嗤う肉
マスター名:ほっといしゅー
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: 普通
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/07/29 15:03



■オープニング本文

 甚兵衛の仁助の腰は、盛夏に向け蒸し暑さが増すのと同調しているかのように、悪化の一途をたどっていた。
 田植えを終え梅雨もだいたい明けて、一時は病状も良くなったかに見えたため、あづちも単なるぎっくり腰だろうと踏んで看病していたのだが、ある日を境に、患部がぶくぶくと赤黒く腫れ上がっていくのを目の当たりにし、これは何か違う、と思い至った。もはや動く元気もなく、また痛みのため服を着るのにも難儀するありさまで、小さな子供たちに手伝われ、やっとのことで、あづちは彼を近くの寺へと運び込んだ。
 お堂の縁甲板に寝せられて、腰を露わにした瞬間、いやな毒気があづちと和尚を刺激した。乞われて仁助の病状を診た和尚は、不意にその腫れが人の顔のようになって、もごもごと蠢いたのを見、危うく腰を抜かしそうになった。和尚曰く、それはいわゆる人面瘡のたぐいで、アヤカシの樟気が仁助の腰を浸食しているとのことだった。いま現在、腫れは腰一面に広がってい、このままではあと2週間もすれば、背中どころか、仁助自体を乗っ取ってアヤカシと化してしまいそうな見立てだ。早急に手を打たなくては、とは和尚もあづちも思ったが、どうすればよいのか、という点については、ふたりは考えあぐねていた。
「追い出す方法は――」
 やって大丈夫だろうか。暑さと痛みにうなされる仁助の背中を見ながら、あづちの頭の中にある考えがよぎった。それは単純で明快な手段ではあるものの、危険なため彼女は二の足を踏んでいた。しかし、悩むあいだも腫れはさらに膨らみ、盛り上がった患部の皺がぱっくりと裂け、文字通り笑い出したことが、いよいよあづちを駆り立てることとなった。
「このまま放っておけないよ。切り落とそう、小柄とかある?」
 あづちは身体中を流れる汗も気に留めず、裂けた口から零れる血を止めるため仁助の腰に木綿をあてがいながら、尋ねた。彼女の考えを聞き、和尚はそれは拙い、と声を荒げた。どんなときでも、焦ってはならない。
「ちと、落ち着きなさらんかね」
 それくらいわかってるよ。あづちは咆えた。
「どうすればいいの。ほかに手がないじゃないか」
「気持ちは分かる。だがよく準備せんと取り返しがつかなくなる」
 和尚はさらにたしなめた。彼の挙げる問題点は3つあった。まず、切り取ることに仁助が耐えられるかという点。続いて、切り離したアヤカシの種をきちんと退治できるかという点。そして――これは万が一のことなのだが、仁助の身に何かあった場合、切り落とした者が罪に問われる点。
「私がやるから」
 あづちにとって、最後の一つは取るに足らなかったから、自分が切り取るのはもとよりそのつもりだった。当たり前のことだが、失敗させるつもりもなく、また流浪の身にとってお尋ね者となることは大した問題でないのだ。‥‥実際のところは、そんネ簡単に済むとは思えなかったが、でも、その不安でアヤカシを討つ手が鈍ってはいけない、と彼女は考えていた。寝食の恩もあるし、なにより、仁助を案じ家で待っている子供たちが不憫だった。
 和尚は、切り取る以外の望みはないか必死に考えていた。薬草や、毒草か? あるいは術? 仁助の身体を厭がって自分から出て行ってくれるのが一番なのだ。もしそれらが見つからず切り取るしかないのならば、仁助の安否も気がかりだった。アヤカシを追い出すためとはいえ、大変な怪我を負うことになる。傷によっては、そのまま死んでしまうこともあり、また成功しても、傷口が化膿してしまっては意味がなかった。万全を期すためには、あづちが思っているよりも様々な処置をしなければならないと、和尚は思った。
「どちらにせよ、わしらだけでは手が足りんぞ。開拓者の助けを借りんか」
 あづちも賛成だったが、開拓者ギルドには恥ずかしくて出す顔がなかったから、それは和尚に任せた。和尚が押っ取り刀で出かけてゆくと、お堂には仁助の苦しい唸りと、ときおり板のきしむ音だけが響くのみだった。
「‥‥義理は果たさないと」
 ここ数日はろくに食べることもできず、やつれた無精ひげの哀れな姿を見ながら、あづちは呟いた。しかし、ひとりでいると、どうしても悪い方向にしかものごとを考えられず、頭を支配する結末に押し潰されそうで怖くて、あづちはまた、こっそりと泣いた。


■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
風雅 哲心(ia0135
22歳・男・魔
樹邑 鴻(ia0483
21歳・男・泰
 鈴 (ia2835
13歳・男・志
赤マント(ia3521
14歳・女・泰
赤鈴 大左衛門(ia9854
18歳・男・志
フリージア(ib0046
24歳・女・吟
西光寺 百合(ib2997
27歳・女・魔


■リプレイ本文

 7月下旬の太陽は容赦なく照りつけ、天儀の夏のまとわりつくような湿気が、鬱陶しい暑さに拍車をかけていた。和尚に導かれ、その炎天下をかいくぐって寺を訪れた開拓者たちを迎えたのは、しかし、さらに輪をかけてひどい空気だった。汗の臭い、仁助の呻き、そして瘴気が一緒くたになって、沼地の泥のように部屋に澱んでいた。戸を開けると、その重苦しいものが流れ出、開拓者たちは思わず息をしたくなくなり、口をつぐんだ。
 外の眩しさに反応し、壁に背を預け、膝を抱えて座っていたあづちは、開拓者たちを首だけ動かして見遣った。煎餅布団の上でうつぶせに寝かされた仁助にはその余裕もなく、ただ声を上げて深く息を立てるのみだった。
 ‥‥これは、災難ですわね。アヤカシに取り憑かれてしまったことには、フリージア(ib0046)は気の毒に思ったが、このような追い詰められた状態で大それたことをしようとすれば、失敗するのは火を見るより明らかだった。衛生的にも、繊細な作業を行う場所としても、この場は不適切であり、それを読み取るやいなや彼女は、消毒も兼ねて拭き掃除を始めた。道具を清潔な状態にしておくのは、医術にせよ何にせよ、作業を行うにあたっての基本だからだ。傷口の炎症や化膿を防ぐため、ヴォトカと酢水で床や壁、さらには仁助の患部やあづちの身体まで念入りに拭うと、戸口から爽やかな風が吹き込んでくるのを感じ、あづちは深呼吸した。
「さっぱりして、気持ちいいでしょう? あづちさんはもちろん――みなさんも清潔であるべきですわ」
 本当は今すぐにでもあの忌々しい顔を切り落としたかったのだが、今は開拓者を止める気も羞恥心もなく、彼女はフリージアのなすがままにされていた。さらに柊沢 霞澄(ia0067)が氷塊を作り出すと、上がるに任せていた堂内の気温が衰え始め、開拓者たちの歩きづめの足腰にも、一息入れることができそうだった。
 開拓者たちはまず一旦戸締まりをし、和尚の勧めに従い切り落とさなくて済む方法を模索した。手を下す必要がなければ、それに越したことはないのだ。身体から離れた後のアヤカシが、どういう動きをするかは全くの未知数だったため、開拓者たちは仁助の背中にみな意識を集中させた。
「こいつが効果があるかどうかは‥‥やってみないと分からんか」
 借り物の符に精霊力をこめ、風雅 哲心(ia0135)は最初の試みをした。ほのかな梅の香りが仁助の周りに漂い、わずかに残っていた瘴気をかき消したものの、仁助の背中のアヤカシには、もっとより具体的な一撃が必要そうだった。
「普段は攻撃に使っているが――こんな使いどころもあるんだな」
「ええ‥‥少しずつですが、アヤカシの根が退いていきます‥‥」
 白く輝く符を押しつけられ、厭がるアヤカシの表情を見ながらの哲心のつぶやきに、結界で反応を探っていた霞澄が返した。これだけでアヤカシを切り離すことは不可能だが、仁助への侵食を防ぐことくらいは、十分可能なように思えた。これで、仁助にとっては貴重な、時間的な余裕が与えられたことになる。
 開拓者たちにとっても、その猶予はありがたいものであった。次の一手は、医学をかじったことがあるという西光寺 百合(ib2997)が打った。かつてジルベリアで習ったものと全て同じ、というわけにはいかなかったが、それは各国に古くから伝わる生薬の処方で、急遽街で買い揃えたものをいくつか使い、仁助の手当をした。またその間に、赤鈴 大左衛門(ia9854)の手を借り、仁助が体力を取り戻すための滋養粥も拵えた。以前から仁助の病状を気にかけていた大左衛門は、気を利かせて鶏肉や鶏卵も入れたが、これは和尚も説教より栄養のほうが大事だと分かっていたため、そのことへのお咎めはなかった。もちろん、火をおこしたのには別な理由もあり、刃物や布を煮沸するのにも使うのである。
 ちょっと無理を押して仁助に啜ってもらうと、彼の身体に体温が戻り、楽になったようだった。さらに符の隣に蓬の灸が据えられ、アヤカシの居場所はますます狭まったように見えた。それでもなお、アヤカシにご退場願うまでには至らなかった。今まではいかにも厭がりそうなものを試してみたのだが、赤マント(ia3521)は逆に、アヤカシの好きなもので釣ってみようと提案した。
「血を流して、仁助以上に衰弱すれば、切断せずとも誘いだせるかもしれない」
 アヤカシが出血や痛みの観念に引き寄せられることもあるのは、あながち間違いではない。さすがの和尚もこれには驚いたが、止めに入ることはしなかった。開拓者の地力には、いつも驚かされる。とはいえ、実際のところ、これくらいのこともせずにはアヤカシに対抗できないのは確かではありそうだ。傷つけるのは腕にするか腹にするかで赤マントはちょっと迷ったが、腹膜まで切ると踏ん張りが利かなくなる恐れがあり、また比較的太い静脈が露出している手首の方が後の戦闘にも対応しやすいこともあって、彼女はこともなげに包丁をかざし、淡々と手首の内側、腱を避けた親指側へその刃を落とした。
「あまり無理するなよ」
「大丈夫、仁助の苦しみに比べれば、この程度――さあ、来い」
 アヤカシが離れたときに備え、樹邑 鴻(ia0483)が赤マントを庇えるよう構えた。正中神経を切らないよう、包丁の切っ先を縦に動かすと、静脈血がわき出した。これを見て、アヤカシがどう動くか、だ。血液が周囲にこぼれないよう布をあてがいながらも、仁助の背中の瘤へと、彼女は手首をかざした。
 案の定、彼女の予想は当たった。アヤカシは赤マントの流す血に、過剰に反応した。これが欲しいのか、ほら。彼女の手の動きを追うように、今にもそれは飛びかかりそうな勢いだったが、しかし、仁助の身体ごと持って行きかねないくらい暴れたため、彼女が十分衰弱する前に、一旦仕舞いにせざるを得なくなった。
 これで開拓者の打つ手は尽きたが、目論見通りにはいかなかったにせよ、何もしない場合と比べると雲泥の差であった。特に、瘴気の範囲を小さくし、仁助から切り取る際の面積が減ったことは、彼の予後に対して大きく影響を与えることだろう。あづちと和尚はそれに感謝すると、切り取りを始める旨を開拓者に伝えた。
 これまでのフリージアの世話によって、あづちは一見元気を取り戻したように見えたが、その異変が露見したのは、百合の魔術によって作り出された痺れ薬を、仁助に与えるべきかどうか相談したときだった。彼女は他人事のように、暴れると作業の邪魔になるから、と痺れ薬の処方を頼み、その冷淡さにすぐ気づいてアッと短く声を上げると、頭を抱えた。
「あづちさぁ。ほら、力が入り過ぎだスよ」
 すかさず大左衛門が肩を揉み、リラックスを促した。やはり、慌てるといいことがない。背中の大きな掌を感じながら、彼女は平常心を取り戻していった。血も涙もない考えをしてしまう自分の性質には、あづちもほとほと嫌気が差していたのだ。一体誰に似たのか――そんなことは今はどうでもいい。
「きっちり仕度したんだスし、万が一切り損ねても、仁助さぁ助かるようワシらが居るだス。思い切っていくだスよ?」
「ああ、心配するな。何があっても、俺達が絶対にフォローしてやるから」
 鴻の励ましもあって、あづちの突っ張った肩肘と、浅く早くなっていた呼吸は元に戻った。そう。これだけの助けを得たのだ、失敗するはずはない。
「少しでも早くよくなるために、これを‥‥」
 何をされるのか聞かされていないために不安がる仁助へは、 鈴 (ia2835)が金紅石のお守りを持たせた。確かに気休めではあるかもしれなかったが、極限状態に置かれたときの気休めは、重要な結果を左右することもある。大丈夫、きっとよくなりますから。彼は仁助の冷や汗だらけの手を上からさらに握り、励ました。そのために、自分のできることは何でもするつもりだった。これ以上、ひとがアヤカシに苦しめられるのは見たくなかったから。
 あづちは、和尚からよく研がれ、消毒してある出刃を受け取った。痺れ薬が効いてくると、仁助は眠りに落ちたかのように動かなくなった。痺れる仁助を見、あづちは、フリージアの奏でるハープが、まるで子守歌のように思えた。

 食肉をさばくかのように、施術はあっさりと終わった。準備のおかげか、仁助の怪我も、思っていたものより軽くすることができた。背中から盛り上がった瘤を切り取るのは、抉り出すよりもはるかに簡単だったからだ。仁助の背中へ、あづちが包丁を入れている間、アヤカシは何とも形容しがたい叫びを放っていた。彼女の左手にしっかりと抑えつけられ、それは、開拓者たちには断末魔の叫びに聞こえた。
 アヤカシが仁助の身体から完全に離れると、霞澄の術で彼を手当てするため、百合と鈴が彼の身体を壁際へそっと寄せた。また、アヤカシが元の鞘に収まることのないよう、大左衛門がその前に回り込んだ。
「ようやくのお出ましだな。出てきた以上はただで済むと思うなよ」
 哲心の刀が白く光った。さっきは厭がるだけだったが、今度はどうだ。
 すでに開拓者たちは次にすべきことの準備はできていたが、骨も筋も持たない、ぶよぶよした脂肪のようなものを取り上げて、あづちが開拓者に後を任せようとした瞬間、その塊は牙をむいた。それは一瞬のできごとで、開拓者たちも反応ができなかった。掴んでいたはずのアヤカシが、傷口から反り返って裏返ったかと思うと、ぬめる内側を見せながら自分の左手を逆にくわえ込むのをあづちは見、次いで激しい痛みに襲われた。包丁を放し、右手で剥がそうと試みても、アヤカシを包む粘液で指が滑り上手くいかなかった。とうとう、彼女は腰を落としたままただ後ずさりしかできなくなったが、もちろん状況は何も変わらなかった。
 無理矢理引き剥がすか? それともまた切り落とすか? 一瞬の後れを取ったが、開拓者たちは動き出した。鴻は素早く左腕に飛びかかると、肘の下をきつく止血紐で縛った。仁助の症状を見、アヤカシは皮膚の中を浸食すると彼は判断していた。気が動転して暴れるあづちは、大左衛門が後ろから羽交い締めにした。また痺れ薬を飲ませている暇はなかった。
 そして、機を窺っていた赤マントは、同じ手が使えるかもしれない、と咄嗟に閃いた。先程は仁助の皮膚が邪魔をしたが、今はまだむき出しである。アヤカシがあづちを食らう前に、自分へ――。彼女は左肘の内側の、静脈を裂いた。二の腕を包帯で縛ると、手首のときより勢いよく、血潮があふれた。
 アヤカシが血の臭いに引きつけられるのと同時に、肉塊と化したあづちの左手が大きく歪み、彼女の悲鳴が堂内に響き渡った。あまりの痛々しさに、フリージアはそれでもハープを弾いていたが、指の動きが鈍り、また霞澄は祈りの言葉を口にしていた。
「あづちさん、大丈夫‥‥心を強く持って‥‥、アヤカシに負けないよう‥‥」
 この数分間の苦しみが、あづちには永遠にも感じられたが、やがてぶちぶちといやな音がして、とうとう血の魅力に抗いきれないアヤカシと、あづちの腕は物別れになった。千切れた反動で彼女がひっくり返ろうとするのを、大左衛門はしっかりと受け止め、鈴が治療を施すため介抱した。
「ひどい、何てことを‥‥」
 あづちの手を見て、鈴は息を呑んだ。アヤカシに両親を奪われた彼にとって、この光景は耐えられるものではなかった。このアヤカシと身体はすぐ癒着するようで、アヤカシが離れた後のあづちの腕はすでに皮膚がなく、まるで湯むきでもしたかのように、血液と体液をぎらぎらと滴らせていた。爪も5本の指ぶんが全てが失われ、彼女は痛みとショックのあまり、自分の変わり果てた腕を眺めたまま、喉から絞り出すようなかすれた声で、涙をちょちょぎれさせることしかできなかった。鈴は意を決してあづちを抱きとめると、彼女の顔から吹き出る脂汗を拭きながら、大丈夫ですよ、大丈夫ですからと、慰めの言葉をかけた。
 アヤカシはといえば、かつての宿主のことなどもうどうでもいいかのように、床に落ちるとそのまま、素早く血液の持ち主に這い寄ったが、しかし開拓者たちは、今度は反応で負けることはなかった。
「遅いね! じつに遅い!」
 嗤う肉を視界に捉え、勝ち誇った笑みを赤マントは浮かべた。体内の力を呼び起こし瞬間的に血を止めると、彼女は相手を上回る速さで詰め寄り、包丁で床に釘付けにした。すかさず、それを目掛けて百合が雷を落とすと、包丁から逃れようともがいていた、アヤカシの動きは鈍った。
「治療中はじっとしていなさい!」
 アヤカシがしっかり縫い付けられていることを確かめると、鴻は早九字を切り、咆えた。彼の蹴りは包丁をものともせず、それを宙に打ち上げた。
「幹を砕くは一蹴――蹴り潰す!」
 そして、室内ではあるものの、上手く高さを抑えた上段蹴りが振り抜かれて、アヤカシに追い打ちをかけた。彼は向きを調節し、止めの一撃が楽にできるよう、仲間に向けて蹴りを放っていた。脚の手応えは十分にあったが、ぶよぶよとしたアヤカシの形がまだある以上、ここは文字通り、完膚無きまでに叩きのめすしかない。逃げて蘇るかもしれないという不安が残るからだ。
 それに応えたのは、精霊の力を宿らせた哲心の刀だった。蹴られたアヤカシの速度から逆算すると、鴻の蹴りと同時に刀を振り始めなければならなかったが、刀筋を狙いどおりに通すことは、集中力を十分に高めている今の彼にとって、大した苦ではなかった。
「逃がさねぇって、言ってるだろうが!」
 雷鳴のような一閃と共に、瘴気とアヤカシは消え去った。ふたたび、堂内には爽やかな梅の香りが漂っていた。戦いが終わり、フリージアが演奏を止めると、どこからともなく、蝉の声が聞こえた。

 アヤカシから解放された仁助は、夕方にはかなり回復し、見違えたようであった。腰の傷跡もこのまま順調にいけば、稲刈りまでには間に合うだろう。あづちの傷も軽くはなかったが、心理的な影響が大きく働いており、先程はなかった笑顔も見せるようになっていた。脅威は去り、村では子供たちが父親の帰りを待っていた。
 ふと、大左衛門は、先日あづちの手伝いのため行った田植えで、野良もふらと出会ったことを思い出した。あづちも仁助も怪我が治るまで農作業ができないため、くだんのもふらに手伝ってもらってはどうか、と助言したのだ。大左衛門の提案に、あづちもそのことを思い出したらしく――みるみるうちに顔を赤く染め、恥ずかしさのあまりどうしてよいか分からないまま、彼の肩を右手で、軽く小突いた。
 無言で。