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■オープニング本文 ● 風が吹く。 木々を揺らして無数の葉がこすれ合わさる音を、近くで遠くで此方で彼方でいっせいに立てる。 風が吹く。 髪を揺らして肌を撫でて耳元でざわざわといっぺんにいくつもの言葉を囁きながら過ぎていく。 風が吹く。 心を揺らして魂を連れていって空の向こうまであっというまにさらって。 だからきっと、今何も感じないのは。 あんまりにも木々がさざめくから、あんまりにも耳元でたくさんの音を聞くから、あんまりにも。 あんまりにも遠くまで魂が連れていかれてしまったから。 この死臭もこの血溜まりもこの身体から流れていく命の気配も、とてもとても遠いのだ。 腕の中に抱いた息子だって冷たくなって温かかったなにもかもがどこか遠くへいってしまったのだから、私だって。 私だってなにもかもが遠くになるのも、それは当然のことなのだ。 だから流れる赤い体液も流れる透明な涙もどこか遠くまでいってしまった。 だから、だから、だから。 だからこんなにも心がざわめいて狂ったように暴れるのは肉体の枷から解き放たれたくて風と一緒に行きたくてたまらないからで、……だから。 だから、私は。 私は悲しくなんてない。辛くなんてない。私は不幸じゃない。私はかわいそうじゃない。 腕の中がどうしようもなく冷たいのも、この理不尽を受け入れざるをえないのも、それは、それは私が哀れまれる理由にはならない。 ぽたぽたと目から流れていく涙。 私はかわいそうじゃない。心の中で繰り返した。 腕の中はどうしようもなく冷たくて、風はどこまでも吹いていって、そのさざめきは心まで連れていって。 私は、かわいそうじゃない。私はみじめじゃない。私は無意味な人生を過ごしたわけじゃない。 あのひとの―― あのひとの跡継ぎを産んだ。はじめての子が男の子だった。元気で腕白で、あのひとだって喜んでくれた。 そんなすべてを、ここで全部失うなんて。 全部が無駄に無意味になって消えてしまうなんて。そんなみじめな女だなんて、そんなわけ。 握り込もうとした手は、もうなんの力も入らなかった。 息子の死さえ素直に悼めない。 ――私はみじめだ。 腕の中の冷たさを感じた。胸の中の悲しみを感じた。荒れ狂うすべての感情を感じた。 ――私はみじめだ。どうして素直に悲しめないんだろう。今わの息でも外面を気にしている。 幸せでなくちゃ敗者だなんて思ってる――。 何も遺せないで、守るべき子供さえ先に死なせて、それなのにまだどうにか、誇りを探して足掻いてる。 哀れまれたくないと痛切に願ってる。 悲しみから目をそらして苦しみから目を背けて、不幸を見ないふりしてもう死ぬんだってわかっているのにどうにか。 どうにかして、私はこれだけのことをしたのよと、胸を張りたいと思ってる。 みじめだ。ぶざまだ。なんて、醜い。 ――私はみじめだ。 夫に会いたかった。見栄ばかり張る自分をなだめてくれていた。あの人なら、きっと。 きっと素直に、見栄も外聞もかなぐり捨てて心から自分と息子を悼んでくれるのに。 ● 「放せ、放してくれ!」 町の通りで、悲鳴にも似た声が聞こえた。 「頼む、行かせろ! 生かせてくれ! 妻と息子が――いつも丘まで散歩に行ってるんだ! 帰ってないんだ……!」 「だめです若旦那! 鬼らしきもんが丘へ行ったって……! あんたが行ってどうなるってんだ! 無駄死にするだけでしょう!? せっかく店も軌道にのってきたってのに……!」 「店は二人のために頑張ったんだ、二人がいなけりゃ意味なんてないんだよ! 頼むから、頼むから! 美代、良平……!」 人だかりの中から、足掻くように伸ばされた男の腕が見えた。 それを見たあなたは――。 |
■参加者一覧
空(ia1704)
33歳・男・砂
戸仁元 和名(ib9394)
26歳・女・騎
秋葉 輝郷(ib9674)
20歳・男・志
姫百合(ib9776)
16歳・女・武
鴉乃宮 千理(ib9782)
21歳・女・武
エリアス・スヴァルド(ib9891)
48歳・男・騎 |
■リプレイ本文 ● その声を聞いた。 その叫びを聞いた。 その悲痛さが響いて記憶を揺り起こす。かつてこの手をすり抜けて零れ落ちたひとつの命を求めて、あんなふうに。 あんなふうに喉を、嗄らしたことを。 だから姫百合(ib9776)は黙っていられなかった。 「委細、分かりました。わたくしがご家族を探しに行きましょう」 人垣が割れる。まだ若い男が姫百合を見返した。次いでその手にした薙刀に目を留め、その細い腕を捕まえる。 「助けて、いただけるんですか」 怖いくらいに痛切な声。かすかな震えを感じ取り、小さく頷く。 「私でよければ…」 「詳しいことを聞かせてほしい」 戸仁元 和名(ib9394)とエリアス・スヴァルド(ib9891)も静かに名乗り出た。 人々の関心がそちらに向けられている間、その周囲でも動きはあった。 空(ia1704)と秋葉 輝郷(ib9674)は無言でその場をあとにする。鴉乃宮 千理(ib9782)は喉の奥で小さく笑い、近くの子供を見つけて膝を曲げた。笠の下で唇に笑みを刻む。 「丘はどっちになる?」 「あっち。町出て、すぐの道曲がるんだ」 「ありがとさん。飴でも食べるといい」 ころりと落とした飴玉を小さな手が受け止めるのを、確認もしないで。 笠を押さえ風のように走り去る彼女を、ぽかんとその子供だけが見送った。 千理が走り去ったすぐあと。和名は時間を惜しんで駆けてゆく。 「先に行ってくれ。詳しい話を聞いていきたい」 エリアスに頷き、姫百合もあとを追う。残った彼は幸田に向き直った。 ● 伸ばした手、叫んだ言葉、ありったけの感情を込めた、声。 ――父は。 自分の父は、心配してくれるだろうか。自分が行方知れずになったなら。あんなふうに手を伸ばして、心を痛めて切実に。 (心配してくれたなら嬉しい) 輝郷は積み重ねた努力を振り返った。心を砕いて気を配ったことを。 (…何とも思ってはくれないのだろうな) 結実しなかった努力の果てにここにいるのだから、そう、やはりきっと。 きっと、何事もなかったかのように。感情のひとかけらも向けてはくれない。 伸ばした手、叫んだ言葉、ありったけの感情を込めた…。 ――うらやましい。 不謹慎でも場にそぐわない感情でも。うらやましかった。あんなふうに伸ばした手の先にいられる、まだ会ってもいない妻子が。 ここを抜ければ、丘だろう。 地面の傾斜から推測できる頃、前を行く空はおもむろに片手を突き出した。矢を装填したアームクロスボウ。それに精神力を注ぎ込み、仕掛けを握り込む。 その先に鬼が二体、こちらに向かって。 空気が軋んだ。唸るように。 射出された矢の軌跡を、逆巻いて取り巻く衝撃波。注ぎ込んだ精神力は大気を軋ませ一直線にその先の鬼へと吸い込まれて。 ひとつの反撃も反応も許さぬままに、胸に風穴を開けた。逆巻く衝撃波に千々に瘴気の欠片が飲み込まれて消えてゆく。苛烈な一撃のもとに敵を下した空はほのかに赤い魔刀を引き抜く。その鬼が反応するより一瞬だけ、空のほうが早かった。 腹に突き刺し、引き抜く。傷口から瘴気が吹き上げた。 言葉はなかった。 視線も交わさなかった。 それでもそのとき、彼らは確かに互いにすべきことを選び取った。 振り下ろした鬼の刀を、輝郷が緋色の刀身で担ぐように受け止める。空はその脇をすり抜けた。 駆け抜けた空の存在を空気の動きだけで把握して、鬼の刀を受け流しながら野太刀を引き抜き袈裟懸けに斬り付ける。腹に穴を空けながら、残った一体は機敏にそれをかわした。 ● 少女が倒れていた。子供を抱いてうつろな目で。腹から流れ出た血は地面に染み込んでいる。 風が強く強く吹き荒び、空へと何もかもを巻き上げている。 (哀れな、憐れな女だ) 瞼を閉じてやるつもりはなかった。指先からまなうらから耳の奥から薄れゆくひとたちの記憶を、わずかばかりも失いたくなど。 この女は重なる、被る、見紛う、無力無意味無駄、 (何一つ護れず、こうして死に逝く姿は。 酷く、無様で、酷く…重なる) …無様。 (何を、思ったのだろう、死に逝く時に) 彼女は。 一番守らなければいけないものを腕の中でなくして。 (今迄の幸せを思ったか、来れからの未来を憂いたか) 眦から続くのは涙のあと。腹から続く血のあと。腕の中の失った希望。 顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。表情を作るほどの力をもう、失っていたのだろう。なにもかも。 最期に、笑ったのだろうか。それならその心中を教えてほしかった。 それとも泣いたのか。涙のあとが残るとおりに。怒ったのか絶望したのかもしくは何か、 …何かひとつ救いを見つけでもしたのだろうか。 (遺す者は辛い、残されるのも辛い。 さりとて何一つ、仲間一人、女一人護れず死なせた男に何かの標を…) 思考を中断した。 (…何を、バカな、俺は。そんな、今更) 求めている、痛切に。願っている、痛いほど。 踏み越えてはいけない一線の向こうに求めるものはあるだろうか。 揺れている、今も、まだ。 ● 木立の中を下草の茂みを、その枝葉に絡め取られることなくなめらかに。 まっすぐ丘まで。 「風が違うね」 追い風だった。腕を足を体を髪を丘まで連れて行くような。風が騒ぐ。木々が鳴る。 泣くような、…。 泣き声のような風だ、と思った。 茂みの向こうに音が響く。剣戟の音、閃く白刃。 木立が瞬く間に流れゆく向こうで鬼の刀を捌く輝郷。 その背にそっと忍び寄る影を見た。 輝郷が背後の影に気づく。しかしその野太刀は目の前の鬼の刀と噛み合ったまま。重たくてすぐに引けはしない。 空が残る一体の腹を抉っていったものの――決して浅くない傷を庇うようなそぶりは見せるものの、それでもまだ輝郷と渡り合うだけの力を持っている。 草を踏む音。揺れる空気。ぅん、と何か大きなものがなぎ払われた気配。離れた場所での墜落音。 「おまけだ。上手くやってくれ」 風音に紛れて声が囁き、噛み合った刃と刃の交差点を下からすくい上げられた。噛み合った刃をほどくように下から上へと大薙刀が。 甲高い金属音。 刀と野太刀が飛ぶ。 風と共に遠ざかる千理の気配。 くるくると回る緋の刀身。 その柄を視界の端で捕らえ、掴みとって。 ごう、と華やぐ。緋い刀身がなお緋く火炎をまとう。風が巻き上げる炎の中に太刀筋が、見えた。 地面を踏みしめて腕から肩から胴から腰、足のつま先までの力をすべて集約して体重を乗せて。 ――鬼が刀を掴み取ろうと手を伸ばし、傷の痛みに一瞬だけ引きつった腕から刀が零れ落ち、 その無防備な首筋から胸までを、焼き切った。 千理が作ったわずかな間合いと時間と絶好の機会。それを余さず生かして一体を始末した輝郷は目元の険しさをひとつも緩めず、振り向きざまに野太刀を振り払った。激しい勢いで突貫してきた薙刀の刃を後方へと受け流す。 刀身に残った炎が舞い散る。その赤々とした光が輝郷の血色の瞳に映り込み、ゆらりと炎を揺らめかせた。 烈風撃で弾き飛ばされた鬼が戻ってきたのだ。 戦力差で言うのなら互角、いや、鬼のほうがやや弱いかもしれない。しかしその耐久力を削り取るには時間が要る。先ほどの戦いの疲労も抜けていない。 火の粉がおさまるのも待たずに肉薄した。 ● 「おられませんか…、美代さん、良平さん、おりませんか…」 徘徊する鬼を避け、和名は声をひそめて名を呼んだ。一部の鬼は輝郷の剣戟の音に気づいたのかそちらへ向かっている。そうして敵を引き受けてくれる輝郷がいてはじめて、この探索は成立していた。それでも大声を出すわけにはゆかず、風にかき消されないぎりぎりの声量で木立の中へと声を通す。 返るのはただ沈黙。向こうを探していた姫百合が戻ってきて、黙って首を振る。 「も少し…奥かもわかりません」 「そうですね…」 生き物の影は見当たらない。 いつまでも。 ブーツで張り出した木の根を踏み越えた。 ――細かい枝道はあります。良平と遊んでいるので、あまり奥には行かないとは、思うのですが…。 (まだ丘に居るのか。 森を歩いて帰る途中、鬼に気づいて身を隠したか) 少なくとも丘へは直行した仲間がいるはずだった。何か痕跡や気配がないか。 風が吹く。空へと何もかも運び去るかのように。 ――もしも。 それは存在しないことだ。過去へは戻れない。やり直しはきかない。 (時の流れは未来に向かってしか流れていなくて) 誰もが選択の末、戻れない道を歩いてきている。だから、でも、だからこそ。 だからこそ重なる。重ねる。 もし―― 血煙。 もし、あの時に彼女の元を離れなかったら。 赤。 もし、あの時、国に残る道を選んでいたら。 鉄錆のにおい。 『もし、彼女と出会っていなかったら』 ――あのすべてをなかった、ことに。 (詮無きことだ) わかっている。理解している。それでも。 彼の選ぶ道を見たいと思った。 重ねてる。なぞらえている。関心がある――純粋に。 枯葉を踏みしめる乾いた音。風が吹く。 ――その先は。 ● 一人の男は無言のまま矢を装填し。 背の高い女は飴玉をひとつ口に放り、奥歯で噛み砕いた。 女を捨てた少女は静かに膝をつき、修羅の騎士は沈黙する。 ――ああ。 遅かったのだ。 エリアスはそのことを悟った。膝をついた姫百合の前に横たわる姿。血のにおいはしなかった。風が吹く。 空へとすべて連れ去って。 「…息を、息をしてください…」 微動だにせず唇だけを動かすようにして姫百合は語りかけた。否、語りかけるようにした。その言葉を聞くべき人はもう。 「貴女の帰りを待つ方が、いるのですよ。 このような所で命を落としては…いけません…」 ここにはいない。 和名はその遺体から視線を外すと、沈黙を破らずに踵を返した。ごっそりと表情が抜け落ちたその横顔は極めて無表情。 抜き放つ刀身のさめざめとした青さ。 ざくざくと大股で丘を降りる。木立の向こうに剣戟の音。立ち位置を変えるひっきりなしの足音、無言、雑音、風音、木の葉のさざめき。 事務的にその中から必要な情報だけを抜き出す。鬼のほうが体重が重い。輝郷のほうが重量のある武器を使っていた。 茂みの向こうに翻る陣羽織、耀く緋い刀身。それよりずっと鈍い色の太い腕。 さめざめと青く、群雲にも似た刃紋の浮く刀を下段に神経を研ぎ澄ました。 落ち葉を乱れ踏む音、無言、雑音、風音、木の葉のさざめき。 ――乱れた鬼の息遣い、薙刀を大上段に振り上げた音。 目の前の雑木ごとまとめて、脇腹を切り上げる。 細いとはいえしっかりと枝葉を茂らせていた雑木が切り飛ばされ、鬼は片手で脇腹を押さえた。 ● 人の気配を察してか、木立の中から三体の鬼が向かってくるのを見つけた。和名と姫百合が回避したうちの三体だろう。射程の長い空が先制攻撃を仕掛け、烈射「天狼星」による一射で一体を撃ち落した。 乱射できる類ではないとはいえ、この高火力だ。任せてもいいだろう。姫百合はその場を離れる旨を告げる。 「一体、町の近くにいた鬼がおりましたので」 「俺も行こう」 「そうだね、そのほうがいい戦力配分だ。なに、ここは任せたまえ」 千理は片方の肩に大薙刀を立てかけるようにして持ち、もう片手で引き抜いた銃を撃った。頷いて丘を駆け下りる。 「わたくしの使った道はあの鬼たちが来た道です。スヴァルド様の来た道を案内願えますか」 「ああ。こちらだ」 姫百合が避けてきた鬼の情報とエリアスの記憶をあわせ、最短距離を割り出して急いだ。その甲斐あって町の程近くに来たとき、槍を持った鬼を見つける。 「先行いたします」 背後から忍び寄り、二の腕を落とすつもりで薙いだ。悲鳴。一撃でこの鬼の腕を切り落とすまでには至らない。けれど武器を操るのに不都合な程度にまで抉ることであれば。 「瘴気へと返りなさい! 悪しき者よ! お前達はこの世界に居てはならない!」 無事な腕だけで槍が突き出される。避け損ねて浅く肩を裂いた。血が頬に飛び散る。 そうして姫百合が引き付けた隙に背後へ回ったエリアスは、十字剣をその背中に突き立てる。絶叫。 一方が真正面から相対している間、もう一方が死角から斬る。 奇遇にも似た戦術を選んだ二人は鬼を翻弄しながら戦った。 ● 少なくとも町から丘までの一帯に敵がいなくなってから。 丘で輝郷は遺体に手を合わせた。姫百合はひどい傷に包帯を巻いて、そして子供のほうを抱きあげる。輝郷は母親を抱き上げた。 輝郷よりもいくつか下に見える、まだ若すぎる母親だった。あの手の――。 幸田のあの手の、先にいた人。 幸田は待ちきれなかったのか、町の入り口近くにいた。駆け寄った彼に、姫百合が口を開く。 「申し訳…ございません…御救いする事、かなわず…」 震える腕が二人を受け取った。帰るべきところに帰ってきた妻子はけれど、もはや冷たく。 「つれて…帰ってきてくださり…ありがと、う、ございますっ…」 ふたつの躯をかき抱いて揺れる声で風にかすれながらそれでも伝えられた、感謝。 「…美代…良平…っ」 幸田の涙に和名はその場を離れた。小走りに森の中へ戻る。 もうすこし。あとすこし。すこしだけ早く。すこしだけ前に。 つ、と伝う涙の粒を風が散らしていく。 (仕方なかったで済ますには、諦めるには、あまりにも覚悟が出来てない人が犠牲になってしもて…) もしも――。 もしもあと少しだけ早く報せが届いて。 あと少しだけあの親子が生き延びてくれれば。 その少しだけで救えたはずだった。伸ばしたこの手は届いた、はずだった。 慟哭が嗚咽に変わる頃。姫百合は静かに語りかけた。 「…幸田様。どうか、奥様とご子息の分まで、幸せになって下さい。 間違っても、己を責めて…己の生を否定しませぬように」 美代と良平には、届かなかった。けれど。 「…アヤカシに命を奪われた、夫が死ぬ間際にわたくしに残した言葉です」 ぴくりと妻子を抱いた指が震えた。 届くだろうか。この願いは。この慰めは。この、 「それがきっと、残された者ができる唯一の事なのだと、わたくしは思います」 祈りにも似た道しるべは。 ● やがて幸田はひとつの結論を出す。 「お前たちを得られたこの身の幸いを…喜ぶよ…」 今なお嘆きながら、悲しみながら記憶を過去を喜ぶことを。 (…一体、俺は何を確認したいんだろうな) エリアスは静かに思考の中へ沈み込む。 空と千理は町には戻らなかった。 片方はいつのまにか消え、もうひとりは。 ――向こうの町でアヤカシが出たって。 ――怖いことだねぇ。 ――でもね、もう倒されたっていうよ。運がよかったんだねぇ、開拓者が居合わせたって―― 飴玉をひとつ、口へ放って噛み砕く。 口の中に飛び散る欠片を全部、砕いて溶かして飲み込んだ。 |