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■オープニング本文 ● 秋の終わり。白髪の女は約束どおり工房に来る。 木屑のひとつもない工房はがらんとしていて異様だったろうに、彼女はただまっすぐに稲城を見つめた。 「稲城。預けていたあの刀だけれど」 「……悪い。時間がかかってる。もう少し待ってくれないか」 色の薄い目がじっと稲城を見つめた。感覚のない手が汗ばんでいる気さえする。 「……そう。最近調子が悪そうに見えたけれど」 「少し……少し、な」 沈黙。ふと目が伏せられた。 「いいわ。あの子は個人的な依頼だもの。あなたのこれまでを考えれば待っても構わない」 ただし、と彼女は付け加えた。 「今回だけよ。次の依頼で遅延したら二度とあなたには頼まない」 「わかってる。……恩に着る」 ふん、と鼻を鳴らしてくるりと背を向け、愛想なく立ち去る後姿。 その目が一度も自分の右手に向けられなかったことに、稲城は気づいていた。 ● 薬研で薬草を挽く音。草のにおい。束ねた波打つ赤毛が揺れる。 短く切りそろえられた爪は綺麗に手入れはされていたが、それでも染み付いた緑や紫の色が沈着していた。 「暮谷に……気遣い、させちまった」 ぽつり、と呟いた。一度手を止めて、何事もなかったかのように深喜はまた薬研を押す。 「……匂霞は配慮のできない人ではありませんよ。配慮する場所が他と違うことが多いけれど」 そうだろうな、と稲城は思った。いや、知っていた。付き合いは長い。 「二度目はない、とよ。……もう一度俺と仕事するつもりだって言ってくれた。これに気づかないはずねぇのにな……」 動かない右腕をさする。血行が悪くなって青白く、筋肉も落ちて痩せていた。 気づかないはずがない。匂霞は一度もこの手を見なかった。丁重に見ないふりをして、気づかないふりをして、とてつもなくわかりづらい言い回しで再起を祈って。 まだ拙かった頃の匂霞を知っている。出会ったころは小さな女の子だった。いつのまにかいっぱしの職人になっていた。 「暮谷の信頼を裏切りたくねぇんだよ……先生」 これは見栄だ。後進には見栄を張りたい。匂霞の努力は見ても、自分の努力や苦しみなど見せたくは。 「暮谷の信頼だけは裏切れねぇよ……。暮谷の好意にだけは甘えらんねぇんだよ……! 頼むよ先生、少しだけ、少しの間だけ手が動けばいい。預かったあの一振りだけ、最後の一振りだけ仕上げられたらもういいよ。治んねぇのはわかってっから……! なんとかなんねぇか……!」 手が止まる。赤い睫毛が伏せられる。 沈黙。 薬研にかけられた手だけが細かく震えていた。 ● 「先生」 翌日、再び深喜を呼び出した。赤い髪に縁取られた顔はどこか青ざめて見える。翡翠色の目だけが真摯にまっすぐに稲城を見返していた。 「どうされました」 「先生。……維安(いあん)を知ってるかい」 「いえ……」 「そっか。……そうだな、先生は畑違いだからな……。 俺の兄弟子なんだ。もうずっと前に町を出て行った」 「……染否を厭って?」 「ああ。合わなかったんだろうな。でも俺宛の依頼を他に任せるとしたら、維安しかいない」 鞘袋に入れた一振りとはばきを差し出す。まだ白鞘しかついていない刀。その白鞘も匂霞がつけたものだ。研ぎに特化しすぎた匂霞の白鞘は二流品の枠を出ない。 『お前、いつも鞘師が近くにいるわけじゃねぇだろ。白鞘くらいもっとちゃんと作れ』 『鞘作りに労力かけたくないの。わたし、研師よ。だいたいあなたがあとでちゃんと鞘を作るでしょう。わたしが上達する意味がどこにあるというの』 心底めんどうくさそうに。 わかりにくい信頼。自分で弟子を育てなかったことを、これほど後悔するとは思わなかった。 「はばきはもうできてる。紹介状も入れといた。……そんなんなくても、維安なら依頼受けるだろうけどよ」 「稲城さん……!」 翡翠が揺れる。稲城は笑った。 「そんな顔すんな。先生、あんたはよくやったよ。 俺も暮谷もわかってる。……俺たちは万能じゃない。天才でも救世主でもない。人生にゃ色々ある。……そんだけだろう?」 「……はい」 「暮谷によろしく頼む。最後の依頼、できなくて悪かったって伝えといてくれ」 「……はい」 「薬師のあんたにゃ辛いだろうがよ」 「いえ。……私は、染否の薬師ですから」 「そうか。……そうだな。 ああ、維安のとこはさ、場所が場所だから。護衛、雇えよ」 「はい」 「あんたが話してもいいと思ったら、その護衛と維安には俺のこと話してもいい」 「……いい、んですか」 「最後の仕事、預けるから。そんくらいはな。 じゃあ、頼む」 薬品の色素が染み付いた手が、その一振りを受け取った。 刀なんて不釣合いな、華奢な薬師は深々と頭を下げる。 赤い髪が遠ざかるのを見送ってから、稲城は墨を磨った。文面は簡潔でいいだろう。染否の人間であれば大抵、こういうことには慣れている。――よくも、悪くも。 稲城は紙と筆をとり、左手で遺書を認めた。 ● 「護衛を。お願いします」 赤毛の薬師がギルドを訪れた。 鞘袋に入れた刀を一振り。姿勢のよい立ち姿。 「私の命と、私の患者の願いを預かってくださる方はいますか」 河野深喜はひとつの依頼を望んだ。 |
■参加者一覧
匂坂 尚哉(ib5766)
18歳・男・サ
藤田 千歳(ib8121)
18歳・男・志
ディラン・フォーガス(ib9718)
52歳・男・魔
弥十花緑(ib9750)
18歳・男・武
御火月(ib9753)
16歳・男・武
鬼嗚姫(ib9920)
18歳・女・サ |
■リプレイ本文 ● それは脆い相手だった。 練力を帯びさせた虎徹を二度も振るえば、斜線上にいた二匹の鬼火は掻き消えるように姿を失う。気配を探り、それから藤田 千歳(ib8121)は静かに刃を鞘におさめた。 振り返ってひとつ頷きを送る。弥十花緑(ib9750)と深喜を中心にした仲間たちが警戒を緩めずに進み、その先頭を千歳が歩いた。 敵は散発的に現れ、無作為に襲撃してくる。あるいは彼らのうろうろしている中に突っ込んでいっている、というほうが正しいのかもしれない。知能らしき知能が見えない鬼火にくらべると幽霊はいくらか考えるようで、何かを守っているらしき花緑を集中して狙うこともしばしばあった。 とはいえ幽霊も鬼火も、一行にとっては取るに足らない相手だった。呪声は避けることもかわすこともかなわないとはいえ、術への耐性がそこそこある面々にとってはうっとうしい程度の威力しかない。 とはいえまったく気は抜けなかった。避けようのない攻撃はダメージが蓄積されやすく、一般人は一撃だけで命にかかわりかねない。ぴりぴりと気を張る中、雪に反射する光から割り出した鬼火へディラン・フォーガス(ib9718)が一筋の光を放った。足を取られかねない道なき道を御火月(ib9753)が駆け抜け、切り伏せる。脆くも潰えた瘴気は大気にとけて消えていった。 その方向を御火月に任せたまま、千歳は前方方面に気を配って進んだ。空や物陰へも気を配ってゆく。 自分ならどうするだろう、と自問した。 もし剣を振るうことができなくなったなら。 (それでも俺は、戦う事を止めないと思う) この手を失っても。目を足を失い立つことさえできなくなっても。 ――尽忠報国の志を持ち、天下万民の安寧の為に己が武を振るうべし。 掲げた理想は潰えない。目指した志は変わらない。 その理念は失われない。 たとえ手を足を目を失いこの身に宿るすべての力をなくしても。 浪志組の理想であり、自分自身の理想は消えない。剣がなくとも目指すことができる。不便はあるだろう。でも。 (俺には理想を同じくする仲間が居る) 共に歩み、共に戦い、共に同じものを目指す仲間がいる。千歳にとって、武とは手段であり目的ではない。戦う自分を望んだわけではない。武力を人生の中心に据えたわけではない。 師である祖父から受け継いだ技を振るえなくなるとすれば、寂しさも覚えるだろう。 それでも。 (仲間と一緒ならば、俺はきっと大丈夫だ) 手にした力を根こそぎなくそうとも、胸に宿る理想は潰えない。 同じ理想を目指す仲間がいれば、折れることなどありはしない。 そうはっきりと認識する一方、千歳はそれが、「生きる目的と手段が違う」からだと知っても、いた。 もしそれが同じであれば。生きる意味が戦うことで、生きる理由が刀を振るうことで、生きる目的が前線に立ち続けることであれば。 もしそうであれば、その力を失うことは想像を絶するほどに心を締め付けるだろうと。 ――自ら命を絶ちかねないほどだと、推し量れる想像力が千歳にはあった。 (……まさか、な) 鬼嗚姫(ib9920)の咆哮が轟く。 「さあ……こっちに、おいで……!」 大きく踏み込んで幽霊に大鎌が振り下ろされた。袈裟懸けにばっさりと切り捨て、その大振りの動作からすぐさま刃を反して切り上げる。あえなく瘴気と化すものにはもはや目もくれず、後続の鬼火が振り撒く火の粉を振り払う。じゅっと法衣の袖が焼け、腕に小さな火傷を作った。鬼嗚姫が声をかける必要もなく、匂坂 尚哉(ib5766)が彼女の脇をすり抜ける。迷わずそれを尚哉に任せたまま、他の敵影を探すと共に地面に気を配った。 轟く咆哮。鬼火の注意が尚哉に向いた刹那、間合いを詰めるその勢いを乗せたまま、魔剣を降り抜いた。 火花が散る。雪は薄い。白くなってもいない枯葉の端が焦げていた。 尚哉が鬼火を葬ると、鬼嗚姫は岩清水を垂らしておいた。 「燃えてしまうのは……可哀相……」 ● 深喜に会ったとき、尚哉は尋ねてみた。 預かりものの命はわかるけれど、願いはなにか、と。 深喜は包み隠さず事実を答えた。憶測は交えず事実だけを。尚哉は気負いなく言った。 「ま、こうして受けたんだ。 内容が何であっても守って見せるぜ」 「……はい」 「その辺りは安心してくれな?」 にっと笑えば少し困ったように、でも嬉しそうに依頼人は笑顔を返した。鞘袋に入れられていては中身を見ることはできないが、深喜が何度も持ち直すのを見てそれを預かる。 「山に入ってからはいつ戦闘になるかわかんねぇから返すけど、それまでは持っててやるよ」 「あはは……。すみません。どうにもこう、鉄の重さは慣れなくて」 「遠慮すんなって、これくらい」 「何気にとても助かりました」 「おおげさな」 笑いあう耳に、小さな声が届いた気がする。 「……どこか、悲しいように……見えるわ……」 感情をあまり込めない淡々とした小さな呟きがほんとうに聞こえたのかどうか、尚哉には判然としなかった。 深喜は聞こえていないようだったし、鬼嗚姫も表情を変えず、そして、それはとても微かな声だったから。 そのときはわからなかった。けれど、後に思ったのだ。確かにその声の言うことは的を得ていたのかもしれない。 深く深く、心のずっと底のほうで静かな悲しみが流れていたのかもしれないと。 ● 「俺らがお護りします。ですから先生、その『願い』は手放さんとお願いしますね」 肯定の相槌を確認する間もなく、花緑は周囲に視線を滑らせた。山に入って間もなく、横合いから尚哉が呪声を受けたのだ。敵影は確認できず。 「ちょっと離れる。周囲、気ぃ配ってくれ!」 尚哉の言葉にその方面へ意識を多く裂きながら警戒した。 ――笑ってください。 その言葉が耳に残って離れない。 そんなふうに、そんなふうに自分にまで心を配ってしまったら。 ――あのやさしい人自身のぶんがなくなってしまう。 いらないのに。そうしてもらわなくても、案じてもらわなくても、なにも問題ないのに。 (……早く、) それでも表情はいつも通りに、がんと脳裏に響く呪いの言葉に耐えた。 鬱陶しいだけ。煩わしいだけ。傷ついているとしてもほんのわずかで、大事に大事に手当てするほどのことでもない。現に深喜は何も言わなかった。心配そうな視線ひとつ感じない。きちんと花緑の影に隠れて、小さくなって黙っている。 そう、これが自分の正しい立ち位置だ。 「五体! 幽霊二、鬼火三! 幽霊はこっちで引きつける、鬼火担当できるか!」 「いきます」 御火月が静かに応じた。ディランがたずねる。 「範囲攻撃はいるか」 「そこまでの数でもない、弱いしいける」 長いみつあみが木立の向こうに消えた。 ● 中腹にあるその家をたずねると、維安は手紙より先に渡された刀を見た。 「久しぶりに見たぜ。暮谷流。相変わらずの腕だ。刀工は……わかんねぇな、誰だこりゃ。腕はいいもんだが」 「へぇ。そんなに?」 「ほれ。小板目肌がよくつんでるだろ」 懐紙を咥えて尚哉は渡された刀を抜いてみる。一通り眺めて刀をおさめて返すと、深喜が口を開いた。 「鞘師稲城の依頼です。最後の鞘を完成させられない。あなたに任せる、と」 沈黙。そして。 激昂。 「……ってめえ!!」 深喜の胸倉を維安は掴みあげた。苦しげに眉根が寄せられる。尚哉と千歳が維安を引き剥がした。 「やめろ!」 「相手は一般人だ。むやみに武を振るってはいけない」 せき込む音。まさかと思った予想がどこかで形になるのを、千歳は感じていた。 離れたところに佇み、鬼嗚姫も悲しみの理由がここに流れているのだと、その流れを察する。 (戦う力……無くなるのは、嫌……。 きおは……兄様の為に、戦わないと……) 兄のためにできることを失うなんて、そんなの耐えられなかった。 あのとき鬼嗚姫を認めてくれたのは兄だけだった。兄だけが鬼嗚姫を見出してくれた。だから兄のために生きることが存在理由で、そのために戦うことが鬼嗚姫のすべてだった。 鬼嗚姫という存在の輪郭線をくれた人。骨組みをくれた人。生きる理由も戦う理由も命を賭ける理由だってすべてが兄のためだ。役に立ちたい。力になりたい。今度は自分が助けたい。このすべての力を使って。 (きおが出来るのは……それだけだもの……。 無くなってしまったら……戦えなくなったら……きおは……。 どこに、行けば……いいの……?) 行き場所なんてないと、思った。迷い出てしまったら、たどり着く場所なんてひとつしかなかった。 「……きっと……死んでしまいたく、なるのだわ……」 口の中で小さく、呟いた。 わずかに眉を顰めたまま、花緑は黙して落ちた手紙を拾う。 「そうか……そうか。さすが染否の連中だ。何も知らせずにここへ連れてきたんだろう! お人よしが一人でもいれば染否に行くと言いかねねぇから! だから黙ってたんだろ……!? 稲城が自殺すると知りながら!!」 なんで止めなかった、と、維安はなじった。 そばにいたのに、止められたのに、どうしてただひとこと、生きてくれとそれさえ言ってくれなかったと。 批難の言葉を聞きながら、ディランは静かに目を閉じた。最後の依頼だと、言った。 衝動ではないだろう。考えた末の結論なのだろう。稲城のことを、ディランは知らない。概要は知っていてもそれは会ったこともない赤の他人についての知識でしかなく、その苦しみも決意も、そして命の処断も本人のものだ。 「なんで生きてくれなかった、稲城……!」 そばにいたなら、どんな手を使ってでも生かしたのに。生きられないというのなら、死に物狂いで治療法を探したのに。 尚哉は唇を噛む。押さえた腕からその絶望を感じ取る。 ディランも諦めずに生きてほしいと思った。酷なことだとも、思いながら。 (生きる目的は人によって違う) 意地と矜持。 (それを受け止めた深喜に、第三者が口を出すことも烏滸がましい) 頭ではわかっている。理解している。でも感情まで追いつかなかった。他に手はなかったのだろうかと、どうしても、考えた。 だから、維安の言葉が痛いほどよくわかった。たったひとことで気を変えてくれたかもしれないのに――でも、きっとそんなことは決してないだろうというのも、わかりすぎるほどにわかってしまう。 やがて維安も、結局のところ誰もが沈黙した中でそこにたどり着いたのだろう。言葉を失い、抵抗する力を失う。ゆっくりと尚哉と千歳が手を離せば、ずるずると床に膝を落とした。 「ねぇよ……。そんなのねぇよ……。稲城なんだぜ……?」 言うか言うまいか。だいぶ迷ってから、ディランはひとつの言葉をかけた。 「命と引き換えにしてでも完成させたかった鞘……なのだろう」 稲城の指がすがるように、その白鞘を握り締める。 「改めて、お話申し上げます。鞘師稲城は首を吊っているころでしょう。染否の流儀にならって。 では確かに、依頼品をお届け致しました。よろしくお願いいたします」 深喜は頭を下げ、席を立つ。花緑は黙って、拾った手紙を維安の前へ滑らせた。 「……惜しいことで」 頭を下げた。腕を、命を悼む。 けれど疑問はなかった。維安のようになぜと叫ぶほどの慟哭を知らなかった。 むしろあの染否の職人が、薬師になにかを託す、そんな違和感が消える。逝くのなら止めようだなんて、思わなかった。 ――自分もそうするからだろう。 力を失ったのなら、自分もそうする。かつて同じことをした人がいたように。 立ち寄った村で病に罹り、そして、それをひた隠しにしてアヤカシの討伐に向かった。万全の力が振るえるわけもなく傷を負い、回復力を大幅に損ねたまま――峠を越すことはなかった。 そんなふうに。 この力を失うのは、命の意味を失うこととなにひとつ変わりなくて。 だからそうなったのなら、そんなふうに。 この身をこの命をすべてを賭けて戦いへ。そして、せめて守護することに尽くせたらいいと。望んだ。 ● 山を下る前に、御火月はぽつりとこぼした。 「今から戻っても間に合わない、のでしょうね」 (分かっていれば、染否に行くべきだった、のでしょうか……いえ、辛いのはもっとかの方に近しい方々、でしょうね) 御火月はここに留まり、匂霞を待つことはできない。やるべきことも成すべきこともある。アヤカシ退治も自身の勤めだが、維安が狩るだろうここにいつまでも居ても仕方がないだろうから。 「暮谷様に、稲城様が最後の仕事を託した維安様の事を伝えて頂くよう、改めてお願いします」 「……はい。必ず」 「いずれ、お二人が稲城様の事で語り合い、忘れずにいる事があれば、と思うので」 「……そう、ですね。そうだったら……いいのですが。 ……匂霞、ご存知……でしたか」 「暮谷様には、蜻蛉切の一件でお世話になりました」 「ああ……それは」 深喜の表情が少し緩む。 「切れ味、よさそうですね。喜んだでしょう、匂霞」 「……いえ、わかりませんが」 「あはは。そうですね。……わかりにくいんだ、あの人は」 不安が揺れる。 「あまり詳しくは存じませんが。 共に仕事をした方を、忘れるでしょうか。暮谷様は」 「……そう言われてみると」 忘れないかもしれないと、思えた。 「上手い言葉見つかんないけどさ……」 尚哉は深喜に声をかけた。単純にしか言えないけれど。 「よく耐えたな。腹に抱えてさ。 帰り道もちゃんと守ってやっから、安心しろよな」 尚哉よりも年かさの依頼人は、泣きそうな顔で笑った。 ● 笑みこそ控えたもののどこか安らかな安堵を感じたまま、花緑は山を降りる。 染否向きかと、思った。さすが染否の連中だと、維安が罵った染否に。 帰路を兼ねて行こうと、思う。 「先生も……早く降ろして差し上げたい、でしょう?」 今度は頷く頭を、確認した。 (せめて最期の時が、苦痛から解放されたものであったことを……) 片付けられた工房。床に敷かれた筵。ぎぃぎぃと重く軋む縄。蹴倒された踏み台。 ディランはその身体を縄から外した。千歳も黙って手伝い、降ろして手を合わせる。 遺書を確認した。お世話になりました。それだけしかない。 (彼と親しかった、遺されたものは……。 悲しみと悔しさを、何処にぶつけたらよいのだろう) 誰も怨めるわけがない。仇などいない。どこにも。 (恨もうにも……恨めずに) どうして、と叫んだ維安の声が耳の奥でこだまする。 どうしてもと、稲城は答えるのだろうか。 合わせた指先を外した。新しい筵が隅に丸められている。それを遺体の上に被せてやった。 (無念だっただろう。 死ぬしかない、と。思ってしまったのだろう) 右腕は不釣合いに痩せていた。 (だが、貴方に生きていて欲しかった者が居た事を。 どうか知っていて欲しい) 聞こえるだろうか。 黄泉路を歩くそのひとへ、届くだろうか。 |