タイトル:オカエリマスター:ユキ

シナリオ形態: ショート
難易度: 不明
参加人数: 6 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2012/06/03 10:58

●オープニング本文


「ご足労いただいて、ごめんなさい。どうぞおかけになって」

 窓から入るやわらかな春の風に、時折どこか夏の香りと、柑橘系の香りが感じられる部屋。背もたれを起こしたリクライニングベッドに座る依頼人は、白い髪にしわくちゃの顔の老婆だった。

「今日はいいお天気でよかったわ。皆さんにこうやって起きてご挨拶ができるから。雨の日は膝とか腰が痛くなっちゃって、起きてられないの。ダメね、歳をとると」

 苦笑する老婆。老衰か、病気か。その姿を一目見れば、誰でもわかる老い。この部屋へと案内してくれた付き人が、老婆の傍に静かに佇む。そんな付き人へと一度視線を合わせ頷く老婆と、それに応える付き人。

「皆さん、宝探しはお好きかしら?」

 老婆がしわくちゃの顔をさらにくしゃりと、けれどどこか可愛く見える笑顔となって話し始めたのは、とある屋敷での物探しの依頼だった。


 ‥‥‥‥
 
 今も残るその武家屋敷は、昔依頼人の女性が暮らした家。名家の1人娘だった彼女。元々体の弱かった娘のためにと両親が用意した、空気のきれいな山村にある別邸。彼女はそこで幼少の頃から1人、両親と離れて暮らしていた。自分で外へと出かけることもできず、いつも屋敷の中から塀の向こうの空をぼんやり眺める、籠の鳥。そんな彼女にとっての一番の楽しみは、週に一度、山村を訪れる行商人が食料品や生活物資と一緒に持ってくる交易品と、彼が話してくれる外の世界の話だった。男は、山村を訪れるたびに屋敷へ立ち寄り、娘へ土産の品を見せ、面白い話をきいてきかせた。
 小さい頃から鍵のかけられた、外の世界への扉。その鍵を開けて入ってくる男。外の世界を自分に垣間見せてくれる彼に、娘が惹かれるのも必然だったのかもしれない。けれど、自分の内なる思いの正体を知り、それを伝える術。年頃の友達すらいない当時の娘にはそれを相談する相手もなく、知る術もなかった。
 そして、幼い恋心を自覚する時を待たず、その時はきてしまった。男はある時から村へ、屋敷へ姿を見せなくなった。元々週単位の訪問。初めは「来週には、来月には」と思っていた。けれど、その日が来ることはなかった。その後のニュースで、どこかの山岳地で彼と良く似た男性の滑落死体が発見されたと知ったのは、もう彼女が娘と呼ぶにはふさわしくない、大人になった頃だった。


「歳をとると、新しいことはなかなか覚えられないけれど、昔のことはよく覚えているものなのよ。それで、最近になって私、思い出したの。昔、彼がお屋敷のどこかに宝物を隠した、って話をしてくれたのを」

 人と話せるのがうれしいのか、とても楽しそうに、時に少しさみしそうに昔のことを話して聞かせる老婆。老婆が再び付き人へ視線を向けると、傭兵たちへ屋敷への地図と外観の写真、簡単な間取り図が配られた。

「彼は、自分がいない間の暇つぶしに宝探しなんてどうかな、なんて言っていたわね。最初は少し探してみたんだけれど、見つからなかったの。それで、そのまま忘れてしまっていたわ‥‥彼、いったい何を隠したのかなって、最近になって、少し気になってしまって。私を楽しませるための嘘で、本当は何も隠してないのかもしれない。でも、本当に何か隠していたら‥‥本当は、私が自分で探しに行ければいいんだけれど」

 老婆は付き人へ目配せすると、付き人が彼女の手をとり、背中を支える。ベッドから足を下ろす老婆。その足はひどく細く。見るからに痩せこけた足には、彼女の身体を支える力はないだろう。傭兵たちへと向き直ると、彼女は一度、深々と頭を垂れた。

「こんな年寄りのお願いだけど。暇つぶしの余興に、宜しくお願いします」


 ‥‥‥‥

「私、あの時から、この言葉は嫌いなの」

 依頼概要を把握し、さっそく出立しようと部屋を後にする傭兵たちの背に、老婆の呟きがぽつりと届く。

「あの頃の私にとって、家族と呼べるのは屋敷の使用人たちと‥‥それと、彼だったの」

 窓の外、あるいはそのさらに先、どこか遠くを眺めるようにしながら、老婆は言葉を続ける。

「家族には家があって。家族は家に帰ってくる。だから私、いつも彼にいっていたの。彼もそれに答えてくれた。‥‥でも、あの日彼に言ってから、その返事は聞けないまま」

 目を伏せ、少しさみしそうな笑みを浮かべながらうつむく老婆。けれどすぐに顔をあげ、またくしゃくしゃの笑顔を向ける。

「貴方達のお返事、待ってるわ。なにも見つからなくても気になさらないで。もう一度元気なお顔、見せて頂戴ね。‥‥それじゃ」


 ――いってらっしゃい。

 老婆の言葉とともに、扉は閉められた。

●参加者一覧

セシリア・D・篠畑(ga0475
20歳・♀・ER
鐘依 透(ga6282
22歳・♂・PN
宵藍(gb4961
16歳・♂・AA
カグヤ(gc4333
10歳・♀・ER
弓削 火乃香(gc8129
12歳・♀・HG
高野 戒理(gc8194
18歳・♂・ST

●リプレイ本文

 人の手を離れた山村。荒れ果てた畦道。林道はあたかも獣道のごとく。生い茂る緑がほの暗い闇に包む。静寂に包まれた緑の薄闇の先。そこに佇む屋敷。かつては人の気配が感じられたソレの変わり果てた姿。それはどこか、見たものへ郷愁を感じさせる光景。



 腐りかけた板張りに気をつけながら応接間へ。実際に立ってみるとより明確に感じる不思議な感覚。それは武家屋敷独自の造り。屋内に充満する木とイグサの香り。どれもフランス育ちのセシリア・D・篠畑(ga0475)にとっては馴染みのないもの。でも、今の彼女にとってそれは、けして縁遠くないもの。

(‥‥これが、彼の育った国の文化)

 思い浮かべるのは、愛する夫の顔。彼との出会い。これまでの日々。

 ――私だと‥‥顔、見れるだけで嬉しい気がします‥‥

 それはかつて想像した、誰かの気持ち。そして、今の自分の気持ち。宇宙に行かないと、言ってくれた。式も挙げてくれた。けれど今も彼は、隣にいない。

(‥‥あの人の『ただいま』は、何時、聞けるだろう‥‥)

「セシリアさん、アルバムがあったよ。そっちはどう?」
「‥‥こちらは何も‥‥」

 不意にかけられた声に、意図せず感傷に浸っていた自分に気付く。外廊下へ出て一度息を吐くと、セシリアは次の部屋へと消えていった。
 その後姿を、声の主の鐘依 透(ga6282)が心配そうに見つめる。寡黙な友人。思いを口にすることは少ない。けれど、今彼女が思い描く相手が誰なのか、それは容易に想像がつく。

(健気に旦那さんの帰りを待ってる彼女は‥‥もしかしたら、お婆さんと似た心境なのかな‥‥)

 ふぅ、と零れる溜息。心の隙間。そのピースを埋めるのは自分じゃない。それは判っているけれど、それでも何かできないか、そう思ってしまう。なんとなく、行き場のない思いにパラパラとアルバムをめくる。色褪せた写真。過去この家で綴られた思い出のページ。若かりし頃の依頼人だろう。小さな少女と、左右に立つ夫婦と思しき男女。

(家族、か‥‥)

 その2文字が、鐘依の心に静かに溶けていく。




 思い出されるのは、出立の時のこと。依頼人の笑顔。「いってらっしゃい」の言葉。それに答えることができなかった高野 戒理(gc8194)。頭を振り、雑念を振り払う。顔を上げ、使用人夫婦の部屋へ。見渡せば垣間見える生活痕。柱には小さな子どもの身長を記録したらしい傷跡。夫婦。親子。家族。それらは高野にとって悲しみの記憶。そして、今も尚手を伸ばし続けずにはいられない、見えない希望。自然、沈む表情。とまる手。と、

「‥‥野殿? 高野殿!!」
「は、はい! ぁっ!? ‥‥っー‥‥」

 突然目の前に現れた少女に驚き思わず一歩退くと、その長身故後頭部を欄間に強く打ち付けてしまう。

「高野殿、大丈夫かえ? ‥‥まったく、大の大人であろう? しっかりしてたもれ。ばば様‥‥依頼人のためなのじゃから」

 腰に手を当てふん!と語気荒く胸を張って話す弓削 火乃香(gc8129)に、高野は苦笑を返す。

「すみません。こちらには何も。そちらには何かございましたか?」

 ふふん、と自慢げな表情を見せ弓削が取り出したのは、古びた簪。

「きっとばば様のものなのじゃ! ばば様も喜こんでくれるじゃろうて」

 目をきらきらと輝かせ上機嫌。遠く離れた国許の育ての親と依頼人。それを重ねているのだろう。これはただの依頼。けれど、弓削にとっては親孝行のようなもの。自然、意気込みも違うというもの。その様子に、高野もまた気持ちを切り替え、探索を再開する。




 小窓から差し込む日差し。立ち上る埃はまるでダイヤモンドダストの如く煌き。ふぅと一息。探索を開始する宵藍(gb4961)の足元に広がるのは、赤。赤。赤。キメララットも、久し振りの餌が能力者とは、運がなかったというもの。ふと、棚の隙間から覗く額。そこに入れられた書の文字に、思わず目が留まる。

『家に賢妻あれば丈夫は横事に遭わず』

(まるで逆だな)

 書の覚えのある宵藍。故郷の故事にある友人が重なり、思わずフッっと笑みが零れる。

 ――カタッ

「‥‥!?」

 物音。刹那、弛緩から緊張。抜き放たれる銃。

「‥‥なんだ、カグヤか」

 逆光に浮かぶシルエット、その特徴的な揺れる耳に、宵藍は銃をしまう。

「怪我、なくて良かった」

 無線の知らせを受け様子を見に来たのだろう。カグヤ(gc4333)は宵藍の無事を確認すると、そのままちょこんとしゃがみこみ、カメラごしに辺りを見渡す。そういえば、ふりふり揺れる兎耳のフードには枝葉がひっかかり、裾は土に汚れている。彼女なりに、依頼人の幼少時代の気持ちになり探しているのだろう。と、途端、びくりと体が揺れる。宵藍が少女の視線を追う。

「‥‥怖いのか?」

 無表情の日本人形。ふるふると首を振るが、それは肯定以外の何者でもなく。

「古い屋敷だし、幽霊の1つや2つ出るかもしれないよな」

 ぽそりと呟いた一言に、びくびくと肩を震わせるカグヤ。フードをかぶると、「こわくないの」の一言を最後にいってしまった。その後姿はまさに脱兎の如く。そして訪れる再びの静寂。

「‥‥さて、と」

 時間は有限。手を止める時間は、あまり無い。





 東の空が朝に染まる。

「虱潰しに探したつもりなんだけどな‥‥」

 泥や埃に塗れながらの夜通しの捜索。琴線に触れるものはいくつか。それでも、納得のいく物の発見には至らず。

 ――ザザッ

 無線に走るノイズ。リミットを告げる通達。

「‥‥仕方ないな。見つかった物だけでも届けよう」

 諦め。無念。口にしづらいそれをあえて言葉にする宵藍。最年長故の気遣いか。

「ばば様も待っておろうから、のぅ‥‥」

 見つけた簪をしばし眺め、しょんぼりと肩を落とし歩き出す弓削。高野も拳を強く握り、言葉なく続く。セシリアと鐘依も後に続き、2人にくっつき歩くカグヤ。昨日の宵藍の一言が尾を引いているのか。置いていかれないよう小走りについていく彼女が、最後にもう一度屋敷を振り返る。朝日を浴びた屋敷を包む木々は風に揺れ、まるで手を振るかのよう。

「‥‥?」
「? どうしたの?」

 裾を引く重みが強くなり、ふと立ち止まる鐘衣。裾を掴んでいたカグヤが写真を取り出す。それは昔の屋敷の写真。比べれば気付く、目の前の光景との相違。

「昔はなかったみたい、だね。もしかして、あの木‥‥」

 屋敷の門の脇にぽつりと立つ1本の木。その木にふと、あることが気になった鐘衣。確認するかのように皆へ問いかける。

「‥‥たしか、依頼人の名前って‥‥」





「ばば様、ただいまなのじゃ!」

 扉を破るかの様な勢いで部屋に飛び込んできたのは弓削。その満面の笑みと元気な様子。なによりもその”言葉”に、老婆もニコリと笑顔になる。

「おかえりなさい。いってきますの一等賞は色黒の坊やだったけど、ただいまの一等賞は貴女ね」

 優しく頭をなでてくれるその手は暖かく、幸せそうな弓削。彼女に続き、他の面々も部屋へとやってくる。皆、老婆への”言葉”を添えて。その言葉にまた、老婆も一人一人へ笑顔で”言葉”を返す。傭兵たちは老婆へ屋敷の様子を伝え、見つけた思い出の品々を広げて見せた。あの日止まった時間の懐かしい品々に、老婆の目はうっすらと細くなり、口元には、嬉しそうな、寂しそうな笑みが浮かぶ。



 広げられたものとは別に、セシリアが静かに老婆に、小さな包みを手渡す。

「? 何かしら?」

 老婆が手に取り包みを開く。そこにあったもの。それは

「ロケット?中は‥‥?」

 どこか宝箱を開ける子どものような無邪気さ。セシリアは無言で頷く。老婆が静かに蓋を開けると

「‥‥あら? 私?」

 そこに映るのは、若い頃の、笑顔の老婆。老婆はどこか恥ずかしそうに、けれど愛おしそうにその写真を指でなぞる。

「‥‥私は、『宝物』‥‥何も”物”だけじゃないかと思いました‥‥」

 静かに話し出すセシリア。老婆は笑顔のまま、何も言わず彼女の言葉に耳を傾ける。

「‥‥例えば、思い出、とか‥‥。‥‥笑顔や、仕草や、声‥‥、お婆様ご自身、全てが、大切な方の『宝物』‥‥だったのじゃないかな‥‥と‥‥」

 目を伏せ、静かに話を聞いていた老婆が顔を上げる。

「貴女の大切な人にとっても、そうなのかもしれないわね」

 笑顔の老婆。その視線がちらりと、セシリアの左手の薬指に。右手でその感触を確かめる。

「お若いし、貴女もお相手の方も、きっとお仕事、大変なんでしょうね」

 思い浮かべるのは、ただ1人。思い出すのは、彼の温もり。遠い温もり。

「大丈夫よ。貴女は『宝物』なんだから。ね?」

 けれど、老婆の言葉にもう1つ。思い出されるのは、時計と手紙。それは彼と初めていった買い物で買ったものと同じもので。その手紙は、きっと誰かの受け売りで。けれど、離れた彼からもらった、大切な『宝物』。

「‥‥Loin tu es toujours dans mon coeur‥‥」

 何か言ったかしら? ときょとんと首をかしげる老婆へ一度会釈をすると、セシリアは部屋を後にした。それを追いかける鐘衣の表情からは先ほどまでの心配そうな色は消え、どこか安堵の色が伺える。

「貴方、彼女のご友人かしら? 彼女、気を悪くしてないかしら?」

 多分、老婆にはなんとなくわかっているのだろう。親しい友人でなければわからない彼女の表情。感情。けれど同じ女性。同じ待つ身であった老婆にとってはきっと、通じるものがあるはず。鐘衣は笑顔のまましっかりと老婆に向き直り、力強く頷く。

「大丈夫だと思います。彼女には帰れる場所も、おかえりといってくれる相手もいますから」

「そう。貴方にも、そんな方がいらっしゃる? ‥‥あら、ごめんなさい、歳をとるとつい。ダメね」

 苦笑する老婆。老婆の問いに、最初に浮かぶ文字は”家族”の2文字。しかしそれはもう、鐘衣にはいない。けれど、家族とは違うけれど。

「ただいま。お帰り。そんな風に言える人がいますから」

 だから、僕は友人として彼女の傍に。その言葉は、胸の中に。頷く老婆に会釈をすると、鐘衣もまた、部屋を後にする。
 


 2人を見送ると宵藍もまた壁から身を起こす。

「『おかえり』、言えそうかな?」

 それは、老婆が伝えたかった言葉。伝えられなかった言葉。宵藍の友。一般人の彼にとって、傭兵である妻を見送る時の『いってらっしゃい』は、妻の無事を祈り、『おかえり』を待つ、そんな祈りの言葉だったんだろうな。だから、老婆にとってもきっと同じだったんだろうな。そんな風に思う宵藍はただ一言。それだけを聞きたかった。老婆は彼の問いに、もう一度ロケットを見、優しく撫でる。

「自分の写真に言うのは、なんだかおかしな気分ね」

 それは明確な答えではなく。けれど言葉とは裏腹に、初めてあったときとは違う、憑き物がとれたような、そんな瞳の色。宵藍は笑顔で頷くと、じゃ! と手を振り去っていった。




「おばあちゃんの大切なモノ、ここにあったの」
「あら? なぁにこれ?」

 話が一段落したところで、カグヤが老婆に見せたのは、屋敷の前に立っていたあの木の写真。

「あら‥‥お屋敷の外だったのね。見つからないはずだわ。きっと、欲しかったら元気に外に出て来いってことね、意地悪だこと。なんの木かしら?」

 くすくすと笑う老婆。カグヤは、んっ、と、汚れた一枚の紙を差し出す。 

「なぁに?」

 紙は土に汚れ、そこに書かれている文字は擦れていた。読んでみると、文字が一掃霞んでいく。老婆の瞳には、うっすらと涙。

『君と同じ名前のこの木みたいに、元気に綺麗に花を咲かせてくれることを願う』

 紙に書かれていた文字は、懐かしい筆跡。紙と一緒に入っていたのは、”さくら”の押し花。

「来年の春になったら、写真、撮ってくるの」

 カグヤの言葉に、老婆は目元を拭い、小さく「アリガト」と、そう言って笑った。 



 近づく刻限。メイドがそれを告げると、弓削は名残惜しそうにベッドを離れる。俯き、しょんぼりとした様子は、とても幼く。けれど、わがままを言うほど幼くもなく。

「ばば様、くれぐれもお体を大切にの。そして‥‥もし良ければ、今度は依頼の話ではなく、普通のお喋りをしに来ても良いじゃろか?」

 寂しそうに話す少女。その様子に老婆はふと、ベッドの上に広げられたものの中から1つを手に取る。それはあの簪。

「‥‥? ばば様、どうされたのじゃ?」

 老婆は戸棚の手櫛をとり、少女の髪を梳く。その感触は、弓削にとってはどこか心地よく。

「よしっ、できあがり。鏡を見て御覧なさい」

 そう言われ、弓削が鏡を覗き込むと

「うわぁ‥‥」

 弓削の頭には老婆の簪、彼女の名前の一文字が付いた、”コスモス”の簪が飾られていた。老婆はにっこり笑顔で「次にお話する約束の印」と話し、弓削も笑顔で頷き、指きりげんまんをして、元気に部屋を後にした。



「貴方は、まだいいのかしら?」

 終始無言で、どこか暗い表情の高野。話に参加するきっかけもつかめず、何を話せばいいのかも判らず。そんな様子を察した老婆の、急かすのとは違う、優しい問いかけ。上手く話せなくていい。流麗でなくたっていい。それがその人の思い。そのことを老婆は知っている。老婆のその優しさに。笑顔に。高野の胸はさらに締め付けられる。

「‥‥あの、僕はその‥‥故郷を、家族を、戦争でなくして‥‥」

 こんなこと、この人に話して何になる。話されて、この人はどう思う。そう思いながらも。

「‥‥あるっ‥‥日、急に、ただいまを、言う、家が、無くなって、て‥‥」

 紡がれるのは、蓄積された思い。老婆は静かに高野の両頬に手を添える。一瞬の驚き。手から伝わる温かさ。緊張は解れ、気持ちは安らぎ。その場に膝を着くと、老婆は優しくその頭を抱きしめる。

「よしよし‥‥大きな坊や、寂しかったわね‥‥」

 優しく頭を撫でるその手に。ささやき掛けるその声に。堰を切ったように零れる涙。緊張の糸が切れ、歳相応の顔から漏れる嗚咽。老婆はただ優しく、「大丈夫‥‥大丈夫」と、その大きく小さい背を撫でた。別れの時。老婆は戸棚の引き出しから1つの首飾りを取り出し、自分と同じ懐郷の坊やに手渡した。「大丈夫、貴方もきっと、1人じゃないわ」という言葉と、笑顔と一緒に。

 
 高野の到着を待ち、飛び立つ高速艇。あるものは老婆との別れを惜しみ。あるものは近しいものを思い浮かべ笑みを零し。またあるものは遠くの空、同じ空の下のどこかにいる大切な誰かの無事を祈り。どこか心地よい疲れに包まれながら、沈み行く陽の中、ひと時の眠りにつく。目覚めれば、また変わらない日々が待っている。けれど、誰も1人じゃない。隣に。離れていても、共に。いつでも誰かが、そこに。