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■オープニング本文 ● 雨が降る。 ざあざあと、雨が降る。 雨粒がずいぶん大きくて、だから、痛いほど強く打ち付けている。 ひっきりなしにどこもかしこも埋め尽くすように降っている。 鮮やかに色づいた木々の葉を打ち叩く音。 奇妙に奥行きのある音律。 ここでも音がしているし、そこでも音が聞こえる。あっちでも。 ここにも雨粒は落ちるし、そこにも落ちている。向こうでも。 雨が降る。 ほんのわずかな時間差でひしめくように落ち続ける。 指揮者がいるかのように何か旋律らしきものを奏で、落ちている。 わずかずつ違うところへ。わずかずつ違う音で。わずかずつ違う瞬間に。 ほんの少しの違いがこの広大な森の中で、このあまたの木々の葉を奏でている。 ● 雨にけぶる深山。 炭焼き小屋に逃れることのできた運のよい者は、ごうごうと燃える火にあたることができた。 「大変でしたねぇ、こったなところで雨とは。さあさ、お火にあたってくだんせ」 炭焼きを生業にする男が、煤けた手で薪を燃やしてくれる。おそらく一人だけで生活する最低限なのだろう、小さな竈からは調理するという本来の目的を外れて火があふれている。そうでもしないと、部屋が暖まらないのだ。 きっと、男一人ならこんなに部屋を暖めたりしないのだろう。ろくに食べ物も飲み物もないこんなところで、火だけが精一杯のもてなしだった。 「勢いが強すぎて、熾は取れませんねぇ。隅の方はこっちさあたってもらえますか。少しでも温くなればいいんですが」 七輪に火を入れて竈から遠い場所に置いてくれた。部屋は狭くて、だから温まるのに時間はかからない。それでも隙間風の多いここでは、壁際だとひときわに寒い。向こうの炭焼き窯の小屋からはもくもくと白い煙が立ち上っている。あの煙が薄くなり、ほんのり青みがかったように透き通ってきたら窯を密閉するのだろう。でもまだ、それはずいぶん先のことのようだった。 こちらの小屋は最低限の生活用品と、それから薪、薪、薪。いや、は薪ではなく炭材と呼ぶのだろう。きっと。 ごうごうと火が燃える。七輪にあたっている者はふと気づいた。 煙が出ない。においがしない。……いい、炭だ。山奥で細々と暮らしながら、いい炭を焼いているのだ。きっともう、ずっと長いこと。 ごうごうと火が燃える。ゆらりゆらり、炭の黒さに華やぎを添えるように、なめらかな炎が隙間から出て炭を包み込んでいる。 きれいな火色。 なめらかで透明で、あかるい火の色。 雨が音律を奏で、火がおどる。 それは奇妙に暖かな場所だった。 ● 雨がまるですだれのように、洞窟の入り口を上から下まで覆っていた。ひどく寒々しく、そして暗い。自分の呼吸音を聞きながら、吐く息はかすかに白かった。 ――まだ秋なのに。 ともかく、まずはこの洞窟がほんとうに「使える」のか調べるところからはじめねばなるまい。崩落しないか、上から岩などが落ちてこないか。そして、動物のねぐらになっていないか。あるいはこのまま降水量が増えて中まで水が押しかけてこないか、とかそういうことを。 水滴の滴る上着を脱ぐとか乾かすとか、そういうのは後回しにしなければ。ここが寛げる場所ならそれは歓迎すべきことだが、条件次第では出ていかなければいけないだろう。 気を抜かず、洞窟に身を寄せた者は調査に乗り出した。 ● これはもう、どうしようもない。 雨の中に取り残された者は、かろうじて多少はましな木の下に雨宿りすることとなった。 ずいぶん大粒の雨で、だから、こんなにしっかりした木の下であっても全部は防いでくれない。ぽつ、ぽつと葉の隙間を縫って降ってくる。 ほんとうにこれは、どうしようもない。 向こうの空が明るいから、何時間もしないうちに晴れるだろう。それまでの辛抱だ。ついさっきまであんなに晴れていたのに、まったく山の空の変わり身の早さといったらなかった。 この場所の利点といったら、そう。 雨粒が叩く葉の音色を間近で聞けることと、雨粒が時折自分の身体をも奏でようとしてくることくらいだろうか。 いや、もうすこしあるかもしれない。 陽光ですっかり干されていいにおいになった葉が、濡れてえもいえぬ香りを放っている。 紅葉しない草木の深い深い緑のにおい。 豊かな土が湿り気を帯びてすっかり濡れそぼり、ふんわりと香っている。 どこかに蔓延った苔がやさしいにおいを振りまいて。 ――でもさすがに、ちょっと、風邪を引きそうな寒さではあるのだけど。 |
■参加者一覧 / 柚乃(ia0638) / 礼野 真夢紀(ia1144) / あざみ(ia5548) / からす(ia6525) / 和奏(ia8807) / 以心 伝助(ia9077) / フェンリエッタ(ib0018) / 西光寺 百合(ib2997) / 言ノ葉 薺(ib3225) / 東鬼 護刃(ib3264) / 遠野 凪沙(ib5179) / 玖雀(ib6816) / 春風 たんぽぽ(ib6888) / シャンピニオン(ib7037) / 朧車 輪(ib7875) / 藤田 千歳(ib8121) / 炎海(ib8284) / ダンデ=ライオン(ib8636) / 乾 炉火(ib9579) / シュエ(ib9590) / フランベルジェ=カペラ(ib9601) / ファラリカ=カペラ(ib9602) / 木葉 咲姫(ib9675) / 啼沢 籠女(ib9684) / 闇川 ミツハ(ib9693) / ソヘイル(ib9726) / 弥十花緑(ib9750) / 祖父江 葛籠(ib9769) / 至苑(ib9811) / 春霞(ib9845) / 緋乃宮 白月(ib9855) / エリアス・スヴァルド(ib9891) |
■リプレイ本文 ● 和奏(ia8807)は空を仰いだ。時折取りこぼしたように滴る雨粒があるとはいえ、頭上に広がるけやきの枝葉はそのおおかたを防いでくれる。とはいえやはり、傘を持ってくるのだった、と思わずにはいられない。行きではなく、お遣いの帰り道であるのは幸いなのだろうけども。 分厚い雲はまだまだ勢力を保ち、しばらく止みそうもなかった。どのみち予定があるわけでもない。人形めいた白い頬にまたひとつ雨粒を感じて、雨を透かして空を眺める。とおい空を隔てる雲は暗い色をしているのに、それでもその向こうに太陽があるのだろう。うっすらと光をまとっている。 「……雨、ですね……」 ぼんやりと呟いた。何も考えてなさげな横顔は――本当に何も考えていない。ただ降りしきる雨を、零れ落ちる雨粒を。肺に重く感じる濃い水の気配を、すべてをそのまま受け入れて受け流す。 そうして和奏はただ、ただ雨の上がるのを待った。 ● 洞窟に駆け込むなり、乾 炉火(ib9579)はずるずるとへたり込んだ。 「あー、洞窟あって助かったな」 動く気なんてまったくない。そんなのは若人のやることで、炉火としてはこの休息を一足先に味わいたかった。ただの洞窟でしかないが、乾いた地面と壁と天井があるだけでとりあえずじゅうぶんである。 「まずは確認しやせんと。ほら、しっかりしてくださいやし」 血の繋がらない息子・以心 伝助(ia9077)はてきぱきと確認に動き出す。敵影なし、獣の痕跡なし。壁も天井も大丈夫、入るときに見た感じ、上から岩だのが崩落してくる様子もない。よし、完了。 「しっかし寒ぃな……」 人が働いてるってのに、炉火は居心地の悪さのほうが大事らしい。もっと大事なことがあるだろう。それよりも。突っ込む前に炉火は両手を広げた。 「よし、ここは定番の人肌で」 伝助は笑顔を浮かべる。 「外に蹴り出すのと、ここで血の雨降らせるのと、どっちがいいっすか?」 目が笑ってない。これっぽっちも。なんたってこの炉火さん――まかり間違っても父なんぞと呼ぶものか――には、昔っからさんざん苦労させられている。ごめんだ。いろいろとごめんだ。 「お前、俺にだけは本っ当に厳しいよな」 悲しい寂しい切ない。おどけて泣き真似してみるが、伝助はまったくもって取り合わなかった。洞窟内の乾いた苔をかき集め、火をつける。わずかなものだがないより断然ましだった。一気に燃えてしまわないよう少しずつ苔をくべ、石の欠片で風を遮る。そうしてぼんやりと雨雲が通り過ぎるのを待っていたが、だんだんと眠気が襲ってきた。雨音に耳を澄ませていた炉火は、船を漕いでいる息子に気づく。珍しい。 「俺が見張りしてるから寝てろ」 「いや……起きてる……」 「寝てるんだからもう寝ちまえよ。ほれ」 「うー……」 渋りながらも、結局伝助は炉火に寄りかかって寝息を立て始めた。疲れていたのだろう。安定した寝息に炉火はそっと笑った。普段はきつい。ほんとうにきつい。何がって言動がそれはもうきつい。でもこうして寄りかかって寝息を立てて、こんなに穏やかそうだと。 「……俺も一応、信頼はされてんのかね」 生真面目な息子が聞いていたら、律儀にきっちりはっきりと、それはもう見事に否定していたことだろう。伝助は認めまい。なんだかんだと気を許しているなんて。 消えかけた火の中に苔の欠片を追加して、炉火は雨音の中に混じる寝息に耳をそばだてた。 ● 笠と寒さ除けの外套をまとって、乃宮 白月(ib9855)はのんびりと雨に滲む山林を楽しんでいた。ざあざあと降りしきる雨音には波があって、ひどく音楽的だった。深い緑の匂いは気持ちを落ち着かせてくれる。晴れを待つのは苦ではない。ひとりではないのだ。 「うん……こんな雰囲気ものんびりできて良いね」 ぱたぱたと白月のまわりを飛び回る姫翠はのんびりとは程遠いけれど、白月の頭の上にいいポジションを見つけたらしく暫しの間そこに落ち着いた。 「雨が奏でる音色を聞いて、自然豊かな匂いに包まれると落ち着くね」 姫翠はじーっと空を見つめてあ、と声を上げる。 「マスター、向こうの空は明るいですよ!」 「それじゃあ、じき晴れるかな。寒くない?」 うーん、と悩んで白月の懐に飛び込む姫翠。顔だけちょこんと胸元から出して、ぬくぬくとあったまる。 「えへへー、マスターは暖かいです」 最初は少しひんやりしたが、そうしていると白月にも姫翠のぬくもりが伝わる。小さな体温が暖かかった。 ● その木の下には、一人と一匹が身を寄せていた。 柚乃(ia0638)と八曜丸である。お遣いの帰り道、雨に降られるなんて。 「しばらく止みそうにないね……」 「もふ〜」 そうして雨宿りしながら、柚乃は周囲の心地よさに安らいだ。人の手が加えられた物がなくて。地面と草木と雨と、それだけ。どこか癒される空気に身を委ねて、ふと小さいころを思い出した。 「そういえば、幼い頃にも同じような事があったな。あの時は……迎えがきたんだっけ」 ひとりはぐれた柚乃を探しに来たのは、兄達だった。ほんとうに、ほんとうに心配されて。そんな思い出も今は遠い。あれから何年経っただろうか。 木々を見上げ、ふと思いつく。鳴き声なんてひとつもしないけれど。 (急な雨を凌ぐ小動物や小鳥達がいそう……?) 口ずさむように小鳥の囀りを唇に乗せた。いるかな。いるなら、一緒に待とうよ。雨が上がるのを。 小さな羽音。聞こえる囀り。 (うん、皆で一緒) 小さく歌い続けながら、手に乗ってきた小鳥を肩へと移す。 (虹が見えたらいいな) この雨が上がったら。見えるだろうか。でも、その前に。風邪をひいてしまったら、帰りを待っている人たちに余計な心配をさせてしまいそうだ。 (そうだ温泉に寄っていこう) 雨が上がったら、そうしよう。 ● 旅の道連れ。シャンピニオン(ib7037)と至苑(ib9811)は、それぞれの旅のさなかに出会い、そして幸いにも炭焼き小屋に避難することがかなった。 「凄い雨だねぇ……雨宿りできて良かった。 これも日頃の行いが良い所為かなっ……なーんて☆」 「風邪をひくことになったら困りますから、出来るだけ体の水気は拭いてくださいね?」 元気なシャンピニオンに気持ちを和ませて、微笑む至苑。至苑はまるきり突っ込むつもりなんてなかったが、シャンピニオンにとっては炭焼き小屋を見つけてくれた人だった。大振りになる前に木々の梢に隠された一筋の煙に気づいてくれなかったら、今頃この雨の中で立ち往生したかもしれない。 「ありがとう、至苑さん! 良かったらこれ……飴どうぞ♪ 身体が冷えてるなら、お汁粉も作れるよ。 甘味は女の子の必要成分だからネ!」 ドヤッと胸を反らして持ってきた携帯汁粉を掲げる。 「甘い物食べると元気出るよ!」 身軽に小屋のおじさんにも飴を配って――流れるように華麗な配給っぷりだった――お汁粉のための湯を沸かす。陽気な身のこなし。それがまた、至苑の笑みをいっそうやわらかくする。 「飴、有難うございます。 甘い物にも、あなたにも元気を貰いました。 確か私も何か……あ、これも分けましょう」 荷物から取り出したのは、月餅と緑茶「陽香」。ぱっとシャンピニオンの笑顔が華やぐ。 「わーい☆ 月餅大好き! お茶と良く合うよねvv」 寒いんだから、あったかい飲み物はいくらあっても困らない。それに女の子なんだから、甘い物だっていくらあっても困らないのだ。飲み物もお菓子も縦に置いた太い炭材をテーブルがわりにして並べる。そこらへんの炭材をこれまた居心地よく設えて椅子代わりにして、二人並んで腰掛けた。 「小さい頃ね、とと様と旅してた頃は雨宿りする事もよくあったよ」 揺らめく炎のおどるさまを見つめながら、あれこれとシャンピニオンは滑らかに喋る。闊達だったのがだんだん緩やかになって、そして途切れ途切れになる。ゆっくりとそれを聞いていた至苑は、自分に寄りかかった眠そうな頭をそっと撫でた。うとうとと夢の淵に漂っているらしい少女は、気持ちよさげにとろんとしている。 (周りを気遣えるとても優しい子……苦労しても頑張って生きてきたのかもしれない) そう、思った。明るくて華やかで闊達なこの少女は、息をするように他人を気遣う。その気遣いを他人に重く押し付けず、軽やかに。 「……おやすみなさい、良い夢を」 やさしいひと撫でが最後の一押しをしたのか、青い少女は夢の中へするりと入っていった。 ● それは祖父江 葛籠(ib9769)が修行中のことだった。修行していた――はずだった。が。 迷ったのである。 あっちも木、こっちも木。木、木、木。目印らしい目印なんぞはないし、なんたって最悪なのがこの雨だ。 「うわーん、早く帰らないと暗くなっちゃうよう」 分厚い雲に遮られた空では、時間の感覚が狂ってしまう。このまま帰れなかったら――少なくとも一晩、山の中。冗談じゃない。絶対風邪を引く。少し目立つ大きな木の下へと駆け込むと、先客がいた。ソヘイル(ib9726)、獣人の女の子。濡れた服を気にしながら、でも雨に打たれるのも楽しんでいるようだった。 「雨……止みそうにないですね」 目が合うと、声をかけてくれた。嬉しくなって笑う。 「あはっ、あなたも雨宿り?」 「はい。こういった経験は珍しいです」 アル=カマルから来たソヘイルは、こういった風景にもこんな天気にも馴染みが薄いという。寺院育ちの葛籠としてはどんな話でも聞いていて楽しかった。年の近い友人のできる環境下ではなかったのである。獣人の女の子とこんなに親しく話す機会なんてのも。 ソヘイルはしゃがんで木の幹に背中を預けた。背中にぼこぼこした木の感触。 「ボクはソヘイル、あなたは?」 「あたしは葛籠!」 元気に答え、そして震える。寒い。濡れたから、なおさら寒い。ソヘイルも恨めしげに空を見上げた。向こうの明るい空はいつになったらこのあたりまで来てくれるのか。雲の歩みは遅々として進まない。どんどん体温が冷えていく。 「ううう、寒いね」 「雨に濡れると寒いですねー」 こんなに寒いと知っていたら、そして雨が降るのがわかっていたら、もっとたくさんいろいろと準備したのに。寒くて寒くて、握った手から互いの体温を移して。それでも足らなくて、ぎゅっと抱きしめあった。そうしていると暖かい。 (雨の音って心地よいな……) こうして葛籠が一緒なら。それなら悪くない、とソヘイルは思った。そのままの雨だって悪くはないけど、一人でじっと空を見上げるのは寒すぎる。 「また、会えるかな?」 確かめるように葛籠が問う。なんとなく気の合う子。これっきりにするのはなんだか、もったいない。 「きっといつだって会えますよ」 開拓者として活動し続けるのなら、どこかで出くわすことなんてきっと、すこしも珍しくないだろうから。 ● 泥濘に足を取られ、挫いた。 (寒いなー) あざみ(ia5548)はひとり、手ごろな木の下まで足を引きずると腰を下ろす。雨音だけが耳を打った。 ぼんやりしていると思い出す。あざみの主。 (あたしに名前をくれたひと) 主様。長くてきれいな髪。きれいな組紐で結っていた。あざみの髪の色が薊のようだと、言って。 (会いたいな。 もう会えないって解ってるけど、でも) また会いたい。 シュエ(ib9590)はそのとき、濡れるのも構わずに歩いていた。あちらで二人の少女が身を寄せ合っていたり、その木の下は何かと賑わっている。それもそうだろう。それなりに大きく、遠目にも目立って雨除けにはもってこいだった。 その幾人かのうちの一人になるべく、シュエはそこに足を向ける。桃色に近い髪の少女の前を通り過ぎた、そのときだった。 視界が翳った。そのとき顔を上げたのは、ただ反射的に近づいた気配を確認した、それだけのことだった。――はずだった。 長い髪。それを結わえる組紐。 「――ぬしさ、ま」 手が動いたのも反射だった。裾を掴んで見上げた先には、知らない顔があった。 主様じゃない。 当たり前だ。 「間違えちゃった」 あは、と笑ってごまかす。彼の目は確認するようにあざみの足に注がれた。 「いや……構わん、それよりも怪我をしているな」 ごく当たり前に、まるで落し物を拾う程度の自然さで痛めた足を確認する。それから簡単に包帯を巻いた。巻き加減を工夫されただけの包帯なのに、痛みがぐっと減っている。すごい。 あっというまに手当てされて驚いて、それでも礼はのべた。ぽつん、頭に落ちてくる雨粒にはっとする。いくら木の下でも、これだけの雨が防げるわけじゃない。 「あ、風邪引いちゃうよっ」 あざみは自分の外套を彼に被せようとした。一瞬それを止めようと動いたようだったが、思い直したように素直に借りてくれる。包帯と外套を交換した縁か、二人は並んで雨が上がるのを待った。 「髪、ながーいね。主様とおんなじだー」 呟いてその髪を眺める。ほんとうに、あの印象そのままだった。あざみの主もこんなふうに、きれいな髪をしていた。 「そうか……」 静かな相槌。んしょ、と片足で立ち上がる。 「あの、名前は?」 「シュエ」 「……シュエ、さん。 あたし、あざみ」 シュエは誰かの姿を追うように、ふとさりげない笑みを浮かべた。 ● 礼野 真夢紀(ia1144)は、見つけた岩の窪みで雨宿りをしていた。小さな彼女には十分すぎる場所で、庇のように突き出た岩が雨を遮ってくれる。少し高い場所だし、苔を見るに数年は無事だった場所であろう。焚き火のあとはだめ押しだ。 (よし、使える) すばやく点検した真夢紀はその窪みに転がり込んだ。濡れた髪や服を手拭で丁寧にふき取っていく。天気さえ回復すれば乾くだろうけど、今は水気が拭えたことでよしとしておいた。できることを全部やってしまえば、あとはただ時間が過ぎるのを待つしかない。雨を眺めて、ふと思い出した。 (昔似た事あったよなぁ) どこでだったっけ。故郷だ。似たような、こんな窪みがちょうどあったはずだ。 (そうか、奥山の田んぼ近くにあった窪みに似ているんだ) それは山の奥まったところで、志体持ちの下の姉と、そしていくらか年齢を重ねてからは真夢紀の二人で作業していた棚田。 (小さい頃岩落ちないのかなって思ってたっけ) なつかしい。 ● 依頼帰りだった。ほんとうならもうとっくに山なんて抜けていられたのに、この雨の中を突っ切るわけにはゆかない。フランベルジェ=カペラ(ib9601)は身体についた水滴を払いながら弟を見上げた。 「降られるなんて、散々ね」 「雨……止まないわね……」 猫背のファラリカ=カペラ(ib9602)は、細く囁くように返した。豪快なフランベルジェの正反対、といっていいだろうか。繊細で穏やかな彼はそっと姉を見下ろす。 堂々としていて、ものごとにおびえたり戸惑ったりしない姉、フランベルジェ。少し肌寒いけれど、彼女は大丈夫だろうか。己の腕をさすり、木々の隙間から空を見上げた。薄暗くて、ずっと向こうのほうだけが明るい。このあたりの雨雲がいなくなるには今暫し時間がかかるだろう。 「姉さん、寒くない? 大丈夫?」 「大丈夫よ。あんたは、自分の心配をしなさいな」 でも。 でもずいぶん寒いのに、ほんとうに大丈夫だろうか。背を丸めたまままた姉へと視線を戻した。小麦色の肌は健康的で、ちっとも青白いところなんて見えない。震えてもいない、けれど。 「あんたは、いつも人の事ばかり見て…」 ぐっと襟を掴まれた。引き寄せるフランベルジェの力にしたがって、ファラリカは抵抗せずに身体を傾ける。猫背といっても上背がだいぶあるから、引き寄せられると屈むような格好になった。 フランベルジェは間近でファラリカを見て、軽く眉を寄せる。そうして頭を撫でた。 雨の音。湿って重たい空気、滲む景色。 頭を撫でてくれる、その手の感触。 それだけを感じていた。 ● ひとつの木の下に身を寄せた二つの影。 「っち、ついてねぇな。テメェと一緒に雨宿りなんてよ……」 色の濃い前髪の下から、ダンデ=ライオン(ib8636)は空を見つめた。あとには沈黙を雨音だけが埋めていく。 これこそ蒲公英の色だ、と言えるような髪をほんのり湿らせて、春風 たんぽぽ(ib6888)は雨雲が動いてゆくのを待ちながらぼんやりとおのれの思考の海へ漂い出た。 ――羨ましい。 隣のダンデが。羨ましくて、そして、ずるいと思うのだ。 だって。 だって知っているのだ。自分たちが本当のところどんな関係なのか。 (それなのに私には教えてくださらないのは、意地悪だ) どんな結果でも受け入れるのに。それを知らないから何を受け入れたらいいのか、どう考えていいのか。それすらわからない。 自分にできないことを、いとも簡単にやってのけるのも。 (あんなに強い目は、私は出来ない) 何より。 何より……感情が揃っている。 (誰ですか、私の事を感情豊かなんて言ったのは) 羨ましい。手を伸ばして得られるのなら伸ばすのに。でも、彼のようになれない。だって違う人間だ。別の心で別の形で別の身体で別の。 たくさんの「別の」と、いくつもの「同じ」を持ちながら生きている。別の人間。 羨ましい。 ダンデの沈み込んだ、追憶の海。それは決して、手放しで喜べたものではなかった。 (忌み嫌わた存在としてボクは生まれた) ――ダンデライオン。それが貴方の名前。 (だけど……あの手だけは、あの声だけは、受け入れてくれた) 耳の奥に残る声。名前を呼ぶ音。雨はノイズではなかった。外の世界とこの場所を隔てるヴェールのように。 ――お願い。彼女を護ってあげて。 (護ってやるよ。だから……消えるんじゃねぇ……) ――最初で最期のお願いがこんなのでごめんね。ごめんね、独りにして……。 すくった水が決して掌にとどまらないように、いなくなってしまった人。 (そうだ――……あの日に似ている……) あの日の――さらに深い記憶の底に沈む直前。小さなくしゃみにはっとした。隣にいた少女の唇が青い。 上着を脱いで放り投げる。 「羽織っておけ、さみぃんだろ」 「……優しい、ですね」 「あ……? 優しいだぁ?」 服に残った体温に包まる少女。 「バカじゃねぇの、テメェにこんな所でくたばってもらいたくねぇだけだよ」 優しさ、なんて。 ……優しさなんて、馬鹿げてる。 ● 駆け込んだ木の下は、やはり完全には雨を除けてはくれないらしい。 髪や肩にとまった雨粒を払いのけ、遠野 凪沙(ib5179)は多少の雨は享受することにした。静かな場所。 耳をかすめて落ちる雨粒。絶え間ない雨音。雨にけぶる山は輪郭がぼやけてすべての陰影が馴染み、奇妙に何もかもが同じになったような一体感を与える。そんな世界の中で、雨に閉ざされた場所で。 目を閉じる。訪れる闇。 視界が開けている間よりもさらに、感覚が鋭敏になる。雨の奏でる音律が一音一音輪郭線をあらわにする。大きな音の流れ。 それは心地よく静かな時間だったけれど、かじかんだ指先が冷えてこわばった身体が、このまま留まることを凪沙に選ばせない。 (風邪を引いて長引くのは困る) 雲の様子と雨音の強さに意識を裂き、じっと機会を待つ。やがて少し穏やかな律音へと変わっていった。 たぶん、今しかない。頭上の雲がすこしだけ、まわりより明るい色をしている。 きちんと雨を凌げる場所を求めて、凪沙は少し小降りになった雨の中へと駆け出した。 広くて平らな洞窟を確保して、からす(ia6525)はいつもどおり、いろいろな準備を始めた。 薪代わり、とまではいかないが、乾いた苔はいくらかの足しにはなるだろう。少なくとも松明だけよりは。それに火をつけ、カンテラをともして湯を沸かす。 茶を入れてのんびりしていると、ふと雨脚が弱くなったのを感じた。急ぐような足音と、人の気配。 凪沙がたどり着いたのは、なんの偶然か茶葉の香りのする洞窟だった。 「ようこそ我が家へ」 そんなことはないが。 「まあお茶でも如何か? 迷い人よ」 ニヤリと笑い、木の実も出す。 「火に当たらせてもらえるか」 「もちろんだ。お客人に風邪を引かせる趣味はないよ」 礼をいい、凪沙は冷えた身体を解きほぐした。 ● 全身に打ち付ける雨の感触。 涙のかわり。 投げやりな気持ちに身を任せて、フェンリエッタ(ib0018)は歩き続けた。 (自分などどうなってもいい。 ……それは多分うそ) ただ嫌気がさしている。 人間の愚かさに。人同士の争いに。陰謀、裏切り、疑心暗鬼。そうして争って戦い続けて血ばかり流れて、そして。 それを止められない自分も。 雨が降る。音がする。旋律を奏でているようで、無作為に降り注ぐようで。 思考の迷路に踏み込んだまま、雨音はそれを閉じ込める。出口が見えない。歩き続ける。かじかむ手も冷え切った足も動かし続けて迷い続ける。 (本当に恐ろしいのはアヤカシではなく人の方。 それでも私が人であろうとする理由は……?) ――雨に降られないように。 そう言ってもらった、てるてるもふら。 そうだ。だからフェンリエッタは人であろうとする。 (……傍で守りたいから。 温かくて優しい、懸命に生きている人達を、その幸せを) 雨音はもう彼女を閉じ込めはしなかった。全身で感じる雨粒はリズミカルで躍動的だった。 「空の涙が止め処なく私を打つのなら いっそ手を叩いて踊ろうか 雨音を集めて音楽にしよう いっそ泥だらけになって 虹の在り処を探しに行こう」 ● 炎海(ib8284)は内心、悪態をついた。 (全く……うっとうしい雨だ。 この目障りな鬼といるだけでも憂鬱だというのに……) 隣に座る朧車 輪(ib7875)。その額に盛り上がる角。 ――人間ではない。 そてだけといえばそれだけで、けれど、それでも。 いや。 それだからこそ。 ずくずくと古い傷が疼く。かつての痛みとしての鋭さはない。けれど確かに疼き、存在を主張する。 雨、雨、雨。 右目の火傷。失った羽の痕。 あの怒りをあの痛みを。 呪縛のように縛り付けてがんじがらめにして深く深く刻み込むように。そうして忘れないための。 (……否) 忘れていいはずがない。忘れてはいけない。 (あいつらの罪を、そして私の罪を) 絶対に。 「……止まない、ね」 そっと。輪は白い吐息に言葉を乗せる。視線だけ動かして隣を見た。薄闇の中に輪郭線が浮かび上がる。右目を――右目をどうかしたのだろうか。曖昧な薄闇の中で輪は思った。 「痛いの?」 沈黙。静寂、無声、呼吸音、服から滴る水の音。 答えはない。いつものことだ。横顔から見て取れる苛立ち。苦痛。苛まれ、物思いに沈む者の顔。 (炎海さんはいつも、何に苦しんで、悲しんでいるんだろう……) 彼は決してそれを輪には言わない。言ってくれない。輪だけではない。誰にも。そう、きっと、ずっと誰にも。言わないで、言いたくなくて、自分の中だけで自分ひとりで。 (一人で、背負うつもり……なのかな) 何を背負い込んでいるのだろう。何に苦しむのだろう。よく知らない。彼本人のことを。 (けど……この人は悪い人じゃない。……それだけは、分かってる) それだけでよかった。輪にとっては、それだけで。 ぴたりと身を寄せて身体をくっつけた。冷たい服がじわじわと、じわじわと互いの体温に挟まれて温まる。そうして彼の体温を感じた。 (やっぱりこうするとあったかい) すぐに引っぺがされるかと思った。炎海はちらと輪を見下ろし、視線を外す。 「……今日は寒い」 嬉しくて、少し笑った。 「……うん」 雨、雨、雨。疼く傷。小さな体温。 今日だけは。 (……こいつを許したわけでも、情が移ったわけでもない。 今日は、寒い。ただそれだけだ) 今日だけ。今だけ。雨が。 雨が上がってしまうまで。 ● 依頼帰り。春霞(ib9845)は慌てて洞窟に避難した。それはなかなかに深い洞窟のようで、奥には闇がわだかまっている。耳をそばだてて警戒しながら、深く入り込まないところで腰をおろした。武器を抱えて危険に備えるのも忘れない。 静寂。雨音。 「……雨……止まない、かなぁ……」 遠くなったせいで静かに聞こえる雨音。昔のことを思い出した。助けてくれた、ひと。 『生きていくと決めたなら、貫け』 こんなふうに静かで、こんなふうに雨の降る、そんな夜。 一振りの刀だけ置いて、朝にはもう、どこにもいなくて。 開拓者だというその人の行方は知れぬまま。 守り刀を取り出す。三色の紐で編み込まれた組紐を指先で辿った。 父と。母と兄と。ひと色ごとに思い浮かべる。 『生きろ』 彼らは自分の命を春霞に渡してはくれなかった。ただ自分たちのかわりに、組紐だけを握らせた。 「生きてくって、決めた……でも、寂しいよ……」 切ない。切なくて、たまらない。 目を閉じて。刀を抱きしめて。すがれない人たちのかわりに刀だけ抱いて。 雨音。静寂。 ひとりぶんだけの、呼吸音。 ● 摘んだ薬草の籠を置いて、西光寺 百合(ib2997)は頭上の葉を仰ぐ。ラミアを連れて来ればよかった。 (あの子は雨にも気付くのに) ぽつん、雨を感じる。ぼんやりと昔を思い出した。まだ家にいたころ。 雨に打たれるなんてなかった。薬草に触れることも。閉じ込められた部屋では、自由なんて。 現実逃避に本ばかり読んで、薬草の世界にのめり込んだ。けれど夜には引き戻される。現実に。夜毎訪れる親戚中の男。 (雨の中も素敵ね) 土や草の匂い。濃く強く感じる。 追い出されて、居場所を失った。解き放たれて自由になっても、世界はあんまりにも広かった。広すぎた。自分の中にある知識や力を、生かせるのかもわからないほどに。 価値を否定されて。なにもできないまま放逐されて。 足場どころか、自分の存在意義だって固まっていないまま。 でも。 でも友達がいた。言葉を交し合う幸いを得た。心を守ってくれる人だってできた。なにも――なにひとつ返せるものがなくて、それが申し訳ないけれど。 「……くしゅん」 ふるりと身が震える。寒い。これは風邪を引くかもしれない……。 (早く帰りたいな……) あの暖かい場所に。もらうばかりであげられるものがなくて、それが。 それがすこし、すこしだけ。 すこしだけ、心細く感じるけれど。 ● 一仕事終えた後の、帰り道だった。雨の中仮宿を求め、二つの道がひとつになる三叉路で偶然。 玖雀(ib6816)と藤田 千歳(ib8121)は顔を合わせた。 一瞬の空白。雨の音。 先に動いたのは玖雀だった。ばさりと千歳を外套で包み込むと、庇うようにして走る。 「……あそこまで走るぞ」 目に付いた洞窟を指した。玖雀が濡れるとか、そんな押し問答をするよりは従ったほうがいいだろう。こくりと外套の中で頷きを返し、千歳は足元に気をつける。自分を覆う外套の下から玖雀の足が見えた。跳ね上げる雨と泥。 そして微かに、血のにおいがした。 駆け込んだ洞窟には先客がいた。二匹の毛玉はぎゅーぎゅーと低く鳴いて威嚇している。これは移らねばならないだろう。こんな中、玖雀を連れ出すのは酷だろうが。 「お、狸か。なら大丈夫だな。 ちょっとばかり軒先借りるぞ。敵もいねえし、ここでよさげだな」 彼がいいと言うのなら。ひとつ頷いて千歳は髪を解いた。玖雀は濡れた服を絞って髪をかきあげる。濡れた頬を水が滑り落ちていった。 ――兄のような人だ。 重たい髪を拭きながら、そう思った。はじめて出てきた神楽の都で、寄る辺なく彷徨っていたころ。声をかけてくれたのが玖雀だった。今彼は自分の怪我にくるくると包帯を巻いている。 不思議と玖雀と過ごす時間があれば、心安らかになる。どんなに激しい戦いのあとも。苦しい出来事が、あったとしても。 「ふふ、千歳が居るとこんな状態でもつい和んじまうな」 似たことを。 似たようなことを、思っていたらしい。 「……こうやって二人でゆっくりと過ごすのは、久しぶりだな」 「だなぁ」 会話が途切れた。口数の多くない千歳は、こういうときに間を持たせる話題を出せない。それでも玖雀は一緒にいてくれる。 ――大切だと。思う。 (玖雀殿と共に過ごす時間が、とても好きなんだ) 雨の音だけ聞いて、そのことを確認した。 (一年、か) 絶望に暮れて一年。濡れてしまった髪紐を握り、玖雀は思った。 開拓者となって一年。望むこととは裏腹に大切な者は増えてきた。中でも千歳はその筆頭で。 ここしばらく、身の振り方を考えていた。自分の過去など血塗れているから。 なのに、その矢先にこれだ。 「どうやら切っても切れない縁が出来ちまったらしい」 滲む苦笑。雨の音。 かすかに反響して木霊している。もうしばらく止まないだろう。それが愛しくて。 ――もうしばらく。 玖雀は千歳に微笑む。 いつのまにか狸は静かになっていた。 ● 急に降られるとはついていない。言ノ葉 薺(ib3225)はようやく身体を乾かし終えて一息ついた。 「なかなか止まん雨じゃな。 まぁ、休憩するには丁度良かったかの?」 東鬼 護刃(ib3264)が上手く言葉を操った。そう、確かにただ悪態をつくには時間も惜しい。 (今この時を楽しむ方法を考えましょうか) 「しかし、まだ止みませんね」 これは長期戦の構えだろう。 「雨は嫌いではありませんが眺めるなら我が庵の窓から眺めたいですね。 それにこの時期は冷えてきてしまいますし……」 護刃を気遣って思う。こんなに寒くては風邪を引いてしまうかもしれない。 「……ふふっ、偶にはこうしてのんびりと雨音を聞くのも悪くはないものじゃな。 旅していた頃にはよくあった光景でも、薺と二人で見ればまた気分も違う。 今度はもう少し遠出もしてみるかのぅ?」 そうすればきっと、一人で見てきたものを薺と見られるだろう。些細なものも何か大きなことも。 「そうですね。では護刃には少々こちらで暖まって貰いましょうか」 ふさり、乾かすのに手間取った尻尾を預けた。護刃はそれを大事に手に取る。 「ほっほぅ。然し、薺の尾があって良かった。 乾かした後ならばこれほど暖を取れるものはないしのぅ」 くすり、微笑んで。大事にいとおしげに優しく、撫でて。 「うむ、まだ雨のにおいがするが──暖かい」 この人と。 この人と、死のあとも共にあると誓った。死などを別離の理由にはしないと。 永遠に共にと。 雨音を聞きながら、常に思うことを改めてまた、想った。 雲が切れ、光が差し込む。明るい世界。一人では行かない。護刃に手を差し伸べた。記憶に染み付いた手が重ねられる。 「さあ、我が家へ帰りましょうか」 笑顔でその手を引く。二人で光の下へ歩みだす。 「ん……ああ、晴れ間が見えてきたのぅ。 ほぉ……虹も見える。これはまた良き旅立ちになりそうじゃな」 護刃も微笑み、帰路へとついた。 ● 「おや、きみはまた雨を呼んでしまったようだね?」 「………申し訳」 啼沢 籠女(ib9684)のどこか面白がるような言葉に、闇川 ミツハ(ib9693)は遠い目をした。 本当に――本当に。なんだってこう、雨が降るのか。理由なんて決まっていた。 (雨の原因は多分オレデスゴメンナサイ 半端ない雨男なんです) 遠い目を通り越して白目。その間にもざあざあと容赦なく降り続ける雨。どうしようもない。 雨宿り先を探して歩きながら、木葉 咲姫(ib9675)はあ、と気づいた。 あの紗はきっと、あの人だ。 「この雨……不甲斐無いて上からのお叱りやったら嫌やなぁ……」 分厚い。雨雲を見上げ、弥十花緑(ib9750)は濡れそぼり重たくなった衣の上から傷を撫でた。じくり、傷む。もともと人より少しばかり冷たい手は血の色を失い、白を通り越して青い。 ため息は白く凍る。 背中に木の幹を感じながら、ぐいと掌で頬をぬぐった。ずぶ濡れだ。いつもなら人に見せないたぐいの表情を隠してくれる紗も、こう濡れて張り付いては期待できないだろう。 それでも誰もいないなら。 誰もいないから。眉をしかめてじくり、傷みを感じる。心身どちらが。どちらもだ。濡れた包帯は痛みを増長させる。 (力不足に急いて苦虫噛んで……餓鬼やなぁ……自分。……それじゃ、あかんのに) 思考に歯止めをかけたのは、人の気配だった。近づいてくる。表情を繕い、そちらを見た。 「良かった……また、お会い出来て」 「……咲姫さん?」 雨の中で彼女は頭を下げる。 「あの、……依頼では危ない所を助けて頂きありがとうございました」 「……此方こそ、ありがとうございます」 思わぬ礼だった。くすりと花緑は笑む。 (律儀で繊細なお方やね) 「俺も貴方達との縁に生かされてる身、お互い様です」 話の区切りがついたのを見て、籠女は咲姫を抱きしめた。 「僕らの姫様が世話になったね。きみが水に付き纏われないよう祈るよ」 風邪引かないで、と込めた言葉。花緑は頷き、木から背を離す。 「さて……俺は所用で適当に帰ります。 何も出来んけど、近くの洞なら雨は凌げるはずです。 風邪ひかんように、気付けてください。お嬢さん方」 この雨と乏しい光源の中だ。紗のかわりに隠してくれる。その上礼儀正しく距離を保った咲姫は、花緑の不調には気づくまい。気づけばきっと、彼女は効かないにしても治癒の手を伸べようとするだろうけれど。 気を遣わせるほどのことではない。自分の中で――そう、自分の中で整理がつかなくて、納得いかなくて、それでもそれは自分ひとりで片をつけるべきものだから。 花緑の言葉通り、すぐそばに洞があった。使うによさげで雨宿りを決めるが、籠女は楽しそうに空から注ぐ水を受けている。 「空から落ちる雫、生命の源…気持ちがいい。雨を呼び寄せるミツハに感謝だね」 「籠女殿、雨に打たれるのは良いけど…程々にな? 季節の変わり目だ、体調崩すよ?」 「雨に打たれては風邪を引いてしまいます、よ?」 楽しそうに、快さげに。雨を感じる籠女を咲姫は連れ戻す。 「風邪引かないようにね」 細やかにミツハが手拭を渡した。二人がきちんとそれを使うのを見守る。咲姫は普通に、見えたけれど。 「雨の足止め、しかし三人で喋るのもまた楽しい、いい時間だと思わない?」 「ふふ、雨もたまには良きものにございますね」 籠女に微笑み返して、会話を楽しんでいた。 (…咲姫殿、最近不安定みたい。 原因は多分うちの主だろうし) 甘露茶を淹れる。すっきりした甘さが少しは、心をなぐさめてくれるといい。 (彼は昔から理解し難いが…咲姫殿なら、大丈夫だ) 理解しろとは言わない。 (ただ、その行動・思考に至る過程を知っていてほしいんだ) 意味がないことでは、ないのだ。すべて。 空は澄んでいた。雨はもう降っていなかった。 顔を出した太陽がきらきらと、きらきらと、本当にどこまでもきらきらと、濡れた世界を輝かせる。 心地よい空気を肺いっぱいに吸い込んで、咲姫は薄暗い洞窟を出た。 「止まぬ雨はなし、にございますか……」 世界はまばゆい。あんなに薄暗くて、あんなに寒かったのに。世界はまばゆい。どこまでも。 足下がぬかるんでも、雨の降った事実がなんら変わらなくても、それでも。 「いつか、私も」 そっと呟く。もう声は反響しない。 静かに目を閉じる。でも瞼を透かして光を感じる。 「さて、皆の待つ場所へ帰ろうか―――」 「明日は晴れると良いな」 二人の声を聞きながら、手を引かれて三人で。 |