|
■開拓者活動絵巻 |
■オープニング本文 ● 白の約束。 白から始まる、 白でないどこかへの。 ● 雪国の春は遅い。毎年のこととはいえ、既に葉桜となり八重桜が盛りを迎えるころの土地からはるばるやってきた九夜には、この村の様相はあいかわらずひどく賑やかで、華やかで――あまりにもたくさんの生命の気配に眩暈さえ覚えるのだった。整備されていない、踏み均された道の端にはオオイヌノフグリがまじりっけない空色の小さな花弁をいっぱいに咲かせていたし、シロツメクサのじゅうたんがその向こうに広がっている。黄色い連翹の生垣が鮮やかに燃え上がっているようだ。世に黄色い花はいくらでもあるだろうが、この連翹の生垣の燃えるような黄色はほかでは見ない。みっしりと花をつけ、枝を伸ばし、まるで炎のように燃えるような――。 九夜は目を細めた。 こんなふうに、そんなふうに、明確にわかりやすく、確たる色を持って燃えるように鮮やかな恋であれば――それはどんなに背中を後押ししてくれるだろう。 菫がひそやかに咲き乱れ、木瓜はつるりと硬質な花弁をつけて家庭の庭先からせり出している。梅、桃、杏に桜――。辛夷に木蓮、水仙に芝桜になにもかもがまるで我先にと競うかのように咲いていた。もっと温かい土地であれば順番に咲いて少しずつ春の訪れを告げるものだが、ここの短い春ではそんな余裕はないらしい。毎度毎度、花の博覧会でも開いたかのような咲き具合に自然と笑みがこぼれるものだ。 滝みたいに流れる雪柳の枝、甘ったるい沈丁花、ひらりとおどるモンシロチョウ、見えてくる白い辛夷の花をつけた木。 その木を通り越せば彼女の家――。 (……後回し、かな) 方向転換した自分にすこし、苦く笑う。 直前になって怖気づくとは、われながらなんとも……。 かわりに艶やかな枝垂桜の庭を横切り、ひとつの家の戸を叩く。出迎えてくれた夫人に奥へ通され、村長と面談した。 昨冬ある開拓者から提案された、廃村への「庵作り」の件である。九夜から村長へ伝えた際、検討したい、と返事を返されていた。 「魅力的な提案です」 村長はそう前置きをしながら、続けて問題点を挙げていく。建設費、材料費、維持費……管理の問題。冬の間あの廃村へは容易に入れない。しかし放置すれば雪の重みで庵が壊れる。今は柵がついて安全度は増した一本道だが、雪下ろしへの行き来が命がけになることには変わりない……。何より問題なのが冬季の管理維持問題であろう。 「現実的ではない、と?」 「いえ。その危険と労力に見合う収益があるとわかれば」 内心舌を巻いた。こんな辺鄙な村の村長をさせておくにはもったいない。きちんとリスクリターンの計算ができている。もっとも、そうでなければこの貧しい土地で村人を生きながらえさせるのもできないのだろうが。 「その話は置いておきましょうか。われわれも春先は忙しいし、やるとしても村の予算を個別に組まなければいけません。どうなるにせよ気の長い話です。それよりあなたに確認したいことがあります。 十瀬をどうなさるおつもりで」 思わず息を呑んだ。 「あの子ももういい年です。遠縁ではありますが親戚筋から、婿をやってよいという話が出ている。十瀬には話していませんが、雰囲気くらいは察しているでしょう。 われわれには町の人間の考えることはわかりません。本気でないのならそう言って頂きたい。本気であれば、さっさと娶って連れて行ってくださいませんか」 ● 縁側の障子に張り付いていた子供二人は、顔を見合わせるなり頷き合ってとんずらした。やがて村の奥から伸びている、崖の中腹を削り取ったかのような一本道にて隣り合わせに座った。今お互いの「子分」はいない。この村の女の子代表と、男の子代表――つまるところガキ大将二人の、「首脳会議」というやつだ。 「十瀬、お嫁行っちゃうのかー」 「そーゆートシゴロってやつだもんね。十瀬ちゃんは九夜さんのコト好きなのに。村長のじーちゃん意地悪ー」 ぶらん、と崖の淵から放り出した足下から、桜の花びらが風で舞い上げられてくる。今年もいい天気だ。今年も、きれいに桜は散るだろう。空の青色にとけるように舞い上がり、そしてまた谷底へ向けて舞い降り、また巻き上げられて、そういった繰り返しをしながらそのうち谷底へ降り積もる。 「しゃーねーんじゃね? いきおくれ、はよくないってゆーぞ」 「九夜さんがさっさとギョクサイしてくれたらいいんだよー! そうすれば円満解決!」 「ギョクサイはちげーと思う」 「だっけ?」 色恋どころか世界にあふれている言葉の意味もまだまだ知らない。やせっぽちの足をぶらぶらさせて、二人は小さな頭をひねった。 「そーだ! 一花、そろそろ開拓者も来るころじゃんかよ! 聞いてみたらよくね?」 「えー。あんま歳変わんない子とかはやっぱりわかんないんじゃないの?」 「バカだなー、大人のねーちゃんとかにーちゃんとかおっちゃんとか来るじゃねーか。ちっこいのだって、外出てシゴトしてんだろ。畑ばっかり相手にしてる俺らとはケイケンってやつが違うかもしれないって!」 「そーゆーもんー?」 「そーゆーモンだって、多分。何はともあれ当たって砕けろ、ダメモトだ! 村の前で開拓者、待ち伏せるぞ!」 「じゃ弟たち動員しとくー」 「俺も友達誘ってやるから。お互いガンバろーな!」 かくて。 お花見に向かったところ、なぜだか子供たちが見え見えの待ち伏せをしていたのであった。 |
■参加者一覧
晴雨萌楽(ib1999)
18歳・女・ジ
ウルグ・シュバルツ(ib5700)
29歳・男・砲
ヴァレリー・クルーゼ(ib6023)
48歳・男・志
玖雀(ib6816)
29歳・男・シ
祖父江 葛籠(ib9769)
16歳・女・武
トラヴィス(ic0800)
40歳・男・武 |
■リプレイ本文 ● ふわりと揺れた赤い髪が、今年も村を彩った。モユラ(ib1999)である。 「この先だよ!」 手を引っ張った子供を、逆に引っ張って進まないようなだめる。 「おまじないはね、人に見せちゃダメなんだよ。だからこっそり、ね?」 そう言って一枚の符を取り出す。興味津々覗き込む少年の前で練力を流し込んだ。みるみるうちに符は膨れ、緑色の小さなメジロへ姿を変える。わぁ、と子供の顔が輝いた。 「で、これを括れば…あとはよろしく、ネ」 足に細く折った短冊を結び、メジロは翼を広げて舞い上がった。垣根を越えて飛んでいく。 「これだけで…大丈夫」 あの冬の約束がまだ霞んでいないのなら、きっと。 ――雪がとけたら。 白の約束は、きっと果たされる。 「後は信じて、待つだけさ」 ぱちんと片目をつむって、モユラは一本道へと向かっていった。 ● 事の起こりは、村に入ったころだった。 (あれから三ヶ月…) 祖父江 葛籠(ib9769)はあたりを見回した。なにもかもを呑み込む白はまるではかなく消え去って、ふわりと柔らかな薄紅色のじゅうたん。その変貌に目を細める。 (試練を耐え忍んで、乗り越えた先には、必ず幸せは芽吹くはずだよ) 前方で、なんだか人だかりができていた。子供が大人にたかっているようだが…、大人は二人。どちらもジルベリア風のガウンやローブ姿で、簡易ではあるが武装している。さらに言うなら銀髪の男性には見覚えがあった。金の指輪をした、魔術師風の男性は初見だと思うが…。 「手伝ってー!」 「かんがえてー!」 「助けてー!」 「は、話す時は一人ずつ順番に話したまえ!」 ヴァレリー・クルーゼ(ib6023)がきゃいきゃいとやかましい子供たちにガウンを引っ張られつつ声を張り上げた。トラヴィス(ic0800)などは完全に呑み込まれていて、ちびたちによじ登られている。抗う気もなさそうだ。 「どうしたの?」 声をかけるとひとりの少年が、きらりと目を光らせ葛籠の腕にしがみつく。 「若いねーちゃん、確保!」 「な、何?」 目を白黒させていると、今度は女の子の方がきらんと目を底光りさせる。 「標的発見! 突撃!」 一部の子供がわっと動いて、葛籠が振り向いたときにはウルグ・シュバルツ(ib5700)が捕獲されていた。しかしもんぺ姿の通行人は被害にあっていない。明らかに開拓者に狙いをつけた犯行である。 「この人いっつも九夜さんといる人だ!」 「マジか! お手柄だな、一花!」 「いや…確かによく来るが…なんなんだ?」 とまどうウルグ、よじ登られかけて腰に負担のかかるヴァレリー、がっつり捕まったままの葛籠、そして。 「役に立つかはともかく私で良ければ。その代わり飲み物を頂けませんか」 飴玉でそうそうに懐柔するトラヴィスであった。 「何々? これ、どんな状況?」 最後にぷらっとやってきたモユラは、はっとした一花にすぐさま腕を捕まれる。 「このお姉さんもだ! そっちの白髪のおじさんも見覚えあるかも…!」 「銀髪だ!」 「九夜さんがギョクサイしないとだめなの! なんか教えてください!」 即座に突っ込んだヴァレリーにひるみもせず、一花はどうどうと間違えた。 ● かくかくしかじか。単語を間違えたり話があっちこっちに行ったり語り手がころころ変わりする話からどうにか事情を把握して、ヴァレリーははじめて気づいた。 「む…あの二人の間はそんなことになっていたのか」 つきあいは長いが個人的なことにまで介入してはいない。一方モユラはくすくすと、困ったような予想通りでおかしいようなしょうがないような、そんなあたたかな笑みに満ちていた。 「そりゃ大変。ここは一つ、恋のオマジナイでも必要かしらん」 「できんの!?」 「まっかせなさーい」 ウルグは視線を地面に落とす。 「俺から、口を出せるようなことは…」 えー、と素直な不満の声があがる。 (…考える時間が必要なら、少し廃村の方に誘ってみるか) とはいえ、明確な解決策を提示できるわけではない。葛籠は子供たちをなだめる。 「村長さんは、九夜さんの曖昧な態度がもどかしくて、はっきりさせたかったのかもね。 だけど、九夜さんは大丈夫だよ。 迷うのは優しいから…大切な人を幸せにする自信が持てないから。 でも、九夜さんは「やればできる男」なんだよ。 思慮深いから、歩みは少しづつかもしればいけど、着実に積み重ねていける人だって。あたし信じてるよ」 見上げてくる子供たちにこんこんと語って聞かせる。子供に苦手意識のあるトラヴィスなどはそれをいいことに距離を置いているのだが、話などわからぬようなちみっこにべったり張り付かれていて逃げるに逃げられない。 (…面倒な事になった) とはいえ、話自体はもっともなことである。 「男女の機微など私が言えた義理ではありませんが」 「きび? だんご?」 「二人で話し合う場を設けてはどうでしょうか」 それが一番、手っ取り早い。 ● そしてようやく話は冒頭へ戻る。モユラは大丈夫だよと笑ったが、今までのあれこれを思うとウルグやヴァレリーは放置もしづらい。というか、「赤毛のお姉ちゃんはおまじないしてくれたけどこの人たちは何してくれるんだろう?」というきらきらした視線も痛い。むろんモユラほど気の利いた演出などあるわけもないので、とうぜん正攻法になる。しかしこれはこれで「ジンセイケイケンってやつだな!」なんて無駄に期待をかけられていた。子供らの期待している方向からずいぶんズレた経験ばかり重ねてきたトラヴィスなどはわずかに顔をしかめたが、人当たりのいい葛籠はにこにこと手を振る。 「じゃ、ちょっと九夜さんと喋ってくるからね」 「おう、よろしくなー!」 「きょーつけてねー!」 子供たちに見送られて、メジロの飛んでいったほうへ行く。ちょうど九夜が村長宅から出てくるところで、手に紙を持っていた。挨拶を交わし、ヴァレリーはたずねる。 「庵の件を村長に持ちかけてくれたそうだな」 「…どうしてそれを?」 あ、と思ったときにはもう遅い。後ろで覗いていたガキ大将二人を九夜は見つけ、なるほど、と笑う。そういうことだ、とヴァレリーも肩をすくめた。 「金銭と管理の問題か…。 廃村に誰かがまた住んでくれれば、管理の問題は何とかなりそうだが、そう簡単にはいかんのだろうな」 「痩せた土地ですから、好き好んで住みたがる人もいないでしょうし…」 「良い案がないか私も考えておくとしよう」 「ありがとうございます」 (庵か…) ウルグもつられて考える。 「冬場に人手が必要ならば、引き受けるところだが。 定期的に雪を下ろす必要が出てくるとそれでは足りない、か。 冬場は開拓者を伴っての一夜の宿とする程度なら、最低限を残し引き払う形を取っても問題ないようには思うが…」 言いながら一本道を渡り、ウルグは目を細めた。 「今年も…この景色を見ることができたな」 この土地も、ウルグも一年無事だった。冬にばかり来ていたヴァレリーも目を見張る。蔦が這い苔むした壁、手入れする者のない庭…。 その軒先にお邪魔すると、つられて九夜たちもやってきた。 「見る者が居なくなっても、変わらず花は咲く、か」 ほんの数年前までは、ジルベリアのあの家に住んでいた。妻が丹精していた庭の花。すみれ、ラベンダー、プリムラの甘い香り…。勿忘草の可憐な青。 主がいなくなり荒れ果てた庭で、きっと今年も花は咲く。きっと今年も、見事に。 (この美しい場所を妻に見せたら、どんなにはしゃいだことだろうか) 「…ここの花々を見ていると昔住んでいた家を思い出す」 ぽつり、ヴァレリーは口に乗せた。本物のメジロだ、と葛籠があっちの木瓜へ寄っていき、トラヴィスは向こうで花を眺めている。ウルグも礼儀正しく距離を置いて鶴を折っていた。 「妻が植えた庭の花が見事でね。 その妻は数年前に亡くなり、私は今や男やもめというわけだ」 優しく、できなかった。 きっと望んでいただろう優しい言葉を、今際の際にさえ…。 「私は妻を亡くして以来、誰かに対する自分の気持ちや言葉を見失った時は「もしも明日、相手と二度と会えなくなったら、自分は今のままで後悔しないだろうか」と考えることにしているのだ。 そうすると見栄や気兼ねや、その他の雑音を排した自分の気持ちをシンプルに見つめることが出来るような気がしてね。 まあ、年寄りの戯れ言だ。聞き流してくれて構わんよ」 「いえ。…ありがとうございます」 ゆるく首を振る九夜。話が終わるのを見計らったかのように、葛籠は振り返ってそうっと手招きする。二羽のメジロがチーチーと鳴いて枝を飛び移っていた。 「こんなに近寄っても逃げないんだよ。かわいいよね。 こんなふうに、安心した、不安のない穏やかな未来は約束されていないかもしれない。けど」 緑色の目がきらめいた。 「逃げていたら、一生幸せを捕まえられないよっ」 メジロは木瓜の枝を飛び移って追いかけっこしている。近づいて、遠のいて、花をつついて、また近づいて。 「十瀬さんも、きっと不安で哀しい気持ちで冬をずっと過してきたと思う。 今まで、十瀬さんにも九夜さん自身にも、気持ちに嘘をついてたこと。不安も何もかも、一切合切、包み隠さず白状しちゃって…。 真っ直ぐ向き合ってみて」 だってそれは、決して九夜一人の問題ではない。 「十瀬さんは、約束された未来がほしいんじゃなくって、あなたとの「今」を過ごしたいんだと思うよっ。 家のこととか、問題点は、二人で一緒に…きっと解決していけるよ。だから、踏み出してみて…」 だってそれは十瀬の人生でも、あるのだから。 ● 先に石碑の前で待っていたモユラは、しかたがない、とでも言いたげな受容の困り笑いで彼らを出迎え、何を言うでもなく場所を譲る。 花と酒の供えられた石碑と墓に黙祷して、ウルグは黙々と手入れを始める。今かけられた言葉のあれこれを消化する時間も必要だろうし…。 九夜もそれを手伝い、ざっと片付けて石碑の前に並び立った。数多くの、名前。 「彼らが手にすることのできなくなったものを…彼らが為せなかった分まで、繋ぐことができれば。 そう願いたいが…難しいものだな。 アヤカシ退治の他で俺ができることは、ほんの手助けでしかないのだとも思う。 …それでもあの村は、色を取り戻してくれている」 何度雪に埋もれても…。 何度白に呑まれても。 道案内を口実に、トラヴィスは九夜を連れ出していた。一本道を戻って、花吹雪の中を進んで。 (死者は何も語れない。その心を代弁するなどはおこがましい。 生者は死ぬまで生きて幸せになれば良い。弔いの心を忘れずに) 縛られることなく、さりとて忘れることもなく、誰かの死を振りかざして大義名分にすることもなく。 「花を育ててご覧なさい。種を蒔かねば咲きようがありません」 人の心もまた然り。 白い辛夷の木の下で、十瀬が振り向く。 九夜が手にした文を強く握った。 ● (天儀は暖かいと聞いたが場所によりけりか。 今時分に桜が咲くならジルベリアとあまり変わらんな) 一通り歩きながら、トラヴィスは故郷を思った。廃村にまた戻り、山を降り、谷へ下って。 吹き上げる花吹雪。冷たくはない、純白でもない、けれど。 ――白に咲く紅、灼熱感、鉄のにおいと熱い痛みとすべてを奪う白い闇。 「ちがう」 声はかすれてひび割れていた。右腕をさする無意識の左手。吹き上げる風とはためく外套。 「すべては今更だ」 過ぎ去り、行き過ぎ、終わってしまったことだ。 (また、一年経ったな) モユラは待っていた。踏み出す先を見失った、そんな迷いはもう消えた。なにもかもが思うとおりではないけれど…。 (道を選ぶは、求むまま…) きっと本当は、自分も必要な言葉だったのだ。 「…九夜さん達、遅いな」 ぼそりと呟き目を閉じる。太陽がその位置を変えていく。はらはらと散る桜、沈黙する石たち。 肌寒くなり、光と熱を感じなくなり、輝く蝶を呼び出した。ひらひら、きらきら……、維持するための力を注がれなかったそれは、消えて。 ――どれくらい、そうしていただろう。 慌しい足音。ゆれる提灯の光。駆けてくるひと組の、 「お待たせ、しました……!」 かたく繋がれたその手に微笑み、モユラはもう一度あの蝶を呼び出した。 ● 揺れる提灯が闇路をまあるく照らし出していた。ぼうっとした橙色の光の中で、玖雀(ib6816)は山道を下る。橙色にほのめく腐葉土の地面は、無数の花弁で覆われていた。 風が吹く。 花が舞う。 一度地面に落ちてもなお風は花弁を吹き上げて空高く遠く透き通った闇空の彼方にもう一度。 あのときは白かった、白くて白くて白いだけだった、哀しいほどただ白いだけだった世界はあまりにも命に満ちていた。 ――また、春が来た。 冬は行き過ぎきらめく若々しい命に満ち溢れた春は来た。来てしまった。残酷に、無常に、正確に――当たり前に。 踏み込んだ谷底は、満開の桜の花を枝いっぱいに咲かせている。赤いがくから広がる淡く透き通るような花弁。 そっと、そうっと、大事に壊さないように――いとおしげに手を伸ばした。 風が吹く。 花が散る。 長い指をすりぬけて空高く闇の彼方へ見えなくなる。 ぎくりと強張った指が肩が揺れた提灯のほのかな光が。 ――震える背中が爪の食い込む掌が。 いない。 いない、いない、いない。もういない――どこにも。あっけなく、あっというまに簡単に、いともたやすくこの手をすりぬけていった、 ひと。 その足が紅葉鮮やかな道を踏むことも、その手が降りしきる花弁を掬うことも。 これからのそんな季節を共に歩んでくれることも、なく。 満ちたり、満ち溢れ、手の中に大切なものがあったときには世界はただ美しく輝かしく素晴らしいばかりだった。どんな苦難も苦労も、すこしも苦ではなかった。 でも今は。 生きている、呼吸をしている、存在している、ただそのことがひどく。 唇は笑ったはずなのに、すべては苦く歪んだ。 風が吹く。花は散る。 髪がなにもかもを隠して黒く。 火がゆれる。風が吹く。花は舞い散り外套の裾が強くはためいて。 星が動く。時は過ぎ、冷えた指先をぎこちなく動かした。 取り出したのは一本の黒い髪紐。使い込まれた髪紐。あの日から、長らく箪笥の奥へやったままだった。 捨てられなかった。 燃やせなかった。 風が吹く。 巻き上がる桜の洪水。 花を散らしたあの枝に、その髪紐を結えつけた。 いつか、 いつか命にきらめく花を正面から、青空の下で――笑って見られる日まで。 (今はそんな日が来るなんて欠片も思えやしねぇけど) いつか。前を向いて踏み出せるように。もしもこのこの空っぽの中身が何かで埋められることがあるのなら。 (本当に微かな希望を) 来るかもわからない未来を、託した。 |