟いたのは、ノルティア(ib0983)。髑髏をあしらった外套を羽織り、隙間からは刀剣の柄が覗いている。その物々しい出で立ちを裏切るように、外套の上にちょこんと乗せられた顔は、まだ幼さを残す少女のものだ。 ノルティアの言葉を皮切りに、開拓者達はすり鉢上の坂を降り始める。 「貴重な水源を奪うとは蜥蜴の癖によく頭が働く奴じゃねェか。こりゃあ戦うのが楽しみになって来たぜェ〜、ヒヒッ!」 マリアネラ・アーリス(ib5412)は、さも楽しげな声音で憚ることなく言う。ギルドに来た依頼によれば、敵アヤカシは水のように透き通った、トカゲのような出で立ちをしているという。 人にとって希少な水源に住み着くとは、形がトカゲでも、やはり中身は人の敵――アヤカシであるという何よりの証拠だろう。 「なかなか変り種ノヨウデスネ。是非勝負しておきたい」 マリアネラほど露骨ではないにしろ、盾男(ib1622)も上擦った声で言った。その格好は、他の開拓者から見ても異色だった。 両腕にそれぞれ盾を掲げているのだが、腰に刀剣の類は見られない。 坂道を下り終えた彼らは、さっそく井戸の様子を窺い始めた。 「へえ。この下にアヤカシがねえ‥‥」 首を伸ばして覗き込んでいるのは、九竜・鋼介(ia2192)。いつアヤカシが襲ってくるかも分からないのに、その泰然とした振る舞いに変わるところはないらしい。 「どうだ? アヤカシはいそうか?」 九竜に声を掛けながら、鴉(ia0850)はひょいと軽い身のこなしで井戸の縁に立ち、中を覗きこむ。 そこは水というより、静謐な闇を凝り固めて溜め込んでいるような場所だった。大きく窪んだ地形のせいで、日の光も届かない。身に抓まされるほど黒く、底の知れない孔である。 「うわあ、深いです。この下から、やってくるんですね」 皆が井戸の間近で観察しているのを見て、白仙(ib5691)もつい縁によって覗いてみる。こんなところでいきなり出られたらと思うと恐ろしいが、好奇心には勝てなかったらしい。 白仙は、井戸の奥に聞き耳を立てようとして、その小さな白い耳を小刻みに動かしていた。大狸から繕った毛皮も相まって、それは傍から見れば愛らしい小動物のようにしか見えない。 井戸に屯する彼らから、少し離れた場所で朽葉・生(ib2229)と篠田 紅雪(ia0704)は様子を窺っていた。やはりアヤカシが出ると分かっていながら、あえて覗き込むのは得策とは思えない。 それにアヤカシは、その内現れることだろう。何故なら彼らは、人間のことが好きだからだ。こうして井戸の周りにいるだけで、奴らは気がつく。その嗅覚で、聴覚で、アヤカシは餌を知覚する。 そのとき、ごろごろと地面が揺れ動き出した。まるで地面の下に何かが押し寄せているようで、揺れが井戸を中心として強まってくる。 さすがに開拓者として訓練を重ねてきたものたちは、すぐさま井戸から離れ、各々の得物を抜き放った。 途端、爆発音とともに井戸から水柱が屹立した。 「出た、か‥」 篠田が小さく呟いたころには、既に彼女の体はアヤカシの直下にあった。離れようとする者達よりも、事前に備え、駆け出していた分だけ先んじた。 「セヤッ!」 柳生新陰流の初手。武器を振るう瞬間に練気を纏わせて一撃する。 それをアヤカシの腹――瑞々しいを通り越して、水そのものとしか思えないそれに、下段からの切り上げを潜らせる。 篠田の刀は、何ら抵抗なくアヤカシの体を断ち割ってみせた。 斬り様に通り過ぎる篠田は、そのとき確かに見た。腹を断たれ、平衡を失って落ちてゆくアヤカシの口に浮かんだ笑みを――。 篠田が切りつけた箇所が、勢いよく水を吹いた。それはまるで血の飛沫のように、空中にいた篠田の体を直撃した。 「ぬあ!?」 咄嗟に腕を交差して庇ったものの、勢いまでは止められず、斜面に叩きつけられる。転がり落ちる間に、何とか体を立て直すが、とてつもない水圧を浴びせられた腕が悲鳴を上げている。 「気をつけろ! そ奴、水を吹くぞ」 篠田の様相を見て、他の者達が警戒を強める。確かに斬りつけるほどの間近で、あの水流を浴びるのは御免被りたいところだ。 とはいえ、攻めないことには討伐にならない。そうした危険を受け持つことこそ、開拓者の本分といえる。 「大変‥‥今、治すの」 白仙はすかさず篠田の傍らに立ち、神風恩寵を唱え始めた。優しげな風が痛んだ箇所を包み、散り散りと痛みをかき消してくれる。 着地したアヤカシは、周りに水を伴って開拓者たちの様子を窺っている。表情の知れぬ目玉が、透明な体にぎょろりと浮かんでいる。 前触れなく、アヤカシの喉が膨れ上がった。不穏なものを感じたノルティア、盾男、九竜が前に出る。 大きく開かれた口より放たれたのは、篠田が浴びたのと同じ激流であった。 三人の、合わせ四枚の盾が、押し寄せる水を割るように押し留めた。後方には朽葉、マリアネラ、白仙、篠田、鴉が控えている。防御に秀でた自分たちが、守らねばならない。 「断罪開始ィ〜…キヒヒッ♪」 三人が激流を、身を挺して防ぐなか、マリアネラは井戸の縁に立って高い視界を確保すると、ピースメーカーを両手で包むように掲げ持ち、照星をぴたりとアヤカシに据える。 そのままマリアネラは、一発目の引き金を絞った。 短銃にも関わらず、その弾丸は、アヤカシの眼球を過たず撃ち貫いた。 「ぎゃひいいいい!」 アヤカシが声を上げて悶え、激流はすっかり消え去ってしまった。そこへマリアネラの弾丸はさらに殺到する。 小振りな割りに重い銃身のおかげで反動が静まり、激しく動くアヤカシの頭に弾丸が集中していく。 「オラァッ! せっかく気持ちよくイかせてやろうとしてんだからよォ、さっさと楽になれや!」 マリアネラがアヤカシを釘付けにしている間に、鴉が続く。 死神が描かれたトランプを手に持ち、それをアヤカシ目掛けて鋭く投げつけた。 「トカゲじゃなくて、蛇になっちまいな!」 トランプに込められた陰陽術が増幅され、それ自体が斬撃となってアヤカシの四肢を断ち切ってしまった。 鴉の予言どおり、まさに蛇のような様相となり、アヤカシが悶え苦しむ。 「魔法を放ちます。アヤカシから離れて下さい」 朽葉の声を受けて、皆がざっと引いた。アヤカシと朽葉の間を隔てるものは、何も無い。 「凍えろ、ブリザーストーム!」 口訣と共に朽葉の手掌から真白の突風が放たれる。渦を巻いて進むそれは、通り過ぎた箇所を須らく凍結させながら、水を湛えたアヤカシへと迫る。 「ギギギイイイイイ!」 魔術の吹雪が、アヤカシの水を全て包み込む。ベキベキと断ち割れるような音を立てながら、一つの氷塊がそこに現れた。 「固めました。とどめをお願いします」 朽葉の声を受けて、盾を掲げた三人が氷へ飛び込んでいく。 九竜の持つ薄手の、まるで氷のように澄んだ刀身が、本物の氷を呵責なく破断する。続くノルティアは、既に鬼神丸を振りかぶっていた。 「ん。‥‥ちぇすと‥」 彼女の細い掛け声は、自身の刀が氷ごとアヤカシを砕く音に紛れてしまった。 まだ形の残るアヤカシに、盾男が両腕の盾を差し向けた。 「盾ビーム!」 双盾から放たれたオーラショットが、アヤカシの氷の残骸を粉々に打ち砕いた。 やがて氷と共に散ったアヤカシの体は、氷が解けるのを待たずして瘴気に変換され、井戸の底に渦巻く風に流されていった。 そのとき、ノルティアは何者かの視線を感じ、ふと顔を上げた。 坂の上に、一人の女の子がいた。木の幹に必死にしがみつき、おっかなびっくりこちらを窺っている。 ノルティアは刀を納め、軽やかな足取りで少女の前に躍り出た。少女はいきなりノルティアが眼前に現れたことに驚き、その場から立ち去る機を逸したようだった。 何か言いたそうに口をぱくつかせる少女の頭に、ノルティアは優しく手を置いた。 「も‥‥怖いの、居ないから。だいじょぶ。安心、して‥‥ね?」 少女はきょとんとノルティアの顔を見、それから井戸の傍らにいる開拓者達を見た。皆も少女の視線に気づき、もう大丈夫だと示すように手を軽く振って見せた。 少女は開拓者たちに、にんまりと笑いかけ、 「ありがとう!」 と、元気な声で言った。 |