●オープニング本文
前回のリプレイを見る「もう解放されたいのよ」
女はそう言って、どこからか手に入れた拳銃を男へと向けた。
「私には関係ないこと。あなたがなにをしていようが、あの子がなにをしていようが。私は巻き込まれただけ。私はなにも関係ない」
吐く息は白い。男の吐く息もまた、白い。
「悪いけど、この数週間、手を尽くして調べ上げさせてもらったわ。私が知らないこと、あなたが知っていることも」
女は自分が弁護士であることをこれほど有り難く思ったことはない。情報を集めるという意味でも、人脈という意味でも。
そしてあらゆる機関への太いパイプも、女にはあった。
「もちろん、調べたことが全てではないってわかってる。わかっているけれど、これを軍の上層部にリークしたらあなたはどうなるかしらね。言っておくけれど、フィンランドじゃないわよ。UPC欧州軍、よ」
こんな脅しに屈する相手ではないとわかっているし、屈したところでなにかが変わるわけではない。だが、変えたい。変えるには断ち切らなければならない。
なにを。
なにを?
切るのは、糸。
元夫であった男と自分を繋ぐ、細く赤く鋭い刃のような糸。
だが、それを切るほどの力はない。逆に、その糸は自分の首を切断する力を持っている。
今まで生きていられたことのほうが奇跡かもしれない。その奇跡を作り出していたのは、誰。
今この瞬間にも首を切断されてもおかしくはない。
今こうして生きているのも実は夢なのかもしれない。
今、今、今。
あらゆる思いが流れていく。
ただ切断されてしまったとしても、その前に――自分がやれることはやりつくして、自分を巻き込んだこの男の命を奪って、「解放」されておきたい。
――私はハンナ・ユーティライネンではない。
だけれど、この男とあの子がいる限り、その名がつきまとう。
「私は能力者だ。お前が殺せるほど弱くはない」
男は薄く笑み、静かに覚醒を遂げる。
女は「だからなに」と動じない。そして躊躇うことなく引き金を引いた。
銃声が、雪に覆われた世界に響く。森のなか、周囲の枝からは雪が落ちる。
しかし男の肩を掠めた銃弾は致命傷にはならず、白い絨毯に朱を散らすのは女のほうだった。
赤いコートが絨毯に広がる。散った朱が、コートをより赤くする。
男は拳銃を懐にしまい、女を見下ろした。
「急所は外した。調べ上げたデータを全て渡せ。そうすれば病院に連れて行ってやろう。もちろん、私が懇意にしている病院にな」
「ないわ」
「‥‥なんだと?」
「ある人物へと‥‥渡したわ。私になにかあったら、軍に送るように頼んである」
掠れる声で女は笑う。男の顔から血の気が引き、急いで応急処置を始めた。
「誰に渡した!」
「言わない」
「だったら、吐かせるまでだ。病院でじっくりな!」
止血し、女を抱き上げる。だが――そのまま、男は女ごと雪に埋もれるように倒れた。
「‥‥え‥‥っ」
女は目を見張る。目の前にあった男の顔はなく、首の切断面から吹き出す血潮が降り注ぐ。
「‥‥誰に渡したの」
先ほどの男のように自分を見下ろすのは金髪の少年。
「データ、誰に渡したの。そのなかには僕たちのデータもあるんでしょ。そしてあの裏切り者のことも」
静かな、静かな、静かな――囁き。
女は、ここまでかと瞼を閉じる。
「僕の復讐と、僕たちの楽園を奪おうとするデータ。そんなものは僕が消す。さあ、教えて。どこにあるの――おかあさん?」
少年の本意ではない最後の単語に、女は全身が総毛立つ。
人生の最期に聞かされるのに、これほど忌々しい言葉はない。
女はぼろぼろと涙を零す。
この涙の意味は、誰にもわからないだろう。
わかってもらおうとも思わない。誰かに教えるつもりもない。そんなこと、もうできやしない。
「‥‥これで、おわりにして」
女は呟く。少年はその言葉をどう捉えたのか。
ゆるりと腕を動かし――女の心臓を、貫く。
女はこの瞬間に、これまで続いた奇跡が終わったことを悟る。否、あの日――自宅が襲撃された日にその奇跡は終わっていたのだ。
――だってそうでしょう、この子はこんなにも簡単に私達を殺してしまえるのだもの。
女の吐息は不規則で、白い。やがてそれも消えたころ、少年はぽつりと呟いた。
「‥‥安心してよ。嫌でももうすぐ終わるから」
本当は半身を傷つけた連中を全て殺したい。この手で引き裂いて、引き裂いて、引き裂いて、半身や伴侶がいるならその相手も引き裂いて。
ゆるさない、ゆるさない、ゆるさない。
けれど、もう身体が保たないんだ――。
でも、まだ死ぬわけにはいかない。
らくえんに、いくまでは。
ジェミニの「両親」が惨殺されたという報は、すぐにUPCの士官から直接ジェフリート・レスターへともたらされた。
「‥‥そうですか」
ジェフは士官に小さく頷き、思いを巡らせる。
なんの予兆もなく、なんの気配もなく。能力者である父親までもが殺された。
双方にあった銃創は、互いが撃ったものであることが判明している。銃口を向け合う「両親」を、躊躇いもなく襲ったのだろう。
――突然の報に、ジェフは確信していた。
イーノスがユカ・ユーティライネンの元を離れたのだということを。
真意はわからないが、これまでユカの動きを報せていたのはイーノスだった。これほどまでにユカが身軽なのは、彼がいなくなったということだろう。
そして今、自分の後ろにユカがいてもおかしくはないほどに、危険な状態になりつつある。
しかし、最も危険に晒されているのはミカ・ユーティライネンを手に掛けた者達やイーノス――生きていれば――だろう。
そのとき、電話が鳴った。妙な胸騒ぎを覚え、受話器を取る。士官も同様の胸騒ぎを抱いたのか、息を呑む。
「‥‥北海上空にタロス? ファームライドと交戦‥‥イギリス東部の国立公園に‥‥墜落‥‥?」
そのタロスは赤黒く――かつてアフリカで観測されたイーノスのタロスと酷似しているそうだ。
ファームライドは燃料の節約のためか光学迷彩を使用せず、まだ現場上空で何かを探すように飛行している。
すぐに確認に向かうと告げて切ると、すぐにまた電話が鳴った。今度はシスター・ヘレナからだ。
『――彼が‥‥”イーノス”が、渡したいものがあると‥‥連絡してきたわ』
その言葉に、嫌な汗が噴き出す。
「‥‥タロス‥‥いや、パイロット保護の許可‥‥を」
ジェフは震える声で士官に告げる。ヘレナからの電話の内容やこれまでのこともざっと伝えると、士官は「報告しておこう」と頷いた。
イギリスの沿岸、撃墜されたタロス。
どんな形でも良い。イーノスを「保護」しなければ。
前回の傷が癒えているとは思えない。命を削っての行動であることは間違いない。
保護したときに彼が生きているという保証はないし、その確率は極めて低い。
それでも――。
彼が言う「渡したいもの」を、ユカに渡すわけにはいかなかった。
●リプレイ本文
「ファームライドを捕捉しました」
新居・やすかず(
ga1891)のピュアホワイトがロータス・クイーンによってFRを捕捉した。
皆に伝えられていく情報、特に骸龍『イクシオン』の夢守 ルキア(
gb9436)には詳細に。
ルキアはやすかずからの情報を確認、そして公園の地図と現況を見比べる。チェス盤のように印をつけた地図は、イーノスのタロスの場所を告げる際に役立つはずだ。
――ね、死んじゃヤダって、皆、頑張ってるよ。生きるって、呼吸するダケじゃないよね。
そう言って、出撃前にジェフリート・レスターに幸運のメダルを貸した。他にも必要だと思われる無線機や地図、方位磁石、ソーイングセット、ライターなどと共に。
「イーノス‥‥お前は何を考えている? 何を秘めている? 一体、何を託そうとしている?」
シラヌイS2型の『Hrsvelgr Angriff』黒羽 拓海(
gc7335)は思考する。
「‥‥だが、余計な詮索は後だ。イーノスの真意を知るためにも、今はユカには退いて頂くとしよう」
そのためには、FRを北海まで誘導しなければならない。
やがて近づいてくる北海沿岸の国立公園、その森の上空にそれはいた。
赤い機体――ファームライド。姿を隠そうとしないその様からは、明らかな焦りが見えた。
「随分久しぶりですねっ。あのファームライドッ」
かつてジェミニに追いかけ回された記憶があるヨグ=ニグラス(
gb1949)。シュテルン・G『ブレイキン』の操縦桿を握る手に力がこもる。
「前回の襲撃の後、何が起こったのかは詳しくは分かりませんが‥‥状況から考えるに、あまり良い方向には、向かっていないようです、ね」
急がないと――九条院つばめ(
ga6530)が呟く。
イーノスという重石が外れ、残された時間が少ない今のユカは何をしでかすかわからない。
「全てが手遅れになる前に、止めないと‥‥!」
そしてディスタン『swallow』も真っ直ぐにFRへと向かっていく。
その、直後。
『誰を止めるんだって?』
突如として響くそれは、双子座ユカ・ユーティライネンの、いつもより低い声。
『別にいいけどね。お前たちが僕を止める前に森を焼いて、あの男を燻りだしてやるから』
そう告げると、FRは高度を下げ始める。
「残念だが、お前の探し物はもう回収した。今頃は北海の辺りだろうな」
『‥‥なんだって?』
拓海の言葉にユカは反応する。
『どこだよ、北海のどこだよ!』
激昂するユカ。そのまま大きく機体を旋回させ、こちらへと向く。だが、その空域から出ようとはしない。焦りのなかにも、冷静さが残っているのだろう。
「何が望みです‥‥?」
ミカガミ『白皇 月牙極式』の終夜・無月(
ga3084)が問う。
『別になんだっていいだろ。それより、攻撃してみる? 今ここで僕に攻撃して、外れたら大変だよ? だから、北海のどこなのか教えてよ。今すぐ探しに行くから。でも念のため、地上を焼いてからね』
くすくすと笑うユカ。読まれているか――拓海が眉を寄せる。
どうやって北海まで誘導するべきか。やや危険だが、さらなる挑発が必要かもしれない。つばめはFRを見据えた。
「ユカ、聞きなさい! 貴方の半身を傷つけた人間が一人ここにいる‥‥許せないのなら、バラバラに引き裂いてしまいたいのなら‥‥余所見をしている暇はないはずですよ!」
――双子座のファームライドとまたこうして相対するときが来るなんて‥‥因縁、ですかね、これも‥‥。
微かに表情を崩すつばめ。
FRが、ひどくゆっくりと旋回する。
『‥‥おまえから、けしてやる』
その瞬間、FRが消えた。
――来る。
つばめが息を呑んだ直後、機体に重い衝撃が伝わる。
「‥‥く‥‥っ」
なんとか体勢を立て直し、北海方向へと機体を飛ばす。陸から離れていく。
ユカは追いすがり、第二波を放とうとする。だが、二機の間に滑り込むのはヨグ機。
「PRMシステムッ。ちょっと頑丈になっててブレイキンッ」
ユカの攻撃はつばめには届かず、ブレイキンを掠めていく。
「先にこっちの相手をしてもらいますっ」
「姿を現してもらおうか」
ヨグ機の隣に拓海機もブーストで入り、二機はペイント弾を仕込んだ十式高性能長距離バルカンを同時に放つ。
ペイント弾が命中したFRは、その姿を現した。
さらにはルキア機が煙幕を。視界を奪われたユカが喚き散らす。
『ふざけんな! お前ら邪魔だよ!』
「邪魔? でも、喰らいつくと思うんだ、私だし」
笑む、ルキア。いくらでも邪魔だと思ってくれていい。鬱陶しいと思ってくれていい。思考する時間は与えやしない。
『見えなくたって撃てるんだからな!』
狙いなど定めるつもりはない。ただひたすらに放てば、何発かはKVたちに命中する。追いたいのはあのディスタン、それ以外は眼中にない。
しかし離れた場所からレーザー砲を受ける。視線を移動させれば、そこにはピュアホワイト。
『そうだ、あいつも‥‥』
先ほど傍受した通信の声は覚えがある。
だが追おうとしたとき、ヨグ機がやすかず機を護るべく煙幕を張り、さらには無月機がその手前で高分子レーザーライフルの照準を合わせてきた。
『くそっ』
奥歯を鳴らすユカ。
既に離脱して射程から外れたやすかず機は、そのままルキアと共にタロスの捜索を再開する。
ほどなくして、タロスを確認した。
「タロスらしき姿を確認しました。キメラはいなさそうです」
やすかずがルキアに伝える。
「間違いない、あれはイーノス君のタロス」
ルキアも空からカメラと目視で確認する。
「聞こえる? <北,東>(5,2)地点、探してみて。外に脱出した可能性も、あるよね。上空からじゃ、狙い撃ちだし」
地上へと無線連絡を入れると、傍受対策として返事の代わりにノイズが返ってきた。
連絡を受けた地上では情報に従って全速で進み、イーノスのタロスが墜落した場所に到着した。
煙こそ出ていないが、微かにまだ燻っている。周囲を見渡すと、東の方角へと点々と血痕が続いていた。地上の三人はそれを辿って進む。
「助けますの、必ず‥‥イーノス様を助けますの」
救急セットを抱き締めてInnocence(
ga8305)が強く言う。
天野 天魔(
gc4365)は軍用双眼鏡で空の様子を確認するが、ユカがこの上空に戻ってくる様子はない。
「イーノスは自分のことをValkoinen、君をMustaと言ったが心当たりは?」
天魔はジェフに問う。
イーノスがかつてのイーノスでないように、ジェフも白でない?
――こうなるとシスターやヘレナやユカも本人か疑わしく思えてくる。
「いや、心当たりはない」
「‥‥やはり当事者に話を聞くしかないか」
天魔は小さく頷く。
「‥‥君は全ての答えを知っているのか、イーノス?」
天魔は、森の奥へと問いかけた。
――そのとき、天魔の問いに答えるかのように茂みが揺れた。
ユカとの戦闘が本格化すると、ヴィジョンアイやG放電装置を使っての支援を始めるやすかず。
もう姿を隠すことができないFRは戦法すらなく、闇雲にKVたちへの攻撃を放ち続けていく。
やすかずはふと思考する。
殊更戦いや勝利を求める性質ではない自分が、何故ユカの打倒を望むのか。
成り行きのままに流された結果として能力者になったことに、自分で選んだとは言い切れないその選択に意味があったのだと、他の道ではなく能力者としての道を歩んだことが無駄ではなかったのだという証が欲しかったのかもしれない。
今になって、そう――思う。
ルキアとのデータリンクは続けられる。ふいにルキアが呟いた。
「双子座は‥‥ひとりでの空は慣れていないんだね」
ユカからはそんな様子が嫌というほど見て取れる。電子支援をするまでもないくらいに、ひどい動きだ。
完全に態勢を立て直したつばめは、再度ユカと向き合った。
――ここで撃墜する。それほどの強い気持ちを込める。もう、ユカは私たちを無視できないのだから。
ツングースカの弾幕、そこに混ざるのはスナイパーライフル。惜しみなくイクシード・コーティングを発動し、この空に長く留まり飛び続けるつばめ。
無月機の高分子レーザーライフルが装甲を抉る。拓海機のバルカンとクロスボウに翻弄される。全力機動で挑む無月機と拓海機を、ユカはなかなか捉えられない。
『みんな嫌いだ! だいきらいだ! 僕は、僕たちは、ただずっと二人で一緒にいたかっただけなのに! どうして引き裂くんだ、どうして邪魔するんだ、僕たちが何をしたっていうんだ!』
全てを裂くような、血を吐くような、ユカの叫び。
「もう、残弾もほとんどないんじゃないかな」
静かに、ルキアが言う。残酷な現実、決してFRは弱い機体ではなく、脅威であることは誰もが知っている。
だけれど――それを駆るパイロットは。
無月機がM−12強化型帯電粒子加速砲を、やすかず機が凍風を。そしてつばめ機が8式螺旋弾頭ミサイルを。
悟ったユカは、FRをそこから退避させようと急上昇をかける。
「やや。このやろーっ」
阻むのはヨグ機のスラスターライフル。上昇の邪魔をされたユカは、一瞬だけヨグ機に意識を払う。
そこに喰らいついてくる拓海機、マシンガンとレーザー砲がFRを撫でる。そして気付けば、無月機とやすかず機、つばめ機に囲まれる形となっていた。
「――ユカ」
やすかずとつばめが同時にその名を呼ぶ。
そして――。
揺れる茂みへと、三人は息を殺して歩み寄っていく。血痕もそこへと繋がっている。
「――イーノス、か?」
ジェフが低い声で声を投げれば、茂みを掻き分けるようにして血まみれの手が現れた。
「‥‥遅いぞ」
言いながら、ジェフに抱きつく形で倒れ込むイーノス。呼吸は荒く、衣服は血で赤黒く染まっている。
「すぐ治療が必要だな」
「イーノス様‥‥大丈夫ですか?」
天魔とInnocenceはすぐに彼を横たえると、治療を開始しようとする。
だが、イーノスはそれを手で制した。
「‥‥もう、いいから」
「よくない。病院の手配もしてある。救急車両も医師も、公園近くの目立たない場所に待機させている。そうだ、君やタロスに自爆装置はついていないか? ついているのなら、それも処理する」
天魔の問いにイーノスは「自爆装置はない」と呟く。それに呼応するように天魔が蘇生術を施す。
続けてInnocenceが練成治療を施そうとするが、イーノスは首を振る。
「どうして‥‥! あなたは大事な人なのです‥‥あの子のためにも頑張ってください‥‥。命を賭けてもいいですけれど、命を捨ててはいけませんの‥‥頑張ってください!」
涙目でInnocenceは練成治療を。深い傷は、応急処置的に縫う。――もうイーノスは抵抗しない。
その場から離れるためイーノスを立たせようとするが、歩くことはできなさそうだ。ジェフが抱き上げ、元来た道を戻り始める。
タロスの場所まで来るとイーノスは微かに笑み、小さな鍵を天魔に渡した。
「これは?」
「タロスのハルバードの柄に細工をして、中に小さな箱が仕込んである。その箱の、鍵だ。そこに、ヘレナに託すもの――ジェミニの母親から預かったものが、入っている」
ひとつ息を吐き、イーノスは続ける。
「お前達の手でヘレナに託してくれ。そしてヘレナから欧州軍に――」
そこまで言うと、彼は瞼を閉じた。
「‥‥俺はただの語り手だ。ひとりでは立っていられないユカのための。でも、俺がいないほうが‥‥楽だったのかもしれないな。だってそうだろう、すぐにミカを追うことができたのだから。俺が、この世界に繋ぎ止めてしまった」
ただ、バグアに復讐がしたかった。ユカを救いたかった。
それだけ、だった――。
もうそれは声にはならない。微かな吐息となって漏れる。
それきり、イーノスは目を覚まさなかった。――最後に、誰かの名を呼んで。
「‥‥イーノス様‥‥よく、がんばり‥‥まし‥‥、‥‥」
言葉に詰まるInnocence。ただ彼の頭をぎゅっと抱き締める。
「ご一緒にあの子を助けましょう‥‥」
その言葉を聞きながら、ジェフは無言で、ただイーノスを見つめていた。
天魔は空へと連絡する。空はどうなっているのか、しかし戻ってきたKVたちを見る限りではユカはもうそこにはいないのは明らかだ。
「‥‥イーノスの安全が、確保、された」
その言葉の意味を空の者達が知るのはもう少しあとのこと――。
教会で、シスター・ヘレナは待っていた。
久しぶり、そう言ってルキアは彼女の手を握る。
温かい手、安心しそうだ。――今だからこそ。
そしてヘレナはイーノスから託されたものを受け取った。これまでのことなども、ジェフから聞かされる。イーノスは――そのまま、ここに連れてきた。せめてヘレナに会わせるために。
「ハンナ君とは、サヨナラ、なんだ」
ジェミニの両親が死んだことを知ったルキアは、ぽつりと呟く。
「俺は君達が嘘や隠し事をしているとは思っていない。だが先のイーノスの発言や十歳のジェフに刷り込まれた偽りの記憶等、まだ裏があるように思える。だからどんな小さなことでもいいから何か知らないか?」
真剣な眼差しをヘレナに向ける天魔。ヘレナはその眼差しを肌で感じる。
「‥‥何も、知らないのです。だけれど‥‥きっと”イーノス”は嘘をついてはいないのでしょう。彼が白で、ジェフが黒、真実なのだと思います」
「真実‥‥」
天魔が繰り返す。
「それは‥‥どうしてですか?」
ヨグが問うと、ヘレナはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「‥‥双子は、もとはひとつだったのですから。本当の意味で見分けることなんて、本人たち以外誰にもできないと思うのです」
「本人たち以外‥‥。‥‥なるほど」
拓海が噛みしめるように何度も頷き、イーノスとジェフを見つめる。
「‥‥イーノス様は、よく頑張りましたわ」
Innocenceがヘレナに言う。ヘレナは頷き、ジェフの腕の中にいるイーノスの頬を手探りで撫で、「きっとユカも‥‥頑張ったのだと、思います」と呟いた。
その言葉の意味は、誰も問わない。
ルキアが静かに言う。
「あのね、白は、黒がなければ白には成れないって相棒が言ってた」
――矛盾は気になる。でも、自分は自分を貫く。
何度だって喰らい付く。
「このままなんか、悔しいじゃん。子供の意地だよ」
北海に墜ちていったFR、きっとユカはまだ生きている。彼にも意地があるのならば。
「これから、ユカはどうするんでしょうね‥‥どうなっていくのでしょうね」
やすかずがつばめを見る。
「‥‥どんなことになっていても、見つけて、そして‥‥終わらせないと」
つばめは目を細める。あのユカの叫びが耳から離れない。
魂の全てをぶつけられたような気がして、すぐそこにユカがいるような気がして――。
そのとき、上空に数機のヘリが飛来した。
「‥‥欧州軍ですね」
無月がそれを確認する。
そしてヘリは着陸できる場所を見つけると、ゆっくりと降下を始めた。