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■オープニング本文 ● 大きな手。 逞しい腕。 大事に大事に、たからものみたいに胸に抱えられて。 うとうと、まどろむ。 きもちがいい。 幸せ。 おとうさん、だーいすき。 ● 「バカぁっ!」 「櫟(いちい)!」 鋭く名前を呼ばれて怯んだけれど、でも、それ以上にもう頭にきていたのだ。 腹が立って、頭がぐわんと沸騰して、やり場のない感情がはちきれんばかりに胸を突き破ろうとする。 このままここにいたら、まわりを徹底的に傷つけて自分の苦しみを思い知らせるまで止まれない。 だから、櫟は飛び出した。 「バカバカバカ、お父さんのバカー! あほんだらーっ! 考えなしの無責任ーっ! いつか絶対殴ってやるーっ!!」 森の奥で思う存分叫びまくる。ぜぇはぁ、息が切れた。そうしてひととおりなにもかも吐き出すと、しみじみむなしさが湧き上がってくる。 ああ、どうしよう。 問題は単純かつ明快だった。生活費がなくなっている。 また。 そして、また金は酒に消えている。 あのダメ親父め。 なんだってそう、収支をまったくもってこれっぽっちも考えちゃいないのか。なんていうか、稼いできた金は生活になにひとつ不足がないと信じ込んでいるのだ。酒を飲んでもじゅうぶん生活や学費の支払いに回せると、頑なに信じ込んでいる。なんでか帳簿を見せても理解してくれない。なんなんだ、あの理屈の通じない生き物は。 考え出すと頭がずきずきと痛む。なんでか父にとっては、すべての忠告は人格否定に聞こえるらしく全部耳を塞いでしまうのだ。困りものである。 とはいえ金がないことに相違はないから、祖父母に頭を下げるしかない。しかも、毎度のことながら父本人は絶対に行かない。どうしてもそういう責任が取れないらしい。理解できない。 大好きなのに。 嫌いになんてなりたくないのに。 好きなままでいたいのに。 いろいろと傷ついて不器用に生きてきたひとだから、だから、とてもやさしく接した時期もあった。でも変わらなかった。変わってくれなかった。 でも、大人になるにつれて理解できてしまう部分もあるのだ。 子供らしい潔癖さで正しい道だけ選ぶことをよしとするのは、あまりにも乱暴だと。 正しく生きられない自分を抱えたまま誰も彼も生きている。そして、上手く折り合いがつけられないとひどい軋轢が生まれる。櫟のように。 それを理解してしまったところで櫟は立ち止まってしまった。理解できてしまったから、正しさを押し付けることができなくなってしまった。さりとて解決方法があるわけもなく、身動きがとれなくて苦しい。 むなしさが涙を連れてきた。 優しい父なのだ。けれど反面、無責任な父でもある。 上手く生きられない父がかわいそうだった。そして、何も変えられない自分がむなしかった。 ● 大切な人を愛し続けるのは、なんて難しいんだろう。 こんな父でいてほしい。こんな父なら尊敬できる。そんな勝手な願望を夢見て親に押し付けて。 ――いつから、自分の理想通りでない父を愛せなくなったのだろう。 父の人間としての弱さを、脆さを、見るたびに嫌悪感ばかりつのっていく。 なんて自分勝手なのだろう。自分の理想通りでないと愛せない、なんて、そんなの。 そんなの自己愛と、何が違うんだろう。 でも。 でも大切だから。大事だから。愛しているからこそやってほしくないこともあるのだ。 それをわかりあうことが、どうしてこんなに難しいのだろう。 愛したい。愛してる。大好き。大好きなんだ。 大好きなままで、いさせて。 ● その日。 その日、ついに櫟は決定的な一言を叫んでしまった。 「わたしの大好きなお父さんはあんたじゃない!」 転がる杯。酒のにおい。 鼻がつんとして、顔が熱くて頭ががんがんして、手足の感覚がなくなって。 「わたしの――わたしのお父さんはあんたなんかじゃない……!」 しゃくりあげるせいで最後はちゃんと言葉にならなかった。どうしても、どうしても止まらなくて、耐えられなくて、そのまま櫟は泣き散らした。わあわあと叫んでぼろぼろと泣いて頭がすごく、すごく変な感じだった。 父の体重が移動する床の軋みだけ、頭の片隅で感じていた。 父が帰ってくることはなかった。どんなに取り消したいと願っても、口から出た言葉はどうしようもなく戻ってはこない。 大事に大事に、抱えてもらった。 ほんとうにかわいがってもらった。 たからものみたいに、大切に。 おとうさん。 おとうさん、おとうさんおとうさんおとうさん……! ごめんなさい。押し付けてごめんなさい。自分勝手でごめんなさい。わたしが、わたしが悪かったから。 だから、お願いだから。お願いだから帰ってきてよ。お酒飲んでいいよ。わたし働くから。わたしがんばるから。だから、おとうさんに全部押し付けたりしないから。お酒飲んでもろくでもなくてもやっぱりわたしはおとうさんが。おとうさんにいてほしい……! それでも父は帰ってこなかった。 ● 鮮やかな色打掛を睨みつける。数年の時が経ち、櫟は十六。祖父母の家で育てられ、年が明ければ嫁に出される。 悩んだ。とても、とてもとてもとてもとても。とても悩んだ。 父が真人間になって帰ってきてくれることを夢見ながら暮らしていた。今でも父の弱さを受け入れられない自分がいる。 でも。 ――男を連れてきたら殴るって言ったのに。 このまま嫁いでしまったら自由はきかない。夫の家に迷惑をかけるわけにはゆかない。探すとなればいろいろと大変だし、だから。 だから、今しかない。 祖父母に頭を下げた。どうしてもと頼み込んだ。一生で一度の我侭をどうか許してほしいと。 そうして手に入れた金を握り締め、櫟は開拓者ギルドを訪れる。 人を、探してほしい、と。 「どうしても。どうしても会いたいんです。会って、会って――会わないと。わたしは」 感情ばかり先走って言葉にならない少女の依頼を、あなたは。 ● 通り過ぎる少女を男は黙って見送った。 きれいになった。 賢い子だった。 (俺はお前に見合うような父にはなれなかった) どうにかしようと思えば思うほど深く酒にはまり込んだ。今なお抜け出せないでいる。 女房が死んだときに、この子を俺が育てるんだと、意気込んだのはいつだっただろう……。 (せめて) せめてと送った色打掛は気に入ってくれただろうか。両親はもう、あの子に渡してくれただろうか。 花嫁行列の時には、遠くからでも見ることができるだろうか。 「あの子が気になるのかい?」 不意に声をかけられた。 「娘なんだ」 「会わないのかい」 「会えないんだ……。どんな顔をしていいのか、わからない」 「会いたいかい」 「まともな親父になれたら、会いにいこうと……思ってたんだが、なぁ……」 誰だろうと振り向くと、見知らぬ男がひとり。 「……あんたは?」 「俺か? 俺は……」 にやりと彼は笑い、抜き身の刀を振り下ろした。 |
■参加者一覧
晴雨萌楽(ib1999)
18歳・女・ジ
香(ib9539)
19歳・男・ジ
天青院 愛生(ib9800)
20歳・女・武
二式丸(ib9801)
16歳・男・武
春霞(ib9845)
19歳・女・サ
六堂 源治(ic0021)
30歳・男・サ |
■リプレイ本文 ● モユラ(ib1999)にとって父は大好きな人だった。なんの含みもわだかまりもなく。なにげなく認められてしまって戸惑ったこともあったけれど。 手放しで大好きだと言える父だった。 「お父さんと七年越しに、かァ…だいじょーぶ! 必ず会えるよ、会わせてみせるっ」 ゆえにその言葉の意味を深くは考えていなかった。樒もいい人に間違いない、と。 だって親子だ。 張り詰めて余裕がなくなって強張って、そんな櫟が探す人だ。 この再会はいいことだと、信じて疑わなかった。 櫟は香(ib9539)から借り受けたヴァイブレードナイフを胸に抱く。 ――待っとっても何も変わらへんのやから、付いてきんしゃい。 親父に会える保証もあらへんし死んどるかもしれへんけどの―― 甘くはなかった。けれど現実的なその言葉に頷いて、一振りのナイフを受け取りここにいる。当の香は紫色の華やかな着物を着ていた。 「とりあえず情報収集だね。櫟ちゃん、酒場で情報収集しようと思うけどいい?」 「はい。…あまり詳しくないのですけど…」 頼りない櫟の返事に、モユラは屈託なく笑って大丈夫だよ、と返した。 下町――。 ごく普通の人々が暮らすようなあたりからさらに踏み込むと、明らかに雰囲気が変わった。薄汚れた道。犬小屋にも見紛う掘っ立て小屋。モユラは櫟に気を配りながら、既になんの店だか判別しようのない暖簾をくぐる。酒と煙草と、こもったにおい。明らかに場違いな三人へ向けられる胡乱げな眼差し。 香はその中へ歩み出た。向けられる視線を把握し、意識下ではなく無意識下に落とし込む。 「樒っちゅうオジサマ知りまへんか?」 その美貌に笑みが浮かぶことはなかった。やや前かがみ気味に上体を傾け、小首をかしげる。さらさらと紫色の髪が肩口からこぼれた。 「しきみ…? ああ、知ってる」 「ほんとうですかっ」 櫟が身を乗り出す。うらぶれた男は暗くよどんだ目で笑った。 「もちろん。ゆうべだって俺たちと一緒に飲んで騒いでたからよ。今はまだ奥で寝てる。さあこっちだ」 待ちきれないとばかりについていく櫟。狭苦しい店内を突っ切り別の部屋に入って。 「…!」 入ってきた障子を閉められた。振り向くとにたにたと笑う男。樒はどこにもいない。 「父は…樒はどこですか」 「おっと、その前にさ、情報料ってやつが要るだろう?」 担がれた、ようだ。 モユラは迷わず龍を呼んだ。それは式の一種であったが、部屋いっぱいに具現化するとその巨大なあぎとを開いて猛然と男を噛み砕く。 「ひっ」 ――ように見えた。 龍は霞のように消えゆく。血の一滴も飛び散ることは、なく。 「気をつけな、次は本物が出るかもよ」 真っ赤なとんがり帽子の下からねめつけるモユラ。 「志体かよ…!」 小さな悪態は取り合わず、行こう、と櫟の肩を押す。ここに来て櫟は六堂 源治(ic0021)や春霞(ib9845)、二式丸(ib9801)に言われた言葉を理解した。 ――できることに差がある。志体持ちも万能ではない。今回は―― 「騙される可能性、考えとくべきだったかな」 「理詰めにしたところで櫟が納得するとも思えへんし、これでええんじゃありまへんか」 「すみません…考えなしに」 「いいよいいよ。そのためにあたいら来たんだし。でも危ないから、傍離れちゃだめだよ」 このとき確かに、櫟はモユラに頷いた。 ● 町のだいぶ奥まったところ。源治に締め上げられた男が役に立たない情報ばかり吐いて逃げていく。収穫なし。 櫟の家の周辺でも樒がいないか探してみたものの、結局それらしき人影はなかった。天青院 愛生(ib9800)も源治も樒の人相は事細かに聞いている。見落としたということはないだろう。 源治は親と死に別れて久しい。そして守るべき子供がいる立場でもない。 (それでも) ――会って、会わないと。 (泣かせる話じゃないか) 人情話は好きだ。故に乗った話。 どんなに小さな手がかりでも見逃したくなかった。 不審者がいないか警戒しながら、愛生も樒を探していた。特にねぐらが見つかればおおよその行動範囲も絞り込みやすい。櫟の祖父母を思い出した。 「天青院と申します。最善を尽くさせて頂きます」 名乗りとともに合掌した愛生。樒は父親に似たという。その骨格や顔立ちをいくぶん若くすれば見つけやすいかもしれない。 樒について聞き、そして部屋にかけられている色打掛を観察する。赤地に鶴と扇の華やかなもの。 「此方は祖父上殿達が誂えられたのでございましょうか? 色といい、柄といい大変良い色打掛でございますね」 「いや、これは息子が持ってまいりまして――」 それは樒本人が持ってきたということだった。それなら。 それなら少なくとも、ねぐらと実家の間は行動圏内に入るはずだった。 ● 「猫背気味で、白髪交じりの…? さあねぇ」 「酒好きで、最近色打掛を買った人…とか」 「色打掛なんてこのへんじゃあ見ないよ。もっと表の通りの人でなくちゃ」 「じゃあ…最近目立つ事件、なかったです、か」 「裏の旦那が賭けですったとか、そんくらいだよ」 中年の女性はそう言って離れていった。場所の絞込みができないために手当たり次第になり、効率はどうしても落ちる。状況次第では春霞が剣気を叩きつけてくれるし、何より彼女の持つ大鎌は刀剣類とくらべて迫力があるため持っているだけで大抵の相手は素直になってくれるものだが。 それでも、ほとんど有用な証言は得られていない。あまり親しい人付き合いはしていないらしい。 「離れ離れは、悲しくて辛いです…。まだ会えるなら…まだ、会えるかもしれないなら…!」 手をぎゅっと握り締める春霞に頷いて次をあたる。 ――二式丸も。こうして探したい相手はもう、いない。 ゆっくりと瞬く間に脳裏で蘇る日の、こと。 あの神棚は砕けて、あのとき気をとられた錦の織物は返り血で染まって。名前をくれて居場所をくれて命も人生もくれた人は血まみれで倒れて、いて。 ただそれを前に立ち尽くすだけの自分がいた。 (会いたいけど、会えない。絶対に) 生家はほんとうに、産まれただけの家だった。両親の顔も名前も知らなかった。傷だらけでぼろぼろで自我も薄かった――今よりも――二式丸を助けたのは、拾い上げたのは彼だった。 (与えられるだけ与えられて、何一つ返せなかった俺を、恨んで…いませんか) そんな頼りない問いかけさえ。 そんな存在理由の薄さから生まれる不安さえ、訊く前に、逝ってしまった。 「少し、お話宜しいですか?」 春霞がまた一人捕まえて聞いていた。 「ああ、それなら――。 酒場じゃないよ。あの人、一人酒だから。酒屋に行ったほうが早いんじゃないか」 春霞と顔を見合わせる。「掴んだ」。 これで手繰り寄せられる。樒のところに届く情報。 自分は問えなかった。踏み込む前に途切れてしまった。永遠に。 (だから、櫟と櫟の親父さんには、会って話をしてほしい、と。 心から、そう、思うんだ) 意識せず額の鉢金に触れる。冷たい金属の感触が返った。 ● 一度彼らは合流し、そして互いの情報を交換しあった。二式丸の報告により、酒場、あるいはその近辺での探索に切り替わった。香たちもどんどんみすぼらしい地区へ入り込んでいくことになる。走ってきた子供が一番華やかないでたちの香にぶつかって。 「ちっ…」 舌打ちして走っていった。香は鼻で笑う。 「なんや最近の賊はレベル低いのぉ」 小さくほつれた巾着と、硬貨の音。そのまま酒屋に入る。 「最近此処等で死んだ人居りまへん?」 「さあね」 「最近かけ買うた人知りまへんか?」 ぬっと店主は手を伸ばした。香は先ほどスリ返した巾着をその手に乗せる。軽さに顔をしかめたが、主人はぼそぼそと吐いた。 表のほうで客のひとりが熱心に呉服屋に通い詰めていた、と。 「その客は?」 「このあたりじゃないか。うちの客なら」 一歩近づいた。店を出て、なんて手際だ、と愕然とする櫟に香はしれっと答える。 「世ん中金と力と色仕掛けで片付くけぇの」 金と力を活用したのは香だけではなかった。源治も効率よく、不逞の輩は締め上げ脅して、有力情報をもたらした者へは幾許か握らせる。金がもらえると知ればどうにか得ようとするのがこの土地だった。 「知ってるぜ、そんな感じの人。ちょっと前に向こうのぼろ屋から出てきたの見た」 その情報を元に訪れると、古びた、というより、倒壊していないのが不思議な廃屋にたどり着く。比較的表側に近い廃墟のひとつだが――。 「…血のにおいだな」 「確認してみます」 手分けして物陰などを探し。 源治の覗き込んだ床下に、無造作に樒の遺体が転がされていた。 ● 彼はぎりぎりと歯噛みしていた。 手ごろな獲物と思ったのに、あの娘は装備のきちんとした人間がべったり張り付いて離れない。統一感のない装備は傭兵か開拓者あたりであろう。まったく厄介なことになった。ちらちらと感じる視線を避けて歩いてはいるが、何人かに目撃されているだろう。こうなったら早いところあの娘を引き剥がさなくては――。 「…あの」 声をかけられて、はじめて一組の男女に近づかれていたことに気づいた。女のほうは大鎌を持った黒猫の獣人で、男のほうは無表情気味の修羅だった。片角を模した鉢金を巻いている少年。 「すみません。ええと、樒さん…ですか?」 人相は知られている。それを彼は把握していた。しらばっくれても疑いを持たれるだけだろう。 「…そうだが」 「よかった…! よかった、ほんとうに…!」 心からの歓喜。しかし隣の少年はじっと彼を見据えている。 「『まゆみ』の親父さん…ですよ、ね。『薄桃色』の『桜』が描かれた色打掛、買った」 「ああ」 女が笑みを落とし、その瞳に驚愕を浮かべる。 風を切る音。棍が地面を穿つ。 「ちっ」 しらばっくれても無駄か。変化を解き鬼の姿に戻ると同時、大鎌が鋭く振り下ろされる。頬をかすった。 「なんで…! なんで、なんでなんで…!」 女の悲痛な声。少年のわずかに揺れた眼差し。 その心地よい感情は惜しいが、今は。 「待てっ」 今はあの娘を。 手を合わせて黙祷したあと、源治と愛生は遺体を引き出し検分した。表面は乾いているが、傷の奥はまだ濡れている。 「覆水盆に返らず…とはよく言ったものです」 言葉少なに、愛生は遺憾の意を示した。まったくだった。 願いは叶わない。あと半日、半日、早ければそれだけで。 「刀傷、ってことは犯人は帯刀している。返り血か血の匂いがするはずだ」 片っ端から該当者を締め上げる。練力を流し込んだ腕が隆々と盛り上がり、容赦なく剣気を浴びせかけた。 「俺じゃない! ほんとだ、血の匂いなら猫背の男だよ! ぶつかったんだ、さっ…ぐえっ」 「どっちだ」 震える指が方向を示す。その男を放り出して走り抜けた。 ● 「おとうさん!」 その叫びとともに櫟が駆け出したとき、モユラも香もそちらを見ていなかった。 「ほんと?」 ぱっと喜色を浮かべるモユラは、狼煙銃を使って櫟を追いかける。香も続いた。櫟は複雑な路地裏をどんどん進んでいく。曲がり角が多くて本気で走れない。 ふとモユラの心に不安が翳った。 逃げるのはわかる。でも、大事な娘が追ってくるのにこんな奥へと…? 「何か…変だよ、櫟ちゃん! 止まって!」 櫟は止まらない、聞いては、いない。 聞こえていない。 「櫟! 止まりんしゃい!」 届かない。 角を曲がろうとしたとき男の腕が伸びて。 「きゃ…!」 ほんの一瞬だけ遅れて飛び込んだ二人の目に映る、親子。 父が娘を羽交い絞めにして刀を首に当てている、姿だった。 樒のわけがない。モユラは思った。 そのはずがない。 「櫟ちゃんのこと、忘れちゃったの、樒さん!?」 「動くな。動くと…」 その瞬間、咆哮が轟いた。樒の気が後方に逸れる。春霞。 わずかな隙にモユラが神経蟲を放つ。動きの鈍る腕。その腕がそれでも櫟の首を落とそうとして。 懐に飛び込んだ香が刀身を弾いた。 「…お怪我は」 腕を引かれて櫟が離れると、愛生が手を引き物陰へと連れて行く。わずかに喉に走った傷へ、印を結んで精霊力を流し込んだ。 「あ…」 「ひとまず、ここに。あれは樒殿ではありません」 「そ…う、みたいです…」 既に樒ではなく、見知らぬ鬼の姿へ戻っている。源治が木刀に練力を纏わせ、真正面で打ち合っていた。 「俺ぁ人の命が消えるのは嫌なんだ。 真っ当に生きようとしてる奴の命なら尚更さ」 振り下ろされた刀を受け流して軌道を反らし、その脇下へ木刀を滑り込ませ打ちつける。 「だからよ…お前みたいな面白半分で命を奪う様な奴は、許せねぇんだよッ」 柄頭でその腹を強かに打ちつけた。 「あの…どなたか、亡くなって…?」 愛生はしばし沈黙した。どう…言えばいいだろう。 心に迫る心痛を思えば口は自然、重くなる。もとより言葉に慎重な愛生だ。 「愛生さんっ…!」 必死な声に、静かに言葉を脳裏で纏める。ゆっくりと口を開いた。 「樒殿は亡くなっていました。遺体はある場所に」 (嘗て櫟殿が発した言葉がお父上に伝わっていることが分かればせめてもの救いになるのでは) そう考えている。櫟から離れて、その年月がどうだったかは。 (察しかねますが…) くしゃりと櫟は顔を歪めた。愛生は仲間の援護のため、その場を離れる。入れ替わりで香が戻った。 「父親探しは終わったけど、おまんは此れで終わりでエェん?」 春霞が衝撃波を叩きつけ、めくれ上がった土くれが鬼を打つ。 「酷い…! こんなの、酷いよ…!」 泣きそうな、声。 「唯見とるだけでエェん? おまんは最後まで待っとるだけなん?」 けじめを促す言葉。愛生の紡ぐ治癒の術。 何かをやっとの思いでやりすごしたような二式丸が。かすかに乱れた精霊力の支援で棍を打ち据える。 「終いだ!」 源治が叩き伏せ、鬼は地面へ這いつくばった。ふらりと櫟は足を踏み出す。 ずっと握り締めていた、あのナイフを手にして。そして。 振り下ろした。 守り刀を強く、指が白くなるほど強く春霞は握り締めた。ぽろぽろと大粒の涙が流れる。けれど目は、櫟を見つめた。 「お父さん、きっと会いたかった。 櫟さんも、会いたかった。 もう…会えないなんて、そんなの…辛いよ。悲しいよ…悲しい。 ごめんなさい…会わせられなかった。死んでしまった…。ごめんなさい…」 震える声。モユラはつい数時間前の会話を反芻した。 ――だいじょーぶ! 必ず会えるよ、会わせてみせるっ。 「櫟ちゃんは、怒ってるかな。それとも…」 言葉を探しても見つからなかった。でもただ見ているだけなんて、できなかった。 もう瘴気さえ消えたところへへたり込んだ、櫟の隣に膝を落とす。ゆっくりとその手からナイフを抜いて、手を握った。 爪が食い込むほど強く、強く握り返す手は冷たかった。 |