タイトル:コンビニ行って来るマスター:愉縁

シナリオ形態: ショート
難易度: 普通
参加人数: 8 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2012/02/23 06:48

●オープニング本文




「ちょっとコンビニ行って来る」

 そう母に言い残し、凍てつくような寒さの中、稲玉茉苗はコンビニへ出掛けた。彼女の実家はド田舎で、町と呼ぶにも申し訳ない程度の規模。20時にもなれば、開いている店は、町で唯一のコンビニと居酒屋くらいなものだ。夜間には点滅信号となるほど、交通量も少ない。まぁ、静かで、のんびり暮らすには良い所だ。

 彼女は、定期的に実家に帰るようにしていた。過去に能力者であった実弟を失っており、1〜2ヶ月に1回、大体2日程度、実家に戻るようにしている。今でも思う。あの日が弟との最期の別れになると知っていたら、と。実家に帰る度に、良い人が見つかったか訊ねてくる母は、少々鬱陶しくもあったが、元気で居てくれるうちは、精々、言われておこう。

 10分ほど歩き、そこで初めて、『車を出せばよかった』と、後悔した。ちょっとの距離だし、散歩がてら、良いかと思ったのだが、如何せん、グレーのトレーナーに赤いドテラを羽織っただけの格好。2月の気候には堪えるものがある。だが、あと5分程歩けばコンビニ。わざわざ引き返すのも馬鹿らしい。
 欲しいのはシャンプーとコンディショナー。母の使っている物を借りるという手もあったが、使うなら、いつものシャンプーの方が良い。‥‥ついでに、缶チューハイと、つまみでも。
 そんなことを考えながら歩いていたら、ボンヤリと灯りが見えてきた。街灯もそう多くないこんな場所では、その光が見えただけでも、ホッとするものだ。それに、あの中はきっと暖かい。今はこの、忌々しい寒気から解放されることが最優先。ついつい、足早にもなってしまう。

 ピンポーン。

 自動ドアが開き、軽快な入店音が稲玉を迎え入れた。まずは、目的のシャンプーをと、視線を雑誌が並ぶラック方向の通路に向ける。この雑誌と向かい合って、シャンプーなどの日用品が並んでいるはずだ。
 ええと、シャンプーシャンプー‥‥。あ、このコスメ可愛い。と、視線を右から左へとスライドさせて行って、ふと、気が付いた。

「?」
 何か棚に、粘着性のある半透明の液体が付着している。見回すと、その生卵の白身みたいなものは、点々と続いており、棚だけではなく、フロアにもこぼれていた。不思議に思って、その後を追って、棚の折り返し、正面にドリンクが並ぶ冷蔵庫に突き当たったそこで、自分が何かとトラブルに巻き込まれ易い体質だということを、思い出した。

『ゲコ』
「げっ」

 何故、入店した時に気が付かなかったのか。レジカウンターに150cm程の、巨大なカエルが立っているではないか。いや、巨大なカエルというか、人間の身体に、カエルの頭が乗っかったような、そんな感じの奴だ。全身は、これからオイルレスリングでも始めるのかと言いたくなる位、テカテカぬるぬるしている。この透明な粘着液は、奴の体液か何かだろうか。

 ‥‥しかし、何でカエル? このクソ寒いのに、カエルはないだろ。もうちょっと考えてキメラ作れよ。現にホラ、おでん什器の前から、微動だにしないし。見た目通り、寒いの苦手なの? 馬鹿なの?
 そういえば、店員の姿が見えない。どこかに身を潜めているのか、さっさと店外に逃げたか。ともわれ、今はここから離脱した方が良さそうだ。幸い、入店音にすら気付かず、稲玉の入店に気付いていないような、反応ニブチンのキメラ。相手が1体なら、逃げるのは、そう難しく無さそうだ。ゆっくりと、来た道を戻ろうとしたその時。

 ピンポーン。

 自動ドアが開き、入店音が鳴った。
 ‥‥私のように運悪く、客が入ってきてしまったのだろうか。と、そちらに視線を送ると、プルプル震えるカエル人間。

 やばい。

 更に、増えた。ていうか、無理すんなし。素直に冬眠しておけし。
『グェ〜‥‥』
 暖かい空気が吹き出る、エアコンの下で、目を細めてボーっと立つ、カエル人間。気持ち良さそうな顔が、少し可愛い。‥‥とか様子を窺っていたら、更に入店音。3体目。続々と、冷えた身体を温めるべく(?)、カエル人間が集まってくる。
 もしかしてここは、カエルの国なのか?

 ペタッ、ペタッ。と、一匹が物珍しそうに店内を歩き始めたのを見て、『マズイ』と感じ、そーっと『スタッフオンリー』と書かれた扉の奥へ、身体を滑り込ませた。ひんやりと冷気を感じ、そこがドリンクが並んでいる棚の、裏側であることに気付く。ああ、成る程。こうやって裏側から商品を補充しているのか。

 ふと、裏側に積みあがった飲料のダンボールの影に、小さく蹲った人影が見えた。格好からして、コンビニの店員だろうか。綺麗な黒髪の、純情そうな青年だ。ブルーのエプロン姿が中々グッとくる。
「ちょっと、大丈夫、君。怪我はしてない?」
 虚ろな目で、ブツブツ呟いていたので、軽く頬を叩いて、正気に戻してやった。青年はハッとして、私に視線を合わせた。咄嗟に彼が、何か言いそうになったのを、人差し指で制止する。
「私は稲玉。ULTで職員をしているの。今、応援を呼ぶから、もう少し、ジッとしていてね。‥‥貴方の他に、店員は居るの?」
「いえ、僕だけです」
「おっけー」
 彼が落ち着き、安心したのを感じて、稲玉は携帯電話を取り出した。


●参加者一覧

幡多野 克(ga0444
24歳・♂・AA
辰巳 空(ga4698
20歳・♂・PN
シーヴ・王(ga5638
19歳・♀・AA
志羽・武流(ga8203
29歳・♂・DF
宵藍(gb4961
16歳・♂・AA
ビリティス・カニンガム(gc6900
10歳・♀・AA
村雨 紫狼(gc7632
27歳・♂・AA
ルーガ・バルハザード(gc8043
28歳・♀・AA

●リプレイ本文




 避難し、人気が無くなった住宅街に、ポツンと光を漏らすコンビニ。宵の不気味さを加速させるように佇むその場所に、8人の傭兵が集まっていた。すぐ近くの塀の影から、志羽・武流(ga8203)が顔を覗かせ、様子を窺っている。
「コンビニに何でキメラがおんねん? しかもカエル‥‥」
 往々にして、バグアの考えることというのは、人類に理解し難いものが多々ある。人間同士でさえ、習慣の違いに驚かされることもあるのだから、異星人であるならば尚の事か。武流に続いて、シーヴ・王(ga5638)も呟きを漏らした。
「相変わらずキメラっつーのは、作ったモンの意図が読めねぇです」
「何をどう間違ったのか知らないけど‥‥とにかく倒して‥‥。冷蔵庫の2人‥‥早く救出しないとね」
 ガラス越しに店内に視線を巡らせた幡多野 克(ga0444)は、思いなしか、キメラを通り越して、スイーツコーナーを見ているようにも思えた。ビリティス・カニンガム(gc6900)が訝しく思って克を見たが、その表情からは、意図は読み取れない。すると、何かを感じ取ったのか、克は無表情のままビリティスの方を向いた。
「コンビニデザート、結構美味しいからね‥‥。台無しにする訳にも、いかないな」
 甘味に目がない克は、気持ちはキメラ討伐と2人の救出に向いていたが、お腹はストロベリーホイップを欲しているようだった。
 甘味といえば、バレンタイン――と、入り口近くの特設コーナーに並ぶチョコと、村雨 紫狼(gc7632) を交互に見て、ビリティスは、いや、やっぱり手作りだよな、と、一人頷いた。
「しかし、こんなド田舎で何やってたんだろなー。まーいい、全部ブッ倒すだけだぜ!」
「‥‥こんなに狭い場所で戦うことになるとはな。何か壊した場合、賠償問題になるのではないだろうな?」
 息巻いたビリティスとは打って変わり、神妙な面持ちのルーガ・バルハザード(gc8043)が呟くと、稲玉へ連絡をし終えた宵藍(gb4961)が、携帯電話を収めながら、ルーガに振り向いた。
「戦う以上は無傷ってわけにはいかないだろうし、ある程度は仕方ないってさ。流石に、店を半壊させれば話は別だろうけど」
「どちらにせよ、店から叩き出した方が、良さそうですね」
 辰巳 空(ga4698)の言葉に一同は頷き、作戦を再確認した。一見してほのぼのしたマヌケなキメラとて、人類の脅威には違いが無い。少しでも退治して、元の地球に戻せる様に努力するしかないと、空は真剣な眼差しで、塩と氷の入ったクーラーボックスを脇に抱えていた。

「‥‥」
 シーヴが、何か言いたそうな顔をしたが、‥‥言わないでおくことにした。


 ***

 目を細めたカエルが、足浴でもしているかのように、おでんの什器に群がっている。むわんと漂う水蒸気が、彼らの至上の喜びなのか? しかし、おでんを求め、遥々コンビニにやってきた武流には、面白くない。さっさと倒して、おでんにありつきたいものだが、カエルの粘液でベトベトになっているのを見て、彼の空腹イライラは絶頂を向かえ、いよいよレッドゾーンに突入していた。
 克、空、シーヴ、宵藍、ビリティスの五人が一気に入店したのを見計らって、武流は高く長く、ブブゼラを吹き鳴らした。狭い店内に強烈な音が反響し、自分で吹いた音にクラっとなりそうになりながらも、入店音をかき消し、カエル達の注意が一気に入り口に向く。
 ルーガ、紫狼、武流の3人が入り口に注意を引いている間に4人が迂回し、電源を切った自動ドアから外へ押し出す手はずだ。シーヴは空調を操作する。

「無様な両生類ごときが! 生意気に人間様の食べ物にたかるなッ!」
 アーミーナイフを抜き、勇ましくカエルを威嚇するルーガ。一方のカエルはというと、ゲコゲコと、何か抗議するように鳴くばかりだ。手前の二体が動き、ペトペトと間合いを詰めた。ここでふと、武流が気付く。
「ところで、誰が電源切るん?」
「あ」
 ハッとするルーガと紫狼。そういえば、誰が切るか決めていなかったような気がする。そんなことをしている間にも、味方はキメラの背後に回り込みつつある。元から鈍いのか、感覚が鈍っているのか。だが、注意を引いている今では、下手に動けば確実に攻撃を喰らう。ダメージはともかく、入り口周辺に被害が出ては意味が無い。自動ドアはセンサーの下に居れば開きっぱなしになるのだからと、ルーガ達は電源を切らないまま、タイミングを計ることにした。
 店内の温度が徐々に下がり始めている。入り口が開きっぱということもあったが、エアコンから噴出す風が冷風に変わっていた。見れば、店長室に通じる扉が開いている。シーヴが上手く中に入り込んで空調を操作したのだろう。彼女は一寸考え、ドライバーでの開錠は無理と判断。大剣の柄で、小さく抉るようにドアノブを小突き、中に滑り込んだ。ブブゼラの音で、破壊音を誤魔化しながらの、鮮やかな手並みである。

「‥‥なっ」
 ドリンク棚に隠れている2人に宵藍がカイロを渡し、ビリティスと空がロックアイスを集め、これから外に追い出そうとその機を窺っていた、その時である。紫狼がカエルを怯ませる為と、入り口直ぐ脇にあったアイスケースから、アイスをかき集め、カエルに向けて投げ始めたのだ。

 入り口に向いていた意識が周囲に拡散し、何気なく後退した一匹と、迂回していた傭兵達の目がバッチリ交差した。
『男に飢えた稲姐がとうとうバイト君を人質にコンビニ篭城した!』とか言い出すあたり、思い込みが激しい性格なのだろうか。‥‥どうにも、作戦理解が足りていなかったようだ。
「仕方ない、強行する! シーヴ!」
 宵藍が叫ぶと、狙い済ましたようにレジカウンター後ろの扉から、シーヴが素早く飛び出し、脇を閉め、垂直に大剣を打ち上げた。カウンターの中にいたカエルが、まるでバンカーショットされたゴルフボールのようにカウンターを飛び越え、ベチャリと、床に突っ伏す。そこに空が獣突を繰り出し、カエルはもう一匹のカエルを巻き込んで、カーリングの石が如く、入り口に向かって一直線につるーんと滑って行った。

「!?」
「何や!?」

 あまりの勢いの良さに、ルーガと武流は驚きながらもヒラリとかわし、そしてカエルはポーンと、暗闇の中に消えて行ってしまった。レジカウンターの上に飛び乗ったシーヴが、空に視線を移し、首をかくりと傾げた。
「‥‥自分のぬるぬるで、滑り、易い?」
「みたい、ですね。私達も気をつけないと」
 呆気に取られつつもこの間にルーガが、自動ドアの電源を切った。そして、駐車場を飛び越え、道路にまで転がっていってしまったキメラを追って、飛び出していく。少し遅れて、武流と紫狼も外へ。

「残りはおめーらだけだ」
 空と宵藍と共に、ビリティスが氷と塩を投げ、カエルの動きを牽制。今だ。と、克が豪力発現で筋力を上げ、果敢にもカエルに相撲勝負を挑む。 いや、させねーよ? と、隣のカエルが克へ舌を伸ばそうとしたのを、ビリティスが両断剣を脚爪「オセ」に付与して足払い。すてーんと転んだカエルに、畳み掛けるように宵藍が飛び出し、小さくコンパクトに刹那の一撃を突き刺し、舞踊のようなステップで身体を捻ると、脚甲「ペルシュロン」が空を切り裂き、カエルの胴をゴム鞠のように跳ね飛ばした。コントロールもバッチリ、入り口という名のゴールマウスへ吸い込まれたカエルは、店外へ。

「よし、止めだ!」
 宵藍とビリティスはカエルを追って、外に駆け出していった。


 店内に残った、シーヴと空、そして克と‥‥カエル。

 何故か、手を出してはいけない気がして、シーヴと空は、勝負の行方を見守った。滲み出るぬるぬる。パワーでは克が勝っていたが、ガマ油なのだろうか、ぬるぬるしたオイルっぽい生温いものが滑り、上手く力が入らない。

 克の表情が僅かに動いた。焦っているようにも、見える。試しに右に左に力の向きを変え、状況を打開しようと試みるが、相撲の腕ではカエルが一枚上手のようで、絶妙な足捌きと重心移動で、巧みに克の裏をついてくる。

「‥‥」

 気が付けば、まわしを取るように組み合ったまま、互い一歩も動けず。激しく地味な攻防、駆け引きが繰り広げられている。時間にして、十数秒程度であったが、妙に長く感じた。
 ふと、克の視界に、レジカウンター横に置かれたいちご大福が映り、何故か走馬灯のようにキラキラとコンビニデザートが頭を過ぎ、克の目がカッと見開いて、グッと深く重く重心が沈んだ。

「‥‥ここは、キメラのいる場所じゃ、ない!!」

 噴火したパワーが、一瞬の隙に染み入って、次いで踏み出した右足、そして左足が、カエルを後ろへ後ろへと、突き動かしていく。
「おお」
 思わず空から零れた感嘆の溜息。均衡が崩れればあっという間に、入り口の外。


 ――決まり手は、寄り切りだった。


 ***

 カエルの舌が自由を奪わんと瞬時に伸びたが、しかし先にルーガの紅蓮衝撃の一閃が煌き、続け様に武流が飛び込んで、蛍火を喉に深く突き刺した。紫色の飛沫が天を覆い、それが落ちてくる前に蹴り飛ばし、距離を置く。
「こいつは、買われへんかった、おでんの分や。食い物の恨みは怖いんやで? 覚えとき」
 どしゃァと、倒れたカエルを飛び越え、ビリティスが走る。その先に佇む、カエルの懐に素早く踏み込んで、蹴りと拳の爪を交互に捻り込んだ。カエルは堪らず悲鳴を上げ、痰を吐くように口から紫色の粘液を噴出す。
「わっ!?」
 ビリティスは避けようも無く顔面に喰らい、二歩三歩、よろよろと後退し、顔にくっついた気色の悪い粘液を、両手で必死に振り払った。しかしその一瞬、カエルが右手を勢いよく振り下ろす。だがその一撃は、ビリティスに届くことなく、身を挺した紫狼に防がれた。
「‥‥くっそ、倍返しだ!」
 僅かに見開いた少女の目は、カエルの開いた口を真っ直ぐに見据え。そして、捻りを加えながら口蓋目掛けて突っ込まれた爪の先は、カエルの脳を突き抜け、後頭部から顔を出した。

「とろい、です」
 カエルが繰り出した渾身の蹴りは、シーヴの大剣を越える事は叶わず。軽々と切り返した刀身が、鈍い音を立て、カエルの足を骨ごと両断した。グラリとバランスを崩したところに、宵藍が滑り込み、円を描くように月詠を躍らせれば、その光はまるで、満月のような残像を残し、そしてそれに対を成すように振り下ろされた銀色の剣が、唐竹から綺麗に真っ二つに切り落とした。

 カエルの体から噴出した煙も、縦横無尽に地を駆ける獣の足にかき消され、霧散する。隙を逃さず、克が踏み込んで、深く腹部に月詠を突き刺した。柔らかな腹を裂かれ、絶叫するキメラの首に、横一線に振り抜かれた大剣の光芒が残り、キメラはこの世のあらゆる苦痛から、解放される。もう、彼が寒さを感じることも、痛むことも無いだろう。

 空は静かに、大剣を鞘に収めた。


 ***

 店内の被害は、想定範囲内に収められた。しかし、棚が倒れたり、商品が散乱したので、傭兵達で店を綺麗に片付けることになった。紫狼がキメラ退治後、早々にスーパー銭湯に行こうとビリティスを誘ったが、彼女も片付けを申し出たので、暫く待つことに。

「珍客到来で‥‥大変だったね‥‥。でもカエルなんて‥‥バグアに季節感は‥‥ないのかな‥‥」
 ジャケットを店員に貸し、床をモップで拭き取っていた克が、デザートコーナーのプリンを見ながら、ぼそりと呟いた。
「‥‥あ、えと、ULTの稲玉さんが、色々手配とか保険の手続きとか、やってくれるそうなので、大丈夫ですよ。店内を片付けていただけただけでも、助かります。あ、それ、よかったら、お好きなものを、どうぞ。‥‥店長から、お礼にと、言われていm「本当?」
 やや被せ気味の反応をした克に、苦笑いをする店員。

「‥‥んで、その茉苗は何処だ?」
 宵藍が稲玉を捜し、ぐるりと反対側を覗き込むと、その隙を突くように、一個のダンボールがサササーっとフロアを移動し始めた。ハッとして、宵藍が振り向くと、ダンボールがピタッと、停止する。

「‥‥」

 宵藍はソッと携帯電話を取り出し、聞いていた稲玉の携帯番号をプッシュした。すると、ダンボールが「ひゃうっ!?」と飛び上がり、中でガサゴソと慌てふためいている気配。ダンボールと生暖かい目をした宵藍が見詰め合う。

 がぽっ。

「あ」
 ダンボールを持ち上げると、そこにはトレーナーにドテラ姿、おまけにノーメイクの悲哀に満ちた独身三十路女の姿。なんとも言えない気まずさが満ち、90年代のヒット曲を紹介するDJのコメントだけが、店内に流れていた。稲玉はめっちゃ瞳を潤ませ、あわあわして、それで、思い出したように両手で顔を覆う。いつもの気丈さは消え失せ、まるで足を怪我した小鹿のような弱々しさだった。
「これはまた、随分と寛いだ格好だな」
 宵藍は、すっぴんであっても彼女を見紛うことは無かったが、多分、開けてはいけない箱を開けてしまったパンドラは、こんな気持ちであったのかもしれない。
「い、稲玉はん? お久しぶり‥‥。LHでお茶をご馳走になった礼、まだ言うとらんかったわ。ご馳走さん」
 やや半笑いの武流が言葉に詰まり、話題を逸らすように、そんな言葉を掛けたが、稲玉の目は死んでいる。「いいのよ」と、返した言葉は、棒読みだった。
「茉苗っつーたら、流しソーメンのオペでありやがりますね。アレは楽しかったです。‥‥しかし、ソーメンの時と雰囲気違う、ですね?」
 かくりと首を傾げたシーヴの目を見れない、稲玉。よく顔が見えないので、そちらに回り込んだら、稲玉は逆を向いた。
「何で、隠しやがるですか」
「お前には分かるまい。この私の身体を通して出る駄目女臭が‥‥っ」
 持っている者に、持たざる者の苦しみは理解できるだろうか。宵藍はポリポリと頬を掻いた。別に素顔も本当に、悪くないんだけどな。と思うが、下手に優しい声を掛けるべきでは、ないかもしれない。


「‥‥」
 一同に何とも言えない動揺が走る中、唯一、ルーガだけが何も触れず、ただ静かに、ファッション誌とTVガイド誌を手に取り、買い物籠に収めた。彼女は、何かを言うべきではないと、察したのだ。三十路近い彼女は、己の顔に施す『装備』の有無が相当に重い意味を持つことを知っている。そう。今、稲玉に掛けられる善意は唯一つ。『見なかったことにする事』だけなのだ。
 お茶とプリン二つに食パンを追加し、レジカウンター横のホットケースを指差すルーガ。
「おっと、ついでにそいつももらおうか」
「ピザまんですね。はい、どうぞ」
「うむ」
 ルーガは、実は結構庶民派のような、気がしなくも無い。傭兵達に一言告げ、ルーガはピザまんをがつがつと食べ歩きながら、闇夜の中に消えていった。