嘆きの海の底
マスター名:茨木汀
シナリオ形態: イベント
相棒
難易度: 易しい
参加人数: 17人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/12/05 10:06



■オープニング本文


 岩々を水が満たしている。
 満ちている水を岩が囲っている。
 高いところから落ちる水の、どうどうと轟く音。
 光を照り返す水面のきらめきが草葉や岩に映り込む。
 水のにおい。
 枯れ草の気配。
 足裏に感じる岩の感触。
 冷たい乾いた風。
 背中を暖めるやさしい日の光。

 なにもかもが美しくて、なにもかもが輝いていて。
 それが慰めの手となった。ぽたりと涙がひとつ落ち、水面に波紋を広げる。そのひとしずくが呼び水となり、あとからあとから涙は続く。悲しみはとどまることなく胸を満たし、涙となって流れる勢いすら足らないとばかりに胸のうちで荒れ狂った。

 水辺の岩にしゃがみ込み、声も殺さずに泣く。池に注ぐ水の音が、響く嗚咽を和らげてくれていた。音を立てるのが自分ひとりでなくてよかった、と頭のどこかで思う。風がさらさら、からからと草葉を揺らしてやさしさを重ねた。
「どうして、どうしてっ……。ひどいよ神様、こんなのないよ……」
 ひく、としゃくりあげた。震える声が喉の中で揺れては消える。
「なんで、なんであの子だったの……? だって、だって……だって鈴音なんだよ……?」
 口にした名前がまた涙を連れてきた。ぼろぼろと流れる涙はひっきりなしに頬を伝う。袖で乱暴に拭うものだから、目元は赤くなっていた。
「納得できないよ……なんで、なんで……神様、なんで……」
 なんで私じゃなかったの、とは、言えなかった。
 死にたくない。ああなりたくない。どんどんやせ細って呼びかけても意識が戻らなくて血の気の引いた肌で乾いてひび割れた唇で呼吸も浅くなっていつのまにか死んでしまう。そんなふうになんて。
 ――そんな、ふうになんて。
 そう思う自分が、なにより。
 なにより呪わしかった。

(どうして鈴音だったんだろう)
 泣き腫らした目を閉じて、背中にぽかぽか陽気を感じて、どうどうと轟く水の音が心臓に届いて、居心地いいそこで考える。
 頭はがんがんと痛かった。泣きすぎた。胸には今も何かが荒れ狂っていた。気持ちなんて落ち着いていない。
(私は、私はこんなに醜いのに。どうして鈴音のほうが召されてしまったんだろう。不摂生をしていたのも、あの子より私のほうがよっぽど)
 でも倒れたのは鈴音だった。また涙がこぼれる。呼び水のように次から次へとあふれてくる。頭が痛い――。
 苦しい。
 厳然と横たわる事実を受け入れられない。飲み込めない。それを認めてあっさり次へ進むなんて、そんな。
 そんなのひどい。
 だって死んだのは鈴音だった。いじけて捻くれて斜に構えて、上手く生きていけないからって拗ねてしまった自分ではなくて。
 まっすぐて親切で明るくてみんなの面倒をよく見てて、鈴音を頼る人がどれだけ。
 ……どれだけいたことだろう。何人が泣いただろう。終わった葬儀。涙。嗚咽。嘆きの言葉。慰める声。行かないで、行かないで鈴音。お願いだから私たちを残していかないで! まだ鈴音が必要なの、鈴音がいなくちゃだめなの……!
 花。喪服。祈り。鎮魂歌。嘆きと悲しみと狂おしいほどに届かない手を伸べる人々。
 目を閉じてももう、はっきりとは鈴音の顔が思い出せなかった。
 耳を澄ましてももう、確かな声音を思い出せなかった。
 人の記憶のなんと不確かなことだろう。それとも自分が薄情なだけだろうか。
(鈴音。声が聞きたいよ……今度は絶対、忘れないから……)
 やあね、そんなはっきり覚えてるほうがすごいのよ。そう笑い飛ばしてほしかった。


 ぱぁん、と乾いた音。頬に熱。
「いいかげんにしろよ!」
 ひとつ上の兄弟に胸倉を掴まれた。黒い目がぎらぎらと。
「いいかげんにしろよ……! 鈴音が死んでどんだけ経つと思ってんだ!? もう一年じゃねーか!!」
「やめなよ哲兄! 澪だって好きで落ち込んでるわけじゃ……!」
「好きで落ち込んでんだろ!?」
 痛い。熱を持った頬が首が体が。
「泣いたって何したって戻ってくるわけねーんだよ! 俺らは生きてんだぞ、次進まなきゃねーに決まってんだろ!? そんなんでどうやって生きてくんだよ、俺らは孤児なんだぞ!」
 心が。
 痛い。
「立てよ澪! どんなに苦しくても歯ァ食いしばってでも生きていかなきゃねーんだよ! 鈴音のぶんだって……」
 手は勝手に動いた。また乾いた音がした。
 胸倉を離されてへたり込む。教会の床は冷たかった。
「鈴音のぶんがなによ……! どうやって二人分生きろってのよ! 鈴音のいない世界で何しろっていうの!? ありえないよ、おかしいよ! 納得できるわけないじゃない……!」
 反論はなかった。枯れもしない涙は次から次へとあふれてきて、わんわんと泣き声がこだました。
「……俺だって」
 あの轟く水音のかわりに、あの草葉のやさしさのかわりに、やさしくない哲史の声が静かに重なる。
「俺だって納得できてねぇよ……」
 その声があんまりにも悲しくて、ひとり立ち直れない自分がみじめで、掌と頬が痛くて、どうしても、どうしても。
 どうしても涙は止まらなかった。


「そう……まだ立ち直れないの」
 女の言葉に、哲史は顔をしかめた。
「泣いてもなにも、変わんねーのに」
「そうね」
「なんとかしねーと」
「どうして」
「だって、あのままじゃ澪がだめになる。一人で生きていけなかったら、ユウカクとかに行くしかねーだろ」
「そうかもね」
「俺らはいつまでも子供じゃいられねー。すぐ大人になっちまう。それまでにどうにか、しねーとさ」
「正論ね。でも」
 女は色の薄い眼差しで、哲史を見下ろした。
「正論だけで生きていけると信じているのなら、あなたはずいぶん子供だわ」
 怯んだ哲史に文を押し付ける。
「無駄口を叩いていないで届けてきなさい。わたしはあなたの相談役ではないの。駄賃から相談料差っ引くわよ」
「……すぐ行く!」
 やさしいだけの世界に生きられる人間なんて、稀すぎる。誰だって苦しむ。哲史だって妹分の助けになれない自分に苦しんでいる。
「……」
 女は荒れ果てた自分の手を握り込んだ。


「心の痛んでいる人はいる?」
 その問いかけに、受付嬢は女を見返した。
 長い白髪、節くれてあかぎれた両手。色の薄い無関心げなまなざし。
「……暮谷様、ですよね?」
「そうだけど」
「……ええと。その、質問の意図をうかがっても?」
「友人を亡くして、沈み込んだままの子がいるわ」
「慰めたり、元気付けたりしてほしいと?」
「いいえ。
 ただ同じ場所でしばらく寝食を共にして、ただ自分の心に向き合うだけ。人助けではないわ。自分が、自分に向き合うために必要な時間を持つの。
 もう一度聞くわ。心の痛んでいる人はいる?」
 どうしても立ち直れない中にいて。立ち直るべきだと知りながらも、それができないのなら。
 どこまでもどこまでも、嘆きの海の底に沈み込むのもまた、悪くはないだろうと。


■参加者一覧
/ 柚乃(ia0638) / 礼野 真夢紀(ia1144) / 郁磨(ia9365) / フェンリエッタ(ib0018) / 宮鷺 カヅキ(ib4230) / マルカ・アルフォレスタ(ib4596) / 久良木(ib7539) / 御凪 縁(ib7863) / 一之瀬 戦(ib8291) / ゼス=R=御凪(ib8732) / 一之瀬 白露丸(ib9477) / 月夜見 空尊(ib9671) / 木葉 咲姫(ib9675) / 弥十花緑(ib9750) / 二式丸(ib9801) / 緋乃宮 白月(ib9855) / 梅太夫(ic0167


■リプレイ本文


 道の途中、声がしたと思ったらどこかの裏口から少年が飛び出してきた。すぐ戻ります。そう言って。
 天野 白露丸(ib9477)はあの赤い炎の向こうに置いてきた、置いてきてしまった弟を思う。

 二つ年下。
 生きていればもう大人。
 生きていると――そう思って、探している。

 走っていった少年はもう見えない。
 もう大人――生きていれば。追憶に残る姿は子供のまま。
 生きている。そう思っている。探している。見つけるつもりでいる。

 そうしなければ、立てない。

 進めない。立ち止まって立ちすくんでどこへ行ったらいいのかどうやって立っていいのかそれすら。
 それすらわからない。

(けれど、思うんだ)

 何もかもが燃える音。舞い散る火の粉。おどる火炎。血のにおい。

(……見付かるわけが、ない。見付からなければ、良い)

 理性が囁く。あの中で生き残るはずがない。希望が囁く。きっとどこかで生きている。
 現実が囁く。

 見捨てたのは誰?

 足元が崩れるような虚無感。自分を誤魔化す限界。遺体は見つかっていない事実。鬩ぎあう感情。

 巻いたファーを鼻先までそっと上げる。
 求める香りもぬくもりももう感じない。せつないほど遠い追憶の彼方から呼び起こして手繰り寄せてかき集めても本物には及ばない。
「……会い、たい……」
 寂しい。会いたい。悲しい。会えない。
 こんなときに。こんなにも会いたい自分が卑しかった。
(それでも……傍に、いて欲しいと思うから……)
 探すことを、やめはしない。


 染否郊外は何度も来たけれど、孤児院のことは知らなかった。綴の家とはさほど離れていない。
 表門から入ると、閑散とした前庭がある。澪は教会の大人と裏で洗濯物を干していた。声をかけようとして、マルカ・アルフォレスタ(ib4596)は言葉がないことに気づく。
(わたくしに何が言えるのでしょう)
 一年たっても友の死から立ち直れない少女と。
 両親の死を乗り越えられず、未だ仇を討つ事にしか意義を見出せない自分とでは。
 何が違うだろう。

 貴族として官職にあった者として、父はいつも忙しかった。それを支える母も。
(それでもそんな中でわたくしと兄に精一杯の愛情を注いでくれた)
 大好きだった。平和だった。愛されていた。幸せだった。

 惨たらしく殺された。あの変わり果てた姿。
 逆巻いた感情は怒りと憎しみ。

(未だ忘れる事が出来ない、出来ないのですわ)
 消えるわけがなかった。
 二人の愛情は、二人との絆は、二人との思い出は。
 そんなに軽いものじゃない。
 簡単に納得して理解して乗り越えて物分りよく今のまま、仇さえ見つけられない今のまま過去にしてしまえるわけがなかった。
 どうして彼らが死ななければならなかったのか。理由も犯人も何一つわからないままに。
 それなのに怒りも憎しみも手放せるわけがなかった。

 たとえ間違っているとしても。
(この路を行くしかない)
 かすかな手がかりと手放せない思いを握り締めたまま孤児院をあとにする。
 進む道の先に何が待ち受けていたとしても。

 ――この路を行くしかない。
 

 フェンリエッタ(ib0018)はその門の前で立ち止まった。
 故郷の様式はどこにもない。けれどここは、神の家。

 立ち入るのははじめてだった。ジルベリアでは許されない信仰。天儀に逃れた神教会の多くは、こうして細々と寄付で運営されているのだろう。
 あの叛乱と粛清には、係わり合いのない――けれど信仰を同じくする人々。

 神教徒の蜂起。
 届かぬ説得。
 礼拝堂の崩落。
 怒号と悲鳴。
 数多の命を巻き込んで。

 ――怨は死なぬ

 死にゆく者に足を掴まれた。

「――ッ」

 怨は死なぬ。どこまでも。残ってこびりついて追いかけて付きまとってどこまでも。

 目が眩む。
 息が詰まる。
 涙が零れる。

 残る感触。

(痛む筈もない、のに……)

 傷跡でさえない。掴まれただけの手を言われただけの言葉をけれどこんなにも深く昏くどこまでも覚えている。

 救えなかった。掬えなかった。その命を無念を絶望を悔恨を怨嗟を孕んだ闇は大きく深く。
 フェンリエッタに纏わりつき絡みついてずぶずぶと飲み込もうとしながら囁き続ける。

(役立たずね)

 本当に。

(こんな悲しい世界など滅びてしまえいいのに)

 ああ……。

(いいえ、貴方こそ消えちゃえば?)

 ……そうね。

(簡単でしょ)

 でも……まだよ。

(苦しいくせに)

 私は往生際が悪いから。

(ばかな奴)

 知ってるわ、そんな事……。

 苦しんで苦しんで苦しみ抜いてそれでもまだあがいている。
 死者に足を掴まれて怨みにとらわれて絶望を浴びて自分自身がその闇に同化しかかりながら。
 心が傷ついて痛みを思って泣きながら、それでも。

「闇があるから……生きてゆくの。
 光を求めて」


 一見草地にしか見えないそこは、地面に墓石が埋め込まれていた。
 ひとり墓を手入れし、黙祷を捧げる二式丸(ib9801)。
(……心が、痛むから。人は涙を流すのだ、と)

(誰から、聞いたんだろう)

 記憶を浚っても言葉の主は現れない。言葉だけが残って響く。
 もし涙が、痛みの証明になるのなら。
(俺は、泣いたこと、あった……っけ?)
 頬に触れた指に乾いた傷跡の感触。血に濡れたことはある。雨の日や霧の日は引き攣れて少し痛む。

 指先が冷えるほどの衝撃をどうにか、やり過ごしたときも。
 神棚が壊れて錦が赤く染まって頭領が死んでそうして一家が壊滅したときも。
 傷を受け片方の角を折られたときも。

(どれも、涙の一滴も出て、ない……と、思う)
 頭領が死んだとき。
 悲しかった苦しかったつらかった心が痛んだ?
(なんで俺だけ生きて息をして立っているのか、腹の底からおかしかった、だけ)
 頭領はいないのにあの一家は徹底的に壊されたのに自分だけ自分ひとりだけ。

 今も頬は乾いていた。
 心も乾いていた?

(心が。痛むことがないのか……そも、心そのものがない、のかも)
 悲しまなかったのも泣かなかったのも心がなかったのならそう、簡単に説明はつく。こんなことを師匠に言ったなら。
(喝を入れられそう、だけど)
 傷跡を辿り記憶を辿る。
(心堕つることなく、精霊と共に……か)
 その言葉を繰り返して立ち戻って何度でも。


 ひとりの少年と入れ違いに、柚乃(ia0638)は墓地を訪れた。
 静かに祈る。八曜丸も今は静かに控えていた。

 帰り道だった。「ばば様」が石鏡に住んでいたから。だからその、帰り道。
 ――表情が豊かになったね
 旧知の間柄である人々はそう笑う。言われてみれば、思い当たることはあった。
 前は家族以外に自分から接しようとはしなかった。
(境遇もあるけど……でも)

 鈴を鳴らす。振り子のようなリフレイン。
 目覚めて。願いと共に精霊を揺り起こす。無作為に指定した時間が目覚める。

 祈り。花。涙。
 伸ばされた手と被せられた土と終わらない嘆き。

 涙――。
 たまに見る夢。
 不思議な夢。
 目覚めは涙を伴う。どこか懐かしくて、でも覚えがあるようなないような、そんな曖昧な夢。
 はっきりとは思い出せない。
 何が涙に繋がるのかもわからない。
 記憶は目覚めず心だけが揺り起こされて目覚めるように涙は沸き起こる。

(……でもきっと大切で……)

 胸の前に手を添える。
 瞳を閉じる。
 ぽつりと呟く。
「私は……人を信じきれない……の?」
 言葉は零れ落ちる。
 八曜丸はただ黙って。

 小鳥の囀りをそっと紡いだ。
 静かに、ほそい音律でそっと。


 そこが寄付で運営されているのならと、礼野 真夢紀(ia1144)は訪れた。
 真夢紀にとってこういった淡白な孤児院は少し、馴染まない。
 故郷では子は宝。人口の少なさと血縁関係の広さは親密な人間関係を作りやすい。そもそも孤児が頻繁に出るような土地ではなかったのもある。仮に出たとして、それは祭事を預かる真夢紀の家で引き受けるのが常だった。
 たとえ土地の長が変われど祭事を預かる家は変わらない。それに。
(姫神様って慈悲深い情に厚いお方だから)
 故郷のような土地ばかりではないと、承知はしているが。
(自己満足かもしれないけれど、少しでも足しになれば)
 そう願って寄付と衣類や石鹸、包丁等の寄贈をする。世話役の女性は丁重に礼を述べ、今年院を出る子供への餞別に使うだろうと用途を教えてくれた。
「あの。お手伝いします」
 真夢紀のあどけない容貌を暫し彼女は見下ろして、皺の深く刻まれた頬に笑みを浮かべる。
「お願いいたします。失礼ですが、効率化のために何がどの程度できるのか拝見しても?」
「はい。料理以外の家事は苦手だけど、出来ない訳じゃありませんから」
「ありがとうございます。澪。まず教会の中をご案内して」
 暗い眼差しが頷く。
「……こっちよ。掃除は、原則朝。洗濯も同じ。薪と井戸は裏」
 そっけない説明を頭に叩き込みながら、真夢紀は澪について歩いた。


 ひとりきり。静かな森。
 少し冷たい風と陽だまりと落ち葉がからからと転がる音。雀が数羽、囀りながら楓の木から飛び去った。その小さな衝撃で枝が揺れ、ひらひらと朱色の葉が落ちる。
(……アレからもう、十年)
 草の匂い。風が揺らす葉音。
(此処とよく似た森の中で、全ては始まったんだ……)
 郁磨(ia9365)は陽だまりの中でゆっくりと追憶に浸った。

 彼は不器用だった。
 口も悪かった。
 斜に構えていてカッコ付けたがり。
(……でも、誰よりも優しくて、寂しい人。
 俺の大好きな、たった一人の兄貴)

 始まりは静かな森の中。

(ねぇ、そよ兄……。
 そよ兄は、覚えてる……?)

 あの森の静けさの中で出会ったこと。
 風のにおい、木々のさざめき、陽の光。

 村で過ごした時間。
 重ねた日々、人々の間での暮らし、朝が来て夕が来る。

 すべての時間で交わした言葉。

(……俺は、よく覚えてるよ。
 大切、だから……)

 夏のような激しさをひそめ、静かに注ぐ陽光。
 この光が彼にも注がれているのだろうか。

(……だからさ、そよ兄。
 俺は綺麗事ばかり言うけど、本気でそう思ってるから)
「俺のたった一人の兄貴なんだからさ……」


 一之瀬 戦(ib8291)はさらさらと清かな流れを覗き込んだ。
 ぼんやりと映る自身の姿は、膝をかがめることで鮮明になる。包帯で覆われた顔の右半分。欠けた角。青い左目が流れの中から見返していた。
「……別に、心なんざ痛んでねぇけどよ」
 確かにいろいろなことはあった。
 惑わされたとはいえ家族を捨て去った。その戒めは欠けた角として額に残る。
 残った左半分の顔。端正なこの顔を生きるために使ってきた。
 そうして生きてきた。だが、

 だからどうだというのだ。

「過去に引き摺られてるつもりもねぇし」
 変色した金の髪と失った右目は、未だ消えぬ鬼への怒り。
 なくしたものは戻らない。
 生まれた怒りはおさまらない。
 変じた色は未だ戻らない。
 それでもそれに縛られて引きずられて自分を見失ってなど。

「俺は、前に進んでる。
 此の過去全てと向き合い、二度と自分を失わない様、生きれてる」
 そのはずだ。そのはず、なのだ。けれど何かが足りない。足りていない。
 自分の手を見た。
 何を掴んでいない?
(未だに、生きてる心地がしないのは、なんでだ……?
 欲しい者は在るのに、なんで俺は踏み込めない……?)
 求めた人を得ようとしないのは。
 躊躇って怖れて踏み出せないでいる?

「……俺は、弱いのか――?」

 幸せになる道を、選んで――……。

 戦は自問した。
 郁磨は願った。
 世界は静かだった。


 その人が弱り逝く姿を見ていた。
 そっと、ただそっと見送った。

 ――残された役目がある。
 立ち止まるわけにはゆかなかった。
 村の防備を、傷病の治療を、委ねられて引き継いだ。

 澪。
 あんなふうに立ち止まることなどできなかった。するわけにはいかなかった。弱って悲しんで過去にとらわれてただ自分の中に閉じこもるわけには。
 ――だからあのとき情動を封じたのは正しかった。
 そうして自己肯定を試みる。
 そんな自分が浅ましい。

 哲史。
 そんなふうに乗り越えることはできなかった。そんな暇もなかった。責任と任されたことを考えれば率直すぎるほどまっすぐに振舞うわけにもいかなかった。そも、気性からして合わない。
 ――守護し、癒し、尽くし、無私となる。
 そういう性だ。確かにその性を持っている。にもかかわらず、現実は乖離する。

 理想を振舞いきれぬ己を弥十花緑(ib9750)は嫌悪した。

 森の中。川のせせらぎ。水の気配。流れゆくもの。
 前を行く花緑が足を止めた。何もなかったかのように、いつもどおりに木葉 咲姫(ib9675)を振り返る。
「そうや、これ。火傷の薬」
「火傷の、ですか……? ありがとうございます」
 ころん、と手の中に小さな蛤貝が落とされた。軟膏が詰め込まれているせいか、重みを感じる。
 間違っても手が触れない距離。そっと貝を両手で包み、咲姫は微笑んだ。
 ――同じことを考えていた。袂から用意してきた蛤貝を取り出す。
「私も、火傷の薬を」
 きょと、と紗の向こうでいつも通りの滑らかな反応が滞る。
「……俺に?」
「痕は私の力で治すことは出来ませんから」
 同じようにころんと手の中に落とす。感謝の言葉と小さな笑い。そして顔半分を覆う手。
 笑みに苦みがわずか、混じって。
 視線を外された。そしてあっというまに、苦さもかすかな動揺も、――そして咲姫には見つけられなかった何かもきれいに覆い隠して平静を取り戻してしまう。
 あとに残るのは穏やかなだけの笑み。
「……花緑さん」
 彼のことを、よくは知らない。数える程度に同じ依頼へ行き当たり、数える程度にあいまみえた。それだけ。
 でも傷ついた姿を見たくはなかった。そんなふうにあんまりにも哀しい笑いかたを、してほしくはなかった。
 今は無理でも、いつか心から。
「……笑って、ください」
 そっと微笑み囁いた。
 ――今はそれだけ。
「俺は、心配ありませんよ」
 心遣いも配慮も充分で、痛むなんてまさか、ないとでもいうように。
 咲姫の言いたいことを推し量りながらも彼は優しくそう返した。
「――咲姫さんは、どうです?」
 返された言葉に記憶は揺り戻しのようにやってきた。
 あふれた血。愛しい人。
 人間の男の人。
(私のせい)
 近づかなければ触れなければ関わらなければ彼はまだ生きていた。
 生きていたならどんな人生を歩んだだろう。
(……私が近付かなければ)
 自分さえいなければ。親しくしてくれたことをその好意を喜んで受け入れたりなんてしなければ。
 後悔と自責。
 変わらぬ事実をいつまでも思う。
 忘れて過去だと割り切ってこれからの幸せを?
 ――できるわけがなかった。ありえなかった。だって。
(私のせいなの)
 どうしようもなく変えようのない事実は厳然と横たわる。

 さらさら、水の音。
 黙りこくった咲姫の頭を見下ろして、花緑はやんわりと話を変えた。
「お腹、空きました?」
「あ……」
「そろそろ、戻りましょか」
 どんなに考えても悩んでも悔やんでも。
 どこにも行き着かない思考なら。
 それならまだそのときではないのだ。きっと。
 今焦って結論を急ぐことはない。今はそれだけと、咲姫が言ったように。


 たゆたう記憶の中にゆらゆら揺れる断片。
 手を引いている誰か。引かれて歩く自分。
 手繰り寄せる記憶は朧に霞み、その人の輪郭線を曖昧に失わせる。
 その手のぬくもりも覚えてない。
『――……あき……』
 風のさざめきに記憶の断片が混じる。
『……えに、来る……ら……』
 声の主を探しても、そこにあるのは閑散とした屋敷の前庭だけ。
「……我は、ぬしなど……知らぬ……」
 手繰り寄せようとした記憶は月夜見 空尊(ib9671)の指先をすり抜けていく。
 引かれた手。撫でられた頭。触れた指の温かさがあったかどうかさえ。
(分からない……覚えていない……)
 風のさざめき。遠い記憶。
 曖昧に滲んでぼやけた記憶の欠片は確かな形を持つことは、ない。

 二人連れが院に戻ってきたのを、見た。
 少女の紫水晶にも似た眼差しが、隣の青年へ注がれている。礼儀正しい距離感。互いに気遣いを含んだやりとり。
「少し院の方と話してきます」
「はい。……お昼ご飯、もらってきておきますね」
「運ぶことありませんよって」
「お膳を運ぶだけですから」
(……傍にいて欲しいと、願うのは……彼女だからか)
 そばに彼女がいない。
 その視線がこちらを向いていない。
 寂しい。
 悲しい。
 欠けだらけの感情は不器用に咲姫へ向いていた。気にかけている。心にかかっている。
 かなうのなら、そばに。
(そう思うのは……過ぎた願いか……)
 不毛に背中を見つめ続けた視線を外す。
 空尊は少女に声をかけることなく背を向けた。

 花緑を見送って昼食を取りに行こうとしたとき、ふと視線を感じて振り返る。
 長い黒髪。見覚えのある後ろ姿。
 記憶を揺らしていった花緑。
 でも。
 でも心を揺らすのは。

(……だめ、揺れちゃ、だめ)
 触れては認めては、だめ。
 

 屋根から見下ろす景色は広かった。
「……」
 遠くをぼんやり眺める。しばしそうして沈黙の中に沈み、宮鷺 カヅキ(ib4230)はその端から飛び降りた。

「よく晴れて良かったなァ」
 屋根の瓦をひとつひとつ確認して、久良木(ib7539)は眼下を飛び回る白い髪を見下ろす。
「カヅキーあれとそっちの漆喰とってくれー」
「はーい」
 ひょいひょいとカヅキは器用に三角跳で資材を運ぶ。
「昔もこうして屋根に登って手伝いしたな……」
 懐かしい。そうこぼしたカヅキの言葉を拾って、久良木も相槌を打つ。
「昔は良くこうして登ったよなー。
 ……。昔はあんなにちっちゃかったのに……こんなんになっちまって」
「……ちょっとそれドウイウイミデスカ」
 笑う久良木。じとー、と白い視線を送るカヅキ。寒くなったとはいえ、明るい陽の下で動けばそこまで冷えることもない。元屋敷だけあるこの院の屋根は広くて、次の日の夕までかかって仕上げた。

「終わったなー」
「お茶どうですか?」
 背中を貸し合って補修した屋根の上でお茶を出した。茶葉のにおいがふわり、漂う。
(二人でゆっくりするのも久し振り……)
 差し出した湯飲みを久良木の手が受け取って持っていく。視界の端から手が消える。
(……そういえば、私は彼の過去を知らない)
 自分を拾ってくれた主。
(私を拾う前、貴方はどこで何をしていたの?
 時折見せるあの表情は?)
 たまに笑顔が辛そうなのはどうしてだろうか。
 背中越しに微かな息遣いと鼓動と体温。
 存在を感じながら思考の中までは推し量りきれない。

 湯飲みを唇に押し当てて、久良木は少しだけ安堵した。
(『 』……最近俺が知らない過去のことも思い出したようだが、この具合なら大丈夫そうだな)
 壊れないか心配で。
 成長しても、ほしくて。
『思い描く幸せを追えばいい、心が粉々にならなければ』
 そう言ったことがある。
(……では、自分はどうであろうか)
 わが身を振り返る、――『 』。
 東の空には気の早い月が昇りはじめていた。月、つき、ツキ。
「なあ『 』……いや、なんでもない。
 まあアレだ、幸せになれよー」
 白い髪を撫でる。動き回って少し崩れた桃色の菊簪。それをちょいと直してやった。
 瓦を直した久良木の手は、こんな繊細なものも器用に直す。
「……? 急に、どうされました……?」
 優しさ。労わり。それはわかっても理由までは。
 けれどカヅキは追求しなかった。久良木の行動を受け取って受け入れて、そして。
「私にできること……あったら教えて……?」
 疑問の解消よりも。
 自分の納得よりも。
 主のためになることを、聞きたいと願った。


 西の森をずっと踏み込むと、冴え冴えと青い闇に包まれた場所。
 月明かりと夜風と梟の声。
 緋乃宮 白月(ib9855)は背中を預けた木の根元に座り込む。
 首に巻いた緋色のリボンをしゅるりとほどく。
 明るいとはいえ月明かりでしかない光源の中で。
 知らなければ黒とも見紛いそうな緋色のリボン。けれど注意深く意識すれば、闇の中でも赤を見る。

 母の形見。

 こうして月を見上げたことがあった。
 あのときには母が隣にいて。
 頭を撫でてくれる優しい手。
 のんびりとした穏やかな時間。

 女手ひとつで育ててくれた。
 泰拳士としての技を習った。
 修行して怪我をして手当てしてもらって。
 その母がいなくて、寂しい。

 孤独ではなくなった。
 開拓者になって友人や仲間もできて。
 朋友もたくさん、いて。

 でも母はいない。

 朋友を見てほしかった。
 成長した自分を見てもらいたかった。
 それも叶わなくて悲しい。

 もう絶対に叶わない。もう二度と会えない。望んでも願っても何を成し遂げても決して。
 涙が頬を伝う。
 会いたい。

「母様……会いたいです……」

 あいたい。


 孤児の支援でも。そう思ったが、出払っていた。
「……森でも散策してみるか」
 ゼス=M=ヘロージオ(ib8732)は西へ続く街道から踏み込むと、明るい森の中だった。木々は色づきたくさんのどんぐりも落ちている。日差しが心地いい。
 自分が陰るようだった。輝かしい葉や野葡萄の艶めく紫色。木立が作る複雑な影。こんな中では、自分は陰る。そう、思った。

 依頼人の名前に御凪 縁(ib7863)は覚えがあった。あのとき彼女が預かった子供たちのうち、ここに来ている子供もいるのだろうか。
「留守なら確かめようもねぇか」
 孤児院に人気は少ない。縁は紅葉を見るために森へと足を向けた。
 明るい森の中はかすかに人の気配がする。枯葉を踏む乾いた音。
 少し向こうに一人の女性がいた。暗色のコート。
「ゼス」
 振り返る。青い瞳。実りの世界の中で冴え冴えと青い。
「紅葉狩とかした事あるか?」
「いや……ない」
 どうだ、と誘えば二つ返事で了承の言葉。
「? ……そちらは街道が近いと思うが」
「銀杏はさ、こっちだろう?」
 焼いて酒の肴に。紅葉狩りは口実だ。そして銀杏はどちらかというと人里に近いほうにあることが多い。
「実はすごい臭いだけどよ、種の中の仁はいい肴になる」
「拾えばいいのか。手伝おう」
 一名様、銀杏拾いにご案内。
 肩を並べて森を歩いた。

 月が出ていた。煌々と明るい真夜中の空を明るく照らす金色の月。暗色のコートを翻し、その光を避けて闇から闇へと渡り歩いた。
 杯に映り込む月を飲み干す一人の修羅。月下に現る容貌は縁のもの。
 杯を傾ける長い指。真夜中の空にも似た深い深い青の髪が月明かりで青みを増している。
 跳ねた鼓動。
 焼け焦げるような胸のざわつき。
 形を取ろうとした感情を押し込めて蓋をして仕舞い込む。
 目深に被ったフードの下でゼスは唇を引き結んだ。
(邪魔なモノは出すな。
 常に冷静であれ)
 きちんと丁寧に仕舞い込めば制御できる。きっと。
 冷静に理性的に、自分のすべてを統制して生きていける。

 木立の中にわだかまる闇を渡り歩く。
 とろりとやわらかい月光に服の裾さえ触れないように慎重に。
 闇の中をそっと縫う。今夜で最後。もう少し奥に行けば憩える闇もあるだろうか。
 
 闇の中にそれはあまりにも明るく目を引いた。
 池に煌くその明るさ。思わず照り映える月を仰ぎ見る。
 ――出来損ない
 ――ひとごろし
(違う)

 照り映える月。
 闇夜に隠れたすべてを照らし出す。煌々とくっきりと闇に紛れたはずの紛れようとしたこの身の輪郭線を明確に。

 出来損ない不必要道具役立たない。
 人殺しお前だお前が殺したんだ。

 心は反射的に否定しようとした。
(いや)
 理性は――今まで培ってきた価値観はそれを押しとどめた。
(その通りだ)
 月は冴え冴えと明るくて。
 目を逸らせない。
 この身もこの罪も照らし出す。
(解っている。
 だからもうやめてくれ……)
「ゼス?」
 声がした。振り向けなかった。
 月。目が逸らせない。
 草を踏む音。近づく気配を意識する。それでもなお目は月を映し。

 視界が翳った。
 月が消えた。
 金色の目。全身を覆うぬくもり。
 あやすように抱きしめる腕。

 言葉はなかった。
 慰めも肯定も否定もなにひとつ。
 ただ縁はすっぽりと月から隠してくれた。