●リプレイ本文
ジェノバの乾いた風が身を襲う。五月の中旬、北半球的には春と呼ばれる季節ではあるが、地中海に面するイタリアでは明確な春というものが存在しない。日照時間が伸び、気温が高くなる時期というだけだった。それでも本来なら味覚が春の到来を告げるものなのだが、今ではそれを楽しめる人も限られてしまっていた。全てはバグアの到来、この一言に尽きるだろう。
春の到来を告げるシロッコと共に現れたバグアの大群、未だ規模も目的も分からない未知生命体であるその存在に人々は恐れおののき、中には受け入れる者まで存在する。人の姿をした彼等彼女等の存在は、人類にとって最も警戒すべき見えざる脅威と認識されつつあった。
コロンブス生家前、本来なら歴史的偉人として賞賛されるべき人物なのだが、今訪れる人は多くは無い。一つは心の余裕、彼の功績を知りつつも、それ以上に今の自分を支える事に人々の心は傾いている。もう一つはお金の余裕、わずかながらでも必要な見学料を捻出できる家計さえ、それほど多くは無かった。そして展示時間を過ぎた今、辺りはひっそりとしていた。北緯44度という高緯度に存在するため周囲はまだ十分に明るい時間ではあったが、人気はお世辞にも多いとはいえない。マスクを被った女性が一人、家の壁に寄りかかるようにして立っているだけだった。
綺麗な髪の女性だった。身長は百六十ほどだろうか、女性の中では高い方であろうが長身と言えるほどではない。そして風が吹くたびに、肩にかかる彼女の細く長い銀の髪が天の川のように幻想的になびいている。そして更に幻想的に見せているのは、女性のマスクのせいだった。何を考えているのか、何を待っているのか、はっきりとした目的をみせない彼女の行動は、夕日に淡く照らされて見るものの目を引く一枚の絵画のように仕上がっている。その中に飛び込んでいったのは千神 悠人(
ga9141)だった。
「こんばんは」
女性は首だけを千神の方に向ける。聞く気が有ると判断した千神はそのまま言葉を続けた。
「ちょっと迷ってしまいまして、よければ道を教えていただきたいのですがよろしいですか?」
「構いませんよ、どこへ行かれるのです?」
柔和な笑みを浮かべつつ尋ねる千神。元執事という経験の賜物だろう、初対面の人物に対しても物怖じするすることなく話しかけていた。手にはマーガレット・ラランド(
ga6439)から借りた「ジェノバ食べ歩キング2008」というガイドブックが握られている。ヨーロッパ攻防戦のためにやってきた一能力者を演出するための小道具だ。
「空港まで行きたいのです。色々と用事がありまして」
「用事?」
首を傾げるようにして尋ねる女性、語尾が上がっているからこそ尋ねているということが分かるが、マスクのため表情の動きは読み取れない。そのためか千神は少なからず腹立たしさを感じていた。
「はい。今何かと騒がしいでしょう?」
「そうですね、大規模な作戦も展開されているようですし。私も一能力者として戦いたいと考えてまして」
「そうなんですか」
女性の目が光った、千神はそんな感覚にとらわれる。近くで猫の鳴く声が聞こえていた。
一方その頃、他の四人の能力者である南雲 莞爾(
ga4272)、マーガレット、大和・美月姫(
ga8994)、サキエル(
ga9115)は近くの物陰に隠れていた。
「周囲に敵の姿は無い。猫は何匹か見たが、どうやら一人のようだ」
「となると奴はよっぽど頭が切れるのか、あるいは阿呆かのどちらかか」
「外見から判断すると後者だな」
サキエルの報告を下に南雲は自分の書いた周辺地図を広げ、今後の作戦の詰めに入った。
四人の作戦は千神を囮として、南雲、マーガレット、大和の三人が尾行、サキエルが二重尾行されていないか等を確認するというものだった。特にサキエルは今回、容疑者である目の前のマスクの女性は単独犯ではないと考えている。自分の目で一度周囲を確認し阿呆とまで呼んだ訳だが、それでもまだ共犯者がいる可能性を疑っていた。
「気持ちは分かるけど、男が慌てるのはみっともないわよ」
「言われるまでも無い」
かく言うマーガレットも内心焦りを感じていた。今回使われたというウィルスが、かつてエルドラドの滑走路爆破するという依頼の更に前、エルドラドの偵察任務で使われた未来科学研究所製のものと酷似していたからである。手に入れたディスクの裏、未来科学研究所という文字を眺めながら、不敵な笑みを浮かべるマーガレット。興味深い調査対象ができたという歓喜の笑みである。
その時どこかで猫の鳴く声が周囲に響いた。
「能力者って一言で言ってもね、上手い下手にはピンキリあるわ」
諭す様に女性は話し始める。
「SESが使える、KVが動かせるっていうだけじゃ駄目なの。既に世の中には多くの能力者がいるわ。そんな人たちの足を引っ張らないようにすることだけでも本当は結構大変なの」
「ではどうすればいいのでしょう?」
まるで騙しているかのように話す女性の口調に、相槌を打つ千神。しかし彼にも一つ確信めいた考えがある、ここで同意すれば女は問題のディスクを出す。手に浮かびそうな汗を必死に抑え、物憂げな顔を浮かべる千神。女性は千神をまだ初心者の能力者だと考えている、実際それほど千神が今までに受けた依頼はそう多くは無い。だが後ろでは仲間が身を潜めている、それを悟られるわけにはいかないと考えると嫌でも緊張感が生まれてくる。その時だった、女の携帯が着信を告げたのだ。
「ばれたのでしょうか?」
「まだ分からない」
皆の顔を見回す大和、心配のためか顔が強張っている。南雲も分からないとは答えているが、何か確かな根拠が存在するわけではなかった。敵を見落としていたのか? そんな考えが脳裏をよぎりつつも一度大きく首を振り、南雲は敵が潜んでいるという考えを振り払う。
「周囲には誰もいなかったんでしょう?」
「少なくとも俺の気づく範囲では、な」
マーガレットの問いに一応の断りを入れるサキエル。隠密先行を試用はしたが、絶対誰にも見つからないというわけではない。格上の相手なら発見されている可能性も存在する。隠密先行とはいえ万能ではない。
サキエルの返答にマーガレットは思わず周囲を見回す。彼女としては何とか未開封のディスクを手に入れたかった、一つは目の前の女性を捕らえるため、もう一つは自分の研究のためである。今回騒動を起こしたディスクは証拠品としてUPCの手に渡ることになっている、もう一つ持っていないかエルザに期待はしたものの大和の入念な持ち物検査でもそれらしきものは発見されなかった。任務のためにも自分のためにもマーガレットはディスクを手に入れる必要がある、そのため一番恐れているのはディスクを破壊する狙撃だった。
どこかで猫の鳴く声が響く。携帯電話の呼び出しに答えていた女性だったが話を終えたのだろう、肩にかけたショルダーバッグに携帯電話を仕舞い、代わりにディスクを取り出した。
何か二三事話してディスクを差し出す女性。だがここで二人にとっても予想外の事が起こる、先程まで鳴いていた猫が物陰から飛び出しディスクを奪っていったのだ。
「なんてこと!」
副兵装のパリィングダガーで猫を狙う大和。しかしそれを察したのか、猫は再び物陰に身を隠す。
「誰か網とか檻とかないの?」
「あるわけないだろう。我輩達の依頼は元々猫捕獲ではなかった」
猫の登場に身を潜めていた四人も姿を現す。思わぬ事態に一時我を忘れてかけてはいたが、すぐに現状を把握。まず行うべき目的を猫の捕獲に定め行動に移す。
「キメラならまだ思い切りやれるんだがな」
「気持ちは分かりますが、今はそんなことも言ってられません」
それぞれの武器を仕舞いつつ全力疾走を続ける能力者達、猫の隠れた物陰を二手に分かれ挟み撃ちを狙う。
「さあ、でてくるのです」
自慢の黄金色の髪を軽くかきわけ、勇ましい声をあげる大和。だが猫は出てくる様子は無い。日没間近な太陽が周囲を赤く染めるのみだった。
一方、千神はその頃女を捕らえていた。手錠などがあるわけではないため、手首を握っているだけにすぎなかった。しかし女は無理に振り解こうとはせず、千神に怒りの眼差しを向けている。
「どういうつもりかしら?」
「それはお互い様ではありませんか?」
答える千神、努めて淡々と話すが口調がやや早くなっていることに自分でも気づいていた。自分の足首に隠してあるアーミーナイフの存在を感覚的に確認しつつ、千神は少しずつ追い詰めていく。
「一瞬でしたが、妙な香りを感じました。あなたはディスクケースか何かに猫の好む香りをつけたのではないですか?」
「あら、いい鼻ですね。何かそういう仕事をしていたの?」
素直に褒める女性、しかしそれにはどこか嘲笑じみたニュアンスが含まれていた。
「でも私が香りをつけたという証拠は無いわ。それに仮につけたとして、何か問題があるのかしら?」
「大有りですよ」
あくまで白を切る女、所々話を逸らそうとしているが千神が視線で話を戻す。
「あなたは重要の証拠を隠滅しようとしたのですよ」
「証拠? 何のことかしら」
「ふざけるのもそこまでにしてもらおう」
振り返る千神、そこにはディスクを手にした南雲と猫を捕まえた大和、そしてマーガレットとサキエルが立っていた。
「全ては確認すればいいだけのこと、それまでは付き合ってもらう」
「遠慮するわ。付き合う必要を感じないもの」
あくまで無関係を装う女性、しかしマーガレットがインスタントカメラを見せると静かに息を飲んだ。
「あなたの写真、エルザさんに確認してもらうわ。それでも言い逃れできると思う?」
カメラは封こそ切られているが、写真は撮っていない。フラッシュをたく必要があったからだ。しかしそんな事をすれば当然女性にもばれる、マーガレットは一か八かのブラフをかけたわけだが、これが功を奏した。女性が同行すると言い出したのだ。
「手短にお願いね」
近くのネットカフェまで向かう一向、逃亡できないように四方を固めて女性を連行する。そこで南雲が先程手に入れたディスクをPCに入れ中身を確認、しかし表示されたのは極普通の音楽ファイルだった。
「どういうことです?」
「見ての通りじゃないの?」
大和の質問を女性はそのまま質問で返した。南雲に代わりマーガレットがディスクを確認するが、やはり表示されるのはただの音楽ファイルに過ぎなかった。
「何かまだ隠しているな」
「少なくとも素顔は隠しているわね」
話を逸らそうとする女性。大和がエルザ同様に女性のバッグを調べようとするが、女性は力でそれを封じる。
「そこまで調べたいのなら捜査令状でもとってきなさい。貴方達に私を捜査する権限は無い」
女はそう言葉を残して去っていく。だがそれ以降、女が姿を現すことはなく、被害が拡大することも無かった。