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■オープニング本文 「あのね、お月様」 夕焼け空に白い月。小さな小屋にひとりの女の子。 「お月様、お昼のお魚、わたし残さず食べたのよ。今日はひとりで身をほぐして、ちゃんときれいに食べられたの」 小屋の窓から空を見上げて、女の子は語る。夕焼けを受けて薔薇色に染まった頬をして、一日のできごとを告げた。 「おや、それはそれは。じゃあ、お箸を使うのも上手になったのではありませんか?」 屋根の上、その縁に寝そべって、ひとりの少年が返事をした。瞳に赤い空の白い月をうつして、四肢を弛緩させて。すっかりくつろいだふうに、女の子に返した。 「ええ! お豆腐を崩さずに食べられたの。わたし、すごい?」 「すごいですよ。そりゃすごいことです。わたしにはとてもできそうもない、なにせ手がありませんからね」 「お月様はご飯、食べないの?」 「食べませんよ、わたしに口はありませんからね」 くつくつと笑って、少年は答えた。だらけきった猫のように、月を見る。 月を演じる少年は、ひたすら女の子につきあった。 茜空が薄く藤色に染まるころ、お月様こと少年が帰りを促す。 「さぁ、もう暗くなってしまいます。帰りなさいな、お嬢さん」 「ねぇ、お月様。お月様に会える時間は、あんまりにも短いと思うの。わたし帰りたくないなぁ」 「我侭を言ったらいけませんよ。おうちの方が迎えに来ています」 「ほんと? それじゃあ、またね。お月様」 「はい。またわたしが空にいたら、この小屋においでくださいな。お昼はだめですよ、わたしは空にいても、半分眠っていますからね。夜もだめです。お嬢さんが危ない。 日の暮れる前だけ、ですよ。お日様が眠るころなら、わたしも起きていますからね。 あと、誰かに喋っちゃいけませんよ。ほんとうはわたしら空のものが喋れるなんて、秘密なんですからね」 「はーい」 女の子が家路につく。小高い丘の上の小屋から、兄に連れられて帰っていく。 その姿がすっかり見えなくなると、少年はむくりと起き上がった。 その女の子が町に越してきたのは、女の子の父が師事先から独立し、店を構えるためだった。 けれど女の子は馴染めなかった。ひとりで遊ぶことが多くなり、この丘を見つけ、通い出した。 昔からここを隠れ家にしていた少年は、それがたいへん気に入らなかった。 自分よりもずいぶん幼い女の子を力づくで追い出そうとはしなかったが、姿を隠して声をかけ、驚かせようとしたのだ。 しかし、何をどう間違えたのか彼女は少年になついた。姿を見せない言い訳に「お月様ですよ」などと名乗って、以降ずっとそんなやりとりが続いている。 夕暮れ時に月が顔を出す日は限られている。その限られた日だけ、他愛ないやりとりが続いた。女の子が本当に困っているのを見かけたら、時々は、そう、時々は昼でも町でも、声をかけてしまうけれど‥‥基本的にこの小屋だけがお月様と喋れる場所なのだ。 最初は好意などなかった。けれど、だんだんとそんな日々がいつもの、そして嫌いではない時間になってゆく。 その、翌日のことだった。 「お月様、それでね‥‥」 夕暮れの邂逅。 女の子の、まだ未成熟な柔らかい声を聞きながら月を見上げる。弛緩させた身体に太陽の残滓が心地いい。 その耳に、ふと人ではないものの声が入った。遠吠え。 「ッ‥‥!」 女の子は気付いていない。気付かず話し続けている。それでね、今日はお母さんと編み物を‥‥。 「お嬢さん」 言葉を遮り、少年は言った。ひどく硬く、強張った声だった。 「すぐに町へお戻りなさい。力の限り走って」 「え?」 「狼が出ました。まだ遠い。今からなら逃げられます」 「え‥‥え?」 戸惑う声。けれどもゆっくり説明する暇などない。 「いいですか、まっすぐ走るんです。お月様が道を照らしていますから、絶対に迷うことなんてありません。ちゃんと、お月様がついていますから」 「ほ、ほんとう?」 「もちろんです。よく見えるようにしておきますから、さあ、お行きなさい」 そうして、駆けて行く小さな背中を見送った。そういえば名前も知らないし、顔も合わせたことがないな、と思う。越してきた子だとは知っていたが、それだけだ。 膝が笑っていた。ただの狼なら、屋根までは登ってこられまい。あの子と二人で逃げても追いつかれるが、囮として残れば希望はないわけでもない。遠い、なんて嘘だ。すぐに臭いを追ってここへ来る。 予想たがわず、少しもしないうちに森から狼の群れが現れて、瞬く間に小屋を取り囲んでしまった。 (‥‥まずった) 内心舌打ちをした。狼は狼でも――、野生動物ではなかった。 灰色の体毛。夕日に照り映えるホオズキのような赤い目。長い牙。見るからに痛そうな爪と牙。数が多い。三十はいるだろうか。 それらはしばらく小屋を取り囲んでいたが――やがて。 助走をつけ、地を蹴って。屋根の縁に足をかけて。 (‥‥いきなりお月様が喋らなくなったら、あの子、泣かないかな‥‥) 家族や友達の顔が浮かぶ中、そんなことを、考えた。 怪狼が出た。その報せに、ギルドは開拓者を募って現地に派遣した。 皆が町を出る前に、小さな女の子がおずおずと声をかけてきた。 「あの‥‥、あのね、ほんとうは、誰にも内緒なんだけど‥‥。 お月様、お返事してくれなくなっちゃったの‥‥」 涙を浮かべてひどく心細そうに、不思議な技を使う開拓者ならお月様のことも知っているんじゃないかと、一縷の望みをかけて。 けれども――。 さすがの開拓者も、それだけの台詞からではまるで要領をえなかった。 |
■参加者一覧
葛城 深墨(ia0422)
21歳・男・陰
倉城 紬(ia5229)
20歳・女・巫
山奈 康平(ib6047)
25歳・男・巫
山羊座(ib6903)
23歳・男・騎
華魄 熾火(ib7959)
28歳・女・サ |
■リプレイ本文 張り詰めた町の空気。集った開拓者たち。 「倉城といいます。今回は宜しくお願いしますね」 会釈をしてそう挨拶したのは、倉城 紬(ia5229)。手短に段取りを決めて、すぐに情報収集にとりかかる。 「すいません。お手間をおかけしますが、丘やその周辺の事を伺って宜しいでしょうか?」 「開拓者の人だね」 手間なはずがないよ。丁寧な紬の質問に、答えた町人。丘の起伏と森との距離、小屋があること、その立地場所。ここが滑りやすい、など細かな説明をする。紬はそれを、整理して記憶に刻み込んだ。 同じく情報収集に動いたのは、華魄 熾火(ib7959)だ。 「ふむ。その少年、いつも丘の上の小屋にいる、ということじゃな」 「最近は特に頻繁に出入りしてたな」 町人の答えに頷く。あまり大したことは聞けなかったが、一言礼を述べた。 (さて、と。いつも通りのアヤカシ退治、いつも通りにやるとしようか) 情報収集や事前準備の手配を終えた仲間も戻り、葛城 深墨(ia0422)は町を出るところだった。 (行方不明の子は心配だけど‥‥厳しいかもしれないな) 諦めではないが、覚悟はすべきだろう。そんなふうに意識の端に置いた深墨は、おずおずと寄ってくる子供に目をとめる。 「あの‥‥、あのね、ほんとうは、誰にも内緒なんだけど‥‥。 お月様、お返事してくれなくなっちゃったの‥‥」 「‥‥て、え。お月様? ええと、どうしたのかな?」 いつもお月様とお話している。でも、気付いたらお返事してくれなくなってしまった。そんなことを、つっかえながらも深墨に告げる。 山羊座(ib6903)はすぐに、その話に違和感を覚えた。 (何故、地の利に詳しい年上の少年と大人の隊商が被害を受け、越してきたばかりの幼い少女は助かったのか) 討伐に必要な情報かもしれない。 「ふうん‥‥。 で? お月様は何時から話さなくなった」 その質問はとても的確だった。――ただ少し、人見知りのきらいがある女の子には、彼のその鋭く険しい顔立ちに固まった。幸いもともと内気な女の子は、誰が怖いかれが怖い、と騒ぎ出すような子供らしさを発揮させることはなかったので、紬が優しく声をかけて気持ちをほぐす。 「えと‥‥、さっき。町に戻ってきたら‥‥」 「もっと詳しく話してくれ。 月は空に出てる時に話してたのか?」 こくり、と女の子は頷いた。 「内緒って事は 小娘が独りの時だけ話すんだな? どうやって独りになった」 「えっと、えっと‥‥」 「‥‥今まではお話は、いつ、どこでしていたの?」 深墨が助け舟を出すように、より簡易な言葉に直して問いかける。 「町のお外に、小さなおうちがあるの」 秘密の場所なの、と言ってだいたいの特徴を話す。それは紬が町人から聞いた、丘の上の小屋と一致する内容だった。 「怪狼が出たのも丘の小さな小屋付近だったな。 お月様は何か言ってたか?」 「狼がいるから、はやく逃げなさいって。ちゃんと、道を照らしてるから‥‥って」 空には欠けた月が輝いていた。まだ残照の残る、奇妙に薄暗く、奇妙に明るい世界の中で。 「うーん‥‥それがお月様と最後にお話したこと?」 深墨の問いにこくりと頷く。あらかじめ聞いていた、行方不明の少年、隠れ家の小屋。照らし合わせれば、何があったのか推し量るのは容易だった。 (‥‥さて、どうしようか。無理に「お月様=少年」と分かってもらう必要はないと思うけど‥‥) 小さなつむじを見下ろして、深墨はどんな理由をつけて説明しようか、と思い巡らす。 「お月様、どうして喋らないの‥‥?」 不安を滲ませる声に、紬はにっこりと微笑んで女の子の髪を撫ぜた。ずっと外にいたのだろう、ひんやりと冷たい髪だった。 「恐らくですが。お月様は町を守る為に、そのお力を使い果たしてしまったのかもしれませんね。 丘の小屋の近くに現れた狼さんは、普段目にする獣さんと違っていたと伺いましたから‥‥」 「お月様、大丈夫? 疲れちゃったの? もう眠っちゃったの‥‥?」 震える声。安心させるように、ひとかけらの不安も抱かせないように。紬はなにひとつ悟られぬよう、もう一度微笑んだ。 「お話できなくなった訳ではないと思いますよ♪ 今は休まれているので、また何年かすると話しかけてくれると思います」 「ほんとう‥‥?」 「‥‥お話はできませんが、しっかり聞いていると思うので話しかけてくださいね♪」 精一杯の努力で、今しばらくの目隠しを。深墨も頷き、空に浮かぶ月を指し示す。 「‥‥お月様は、話せなくなっちゃったけど、今も変わらずに君のことを見守ってくれるから」 果たして、女の子はこくりと小さく頷いた。 (しかし 狼に気づいて何故少女を独り帰した。 月が自分だと知られたくなかった? 何故月だと名乗った) 女の子に見送られ、小屋へと向かう道。山羊座の胸にあるのは、答えの出ない問いかけだった。 (オレには判らない。 消えた少年の心。 小娘を守ろうとしたのか。 囮にして逃げたのか) 確かなことがあるとすれば‥‥。 「月はもう喋る事が出来ないんだ」 空に浮かぶ、白く無機質な月。 少年が死んでいるのなら、あれはもう、二度と女の子に語りかけたりはしない。 ふわりと空へ舞い上がった人魂の視界と視界を共有し、深墨はあたりを見回す。時間帯が時間帯なので薄暗く、はっきりと細部までは見て取れない。けれども月がものの輪郭をくっきりと照らし出す。 「さて、獣の真似事といくかの」 呟いて、熾火は深く息を吸い込んだ。肺に満ちる空気、吐き出すと同時に喉を震わせ、月下に獣にも似た咆哮を轟かす。細い喉から出たとは思えないほど、明確に大気を揺すぶり振動が伝わった。小屋の前でじっと待つ。 瘴索結界を張り、紬は素早く軽やかに舞った。千早が翻り、望む人へと精霊の加護を与える。かなうのなら全員にかけたい。が、術の効果時間の兼ね合いで、全員に常時付与し続けられるわけではない。囮である深墨と山羊座、それから敵の注意を嫌でも引きつけている熾火を優先する。 舞をゆったりとしたものへ切り替えたところで、感覚に引っかかった。動きは止めず、千早の翻るのを感じながら口を開く。 「来ます――早い!」 深墨の人魂の視界でも、森から影が飛び出してくるのが見えた。一気に間合いを詰め、熾火めがけて飛び掛る。 真っ先に飛び掛ってきたものを、熾火は大薙刀で受け止める。 「熾火を中心に防衛。紬、神楽舞「防」を熾火に集中しれくれ、回復は俺がやる」 「わかりました」 咆哮で敵の注意を集めすぎた熾火のバックアップに紬と山奈 康平(ib6047)がつく。ゆったりと舞う紬。人魂での警戒と戦闘の同時進行は荷が重すぎ、深墨はすぐに周辺警戒を紬に託し呪縛符で次々と怪狼の自由を奪い取った。山羊座は盾で熾火を庇いながら、無言でダメージの分散に努める。 「かように敵意を集めるか」 「面白いくらい呪縛符もかかるから、抵抗力が弱いんだろうな‥‥」 身動きのとれない怪狼を、山羊座が切り捨てる。咆哮の効果は三十秒。効果が切れれば敵の動きは一変する。 飛び掛ってきた怪狼から身をかわす。すかさず深墨が符を飛ばして絡めとった。爪を振りかぶる怪狼の無防備な胸を力任せに薙ぎ払う。勢い良く弾き飛ばされる怪狼。返す刀で足元の、式に組み付かれたものを斬りつける。 「敵の動きが変わりました! 右手から来ます!」 それこそ、それは警告を発した紬を狙ったものだった。一息に距離を詰める怪狼。すかさず支援から攻勢に切り替えた深墨が符を放つ。 人の形をした、人にあらぬもの。それが現れ、その怪狼にだけ届く声で呪いの声を紡ぐ。四肢を強張らせた怪狼は、次の瞬間、瘴気へ戻って消えていった。直後に左手から怪狼が飛び込んでくる。深墨がそれに反応するより一瞬早く、熾火が体重を乗せた渾身の一撃を叩き込んだ。地面に叩きつけられた瞬間、怪狼は姿を保てず消える。息つく間もなく背後から迫った怪狼に応戦する熾火。 「紬、回復交代だ!」 力の歪みで怪狼の身体を捻り、康平は言う。敵が無差別に攻撃してくるのなら、今度は閃癒を持つ紬のほうが効率よく癒せる。 「わかりました!」 最後の一振りを舞い終え、すぐに閃癒の準備に移る。その紬に襲い掛かる怪狼。二者の間に、影が割り込んだ。山羊座だった。盾で急所を庇いつつ攻撃を受け止め、力を込めて剣を叩きつける。脳天から寸断されたそれは、ふわり、と瘴気に戻っていった。 遺体は、すぐに見つかった。 ただし――遺体、というより、遺骨、と言うべき形で。 食われた‥‥の、だろう。大部分は屋根の上で見つかったが、ところどころはあちらこちらに飛び散っていた。紬はただ黙って黙祷を捧げると、飛び散ったそれらや、どす黒く染まった布の切れ端を探し集めた。手が汚れたが、それを構ったりは、しなかった。 熾火は少年のものと、それから、商隊の遺留品を探した。その商隊もすぐに見つかる。無機物はそのまま転がっていたが、やはり、人はみな白い姿に変わっていた。 (‥‥遺体を運ぶには、一度、町に戻って担架などを借りてこないとな) それから人手もだ。胸のうちで呟いて、先に町をめざす。一度だけ、振り返った。白い、子供の骨。 (‥‥家族や友人の元で安らかに眠ってくれるといいね) 白い月がくっきりと、すべてを余さず照らし出していた。 月はとうに沈み、東の空が明るくなる。 疲れた身体で立ち上がり、康平はひとり、小屋を出た。 康平は残党を警戒し、一晩をここで過ごしていたのだ。さらに瘴索結界を展開し、森に入る。澄んだ朝の空気。何もいないことを確認して、町へと戻った。 朝の忙しい町を歩き、一軒の家を訪ねる。既に仲間たちの手によって、白くなった少年は布団の上に横たえられていた。 「真夜中までかけて、ひとつ残らず、探してくださって‥‥」 そう言う母親から、乞われて「お月様」にまつわる話をする。 「この子は少し‥‥、神経質な子でした。わたしが部屋に入るのも、ひどく嫌がって。 でも‥‥。 女の子に手加減できるくらいには‥‥優しかったのだと、誇っても‥‥いいのかしら」 白い額を撫ぜて、彼女は泣き笑いのような、そんな顔をした。 次に、康平は女の子の家族のもとへと顔を出した。はじめは仕事があるのだろう、すこし渋ったような顔をしたが、最終的に彼らは出てきた。 密かに聞いてもらいたい。そう前置きして、物陰に隠れてもらう。それから康平は女の子を連れてきた。 「話を‥‥聞かせてもらえるか」 「お月様のこと?」 緑色の目で頷く康平に、ぽつぽつと女の子は喋った。起承転結はでたらめな話だったが、お月様と話せることが嬉しくてたまらないことが伝わる。同時に、お月様がいなければ寂しさが紛れなかったことも。 ちらりと物陰に視線を向ける。娘の漠然とした孤独に、顔を覆った父親がいた。 (今後お月様や周囲へ馴染んでいく手助けの一助となれば) 知ることができたのなら、変われる可能性がある。 「お月様と、もっとたくさんお喋りしたいな‥‥」 真昼の空には月はない。それでも今なお、この女の子の関心ごとはお月様。でも。 怪狼から逃げ、皆に知らせることが出来た勇気をもって、少しずつ周囲に目を向けていってもらいたい。 康平はそう願って、小さな石を取り出す。 小屋を見て回ったが、簡素すぎるそこにはほんとうに何もなかった。だから、それは本当にただ、地面から拾い上げただけのもの。少しいびつな丸い形。艶のないざらついた表面。 「月の欠片‥‥かもしれない。いままで通り話しかければ、どこかで聞いているかもしれん」 小さな掌に、その白い石を落とす。女の子はまじまじとそれを見つめ、それからぎゅう、と握り締めた。宝物のように。 「‥‥わたし、ずっと待ってる」 「そうか」 「欠片をありがとう。また来てね」 そう言って女の子は大事に大事に欠片を握り締めて家路についた。その背中を黙って見送る。 (お月様が少年だということは、今気づかなくてもいい。いつか知るか知らないままか、それもこの子次第かな) 物陰から父親が出てくる。青ざめた母を、兄が支えていた。 深々と頭を下げ、大急ぎで女の子のあとを追いかける。きっと、何かは変わるのだ。 茜色の空。今日も月が顔を出す。 「のう童、何を想いて空を見よるか」 唐突にかけられた知らぬ声に、小屋の前で女の子はびくりと肩を震わせた。 「だ、だれ?」 「月は我のことを教えぬか」 「‥‥お月様の、お友達‥‥?」 小屋の影で、熾火がそれにどう答えるか、そんなことを考える間もなく。 「お月様元気? 怪我してない? わた、わたし‥‥、喋っちゃだめって、約束、破っちゃった、けど‥‥」 ゆっくりと目を閉じる。なおも言葉は続く。まっすぐ走ったよ。ちゃんとお月様が照らしてくれたから‥‥、必死な言葉だった。今にも泣き出しそうな、鼻にかかった声。 「雨だとて、新月という光の届かぬ闇が訪れようとて、その隔たれた闇の、雲の裏でお主を見護っておるよ」 形よい唇から言葉を紡ぐ。落ち着いた声が大気を震わせる。 (少女が泣き、寂しがる事を「月」は望まないだろう) きっと、「月」はその女の子が大事だったのだろうと、熾火は思った。だからせめて。そう、せめて。その想いが伝えられたらと‥‥、そう、思ったのだ。 「見て、いるかな」 「見て、おるよ」 「聞こえているかな」 「聞いておるよ」 「お月様‥‥、さよならじゃあ‥‥ないよね‥‥?」 「違うとも」 染みついた血痕が消えなくても、真昼の月のように白い骨だけになろうとも。さわりと吹き抜ける風が鉄錆のにおいを残していたって。 「さて、我は風‥‥気まぐれなものでな。もう行くとしよう、強く生きよ‥‥月に愛されし娘」 「行っちゃうの‥‥? もう、会えない‥‥?」 不安に揺れる声。 「何、月とこの我‥‥風と友になれたのだ、人の子とも友になれよう。大丈夫じゃ、お主は一人にあらず」 ゆるやかに微笑むように、熾火は告げた。あたたかな、声だった。 「お友達‥‥、できるかなぁ。わたしがお友達とばっかり遊んだら、お月様、寂しくないかなぁ‥‥」 「お主が幸せなら、月も幸せだろうよ」 「じゃあ、がんばってみる。風さん、また会えたら声かけてね」 軽い足音が遠ざかる。見上げた空には欠けた月。白い光が残照で赤く滲む地上を照らす。 「‥‥願わくば、今後そなたの歩む道が、混沌を避けて歩く事を祈るとしよう‥‥」 月を見上げて月に祈る。さわり、風が吹き過ぎる。薄い鉄錆のにおい。揺れる黒い髪。 「婆様の口調は、つい饒舌になってしまうのう‥‥」 くつり。既に亡い祖母を思い返して。喉の奥で熾火はひとつ、笑った。 |