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■オープニング本文 ● 雨に打たれて痛んだ花弁が、みすぼらしく重力に負けて垂れていた。 紅色に色づいた酔芙蓉。あでやかなはずの花はうなだれて、花弁に湛えた水滴をひとつ、ぽつりとこぼす。 その水の冷たさに、少女はまぶたを押し上げた。開いた目にはもう、なにも映らない。夜だからだろうか。それとも、流れ続ける血が死を運び、手始めに視力を取り上げていったのだろうか。わからない。 わかるのはただ、冷たい雫の感触と自分を殺した男の顔だけ。 「だれ、か……いるの……?」 ぽつり。風にふるえる花が、応える様に水滴を落とす。頬に落ちたものは冷たいまま耳たぶのすぐ下を伝い、髪の中へ消える。 少女はほほ笑んだ。 誰もいないと思っていた。ずっと。幼いころ両親も死んで、婚約者は他に女を見つけて村を出て行った。悲しみにくれる彼女を村人達は遠巻きにし、腫れ物に触るような対応を取る。彼女自身心を閉ざしていたから、ずいぶんと疎遠になっていたものだ。おまけに、その元婚約者は現れるなり刃を振りかざす。いいかげん人の無情さに心が冷えた。 だから、自分が殺されても心の底から悲しんでくれる人はもう、いないと思っていた。 でも、泣いてくれる誰かは、いたんだ……。 (あなたの名前を知りたかった) 幸せなまま、目を閉じた。 ● 少女を襲った賊は、そのまま村を目指すつもりでいた。このまま日が落ちれば、闇に紛れて村を襲える。そばの森で息をひそめた。 彼女に出会ったのは間が悪かったが、あんな辺鄙な場所だ。わざわざ暗くなってから誰かが来るとも思えない。今は一人暮らしをしているはずだし、誰も気づきはしないだろう。顔は見られていない可能性のほうが高かったから、――彼はそう思っていた――本当は殺す必要なんてなかった。 (いや、必要だった。何をきっかけに気づかれるかわかったもんじゃない) どうしてもこの襲撃は成功させなければいけない。柳包丁の柄を握り締める。 (親父の遺産がすべて弟に譲られるなんて、指くわえて見てられっか) あれは俺のものだ。大半の財産は土地だが、業物の刀や槍が蔵に眠っていたはず。それを売り飛ばせば生活も楽になる。気に入った女を連れてつまらない村を飛び出したものの、出費と収入の調整が取れなかったのだ。町は、村にはないものが多すぎて。 次はどんな酒を飲もう。どんな遊びをしようか。空想にふけるあまり、賊は気がつかなかった。 背後から、彼が殺したはずの少女の手が伸びていることに。 ● 「酔芙蓉、という花をご存知ですか? 普通の芙蓉なら、この季節は多く見かけると思いますが」 ギルドの受付嬢は、一輪の花をカウンターに置いた。それは大輪の花で、八重咲き。ひらひらと桜色に淡く染まりかけている。 「これは今はこんな色ですが、朝には純白、昼にはこうして染まりだし、夕刻に濃く赤く色を染めて翌朝にはしおれる花です。芙蓉の一種ですが、赤くなってゆくからでしょうね。酔不要と呼ばれるそうです。 この花は落葉低木ですので、たいていは大人の腰くらいまでの大きさの低木に葉と花をつけています。そして、ここからが本題ですが」 受付嬢は芙蓉の花を横にどけ、話を続けた。 「村外れにある酔芙蓉が真っ赤に染まったまま、朝になってもしおれず、白い花も咲かない、と。大きさも大人の背丈を越えるほど大きくなっていたそうです。根元には赤黒い染みがあるように見えるし、まさかこんな状態で近づこうと思えない、と今朝連絡が入りました。 依頼は問題の「酔芙蓉」の調査です。関連性は不明ながらその異変の前日から村人の少女が消息不明。一人になりたがる傾向がある、ということで捜索依頼は出ていませんが、事件の手がかりになる可能性もあります。頭の片隅に留めておいてください。 この依頼、お願いできますか」 ● 開拓者達が訪れた村は、不自然に静かだ。 静かに、そしてあでやかに美しかった。あちらこちらに真っ赤な芙蓉が咲き乱れている。人の背丈ほど大きな芙蓉の木がそこかしこに溢れていて、むんと蒸し暑かった。少し前に雨が降ったばかりなのだろう。日陰の辺りはそこかしこがまだ湿っている。この湿気はその影響のようだ。 こんなにも問題の芙蓉があるなんて、話とは違う。開拓者ギルドに風信術の連絡が入ったときと比べて、状況がまったく変わってしまったのは明白だった。民家の入り口を塞ぐようなところに生えているのもあれば、何をどう間違えたのか、屋根に根を張っているのもいる。このぶんだと家の中にも生えているのだろう。見ずとも想像がついた。 ややあって、そわり、と気配が動いた。 人が出てきた。ひとつの民家から。 しかし、こんな状況でのんびり異常極まりない民家から出てくるのだから、ただの人間のはずがなかった。近づくに連れ、にごった目が見える。赤黒い着物の向こうには、切り傷がうかがえた。首を何かに絞められた痕跡のあるものもいる。とはいえ流れる血は流れつくしたのか、流血はしていない。屍人であることは間違いがなかった。 ● 開拓者が村に着いたころ。少女は村外れで、酔芙蓉の根元に膝を抱えて座っていた。どこかへ行くようなそぶりはない。 筋肉の限界を超えて男の首を絞めたため、その両手は痛んでいる。 人の背丈ほどにも伸びた酔芙蓉が、日も高いのに真っ赤な花を咲かせていた。 |
■参加者一覧
葛城 深墨(ia0422)
21歳・男・陰
紗々良(ia5542)
15歳・女・弓
西光寺 百合(ib2997)
27歳・女・魔
月夜見 空尊(ib9671)
21歳・男・サ
木葉 咲姫(ib9675)
16歳・女・巫
弥十花緑(ib9750)
18歳・男・武
祖父江 葛籠(ib9769)
16歳・女・武
春霞(ib9845)
19歳・女・サ |
■リプレイ本文 ● (血を吸って赤く染まったみたい) その赤色は、祖父江 葛籠(ib9769)の目にはひどく禍々しく見えた。艶やかな美しさはなく、ただひどく…不吉で気味悪いだけの。 陽光の下で赤く咲くはずのない花。 月夜見 空尊(ib9671)は銀色の瞳をすいと細める。普段の穏やかさはなりを潜め、刹那、刃のような鋭さを見せた。 「酔芙蓉の花…死に酔った、か…」 「綺麗な花ですのに、どうして…」 どうして、あふれかえるほど。 こんなにもあふれかえるほどの、瘴気があったというのだろう。悲しみに顔を曇らせる木葉 咲姫(ib9675)を視界の隅におさめて、空尊は深く息を吸った。 「我が、相手だ…!」 轟くような声とも音ともつかぬ咆哮が響き渡る。その攻撃的な存在感に引き寄せられた屍人が、のろのろと空尊へと手を伸ばして集まった。 「酔芙蓉は、私が」 生まれた空白地帯を使い、西光寺 百合(ib2997)は酔芙蓉へと向かう。ひとり空尊の術中に嵌らなかった屍人がそれを追う。朱雀の錫杖に迷わず精霊力を纏わせ、弥十花緑(ib9750)はその屍人に肉薄した。しゃん、と環が鳴る。 ――ごっ。 重い音を立てて吹っ飛ぶ身体。骨を砕いた感触があったのに、のろのろとそれは起き出す。 (…行方知らずのお嬢さんは、生きててくれるやろうか) 注意を百合から花緑に移した敵と相対し、頭の片隅でそう考えた。 最初の五体は難なく倒せた。それを見下ろして、葛籠はぽつりとこぼす。 「あの人、一人だけ首を絞められた痕…。 服も湿ってるみたい…?」 ひとりの男。継ぎ接ぎのないきれいな着物に、血のこびりついた柳包丁。葛籠の意識に引っかかった。とはいえ咆哮の招きに応じてやってきた第二波が、その疑問を突き詰める間もなく襲い掛かってくる。紗々良(ia5542)の弓を引く音が後ろで聞こえた。 鋭く空気を切り裂いて、一条の矢が先頭にいるものの足へと突き刺さる。反動で身体を揺らしたものの、たいして気にしたそぶりもなく歩き続けた。 「今度…数、多い、から。囲まれないように」 距離のあるうちに矢を射掛け、一体を落とす紗々良。葛城 深墨(ia0422)が葛籠の横でショートスピアを構えた。やってきた一体を葛籠が引き受ける。 「挟撃します。祖父江さん、その敵をもう少し後ろに引き込めますか」 「うん、やってみる」 ぎりぎりと棍を握られて押し合いをしていたところを、タイミングよく斜め後ろに退く。拮抗していた力が崩れてつんのめり、大きく隙のできた屍人の背中を深墨が穂先で貫いた。手首の捻りでぐるりと棍を回し屍人の手を外すと、葛籠はその勢いを殺さずに打ち据える。 「間に合わなくて、ごめんなさい」 地面に倒れ伏す屍に、葛籠は小さな謝罪をこぼした。 「傷は…血は、見とうございません…っ!」 中には手に刃物を持っていた者もいて、開拓者側も無傷とはいかなかった。咲姫が震える声で治癒して回る。 (一人でも良い…生きていてくれたら…) 死体ばかりが折り重なる中で、春霞(ib9845)は守り刀を握り締めた。 「それにしても酷い有様だな…無事な人がいてくれるといいけど」 深墨の言葉に同意を示しつつ、しかし紗々良は小さな呟きをこぼす。 「…静か、すぎる。生き物の…気配が、しない」 猟師としての勘めいたものに、そんな気配を感じ取った。人が生きて生活しているには、この奇妙な空白に似た静けさは異常だ。なにかがらんとしていて、あるべき生命の気配がごっそり抜け落ちている。そんな気が、した。 赤い花は百合がだいぶ片をつけてくれたのだろう。その数を減じている。かわりにあたりには死体がごろごろと転がっていた。花緑は首の繋がっているものはきちんと寝かせて瞳を閉じさせ、首を飛ばされたものは首と胴を繋げるように置いてやる。 「…随分、酔うておられるようや」 たくさんの花が赤く酔う。そのさなかで屍がふらふらと酔い歩く。鮮やかなこの色は、好きだけれど。 (間に合わんかった) 唇は笑みを刷く。すこし困ったように眉を下げて、唇はほほ笑む。 可笑しいわけではない。 苦い毒のようだ。この赤色もこの『酒』も。真っ赤で、容赦なく一縷の望みを締め上げる。そんな毒を駄々こねずに呑み込むために。 (…ただ嘆いても仕方ないんやから) 杯を干すように、すべて呑み込めるように。 治療のために伸ばした咲姫の手を、百合はやんわりと押し留めた。 「これくらいならまだ平気。練力はとっておいたほうがいいわ」 「ですが…」 「ありがとう。今は気持ちだけ頂くわ、あとでお願いね」 静かにほほ笑んで、百合は屍人のいない方向の、手近な酔芙蓉に歩を進める。他の酔芙蓉の射程圏内に入らないよう意識した。回復手の練力を温存するということは、自分の生命力を削らないということでもある。幸い向こうは動けないのだ。有利な位置を取るに限る。 「…手伝う?」 「じゃあ、あっちの酔芙蓉をお願いするわ。範囲攻撃をしてくるようだから、あまりぞろぞろと近づかないほうがいいと思うの」 こくりと頷き、紗々良は焙烙玉を持って進路上に咲く酔芙蓉へ向かった。仮に焙烙玉の一撃で倒せなくとも、彼女なら酔芙蓉の射程圏外から一方的に攻撃できるだろう。 このあたりから攻撃をしてくる。気を引き締めた百合に、酔芙蓉が花を向けて枝を振り抜く。その枝葉が切り裂いた風を、百合は半身を引いてやり過ごした。次々と飛来する無形の刃をなめらかにかわし、術の射程圏内に踏み込む。 炎が渦巻いて凝縮されたような塊を、叩き込む。火が踊った。 真っ赤な酔芙蓉さえ瞬く間に飲み込み、きちんと刈り込まれた畦道の草を焦がす。抱くかのように燃え盛る枝が百合へと伸ばされた。大きく跳び退る。一拍遅れて逃れたローブの、裾を彩るカーネーションの赤い刺繍が当たる。ちりりと刺繍糸の焦げたにおいがした。 酔芙蓉は身を振るうようにして炎を振り払う。青々と茂っていた枝葉は黒く焼け爛れているが、再び枝を振るって無形の刃を生み出した。 他方、紗々良は無形の刃を上体を捻ってやりすごし、足に絡みついた枝をナイフで切り払った。なぎ払うようにあたり一帯を振り払う枝を足の屈伸だけで飛び越え、くるりと身を捻って焙烙玉を放り投げる。即座に爆発に巻き込まれないよう後退。 爆音。ちぎれた枝葉と花。いっそう苛烈に飛んでくる無形の刃をさらに後退して避け、攻撃の範囲外に出る。そこから弓を引き絞り、放った。 ● 村の中心だろうところは、実になにもない畑のど真ん中であった。 「手分けして生存者の探索とアヤカシの駆逐をしましょう」 深墨の言葉にそれぞれ頷く。生存者の探索に深墨、空尊、咲姫が、アヤカシの討伐に百合、春華がついた。明確にどちらとも言わなかったのは花緑と葛籠、紗々良。戦術的判断で、回復できる葛籠と負傷し辛い紗々良が討伐側に、屋内でも応戦しやすい花緑が探索側につくこととなる。 「家屋を中心に探してきます」 「こっち、は…殲滅、しながら、進む」 深墨たちは民家をひとつひとつ調べて回った。納屋、蔵、母屋に厠に飼育小屋。人魂まで飛ばしたものの、どこにも命の気配は残っていなかった。 「…だめ、か」 ぽつり、こぼす。どこもかしこも、くまなく探した。それでも。 人はいない。誰も。 酔扶養の消えた地面に、花緑は手を触れる。濃い瘴気は感じない。あるとしても生活空間に満ちる程度の瘴気だろう。花は消えた。あとかたもなく。地面に根の張っていた穴だけ残して。 瘴気の塊。ただそれだけの花。 ――酔芙蓉って群生する事自体が珍しい花なのに。 しおれもしない、なんて自然界のものじゃないようね。 来るときに百合がぽつりとそんなことをこぼしていた。 冷めた雑炊。並べられた食器。 ――生活の痕跡。 春華は眉を下げた。鎌の柄を握る手に力がこもる。 「あの、屍人も…生きていて、生活していて…何で…!」 声がゆれる。喉が震えてゆらぎを生む。悲痛な声音に、紗々良は行方知れずの少女を案じた。 (無事だと、いいな…) ● 赤い赤い酔芙蓉。赤い赤い血。 痛んでおかしな方向に折れ曲がった指。動かなかった手。 花の根元に膝を抱えて蹲る――少女。 それは、もう命を落とした少女だろうか。 あるいは自分だろうか。迷うほどでも惑うほどでもないのに、どうしても咲姫は自分の過去が重なって見えた。 「行方不明になっていた子って…この子かしら」 「花に酔ったか…花が酔ったか…何にせよ、哀れなものだ…」 哀れ。空尊の言葉に百合も似た感情を抱いた。こんなところに花とひとり。 「…寂しかったんじゃないかしら」 葛籠は一歩踏み出す。酔芙蓉も少女も、静かだ。 「何であたしたちがここに来たか、知ってる? 『村人の少女が消息不明』って連絡があったんだよ。 あなたのことを、ちゃんと心配してくれてる人がいたんだよ…」 依頼というほど踏み込んだ話ではなかった。それでも言葉を添えた人は、確かにいたのだ。遠巻きに、けれど心配して気を揉んで。 「…お嬢さん。 手、どうされました。痛かった、やろうに」 花緑は苦笑した。 今わの際。赤く散った血花。冷たくなっていく身体。体温のひくい、花緑の手の冷たささえ通り越して。 脳裏を過ぎる過去。自分の手は、死者の手すら温めるにはすこし、足りない。 しゃん、と輪が鳴る。錫杖を携え近付く。少女は反応を示さない。かわりに。 酔芙蓉は枝を振り、あの不可視の刃を飛ばした。頭をふいとずらして避ける。 纏う紗の影に、笑みが消え口角の落ちた口元を隠す。ゆっくりと、息を吐いて。 しゃん、と錫杖を鳴らした。 三本の伸びた枝がすべて、花緑たちへ向いている。 深墨は駆け出した。少女の腕を掴み、酔芙蓉から引き離す。威嚇するように無形の刃が酔芙蓉から乱れ飛んだ。皮膚を切り裂き血が飛び散る。それでも深墨はむずがるように言うことをきかない少女を引き連れた。けれど。 少女の腕を掴んでいた手首を、少女が空いた手で掴む。ぎりぎりと締め付けられ、みしりと骨が軋んだ。 ――助けられない。 わかりきっていたことだった。だから、覚悟も決まっていた。 手を離す。するりと深墨の手の中から、冷たい手は離れていった。手首に締め跡だけを残して。 少女の離れた隙を活用したのは、空尊だった。大きく酔芙蓉へと踏み込み、刀を滑らせる。幹へなめらかに刃が食い込み、返す刀で。 もう一太刀。――その太刀筋を強引に修正した。深墨から逃れた少女が、酔芙蓉を庇うように飛び込んできたのだ。無理に直した軌道は体制を崩させる。修正し切れなかった切っ先は少女の肩口を捕らえた。わずかな手ごたえ。 それは酔芙蓉にとっても望まぬことであったらしい。激しい勢いで枝が伸び、空尊に巻きつく。紗々良がナイフを抜き、斬り付けた。硬い。少なくとも、あちらこちらにいた有象無象よりは明らかに。 危険だとわかっていた。今すぐ仲間の支援をすべきだともわかっていた。それでも。 ――それでも、咲姫には見過ごせなかった。 「貴女は一人ではありません…私が、私が…っ」 空尊は動けなかった。ぎりぎりと縛める枝と拮抗したまま。 咲姫がそばをすり抜ける。細い腕が少女を抱き込んだ。痩せた冷たい身体。もうどこにも命の気配なんてない。血はとうに流れつくしている。 あとからあとから、涙ばかりあふれてきた。冷たく痛んだ手がそろそろと、濡れた頬をたどる。頬を、顎を、――首筋を。 「桜花の娘!」 ぎり、と首に巻きつく指。空尊がぎりぎりと力任せに巻きついた枝を引き、ぶつりとちぎる。金属の輪が鳴る。しゃん、と鋭く。精霊の力を帯びた赤い錫杖が、鈍い音を立てて少女の脇腹を打ち据えた。衝撃で少女の手が咲姫の喉から離れる。空尊が強引に咲姫を引き剥がして背後に庇った。 こほり、咲姫が空気を取り込むのと。 鋭い鎌が少女を裂き、緑色の瞳から雫が落ちるのが。 同時だった。 百合は目を伏せ、呪文を紡ぐ。葛籠がちぎられて短くなった枝を片手の棍で捌いていた。捌き切れない部分を深墨が上手くカバーする。決して長くはない呪文は数秒とかからず完成した。 すいと酔芙蓉を指し示すと同時、深墨と葛籠が飛びのく。 炎。渦巻く炎が酔芙蓉を包み、炎の中で枝葉が燃える。のたうつように。もがくように。 紗々良が迷いなく弓を引く。まっすぐに矢は幹の中心を穿つ。 そうして酔芙蓉は消えていった。唯一、ぐずぐずと黒く崩れた、残り滓めいた残骸だけを残して。 何もかもが終わって、春華は刃に目を落とす。 「…っ」 血はついていない。それが、あんまりにも。 ――あんまりにも。 膝からくずおれる。ふ、と唇からゆれた音が漏れて。 ふわ、ふ、…わぁぁぁぁぁぁん。 ゆれるように戸惑うように、子供の、ように。 春華は泣いた。明日、また歩き出すために。 明日、生きていくために。 春華の泣き声を聞くともなしに聞きながら、葛籠は現場を見下ろす。転がった首。ぐずぐずの黒い、おそらく植物だっただろうもの。 (あたしは、人を助けたくて開拓者になったのに…) 救おうと伸ばした手の中から、すべて零れ落ちていった。伸ばした手は何も掴めなかった。 (罪の無い人がこんなにも犠牲になった。 命も、心も…助けられなかった) あとすこし早く着ければ、違ったのだろうか。あるいは生き延びた誰かにめぐり合えたのだろうか。わからない。答えは出ない。ただ。 ただ、無力だとしか思えなかった。 ● 落ち着いて調べたところ、少女のものらしき日記が出てきた。婚約と破棄。よく村はずれの酔芙蓉に話しかけていたこと。今日咲いた花の色。 また別の家からは、仕送りをせがむ手紙と放蕩者の兄への罵詈雑言の記録。 葛籠が気にしていた家は、村長の家だったらしい。屋内の様子からして増えた酔芙蓉への対策と避難場所の選定中…だったらしい。 酔芙蓉は血痕の多い場所により多く密集する傾向があるようだった。それは村外れのあの酔芙蓉から始まり、近場の民家の寝室、血まみれの寝具の広がる部屋、複数人が争ったような形跡の場所などに多かった。死が死を呼んで止まらない連鎖を引き起こしたのだろう。 「…お疲れ、さま」 紗々良は少女の亡骸に、お守りを供えて手を合わせた。苦しまずに逝けただろうか。 (次は、いい人たちに、巡り会えます、ように) せめてもの祈りを捧げる。百合が清々しい香りの蝋燭を灯した。裏切りも、嘆きも。百合はよくわかる。知っている。 でも。 「…何だか会いたくなっちゃった」 今生きて、今大切にできる人を。 ――そんな人がいる幸いを。 死にあふれ、死に酔い、死に暮れた。 赤い赤い花は一輪残さず瘴気へ散って、あとに残るは空の村。 ――あなたの名前を、知りたかった。 幸せそうな、照れくさそうな、はにかんだような。 ささやきが聞こえた。そんな、気がした。 |