●リプレイ本文
<Partir>
零れたものは、如何したら良いのだろう。
掬い上げた水は、下に落ちる。
掴んだ羽毛は、風に飛ばされる。
では、人の心は?
大事なものは仕舞えば良い。
だが、仕舞えないものは――
<Destination>
「‥‥心当たりはないのか」
むすりとアンドレアス・ラーセン(
ga6523)は手紙を指して問う。
「‥‥あったらここまで悩んでないわ」
対面上のソファーに深めに座りこんでいたエスティラード・D・T(gz0181)は腕を組み、軽く睨みを入れた。
「‥‥多分アンドレアス達が初めてカノンと関わる事になった場所なんじゃないか?」
根拠はないがと、ジッポを弄びながら風間・夕姫(
ga8525)は呟く。
放っておくと意外にも血が昇りやすいエスティがアンドレアスに噛み付くだろうことは今までの経緯より想像できる。軽く髪を撫でてやると、少しシュンとした表情で押し黙った。
短いノックの後、大泰司 慈海(
ga0173)と共に錦織・長郎(
ga8268)が抱え込んだ資料を持って入ってきた。
エスティと向かい合う場所にたどり着くと、アンドレアスは場所を除け譲る。
「とりあえず思いつく資料はここに運んでおいた」
長郎が広げた紙の山はかなりの量だった。
「まぁ、僕の方でより分けて重要だと感じたものだけだがねぇ」
関わったと見られる地方の新聞や有益だと思われる文献は手あたり次第集めた。今現在皆の前に持ってきたものも、長郎が目を通して厳選したものである。
「相変わらず水臭いな、カノンくんは」
どかりとソファーに座った慈海は手の中のペンを弄びながら空を見つめる。
「水臭い処じゃありませんわ。どうして――」
ロジー・ビィ(
ga1031)の手は、今にも折れそうなほど強く握られている。
「‥‥まぁ、カノンなりに考えての行動なんだろうけどな」
カランとグラスの中の氷が溶け出す。アンドレアスは、強い意志で向けられた瞳を思い出していた。
「――自分で決めたんだろ、今回は」
その言葉に、ロジーは肩を震わせた。
アンドレアスとは違い、最後にかけられた言葉は――。
握り締めた手を包まれる感触に顔を上げると、そこにはもう一人、辛そうな顔のエスティがロジーを見つめていた。
何も言わず、ただただゆっくりと手をなで上げる。
検証は最終的に二候補まで絞れてきていた。
『初めの場所』それが決め手となりスムーズに絞れたこともある。
が、それと同時に見極めるべき問題が残っているのも事実で。
「不自然な事項は今挙げたとおりだね。僕としては、本意ではないが――」
長郎は現在考えうる状況を、この地方の情勢と共に伝える。
「‥‥僕はこの可能性もあると考えている。彼が関わっていたのが天秤座である事実がある以上避けられないものだとも思っているよ」
バグア側が絡んでいるとみられる以上、欧州の暗躍の種と考えられる候補にジュダース・ヴェントは挙げられると。そして、もし誰かが地位を受け継いでいるとしたら――筆頭候補に挙げられると長郎は考えていた。
そして彼の下で動いていたカノンもまた――。
「くっくっく‥‥エスティ君の焦燥も有ろうし、間に合う様にしたいものさ」
ちらりとエスティの様子を窺いつつ、長郎は首を竦めた。その片隅で、慈海はかくりと首をかしげている。
「‥‥カノンが? ‥‥ジュダがそんなこと考えるなんて――」
思わず爪を噛みしめたエスティを夕姫はそっとあやす様に肩を撫でて止めた。
「あくまでも憶測だ、事実がわかったわけじゃない」
だけど、とエスティは不安定なほど視点がうつろである。
「んーなことばっか言ってっから先に行かれるんだろが」
焦燥が見えるエスティにアンドレアスは丸めた書類を落とした。
彼自体も焦っていない訳ではない。が、それではだめだと、知っている。
「う、うるさいっ!」
痛くはない、が、思わず振り払い睨み付けるとアンドレアスの口元が僅かに笑みを象るのが見えた。
「俺に怒鳴り返す元気あるなら大丈夫だろ。‥‥ほら、詰めるぞ」
一瞬、何かがエスティの頭の中を遮った。が、急いで振り払う。
わざと――そうであればいいのに、などと。
「畜生、どういう事なんだよッ!」
握りしめた拳は、廊下の壁に叩きつけていた。
取り乱すのは故意に控えていた。既にあの場には――二人、不安定な状態でいるのを見てしまったから。
「――カノンが決めた道だ。俺は‥‥」
――信じて、別から手を伸ばしてやれば良い。
――初めて、あいつが決めた道なんだから。
行く先は決まった。後は、彼を信じて真実を見極めていくしかない。
「怒りに囚われたら身を滅ぼすぜ。頭には氷をだ‥‥俺もな」
呪文のように呟く。今出来ること、それをしなければ心も滅びそうだった。
<Village de feuilles mortes>
話し合った末に訪れたのは、欧州でも中東部にある小さな村、それはカノンが始めて外へと表立った地だ。トレア家からもそれほど遠いわけでもなく、やや西部に位置する場所だった。そこが、枯葉に纏わる異変が起きた村。
月の無い夜、全てが始まった――そう感じた日。
「懐かしいな――」
アレから年月が経って、改めて訪れると感じるのは『無』であろう。
僅かばかり残っていた生への気配も、既に絶たれて久しい。
荒れ果てた農地は乾燥し、燃やした後も聳えている枯れ木だけが黒く存在していた。
村自体には既に人の気配はなく、恐らくあの事件以降人が住んでいないとみられた。
「礼拝堂は見たのかい?」
血に執着していたジュダースを思い出し、慈海は尋ねる。
「いや、当時俺もロジーもそちらには行ってないな」
調べたのは小屋と、礼拝堂、そしてこの枯れ木。今は当時のような奇怪さはなくなっているものの、やはり空気はどこかしら淀んでいるように感じる。
「ちょっと見てこようか‥‥遠いのか?」
足元の土を確かめながら夕姫が聞く。下手にばらけるのは拙い気がするが広範囲を探索するとなっては致し方ない。
確か、そんなに離れてはいなかったはず。墓所の中にあったのは確かだ。
「夕姫君。僕も乗せてくれないかな?」
バイクで向かおうとした夕姫に長郎は声をかけた。
「‥‥自分の足で向かえ」
「確か、こっちだったな」
アンドレアスは記憶を頼りに歩を進めていた。
村から外れた場所にある一軒家は、もう朽ちかけている。
傾いた屋根を抑えつつかしがった扉を開けて入ると、中に篭っていた空気が咽るように押し寄せてくる。
「きっつ」
口元を覆いながら入るも、そこは降り積もった埃が入り口から入った一筋の光により浄化されていく様が見えた。
一見何の変哲もない小屋。だが――台所付近の絨毯を除けると現れた納戸の扉をロジーは力を込めて引き上げる。
中に入ると当時のまま、幾多の研究を重ねたであろう形跡が残されていた。
「‥‥どうやら、外れちまったみたいだな」
今も残る血の魔方陣も時間と共に薄れかけていた。残されていたものの変化は、何も無いようだった。
薄く降り積もった埃の形跡が、長らく人の訪れのなかったことを告げた。
踏み入った時、視界を白く染めたモノが落ち着いた頃には、光の線が幾筋も浮かび上がっていた。
「‥‥僅かだが、死臭が残っているな」
幾時間過ぎたら消えるのだろうか、落とす行為もなかったようだからずっと染み付いているのかもしれない。
この村で亡くなった者たちは、すべてここの墓地に納められている。
古からの言い伝えもあるが、この村ではすべて土葬だった。
それが、事件を切っ掛けに火葬を行い、清めているはず‥‥だったのだが。
「‥‥なぁ、あそこ見てくれ」
夕姫は顔を顰めながら長郎に見せるよう、持っていたライトを祭壇の隅へと当てた。
「‥‥ほぉ、これは」
眼鏡をすりあげながら石の隅を凝視する。小さく描かれた魔法陣。
そして僅かながら、石の間に隙間が見えた。
素早くあたりを確かめると、入り口よりも埃の量が少なく感じる。
誰か踏み入った形跡だった。
「どうやら、そちらから入ってきたようだな」
柱の陰になってはいるが、もう一つ出入り口が見えた。
「‥‥でも、これは新しい形跡じゃなかったようですね」
隙間を動かすことによって出てきたのは、数枚のレポート用紙。その日付はこの村の事件よりも遥かに前のものだった。
<Danpiru>
「ねぇ、エスティ‥‥あなたたち姉弟には、何があるのですの?」
関っていて、いつも疑問しかなかった。それでも彼を愛してしまってから、その存在全てを受け入れる覚悟があった。だが‥‥それも今となっては、あの夜からは彼女にとって重く圧し掛かる不安へと繋がっている。
「そうね、変な習慣――とでもいうのかしら」
そっとロジーの手を包みとって、エスティは話し出した。
「ダンピールはね、本当は常に一人だけだったのよ」
長子が引き継ぐことによって繋がっていくダンピール。それを選ぶのは、族長。
ダンピールとは――。
「吸血鬼にちなんだ、暗躍を担うもの‥‥」
まだ時は昔、貧富の差が決定的だった時代。
そこを伸し上がってきたのが――暗躍することによる上層部へのパイプ繋ぎ。
代表したのは、表舞台でも芸術面で秀でていたトレア家。
「ダンピールはね、トレア家の長子に受け継がれる身を毒にした者のことよ」
ふと思い出す。
カノンが、初めて自分たちに打ち解け始めたころを。
『この血が――』
グラスの中に注がれた水が受け止めたのは彼の血。
描き出されたのは、薔薇の結晶。
「――血が、毒なのですの?」
白い顔を青くして、ロジーは呟いた。
包まれた手が強く握られる。
顔を上げると、愛した人と同じ瞳で、優しく見つめられていた。
<Desert ville>
「ここに戻ってくることになるなんて」
現状、ここの治安は訪れた当初よりも危険を伴っていた。
一同は高速移動艇で近隣までは来られたものの、やはりそこからは車での移動を余儀なくされたのだ。
地域の特性のため、夕姫もバイクの移動はあきらめざるを得なく、二手に分かれ進むこととなった。
乾いた風と厳しい上からの熱は容赦なく肌をも焦がす。それでも空気が重たいのか、ジーザリオの幌は開けられていた。
「おい」
短く呼びかける声に、エスティは鬱陶しそうに髪を流しながら視線を向けた。
アンドレアスだ。
「‥‥前に、ここで会ったことなかったか」
ピクリと肩が動く。
「――やっぱりか」
水筒に口を付けながら悔しそうにつぶやく。
「‥‥よくわかったわね」
「――仮にも音楽やってんだ、音で思い出す」
ふと柔らかくなる視線を訝しく思いバックミラーで盗み見ると、エスティはそっと横笛を出し口づけていた。
高い音が響き渡る。
「――たく、なんで思い出せなかったんだ」
砂漠を訪れた時、アンドレアスは宿で皆を待つ中、一つの情報を得ていた。
それは――カノンを追う女の話。そして、カノンが追っていたのも女。
その時、まさか彼の姉だとは思わなかった。そして通信機が途中で途切れたことにより伝えそこなった。
カノンが姉を探していると知ったのは、その後。
そして、砂漠で見つかった通信機を内蔵されたロザリオ。
全ては、彼女が関わり始めたのが、この砂漠の時だという証拠である。つまり、ここが彼らの最初の地。
また、彼らがジュダースとの関わり合いになったのが決定的になったのもこの地。
後部座席のエスティは涼しげに曲を奏でる。
それは、弔いのレクイエム。
――この地は、彼らの父が永久へと導かれた土地でもあったから。
「ここが、なのかな?」
厳しい日差しを遮るため、頭に巻いたタオルを持ち上げつつ慈海は見上げていた。
岩壁に掘り出された居住遺跡、その一部であり、現場となった場所を。
建物の中に入る道は狭く、中は入り組んで迷路になっている。以前訪れた時の記録を頼りに、警戒するように進んでいった。
先程までのジリジリと焼けつくような暑さは入った時から和らぎ、湿度のないこの地では日を遮ると涼やかな印象を受ける。
「エスティ」
普段持ち歩かない剣を背負うエスティに夕姫は手を差し伸べる。
急な段差が続いていた。下に降りるような通路はいつしか上へと昇りはじめ、また降りる。
<Je couvert>
「――何かいますわ」
先頭を進んでいたロジーが小さく囁くと同時に腰を落とした。既に愛用の花鳥風月は抜刀している。
現場となった部屋は、記録からももうすぐだということがわかっている。つまり――。
「罠、か?」
援護に入ろうと真デヴァステイターを構える長郎は、狭いながらもロジーの邪魔にならない個所へと移動する。空気が動く。舞い上がったのは、砂だ。
「っ! 以前と同じ子のようですわ!」
一歩踏み出すと、纏いつくように砂が動き出す。
それを太刀筋で払うと、微かな手ごたえと同時に圧迫していた空気が後退する。
「‥‥キメラが出たときたか」
手を包み込むシャドウオーブを構えつつ、夕姫は視線を凝らした。
「もし私たちのこの行動がお前たち姉弟を狙ってるやつの思惑通りだと言うのなら、気に食わんな‥‥」
キメラの存在が夕姫の癇に障る。
「――でも、もしかしたら違うかもしれない」
慈海は報告書での内容を思い出す。この依頼は確か――。
音が、聞こえ始めた。
空気を振動させるように響くのは、横笛。それは、以前も同じ場所で聞いた――。
――同じ音?
ロジーが記憶を微かに思い出す。
音を奏でるエスティに気付いた長郎は室内に構えていた真デヴァステイターを壁に打ち付ける。三発同時発射するその銃弾は意図を飲んでか乱反射を始めた。
土の壁部分では銃を吸収してしまうが、岩となった壁では、欠けさすだけで、この至近距離では勢いを止まらせることはなく、室内を縦横無尽する。
反響する音、そして流れ振動する音。
音が重なっていくに従い、目の前で異変は起き始めた。
舞い上がっていた砂が、下へと落ち始めたのだ。
「水よっ!」
後ろからエスティの声が上がった。
慈海は素早く持っていたウォッカを開け、中身を室内へとぶちまける。
「‥‥水ではないけど、水分だからいいよね」
とっさに持っていたのはこれしかなかった、が、これも代用だとばかりに口角を上げた。
すると、以前では形を持たなく苦戦した相手が姿を現したのだ。
「はっ!!」
突き立てられる剣。それと同時に溢れ出す赤い雫。
薄い膜に覆われた砂の塊は、程なくして地面へと溶けて消えていた。
<Gift>
室内に入ると、先ほどの通路とは違い、天井が低いながらも程よい空間が広がっていた。人が数人はいるには十分であり、続く部屋には大人が6人いてもなお十分なスペースを与えてくれていた。
「ここ、少し埃が薄くないか?」
床を調べていた慈海が指した場所は血で描かれた魔法陣から少し離れた場所であった。
「ふむ‥‥」
以前カノンが関わっていた現場ではお馴染みになっている魔方陣であるが、今見ると、カッシングの村で見たのとも少し異なる様に見受けられる。
慈海は周りを見、石で出来た床の隙間にナイフを突き立てる。高性能多目的ツールの一つだ。硬質な音が響いた。
力を入れると、ほんの僅かだが動く感覚が伝わってきた。ついと目を細らせると、別の辺に若干色が濃い部分が見える。砂で誤魔化してはいるが土の色が新しい。
さらに苦無を突き立てる。
先ほどとは違い力も入りやすい。柔らかな感触とともに刃が進んだ。
「――これは綺麗に隠したもんだねぇ」
覗き込んだ長郎が、感心したように呟く。
グイと手前へ引き寄せると、石が微かに浮かび上がる。
何回かの後、石は取り除かれた。下には窪みがあり、そこには小さな金属の箱が納まっていた。
「これは?」
ロジーは持ち上げると、うっすらと変十字の模様が刻まれている。昔カノンが持っていた、ロザリオに刻まれた――。
「‥‥トレアの紋章」
呟くエスティの言葉に伺い見ると、小さく頷き返された。
箱には鍵はなく、どうやら樹脂で焼き付けた跡が残っている。
焼き付けた跡にナイフを入れると、隙間が開いた。
丁寧に四辺へと走らせ蓋を取り除くと、中には一枚のカードが入っていた。
「‥‥どうやら、メモリーらしいな」
アンドレアスは見覚えのあるカードを見つめる。
よくパソコンに使われる小さなメモリーカードのようである。
ほかには何も入っていないことを見ると、どうやらこれだけらしい。
「じゃ、宿に戻ってみてみようか」
慈海の言葉に一同は顔を見合わせ、場所を移すことにしたのだった。
<Diriger fil. Deux personnes du miroir>
宿に戻ると、早速とばかりにカードの中身を調べ始めた。
パスワードを要するものであったが、それはいくつも検討したうち、行きつくことができた。中に入っていたのは、文章ファイルをはじめとして、画像ファイルを含む数十点の情報である。皆も見られるようにと印刷したものの、数が多数に渡り机の上は埋まってしまっている。
「つまり――カノンくんが残してくれた資料によると」
パソコンを操っていた慈海が顔を上げる。
「‥‥これがジュダースの目的であり、また、カノンが動いていた理由か」
深いため息を落としながら、アンドレアスはうなるように呟いた。
ソファーの片隅でエスティは蒼白になりつつ、夕姫に支えられている。
「‥‥カノンはどうやら私達を何処かへと導きたいみたいだな」
ぽつりとこぼした声に、エスティは視線を泳がす。
「でも‥‥本当に、これだけなのかねぇ」
長郎の言葉に、沈黙しか回答はなかった。
そうであって欲しいと願う気持ちと、もしかしてという気持ち。
答えは、まだ全て出きっていない。
◇
「サー、薬のお時間ですよ」
薄暗い室内に入ると、カノンはさらに裾野を広げる天蓋を掻き分け中で横たわる人物を見つめた。
ジュダース・ヴェント。彼である。
長い銀色の髪は辺りへと広がりを見せていることから、きっと魘されていたのだろう。
「‥‥いらない」
「いけませんよ、本日はまだお召し上がりになっていないじゃないですか」
サイドテーブルに持っていた盆を置くと、カノンは心配そうに見つめた。
鬱陶しそうにかき上げた髪の下は、青白い顔が見える。昔の健康そうな面影は、もう既にないに等しかった。
「‥‥気休めだよ、カノン君」
苦々しく微笑むと、起き上がる気配を感じさせたため腰に当て外の枕を入れる。
「どう足掻いても、この体はもう――」
「‥‥だからといって、あの計画を進めるのは」
差し出されたグラスにジュダは口を付けると、忽ち顔色は朱に染まっていった。
「無駄だよ、もう――」
うっすら開かれた唇は、薬なのか、深紅を宿し、より一層ジュダの顔を白く浮き上がらせた。
「アージェント、調子はどうかな?」
開かれた扉から、アルトの声が響いてくる。
「あぁ、ノワール。よく来てくれた」
その言葉に、カノンは頭を下げて後ろへ下がった。
「あれ? いたの? プティ」
思わず顔を上げそうになるが、拳を握りしめ、寸でで止まる。
「ノワール、プティじゃないだろ? 彼は――」
「はいはい、トレア御当主様、だろ? だけど‥‥ここにいたら、彼はいつまでも『プティ』さ」
顔を見なくても想像できた。彼――ノワールは愉悦に浸っている、と。
「‥‥もういい、下がれよ」
まるで虫を払うかのような仕草に、拳を握りしめつつ、カノンは静かに席を後にした。
静かに閉じられる扉は、中の音をこちらへは届けようとしない。
遮られたのは、なんなのだろう。
「――ジュダ、どうして彼を?」
呟きは広い廊下へと吸い込まれていく。
◇
「ヴェントに残された時間は、僅か。求めた薬は、ついに完成しなかったから‥‥」
だから、彼はそれを補うすべを欲した。
それが、彼がカッシングへと繋がる様になった切っ掛け。
慈海の言葉に長郎は考え込む。
「では、なぜ彼はカッシングのように――」
カノ村で見た記憶がある、それはキメラによる補完。でもそれは。
「体の欠陥の部位を補うのではなく、ヴェント自体の目的が延命、だったからか?」
アンドレアスは思わず呻いた。
カノンが仕事と称して集めていたノート。『永遠の命』。
それは、まさしく延命についての研究をテーマに行われていた実験だったのだろう。
そして彼が訪れた地域に付きまとっていた血の影。
「ヴェントにとって、親愛なる――偉大なるカッシングは敬愛すべき相手だった。それは、バグアだからではなく、彼の研究こそが、自らが求めていたものだったから」
託された資料を読み進めていくたびに、見えてくる片鱗。
「そして、互いに祖を同じとするものの片割れだったから‥‥」
だから――慈海は言いよどむ。
「――バグア側が絡んでいるわけではないのか」
読みが外れたとばかりに長郎は書類を見つめていた。
「ジュダ‥‥何を欲してたの? 私は‥‥何のためにあなたに呼ばれたの?」
一人、宿泊先の部屋に戻ったエスティは体を抱きしめていた。
ジュダースが研究を始めたのは、いったい何時からだったのだろうか。
カノンが用意した資料に書かれていたのは、カノンが関わってから。――枯葉の村からでしかなかった。
だが、実験自体はその昔から始まっていた記録を残している。そして、カノンの仕事はその結果の回収と――。
◇
一滴、また、一滴。
赤い雫がグラスへと落ちていく。
神妙な顔で見守る執事をよそに、カノンは冷めた顔で自分の手から落ち行く雫を眺めていた。
「一種の麻薬ですよ。複数の毒物によって慣らされたこの体は、ほかにとっては毒になるんですよ」
まるで、安らぎを求めて劇薬を欲する患者のように。
「死にはしません。でも――毒は甘美というでしょ?」
執事は困ったように顔を逸らすも、それでもカノンは止めなかった。
「既に幾多の病魔に冒されたジュダースの体にとって、僕の‥‥ダンピールと名乗る血族の血は、一時の安寧を齎す麻薬です」
欲したのは彼だ。だから――。
「だから、生まれながらその役を担わなかった僕も‥‥ダンピールになった」
長子にしか受け継がれない役目を追うことにより、身を変えたのだ、と。
「狂わせたのは貴方‥‥だから、僕が終わらせてあげます。すべてを知った、今だから。」
いつもより、濃い色へと変貌を遂げるグラスの中身を見入ったように笑い立てる。
「姉さま、何が違ったのかなぁ。どこで、狂ったんだろう――」
『プティ』と呼ばれたのはカノン。
だけど――ノワールは、別に存在してしまった。ブランとは別に、また。
変貌したのは、血と、その色に染まった瞳だけ?
<Lavenir>
「よぉ、エティリシア」
電話の相手は、普段呼ばない名前で呼んできた。
「それとも‥‥毒巫女様と呼ぼうか? エスティラード様よ」
喉の奥底で笑う響きに、思わず握る受話器に力が入る。沈黙を答えと捉えたのだろう、男は気にせずに語りかけてくる。
「まぁいい。お前にいい情報がある」
何だろう、この男が直接話しかけてくるのなんて。嫌な仕事しかいつも与えないくせに。
「‥‥弟にできて、お前ができないことはないよな?」
「――何が言いたいの、BOSS‥‥ウィリィ」
漏らした名前に、くつくつと含んだ笑いが返ってくる。
「おっと、その名で呼んでくれるなよな。まぁいい――あいつの滞在先についてだ」
あいつ――ウィリィにとっても苦々しい相手――愛しかった、ジュダ。
◇
「アージェント、まだ欲しいの?」
ノワールは、再び横になったジュダを見つめながら訪ねてくる。手元には、いつもジュダースが身に着けているペンダントが握られていた。
問いかけてくる顔を見ず、ジュダは天蓋を見つめたまま言葉を紡いだ。
「惚れた女を手元において、何が悪い? 何処か繋がっていたいと思って、何が悪いというんだ‥‥。彼女こそ、僕の総て――」
彼女の声を、欲してやまない。今はその思いだけ。
――では、僕は?
ノワールはごくりと言葉を飲み込む。
殺されかけたのに、尚も欲してやまない女。だからこそ――。
「――ほーんと、邪魔なんだよね」
また壊しちゃおっか――小さな呟きを聞かぬまま、ジュダは深い眠りへと落ちて行っていた。
ノワール――そう呼ばれた男の顔は、カノンによく似て‥‥。
<Hourglass>
「アンドレアス‥‥カノン‥‥」
今、傍には誰もいない。
もしかしたら、もうどこにも――。
築き上げたものが崩れ落ちていく。
集めた砂時計の零れ落ちる音が、どこか遠くから――聞こえたような気がした。