彼岸花の下
マスター名:茨木汀
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: 易しい
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/09/20 06:29



■開拓者活動絵巻
1

伊砂

カヲリ

神崎


1

■オープニング本文


 てのひらに伝わる柔らかな毛の感触。つまめば驚くほど伸びる皮膚。いったいその下の筋肉とどう連動しているんだろう……、不思議に思うほどに。
 眉間を親指の腹で撫でた。皮膚の下の骨の感触。そのまま上に撫で上げると、目と目の間は少し骨が窪んでいるのがわかる。それから小さな頭をすっぽり包むように撫でた。小さな頭蓋骨。片手でその頭蓋骨の上半分を覆ってしまえる程度の。
 分類するなら、中型犬なのだろう。なでなでなんていらない、とばかりにふんと頭を振って手を払われる。めげずにまた伸ばした。後頭部から背中まで、背骨を感じながら撫でる。きちんと並ぶあばら骨。くびれた腰。骨盤。尻尾まで骨が通っている。くわ、と牙を剥かれた。どうやらいまだに尻尾はだめらしい。
 両手で耳の下から首までをするりと撫でる。筋肉を感じながら細く痩せた筋肉の前足を辿った。ひょい、と前足を引いて逃げてしまう。昔から前でも後ろでも、足は嫌がったっけ。
「わかったよ。もうしない――」
 前足の付け根に上手く手を回して、ごろんと転がした。そのままずりり、と引き寄せて背中から抱き込んで寝転がる。ふん、と鼻を鳴らす音。頬の下にちくちく感じる草の感触。青臭い緑のにおい。鼻先に押し付けた愛犬の背中。獣のにおい。毛の感触。しかたない、と諦めたかのように身体の力を抜いて筋肉を弛緩させたのがわかる。気を許してくれている。わかってる。

 あとどれだけ、こうしていられるだろう。
 あと何年、時間が残っているんだろう。

 長生きしてくれた。ずいぶんと、長いこと。
 もう依頼には連れてゆけない。近所を歩くだけでも疲れを見せる。眠っている時間が長くなった。動きが緩慢になって、なんでもないところで躓いたり足を踏み外すことも増えた。
 あと、あと、あとどれくらい……?
 見送るだけの心は整っていない。納得ずくで諦められるほど大人にはなれない。でもどうにかして引きとめるなんて、できるわけがなかった。
 死なないでくれなんて我侭を泣き喚いてすがるには、犬というのは高潔すぎると思う。こっちがいくら気を揉んだって、悠々と日々を過ごすのだ。

 あとどれだけ、こうしていられるだろう。
 あと何回、こんな時間を繰り返せるだろう。


 腕の中に柔らかな毛並みの身体を閉じ込める。獣のにおい。弛緩した筋肉。動かない身体。感じない体温。
 どんどん食べなくなっていって、犬は静かに彼の元を去った。静かに。
 痛いとか、つらいとか、苦しいとか、寂しいとか、死にたくないとか、そんなことはなんにも言わずに。
 当たり前のような顔をして、辛気くさい飼い主にぱたりと尻尾をひとつ振って、それきり。
 犬がいなくなってひとりきりになって、ようやっと押し込めていた悲しみを吐露した。喉がひりひりと痛むほど泣いて泣いて、疲れきって亡骸を抱きしめて。
 ぼんやりとする。いい飼い主だっただろうか。自問する。
 答えなど決まっていた。いいも悪いもない。ただこの犬はひたすらに飼い主を信頼していた、それだけだ。

 あとすこしだけ、一緒にいたかった。
 すこしだけ、すこしだけ、ほんの、すこしだけ。


 神楽の都からそう遠くないところに、風そよぐ丘があるという。裸の丘で木々はわずかしかなく、見晴らしのよい斜面にはいくつもの墓標。彼岸花がどこまでも赤々と、死者の眠りを守っている。
 たったそれだけの、何もない場所。
 時折人が訪れ、掃除をして花や酒を備え、帰っていく。
 それだけの、静かな静かな、場所。


■参加者一覧
礼野 真夢紀(ia1144
10歳・女・巫
喪越(ia1670
33歳・男・陰
からす(ia6525
13歳・女・弓
宮鷺 カヅキ(ib4230
21歳・女・シ
音羽屋 烏水(ib9423
16歳・男・吟
一之瀬 白露丸(ib9477
22歳・女・弓
二式丸(ib9801
16歳・男・武
エリアス・スヴァルド(ib9891
48歳・男・騎


■リプレイ本文

●礼野 真夢紀(ia1144
 菊の花をひと束。
 薄墨色の着物。
 ふわふわした髪のからくりを連れて、真夢紀は明るい道を辿る。
「みたコトないハナ」
 真夢紀の持つ菊花に、まだ言葉の覚束ないしらさぎが興味を示した。
「これは菊の花。死者に供えるのに一番好まれている花なの」
 とはいっても、まだいろいろなことが拙いしらさぎは小首をかしげる。まじりっけのない真っ白い髪がふわ、と揺れた。
 まだわからない。彼女にはまだ、たくさんのことが足りていない。
 見てくれだけは真夢紀よりも上だけれど、今は真夢紀がたくさんのことを、世間のことを、常識を、生活することを、生きることを、…そして死ぬことを。教えなければいけない。
 普段は使わない薄墨色の着物の意味も、わかってはいない少女に。
「お葬式や法事…死んだ人を送り出したり、その人の供養をする時は真っ黒い着物なんだけどね」
「シンだヒト」
 その意味を、わからないまま繰り返す。呼吸することを教えるくらいに難しいことだった。あたりまえのように慣れ親しんだ死も生も、どうやったって言葉で説明しつくせるものではない。言葉など飛び越えたところに厳然と存在していて、だから生きていれば大抵、それを認識する。
 どう言えば伝わるのだろう。ふとひとつの慰霊祭を思い出した。あんなところに、今の状態のしらさぎを連れてはゆけない。けれどやっぱり、言葉ではないのだ。死はそこにある。生がここにあるように。
 墓地へ近づくと、目に鮮やかな赤い花の輪郭が見て取れた。足元にも気づけば咲いている。
「まっか。キレイだけど…」
 言いよどんだしらさぎを見る。頬のスリットがうっすらと見て取れて、それがなければ人間のようにも見えた。ふわふわの白い髪が顔の輪郭を縁取っている。ふわり、風に揺れる。
「こわい、のかな? 毒の花だから摘んじゃだめよ」
 白い彼岸花。それが咲いているかのようだった。ここには赤しかない。赤だけしか。
 丘の斜面をのぼる。見知らぬ誰かとすれ違った。見知らぬ誰かが墓前に佇んでいた。
「あの…このお花、お供えしても良いですか?」
 青年は真夢紀としらさぎを見比べ、ややあってしらさぎの顔立ちに気づき、小さく微笑んだ。

●二式丸(ib9801
 散歩道を引き伸ばすと、その延長線上には赤い道が続いていた。赤い道は墓場へ続き、墓場はただ静寂に満ちている。
「彼岸花…この世とあの世を、つなぐ、花」
 あちらとこちらの境界線に根を張っているかのように咲く、墓場の花。きちんと手入れされた墓の群れに、二式丸は手を合わせた。
 中には誰がいるのだろう。
 中には何がいるのだろう。
 なにひとつ知らないまま、区別もつけずにただ。丁寧に黙祷を捧げ、そっと手を解く。
 中には誰かが。何かがいるのだろう。
 丘を一周、ゆっくりめぐる。墓参りだろう、何人かが墓に手を合わせたり、花を替えたりしていた。その中で長いことひとり佇み、じぃっと墓石を見つめる青年が印象に残る。
 誰かを失った人たち。
 ついてくる七月丸が彼岸花をぱくりとやらないか、心配になって少し気を配った。そんな心配など知らぬげに、七月丸は彼岸花に鼻を近づける。二式丸が緊張をまとった。
 くんくん。
 ふい。
 すぐに興味を失ったようで、その様子にほっとする。ふもとにちょうど良い草地があって、そこへ腰をおろした。隣にちょん、と七月丸が位置取る。
 あの青年はまだ佇んでいた。ずっと。そうしていなくなった誰かのことに、心の整理をつけているのだろう。
 ――いなくなってしまった人達のことを。
 優しかった手を。明るい部屋を。目をかけ手をかけ気にかけてくれた、二式丸にとっての。
 もう二度と会えない人々を。
 秋の空はよく晴れていた。日差しは少し、きつかった。横には七月丸が、相変わらずちょんと鎮座していた。
「ナナツキは、なんで。俺のこと選んだんだろ、な」
 ほしくて得た相棒ではなかった。
 二式丸が望むより先に、七月丸が飛びついてきた。驚いたし、怖かった。けれど七月丸はそんな二式丸にはお構いなしに距離を詰めて尻尾を振って、警戒心なんてどこかに置き忘れたかのように懐いた。
 あんまりにも直裁に示された裏のない好意を跳ね除けるには、二式丸は優しすぎて。戸惑いながらも相棒に迎えた。
「頭領達がいなくなって…もう、何もいらないって思った」
 失ってすぐになにかを得ようと思えるほど、二式丸は図太くも頑丈でもなかった。
「…思ってた、んだけど」
 流れの武僧にひろわれて、たどり着いた天儀。相棒だって、もう得ている。それがたとえ望んでいなかったものでも、二式丸は自分が傷ついても相手を痛めつけようとはしなかった。傷心を自力で癒すことはできなかったけれど、傷心のままでも他者を、飛びついてきた七月丸を受け入れるだけの、そんな優しさを。
 持っていた。
「不思議、だな。お前がいると、すごく安心するんだ」
 なくしたすべては戻らない。得たものはまたいつか、なくす日が来るかもしれない。静かに思い巡らす二式丸の頬に、ぺろりと濡れた感触。
「ありがとな、ナナツキ」
 ちょんと隣に改めて座り、七月丸はまっすぐ彼を見上げていた。

●音羽屋 烏水(ib9423
 撥で弦を弾くと、独特の音が響いた。
「烏水殿。三味線を弾くのは良いもふが、静かな曲をお願いするもふ」
 いろは丸の言葉に、烏水は小さく頷いて調弦する。
「分かっておるよ」
 ただ慰めになればと、――そう願っただけだから。

 丘のてっぺんは静かで、反響するものの少ないその場所では音の多くは拡散し、空気の中で潰えていく。
「ここには多くの者が眠る土地もふ。人間も獣人も、ケモノも眠っているもふ」
「それだけ多く眠るからこそ、皆を楽しませることは難しいと言うんじゃろう?
 だが、何もせんでは慰めることも何もできんしのっ」
 思うように調弦ができてから、ようやっとまわりを見下ろす。ぽつぽつと人影が見て取れた。朋友を連れて歩く同業者たちも。
 墓前に立ち尽くす、青年の姿も。
 烏水はそこまで降りていった。いろは丸がついてくる。赤い通路を白い三尺ばかりの身体でのんびりと。振り返れば璃寛茶の鬣が揺れている。きっとまた、なにか考えているのだろう。
「よければ想い出語り、或いは晴れぬ心の吐露にと話を聞かせてもらえんじゃろうか」
 青年は驚いたように烏水を見て、それから彼がきちんと聞く姿勢を持っていることに気づきぽつぽつと語った。
 老いて死んだ相棒のことを。
 烏水はただ耳を傾ける。声が震えて聞き取りづらくなるのも、時折言葉に詰まるのも全部。自分のつたなさも経験の浅さもよく知っていたから、だから、ただ聞くことに注力した。
(願わくば願わくば、安らかなる眠りなることをな)
 ここに眠りここに葬られたもののために祈る。今わの息も安らかだったのだから、どうかこれからも。
「…一曲、奏でさせて貰っても構わんかのぅ?」
「――ありがとう」
 撥で弦を弾く。改めて確認して、静かに楽を奏でた。反響するものは少なくて、だからやっぱり空気の中に音が潰えていく。溶け込むような音に混じって、かすかな嗚咽が聞こえた。それを聞かないふりをして、それが聞こえなくなるまで、弦を弾いた。

 慰めになっただろうか。青年と別れて丘をくだり、考える。
「一句出来たもふ。風揺れし 人慰めの 彼岸花」
 食べ物が入っていないとは珍しい。
「…慰めるのは死者ではないのかの?」
 のんびり、いろは丸は答える。璃寛茶の鬣を揺らして。
「彼岸花が咲いて、この地に眠る者を守っているからこそ、訪れる人は安心して帰ることができるもふからね」

●エリアス・スヴァルド(ib9891
 ゆっくりとした上下の揺れ。四肢の筋肉が巧みに使いこなされ、心地よい躍動感と乗り心地になる。気の向くままスヴェアを走らせると、不意に広がる赤い絨毯。
「ヒガンバナ…か」
 霊騎の足を緩め、丘のふもとに降り立った。花は小さな丘を彩っている。燃え盛るように。鮮やかに華やかに、そして生々しく。墓場ではよく見かける。
 ――何故、この花は墓地に好んで植えられたのか。
(死者の眠る場所で、いつまでも辛気臭い顔でいるな。
 …という、先人の忠告かもしれんな)
 木陰を選び、赤くないそこへ腰をおろす。スヴェアの首をさらりと撫ぜてのどかな景色を見回す。静かで穏やかだった。その穏やかさが記憶を引き連れてきた。同じ部分なんてなにひとつないのに、ここは天儀であそこはジルベリアで、だから、同じなはずがないのに。
 彼女のことを。
 自分は守りたいものを守りたいように守りきっておきながら、エリアスにはそれをさせてくれなかった、
 ――血煙に霞む姿を。

 ――では寝物語にひとつ――。
 彼女とは違う甘い声、彼女とは違う赤い唇で。ある夜女郎は滔々と語って聞かせた。
 彼岸と此岸、彼方と此方。生身ではゆけない遠く遠くのここではないどこか。
 渡りたかった。あちらに彼女がいるのなら、この肉体もこの命もこの人生も未来もなんだって対価にして。
 渡れなかった。どうしても。何一ついらないのに、でもそれは。
 それは全部、彼女が望んで彼女が繋いで彼女が願ってここにあるのに。

 相棒の首を撫ぜる。かすかに光を帯びた、しなやかで強靭な首筋。
「スヴェア…オマエの前の、俺の相棒だった馬は荒れてた俺を、地の底から救い上げてくれた。
 けど…最後まで心配かけさせたまま、逝かせちまった。
 俺は、アイツにも顔向けできないな…今のままじゃ」
 彼女との出会いは喜びだった。否応なく別れは訪れた。後悔もした。荒れも、した。取り返しがつくわけもなく、さんざん記憶に苦しんだ。 
「オマエにも、情けないとこ、見せてばかりはいられないよな。
 開拓者…少し窮屈かもしれんが。
 これから頼むぜ、相棒」
 ぽん、と首を叩いて立ち上がる。
(誰にも等しく訪れる終焉の時。
 最期にどんな想いで死出の旅へ出るのか。
 オマエにどんな記憶を残してやれるのか。
 時間は有限だ…)
「よし、行くか」
 筋肉の力だけで鐙を足がかりにして跨る。振り返った墓地に立ち竦む知らない誰か。
(誰しもが…喪失を経験し…いつか乗り越える…か)
 軽く足で合図する。スヴェアは迷いなく、滑らかに走り出した。

●からす(ia6525
 散歩道。日当たりがよく風通りもよく、人気のない墓地への道は静かな散歩には都合が良かった。
「このあたりもすっかり秋どすなぁ」
 赤眼の白狐。そんな面をつけた女は――笑喝は、赤い道を辿った。そのあとを歩きながら、からすが答える。
「彼岸だからね。彼岸花も咲くさ」
 毎年ぴたりと同じころに咲くのだから。
「からくりも死の概念はあるのだよね」
「生物的な死とはまた違うもんどすが」
 物質的に存在した以上、いつか朽ち壊れ果てることもあるだろう。はるかな時の向こうで誰かが作り、長い時間を存在してきたからくりも。いつかは――。そう、いつか。今ではない、いつかは。
「形あるもんは何時か壊れるのが自然。結局のところ我々無機物も自然の一部どす」
 なめらかな、材質の定かでない肌も。
「粗末に扱えば化けて出るのも同じ事」
 ほほほ、と華やかに笑った。たとえそれが瘴気という、既に本人ではない何かであっても。
 誰の真似をしたんだか、軽やかで華やかな笑い声を聞きながら。からすは赤い花を摘んだ。少しだけ。
「毒は薬、薬は毒也」
 毒を持って獣や害虫を寄せず遺体を守り、薬にも非常食にもなる彼岸花。その毒は人を殺し人を害し人を傷つけ人を助け人を救い、そして不十分な扱いをすれば簡単に人に牙を剥く。
(悲しい思い出、情熱、思うはあなた一人)
 花言葉を浮かべる。天上の花ともいわれ、慶事に降り注ぐと――そう、聞く。
(決して不吉を呼ぶ花ではない。
 この花があるという事は無事に天に召されたのであろう。そう思う)
 摘んだ花を束ねるからすに、笑喝は首を傾けた。
「からすはんが戦場以外で死んではる場面が全く想像できまへん」
 布団とか。ありえない。自分の台詞にいいこと言ったと笑喝はうんうん頷いた。
「一応人間のはずだが?」
「いやきっと魔女の類いですわ。歳は幾つで?」
「秘密。でも酒が飲める程度さ」
 その言葉を話題の最後にして、いくつか手の届いていない場所を掃除した。
「この地に天の加護を。死せる物達の静寂を護り給え」
 祈りはどこに届くだろう。この花を降らす天上に、昇るのだろうか。

●天野 白露丸(ib9477
 ここに咲くのは赤ばかり。葉見ず花見ず彼岸花、花だけ咲かせて葉はいない。花咲く前に葉は枯れて、花が枯れれば葉が茂る。続く道には墓場だけ。
「彼岸花…悲しい思い出…か…」
 見上げた丘には赤々と、続く道には点々と。咲いているのは赤ばかり。匂いなどない花なのに、鼻腔に感じる鉄錆の香。火の爆ぜる音。おどる炎と火のにおい。肌に感じるあの熱さ。
 咲いているのは赤ばかり。花だけ咲かせて緑は茎一本。人の背丈から見れば、どこまでもただ赤々と。赤ばかり連なって見えるだけ。ただ一点、青い鱗をまとった炎來だけが浮き上がって。
 その花が咲かぬ一区画に立ち止まり、目を細め、熱と光を注ぐ陽光に手をかざす。
「燃えるように、咲いているのだな…」
 咲いているのは赤ばかり。燃えているのは赤ばかり。踊り狂うも赤だけで。
 耳の奥で火が踊る。ごうごうと踊る音がする。赤く赤く踊ってる。
 ――その赤い中で、その赤の向こうで、その赤に遮られたどこかで。

 声がした。
 声に呼ばれた。
 そんな、気がした。

 ごうごうと音がする。炎が踊る。踊ってる。赤く赤くどこまでも。
 風が炎を巻き上げて、その熱で皮膚が熱くなって。皮膚の焼けるにおいとなくした角と焼け爛れた左腕と。
 ――見つからない弟と。
 その熱に、その赤さに、その音に、燃える故郷に。
 その呼び声に。
 背を向けて、逃げ出した。大切なものを守るべきものを全部全部全部、すべて炎の中に置き去りに。
 逃げて、しまった。

 風が吹く。
 赤く揺れる。
 咲いているのは赤ばかり。燃えているのは記憶だけ。血のにおいと炎のにおいと燃える音。風音の向こうにふと聞く、あの。

 声がした。
 声に呼ばれた。
 そんな、気がした。

 見渡す限り赤ばかり。動く気配は墓参り。揺れているのは花だけで。
「…血の色の花…私を、責めているのか…」
 ひとり生き残って。ひとり立ち止まる。赤い赤い記憶の中でただひとり。
 硬質の青い鱗が、赤い世界に沈む白露丸を引き上げた。心配げに寄せられた頭。冷たい鱗。あの赤さもあの熱も、遮るような。
 片手でそっと首を抱く。心配している。させている。してくれて、いる。
「…大丈夫だ。まだ…私は、しなければならないから…終わるまでは、一緒にいてくれ」
 ほほ笑みはひどく寂しげで。
 終わったあとのことなんてひとつだって語らずに、ただ。

●喪越(ia1670
 かつん、こつん、こつ、こちん。
 かすかな音が伴奏を添える。確かな音律もなく、確たる音色もなしに、けれど陽気な鼻歌と踊る音。
 かつ。こつ。音は踊るように。主の懐で鳴いている。
 あたりには彼岸花が咲いていた。赤い赤い丘が見える。赤い赤い道が続いている。丘までの。
「主。イイ所に連れて行って下さると伺った気がするのですが、ここはいわゆる墓地ではありませんか?」
「ご名答。よく知ってたな。花丸をあげやう」
「有難う御座います。――ですが私の知識では、墓地は一般的に『イイ所』ではないとされているのですが」
「一般的には、な。さてここで問題です。俺達は今日ここで何をするのでしょーか?」
 綾音は斜め後ろから、主の顔を見上げた。いつもどおり明るくて、いつもとは少し、違うような。
「…墓荒らし?」
「げっへっへ、今日もがっぽり――って、ちゃうわ!」
 なんでそんな結論に! いや、そのほうが確かに、気楽だけども。
「お前ぇさんが俺をどういう目で見ているかよく分かったぜ…。
 墓場に来てする事なんて一つだろ。墓参りだよ」
 赤い波。赤い丘。風の音。草の音。ぽつぽつと、行き交う人の少なさ。
「ここに、何方かお知り合いが眠っておられるのですか?」
 小さな音を立てて取り出す。二つに折れて、本来の用を成さない簪。
「…いや。彼女に入る墓なんて無ぇだろうな。むしろ、霧散した瘴気はその辺の空気中を漂っているかもしれねぇ」
「空気中に…」
 は、と綾音は息を呑み、痛ましげに主を見た。これは…。
「まさか、噂に聞く『エア彼女』というものですか? 女性にモテない余り、とうとう…」
「可哀想な生き物を見るような目で見ないで! 泣いちゃうから!」
 主の訴えを、綾音は肩ひとつ竦めるだけで聞き届けた。扱いの杜撰さにほんのり切なくなりながら、くるり、と普段出さない顔を出す。
「今日は月命日でな。確かにここに眠ってるわけじゃねぇが、墓場かお寺に参るようにしてるのさ。大事なのは墓の有る無しじゃねぇ。こうして目を閉じて彼女を想い、願う、俺の心さ。良かったら綾音も付き合ってくれ」
「私にはまだ正直よく理解できませんが、それでも宜しければ」
 誠実な回答だった。理解できないことをきちんと伝えた上での、それは不器用なほどに誠実な返答だった。それが未成熟なからくりゆえの言葉だったとしても。
 ――サンクス。
 ひとこと返した礼を、綾音は頷きひとつで受け取った。

●宮鷺 カヅキ(ib4230
 夢の名残。彼方の記憶の残滓。
「これ、は…」
 瞳を閉じる。まなうらの追憶。さざなみのように、寄せて返す。

 太陽が西の際で、赤くとろりと輝いている。炉の中に入れられた鉄のような赤さで、とろりと。
 空には黄金色の雲がまばゆいばかりにたなびき、大地は赤々と花を咲かせていた。その赤さに誘われ、その赤さに目を細める。丘の上から見下ろす世界は赤かった。あの高いところにある、故郷と似て。
「…彼岸花…か」
 カヅキの足跡をたどるように。そんなふうにして赤く点々と、この花は追いかけてきたのだろうか。たとえば滴る血が止まらないまま跡を残すように。たとえば捨ててきた過去がひょいととんでもないところから出てくるように。たとえば。
 たとえばこんなふうにして、赤くわだかまっているように。
「あの赤、どうして今まで忘れていたのでしょうね…」
 昔、まだ背丈もなにもかも小さかったころ。あのころはそんなこと、なにも、意識のうちに留めさえしなかったのに。
 同じ景色を眺めて、けれど橘の心に浮かんだのは別のことだった。疑問。無数に並ぶ墓標への、どこまでも続く疑問。
「死ぬって、どういうことだ? 俺には良く分らないのだが…」
 ゆっくりと首を捻る。カヅキにどこか似た、白い髪がさらさら揺れる。
「師匠は…忘れられた時が、本当の死と言っていたけど…正直、全く理解できなかった。
 …私にも、未だ良く解っていないことだよ?」
 足下に広がる赤い花。広がる墓地。
「あの頃は死ぬことに対して何の感慨もわかなかったし…」
 赤い波と黒い墓石のただなかで、赤く鉄じみてとろける夕日に照らされて、二人はただ。
「ふむ…難しいな。今度その師匠に色々教わりたいものだ。
 …で、今はどう思っている?
 後、なくした翼は…?」
「死に恐怖は感じないけれど…まだ死ぬわけにはいかない。
 これが現実なのか夢なのかも判らないし、記憶も身体も何もかも継ぎ接ぎだけど…」
 肉のひと欠片、血の一滴まできっちり使って
 許される時間が来るまで
「私が手にかけた人達の分まで全力で生き切らなきゃ、って思えるようにはなった、かな。
 あの方と…それから」
 唇だけでその名前を告げた。
 空気を震わせずにその名を呼んだ。
「彼らに会えたお陰かもですね」
 きれいな顔を微笑むように緩めて、カヅキは静かに答えた。
「何にせよ、ヒトはいつか必ず終が来るよ。
 ならば、せめて」
 せめて――。